2017年7月20日木曜日

DAZZLEHAIKU6[長谷川晃]渡邉美保



夜半の夏畳の縁を獏が行く   長谷川晃


初めて動物園のバクを見たとき、「これが夢を食べる動物なのか」と妙に感心した。しかし、動物園のバクと「悪夢を食べる霊獣」の獏とは別物であるらしい。
小さな目と間延びした鼻(吻)、奇妙な格好のこの動物は、本来、森林ややぶで暮らし、薄明・暮時に活動、草や芋、果実を食べるが、近年、絶滅の危機にあるという。
さて、掲出句の獏、「夜半の夏」「畳の縁」とくれば、やはり、悪夢を食べる獏なのだろう。とはいえ、映像としては、動物園のバクの姿が浮かぶ。
真夏の夜ふけ。夢なのか、夢から覚めた瞬間なのか、現実と夢の間に畳の縁を行く獏を見た。獏は何処へ行くのだろう。想像上の霊獣と言われる獏であれば、畳の縁が、異質な世界からの通路になっているかのようで、「畳の縁を行く」という表現に妙にリアリティを感じる。
悪夢を食べてくれる獏には、どこへも行かず、ここにとどまって欲しいものである。これから見るかもしれない悪夢を食べてもらいたい。悪夢は夜ごとに増えていく。


(句集『蝶を追ふ』邑書林2017年所収)

2017年7月15日土曜日

続フシギな短詩142[北山まみどり]/柳本々々


  歩かなきゃパセリが森になる前に  北山まみどり

北山まみどりさんともろとさんの句集『川柳と少女マンガと…』。まみどりさんの句にもろとさんが少女マンガタッチの絵をつけている。

少女マンガ言説とは、なんだろうか。どうしてわたしたちはある絵をみたとき、この絵は〈少女マンガ的〉だとわかるんだろう。

それがこの句集を読んでいると少しわかってくる。まず少女マンガは、多彩な背景のスクリーントーンの使用が、怒濤のように移り変わっていく少女の内面の推移をあらわしている。少女の内面を描いているのは背景の特殊なスクリーントーンの効果による(つまり、背景に特殊なきらきらなどを入れるとギャグタッチの画でも少女マンガ言説にすることができる)。

少女はコマという背景全体で人生を生きている。だから、好きな相手(それが男性である場合もあれば女性である場合もある)から否定されるときは、この背景全体が否定されることになる。少女マンガにおいては、読者はコマ全体とともに少女の内面に寄り添うことになる。

この背景の推移が少女の内面に同調していくことにまみどりさんの句はよくあっている。掲句をみてほしい。

「パセリが森に」と背景の推移が描かれている。「パセリ」ならまだ引き返せるが、「森」のように奥深い背景になったらもう引き返せない。だから「歩かなきゃ」ならない。この「なきゃ」も少女マンガ言説に同調している。「~しなきゃ」と思うのは、想いを寄せる仮想の相手がいてその相手に価値観をあわせることを意味している。

  笑わなきゃもっとどんどん太らなきゃ  まみどり

笑顔も身体も〈見せる〉ためにあるのだ。見られるわたしは、わたしを見るあなたを意識する。そこに「~なきゃ」という内面が生じる。

ためらい、迷い、しかしそのなかで、複数の「~しなきゃ」を見つけながら、それをなんとか実践しようとしながら、少女は〈あなた〉を振り向かせようとする。

逆に言えば、〈あなた〉がふりむいてしまうと、到達してしまうと物語は終わるので、少女マンガは迷いつづけねばならない。どんなに平坦な、らくな、かんたんな、まっすぐの道でも、あなたがいるおかげで、迷いつづけねばならない。

  真っ直ぐな道で迷ってばかりいる  まみどり

          (『川柳と少女マンガと…』2011年 所収)

続フシギな短詩141[三宅やよい]/柳本々々


  眩しくて鶫がどこかわからない  三宅やよい

田島健一句集『ただならぬぽ』にはこんな句がある。

  鶫がいる永遠にバス来ないかも  田島健一

なんでバスが来ないように感じられるんだろう。「鶫がいる」からだ。でもなんで鶫がいるとバスが来なくなっちゃうんだろう。

とにかくこの句からわかることは、「鶫」を通して〈アクセスできないなにか〉を感触してしまうことだ。ふれられないものを感触してしまうこと。それを〈現実界〉といってもいいが、ともかくふれられないものにアクセスしてしまいそうになっている。

やよいさんの句をみてみよう。語り手は「鶫」をみようとした。ところが「眩しくて/わからない」。この句では「鶫」そのものにアクセスできない。鶫自体がふれられないもの、アクセスできないもの、現実界になっている。

「鶫」というのはなぜこんなにもアクセスしがたさを生み出すんだろう。ちょっとふしぎである。

というか、ですよ。今これを読んでいるあなた、この「鶫」って読めますか? 私は読めなかったんですよ。

以前、イラストレーターの安福望さんからこんなふうに聞かれたことがある。「この『鶫』ってなんて読むんですか?」
わたしは答えた。「ああ、これは、「ひよどり」って読むんですよ」「へえ、そうなんですね。なるほどなあ」

でも、ぜんぜんちがったのだ。ひよどり、なんかじゃないんだ。ぜんぜんちがうんだ。違ったことはまだ安福さんには伝えていないので安福さんはいまだこの「鶫」を「ひよどり」と読んでいる。まあそれはそれでいいと思うけれど、でもふつうのひとは読めるんだろうか。私にはわからない。読めないんじゃないかと、おもう。読めますか。

で、あらためて考えてみると、俳句の句集というのは、季語にルビをふらない。これは煩瑣であることを避けるためかもしれないが、そもそも季語というのは、俳句をする人間なら脳内で同期されているデータベースのようなものではないかと思う。だから、わざわざ、そこにルビをふるようなことはしない。それはそもそも共有されているものだからだ(たぶんですよ)。

ところが一般の感覚では、「鶫」は読めない。ひよどり、と読んでいるような人間もいる。この「鶫」という字は季語のアクセスしがたさを象徴していないだろうか。

やよいさんの句のように、なんとなく「鶫」がいることはわかる。「鶫」という漢字は読めなくたって認識はできるんだから。でも、読めない。なんとなく、鳥だというのはわかる。鳥っていう字があるからね。でも、読めない。アクセスできない。読めないということは、この漢字を解凍できないということであり、そこにいるのはわかるのに〈眩しくて/わからない〉ようなものなのだ。

わたしは「鶫」は季語へのアクセスしがたさの象徴なのではないかと思う。認識はできるのだ。「鶫」と。でもその認識できたファイルを解凍できない。ルビがふれない。だから、バスはやってこない。くるかもしれない。でも、やってこないかもしれない。いつか読める日がくるかもしれない。こないかもしれない。

ところで正解はまだ言ってないんですが、鶫って、読めますか?

          (「船団」104号・2015年3月 所収)

2017年7月14日金曜日

続フシギな短詩140[中村冨二]/柳本々々


  では私のシッポを振ってごらんにいれる  中村冨二

しっぽとは、なんなのだろう。

『オルガン』9号・2017年5月号の「座談会 斉藤斎藤×オルガン」のなかに〈しっぽの話〉が出てくる。

  尾のあれば春の闇より目を凝らす  鴇田智哉

人称をめぐる話のなかで鴇田さんがあげたこの句を斉藤斎藤さんは「三人称的私性」だと述べている。

  三人称的一人称というのは「私」を三人称的に、外から見て説明してるということです。たとえば「ぼくは高校生だ」は、文法的には一人称ですが、実質的には三人称ですよね。ふだん高校生は「ぼくは高校生だ」と意識していない。わざわざそう思うのは、自分について客観的に振り返ったり、他人に説明したりするときぐらいです。それと同じで、「尾のあれば」とわざわざ言っているということは、尻尾が生えた「私」を三人称的に意識しているということになりますし、成り代わりというか、もともと尻尾が生えてたんではない感も出てると思うんですね。……で、そういう意味で俳句の「私」はどうしても、三人称的一人称になりがちな気がするんです。
  (斉藤斎藤「座談会 オルガンからの質問状」9号、2017年5月)

もともと尻尾が生えていたなら、尻尾を意識することはない。「尾のあれば」という言説は出てこない。「尾のあれば」という言説が出てくるのは、〈尻尾があるわたし〉を意識して〈三人称的〉に語っているからということになる。〈一人称的〉に語るなら、〈尻尾の意識〉を持つ必要がないからだ。たとえばこう考えてみてもいい。わたしに指があるのでわたしはせっけんをつかむ。こんなふうに意識して、指の意識をもって、わたしたちはせっけんをつかむだろうか。ただ・単に、つかむのではないだろうか。つかむ、ということさえ意識せずに。

ここで「人称」の話をめぐって〈しっぽの句〉が提出されたのが興味深いと思うのだが、〈しっぽ〉とはもともと私たちが持っていないものである。だから〈しっぽ〉にどう言語的対応をしていくかで、人称や主体のバランスが変わってくる。

「尾のあれば」は、「今の私には尾があるので」であり、「尾がないわたし」が想定されている。この「尾のあれば」という言説によって、尾があるわたしを外からみているわたしという三人称的一人称がたちあがる。

ちなみに鴇田さんは「三人称」感とは逆にこの句を「『私が』という主語で読める句であり、作者もそういうつもりで提出しています」と自解している。この「尾のあれば」の唐突な切り出し方は、(あ、わたしにいま尻尾がある!)感もある。(あ、わたしにいま尻尾がある!)で突然語り始めたならそれは潜在的には一人称的一人称とも言える。俳句の短さがその唐突さを用意し、その唐突さが俳句に三人称的一人称だけでは割り切れない微妙な人称性の揺らぎなりショックを与えているとも言える(ただし、鴇田さんの俳句が一般の俳句とは異なり〈人称の微妙な不安さ〉をそもそも抱えているのだとも言えるかもしれない)。

中村冨二の川柳では〈しっぽ〉にどう向き合っているだろう。冨二の句は、「では私のシッポを振ってごらんにいれる」と現代川柳によくある口語体がとられている。口語体なので〈あなた〉に話しかけているのであり、この場合、わたしの発話としての一人称的一人称になっている(ただこれも微妙で発話というのを一人称的一人称にするか三人称的一人称にするかという問題はあると思う)。また「では」という応答の接続詞が入ることにより唐突さもなくなっている。ただし、575定型は破調し音数は長くなっている。口語体の発話である点と、接続詞の準備により、〈一人称的一人称・的〉になっている。

しっぽの話にしては複雑なので、今回のしっぽの話をまとめてみよう。

まず「しっぽ」を私たちは持っていない。だから、しっぽの私を語るとき、わたしたちはその語り方によってさまざまな人称のバランスに分かれていく。

その分かれ方に関しては、どれだけの音数でしっぽを語れるか、またどのような言葉のつなぎ目(助辞、言辞)をもってしっぽを語るかで、三人称的一人称のしっぽの私になったり、一人称的一人称のしっぽの私になったりする。なったりするのだが、どうしても〈他ならない・この人称〉と割り切れないのは、しっぽが〈わたしのもの〉でありつつも〈わたしのものじゃないもの〉だからだと思う。言わばしっぽとは、私のはんぶんはんぶんなのだ。

犬のしっぽ、とか、猫のしっぽ、とかならいいのだが、〈わたしのしっぽ〉となった場合、それは〈わたしのものじゃないもの〉でありつつも〈わたしのもの〉になっている。

谷山浩子「しっぽのきもち」という歌にあるように、「スキというかわりにゆれる」のがしっぽであり(いい歌だ)、それはわたしの身体やわたしのきもちの半分を受け持ちながら、わたしを、半分、ないがしろにしていく。しっぽのほうがわたしを先行するのだ。

だとしたら、しっぽは、〈何〉人称なんだろう。


          (「むだい」『かもしか川柳文庫第二十集・童話』野沢省悟編集、かもしか川柳社・1989年 所収)


2017年7月3日月曜日

DAZZLEHAIKU 5 [長谷川晃]渡邉美保



梅雨真中抜いた歯根の長きこと  長谷川晃


虫歯のせいなのだろうか。痛み出した歯はついに抜くことになる。口の中にある時は歯根のことなどあまり意識していないが、歯の下に隠れている歯根は予想外に長い。抜いた歯を医者に見せられた時の、ちょっとした驚きと屈折。この歯根が歯を支えていたのだという感慨もあったかもしれない。
「梅雨真中」という季語から、この季節特有の鬱陶しさが、歯痛の鬱陶しさを増幅している。
「抜いた歯根の長きこと」しか述べられていないが、歯根の形を思い浮かべると、少しおかしく、少し切ない。そして、歯を抜くに至るまでの疼きや、抜かれる時の緊張感、抜いてしまった後の喪失感(たとえ歯の一本といえども…)や悔恨など、もろもろの思いが想像される。口中には、抜歯の際の麻酔のしびれが、まだ残っているにちがいない。


〈句集『蝶を追ふ』2017・5邑書林収〉

2017年6月30日金曜日

続フシギな短詩139[むさし]/柳本々々


  決めました私自身が吹雪きます  むさし

むさしさんの句集『亀裂』を読んでいると〈わたし〉のエネルギー量というものを考える。ひとはどれだけ〈わたし〉のなかにエネルギーをため込むことができるのだろう。

  踊れ踊れ心が吹雪く手が吹雪く  むさし

掲句によれば〈わたし〉は「吹雪」と匹敵するエネルギー量を持っている。決意さえすれば。わたしは自然と同格である。

  止めてくれどんどん人が好きになる  むさし

  俺の指すり抜け俺が落ちて行く  〃

誰かに止めてもらわなければ止まらない加速する「人を好きになる」エネルギー。俺の指をすり抜けていく落下する「俺」エネルギー。この句集タイトル『亀裂』があらわすように、〈わたし〉の「亀裂」からエネルギーが噴き出す。

それは〈わたし〉を取り巻く環境エネルギーも、そうだ。

  率爾ながらあなた文字化けしてますよ  むさし

  ブログの端をダチョウの群れが横切った  〃

「あなた」は「文字化け」し、「ブログの端」を「ダチョウの群れ」が横切る。わたしにも亀裂があるが、わたしの周囲にも亀裂が入り、あちこちからエネルギーがほとばしる。

  眉間から飛び出してゆく戦闘機  むさし

  胃袋がマグマ溜まりになっている  〃

〈わたし〉の身体はもはや〈わたし〉の身体ではない。それはエネルギーの通過点であり溜まり場である。あるときは、わたしの「眉間」が「戦闘機」の空母であり、あるときはわたしの「胃袋」は「マグマ溜まり」となっている。《わたしの身体はわたしに貢献しない》。

  おーいおーいと指紋の渦の真ん中で  むさし

エネルギーをいちばん感じるときってどんなときだろう。それは発熱しているときではないか。つまり、エネルギーが吹き出し、循環しはじめたときだ。

  帽子からはみ出している導火線  むさし

むさしさんの句は、わたしを、周辺を、わたしの身体を、そっとしておかない。エネルギーを循環させるために、ありとあるところに亀裂をはしらせる。そこから思いがけないエネルギーを引き出す。

  空即是色あんたはわたし手を挙げろ  むさし

ところで、わたしたちが人生の最後にエネルギーを噴き出すのはいつだろう。

死ぬとき、だ。

でも、死ぬときにも、エネルギーはわたしたちを忘れない。エネルギーはわたしを忘れないでいてくれる。わたしが死ぬまさにその瞬間、月エネルギーが、わたしを訪れる。

  死ぬときは月を吐くかもしれないな  むさし


          (『亀裂』東奥日報社・2014年 所収)

続フシギな短詩138[奈良一艘]/柳本々々


  ひとときは鯖缶その後モアイ像  奈良一艘

短詩の読解が一般にそうだと思うのだけれども、特に現代川柳を読むことっていうのはとても難しいことなんじゃないかと感じている。なにが難しいかというと、〈わかりそうで・わからない〉ところが難しい。〈わからない〉だったら問題は、ない。あきらめがつくので。

でも、〈わかりそうで・わからない〉のだ。広瀬ちえみさんのところでも少しはなしたけれど、川柳はそういうところを何度も何度も連打しているように思う。〈~しそうで・~しない〉ところを。

最近私は「伝達性」「共感性」「意味性」というテーマを与えられたことがあって、この三つでみてみると、わりあい、川柳というものは〈わかりやすくなる〉んじゃないかという気もした。ちょっとやってみよう。

まずは「伝達性」なのだけれども、私はこれは〈ショック〉ととらえてもいいと思う。たとえばピカソの絵をみたときに、なんかわけがわからないんだけれども、ショックを受ける感じってあったりしますよね。そういうのを「伝達性」といっていいんじゃないかと思うんですよ。たとえば電車に乗っているときにふいに手をにぎられるとか。そういうことです。

で、一艘さんの句なのだが、「鯖缶」から「モアイ像」への飛躍がある。これはちょっと〈ショック〉だと思う。とつぜん「モアイ像」っていわれると、なんだ? ってなる。たとえばこれが、

  ひとときは抹茶その後カモミールティー

とかだったらショックは受けない。お茶が好きなひとなんだなあ、で終わりである。ところが一艘さんの句は「鯖缶」から「モアイ像」へと飛躍した。ここにこの句の〈伝達度〉がある。

じゃあ「共感性」はどうだろう。

  ひとときは殺人その後残虐無道

だったらどうだろう。「殺人」をわれわれはめったなことではしない(ルイス・キャロルが言うようにわれわれは弱い存在だからしてしまうこともあるかもしれない。でも、まあ、しない。倫理に悖るんで)。倫理的に共感できないのではないか。たとえばまた絵の例を出すが、クールベの「世界の起源」という絵がある。絵は女性の裸の下半身でまるまる満たされ、絵のまんなかには女性器が写実的に描かれている。これが〈世界の起源〉という意味はわかる。ショック=伝達度も大きいだろう。しかし、共感できるだろうか。なんでこんなものをこんなていねいに、と思うひともいるのではないだろうか。男性がみるのと、女性がみるのとでは違うだろう。こどものいる女性と、こどものいない女性がみるのもまた違うだろう。

「共感性」はそのひとが〈どこ〉にいるかで異なるのだ。で、一艘さんの句だが、「鯖缶」はたぶんみんなが知っている。で、ほとんどのひとが、たぶん、味を思い出すこともできるだろう。「モアイ像」もたぶんみんな学校で学んだだろう。こうした〈食べ物〉や誰もが知っている〈文化アイコン〉を埋め込んだことがこの句の〈共感度〉になっていると私は思う。もちろん、鯖が嫌いなひとは共感しないかもしれない。でもそれは殺人ほどには強い反感でもないだろう。わたしたちは食べ物に対してそうそう倫理的判断はしないのだから(もちろん、する場合もある。牛が宗教上食べられない国もある)。

現代川柳には食べ物や流通している文化アイコンを埋め込んだ句が多いが、私はそれらを確保することで共感度をあげているんじゃないかと思う。

さいごに「意味性」についてみてみよう。ちなみに「意味性」を絵で例にとれば、ラッセンの絵がいちばんいいと思う。ピカソをみて、「これいったいどんな意味?」と思うひとはいるけれど、ラッセンの絵をみて「意味がわからない」というひとはあんまりいないと思う。もちろん解釈はいろいろあるだろうけれど、まあ素敵でゴージャスなきらきらした風景のなかでイルカがこれでもかと楽しく躍動的に跳ねているのをみて、ここには不幸しかない、と意味をとるひとはあんまりいないだろう。ラッセンの絵はわかりやすいのだ。

で、一艘さんの句。

  ひとときはXその後Y

この構文は、わたしたちは意味がとれる構文である。

  ひとときは悲しいその後でも元気

とか。わたしたちがふだん使える構文だ。でもこのXとYをいじっていくことで、意味性も変化していく。難易度があがるのだ。現代川柳はちょっと容赦なくここに「鯖缶」や「モアイ像」をいれてくる。だから、あまりにもとつぜんすぎて驚くひともいるかもしれない。これ意味わかんないよ、と。でも、ふだんワンダーな世界に暮らしてるひとは、こういうこともあるよね、って思うかもしれない。そういうぶっとんだ世界にひとはときに暮らすことだってある。ある時期は鯖缶ばかり食べていたのに、とつぜんモアイ像に熱中しだしてしまったとか。〈わかろう〉とすれば〈わかる〉ことができる句でもある。

こんなふうに「伝達性」「共感性」「意味性」の三つのレベルで短詩(短いことば)をみてみると、意外にいろんなことがわかる場合があるのではないだろうか。

これはふだんの読書でも使えるはずだ。たとえばシャーロック・ホームズの「バスカヴィル家の犬」を例にとろう。

「伝達性」:えっ、犬が光るの! 魔物なの? なんで! なんかすごい! なんでか知りたい。この事件どうなってんの!

「共感性」:犬、近所歩いてるし、昔飼ってた経験があるから、別にイギリスの犬だからって、なんとなくわかるよ。犬みたことあるし、さわったことあるし。

「意味性」:あっ、そうかあ、こういう理由で犬が光ってたんだ。なるほど。ふんふん。ミステリーだし、日本語の翻訳もあったし、ドラマでもみてたし、わかりやすいなあ。いろんな意味のアプローチができるんだもの。

  白桃の果肉の産毛 卑怯だよ  奈良一艘


          (『おかじょうき』2017年3月号 所収)

2017年6月28日水曜日

続フシギな短詩137[山川舞句]/柳本々々


  怒怒怒怒怒 怒怒怒怒怒怒怒 怒怒と海  山川舞句



中7の「怒怒怒怒怒怒怒」は正しくは逆さまになって印刷されている。鈴木逸志さんによればこの舞句さんの句が高田寄生木賞を取ったときに選者の次の評があったという。

  3・11を一句で表現すればこうなる、これは人の怒りではなく、人に対する海の怒りであろう。特に中七の怒の連発には逆巻く海の怒りが込められている。それにしても津波の音を「怒」で表現できるとは、思ってもみなかった作者の発見である。川柳が強い詩歌として前進するキッカケとなるだろう。

そのとおりだと、おもう(ちなみにこの評は私が調べたところによれば渡辺隆夫さんの言葉である)。

ここでは少し違った視点からこの句を読み直してみたい。

〈怒り〉というものの伝達不可能性(表象不可能性)の視点から。

たとえばこの句を虚心に読むとどうだろう。とりあえずものすごく怒っている句だと言えるだろう。語り手はほんとうに怒っている。だから怒を連打している。それはよくわかる。

だがもし中の7音が逆さま表記ではなく、ふつうの表記だったらどうだろう。どれだけ怒を連ねても、〈ただ珍しい〉ものとして即座に「コピペ」されるだろう。これだけ語り手が怒っているのに、「コピペ」する者はまったく手間をかけずにコピーし、ペーストし、こんな面白い句があるんだよと伝えるだろう。

しかし、それでいいのだろうか。怒り、ってそういうものなのだろうか。

舞句さんの句では中7の「怒」がぜんぶ逆転している。それは、〈打ち込めない〉。舞句さんの句の怒りは舞句さんの句のなかにある。それは移動も転写もできない。そして、それは印字されるたびに、そのつど・そのたびに、あらたに生成されるだろう、いろんな濃度で、いろんな大きさで、いろんな文字間隔で、いろんなフォントで。

この句の怒りとはそういうものではないか。そのつど、そのたびごとにしかみいだしえない怒り。かんたんに近づかないでくれという怒り。かんたんに処理しないでくれという怒り。

ひとの普遍的な怒りだ。

わたしは短詩における記号操作というものは実はそういうアナログな機能があるのではないかと思っている。句をハイテクにしていくのではなく、もっとローテクにしていくための。

怒るということは、とても手間がかかることだ。しかし手間とは、怒りなのだ。あなたも手間をかけろ、というのが、怒りなのだ。かんたんに私の怒りを転送されては困るのだ。それだけのことが、起きていたのだ。

  類似品注意と類似品が言う  山川舞句  


          (「山川舞句作品(広瀬ちえみ抄出)」『杜人』254号・2017年6月号 所収)

続フシギな短詩136[広瀬ちえみ]/柳本々々


  開けたら閉めるなんにも見ていない  広瀬ちえみ

カワヤナギ君「なんにも見ていない、ってどういうことなのかなあ。でもなんか見ていそうだな」

ナンニモ博士「ああいいところに気づいたね。『開けたら閉める』って書いてあるから語り手はきっとなにかを見たうえで「なんにも見ていない」ってあえて語ったんだろうね。じぶんは見たつもりはないって。つまり、見ているんだけれど・見ていないっていうそういう見ることのサンドイッチのようなところにある句なんだね」

カワ「あ、そうかあ。

  ああでもねちらっと見えたモコモコの  広瀬ちえみ

  白くって丸くて秋に生まれるそう  〃

ってこの連作は続いてゆくんだけど、でもいったいその「ちらっと見えたモコモコ」がなんなのかはわからないんだなあ。「白くって丸くて秋に生まれる」こともわかるのに」

博士「ああいいところに気づいたね。現代川柳は前も言ったんだけれども、たぶん、ものごとの周辺をていねいに語りながらも、そのどまんなかを名指さないことによって成立してしまっている不思議な文芸なんじゃないかと思って。でもなんでそんなことになってるのかわたしにもよくわからないんだよ。ただ、現代川柳っていうのはとっても名詞の世界と深い関係を結んでいて、しかもその名詞がうまく機能していないところに現代川柳の味がありそうなんだ。名詞の機能不全の世界に」

カワ「あ、そうかあ。

  道なりにどこかで眠りながら行く  広瀬ちえみ

これも誰が・なにが眠るかはなんでもいいのかあ」

博士「ああいいところに気づいたね。たぶんだから川柳って述語的世界観が肥大化した世界なんだとも、思う。述語的世界観=動詞の世界観をどんどん太らせていったときに、なにか不思議な世界がうまれてしまうことがわかったんだね」

カワ「なんでそんなことになっちゃったんだろ。どうして。なんでなんだろ。なんでなの」

博士「ああいいところに気づいたね。うーん、なんでなんだろ。わたしはね、サラリーマン川柳の差異化じゃないかと思ったんだ。違いをうみだすためにそうしたんじゃないか。サラリーマン川柳はよく、夫は、とか、課長とか、妻は、とか主語の世界だよね。名詞の世界なんだ。その名詞がどうこうする、その名詞にどうこうする、だからその名詞のトホホ、アハハ、の世界なんだと言える。名詞がはっきりした世界なんだ。でも詩性川柳はそのサラリーマン川柳とは別の方向にいくために、述語のほうの世界をふくらましていったんじゃないかな。名詞や主語に限定されない世界観を」

カワ「ああいいところに気づいたね」

博士「だから詩性川柳って、名詞を手に入れられなくしたところから始まってるんじゃないかな。もちろん、一概には言えないんだけれど。たとえば樋口由紀子さんの川柳は名詞の世界の関節が外れてゆくふんいきなんだ。

  明るいうちに隠しておいた鹿の肉  樋口由紀子

でもこの樋口さんの句、もちろん「鹿の肉」っていう名詞がすごく大きいんだけれども、その「鹿の肉」を〈どうしたか〉っていうのがとても詩性川柳的だと思うんだ。「明るいうちに隠しておいた」んだよね。そのことによってこの「鹿の肉」が通常の名詞として機能する部分が微妙に外れてしまう」

カワ「そして大事なことはいったい誰が・なにが「隠した」のかわからないってことなんだな?」

博士「えっ、あっ、ああ、いいところに気づいたね。そうなんだ。まるで「鹿の肉」が述語のように働くんだよ。不穏なかんじがでてくる。だからサラリーマン川柳は名詞の世界だから、あんしんできるんだ。終えることができるんだよ。妻は鬼みたいとか夫はゴミみたいとかね。述語が安定するんだ。でも詩性川柳は名詞の関節がびみょうに外れていて終えることができないんだよ」

カワ「そうおもうんだな」

博士「うん。そう、おもう」

カワ「こりゃあ知ったらまずい世界だぞ、博士。かえれなくなる」

博士「そうさ」

  戻れないけれどどうぞと森番は  広瀬ちえみ  


          (「開けたら閉める」『杜人』254号・2017年6月 所収)

2017年6月27日火曜日

続フシギな短詩135[村井見也子]/柳本々々


  少し猫背になってやがて近くにいる  村井見也子

よく現代川柳は〈問答〉の構造から解釈されることが多い(これはもともと川柳という文芸が題を与えられてそこに答えを〈付〉けることから来ている、「問」われて「答」える)。たとえば、

  薔薇を切る日はネクタイをする  小池正博

これを〈問答構造〉でみてみると、

  問い:薔薇を切る日は?

  答え:ネクタイをする。

ということになる(ちなみにこうした問い+答えのような構造的連なりの分析としては、小池さんの川柳を連句の圧縮から分析した浅沼璞さんの考察がある。参照『俳句・連句REMIX』東京四季出版、2016年)。

たとえばこないだの、

  悲しくてあなたの手話がわからない  月波与生

も、

  問い:悲しくて?

  答え:あなたの手話がわからない。

そもそもある題を与えられてそれに応じて句をつくるというのは現代川柳では今でも盛んなので〈問答構造〉で読み解けるものもたしかに多いのだけれど、ときどき、現代川柳の性質として、〈問答〉の外部をゆくような〈ぼうっとした認識〉を描く現代川柳がある。私はそれもまた現代川柳の醍醐味なのではないかと思って、気にしている。たとえば以前取り上げた佐藤みさ子さん。

  生まれたてですとくるんだものを出す  佐藤みさ子

〈答え〉というよりはむしろ〈問い〉にもなっている。なんなのか、と思う。くるんだ「生まれたて」を出されてどうすればいいのか。或いはこれはもう〈答え〉なのかもしれない。〈答え〉られてしまったから〈答え〉られないのかもしれない。でも、「生まれたてです」と問いをつきつけられてもいる。目の前に「出」されて。やけに具体的なのにやけに抽象的でもある。具体的にぼうっとしている。

もういつもそうなので断らなくていいのかもしれないが、長い遠回りをしたが、村井さんの掲句。

  少し猫背になってやがて近くにいる  村井見也子

とっても具体的だ。どんなふうに〈それ〉がわたしに近づいてきたが、とても詳細に、ていねいに、描写されている。まず〈それ)の伸びていた背が「少し猫背」になった。それからしばらくは〈それ〉は「少し猫背」のままでいたのだが、しばらく時間がたって〈それ〉は「やがて」わたしの「近くに」やってきた。そして、今、〈それ〉はわたしの「近くにいる」。

でも、なにが?

〈それ〉って、なんなのだ。

非常に具体的なのに、非常に抽象的だ。

みさ子句と同じように、「生まれたてです」といわれたものが、「やがて近くにいる」ものが、わかんないのだ。

わかんないんだけれど、《切実なのだ》ということはわかる。だってすごくていねいに描写されているから。でも、わかんないのだ。

  雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁  斉藤斎藤

現代川柳ではもしかしたら「のり弁」という答えを出さないんじゃないか、とも思う。七七は「のり弁」であり世界の答えなのだが、その「これはのり弁」を現代川柳は手に入れられず、しかしその手に入れなさを《ぼうっとした認識》として昇華した。ていねいなぼうっとした認識として。

現代川柳は、ていねいに、ぼんやりしている。

わたしは、とても、そんな、き、がする。

  食べて寝てこわいところへ降りてゆく  村井見也子


          (「荒れじまい」『月見草の沖』あざみエージェント・2017年 所収)