2017年6月23日金曜日

続フシギな短詩131[Sin]/柳本々々


  ビリビリと剥がされてゆくコンビニのおでん  Sin

Sin さんの川柳を読んでいると、ある現代川柳の志向性のようなものが見えてくるのではないかと私はおもう。

たとえば掲句。「コンビニのおでん」が「ビリビリと剥がされてゆく」のだが、ここで語り手が着目しているのは「剥がされてゆく」ときの「ビリビリ」とした〈擬音〉であり、「コンビニのおでん」の内実ではない。それが、おいしいか、まずいか、安いか、高いか、そう言ったことはどうでもよいことである。

また、「コンビニのおでん」が貼り紙のように剥がされるものなのかどうかといったこともとくに問題ではない。現代川柳の語り手たちはそんなことにいちいち驚きはしない。「コンビニのおでん」という商品物を指し示す記号物=〈概念〉が「剥がされ」るときに、語り手が知覚しているのは「ビリビリ」である。

わたしはここには現代川柳の語り手のある顕著な特徴がしっかりとあらわれているのではないかと思う。その1、世界や概念のルールの変更に驚かないこと。その2、内実ではなく、外郭を浮き彫りにすること。

「コンビニのおでん」が剥がされてもそれは驚くべきことではないし、むしろ「コンビニのおでん」を語るときに現代川柳の語り手は「コンビニのおでん」が貼り付けてある〈外〉としての外部を語るということである。

これをこんなふうに言い換えてもいいかもしれない。現代川柳がやっているのは基本的に〈概念を剥ぐこと〉であると。

  そうやって机は使うもんじゃない  Sin

この句では「じゃあどうやって使ったらいいの」は決して語られない。ということは、〈どう〉机を使っても、この句は「そうやって机は使うもんじゃない」と発話し続けるということだ。だからこの句のコンセプトをあえて言うならこうだ。《机の概念を剥ぐこと》。

現代川柳は概念を剥ぐ。概念を与えない。付与しない。暴力的に剥ぎ取っていくだけだ。だから現代川柳はなにも生み出さない。むしろ〈生み出さない〉ことを生み出す。

だから現代川柳はいつも「さいご」までは行かない。いやもし行くとしたらとってもチープなものを《あえて》「さいご」にもってくる。〈すかす〉ことで終わらせないのである。だからどっちでも意味は同じことなのだが、現代川柳にはいつもふたつのエンドが用意されているだろう。

「さいごまでいけな」い超越的エンドか(「呪文」=ファンタジー)、とってもチープな世俗的エンドか(「消費税」=世俗)。

  さいごまでいけなかったのはじゅもんのせい  Sin
  盗撮の最後に映る消費税  〃

          (『おかじょうき』2016年4月 所収)

続フシギな短詩130[パパ(ほんだただよし=本多忠義)]/柳本々々


  ふんもえさもどちらでもいい子が迫る木陰で喘ぐ羊の鼻に  パパ(ほんだただよし=本多忠義)

「父親の視点からの短歌のみを収めた」ほんだただよし(本多忠義)さんの近刊歌集『パパはこんなきもち。~こそだてたんか~』。

特徴的なのは、著者プロフィールの著者名が「パパ」になっていることだ。これは短歌史において初ではないだろうか。

つまり私はこういうことだと思うのだ。ほんださんは、みずからの作者性の個性をさしおいたとしても「パパ」性の方を重視し貫いたのだ、と。私は「パパ」とはこういうものではないかと思った。〈わたし〉を捨てようと思えば捨てられること。それが「パパ」だ。

ところが「パパ」は、すべてを投げ捨ててただ「パパ」でいるわけではない。「パパ」の表現というものがそこには立ち上がってくる。「パパ」だけができる表現が。

掲歌をみてほしい。ここには言説が混じり合う様子がうかがえないだろうか。「ふんもえさもどちらでもいい子」という語り口は〈こどもの言説〉である。こどもの視点に寄った語り口だ。「パパ」はこどもの内面に入り込んでいる。しかし「迫る木陰で喘ぐ羊の鼻に」は〈大人の言説〉である。「木陰」や「喘ぐ」などは〈こども〉の言説ではない。これは大人の内面である。

この歌では〈こどもの言説〉と〈大人の言説〉が混じり合っているのだ。パパの言説とはそういうものではないだろうか。

パパが立っている位置性というのは、こどもの内面に寄り添いながらも、そのこどもをまなざしているパパとしての内面も同時に成立させる。それが〈パパ〉なのではないだろうか。

ほんださんが「パパ」という語り手になったとき、ほんださんは〈パパ言説〉を発明した。それは、こどものことばと大人のことばが混じり合った〈パパのことば〉だ。

わたしたちは、わたしたちのいま・ここにしか立てない。でもそのいま・ここでわたしたちはあたらしいことばのつむぎ方をはっけんすることができる。

いまは、いつも、とおくだ。

でも、わたしたちはしゃぼんだまのようなそれをつかまえ、かきとめる。

かきとめて、いまを、うたにする。

  たまちゃんのパパの気持ちが分かるほどきらめく娘の頭のシャボン  パパ(ほんだただよし=本多忠義)


          (『パパはこんなきもち。』書肆侃侃房・2017年 所収)

続フシギな短詩129[月波与生]/柳本々々


  悲しくてあなたの手話がわからない  月波与生

私は2013年の秋から川柳と短歌を投稿し始めたのだが、そのときネットで現代川柳においてどう活動していくかを模索しながら日々精力的に実作されていたのが月波与生さんだった。私は月波さんがいる「おかじょうき」に興味をもってその後「おかじょうき」に入った(でも「おかじょうき」の句会に一度も出席したことがないし、「おかじょうき」の方々にいまだお会いしたこともない。そういう川柳人もここにいます)。

その頃、『川柳マガジン』で月波さんのある句をみて急いで書き写した。掲句である。

それは「時事川柳」のコーナーに投句されたものだった。2014年の頭のことだ。でも、今、2017年にこの句をみて「時事川柳」だとわかるひとがいるだろうか。

わたしは、そこに、惹かれた。

「時事川柳」という枠組みで、「時事」をこえた句をつくっているひとが、いる。つまり、時間とともに成長する句を。

じゃあこの句の時事性とはなんだったのか。とてもインパクトのあるニュースだったから覚えているひともいるかもしれないけれど、南アフリカのネルソン・マンデラ大統領の追悼式でデタラメ手話通訳をしていたひとがいたのである(2013年12月のニュース)。彼はまあとりあえず適当に手をふりまわして、でたらめに手話をしていた(ある意味、通訳というよりは彼は手の表現者だったと言える。パフォーマンス・ハンド・アーティスト)。

手話はでたらめだった。だから手話を知っているひとたちがテレビでそれをみてすぐに気づいた。あの手話はでたらめだ、あいつの手話はなにをいっているのか《わからない》と。

この突然ニュースとして時事にあらわれた〈わからなさ〉を月波さんは「時事川柳」として句に組み込んだ。

そのとき大事なことは月波さんが「時事川柳」によくある〈トホホ〉や〈怒り〉や〈アハハ〉の枠組みを用いなかったことだ。

ここにあるのは、〈悲しみ〉である。しかも一般的な誰かの悲しみではない。今、手話を受けている〈わたし〉の〈悲しみ〉である。

わたしはあまりに悲しんでいて、あなたの手話がわからない。泣いているのかもしれない。あまりにもショックで視界がおぼろなのかもしれない。あなたのことを見る気力さえもうないのかもしれない。ほんとうに、わたしは、かなしい。ほんとうにかなしいとき、言葉がつたわるのかどうかという問題がここにはある。

わたしたちは悲しいときも、その悲しみを言葉にしなければならないときがある。しかし、ほんとうにひとが悲しいときに、コミュニケーションができるのだろうか。それは、〈でたらめ〉にならざるを得ないではないのだろうか。

そしてそれはわたしたち人類が滅びるまで、ずっと、ずうっと、続くのだ。わたしたちは、まだ死すべきにんげんだから。わたしたちは死をうけとめてかなしくならざるをえないし、コミュニケーションの不可能性に直面せざるをえないから。

つまり、月波さんは人類の〈時事川柳〉を描いたとも言える。人類のニュースなんだ、これは。人類の時事なんだ。

人類の時事川柳というものがあるんだ。

だから、私はいそいで書き写した。これを見落としてはいけないと思ったから。わたしは、まだ、たぶん、どんなにかなしくても、まだすこし、いきていかなければならなかったから。

  にんげんになりたいものは手をあげて  月波与生


          (「尾藤三柳 選・時事川柳」『川柳マガジン』2014年2月号 所収)

続フシギな短詩128[山下一路]/柳本々々


  とつぜんのスーパーアメフラシ父さんの見る海にボクは棲めない  山下一路

以前、

  たぶん親の収入超せない僕たちがペットボトルを補充してゆく  山田航

という短歌をみてから、短歌と〈失意〉の関係が気になっている。

たとえばこの歌では「ペットボトルを補充してゆく」と語り手は〈労働〉に従事している。ところが〈労働〉に従事してなお「親の収入超せない僕たち」と〈失意〉なのである。

例えばこんな有名な近代短歌を思い出してみる。

   たはむれに
   母を背負ひて
   そのあまり軽きに泣きて
   三歩あゆまず  石川啄木

ここでは親の「あまり軽き」という〈軽さ〉が〈私〉の「三歩あゆまず」という〈失意〉になっている。これは〈私〉が自発的に発している〈私の失意〉である。もっと言えばこの失意は〈母〉のものではなくて、〈私〉のものだ。私が手にできている〈失意〉だ(母は私の失意なんて気にしないかもしれない)。近代短歌は失意を自分もものにできている。

山田さんの歌の場合はこの啄木とは逆に親の〈重み〉が失意になっている。ここで「親」と「僕たち」という名称が使われていることに注意しよう。それは「母」でもない。〈背負う私〉でもない。「親」という普遍的な上の世代を代表する名詞と「僕たち」という〈今〉の世代を代表する名詞。これは〈わたし〉の問題なのではない。この失意は、〈全体〉としての〈構造的な失意〉なのである。

だから、山田さんの歌では〈失意〉を〈わたし〉は手に入れることができない。「僕たち」の〈失意〉は誰のものにもならない〈失意〉でありその〈失意の喪失〉こそがこの歌のほんとうの〈失意〉でもあるのだ。私は近代と現代の差異はこの〈手に入れなさ〉にあるのではないかと漠然と思う。失意さえも、もう、手に入れられない。「ペットボトルを補充してゆく」という〈仕事〉が、〈わたしの希望の補充〉に結びつかない。

  こころよく
  我にはたらく仕事あれ
  それを仕遂げて死なむと思ふ  石川啄木

「こころよく/我にはたらく仕事」があるかどうかが問題なのではない。たとえそれがあったとしても「親の収入超せない」という構造的問題に突き当たってしまうかもしれないこと、またそういう問題を抱えても「ペットボトルの補充」がなんの補充にもならなかったように、「仕遂げ」ることも「死」ぬこともできないような状況が山田さんの歌のシーンなのではないか。だからもし願うとしたらこうだ。「構造にはたらく仕事あれ」。

長い遠回りをしたが、実は山下さんの歌で山田さんの歌をあげたのには理由がある。それは、山下さんの近刊の歌集『スーパーアメフラシ』の解説を山田さんが書かれているからだ。山田さんは山下さんの歌の方法論をこう指摘する。

  「重み」よりも「苦み」を演出する方法論を、この『スーパーアメフラシ』という歌集では一貫して採用している。消費主義社会に取り込まれた個人たちの実存のどうしようもない軽さを、そして軽いからこその苦い哀しみを、あくまで捉えようとしている。
  (山田航「解説」『スーパーアメフラシ』青磁社、2017年)

この山田さんの解説は、たぶん、山下さんの「スーパーアメフラシ」の歌をみてみるとよくわかる。山田さんの歌は先ほど述べたように〈構造的重み〉があったが、山下さんの歌では「父さんの見る海にボクは棲めない」と「父さん」や「ボク」という名称を採用することで〈わたしの苦み〉が出る。啄木歌の軽さでも山田歌の重みでもない、〈父/私〉という構造的な問題が喚起されながらも、「父さん/ボク」という〈私の言説〉に落とし込んでいく〈苦み〉。それは軽いのでも重いのでもなく、苦かったのだ。

だから「アメフラシ」なのではないか。アメフラシとは、なんなのか。腹足綱後鰓類の無楯類に属する軟体動物である。しかしそれは適切ではない。海のなめくじのようなぐにゃぐにゃしたかたつむりようななめくじのような、しかも紫色の粘液のようなものを握れば放出するのがアメフラシである。

私はこのアメフラシに〈苦み〉の象徴性があるように思う。アメフラシは「母」や「ペットボトル」と比べ、私たちからは微妙な距離感がある。それは軽くも重くもない。アメフラシを噛んでみたことはないけれど、美味しそうでもない。苦そうではある。たぶん噛むと苦いだろう。口のなかが紫の液体でぐちゃぐちゃになるだろう。しかも「スーパーアメフラシ」だから、わたしたちが出会ったこともない「アメフラシ」なんだろうと思う。それは「父さん」が見たことのない風景であり「海」だったのだろう。奇天烈奇怪な。

「海」という言葉で構造的問題が喚起されながらも、この歌の「父さん」と「ボク」と「スーパーアメフラシ」は〈ここ〉にしかいない。啄木歌の母と、山田歌のペットボトルに挟まれた、〈苦い〉としか言えない状況を「ボク」は引き受けているのではないか(ちょっと私は今なんだか森見登美彦の小説を思い出している。構造に翻弄されながらも〈私〉の苦みを引き受けていくこと)。

山下さんの歌集はこうした絶妙な〈失意〉が蔓延している。「スーパーアメフラシ」が失意として組み込まれたように、「アズマモグラ」、「向日葵病」、「キイロスズメバチ」や「おばさん」が失意と共に組み込まれていく。

  このままなにも知らずにボクタチは滅んでしまうアズマモグラさ  山下一路

  生まれつきアゴから上を明るいほうへよじられている向日葵病  〃

  膨らんだおしりから汁をえんがわに引き摺っているキイロスズメバチ  〃

  二駅目で座れたのに目のまえにおばさんが立つ。死ねとばかりに  〃

〈失意〉を〈私の失意〉にするためには文法がある。それを山下さんの短歌は教えてくれる。

わたしたちは、今この時代にあって、失意を〈練習〉しなくてはならない。

          (「スーパーアメフラシあらわる」『スーパーアメフラシ』青磁社・2017年 所収)

2017年6月21日水曜日

続フシギな短詩127[疋田龍乃介]/柳本々々


  700枚の閉ざされたあなたが
  書いた長編スピーチ文の中の湯船にすら
  簡単におぼれてしまっている自分が
  いることへの僕は毎日可愛がって
  可愛がってしていた犬と
  ゆく末をサイコロの目と睨みあい
  決断している朝
  唱えるように
  いぬがひ、げのがん、  疋田龍乃介「犬がひげのがん」

この疋田さんの詩が収められた詩集『歯車 vs 丙午』の栞文のなかで渡辺玄英さんがこんなふうに書かれている。

  言葉は言葉であるかぎり、完全に意味から逃れることは出来ない。しかし、詩は、言葉が逃れられないはずの意味から自由になれる瞬間を可能にする。
  (渡辺玄英「迂回して虹を」)

詩は、意味から自由になれる瞬間がある。たしかに詩を読んでいるとそう感じるときがある。しかし、《なぜ》そう感じることができるのだろう。

例えば疋田さんの上の詩をみてほしい。

この詩においては「が」が意味をたちあげようとすることを非常に〈邪魔〉してくることに注意したい。たとえば詩の一行目の「あなたが」がこれからの一節の主語なのかと思いきや、三行目に再び「自分が」と出てくる。じゃあこれが主語なのかと安心しようと思ったせつな、その「自分が」は「いることへの僕は」と「僕は」に回収されてしまう。

どうも、この詩においては、〈が〉の磁力のありかたが、おかしい。〈が〉が出てくるとまるで砂鉄を集めるように、言葉の磁場が変容する。

とりあえず「僕は」が主語でよさそうなのだが、すぐさま、「可愛がって/可愛がってしていた犬と」と再び〈が〉の近辺の磁場がゆらいでいる。わたしたちがふだんのシンタックス(文の立ち上げ方)では〈しないやり方〉で文がたちあげられている。

なんでこんなことになったんだろう。

だんだん、詩を読んでいると理由がわかってくる。

引用の最後の一行に、「いぬがひ、げのがん、」と語られている。ここからまだまだ詩は続くのだが、この「いぬがひ、げのがん、」に注意したい。この詩のタイトルは、「犬がひげのがん」だが、語り手は「犬がひげのがん」とまとまった言葉の意味として把捉しようとはせず、「いぬがひ、げのがん、」とすでに意味のまとまりを手放している。ということは、この語り手は、意味単位で文章を構成していくというよりは、「が」単位で語りを構成していくかもしれないということを表している。

このあとこの詩は「げのがん、げのがん、」という言葉や「犬ヶ髭」という言葉を見出していく。やはり、〈が〉から発想されていく造語である。

つまりこの詩は〈意味〉でわかろうとすると、返り討ちにあうかもしれなくて、語り手が〈が〉の磁力によって、文章という磁場を変容させようとしているんだ、と読もうとすることによって読める詩かもしれないのだ。

私は以前、詩とは語っていくうちに、みずから形式を発見していくものだと述べたけれど、詩とはもうひとつ大事な役割がある。語りながら、言葉の磁力や磁場をそのつどそのつど変容させていく役割だ。詩力(しりょく)とは、磁力(じりょく)でもある。

  いつも客席から彩るような
  かるがもがな可能なら
  かもとかもとか
  たとえばさような
  さようならのような
  叩き割っても結び合わされる
  これが世界なのかも、虹の裏かもしれないな
   (疋田龍乃介「直結の虹」)

ことばは実は大事にしなくていい。たたきわったって、いい。

言葉を叩き割ると、おどろくことに、結び合わされるものがある。言葉はタフだから、叩き割っても叩き割っても、言葉はこわれない。こわれないので、私たちは「これが世界なのかも、虹の裏かも」という言葉の裏側にまわりこむことができる。ただそれをふつうの感覚でやってしまうと、わたしたちはあっち側に行ったまま〈帰ってこられなくなる〉かもしれないので、わたしたちはその行為に名前をつけた。

詩、と。

          (「犬がひげのがん」『歯車 vs 丙午』思潮社・2012年 所収)

2017年6月17日土曜日

続フシギな短詩126[吉井勇]/柳本々々


  かにかくに祗園はこひし寝(ぬ)るときも枕の下を水のながるる  吉井勇

加藤政洋さんの『モダン京都 〈遊楽〉の空間文化誌』(ナカニシヤ出版、2017年)を読んでいたら面白い指摘があった。

上の吉井勇の歌は有名な歌で短歌のアンソロジーなどを読んでいるとよく眼にする歌である。たぶん「枕の下を水のながるる」という比喩が現代的でいまだに有効だからじゃないかとも思う(ちなみに枕って音響装置的役割をすることが本当にあるのだ。たとえばマンション暮らしをしていると枕に耳をつけて眠ると下の階の話し声が聞こえたりする時もある。枕の下には世界が広がっている)。

で、加藤さんが指摘しているのは、この吉井の歌と谷崎潤一郎の歌の比較である。谷崎潤一郎は著作の中でこの吉井の歌を引用している。ところが谷崎は〈まちがって〉引用しているらしいのだ。

  吉井勇の歌に、「かにかくに祗園はうれし酔ひざめの枕の下を水の流るゝ」と云ふ吟詠があるのは、……
  (谷崎潤一郎「青春物語」)

吉井の歌の第2句・3句の「こひし寝るときも」が、谷崎引用バージョンでは「うれし酔ひざめの」になっているのだ。

吉井勇の歌では「こひし」だった箇所が、谷崎が引用した歌では「うれし」になってしまった。この谷崎の〈引用間違い〉によってなにが言えるだろう。

  「恋し」は、距離を前提する語句だから…、今はもうそこにいないという空間的な次元と、時間的な事後性とを含意する。つまり、恋しい《祗園》を離れている状態でうたわれているものとみるべきであろう。
  (加藤政洋、同上)

だから吉井の歌の語り手は、祗園から離れている。ところが谷崎の歌の「うれし」は、

  酔いの醒めるのが夜半であれ、明け方であれ、あるいは翌朝であっても、その場の満足感をうたっている
  (加藤政洋、同上)

だから谷崎の引用歌の語り手は、《祗園そのものの場》にいることになる。

つまり、わたしは恋しい、と、わたしは嬉しい、の語り手の位置性の違いである。恋しいというひとは離れた場所にいるが、うれしいというひとは今・そこにいる。

  吉井は祗園《で》ではなく(no-where)、祗園《を》うたった。それに対して、谷崎の「酔ひざめ」には、「今・ここ」性がある(now-here)。
  (加藤政洋、同上)

谷崎にとってこの歌は、〈今・ここ〉的な歌だったのだ。

この加藤さんの指摘からわかることはなんだろう。

わたしは別に引用を間違えることを推奨するわけではない。でも、引用を間違えたとき、そこにはなんらかの〈当事者性〉が入るということは考えてもいいのではないかと思う。〈わたし〉や〈あなた〉の問題として。

短歌の引用は、よく間違えるし間違えられる(私もできるだけ気をつけているのだがやはり間違えることがある)。間違った引用は直さなければならないが、直す時にあなたがその歌の引用の〈当事者〉としてどうして〈そう〉間違ったかを考えてみてもいいかもしれない。あなたが〈だれ〉であったのかを。

わたしは昔、木下龍也さんの「鯛飯タイムマシン」の歌(ラップ)を「蛸飯タイムマシン」と〈まちがえ〉てこんなことを言ったことがある。

  たぶん自分に鯛飯文化がなかったんだとおもうんですよ。たこめししかしらなかったっていう。それでそのときのことを歌にしたら蛸飯タイムマシンになったんですよ。でもたぶんあの場にいないとまちがいはおこらないじゃないですか。なんかだからそういう体験の歌なんだとおもって。その場にいるからこそ間違いっておこるんです。そう、おもったんですよ。
 (「鯛と蛸」『きょうごめん行けないんだ』食パンとペン、2017年)

何度も言うが間違いは正当化されることなくちゃんと直さなければならない。それをふまえた上で、でも〈間違ったじぶん〉がどうして〈間違った〉のかも考えてみてもいいかもしれない。それはあなたが、そのとき・そこに・あなたとして・そういうかたちでしかいられないかたちで・いた、ということにもなるかもしれないから。

わたしたちは別に短歌でなくても、日々、だれかの、テレビの、ネットの、ほんの、まんがの、えいがの、言説を引用している。でも引用されていくうちに、引用者の〈当事者性〉が塗り重ねられていく。わたしたちは歴史的な存在だから、そこにわたしたちの今・ここが塗り重ねられる。

引用者は透明な存在ではない。いや、わたしたちは透明じゃない。どんなに透明であろうとしても、あなたは透明ではない。そこにはかならず〈あなた〉がいる。その〈あなた〉にときどき出会ってみてもいいんじゃないか。そう、おもうんだけど。


          (「祗園はうれし酔ひざめの……《祗園新橋》の強制疎開」『モダン京都 〈遊楽〉の空間文化誌』ナカニシヤ出版・2017年 所収)

2017年6月14日水曜日

DAZZLEHAIKU4 [森澤程]渡邉美保



鯉跳ねる音の数秒夏銀河  森澤程


あっ鯉が跳ねた。その一瞬の水音を聴きとめたとき、作者は何をしていたのだろうか。どこにいたのだろうか。いろいろなシチュエーションが考えられる。どんな場合であれ、その数秒間の水音は、確かなものであり、夏の夜の静けさと、鯉の存在を浮かび上がらせる。澄んだ大気の中、空には銀河がゆったりと広がっている。
「鯉」と「夏銀河」の組み合わせにより、空間は一挙に広がりと奥行きを持ち始める。「鯉」から「銀河」への飛び方は、一見唐突なようで、どこか繋がっている。
鯉の跳ねる水音を聴いたその刹那、作者は銀河のほとりに立っていたのかもしれない。無数の星々がばらまかれた広大な銀河。その中で鯉が小さな点となって泳いでいる光景。鯉の寂寥感は、それを見ている作者の寂寥感でもあるだろう。


  鯉を抱く夢のつづきの夏の水

  真夜中の方から来たり錦鯉

  小雨から緋鯉の模様抜け出しぬ


いずれも同句集中の鯉の句。現実と異空間の間を行き来している鯉の姿は美しく、寂しげだ。


〈『プレイ・オブ・カラー』2016.10 ふらんす堂〉

2017年6月10日土曜日

続フシギな短詩125[高橋順子]/柳本々々


  いつも誰かの電話が気になっていたこと
  何もしなくてもいい一日があったこと
  暗くなるまで詩を書いたこと
  横着だと責めない男たちと
  野山を歩いたこと
  晩ごはんをぬいたこと
  いつもご破算にできると思っていたこと
  さようなら  高橋順子「いつも誰かの」

高橋順子さんの詩集に『時の雨』がある。48歳でふいにぶつかるように思いがけなく出会い結婚した小説家の車谷長吉との生活が軸に描かれたものだ(私は以前、この〈生活〉のことをこのフシギな短詩で車谷長吉の側から書いた)。高橋順子は詩集の「あとがき」でこんなふうに書いている。

  晩い結婚の二年四ヶ月後、連れ合いが強迫神経症を発病しました。…ものに怯える家人は、私に対してもまた怯えたのでした。私たちは自由に息をすることができなくなり、緊張の日々を過ごしました。 連れ合いの書く小説には髪の毛一すじの狂気が宿っていることに私は無意識であったわけではありません。それは、文学だと思っていたのです。生活とは別次元のものだ、と。ところが或る日、文学が生活に侵入してきてしまった。日常が非日常の霧におおわれてしまった、ともいえます。そのとき、人はどうするか──。 生活を強引に文学にしてしまうこと。自分を全力で虚の存在と化し、文学たらしめること。 
  (高橋順子「あとがき」『時の雨』青土社、1996年)

上に引用した「いつも誰かの」という詩が収められたこの詩集『時の雨』は「あとがき」から解釈すれば、〈車谷長吉との生活〉を描いたものなのだけれど、私はこの詩集を〈二人〉というユニットをとことん詩によって考え抜いた詩集として読んでもいいのではないかと思う。

ふたり、で生きるとはどういうことなのか。ひとりじゃなくて。

たとえばそれは「いつも誰かの」〈わたし〉であった〈わたし〉が自分から〈失われ〉てゆくことだ。ひとりだった私の〈いつも誰かの〉に焦点化された生活は、ふたりになった私の〈あなた〉へと再焦点化されていく。あなたは、わたしから、なにもかもを奪っていくだろう。二人で生きるとは、そうした劇的な経験だから。

  俺、ときどき思うんだけど、恋愛をするという行為は、人が一杯いる中で二人きりになろうとする行為じゃない? だから、恋愛は良いことなんだけど、もっと大きな目で見れば、ほとんど2人で破滅しようという行為に近いなと思って。絶対、その2人だけでは成立しないものが生まれてくる。「そのことを知っていて尚、なぜ人は恋愛をするのか?」というのを考えることがある。
  (岩松了「対談:岩松了×若手写真家 第1回●中村紋子/世間に対してどう立ち向かっていくか?」)

すなわち。

いつも誰かの電話が気になっていたことが失われ(不特定関係の喪失)、何もしなくてもいい一日が失われ(不特定時間の喪失)、暗くなるまで詩を書くことが失われ(不特定表現の喪失)、横着だと責めない男たちと野山を歩くことが失われ(不特定気ままの喪失)、晩ごはんをぬくことが失われ(不特定生活の喪失)、いつでもできたはずの人生のご破算=リセットが失われる(不特定破壊の喪失)。

こうしたおびただしい喪失をくぐり抜けながら、「いつも誰か」になれる〈わたし〉を失っていく経験、同時に、「いつも誰かの」〈わたし〉になれる〈わたし〉を失っていく経験。それが、〈ふたり〉で生きるということだ。

この詩のすべての行末が「こと」で終わりになっていることに注意しよう。そして最後にこの詩が「さようなら」で終わっていることに注意しよう。

「こと」への「さようなら」の詩なのだ。〈ふたり〉で生きるということは、〈ことの終わり〉でもあるのだ。

自分が〈こうこうこうしたい〉をコト化しようとするとき、それに疑義や異議を挟む〈あなた〉が出てくる(これはこのフシギな短詩の千春さんの回でも書いた)。それが二人で生きてゆくときの〈あなた〉である。

だから、二人で生きるわたしは容易にコト化できず、コトの挫折を味わうようになる。わたしはコト化できない人生のなかに入っていくが、しかしそれは新しい人生の価値観になるかもしれない。この世界にはわたしが容易にコト化できないものもあるんだと。わたしと暮らす〈あなた〉はそれを教えてくれるから。あなたはわたしに豊かな挫折をくれる。

ふたりで生きるとはそういうことなのだ。

恋愛だってもしかしたらそうかもしれない。わたしとあなたは、たゆまずコト化できないコトにふたりで取り組む。きょうはこんな新しいコトがあったね。未知だったね。コト化できなかったね。すっごいね。とんでもないね。こんな詩を思い出してもいいね。

  はてしのない場所にいた
  草いっぽんはえていない
  だれもいない
  こころぼそい場所に

  おとなになって
  世の中は秩序だち
  緑豊かな涼しい場所で
  私は仲間と安心を得た
  それなのに、また

  あなたに会って
  こんなに遠くまで来てしまった
  草いっぽんはえていない
  こんな荒れはてた
  こんなさびしい
  こんな茫々とひろがるはてしのない場所に
  また
  (江國香織『江國香織詩集 すみれの花の砂糖づけ』)

コト化できない場所、「はてしのない場所」、「草いっぽんはえていないだれもいないこころぼそい場所」、「こんなに遠」い場所、「荒れはてた/さびしい/茫々とひろがるはてしのない場所」、それがコト化できない場所だ。でも、そのコトがすべてうしなわれた世界には〈あなた〉がいる。なんで?

わたし〈たち〉は〈ふたり〉だから。

  枯れ草のような しようもない男につかまった」
  踊りやまなかった枯れ枝が風に飛ばされとばされ
  土をつかんでじっとしていた枯れ草と出会った のだそうだ
  時の雨の中で
  せわしい雨だれの中で
   (高橋順子「時雨」『時の雨』)

「草いっぽんはえていないだれもいないこころぼそい場所」で「枯れ枝」が「枯れ草」に出会う。「中で」とこの詩は文の〈途中〉で終わっている。体言=名詞=コトではなくて。コトがぐずぐずしたなかに、これから、出会ったふたりは、入っていくのだ。すべてを〈途中〉化させる世界に。雨の降り続ける時の雨の世界に(雨とは、〈途中〉の象徴なのだ)。

この詩集『時の雨』はこんな詩でおわる。

  精神病院からの帰り道
  休耕田の真ん中に生えている一本の
  椎の木の下に坐り
  おにぎりを食べた
  野漆と耳菜草の名をおぼえた
  模型飛行機をとばしている人たちがいた
  川で釣りをしている人たちがいた
  いつかきっとこの木のことを思い出すだろう
  二人ともまだ若かったころ
  木の下に坐ったことがあった と
   (高橋順子「この木のことを」同上)

コトにお別れを告げたこの詩集『時の雨』は「この木」という世界でたったいっぽんの「木」を発見する。二人をめぐる「この木」。それは二人のコトである。その「木の下」で「おにぎり」を食べた。「おにぎり」=名詞=コトを手に入れた。野漆と耳名草の「名」をおぼえた。コトを手に入れた。模型飛行機を飛ばし川で釣りをしているひとたちという思い出を手に入れた。コトを手に入れた。そうして「いつかこの木」という「いつか誰かの」に代わるものを「二人」で発見した。「木の下に坐ったことがあった」と。

そういうかたちで、二人は、コトを手に入れた。

  「あなたの部屋に行ってみてください」
  と連れ合いになる男が言う
  ……
  似過ぎているものをもっていることを
  喜ばずに惧れた
  知らなくてもいいものを
  知ってしまうことがあるだろう そのときは
  野の花がわたしたちを見ていてくれますように
   (高橋順子「あなたの部屋に」同上)

          (「いつか誰かの」『現代詩文庫163 高橋順子詩集』思潮社・2001年 所収)

2017年6月4日日曜日

続フシギな短詩124[樹萄らき]/柳本々々


  淡々と・・・淡々なんていかねーよ  樹萄らき

この「・・・」と「いかねーよ」というのがらきさんの川柳の文体の特徴になっているだが、この「・・・」というのはよくマンガの吹き出しなどで見られる。

たとえば小説だと三点リーダは「……」となるのだが、マンガの吹き出しなどでは「・・・」と大きくなっていることがある(マンガの表記の自在さによるものかもしれない。マンガの言説は独特の記号使用の自在さがある)。

  まいったねえ右も左も寸足らず  樹萄らき

  おまえさん脛にキズもつお人好し  〃

  未来は過去の延長じゃない・・・けどさ  〃

「いかねーよ」「まいったねえ」「おまえさん」「けどさ」。ここには独特の〈姉御言葉〉のような文体がある。

川柳人の小池正博さんがよく現代川柳におけるキャラクター論を論じているのだが、一般的にキャラクター論はコンテンツとして論じられる。たとえばAというキャラクターが連作のなかにあらわれ、さまざまな句のなかでAのキャラクターがつくられていく。

ただらきさんの川柳はそうしたキャラクター論の死角をつくものではないかとも思っている。

らきさんの川柳にはキャラクターはいない。連作のなかでそれらを一手に引き受けていくキャラクターとしての主体はない。

ところがこの連作の文体には、キャラがある。姉御的・マンガ的なキャラだ(伊藤剛さんの本に詳しいが、キャラクターとキャラの違いを今私なりに簡単に述べると、キャラクターは形であり、キャラとは性である。キャラクターとしてののび太の形はドラえもんの原作の中だけだが、のび太のキャラはダメ・軟弱・0点・寝るとして原作内を越えてさまざまに飛び火する。「あんたって、ほんとうにダメで、のび太みたいだね」と友人や恋人から言われたとしたらあなたのキャラはのび太なのだ。キャラクターは原作内に留まるが、キャラが強ければ強いほど原作を越えてあちこちにキャラクターは移動することができる。キャラクターとキャラは違う。これを川柳論に生かすとどうなるだろうか)。

  「キャラの強度」とは、テクストからの自律性の強さというだけではなく、複数のテクストを横断し、個別の二次創作作家に固有の描線の差異、コードの差異に耐えうる「同一性存在感」の強さである。この「横断性」こそが、重要な点なのである。
  (伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』)

文体がつくりあげていくキャラというものがある。というよりも、文体は、ときどき、キャラになる。キャラクターとして見えにくいので焦点化できず論じにくいのだが、キャラとして文体化されていくものがある。

そういうキャラ的な文体というのは、どう考察したらいいのだろう。

私は、実は、キャラ=文体というのは、わかりにくい、言語化しにくいだけで、けっこう飛び火しているのではないかと、思っている。

そのヒントを樹萄らきさんの川柳はくれる。ここには私はなにか新しい川柳論のヒントがあるのではないかと思っている。だから、考え続けていこうと思っている。いつか、続きを書くために。

ただ今はそれをどう言葉にすればいいかちょっとわからない。そう、まだ、今は。

だから、今回は異例なのだけれど、「ちょっとわからない」という結論で終えてみようかと、おもう。

ちょっとわからない。


          (「そよ風」『川柳の仲間 旬』211号・2017年5月号 所収)

続フシギな短詩123[柳本々々]/柳本々々


  ジャイアント馬場それも霊体がマーライオンを通過する  柳本々々

以前、ある川柳のイベントで話をするとして十句選を提出してくださいと言われ、私は次の十句を提出した。

 (テーマ【世界の終わりと任意の世界】)
  みんな去って 全身に降る味の素/中村冨二
  頷いてここは確かに壇の浦/小池正博
  ファイティングポーズ豆腐が立っている/岩田多佳子
  オルガンとすすきになって殴りあう/石部明
  妖精は酢豚に似ている絶対似ている/石田柊馬
  人差し指で回し続ける私小説/樋口由紀子
  中八がそんなに憎いかさあ殺せ/川合大祐
  おはようございます ※個人の感想です/兵頭全郎
  毎度おなじみ主体交換でございます/飯島章友
  菜の花菜の花子供でも産もうかな/時実新子

テーマをつけろとは言われてなかったのだが、テーマもつけて提出した(私はときどきそういうなんだかずるいリークみたいなことをすることがある)。

で、最近、川柳作家の川合大祐さんと電話していて、川合さんが、あのやぎもとさんの、マーライオンの句、あれ、過剰ですね、と言われたときに、あれっ、そう言えば、川柳って〈過剰性〉ってキーワードになるんじゃないの、と思ったりした。「過剰性、そう言えば」と私は言う。

「前に、川柳のイベントで提出した十句も今思えば、ぜんぶ、過剰性ですよね。『みんな去って/全身に降る』という演劇的過剰性、「頷いてここは確かに」という肯定の過剰性、『ファイティングポーズ豆腐』という豆腐の過剰性、『殴りあう』という武闘的過剰性、『似ている絶対似ている』という認識の過剰性、『回し続ける私』という私の過剰性、『さあ殺せ』という自虐の過剰性、『※個人の感想です』という相対化する過剰性、『主体交換』という主体の過剰性、『子供でも産もうかな』というジェンダーの過剰性。なあんだ、ぜんぶ、過剰性なんだ」と私は言った。それから「はぁはぁ」と。少し息も切らずに過剰性過剰性しゃべったので。

ああ、あああ、あ、ああ」と川合さんも言う。「いやあのね、やぎもとさんの句の『それも』ってのが、なんか気になったんですけどね、それも過剰性ですよね、まあなんでもかんでもこの句ぜんぶ過剰性なんですけどね」

あーあ」と私は言った。気を抜いていたので変に伸びたが、勘違いされるかもしれないので、すぐに「ああ」と言い直した。「どうしてね、川柳が過剰性を引き受けるようになったのかは謎なんだけど、たとえばね、アルチュセールが、フーコーが、バルトが、ラカンが、クリステヴァが、もし現代川柳を読んだらね、すごく喜んだじゃないか、嬉しがったんじゃないかって思うときがあるんですよ。それはなんだろう。主体の過剰なぐずぐず感、あらゆることの過剰性かなあ、でもそれってまさにポスト構造主義じゃないですか、ポスト構造主義は構造主義にはなかった主体の過剰性、構造からぐずぐずはみ出していくなにかを見つけた。現代川柳ってポスト構造主義のぐじゅぐじゅしてる感じと実はとっても親しいような気がするんです」

「たしかにね、構造主義と定型は似ていて、でもその構造主義=定型から、なんだかはみ出ていくものも定型は同時にかかえもつ場合がありますよね。それってポスト構造主義的な部分に近づいていくのかもしれない」と川合さん。

「ああ、そうですよ。ほんと、そうだ。うーん、だから現代思想とか文学理論で現代川柳って読み解きやすいのかな。私は実は現代川柳の感想を書くとき、ぜんぶ、現代思想か文学理論の枠組みでしか読んでないんですよ。だから最初は怒られてパンチされたりするのかなとか思ってたんですよ。でもとくに怒られはしなかった。それって現代川柳がそういう部分をかかえてたからなんですかね」とわたし。

「ああ、そうですよ。そうかもしれない」と川合さん。

そうですよね。そうなのかな」とわたし。

そうだなあ、そういうことなのかなあ」と川合さん。

そう。うーん。あ、ああ。そう」とわたし。

しかし、これ以上、無駄に会話も続けられない。さすがに「そう」「そう」だけで電話もしていられない。フシギな短詩ではなく、フシギな会話になってしまう。

「そう」を「それでは」に切り換えて、「はい。失礼します」と言って私は電話を切った。

電話を切って、正座して、部屋のまんなかでぼんやりして、絨毯をひとさしゆびで無駄になぞりながら、ああ、そうだ、あの人のことも言えばよかった、と私は思った。わたしはいつも大事なことを忘れてしまう。ジャック・デリダのことだ。

  デリダは大胆にも、ハイデガーの現-存在とは電話の呼びかけに応えて「電話に出ること」だという。人間は存在にではなく、電話というテレコミュニカシオンに拘束され、電話に釘づけにされ、電話へと運命づけられているわけである。
  (上利博規『デリダ』)

私は電話に手をかける。いやもう夜遅いしさすがに今度でいいよくだらないことに電話を使うなよ、とデリダの声。はい(oui)、と私。

  怒られたらどうしようと思う眠る  柳本々々

          (「暗い人間」『川柳の仲間 旬』211号・2017年5月号 所収)