2017年9月24日日曜日

超不思議な短詩229[京極夏彦]/柳本々々


  せをはやみ岩にせかるゝ瀧川の、思ふ男はーーおまへならでは。  京極夏彦

京極堂シリーズには、カバーの折った部分(前袖)に、かならずその物語全体にかかわるエピグラフがかかげてあるのだが、『絡新婦の理』のエピグラフが冒頭の歌である。

  瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ  崇徳院

という百人一首からとられているエピグラフなのだが、この「おまへならでは。」というのは私はずっと京極夏彦のオリジナルだと思っていたのだけれど、そうではなくて、鶴屋南北『四谷怪談』には「夢の場」と呼ばれる夢の中の場面があって、そのなかのこんな伊右衛門とお岩のやりとりから取られていることが最近わかった。

  お岩 スリヤあのあなたの御家名は、民谷様と申しまするか
  伊右 いかにも民谷。シテ、そなたの名は、なんと言ふぞ
  お岩 アイ、わたしがその名は。…
     すなはちこれが、わたくしが
      ト差し出す。伊右衛門、取つてこの歌を見て
  伊右 こりや七夕へさゝげたる百人一首の歌の内、瀬をはやみ、岩にかるゝ滝川の
  お岩 われても末に、逢はんとぞ思ふ。○(間) われても末に
      ト伊右衛門が顔をじつと見て
     逢うてたまはれ民谷様
  伊右 ヤ、さう言ふそなたは、家出しやった
  お岩 岩に堰かるゝその岩が、思ふ男はおまへならでは
      ト膝にもたれて、思ひ入れ
  (「後日中幕」『東海道四谷怪談 新潮日本古典集成』新潮社、1981年)

もともと崇徳院の歌は、川の流れが岩でふたつに割れたとしても、また終いにはそのふたつの流れは必ず出会うことになる、という別れた男女の再会という〈恋歌〉になっているのだが、お岩はその恋人の再会の歌の「岩」を「岩に堰かるゝその岩が、思ふ男はおまへならでは」と自身の名前と掛けながら民谷伊右衛門に「思ふ男はおまへならでは(わたしの想う男のひとはあなたでなくてはならない)」と言う。川をせきとめる岩だったものが「岩」という名前になることで、すさまじく情念のこもったものにもなっている(つまり、彼女は誰かと誰かを引き剥がし別れさせる障害物にもなりうるような存在でもある)。

この百人一首と四谷怪談が複合した歌が、『絡新婦の理』のエピグラフになっている。「二人は別れてしまうけれど、やっぱりあなたではなくてはなりません」

じゃあ、『絡新婦の理』ってどういう物語だったんだろう。

京極夏彦の小説は〈レンガ本〉と言われるようにとても分厚く長大な物語(ミステリ)なのだが、この『絡新婦の理』というストーリーを私なりにこんなふうに短く要約してみたいと思う。

 システムに自覚的なあまり悲しい男が、システムに無自覚なあまり悲しい女に出会う物語。

ここで男とは京極堂であり、女とはこの事件の本当の犯罪者(絡新婦=じょろうぐも)のことである。どちらもシステムをめぐる立場でありながら、自覚/無自覚というちがいをとおして、ふたりは〈おまえではなくてはならない〉ような人間(おまえ)に出会う。

  「慥かに、観測者が無自覚である場合は不確定性の理(ことわり)から逃れられるものではありません。だが観測者がそうした限界を常に括弧(かっこ)に入れて臨む限りはそのうちではない。僕は事件の傍観者たることを自覚している。つまり観察行為の限界を識(し)っている。だから僕は言葉を使う。言葉で己の境界を区切っている。僕は僕が観察することまでを事件の総体として捉え言説に置き換えている。僕は既存の境界を逸脱しようと思ってはいない。脱領域化を意図している訳でもない」
  「あ、貴方はーー」
  「《僕の悲しみ》はそこにあるのです。あなたにはそれはないのかと、ずっと思っていた。しかしどうやら、あなたはそれに無自覚だっただけのようだーー」
  男は女に向き直る。
  女は戦(おのの)く。しかしたじろぐことはしない。
  男は隈取(くまどり)のある凶悪な眼で女を見据える。
  「ーーこれで漸く解りました。あなたは《あなたが発動した計画がどのような理に則って動く》のか、全く理解していなかったのですねーー」

  「ーーだからあなたは《止められなかった》んだ」
  (京極夏彦『絡新婦の理』)

京極堂/犯罪者双方ともシステムに関わる者としては二人はおなじ種類の人間である。二人ともシステムを産み出す側の人間だ(ちなみによく探偵と犯罪者は一心同体ではないかと言われることがある。事件解決とは事件を忠実にたどり直すことに他ならないから探偵は犯罪者の立場になることができる人間なのだ)。

ただ京極堂はシステムを産み出す(解決する/説明する)ときにそれを自覚している。ほんとうはやりたくないことなのだとも思っている。じぶんができることなんてなにもない。ただシステムを言葉にして可視化するだけだ。そんなことは実は意味がない。なんの生産にもならない。出来事の速度を、結果をはやめるだけだ。それになんの意味があるのか。だから彼はかなしい。この世の中に《不思議なことはなにもない》のだから放置しておけばいい。なるようになる。でも彼はひっぱりだされ、システムを言語化=可視化するよう要請=強制させられ、そのことによって、時間を、時間の流れを、出来事の流れをはやめ、出会うべくして出会うべきだった不幸なものたちを不幸なかたちで出会わせることに《たずさわる》。ネガティヴな「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ」を京極堂は雑司ヶ谷の産院の事件から、ずっと行っているし、行わされている。

でも『絡新婦の理』の犯罪者には、そのシステムの理(ことわり)が自覚できていなかった。彼女にとっての「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ」は、いつも、偶発的なかたちで(彼女の思いがけないかたちで)起こった。京極堂にとっては必然的な「瀬をはやみ~」は、彼女にとっては偶発的な「瀬をはやみ~」だったのだ(そしてたぶんそのことさえをも自覚してしまうこと、できてしまうことをも京極堂は悲しがっている)。

『絡新婦の理』はフェミニズムをめぐる長大な物語なのだけれど、シンプルにまとめるならば、こうしたシステムの認識の違う男女が《出会う》物語としてみることができる。そして、その意味で、実は、『絡新婦の理』の最大の事件は、この男女がすれ違いつつも《出会(ってしま)う》ことにある。

犯罪者である彼女にとって、この《違い》を教えてくれるのは、たぶん、京極堂しかいなかった。その意味で彼女にとって「おまへならでは」は京極堂である。そして京極堂にとって彼女にそれを教えてやれるのは自分しかいなかった。悲しいことだけれど京極堂にとってまた彼女も「おまへならでは」だった。

フェミニズムが、男女の出会いを演じながらも、その違いを、《男女の出会いの失敗》を、析出する思想であるならば、まさしく本書は〈フェミニズム〉をめぐる物語である。『絡新婦の理』では、男女の出会いが、男女の出会いの失敗が、出会いの失敗のあきらめが、しかしその失敗からのかすかな新しい希望が、描かれる。

この長大な物語の最初と最後は同じセリフであり、ループのような構造になっている。この京極堂の一言で『絡新婦の理』は、始まり・終わる。

  「あなたがーー蜘蛛だったのですね」

つまり、この物語は、男女が出会い、男が女に「蜘蛛」としての、複雑に交錯=交雑するシステム(蜘蛛の巣)の中央に君臨する者としての、アイデンティティを付与する物語だということができる。

だけれども、それは決して男が女に名付けを与える類のマスキュリンな、マッチョな物語ではない(男から女への「感情教育」の物語ではない)。なぜなら、男は、京極堂は、そうせざるをえないことを自覚し、悲しんでいるから。

つまり、はじめから、どの事件でもそうなのだが、京極堂は負けを自覚してやっている。負けを自覚はしているが、しかし京極堂の悲しみは、負けを自覚することではなく、他者に関わりながら・なにもできないことの〈自覚〉にある。それを〈負け〉というなら〈負け〉だが、『邪魅の雫』で超越的探偵の榎木津礼二郎が言ったように、大事なことは「勝ち負け」でも「善し悪し」でもない。他者に今関わっている自分を「逢いたかった」とか「久し振り」とか「こんにちは」と〈関わり〉として自覚することなのだ。

  「え?」
  「馬鹿野郎と云った。君はーー本当に馬鹿だ」
  「わ、私は、だって」
  「逢いたかったとか、久し振りとか、せめてこんにちはとかーーそう云うことを云うものだろう」
  「だってーーそんな、私は」
  「勝ち負けじゃないぞ」
  「勝ちーー負け?」
  「善し悪しでもない」
  どう云うーー意味?
  「解らないようだな」
  「え、榎木津君ーー」
  「もう遅い」
  (京極夏彦『邪魅の雫』)  

他者にいま自分が関わりながら同時になにかをしてあげることの限界を自覚することの認識。探偵にあって、犯罪者にないものは、それだ。犯罪者はいつもそれに《気づく》ことの「遅さ」を抱えこんでいる。

『絡新婦の理』はそうした意味で、京極堂シリーズにおける京極堂の〈悲しい認識〉、ひいてはすべての探偵たちの〈悲しい認識〉を位置づける物語になっている。

探偵たちは、「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に」、幾つもの事件を通して、世界の中心にいようと《試みた》「おまへならでは」に出会う。

探偵たちは、数限りない事件と再会をとおして、犯罪者たちに告げる。この世界には中心なんてないのだ、と。

  それは幻想(まやかし)だ。
  大いなる錯誤だ。
  己と世界は同等だとーー。
  或いは己こそが世界だとーー。
  或いは己が世界の中心に居るとーー。
  何(いず)れも間違っている。
  あの奇妙な男が教えてくれたことだ。
  …世界の構成要素であることと、世界そのものであることは、同義ではない。
  そしてーー世界に中心などない。
  (京極夏彦『邪魅の雫』)


          (『絡新婦の理』講談社・1996年 所収)

*システムの網の目とその中心にいるものの話をしたが、歴史的に考えてみると、『絡新婦の理』は1996年刊行であり、1995年がインターネット普及の年だったことを思い出してもいいかもしれない(1996年はヤフー創業年)。つまり、わたしたちが蜘蛛の巣状のネットワークのセカイの中心になりはじめたときなのである。1995年『新世紀エヴァンゲリオン』の最終話タイトルは「セカイの中心でアイを叫んだけもの」だった。ちなみに『邪魅の雫』はセカイ系がテーマの事件になっている。

2017年9月23日土曜日

超不思議な短詩228[ドラゴンクエスト]/柳本々々


  ぎこそざだ とてつちにひふ へねてとだ ぢりび  ふっかつのじゅもん「ドラゴンクエスト」

現在ゲームはオートセーブ機能があって突然アプリが終了してしまってもゲームが勝手に事前にセーブしてくれていたところから進めることができる。だから何かの事態が起きてもそこまで頭をかかえて膝をついて苦悩することはないのだが、『ファイナルファンタジー』発売の1987年までセーブは画面に映し出されたパスワードを紙に書き取り、再度プレイするときは、その紙のパスワードを打ち込んで始めていた。だからそのパスワードの書き取りが間違えると、すべてのそれまでの冒険データは消えることになる。このパスワードは、遊び手の前に立ちふさがる「画面外の“敵”」とまで呼ばれた。

  『ドラゴンクエストⅠ』『Ⅱ』では、セーブの代わりにパスワードを入力する方式だった。「じ」と「ぢ」や「ぬ」と「ね」を間違えて、苦難の結晶である冒険の記録がパーになる。ああ、悪夢!
  (『別冊宝島 決定版! 僕たちの好きなTVゲーム』)

『ドラゴンクエスト』(1986)のパスワードは意味不明な言葉の羅列が「ふっかつのじゅもん」と呼ばれていたのだが、意味不明な羅列のため、書き取り間違いを起こしやすかった(入力が違うと「じゅもんが ちがいます」と無情なテロップが出る)。ただ意味不明だけでなく、実はこの「ふっかつのじゅもん」は《定型》もそれとなく取り入れていた。

  バックアップメモリなどがなかった時代、データを保存するために考えられたのが復活の呪文。単なる進行度のパスワードではなく呪文の中に経験値などのでーを含むというアイデアが秀逸であった。五・七・五・三の韻を踏んだ日本的なリズムも味がある。しかし、所詮はデータ、無意味な音の羅列にドラマが生まれる。…夢中でメモした紙が会社の重要書類や保険証だったり。
  (同上)

意味不明なじゅもんの羅列であったとしても、かすかな〈ユーザーフレンドリー〉としての 「五・七・五・三」の定型意識。当時の『ドラゴンクエスト』のプレイヤーたちは、ゲームをプレイしながら、中断するたびに、〈定型詩〉を紙に書き記していたとも言える。そしてその定型詩は世界にアクセスするためのものであったのだが、その書記行為の精度によっては、二度と世界へアクセスできなくなってしまう。

こうした書記行為と世界のリンク/アクセスをずっと短歌で考えていたのが荻原裕幸さんだったのではないかと思う。

『ドラゴンクエスト』発売翌年の1987年に荻原さんは短歌研究新人賞を受賞しているが、荻原さんの短歌には「ふっかつのじゅもん」のような書記行為と世界がリンクする歌が出てくる。

90年代後半の歌になるが

  歌、卵、ル、虹、凩、好きな字を拾ひ書きして世界が欠ける  荻原裕幸
  (『デジタル・ビスケット』)

「好きな字」という〈自由な書記行為〉(書取の逸脱)が〈世界(データ)の喪失〉に結びつくこと。「ふっかつのじゅもん」のように書記のあり方がデータ=世界が消えることに結びつく。

あえてゲーム文化を枠組みに読んでみると、書記行為と世界のリンクの風景がみえてくる。

92年の歌集『あるまじろん』は書記行為/文字意識への問いかけをめぐる歌が多いのだが、

  だだQQQミタイデ変ダ★★ケレド☆?夜ハQ&コンナ感ジダ  荻原裕幸

などは80年代後期のファミコンのバグ画面の質感、読みとれそうなメッセージがバグによってノイズ入りまくりになってしまう〈読みとりぎりぎりの文章〉になっていく、詩的バグの風景を想起させる。

こうしたバグはカセット方式からCD読みとり方式に変わった94年のプレイステーション発売によってなくなっていくのだが、それと共にまた書式意識の仕方も変化していく部分もあるかもしれない。

ときどき思うのだけれど、わたしたちの書記意識を支えているものはなんなのだろう。わたしたちが眼にする文字量は、本よりも、ネットの文字データのほうが、ブログのほうが、ゲームのテキストのほうが、テレビのテロップのほうが、LINEの書き込みのほうが、多くないだろうか。

だとしたら、わたしたちの書記意識を支えているものは、なんなのだろう。書記意識というと、すぐに本や書物といった規範になりそうなのだけれど、日常的にフローに流れているメディアのなかに実は書記意識があったりしないだろうか。

日本語が日本語になるまでの「数秒」の非日本語意識は、いつも・いま・どこに、あるんだろう。

  春の夜のラジオの奇声を日本語と識別できるまでの数秒  荻原裕幸


          (『別冊宝島 決定版! 僕たちの好きなTVゲーム』宝島社・2010年 所収)

2017年9月21日木曜日

超不思議な短詩227[レイモンド・カーヴァー]/柳本々々


  夫婦はパン屋に押しかける。そして彼らは互いの苦しみを夜があけるまで語り合う。そして、彼らは《ある種の》救済へと到達するのだ。  村上春樹

村上春樹はレイモンド・カーヴァーの短編「ささやかだけれど、役にたつこと」についてこんな解説を書いている。

  夫婦はパン屋に押しかける。そして彼らは互いの苦しみを夜があけるまで語り合う。そして、彼らは《ある種の》救済へと到達するのだ。……すべては失われ、損なわれてしまっている。子供は死んでいる。ケーキは腐っている。夫婦はうちのめされている。パン屋の人生は破綻している。救済はどこにもない。でもそれはいうなれば救済があるはずの空白なのだ。そこでは救済は「救済の不在」という空白の形をとって姿を表す。つまり不在というかたちをとった存在である。そう、そこには《救済があってもよかったのだ》。
  (村上春樹「レイモンド・カーヴァーの早すぎた死」『ささやかだけれど、役にたつこと』)

真夜中、夫婦は、事故で死んだ子どもの腹いせをするかのようにパン屋に押しかける。でも、夫婦は《ほんとうに思いがけなく》その場で・そのとき、パン屋とパンを通して、非言語的に和解する。なんて言ったらいいか誰にもわからないような啓示的な瞬間が訪れる(「大聖堂」や「ぼくが電話をかけている場所」や「ダンスしないか?」なども同じ構造をとっている)。

以前に、カーヴァーと鴇田さんとの親近感のようなものを書いたのだけれど、わたしが気になっている句にこんな句がある。

  うすぐらいバスは鯨を食べにゆく  鴇田智哉
    (『凧と円柱』)

最近、この句について考えていたときに、ふっとまた思い出したのが、カーヴァーの「ささやかだけれど、役に立つこと」だった。いったい、なにが、親近しているのだろう。

トークのときに鴇田さんが話されていたのを聞いたのだが、たしかこの鯨の句は、〈吟行句〉だったと思う。たしかに、バスってうすぐらいときがあるし、バスに乗って鯨を食べにゆくような経験をすることがひとにはあるとおもう。〈そのまま〉読もうと思えば、〈そのまま〉読める句である。

カーヴァーの短編も同じで、なにかが起こっているのだが、しかしなにか超常現象のようなことが起こるわけではない。SF的なことが起こるわけでもない。ただパン屋はあたたかいパンを真夜中にこどもを亡くし怒っている夫婦に提供しただけで、怒り心頭の夫婦はそのあたたかい糖蜜たっぷりのパンをもくもく食べただけだ。

だから、なにも起こっていないのだが、なにかが起こっているようにも思える。

なんでか、あえて、かんがえてみたい。

たとえば、カーヴァーの小説でいえば、パン屋は〈世界の果て〉と等価になっている。そこは、ふつうのひといとってはただのパン屋だが、夫婦はパン屋にとっては世界のぎりぎりの果てである。だからこの世界の果てで命を養うということが神秘的な意味をもつことになる。まるで世界がむしゃむしゃパンを食べ、世界自体が栄養補給し回復の途上にあるような感覚になるのだ。それが、啓示として感じられるのではないか。パン屋という部分で世界という全体をあらわすこと。それを提喩的、といってもいいかもしれない(提喩とは、皿が食べ物をあらわすといった、部分が全体をあらわすたとえ)。

鴇田さんの句をみてみよう。「うすぐらいバス(に乗ってわれわれ)は鯨(料理)を食べにゆく」という意味なのだが、定型で省略されることによって、「うすぐらいバス」自体が生命をもちあたかも「鯨」をまるごと食べにゆくようなダイナミックな構図になる。その「うすぐらいバス」は、カーヴァーのパン屋のような世界の縮図になっている。「うすぐらいバス」というバスが〈自然〉に還ってゆくようなミニマルな世界が、みずからのエネルギーを補給するかのように鯨をくらいにゆく。

そのまま読めばそのままなんだけれど、そのまま読むと省略された世界の縮図のようなものに関わってしまい、自分でも意識しないかたちで〈啓示〉にふれてしまうこと。そのようなことが、鴇田さんの句にもあるのではないだろうか。

世界の終わりの風景のなかの箱船としてのバス・その世界と等価としての〈聖書物語〉的な鯨・食べる、という根源的行為。でも、そのまま読めば、そこには、なんにもない風景。なんにもないけれど、すべてがあること。

  彼は二人がそれぞれに大皿からひとつずつパンを取って口に運ぶのを待った。「何かを食べるって、いいことなんです」と彼は二人を見ながら言った。「もっと沢山あります。いっぱい食べて下さい。世界中のロールパンを集めたくらい、ここにはいっぱいあるんです」
  (レイモンド・カーヴァー『ささやかだけれど、役にたつこと』)

  ここは何処だらうか海苔が干してある  鴇田智哉

          (「レイモンド・カーヴァーの早すぎた死」『ささやかだけれど、役にたつこと』中央公論社・1989年 所収)

2017年9月20日水曜日

超不思議な短詩226[千葉雅也]/柳本々々


  ツイッターの一四〇字以内というのも、短歌の五七五七七やフランス詩の一二音節も、非意味的切断による個体化の「原器」であると言えるでしょう。  千葉雅也

千葉雅也さんの『動きすぎてはいけない』という本は、すごく乱暴に簡略に(かつ私が理解できた範囲で)言えば、現在のなんにでもすぐアクセスできてしまうような接続過剰の世界で、どのように〈切断〉をみずから持ち込み、取り入れるか、〈動きすぎてはいけない〉をつくりだせるか、ということが書かれていたように思うのだが、その〈切断〉の〈器〉のヒントは、実は、ツイッターメディアの制約された文字数や定型にもあるのかもしれない。

たとえばすごくかんたんに言うとこんな経験はないだろうか。あの番組をみなくてはならない、あれをブログに書いておかなくてはならない、あのサイトをチェックしなくちゃならない、Amazonがまた商品をおすすめしてきていて・しかも自分の嗜好にどんぴしゃなので・買わなければならない。これは、接続過剰の一例である。わたしたちはたぶんもう〈とまっていて〉も、どんどん・動く。動きすぎる。動きすぎて(どこにも)いけない。

つまり、今考えなければならないのは、どれだけわたしたちが動いていけるか、ではなくて、どういうふうに工夫して〈動きすぎない〉でいられようにするか、接続過剰な世界で、切断をはぐくんでいけるか、ということなのだ。

  ツイッターの一四〇字以内というのも、短歌の五七五七七やフランス詩の一二音節も、非意味的切断による個体化の「原器」であると言えるでしょう。これら様々なフォーマット、決まり事は、私たちの「もっと」=欲望の過剰を諦めさせるものであり、精神分析の概念を使うならば「去勢」の装置である。けれども、おそらくこう言えるのではないでしょうか。去勢の形式は複数的である、と。つまり、《諦めさせられ方は、複数的である》。だから、別のしかたでの諦めへ旅立つこともできるのです。
  (千葉雅也「あとがき」『別のしかたで』)

千葉さんのこの本の「別のしかたで」というこのタイトルが重要だと思うのだが、この文章を読んで気付くことがふたつある。

まずひとつは、あ、そうか、定型っていうのはひとつの去勢の練習になるんだということだ。そして、もうひとつは、去勢というのはひとつなんかじゃない、実はいろいろあって複数なんだ、ということだ。

ここには二重の「別のしかたで」がある。

ひとつは、とまらない欲望をあえて切断し、定型をとおして、去勢させることで、みずからの欲望の「別のしかた」、言語や思想や世界の「別のしかた」に出会うこと。

もうひとつはその「別のしかた」の去勢のありかた、欲望や、発話や、思想や、世界の去勢された「その別のかたち」自体にさらに「別のしかた」が《いろいろ》あるのだという《別のしかたの複数性》に気付くこと。

以前とりあげた筑紫磐井さんの句をみてみよう。

  行く先を知らない妻に聞いてみたい  筑紫磐井

「行く先」という〈意味論的な答え〉を「聞いてみたい」のだが、定型という「非意味的切断」に〈去勢〉されてしまう。ここには意味論的に問いかける主体が、非意味論的に切断される様態があらわれる。でも、こうした主体の去勢のありかた、躍動のありかたが定型詩なのだとも言える。定型詩は、いくら問答体のていをなしても、答えをみちびきださない。さいごに、去勢されるから。

じゃあこんな短歌はどうだろうか。

  雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁  斉藤斎藤

たしかに答えはでている。問い、「なんでしょう」。答え、「これはのり弁」。でも、このぶちまけられているのり弁にであっている出来事の「行き先」にたいする答えはない。それは定型が締め切ってしまっている。主体がわからない「ぶちまけられて」の無人称の暴発的な挿入。ここではまるでのり弁よりも人称がぶちまけられている。この歌の解釈は、いくつもの主体の「別のしかたで」が付随していくだろう。でも答えが定型詩そのものにはない以上、読み手の主体もつねに「別のしかたで」を続けてゆくしかない。定型詩は、答えることなく、締め切ってしまう。語り手に対しても、読み手に対しても。

定型詩というのは、〈わたし〉という主体の「別のしかたで」をずっと考えていく詩学なのかもしれない。ただそれは、答えがでた瞬間、その答えの「別のしかたで」がすでに・つねに待っているような、そういう詩学だ。

去勢を、別のしかたで、を考えること。

  しかし、真剣に少しでも新しいものを作ろうと思ったら、あまりにも多くのことがなされてしまったという歴史に真剣に絶望しなければならないのです。
  (千葉雅也『高校生と考える世界とつながる生き方』)

「別のしかたで」と極端に構えるのも、千葉さんの哲学のカラーとは少し違うように思う。たとえばこんなふうに日常のなにげない、とるにたらない、意外なところに「別のかたちで」は密輸できたりもする。それは「なんとなく」を「環境設定」としてとりこんでいく〈創造的な抜け穴〉になるかもしれない。

  重要なのは、惰性的にやってしまう日々のルーチンのなかに、なんとなく勉強してしまえるタイミングとかをうまく組み込むこと。「惰性的に創造力を高めるための環境設定」をする。
  (千葉雅也『別のしかたで』)

諦めることは、生成に、創造に実は深く関わっているんじゃないか(締め切りも)。

  なぜツイッターの一四〇字以内がこんなに書きやすいかというと、それは、書き始めた途端にもう締め切りだからである。
  (千葉雅也、同上)

  

          (「あとがき」『別のしかたで』河出書房新社・2014年 所収)

超不思議な短詩225[石川美南]/柳本々々


  村を捨てた男の家はこの冬より民俗資料館へと変はる  石川美南

石川さんの短歌にとっては、テキスト(文字/文章/資料/書物/物語)と生世界の交渉がとても大事なテーマのように思う。

掲出歌。それまで生活空間として生きられていた「男の家」は、「民俗資料館」という読みとられるテキストの館へと変わる。これは「村を捨てた」という共同体の離脱と深い関わりがある。ひとが共同体を離脱するその瞬間は、ひとがテキストそのものになる瞬間かもしれないということを示唆している。

その流れでこんな短歌をみてみよう。

  何ひとつうまく行かざる金曜よポップだらけの書店にひとり  石川美南

「何ひとつうまく行か」ないという生世界=現状の噛み合わなさが「ポップだらけの書店」というやはりテキストの〈館〉と複合される。書店もやはり「民俗資料館」のように「ポップだらけの書店」として読みとられるテキスト空間をなしているのだが、「ポップだらけの書店」という複雑なテキスト空間がある問いを喚起する。

いったいテキスト空間とはなにが読まれえて・なにが捨てられるのか、と。「民俗資料館」にしても「ポップだらけの書店」にしても、本当に読まれるべきテキストは「民俗」や〈書物〉のはずなのだが、そこには「資料館」や「ポップ」でパッケージングされてしまったがために〈到達できないテキスト〉もあらわれてくる。つまり石川さんの短歌では、生活世界とテキストがまず交渉しているのだが、そのテキスト空間も「ポップ」対〈書物〉とテキスト同士が交渉しあっているのだ。

  実現に至らなかつた企画たちが水面(みなも)に浮いて油膜のやうに  石川美南

そして読まれえなかった企画(テキスト)たちは、生活世界のなかに「油膜」のようにどろどろした記号ならざるものとして、帰ってくる。

  空色の胸をかすかに上下させ呼吸してゐき折り紙の犬  石川美南

  鼻うたや夢の類(たぐひ)も記録して完璧な社史編纂室よ  〃

「折り紙の犬」というテキストになれたはずの「紙」が「呼吸」という生命を帯びながらこちらの世界に帰ってくる。一方で、「鼻うたや夢の類」は、「記録」され、〈テキスト〉となり、わたしたちの生きられる生活世界から「完璧な社史編纂室」というもう手のつけられることも変化することもできない〈死んだテキストの館〉へと葬られる。

こちらとあちらの往還の物語。歴史ではこれまでも・これからもずーっと反復されてきた物語だ(最古では『古事記』の死んだ伊邪那美(イザナミ)に逢いたくて黄泉国に逢いにいった伊邪那岐(イザナギ)のあちらとこちら。日本最古の引きこもりともいわれる天照大神(アマテラスオオミカミ)がこもった天岩戸というあちら)。

たとえばこんなふうに同時代の漫画文化と結びつける想像もしてみたい。石川美南さんの歌集『裏島』は2011年に刊行された。 諫山創の漫画『進撃の巨人』の連載がはじまったのは2009年だけれども、『進撃の巨人』では〈壁(か・べ)〉を介して、こちら側とあちら側が行き来する、ときに、こちら側があちら側であったりあちら側がこちら側であることが露呈してゆくこちらとあちらのねじれの物語が描かれた。花沢健吾『アイアムアヒーロー』も感染によって〈強化ゾンビ化〉してゆく感染を介したあちら側とこちら側の物語だったが、それは〈わたし〉の感染可能性によってあちらとこちらが交錯しねじれていく物語としてもあった(『アイアムアヒーロー』には、ほかにも非モテ/モテ、2ちゃん的情報世界/非2ちゃん的情報世界などさまざまな境界の往還がある)。

石川さんの歌集のなかには、〈紙(か・み)〉を介したテキストと生世界の往還や交渉、交錯が描かれており、テキストと生のどちらかがどちらかへと影響を与え続けるような一方的な関係は描かれてない。テキストと生は交渉しあい、あちらとこちらはねじれつづける。

あちらとこちらの境界線は、ねじれ、たびたび、ずっと、ゆらめく。

あちら(テキスト)と、こちら(生)は、ときどき、ちかづき、交渉し、ひっくりかえり、こちら(テキスト)とあちら(生)になり、また、ちかづく。

書き「足」すたびにわたしたちは境界線をつくり、あなたとわたしとあちらとこちらにわかれる。

  凸凹に描き足してゆく、ある人は煙をある人は階段を  石川美南


          (「晩秋の」『裏島』本阿弥書店・2011年 所収)

2017年9月19日火曜日

DAZZLEHAIKU11[西原天気]渡邉美保



   空港に靴音あまた秋澄める   西原天気



「空港に靴音あまた」と言われると、素直にそうだと思ってしまう。至極当然のことなのに、はっとするものがある。

秋になり、空気が澄み、遠方の山や木々がよく見えるようになる季節、「秋澄める」である。どこか遠い所へと、旅に出たくなるような、そんな時季、旅の出発点としての空港が目に浮かぶ。
空港の建物の中は旅行客が行き交い、雑多な音もまた行き交っている。一句の中、周囲のさまざまなものは一切省略され、靴音だけがある潔さ。普段はあまり意識しない靴音が、秋の澄んだ空気のなかで、高らかに弾んでいるような気分にさせてくれる。

空港には、空の広やかさがあり、遠くまで見わたせる明るさがある。澄みわたった秋空のなかを、これから飛び立つ旅への期待感が増す。


〈句集『けむり』西田書店2011年所収〉  


超不思議な短詩224[芝村裕吏]/柳本々々


  ゲームって、究極的に言えば、絵を描くというか、写生の一つなんです。  芝村裕吏

去年、ながや宏高さんとお話したときに、ながやさんが短歌=定型詩とゲームの関係について話されていて、そうかあ、ゲームの箱庭的な部分と定型詩と
いうのは似ているのかもしれないなあと思った覚えがある。

たとえば定型をハード=ゲーム機として考えてみよう。そしてその定型にセットするソフトを短歌、俳句、川柳と考えてみよう。定型(ハード)のスペックや容量は決まっているのだが、そこにセットされるソフトによって、さまざまにプレイ(読み)は変わってくる。

ゲーム・デザイナーの芝村裕吏さんは、ゲームは「写生」だと言う。ある現実や日常の一瞬を切り取る。その切り取られたものが世界観になり、ミクロなグランドデザインになる。

  ゲームって、究極的に言えば、絵を描くというか、写生の一つなんです。現実の一部を切り取って、それを描くことがゲームデザインだと思うんですよね。何かの瞬間とか現実の一部、あるいはファンタジーでもなんでもいいんですけど、その一部を切り取れるかどうか。その切り取り方によって、ゲームデザインが変わる。人によっては、格闘してるところを切り取って提示する。格闘ゲームは、まさにそうですよね。
  (芝村裕吏『ゲームの流儀』)

ある切り取られたミクロな現実が、マクロな世界そのものとなる。たしかにそう言われてみると、格闘ゲームは奇妙な世界で、たとえば『ストリートファイターⅡ』を例にとってもいいが、〈格闘しかしていない〉のだ。そこには〈成長〉もなければ、〈ストーリー〉もほぼない。ただし、現実世界から切り取られた〈格闘だけの世界〉が、象徴的にマクロな世界を提示し、象徴し、代替する。

ここで大事なのが、ゲームにはハードの機能、ソフトのコンテンツにもうひとつ大事な関数が関わることだ。それは、プレイヤーの経験値としてのストーリーである。たとえばマリオをはじめてプレイしたとしよう。最初はクリアできなかったステージも、何度も死にながら何回も同じところをプレイしているうちにプレイヤーの経験値がたまってゆき、そのステージをクリアできるようになる。マリオ自体には、ただ複数のうちのひとつのステージをクリアしたというストーリーしかないが、プレイヤーのなかではどうしてもクリアできなかったなんどもなんども死んだステージをクリアできたというプレイヤーの経験値としてのストーリーが生まれる。

つまり、ゲームのストーリーは、ゲーム本編のストーリーと、プレイヤーが経験値のなかで育んでいくストーリーがある。

ゲームにはプレイヤーの経験値をめぐるストーリーがあるように、定型詩にもプレイヤーの経験値をめぐるストーリーがあるのではないだろうか。たとえばここまではわかるがここからはわからない。でも何度もプレイしていると突然クリアできるステージがあるように何年かたったあとにふいに〈わかってしまう〉ことがある。でもわからないひともいるので、そこからは〈難解〉かどうかの境界線がひかれていく。クリアできるひととできないひと、難解かどうか、の境界線がおのおので生まれていく。でもそうしたクリア可/不可の複数の境界線もひっくるめながらゲーム/定型詩のジャンルがつくられていく。

「ゼビウス」という名作ゲームをうんだ遠藤雅伸さんがこんなふうに述べている。

  良いゲームの条件として、難易度調整は一番大事だと思います。どんなクソゲーでも上手く難易度調整してやれば、そこそこ遊べるはずなんですよ。その辺を上手くやらないから、どんなにすごいゲームを作ってもクソゲーだって言われてしまうんですよ。
 (遠藤雅伸『ゲームの流儀』)

この「難易度調整」というのは定型詩にも関わっているように思う。どこらへんに「難易度」を「調整」するのか。あまりに難易度が高すぎると「無理ゲー」がうまれてくる。ただときどき「無理ゲー」や「クソゲー」からそれまでのジャンルの世界観を更新するような(『デスクリムゾン』や『たけしの挑戦状』のような)ソフトが生まれることもある。

ゲームというのはプレイする人間の、プレイヤーの経験の質感(成功体験・失敗体験の微妙なバランス、プレイヤーをいかに成功させ・失敗させるか)をとてもよく考えられながらつくられるが、定型詩にもそうした〈読みの質感〉〈読みの経験値〉がどうなるかを微細に考えながらつくられるところがあるのではないだろうか。

  そもそも、僕が初期のファミコンのゲームソフトに感じた魅惑の核心は、現実世界の惰性的に際限ない拡がりを、ゲームソフトの「狭いなりに広い緊張した世界」へと切り詰められるということだったと思う。
  (千葉雅也『別のしかたで』)

定められた(少ない)容量のなかでプレイヤー(読み手)のプレイを考えながら工夫しつづけること。

 ファミコンは、パソコンと考え方の違うハードだし、何しろ動かし方も違うし、容量もパソコンに比べていきなり小さい。色数も少なければ、プログラムはアセンブラ。ゲームもシューティングとアクションばかりでしたから。
 『ドラゴンクエスト』が出たときに衝撃を受けましたよ。「ふっかつのじゅもん」という形でセーブもできて、きっちりとしたRPGになっていたから。「工夫さえすれば、ファミコンでもRPGができるんだ」って。『ドラゴンクエスト』がきっかけで『FF』を作ろうと思ったんです。
 「もう大学を八年間も留年してるし、ファミコンの3Dゲームも上手くいかないし、次のゲームがダメだったら大学に戻ろう」と思ってました。それで『ファイナルファンタジー』というタイトルに。
当初は『ファイティングファンタジー』という案もありましたけど、「自分自身のファイナルなゲームにしよう」と思っていたんですね。「これでゲームの仕事は終わりになるかもしれないけど、頑張ろう」って。
  (坂口博信『ゲームの流儀』)

仮の思考実験として7世紀『万葉集』の万葉人や9世紀『古今和歌集』の歌人を、1899年寝たきりの正岡子規を、ゲーム・クリエイター=ゲーム・プレイヤーとして想像してみること。

意外なことかもしれないけど、ゲームと定型詩はよく似ているように、思う。

  プレイヤーは難しいゲームを好みます。プレイヤーは失敗が好き。だけど大好きではない。ゲームに気持ちよく没頭できる「フロー」と呼ばれる魅力的な心理状態にプレイヤーを引き込むのはこのようなバランスだと言われます。
  (ユール『しかめっ面にさせるゲームは成功する』)

あえて言い換えてみよう。

  読み手は難しい定型詩を好みます。読み手は失敗が好き。だけど大好きではない。定型詩に気持ちよく没頭できる「フロー」と呼ばれる魅力的な心理状態に読み手を引き込むのはこのようなバランスだと言われます。
  (ユール(偽)『しかめっ面にさせる定型詩は成功する』)

          (『ゲームの流儀』太田出版・2012年 所収)



2017年9月17日日曜日

超不思議な短詩223[さやわか]/柳本々々


  コンピュータゲームとはもっとも素朴な形に還元すると「入力すると反応がある」ということである。  さやわか

ゲームと俳句の話が続いているのでせっかくなのでもう少し冒険して続けてみようと思う。さやわかさんがゲームの本質について次のように語っている。

  ゲームの本質。コンピュータゲームとはもっとも素朴な形に還元すると「入力すると反応がある」ということである。それはAボタンを押すとマリオがジャンプするということだったり、エンターキーを押すと次の画面が表示されることだったりする。我々はしばしばモニタの前で、どうしても選びきれない選択肢を選ぶ羽目になる。その時も、ボタンはいつも通りに軽いし、ボタンそれ自体は画面内で展開されているいかなる物語やキャラクターとも関連がない。重要な選択であっても実際に行うのはエンターキーを押すか否か、「する/しない」という些細な選択なのだ。たったそれだけのことにすべてを左右させることで、スリルと不安を喚起する。選択自体には意味がないが、しかしその行動が世界を改変してしまう。
  (さやわか「ゲームのように」『ユリイカ臨時増刊 涼宮ハルヒのユリイカ』)

ここでさやさんが言っているのはたぶんこのようなことだと思う。ゲームというのは、非常にシンプルな行為、入力すると反応があるという行為が、世界をつくりあげ変えていく行為なんだと。

前回、フローな俳句として鴇田智哉さんの俳句をあげたが、ときどき、鴇田さんの句集を読みながら、任天堂のアクションゲーム『スーパーマリオブラザーズ』に近いんじゃないかと思ったりしたことがあった。これはさやさんで引用したような、シンプルな入力が、世界への触知とつながっている感覚と思ってもらえばいいと思う。たとえば、

  水面ふたつ越えて高きにのぼりけり  鴇田智哉
   (『句集 凧と円柱』)

あえてマリオっぽい句を選んでみたのだが、〈水面をふたつ越えて高いところにのぼった〉というのはふつうなら「それがいったいなんなんだ」的なところがあるが、もしこれがマリオが読んだ句だったら、どうだろう。水面をふたつ越えて・高いところにのぼったなら、ステージ=世界を攻略してゆく喜びがある(プレイヤーも同様にその喜びを感受する)。マリオにとっては、こうした原始的で・シンプルな行為が、至上の意味をもつ(マリオ=プレイヤーにとってすべての価値観はステージを前進することなのだから)。

ちなみにこの句集のタイトルは、『凧と円柱』で、高い場所やポールのような突端が気にされているのだが、そうした〈高い場所〉や〈とがったもの〉への至高もマリオ的である(土管、城のポール、キノコ)。

  春めくと枝にあたってから気づく  鴇田智哉

この世界では突端に触れる、というただそれだけの行為が「春」に気づくという世界そのもののベースへの触知につながっている。これはマリオがクリボーに触れて命を失ったり(触れることが世界の終わり)、キノコに触れる(食べる)ことで身体を巨大化させたり(世界の視野の改変)することにも似ている。

こんな句もみてみたい。

  近い日傘と遠い日傘とちかちかす  鴇田智哉

遠近に「ちかちか」と視覚的なデジタル・ノイズが入ってくる風景。これなども処理落ちのマリオのステージのようなノイズ的風景を想起することができる。

  裏側を人々のゆく枇杷の花  鴇田智哉

  断面があらはれてきて冬に入る  〃

世界の「裏側」や「断面」の意識。マリオ3では、↓ボタンを押しっぱなしにすることでステージの裏側にすとんと落ちることができる裏技とは言えないまでも小技があったが、あるいはさいきんのペーパーマリオではステージを3Dで断面的に見ることが可能になったが、「裏側」や「断面」はゲームの世界(ステージ)では、たびたび〈世界の果て〉として出会うことでもある。

鴇田さんの俳句がゲーム的世界観に支えられているというつもりはないのだが、さやさんが述べたようなゲームの本質、シンプルな入力が世界の原理につながっていく感じは、鴇田さんの俳句の風景によく似通っているのではないかと思う(というかそういう思いがけない枠組みを導入すると鴇田さんの俳句はぐっと理解しやすくなったりするのではないだろうか)。

小津夜景さんの句集『フラワーズ・カンフー』を読んでいて、或いは関悦史さんの俳句を読んでいて思うのは、俳句がB級的な要素をそれとなく密輸しながら成立してきていることだ。そのB級的要素とはなんだろう、と時々考えるのだが、たとえばそれはこうしたゲーム的世界観との思いがけないリンクと言うこともできないだろうか。

たとえば、小津夜景さんは関悦史さんとのトークで、

 ぷろぺらのぷるんぷるんと花の宵  小津夜景

は自分がはじめて俳句をつくったと実感することができた《写生句》だと述べたが(たしか夜景さんは海辺で吟行していたときにできた句だと言ったような気がする、ぼんやりだが)、「ぷるんぷるん」している「ぷろぺら」もゲームのCG世界ではごくまっとうなゲーム的リアリズムとしてあらわれそうではある(例えば私ならプレイステーションソフト『クーロンズ・ゲート』を想起する)。

関さんのこんなリアリズムとゲーム的リアリズムが融合する句。

  牛久のスーパーCGほどの美少女歩み来しかも白服  関悦史

現実のリアリズム的世界では非常識なことが、ゲーム的リアリズムの世界では、なんのためらいもなくまっとうで・ノーマルなことがある。

  蝉の死にぱちんぱちんと星が出る  鴇田智哉


          (「ゲームのように」『ユリイカ臨時増刊 涼宮ハルヒのユリイカ』2011年7月 所収)

超不思議な短詩222[阿部公彦]/柳本々々


  おもしろいのは、ブローティガンの『アメリカの鱒釣り』のような作品を読んだ人なら覚えているあの脱力感覚と、日本的な俳句の精神のまじり具合である  阿部公彦

70年代はマンガ『巨人の星』の「スポ根劇画」に代表されるようなハードな汗と涙と闘いのエネルギッシュな60年代が終わり、女性誌『an・an』や『non・no』の創刊、マクドナルド、ミスタードーナツ、サーティワンといったファーストフードの日本の開店など、キャラクターやファンシービジネスが始まってゆく時代という言われ方をされることがあるが(前に取り上げた攝津幸彦はその70年代に二十代を過ごしていた)、その70年代半ば、1976年にアメリカの作家リチャード・ブローティガンは東京に一ヶ月半滞在し、『東京日記』という詩を書いた。

阿部公彦さんは「解説」でこんなふうに書いている。

  「東京日記」の多くの作品は、俳句に触発された語り口になっている。俳句ならではの唐突さや切断感は、はじめて訪れる東京で足場のないまま、さまざまな“瞬間”をあやうく渡り歩いていた詩人にとって、まさにぴったりの装置を提供してくれたのだろう。
  おもしろいのは、ブローティガンの『アメリカの鱒釣り』のような作品を読んだ人なら覚えているあの脱力感覚と、日本的な俳句の精神のまじり具合である。切断や転換、接合などによって生み出される俳句特有の凝縮した緊張感を支えているのがある種の“拮抗”だと考えれば、これに対してブローティガンで目立つのは、拡散と散逸の気分でもある。主旋律は緊張よりも弛緩であり、興奮や熱気よりも冷却となぐさめが言葉を生み出していく。
  (阿部公彦「解説」『東京日記』)

瞬間を渡り歩く装置として「俳句の精神」を使いながらも、その瞬間は凝縮されるよりも「拡散と散逸」を伴っていく。「日常を鋭く切り取り緊張」というよりは、「緊張と驚きと空虚さをゆったり流してくれるやさしさ」の方に傾いていく。

  俳句的な装いをまとう本書の短詩は、実際には、俳句的なキャプチャの身振りをほどき、流し、平凡化・日常化する。平凡であるとは何と難しいことだろう。際だたず、とがらず、立ち止まらない。
  (阿部公彦、同上)

〈平凡さ〉というフローのなかに身を置くこと。

  テレビの
  日本の子どもたちの番組を見て
     ぼくはこの三十分間をすごした
  ここ東京には何百万ものぼくたちがいる
     ぼくたちは自分の好きなものがわかっている
  (ブローティガン「日本の子どもたち」『東京日記』)

日本の「テレビ」を「三十間」見ている時間が〈わたし〉の個を際だたせることなく、「何百万ものぼくたち」に拡散・散逸していく。「ぼくは自分の好きなものがわかっている」ではなく、「ぼくたちは自分の好きなものがわかっている」というひどく曖昧な流れるような言い方。〈見る〉という行為が〈わたしたちの見る〉につながり、〈何百万もの見る〉とともにフローな個の流れとしてうかびあがってくる。

 この不思議な短詩では何度か取り上げている句だが、こんな俳句がある。

  毛布から白いテレビを見てゐたり  鴇田智哉

毛布から白いテレビを見ているのだが、この助動詞「たり」を完了(~した)ではなく、存続(ある時点からずーっと~している)の意味合いでとった場合、語り手は、ずーっと白いテレビを見ているなかに身をおいていることになる。ずーっと語り手は毛布から白いテレビを見ている。そのときこの「たり」は神秘化していく。毛布から白いテレビをずーっと見ている風景は死後の景にも近いからだ。

その「死後の景」を誘導するのが「毛布」と「白いテレビ」の組み合わせである。たとえばこのテレビが〈白い画面〉だった場合、テレビを見ていながら・同時に・テレビをなんにも見ていないということになる。この句は突き詰めれば・突き詰めるほど〈見ること〉の危機的な様相が浮かび上がり、〈見ること・見ないこと〉を通して死者も含めた〈何百万もの見るぼくたち〉が現れる。

この俳句にもブローティガンの詩にあるようなフローな感覚が見いだされうるように思う(ちなみにフローという概念はよくゲームを論じた本を読んでいると出てくるゲームのプレイヤーを考えるときのキーワードになっている。たとえばマリオをプレイしているとき、あなたはあなたがあなたでありつつも没入していく感覚を経験していないだろうか。ゲームをプレイしながら、個でありつつも・個を没入させていく感覚。俳句とゲームの親和性)。現在の俳句は、瞬間的な切り取りではなく、フローな感覚に敏感になっている。フローな俳句としてはこんな印象的な俳句もあげられる。

  息のある方へ動いている流氷  田島健一
   (『句集 ただならぬぽ』)

この田島さんの句にも鴇田さんの神秘的な「たり」に通じるような神秘的な存続の助動詞「ている」がある。70年代アメリカの労働者階級の〈どこにもゆけなさ〉を描いた小説家にレイモンド・カーヴァーがいる。ただカーヴァーが特徴的だったのは、労働者階級のミドルクラスの生活をミニマルに描きながらも、それが〈外〉に神秘的に抜けていってしまう点だった。どこにもゆけなさのなかで神秘性があらわれる。

 カーヴァーのマジックは、貧困を含めた、ありとあらゆるものを、無意味化、身体化する、そのミニマリズムのスタイルにある。そのスタイルの特徴は、既存のリアリズムにあるような社会的、政治的文脈を無視し、まるでそこに社会など存在しないかのように、身体化された世界だけを描くことにある。言ってみれば、カーヴァーの作品は、アメリカ合衆国の話ではない。それは、合衆国のなかのどこかの街の話であるが、カーヴァーの作品世界は、その街を描くことで成立していて、そこに街よりも大きなもの、大きな社会、合衆国は存在しないのだから。ミニマリズムとは、自分の周囲十メートルの話なのである。カーヴァーのマジックは、労働者階級なら労働者階級の生活を描きながら、それが単なる労働者階級の生活ではなくなる瞬間を提出することにある。その瞬間とは、「大聖堂」の啓示が示すように、無意味化、身体化の結晶である。それは、既存の政治的・社会的文脈を破壊した、まったく新しいなにかなのだ。
  (三浦玲一『村上春樹とポストモダン・ジャパン』)

わたしはこのマジックのありかた、「毛布から」という「自分の周囲十メートルの話」を描きながら「白いテレビ」という魔術的メディアを通して〈日本の話〉だけではないマジカルな啓示的瞬間があらわれているのを鴇田さんのテレビの句に感じる。それは、ブローティガンの「子ども番組のテレビ」を見ていただけで「何百万ものぼくたち」につながってしまうようなフローしていく何かである。

私は実は三年前に鴇田さんの白いテレビの句をはじめて眼にしたときに、すぐに思い出したカーヴァーの一節があった。ただその一節がどの作品にあるのか、ずっと思い出せなかった。だから思い出すまで待っていようとおもった。ところが、きのう、雨がふっているのかふっていないのかわからない白い光の空の真下を、ぼんやり、傘をさしながら道を歩いていたら、とつぜん思い出した。それは、テレビを見ているなかで、テレビを見ていることを突き抜けてしまう、白いテレビのなかに暴力的に包まれてしまう一節だった。横になって、どこにもゆけないなかで・その《どこにも》が圧倒的に・暴力的に押し寄せ、しずかに、その場で、じっとしながら、押し流されていく〈終わりの風景〉。私が思い出したかったのは、これだった。

  私はそこに横になってテレビを見ていた、軍服を着た男たちの姿が画面に映っていた。ぼそぼそとした声。それから戦車隊が現れ、ひとりの男が火炎放射器を発射した。音は聞こえなかったが、わざわざ起き上がるのも面倒だった。私は瞼が重なるまで、じっとテレビを見ていた。でもはっと目を覚ました。私のパジャマは汗でぐしょ濡れになっていた。雪明かりのような光が部屋に満ちていた。ゴオオオという音が私に押し寄せてきた。その轟音は耳を聾せんばかりだった。私はそこに横になっていた。私は動かなかった。
  (カーヴァー「みんなは何処に行ったのか?」『ファイアズ』)


          (「解説」『東京日記』平凡社ライブラリー・2017年 所収)

超不思議な短詩221[井上法子]/柳本々々


  煮えたぎる鍋を見すえて だいじょうぶ これは永遠でないほうの火  井上法子

短詩のなかで〈鍋〉は〈鏡〉のようにとても大きな意味を持っている。

  わが思ふこと夫や子にかかはらず大鍋に温かきものを煮ながら  石川不二子

「大鍋に温か」いものを煮ながらわたしの「思」うことがせり上がってくる。わたしの「思」うことは「夫や子にかか」わらない〈わたし〉のことだ。煮る、という行為は、時間をかけて物を少しずつ変成させていく行為だ。それが、内面の醸成とも関わってくる。そう考えるとちょっとこわいことだが、妻は「夫や子」のために料理をつくりながら、「夫や子」以外の〈何か〉を考えている。料理は、短歌によって、〈奉仕〉されえない思いの叙述になる。

短詩において、ひとは(というよりも〈女性主体〉は)、鍋の前で、食べ物ではなく、みずからの〈内面〉に降りてゆく。

茹でる、だが、こんな歌もある。

  十六夜の寸胴鍋にふかぶかとくらげを茹でて君が恋しい  鯨井可菜子

「くらげを茹で」るという、料理に一見似つかわしくない表現が採用されることで、「君」への「恋」しさが不思議な感情としてあらわれる。寸胴鍋にくらげが「ふかぶかと」漂う海中の幻景が一瞬あらわれながらも、「くらげを茹で」これから食べようとしているのだという激しい感情も同時にここにはたたえられている。川上弘美のこんな一節を思い出す。ふわふわしたものを、煮ること。食べること。

  長い間の片思いのひとから、「好きなひとができました。これから一生そのひととしあわせに暮らします」という葉書がきた。泣きながら、いちにち花の種を蒔いた。途中少しの間気を失い、それからいくらか元気が出たので、夕飯には蛸を煮た。
  (川上弘美『椰子・椰子』)
  
石川不二子さんの歌は1976年刊行『牧歌』からだが、1960年代に定着した典型としての「専業主婦」像=「良妻賢母」像が崩壊しはじめる1970年代後半からの歴史状況とあわせて考えることもできる。フェミニズム全盛の時代だ。「妻」ではなく、料理をしながら、「妻」の外を志向すること。

そうした〈外〉への意識はこんな川柳にも見いだすことができる。

  ことばにはならないものが茹で上がる  佐藤幸子

料理をしながら、料理に奉仕するのではなく、「ことばにはならないもの」としての不気味な外に抜けてゆくこと。わたしのイメージ、料理のイメージが問い直される。

それが2010年代の鯨井さんの短歌では「寸胴鍋」「ふかぶか」「くらげ」と、〈外〉への意識ではなく、〈外〉への意識が深められた〈下〉への意識としてあらわれてくる。鍋は「専業主婦」的女性像の外に抜けるための装置ではなく、自らのひととしての内面の深度をさぐる装置になっている。

ちょっとかなり長い遠回りになってしまったが、井上さんの掲出歌をみてみよう。

井上さんの〈鍋〉の歌で大事なのは、〈外〉や〈下〉への意識ではなく、世界の基盤=〈根〉への意識に傾いていることだ。料理をすることが、〈永遠の火〉という世界の生成に関わるものとリンクしていく。

「だいじょうぶ」という発話に注意したい。この歌は、〈常にだいじょうぶじゃない〉世界におかれており、「永遠の火」におびやかされている。もちろん、「永遠の火」におびやかされる〈常にだいじょうぶじゃない〉世界と言えば、わたしたちは2011年の福島第一原発水素爆発を思い出す。ただ井上さんの歌は、それより、もっと、根底の、根深い火のようにも、思える。

主体の前に用意された「鍋」は、「わが思ふこと」という個人の内面に降りてゆく装置から、だんだんと、世界の根っこの危機を測位する装置へと変わっていった。

つまり、女性/男性関わらず、わたしたちは「鍋」の「火」を通して、世界の危機にリンクしてしまうような状況が現在ある。2017年は、北朝鮮からの弾道ミサイル発射によりJアラートが鳴った年として記憶されるだろうが、「火」はわたしたちをもう〈外〉連れ出すのではなく、〈外〉からわたしたちを滅ぼすためのメタファーとして機能しはじめるのでははないか。

火が、外から、やってくる。

  夏の鍋なべて煮くずれ 面影はいつだってこわいんだ夏の鍋  井上法子


          (『桜前線開架宣言』左右社・2015年 所収)