2017年8月21日月曜日

続フシギな短詩168[坂野信彦]/柳本々々


  律文は拍節が形成されることによって成立します。拍節は、通常、八音をもって構成されます。  坂野信彦

音律は、難しい。音律についてのわかりやすい本はないかとずっと探していたのだが、浅沼璞さんの本を読んでいるときにこの本が紹介されていて、読んでみるととてもわかりやすい本だった(同じ坂野信彦さんの『ハとガ』も助詞の「は」と「が」の違いについてわかりやすく書いたものでおすすめ)。

私がふだん音律について感じていた疑問がひとつあって、先日取り上げた『川柳少女』の主人公がつくる川柳もそうなのだが、どうして中が八音になってしまうのか、ということだった。

575ではなく、一般に流通している句は、585が意外と多い。

もちろん「8になっちゃった」というのもあると思う。でも「なっちゃった」っていうのはそれこそ〈生理的リズム〉なのではないか。時実新子があんなに中7は死守せよと言ったのに、テレビでみる句は585が多い。なぜなんだろう。

だからよく575はきもちのよいリズムだと言われているが、ほんとうにそうなのかどうかわからなかった。きもちのよい方に行かないでなぜ一般のひとはきもちのわるい8音にむかう(ことがある)のか。

坂野さんによれば、日本語は2音がリズムの基本単位になっていると言う。

  「あっ。」「えっ?」「じゃっ。」というふうに、日本語の発話の最小単位が二音であること。一音の語は、しばしば二音ぶんにのばして発音されます。
たとえば「目見て」を「めーみて」、「絵かく」を「えーかく」というぐあいです。のばして発音しないばあいは、「め、みて」「え、かく」というふうに一音語のあとにちょっとしたポーズを置きます。一音だけでは、落ち着かなかったり、発音しにくかったり、聞き取りにくかったりするのです。このことも、二音が日本語の発話の最小単位であることと関連しているでしょう。
  (坂野信彦『七五調の謎をとく』)

2音は4音に、4音は8音になってリズムを構成している。坂野さんがあげている例文だが、たとえばこんな言葉を思い出してみよう。

鬼ごっこの「もういいかい」「まあだだよ」ということば。これは声に出していることばを視覚化するとこんなふうになる。

  もう┃いい┃┃かい・・ まあ┃だだ┃┃よー・・

「もう」「いい」「かい」「・・」「まあ」「だだ」「よー」「・・」と2音ずつ口に出して読んでいるはずだ。

「もう」「いい」と「かい」「・・」の2音が対になり、

  もう/いい  かい/・・

「もういい」と「かい・・」の4音が対になり、

  もういい/かい・・

「もういいいかい・・」の8音は、となりの「まあだだよー・・」の8音と対になる。

  もういいかい・・/まあだだよー・・

「あした天気になれ」は、どうだろう。

  あー┃した┃┃てん┃きに なー┃ーー┃┃れ・┃・・

「あー」「した」「てん」「きに」「なー」「ーー」「れ・」「・・」と2音が、

  あー/した てん/きに なー/ーー れ・/・・

と対になり、「あーした」「てんきに」「なーーー」「れ・・・」の4音が、

  あーした/てんきに なーーー/れ・・・

と対になる。そして「あーしたてんきに」「なーーーれ・・・」のそれぞれ8音が、

  あーしたてんきに/なーーーれ・・・

と対になる。こんなふうに2音の基本単位が増幅し対になることで日本語は律文をつくると、坂野さんは述べている。

8音の対をつくろうとするのでそこには数に応じて「・・・」の休みが入る。その休みが入ることによって音律というかリズムができる。その休みをじゃあいれなかったらその文はなんと呼ばれるのか。それは「散文」と呼ばれることになる。たとえば小説中で、

  あしたてんきになれあしたてんきになれと私は繰り返した。

という一文がでてきたら、上のように休みをいれたりのばしたりして読まないはずだ。ところがこれが歌だとちがう。いくら「あしたてんきになれ」と書かれていてもそれを歌うときには、「あーしたてんきになーーーれ・・・」と声にだして歌うのだ。歌詞カードなんかはそういうふうに休みの記号はいれられていないが、歌をきいているとその文字テキストの速度とはちがうはずだ。

この坂野さんの本を読むと、8音によって律文を生成しているので、たとえば一般のひとが中8で川柳をつくったとしても実はそんなに不自然にならないんじゃないかという気もする。7音プラス休みの1音のための、その休みはなくなり、だから早口になるのだが、しかし休みがなくなるだけで、音律としては成立してしまう。でもリズムの問題ではなく形式の問題として、条件がなければ8音は難しいと坂野さんは述べている。

  容易に打拍の破綻が生じる以上、八音は定型の音数としては失格ということになります。これはリズムの善し悪しといった相対的な問題ではありません。絶対的に、必然的に、失格なのです。
  もしどうしても八音をもって定型の音数としたいというのであれば、「四・四構成の八音にかぎる」といった条件をつけなければなりません。「ホンネとタテマエ」(「ホンネと┃┃タテマエ」)はよくても、「タテマエとホンネ」ではダメなのです。
  お経が八音を基本としながら四律拍で通せたのは、漢字一字を一律拍とする唱えかたのためでした。
  (坂野信彦『七五調の謎をとく』)

八音で定型をつくることはできるがそれには4音と4音が対になるような条件がいるという。7音の場合はかんたんにいうと、ポーズ(休み)をとる場所が自由にうごかせるぶん、そうした条件付けの必要がない。うしろがきつきつになっても前でポーズなり休みをとることができるからだ。

だから律を支えているのは八音の感覚なのだが、そのなかでどう休みを入れるかで定型というのが決まってくる。そのときに、八音めいっぱいにつめると、休みのとりかたが不自由で、音律ががたがたになることがある。

だから7音と8音の違いはこうだ。

《そこに1音ぶんの休みを入れたいかどうか》。

坂野さんは、「七音と五音の優位性」を次のように述べている。

  けっきょくのところ、七音と五音の優位性をもたらしたものは、たった一音ぶんの休止なのでした。この一音ぶんの休止の効能を箇条書きにまとめておきましょう。

  一、句に変化とまとまりをもたらす。
  一、リズムの歯切れをよくする。
  一、句をつくりやすくする。
  一、打拍の破綻を防止する。
   (坂野信彦『七五調の謎をとく』)

8音でもできるのだけれど、8音だと柔軟性がきかないため定型の律をつくるのは難しい場合があります、7音だとなにも考えなくてもフレキシブルなため律をつくりやすいです万能です、という話なのだった。
  
          (「音律の原理」『七五調の謎をとく』大修館書店・1996年 所収)