2018年1月16日火曜日

DAZZLEHAIKU17[岩田由美]渡邉美保



   くひちがふあり枯蓮とその影と  岩田由美

冬の日を浴びて、枯蓮は水面にそれぞれの影を落としている。枯れた蓮の茎や葉、朽ちた花托などが残骸のように残っている姿は痛々しいが、青空と枯蓮と、水面に映る影が織りなす造形は現代アートのような面白さがある。
掲句、そんな枯蓮とその影とを一つ一つ確かめている作者を想像すると、なんだか楽しくなってくる。あるはずの影がないぞ、と作者自身も枯蓮の一本になって水鏡を覗いているかのようだ。
「くひちがふ」ところに動きがあり、明るさがある。枯蓮同士がじゃれあっているのかもしれない。作者の自在な眼差しを思う。



〈句集『雲なつかし』(ふらんす堂/2017年)所収〉

2017年12月18日月曜日

DAZZLEHAIKU16[安田中彦]渡邉美保    

死にぎはの鯨見にゆく日曜日  安田中彦

何らかの理由により浅瀬や湾などの海浜に、生きたまま乗り上げた鯨のことを座礁鯨、あるいは寄り鯨というそうだ。
どこそこの海岸に鯨が迷い込んできたというニュースをたまに聞くことがある。そういった鯨は、人の手で外海に戻そうとしても生き延びるのは難しく、助かることは少ないそうだ。そして、その鯨を見るために、近隣から多くの人が集まって来るという。なかには自前のチェンソーとクーラーボックスを持参する人もいるらしい。
掲句、「死にぎはの」の直截的な措辞に、気の毒な鯨の事情と、それを見に行く作者の屈折した思いが想像される。
瀕死の鯨の悲しみ、あえてそれを見に行く、やみがたい好奇心、罪悪感。鯨にとっては、生き難くなってしまった地球、そうさせているのは人間なのでは?の煩悶。「死にぎはの」が投げかける意味は深い。



〈句集『人類』(邑書林/2017年)所収〉

2017年11月30日木曜日

DAZZLEHAIKU15[友岡子郷]渡邉美保

   掛け大根より白波の船現るる   友岡子郷

掛け大根の白と白波の白。
一句の中では白い色のみが述べられているが、そこには澄み渡る青い空、遠く広がる青い海原、青を背景にして、白の際立つ光景が目に浮かぶ。冬の冷たい空気の中で、青と白の対比がとても美しく、清々しい。
最近はあまり見られなくなった掛け大根。高々と干された大根の真っ白な列が並ぶ風景は、郷愁を誘う。掛け大根は、寒風にさらすほど甘味が増し、美味しい沢庵ができるという。沢庵を漬けるということが珍しくなった現在、掛け大根の風景は、失われゆく生活の実景の一つだと思う。
掛け大根に視界が遮られているとき、白波を立てて進んでくる船は突如、掛け大根の間から現れる。いつもとは違う光景がユーモラスである。船の音、波の音も聞こえてくる。


〈句集『海の音』朔出版2017年所収〉

2017年11月14日火曜日

DAZZLEHAIKU14[友岡子郷]渡邉美保



   文手渡すやうに寄せくる小春波   友岡子郷


冬に入ったとはいえ、春のように暖かい小春日和。うららかな空、うららかな日ざしのもと、海岸にいると、波は一定の間隔を置きながら、ゆったりと寄せてはかえす。次から次へと畳みかけてくる波の様子が目に浮かぶ。その単調で、静かな波音も聞こえてきそうだ。
波が寄せてくるさまはまさしく「文手渡すやうに」なのだ。それは巻紙にしたためられた長い長い文かもしれない。
本句集のあとがきに「海鳴り、潮風、舟の音…、今の私の生活圏にある」と記されている作者ならではの繊細な感懐ではないだろうか。
海のひろさ、水平線のはるかさ、日頃の思いがすべて含まれているような気がする。
寒さに向う前のほっとするような暖かいひととき、「文手渡すやうに」と形容される波がなんともやさしく、さびしい。


〈句集『海の音』朔出版2117年所収〉 


2017年10月22日日曜日

DAZZLEHAIKU13[杉山久子]渡邉美保



  縞縞の徹頭徹尾秋の蛇   杉山久子


琵琶湖周辺の里山を歩いているとき「蛇がいる」という声を聞いた。近寄ってみると、縦縞の蛇が草の中に横たわっていた。人の足音や人声にも動く気配がない。ぱっちりと開いた目の周りには、蠅が集っている。その蛇は死んでいた。

掲句、「徹頭徹尾」が意表をついていて、とてもおかしい。頭から尾っぽまで一貫して縞が通っているということだろうか。秋になり動きが鈍くなった蛇が、ゆっくりと縞模様を見せてくれたのかもしれない。

この句の中にあって「徹頭徹尾」は、熟語本来の意味を離れて脱力。縞縞の蛇のためにある言葉のように思われてくるから不思議だ。しかも、この蛇のために使われると、字画の多い四文字の漢字がするするとほどけて、一匹の蛇になってしまいそう。
「徹頭徹尾」が軽やかに弄ばれているようだ。


〈句集『泉』ふらんす堂/2015年所収〉


2017年10月13日金曜日

超不思議な短詩239[野口る理]/柳本々々


  チャーリー・ブラウンの巻き毛に幸せな雪  野口る理

前にも書いたが、俳句とは、世界のアクセスポイントをさぐる試みでもあるのではないかと思っていて、たとえば、

  おおかみに蛍が一つ付いていた  金子兜太

  本の山くづれて遠き海に鮫  小澤實

「おおかみ」と「蛍」のアクセス・ポイント、「本の山」が崩れる瞬間と「鮫」のアクセス・ポイントなどがこれまで名句として発見され引用されてきた。俳句は、ただ、アクセス・ポイントを、提出する。こういうアクセスが、そのときありました、ということを(あるいは、アクセスしてしまいました、ということを)。

関悦史さんにこんな句がある。

  内臓のひとつは夏の月にかかる  関悦史

ここでは「内臓」が「夏の月」にアクセスしている。「夏の月」という〈清潔〉そうなものに「内臓」が「かか」り、血みどろにしてゆく(海外ドラマ『ウォーキング・デッド』ではゾンビ避けのために登場人物が死体の内臓をぶらさげてあえて死臭を放ちながら歩くシーンがあった)。

冬の季語「おおかみ」に夏の季語「蛍」がアクセスし神話的な時間に、「本の山」の「くづれ」に「遠」い「海」の「鮫」がアクセスし可傷的瞬間に、「内臓」に「夏の月」がアクセスしプレーンなものが血みどろになるサブカルゾンビ的侵犯の時間に。

じゃあ、野口さんの句ではどうだろうか。

私はかつてもこの句を考えてみたことがあるのだが、「チャーリー・ブラウン」というマンガ・アニメの身体が、「巻き毛」という記号の線から実体を伴った「毛」を手に入れ、さらにその「毛」に「雪」がのることがこの句のアクセス・ポイントになっているのではないかと思う。

 マンガ・アニメのチャーリー・ブラウン(線の記号的身体)
   ↓
 巻き毛という毛をもったチャーリー・ブラウン(毛をもった実質的・脱キャラクター的身体)
   ↓
 雪がちゃんと毛のうえにのるような巻き毛をもったチャーリー・ブラウン(モノの身体としてのチャーリー・ブラウン)

雪が毛の上にのるということは、その毛はモノであり、いつかは抜けるということでもある。抜けるということは、このチャーリー・ブラウンの身体は、やがては、老いて、死んでゆくということでもある。この「幸せな雪」の「幸せ」とはそういう身体をもちながらも、それでも〈いま・ここ〉の時間を「幸せ」と感じることのできることをあらわしている。

だからここでのアクセスポイントは、チャーリー・ブラウンが〈老いる身体〉と出会ったというそのことにある。それでも、その〈老いる身体〉のうえに、「幸せな雪」がふり・つもった。その〈重み〉がこの句の生になっていると、おもう。

  チョコチップクッキー世界ぢゆう淑気  野口る理


          (「Ⅰ おもしろい」『天の川銀河発電所』左右社・2017年 所収)

2017年10月11日水曜日

超不思議な短詩238[岡崎京子]/柳本々々


  いつも一人の女の子のことを書こうと思っている。いつも。たった一人の。一人ぼっちの。一人の女の子の落ち方というものを。  岡崎京子

「岡崎京子展 戦場のガールズ・ライフ」の図録『岡崎京子 戦場のガールズ・ライフ』に寄せた文章のなかで小沢健二は次のように書いている。

  岡崎京子は『ヘルタースケルター』で、「みなさん」という言葉を使っている。マーケティングの会議/思考がとらえようとするのは、この「みなさん」の動向だ。
  ……
  でも、「みなさん」は、実は存在しない。
  「みなさん」は、実は数字だ。
  (小沢健二「「みなさん」の話は禁句」『岡崎京子 戦場のガールズ・ライフ』)

小沢健二は『ヘルタースケルター』に埋め込まれた「みなさん」と「あんた達」の差異について語る。「みなさん」に取り巻かれた主人公のりりこ。表の「みなさん」と裏の「あんた達」の二重構造的環境にとりまかれるりりこ。

ここで興味深いなと思うのが、岡崎京子マンガが喚起してくる全体性である。岡崎京子は、冒頭に掲げたように「たった一人の」「女の子のことを書こうと思っている」と述べるのに、そして実際それは納得できるはずなのに、岡崎マンガでは、その「一人」が〈全体的ななにか〉を立ち上げていく。それは「女の子」を取り巻く全体的な「みなさん」や「あんた達」かもしれないし、「一人の女の子」が「全体」(終末感と奇妙な明るさが同居した80年代)の「女の子」を代表してしまう。「一人」が「全体」に結びついていってしまう風景を岡崎マンガは描いていたのではないか。

冒頭の引用部分は『ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね』の「ノート(ある日の)」からだが、こんな続きがある。

  いつも一人の女の子のことを書こうと思っている。
  いつも。たった一人の。一人ぼっちの。一人の女の子の落ち方というものを。
  一人の女の子の落ちかた。
  一人の女の子の駄目になりかた。
  それは別のありかたとして全て同じ私たちの。
  どこの街、どこの時間、誰だって。
  近頃の落ちかた。
  そういうものを。
  (岡崎京子『ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね』)

「一人の女の子」の風景は、「別のありかたとして全て同じ私たち」につながっていく。それはもう女の子/女性/男の差異もない「全て同じ私たちの」風景である。

『岡崎京子 戦場のガールズ・ライフ』には穂村弘さんの短歌が寄せられているが、やはり、〈全体〉を想起させる短歌になっている。

  長い夢から覚めたら世界がなんか変 タクシーの基本料金がちがう  穂村弘

  「商社ってシステムでかいから一度海老に決まると一生海老だ」  〃


  真っ青な目に僕たちを入れたまま台風はゆっくりとウインク  〃

  「目玉焼き、かたさどのくらい?」と問いかける誰かの声が永遠になる  〃

  「気をつけて一OLのあやまちは全OLのあやまちだから」  〃
  (「インターフォンにありんこがいる」『岡崎京子 戦場のガールズ・ライフ』)

夢から覚めると「世界」が変わり、「システム」は「海老」が「海老」で一生ありつづけることを決め、「台風」の「真っ青な目」のなかに「僕たち」はいて、「誰かの」なにげない「声が永遠にな」り、「一OLのあやまちは全OLのあやまち」になる〈世界〉。

  そうよ あたしはあたしがつくったのよ
  (岡崎京子『ヘルタースケルター』)

〈ひとり〉の「あたし」の世界は、〈ぜんぶ〉の「あたし」の世界に結びついてゆく。

  日本の女の子の人生の幸福と不幸と困難さと退屈さについて行ってみよう。
  (岡崎京子「ノート(ある日の)」『岡崎京子 戦場のガールズ・ライフ』)

「いつも一人の女の子のことを書こうと思っている」と書き出した文章で岡崎京子は「日本の女の子の人生の幸福と不幸と困難さと退屈さ」について書き始めている。岡崎マンガでは、絶望的に、ひとりの女の子とぜんぶの女の子が結びついてゆく。それは、時間さえも、超えて、だ。

  あなたが これから 向かうところは わたし達が やってきたところ
  (岡崎京子『チワワちゃん』)


          (『岡崎京子 戦場のガールズ・ライフ』平凡社・2015年 所収)

超不思議な短詩237[高山れおな]/柳本々々


  ムーミンはムーミン谷に住んでいる  高山れおな

「ムーミンはムーミン谷に住んでいる」というのはほんとうにそのままであるのだが、しかし、誰かが・どこかに・住んでいる、ということ、誰かが・どこかにいざるをえないということとは、そのことを句にするだけで意味生成の現場になることがある。地政学的感性、と言ったら大げさかもしれないが、だれが・どこに回収されてゆくのかということ。

  無能無害の僕らはみんな年鑑に  高山れおな

「ムーミン」は「ムーミン谷」に〈回収〉されたが、「無能無害の僕らはみんな年鑑に」〈回収〉されてゆく。こうした回収の差異のありかたによって、「ムーミン」が「ムーミン谷」に回収されるというあり方もほんとうに〈そのまま〉であるのかどうかという〈偏差〉が出てくる(ムーミンは俳句にも住み込んでしまっているわけだし)。

この〈回収〉という枠組みでれおなさんの俳句をみてみると、たとえば、

  麿、変?  高山れおな

の句は、「麿」が「変」に回収されるかいなかの瀬戸際というか臨界そのものを描いている句にもみえる。「変」に回収されるかもしれないし、「変」に回収されないかもしれないそのぎりぎりのところを切り詰めた言葉で、それしかいわないようにして、描いている。

こうした〈回収〉への意識は、〈回収〉しえないものたちも呼んでくる。

  げんぱつ は おとな の あそび ぜんゑい も  高山れおな

の、「あそび」としての「げんぱつ」は、「ムーミン谷」にも「年鑑」にも「変」にも〈回収〉しきれない「あそび」としての揺れ動きや余剰のなかで存在しつづける。

  踊る嫁が君(マウス)よ、私が私で、明るすぎる  高山れおな

「踊る嫁が君(マウス)」という揺れ動く〈あなた〉に対して、「私が私で」と即座に「私」を「私」に回収させる「私」。その対立が「明るすぎる」空間としてスパークする。

こうした回収不能性と回収可能性の対立のダイナミックスのなかに「ムーミンはムーミン谷に住んでいる」という句が置かれることによって、回収可能性としてのムーミン句は、実は、回収不能性としての意識も孕んだ句、回収不能性と関係しつづける句だということもみえてくるのではないだろうか。

ムーミンはムーミン谷に住んでいる、という言説ほど質素で過激なものはないかもしれない。

  虚空より紫蘇揉み出すは寂しけれ  高山れおな


          (「Ⅰ おもしろい」『天の川銀河発電所』左右社・2017年 所収)

超不思議な短詩236[星野源]/柳本々々


   夫婦を超えてゆけ/2人を超えてゆけ/1人を超えてゆけ  星野源

最近星野源の「恋」の歌詞「夫婦を超えてゆけ/2人を超えてゆけ」について考えていて、これは漱石『門』の、

  宗助と御米とは仲の好い夫婦に違なかった。いっしょになってから今日(こんにち)まで六年ほどの長い月日を、まだ半日も気不味(きまず)く暮した事はなかった。
  (漱石『門』)

や、

  屠蘇散や夫は他人なので好き  池田澄子

などの〈夫婦〉というユニットをめぐる小説や句と通底しあっている歌なのではないかと思った。

夫婦を考えるときに問題となるのは、夫婦を夫婦として意識しはじめたときに2人のあいだで逸脱してきてしまう〈なにか〉である。でもその〈なにか〉は〈なにか〉の余剰としてしか感じ取れず、〈なにか〉のままで置くしかないのだが、星野源の歌詞にも語られているように、「夫婦」を考えたとき、「夫婦」とは、「2人」とは、「1人」とは、というカテゴリーをめぐる問いが生まれてくる。

星野源も漱石も池田澄子さんもいったん〈夫婦〉というカテゴリーに沿いながら、その夫婦というユニットのカテゴリーをたどっているうちに越え出ようとしているところに特徴がある。星野源の歌の「似た顔や虚構」と言った第三者が夫婦幻想に介入してくるのも、星野・漱石・澄子に共通するところだ。夫婦は夫婦で簡潔しない。池田さんの句にあるように「他人」という第三項の問題がかかわってくる。

たとえばこの池田さんの句を漱石『門』になぞらえるなら、

  屠蘇散や夫は他人(の安井がいるから)なので好き

ということになる。

  二人はそれから以後安井の名を口にするのを避けた。考え出す事さえもあえてしなかった。
  (漱石『門』)

は、逆にどれだけ安井を夫婦が意識しているかを〈逆語り〉している。安井から駆け落ちするように逃げるように2人になった2人。私は星野源の恋ダンスをほんとうは漱石『門』の野中夫婦に踊って貰いたいなあと思ったりもする。例えば野中宗助が、野中御米が、恋ダンスを踊りながら「夫婦を超えてゆけ/2人を超えてゆけ/1人を超えてゆけ」の部分でなにを思うのか。いや夫婦というユニットを考え続けた漱石に恋ダンス踊ってもらいたい。

夫婦であるということは、夫婦というカテゴリーを考えると同時に、2人であるとはどういうことかを考えると同時に、1人であるとはどういうことかを同時に考えることでもある。そして時々たぶん私たちはその夫婦という、2人という、1人というカテゴリーを〈恋〉によって(なんとなく)超えてしまう。

星野源の歌でも「似た顔や虚構」という〈脅威〉が迫っているように漱石『門』でも「安井」という夫婦存在を脅かす「似た顔や虚構」が現れる(宗助は脅えるがその安井がどの安井なのか作品では結局明らかにならないぶん、宗助は「似た顔や虚構」に怯え続けることになる)。

  そうして父母未生以前と、御米と、安井に、脅かされながら、村の中をうろついて帰った。
  (漱石『門』)

宗助は最終的に、じぶんの存在の根っこと、妻と、妻のかつての夫婦となろうとした相手に、おびやかされることになる。つまり、夫婦で今じぶんがたまたまいることの可能性、夫婦がこわれることの可能性、夫婦でなかったことの可能性、のみっつのねじれ≒夫婦ループのなかにはいりこんでゆく。

夫婦というユニットの静かな危機と崩壊を描き続けてきたのが劇作家の岩松了で、『水の戯れ』や『テレビ・デイズ』でなんとなく・しずかに・はげしく・こわれていく夫婦を描いている。

  夫 でもキミは、その前、自分だけの問題じゃない。ふたりの問題だって言ったよ。
  妻 問題なんて言わないわ。生活だって言ったのよ。
  夫 ……。
  妻 ……。
  夫 生活って?
  妻 ……。
  夫 ……。
  妻 生活よ……。
  (岩松了『テレビ・デイズ』)

『水の戯れ』では、もう「結婚」しているのに、「ちゃんと結婚してないような気がする」と夫の春樹が言い始める。しかし、「ちゃんと結婚」するとはどういうことなのか。夫婦に「ちゃんと」を持ち込みはじめたとき、その夫婦は、どうなるのか。夫婦を、2人を、1人を、ひとは、どうやって、越えられるのだろうか。恋ダンスのねじれるようなダンスは、その答えがアクロバティックにしか見いだせないことをあらわしているかもしれない。

ちゃんと2人になりたい、ちゃんと2人でいたい、ってどういうことなんだろう。おおくの〈2人〉がといかけていること。

  春樹 ちゃんと結婚したい……
  明子 え?
  春樹 ちゃんと結婚したい。
  明子 どういうこと?
  春樹 ちゃんと結婚してないような気がする……。
  (岩松了『水の戯れ』)


          (「恋」・2016年 所収)

2017年10月6日金曜日

超不思議な短詩235[オクタビオ・パス]/柳本々々


  しばしば、連歌は日本人に対し、自分自身から脱出する可能性、孤立した個人の無名性から、交換と承認が形づくる円環へと転じる可能性を提供したのではないかと思われる。  オクタビオ・パス

今年の夏に青森の川柳ステーションに呼ばれたときに、ある方から連歌(連句)に誘っていただいてそれからずっと今も続けている。

オクタビオ・パスの『RENGA』序文のことばは、連歌の性質をよく、わかりやすく、あらわしていると思うので、引用してみよう(私は大学の頃、パスの「波と暮らして」という運命の波と浜辺で出会い、波と同棲し、波と添い寝し、波と破局する超現実的な短篇が大好きだったが、まさかまた別のかたちでパスと巡り会うとは思わなかった)。

  しばしば、連歌は日本人に対し、自分自身から脱出する可能性、孤立した個人の無名性から、交換と承認が形づくる円環へと転じる可能性を提供したのではないかと思われる。これは階級制度の重圧から自己を解き放つ一つの方法だった。連歌は礼儀作法に匹敵するような厳格な規則にしばられてはいるものの、その目的は個人の自発性を抑え付けることではなく、反対に、各人の才能が、他人にも自分自身にも害を及ぼすことなく発揮されるような自由な空間を開くことにあった。
 (オクタビオ・パス『RENGA』序文)

連歌(連句)をやってみて体感的にすごくよくわかったのが、俳句とは発句だというのが実感として理解できたということだ。わたしはずっとこの発句というのはいまいちよくわからなかった。連句のはじまり、出「発」としての発句は、はじまりだからきちんとしていかなければならない。だから、切れや季語によってきちんとする。それでいて、はじまりなのだから、これからの長い旅への挨拶になっていなければならない。これは小澤實さんがよく書かれている俳句は「挨拶の文芸」とも通じ合う。

「挨拶」がつねに誰かに向けてなされるものであるように、発句という一句屹立するものでありながら、次に続くひとのことを考えるのも連句である。これをパスは「交換と承認が形づくる円環」というふうに表現している。

「交換と承認」のサークルのなかで、じぶんがどこまで個性を発揮していいのか考えながら、じぶんの出力のバランスをかんがえながら、同時に、これまで続いてきた句を、いま、じぶんがつくる句にどのように入力していくかのバランスも考えながら続けていく連句。

小池正博さんがかつて書いていたように、連句は後戻りすることはできない。前へ前へ〈それでも〉進んでゆく勇気が、連句である。

だから、あまりにネガティヴになると、だんだん連句の座が暗いムードになっていくので、捌きというリーダーのひとから、やぎもとさん、ちょっと暗いです、暗すぎます、と注意を受けるのだが、ああわたしって暗いんだなあ、と連句をやってはじめてわかった(それまでは明るい人間だと思っていたのだ)。ただし実はこれは現代川柳そのものがわりと暗い色調をもっているからなのではないかとあとでうつむきながら考えたりもした。

浅沼璞さんの本を読んでいて知ったのだが、小津安二郎も連句をよくやっていたらしい。たしかに、自分の個性の入出力のバランスをとりながら、ぽんぽん会話しながら、なにがあってもそれでも前へ前へと進んでいく小津安二郎映画の風景は、連句の風景によく合うように、おもう。

いや、そもそも連句は、小津安二郎が言うように、映画的、なのだ。

  ゴム林の中で働く仕事を命じられ、そこに働いているあいだ暇をみては連句などをやっていました。撮影班の一行がその仲間なんです。故寺田寅彦博士もいわれていたが、連句の構成は映画のモンタージュと共通するものがある。
 (小津安二郎『キネマ旬報』1947年4月)

         (「受け継ぐこと、紡ぐこと」『リアル・アノニマスデザイン-ネットワーク時代の建築・デザイン・メディア』学芸出版社・2013年 所収)