2017年7月20日木曜日

DAZZLEHAIKU6[長谷川晃]渡邉美保



夜半の夏畳の縁を獏が行く   長谷川晃


初めて動物園のバクを見たとき、「これが夢を食べる動物なのか」と妙に感心した。しかし、動物園のバクと「悪夢を食べる霊獣」の獏とは別物であるらしい。
小さな目と間延びした鼻(吻)、奇妙な格好のこの動物は、本来、森林ややぶで暮らし、薄明・暮時に活動、草や芋、果実を食べるが、近年、絶滅の危機にあるという。
さて、掲出句の獏、「夜半の夏」「畳の縁」とくれば、やはり、悪夢を食べる獏なのだろう。とはいえ、映像としては、動物園のバクの姿が浮かぶ。
真夏の夜ふけ。夢なのか、夢から覚めた瞬間なのか、現実と夢の間に畳の縁を行く獏を見た。獏は何処へ行くのだろう。想像上の霊獣と言われる獏であれば、畳の縁が、異質な世界からの通路になっているかのようで、「畳の縁を行く」という表現に妙にリアリティを感じる。
悪夢を食べてくれる獏には、どこへも行かず、ここにとどまって欲しいものである。これから見るかもしれない悪夢を食べてもらいたい。悪夢は夜ごとに増えていく。


(句集『蝶を追ふ』邑書林2017年所収)

2017年7月15日土曜日

続フシギな短詩142[北山まみどり]/柳本々々


  歩かなきゃパセリが森になる前に  北山まみどり

北山まみどりさんともろとさんの句集『川柳と少女マンガと…』。まみどりさんの句にもろとさんが少女マンガタッチの絵をつけている。

少女マンガ言説とは、なんだろうか。どうしてわたしたちはある絵をみたとき、この絵は〈少女マンガ的〉だとわかるんだろう。

それがこの句集を読んでいると少しわかってくる。まず少女マンガは、多彩な背景のスクリーントーンの使用が、怒濤のように移り変わっていく少女の内面の推移をあらわしている。少女の内面を描いているのは背景の特殊なスクリーントーンの効果による(つまり、背景に特殊なきらきらなどを入れるとギャグタッチの画でも少女マンガ言説にすることができる)。

少女はコマという背景全体で人生を生きている。だから、好きな相手(それが男性である場合もあれば女性である場合もある)から否定されるときは、この背景全体が否定されることになる。少女マンガにおいては、読者はコマ全体とともに少女の内面に寄り添うことになる。

この背景の推移が少女の内面に同調していくことにまみどりさんの句はよくあっている。掲句をみてほしい。

「パセリが森に」と背景の推移が描かれている。「パセリ」ならまだ引き返せるが、「森」のように奥深い背景になったらもう引き返せない。だから「歩かなきゃ」ならない。この「なきゃ」も少女マンガ言説に同調している。「~しなきゃ」と思うのは、想いを寄せる仮想の相手がいてその相手に価値観をあわせることを意味している。

  笑わなきゃもっとどんどん太らなきゃ  まみどり

笑顔も身体も〈見せる〉ためにあるのだ。見られるわたしは、わたしを見るあなたを意識する。そこに「~なきゃ」という内面が生じる。

ためらい、迷い、しかしそのなかで、複数の「~しなきゃ」を見つけながら、それをなんとか実践しようとしながら、少女は〈あなた〉を振り向かせようとする。

逆に言えば、〈あなた〉がふりむいてしまうと、到達してしまうと物語は終わるので、少女マンガは迷いつづけねばならない。どんなに平坦な、らくな、かんたんな、まっすぐの道でも、あなたがいるおかげで、迷いつづけねばならない。

  真っ直ぐな道で迷ってばかりいる  まみどり

          (『川柳と少女マンガと…』2011年 所収)

続フシギな短詩141[三宅やよい]/柳本々々


  眩しくて鶫がどこかわからない  三宅やよい

田島健一句集『ただならぬぽ』にはこんな句がある。

  鶫がいる永遠にバス来ないかも  田島健一

なんでバスが来ないように感じられるんだろう。「鶫がいる」からだ。でもなんで鶫がいるとバスが来なくなっちゃうんだろう。

とにかくこの句からわかることは、「鶫」を通して〈アクセスできないなにか〉を感触してしまうことだ。ふれられないものを感触してしまうこと。それを〈現実界〉といってもいいが、ともかくふれられないものにアクセスしてしまいそうになっている。

やよいさんの句をみてみよう。語り手は「鶫」をみようとした。ところが「眩しくて/わからない」。この句では「鶫」そのものにアクセスできない。鶫自体がふれられないもの、アクセスできないもの、現実界になっている。

「鶫」というのはなぜこんなにもアクセスしがたさを生み出すんだろう。ちょっとふしぎである。

というか、ですよ。今これを読んでいるあなた、この「鶫」って読めますか? 私は読めなかったんですよ。

以前、イラストレーターの安福望さんからこんなふうに聞かれたことがある。「この『鶫』ってなんて読むんですか?」
わたしは答えた。「ああ、これは、「ひよどり」って読むんですよ」「へえ、そうなんですね。なるほどなあ」

でも、ぜんぜんちがったのだ。ひよどり、なんかじゃないんだ。ぜんぜんちがうんだ。違ったことはまだ安福さんには伝えていないので安福さんはいまだこの「鶫」を「ひよどり」と読んでいる。まあそれはそれでいいと思うけれど、でもふつうのひとは読めるんだろうか。私にはわからない。読めないんじゃないかと、おもう。読めますか。

で、あらためて考えてみると、俳句の句集というのは、季語にルビをふらない。これは煩瑣であることを避けるためかもしれないが、そもそも季語というのは、俳句をする人間なら脳内で同期されているデータベースのようなものではないかと思う。だから、わざわざ、そこにルビをふるようなことはしない。それはそもそも共有されているものだからだ(たぶんですよ)。

ところが一般の感覚では、「鶫」は読めない。ひよどり、と読んでいるような人間もいる。この「鶫」という字は季語のアクセスしがたさを象徴していないだろうか。

やよいさんの句のように、なんとなく「鶫」がいることはわかる。「鶫」という漢字は読めなくたって認識はできるんだから。でも、読めない。なんとなく、鳥だというのはわかる。鳥っていう字があるからね。でも、読めない。アクセスできない。読めないということは、この漢字を解凍できないということであり、そこにいるのはわかるのに〈眩しくて/わからない〉ようなものなのだ。

わたしは「鶫」は季語へのアクセスしがたさの象徴なのではないかと思う。認識はできるのだ。「鶫」と。でもその認識できたファイルを解凍できない。ルビがふれない。だから、バスはやってこない。くるかもしれない。でも、やってこないかもしれない。いつか読める日がくるかもしれない。こないかもしれない。

ところで正解はまだ言ってないんですが、鶫って、読めますか?

          (「船団」104号・2015年3月 所収)

2017年7月14日金曜日

続フシギな短詩140[中村冨二]/柳本々々


  では私のシッポを振ってごらんにいれる  中村冨二

しっぽとは、なんなのだろう。

『オルガン』9号・2017年5月号の「座談会 斉藤斎藤×オルガン」のなかに〈しっぽの話〉が出てくる。

  尾のあれば春の闇より目を凝らす  鴇田智哉

人称をめぐる話のなかで鴇田さんがあげたこの句を斉藤斎藤さんは「三人称的私性」だと述べている。

  三人称的一人称というのは「私」を三人称的に、外から見て説明してるということです。たとえば「ぼくは高校生だ」は、文法的には一人称ですが、実質的には三人称ですよね。ふだん高校生は「ぼくは高校生だ」と意識していない。わざわざそう思うのは、自分について客観的に振り返ったり、他人に説明したりするときぐらいです。それと同じで、「尾のあれば」とわざわざ言っているということは、尻尾が生えた「私」を三人称的に意識しているということになりますし、成り代わりというか、もともと尻尾が生えてたんではない感も出てると思うんですね。……で、そういう意味で俳句の「私」はどうしても、三人称的一人称になりがちな気がするんです。
  (斉藤斎藤「座談会 オルガンからの質問状」9号、2017年5月)

もともと尻尾が生えていたなら、尻尾を意識することはない。「尾のあれば」という言説は出てこない。「尾のあれば」という言説が出てくるのは、〈尻尾があるわたし〉を意識して〈三人称的〉に語っているからということになる。〈一人称的〉に語るなら、〈尻尾の意識〉を持つ必要がないからだ。たとえばこう考えてみてもいい。わたしに指があるのでわたしはせっけんをつかむ。こんなふうに意識して、指の意識をもって、わたしたちはせっけんをつかむだろうか。ただ・単に、つかむのではないだろうか。つかむ、ということさえ意識せずに。

ここで「人称」の話をめぐって〈しっぽの句〉が提出されたのが興味深いと思うのだが、〈しっぽ〉とはもともと私たちが持っていないものである。だから〈しっぽ〉にどう言語的対応をしていくかで、人称や主体のバランスが変わってくる。

「尾のあれば」は、「今の私には尾があるので」であり、「尾がないわたし」が想定されている。この「尾のあれば」という言説によって、尾があるわたしを外からみているわたしという三人称的一人称がたちあがる。

ちなみに鴇田さんは「三人称」感とは逆にこの句を「『私が』という主語で読める句であり、作者もそういうつもりで提出しています」と自解している。この「尾のあれば」の唐突な切り出し方は、(あ、わたしにいま尻尾がある!)感もある。(あ、わたしにいま尻尾がある!)で突然語り始めたならそれは潜在的には一人称的一人称とも言える。俳句の短さがその唐突さを用意し、その唐突さが俳句に三人称的一人称だけでは割り切れない微妙な人称性の揺らぎなりショックを与えているとも言える(ただし、鴇田さんの俳句が一般の俳句とは異なり〈人称の微妙な不安さ〉をそもそも抱えているのだとも言えるかもしれない)。

中村冨二の川柳では〈しっぽ〉にどう向き合っているだろう。冨二の句は、「では私のシッポを振ってごらんにいれる」と現代川柳によくある口語体がとられている。口語体なので〈あなた〉に話しかけているのであり、この場合、わたしの発話としての一人称的一人称になっている(ただこれも微妙で発話というのを一人称的一人称にするか三人称的一人称にするかという問題はあると思う)。また「では」という応答の接続詞が入ることにより唐突さもなくなっている。ただし、575定型は破調し音数は長くなっている。口語体の発話である点と、接続詞の準備により、〈一人称的一人称・的〉になっている。

しっぽの話にしては複雑なので、今回のしっぽの話をまとめてみよう。

まず「しっぽ」を私たちは持っていない。だから、しっぽの私を語るとき、わたしたちはその語り方によってさまざまな人称のバランスに分かれていく。

その分かれ方に関しては、どれだけの音数でしっぽを語れるか、またどのような言葉のつなぎ目(助辞、言辞)をもってしっぽを語るかで、三人称的一人称のしっぽの私になったり、一人称的一人称のしっぽの私になったりする。なったりするのだが、どうしても〈他ならない・この人称〉と割り切れないのは、しっぽが〈わたしのもの〉でありつつも〈わたしのものじゃないもの〉だからだと思う。言わばしっぽとは、私のはんぶんはんぶんなのだ。

犬のしっぽ、とか、猫のしっぽ、とかならいいのだが、〈わたしのしっぽ〉となった場合、それは〈わたしのものじゃないもの〉でありつつも〈わたしのもの〉になっている。

谷山浩子「しっぽのきもち」という歌にあるように、「スキというかわりにゆれる」のがしっぽであり(いい歌だ)、それはわたしの身体やわたしのきもちの半分を受け持ちながら、わたしを、半分、ないがしろにしていく。しっぽのほうがわたしを先行するのだ。

だとしたら、しっぽは、〈何〉人称なんだろう。


          (「むだい」『かもしか川柳文庫第二十集・童話』野沢省悟編集、かもしか川柳社・1989年 所収)


2017年7月3日月曜日

DAZZLEHAIKU 5 [長谷川晃]渡邉美保



梅雨真中抜いた歯根の長きこと  長谷川晃


虫歯のせいなのだろうか。痛み出した歯はついに抜くことになる。口の中にある時は歯根のことなどあまり意識していないが、歯の下に隠れている歯根は予想外に長い。抜いた歯を医者に見せられた時の、ちょっとした驚きと屈折。この歯根が歯を支えていたのだという感慨もあったかもしれない。
「梅雨真中」という季語から、この季節特有の鬱陶しさが、歯痛の鬱陶しさを増幅している。
「抜いた歯根の長きこと」しか述べられていないが、歯根の形を思い浮かべると、少しおかしく、少し切ない。そして、歯を抜くに至るまでの疼きや、抜かれる時の緊張感、抜いてしまった後の喪失感(たとえ歯の一本といえども…)や悔恨など、もろもろの思いが想像される。口中には、抜歯の際の麻酔のしびれが、まだ残っているにちがいない。


〈句集『蝶を追ふ』2017・5邑書林収〉

2017年6月30日金曜日

続フシギな短詩139[むさし]/柳本々々


  決めました私自身が吹雪きます  むさし

むさしさんの句集『亀裂』を読んでいると〈わたし〉のエネルギー量というものを考える。ひとはどれだけ〈わたし〉のなかにエネルギーをため込むことができるのだろう。

  踊れ踊れ心が吹雪く手が吹雪く  むさし

掲句によれば〈わたし〉は「吹雪」と匹敵するエネルギー量を持っている。決意さえすれば。わたしは自然と同格である。

  止めてくれどんどん人が好きになる  むさし

  俺の指すり抜け俺が落ちて行く  〃

誰かに止めてもらわなければ止まらない加速する「人を好きになる」エネルギー。俺の指をすり抜けていく落下する「俺」エネルギー。この句集タイトル『亀裂』があらわすように、〈わたし〉の「亀裂」からエネルギーが噴き出す。

それは〈わたし〉を取り巻く環境エネルギーも、そうだ。

  率爾ながらあなた文字化けしてますよ  むさし

  ブログの端をダチョウの群れが横切った  〃

「あなた」は「文字化け」し、「ブログの端」を「ダチョウの群れ」が横切る。わたしにも亀裂があるが、わたしの周囲にも亀裂が入り、あちこちからエネルギーがほとばしる。

  眉間から飛び出してゆく戦闘機  むさし

  胃袋がマグマ溜まりになっている  〃

〈わたし〉の身体はもはや〈わたし〉の身体ではない。それはエネルギーの通過点であり溜まり場である。あるときは、わたしの「眉間」が「戦闘機」の空母であり、あるときはわたしの「胃袋」は「マグマ溜まり」となっている。《わたしの身体はわたしに貢献しない》。

  おーいおーいと指紋の渦の真ん中で  むさし

エネルギーをいちばん感じるときってどんなときだろう。それは発熱しているときではないか。つまり、エネルギーが吹き出し、循環しはじめたときだ。

  帽子からはみ出している導火線  むさし

むさしさんの句は、わたしを、周辺を、わたしの身体を、そっとしておかない。エネルギーを循環させるために、ありとあるところに亀裂をはしらせる。そこから思いがけないエネルギーを引き出す。

  空即是色あんたはわたし手を挙げろ  むさし

ところで、わたしたちが人生の最後にエネルギーを噴き出すのはいつだろう。

死ぬとき、だ。

でも、死ぬときにも、エネルギーはわたしたちを忘れない。エネルギーはわたしを忘れないでいてくれる。わたしが死ぬまさにその瞬間、月エネルギーが、わたしを訪れる。

  死ぬときは月を吐くかもしれないな  むさし


          (『亀裂』東奥日報社・2014年 所収)

続フシギな短詩138[奈良一艘]/柳本々々


  ひとときは鯖缶その後モアイ像  奈良一艘

短詩の読解が一般にそうだと思うのだけれども、特に現代川柳を読むことっていうのはとても難しいことなんじゃないかと感じている。なにが難しいかというと、〈わかりそうで・わからない〉ところが難しい。〈わからない〉だったら問題は、ない。あきらめがつくので。

でも、〈わかりそうで・わからない〉のだ。広瀬ちえみさんのところでも少しはなしたけれど、川柳はそういうところを何度も何度も連打しているように思う。〈~しそうで・~しない〉ところを。

最近私は「伝達性」「共感性」「意味性」というテーマを与えられたことがあって、この三つでみてみると、わりあい、川柳というものは〈わかりやすくなる〉んじゃないかという気もした。ちょっとやってみよう。

まずは「伝達性」なのだけれども、私はこれは〈ショック〉ととらえてもいいと思う。たとえばピカソの絵をみたときに、なんかわけがわからないんだけれども、ショックを受ける感じってあったりしますよね。そういうのを「伝達性」といっていいんじゃないかと思うんですよ。たとえば電車に乗っているときにふいに手をにぎられるとか。そういうことです。

で、一艘さんの句なのだが、「鯖缶」から「モアイ像」への飛躍がある。これはちょっと〈ショック〉だと思う。とつぜん「モアイ像」っていわれると、なんだ? ってなる。たとえばこれが、

  ひとときは抹茶その後カモミールティー

とかだったらショックは受けない。お茶が好きなひとなんだなあ、で終わりである。ところが一艘さんの句は「鯖缶」から「モアイ像」へと飛躍した。ここにこの句の〈伝達度〉がある。

じゃあ「共感性」はどうだろう。

  ひとときは殺人その後残虐無道

だったらどうだろう。「殺人」をわれわれはめったなことではしない(ルイス・キャロルが言うようにわれわれは弱い存在だからしてしまうこともあるかもしれない。でも、まあ、しない。倫理に悖るんで)。倫理的に共感できないのではないか。たとえばまた絵の例を出すが、クールベの「世界の起源」という絵がある。絵は女性の裸の下半身でまるまる満たされ、絵のまんなかには女性器が写実的に描かれている。これが〈世界の起源〉という意味はわかる。ショック=伝達度も大きいだろう。しかし、共感できるだろうか。なんでこんなものをこんなていねいに、と思うひともいるのではないだろうか。男性がみるのと、女性がみるのとでは違うだろう。こどものいる女性と、こどものいない女性がみるのもまた違うだろう。

「共感性」はそのひとが〈どこ〉にいるかで異なるのだ。で、一艘さんの句だが、「鯖缶」はたぶんみんなが知っている。で、ほとんどのひとが、たぶん、味を思い出すこともできるだろう。「モアイ像」もたぶんみんな学校で学んだだろう。こうした〈食べ物〉や誰もが知っている〈文化アイコン〉を埋め込んだことがこの句の〈共感度〉になっていると私は思う。もちろん、鯖が嫌いなひとは共感しないかもしれない。でもそれは殺人ほどには強い反感でもないだろう。わたしたちは食べ物に対してそうそう倫理的判断はしないのだから(もちろん、する場合もある。牛が宗教上食べられない国もある)。

現代川柳には食べ物や流通している文化アイコンを埋め込んだ句が多いが、私はそれらを確保することで共感度をあげているんじゃないかと思う。

さいごに「意味性」についてみてみよう。ちなみに「意味性」を絵で例にとれば、ラッセンの絵がいちばんいいと思う。ピカソをみて、「これいったいどんな意味?」と思うひとはいるけれど、ラッセンの絵をみて「意味がわからない」というひとはあんまりいないと思う。もちろん解釈はいろいろあるだろうけれど、まあ素敵でゴージャスなきらきらした風景のなかでイルカがこれでもかと楽しく躍動的に跳ねているのをみて、ここには不幸しかない、と意味をとるひとはあんまりいないだろう。ラッセンの絵はわかりやすいのだ。

で、一艘さんの句。

  ひとときはXその後Y

この構文は、わたしたちは意味がとれる構文である。

  ひとときは悲しいその後でも元気

とか。わたしたちがふだん使える構文だ。でもこのXとYをいじっていくことで、意味性も変化していく。難易度があがるのだ。現代川柳はちょっと容赦なくここに「鯖缶」や「モアイ像」をいれてくる。だから、あまりにもとつぜんすぎて驚くひともいるかもしれない。これ意味わかんないよ、と。でも、ふだんワンダーな世界に暮らしてるひとは、こういうこともあるよね、って思うかもしれない。そういうぶっとんだ世界にひとはときに暮らすことだってある。ある時期は鯖缶ばかり食べていたのに、とつぜんモアイ像に熱中しだしてしまったとか。〈わかろう〉とすれば〈わかる〉ことができる句でもある。

こんなふうに「伝達性」「共感性」「意味性」の三つのレベルで短詩(短いことば)をみてみると、意外にいろんなことがわかる場合があるのではないだろうか。

これはふだんの読書でも使えるはずだ。たとえばシャーロック・ホームズの「バスカヴィル家の犬」を例にとろう。

「伝達性」:えっ、犬が光るの! 魔物なの? なんで! なんかすごい! なんでか知りたい。この事件どうなってんの!

「共感性」:犬、近所歩いてるし、昔飼ってた経験があるから、別にイギリスの犬だからって、なんとなくわかるよ。犬みたことあるし、さわったことあるし。

「意味性」:あっ、そうかあ、こういう理由で犬が光ってたんだ。なるほど。ふんふん。ミステリーだし、日本語の翻訳もあったし、ドラマでもみてたし、わかりやすいなあ。いろんな意味のアプローチができるんだもの。

  白桃の果肉の産毛 卑怯だよ  奈良一艘


          (『おかじょうき』2017年3月号 所収)

2017年6月28日水曜日

続フシギな短詩137[山川舞句]/柳本々々


  怒怒怒怒怒 怒怒怒怒怒怒怒 怒怒と海  山川舞句



中7の「怒怒怒怒怒怒怒」は正しくは逆さまになって印刷されている。鈴木逸志さんによればこの舞句さんの句が高田寄生木賞を取ったときに選者の次の評があったという。

  3・11を一句で表現すればこうなる、これは人の怒りではなく、人に対する海の怒りであろう。特に中七の怒の連発には逆巻く海の怒りが込められている。それにしても津波の音を「怒」で表現できるとは、思ってもみなかった作者の発見である。川柳が強い詩歌として前進するキッカケとなるだろう。

そのとおりだと、おもう(ちなみにこの評は私が調べたところによれば渡辺隆夫さんの言葉である)。

ここでは少し違った視点からこの句を読み直してみたい。

〈怒り〉というものの伝達不可能性(表象不可能性)の視点から。

たとえばこの句を虚心に読むとどうだろう。とりあえずものすごく怒っている句だと言えるだろう。語り手はほんとうに怒っている。だから怒を連打している。それはよくわかる。

だがもし中の7音が逆さま表記ではなく、ふつうの表記だったらどうだろう。どれだけ怒を連ねても、〈ただ珍しい〉ものとして即座に「コピペ」されるだろう。これだけ語り手が怒っているのに、「コピペ」する者はまったく手間をかけずにコピーし、ペーストし、こんな面白い句があるんだよと伝えるだろう。

しかし、それでいいのだろうか。怒り、ってそういうものなのだろうか。

舞句さんの句では中7の「怒」がぜんぶ逆転している。それは、〈打ち込めない〉。舞句さんの句の怒りは舞句さんの句のなかにある。それは移動も転写もできない。そして、それは印字されるたびに、そのつど・そのたびに、あらたに生成されるだろう、いろんな濃度で、いろんな大きさで、いろんな文字間隔で、いろんなフォントで。

この句の怒りとはそういうものではないか。そのつど、そのたびごとにしかみいだしえない怒り。かんたんに近づかないでくれという怒り。かんたんに処理しないでくれという怒り。

ひとの普遍的な怒りだ。

わたしは短詩における記号操作というものは実はそういうアナログな機能があるのではないかと思っている。句をハイテクにしていくのではなく、もっとローテクにしていくための。

怒るということは、とても手間がかかることだ。しかし手間とは、怒りなのだ。あなたも手間をかけろ、というのが、怒りなのだ。かんたんに私の怒りを転送されては困るのだ。それだけのことが、起きていたのだ。

  類似品注意と類似品が言う  山川舞句  


          (「山川舞句作品(広瀬ちえみ抄出)」『杜人』254号・2017年6月号 所収)

続フシギな短詩136[広瀬ちえみ]/柳本々々


  開けたら閉めるなんにも見ていない  広瀬ちえみ

カワヤナギ君「なんにも見ていない、ってどういうことなのかなあ。でもなんか見ていそうだな」

ナンニモ博士「ああいいところに気づいたね。『開けたら閉める』って書いてあるから語り手はきっとなにかを見たうえで「なんにも見ていない」ってあえて語ったんだろうね。じぶんは見たつもりはないって。つまり、見ているんだけれど・見ていないっていうそういう見ることのサンドイッチのようなところにある句なんだね」

カワ「あ、そうかあ。

  ああでもねちらっと見えたモコモコの  広瀬ちえみ

  白くって丸くて秋に生まれるそう  〃

ってこの連作は続いてゆくんだけど、でもいったいその「ちらっと見えたモコモコ」がなんなのかはわからないんだなあ。「白くって丸くて秋に生まれる」こともわかるのに」

博士「ああいいところに気づいたね。現代川柳は前も言ったんだけれども、たぶん、ものごとの周辺をていねいに語りながらも、そのどまんなかを名指さないことによって成立してしまっている不思議な文芸なんじゃないかと思って。でもなんでそんなことになってるのかわたしにもよくわからないんだよ。ただ、現代川柳っていうのはとっても名詞の世界と深い関係を結んでいて、しかもその名詞がうまく機能していないところに現代川柳の味がありそうなんだ。名詞の機能不全の世界に」

カワ「あ、そうかあ。

  道なりにどこかで眠りながら行く  広瀬ちえみ

これも誰が・なにが眠るかはなんでもいいのかあ」

博士「ああいいところに気づいたね。たぶんだから川柳って述語的世界観が肥大化した世界なんだとも、思う。述語的世界観=動詞の世界観をどんどん太らせていったときに、なにか不思議な世界がうまれてしまうことがわかったんだね」

カワ「なんでそんなことになっちゃったんだろ。どうして。なんでなんだろ。なんでなの」

博士「ああいいところに気づいたね。うーん、なんでなんだろ。わたしはね、サラリーマン川柳の差異化じゃないかと思ったんだ。違いをうみだすためにそうしたんじゃないか。サラリーマン川柳はよく、夫は、とか、課長とか、妻は、とか主語の世界だよね。名詞の世界なんだ。その名詞がどうこうする、その名詞にどうこうする、だからその名詞のトホホ、アハハ、の世界なんだと言える。名詞がはっきりした世界なんだ。でも詩性川柳はそのサラリーマン川柳とは別の方向にいくために、述語のほうの世界をふくらましていったんじゃないかな。名詞や主語に限定されない世界観を」

カワ「ああいいところに気づいたね」

博士「だから詩性川柳って、名詞を手に入れられなくしたところから始まってるんじゃないかな。もちろん、一概には言えないんだけれど。たとえば樋口由紀子さんの川柳は名詞の世界の関節が外れてゆくふんいきなんだ。

  明るいうちに隠しておいた鹿の肉  樋口由紀子

でもこの樋口さんの句、もちろん「鹿の肉」っていう名詞がすごく大きいんだけれども、その「鹿の肉」を〈どうしたか〉っていうのがとても詩性川柳的だと思うんだ。「明るいうちに隠しておいた」んだよね。そのことによってこの「鹿の肉」が通常の名詞として機能する部分が微妙に外れてしまう」

カワ「そして大事なことはいったい誰が・なにが「隠した」のかわからないってことなんだな?」

博士「えっ、あっ、ああ、いいところに気づいたね。そうなんだ。まるで「鹿の肉」が述語のように働くんだよ。不穏なかんじがでてくる。だからサラリーマン川柳は名詞の世界だから、あんしんできるんだ。終えることができるんだよ。妻は鬼みたいとか夫はゴミみたいとかね。述語が安定するんだ。でも詩性川柳は名詞の関節がびみょうに外れていて終えることができないんだよ」

カワ「そうおもうんだな」

博士「うん。そう、おもう」

カワ「こりゃあ知ったらまずい世界だぞ、博士。かえれなくなる」

博士「そうさ」

  戻れないけれどどうぞと森番は  広瀬ちえみ  


          (「開けたら閉める」『杜人』254号・2017年6月 所収)

2017年6月27日火曜日

続フシギな短詩135[村井見也子]/柳本々々


  少し猫背になってやがて近くにいる  村井見也子

よく現代川柳は〈問答〉の構造から解釈されることが多い(これはもともと川柳という文芸が題を与えられてそこに答えを〈付〉けることから来ている、「問」われて「答」える)。たとえば、

  薔薇を切る日はネクタイをする  小池正博

これを〈問答構造〉でみてみると、

  問い:薔薇を切る日は?

  答え:ネクタイをする。

ということになる(ちなみにこうした問い+答えのような構造的連なりの分析としては、小池さんの川柳を連句の圧縮から分析した浅沼璞さんの考察がある。参照『俳句・連句REMIX』東京四季出版、2016年)。

たとえばこないだの、

  悲しくてあなたの手話がわからない  月波与生

も、

  問い:悲しくて?

  答え:あなたの手話がわからない。

そもそもある題を与えられてそれに応じて句をつくるというのは現代川柳では今でも盛んなので〈問答構造〉で読み解けるものもたしかに多いのだけれど、ときどき、現代川柳の性質として、〈問答〉の外部をゆくような〈ぼうっとした認識〉を描く現代川柳がある。私はそれもまた現代川柳の醍醐味なのではないかと思って、気にしている。たとえば以前取り上げた佐藤みさ子さん。

  生まれたてですとくるんだものを出す  佐藤みさ子

〈答え〉というよりはむしろ〈問い〉にもなっている。なんなのか、と思う。くるんだ「生まれたて」を出されてどうすればいいのか。或いはこれはもう〈答え〉なのかもしれない。〈答え〉られてしまったから〈答え〉られないのかもしれない。でも、「生まれたてです」と問いをつきつけられてもいる。目の前に「出」されて。やけに具体的なのにやけに抽象的でもある。具体的にぼうっとしている。

もういつもそうなので断らなくていいのかもしれないが、長い遠回りをしたが、村井さんの掲句。

  少し猫背になってやがて近くにいる  村井見也子

とっても具体的だ。どんなふうに〈それ〉がわたしに近づいてきたが、とても詳細に、ていねいに、描写されている。まず〈それ)の伸びていた背が「少し猫背」になった。それからしばらくは〈それ〉は「少し猫背」のままでいたのだが、しばらく時間がたって〈それ〉は「やがて」わたしの「近くに」やってきた。そして、今、〈それ〉はわたしの「近くにいる」。

でも、なにが?

〈それ〉って、なんなのだ。

非常に具体的なのに、非常に抽象的だ。

みさ子句と同じように、「生まれたてです」といわれたものが、「やがて近くにいる」ものが、わかんないのだ。

わかんないんだけれど、《切実なのだ》ということはわかる。だってすごくていねいに描写されているから。でも、わかんないのだ。

  雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁  斉藤斎藤

現代川柳ではもしかしたら「のり弁」という答えを出さないんじゃないか、とも思う。七七は「のり弁」であり世界の答えなのだが、その「これはのり弁」を現代川柳は手に入れられず、しかしその手に入れなさを《ぼうっとした認識》として昇華した。ていねいなぼうっとした認識として。

現代川柳は、ていねいに、ぼんやりしている。

わたしは、とても、そんな、き、がする。

  食べて寝てこわいところへ降りてゆく  村井見也子


          (「荒れじまい」『月見草の沖』あざみエージェント・2017年 所収)

2017年6月25日日曜日

続フシギな短詩134[囲碁川柳]/柳本々々


  下手だけど桜の下で囲碁を打つ  囲碁川柳

NHK「囲碁フォーカス「ハサまれたら?~小目」」2017年6月25日放送の「囲碁川柳」のコーナーからの一句。

ときどき書いている〈答えは出ないかもしれないけれど書いて考えてみよう〉シリーズ。

不思議なのは、どうして川柳は(短歌も俳句もだが)いろんなものとコネクトする/できるのか、ということだ。

囲碁川柳、シルバー川柳、OL川柳、女子会川柳、オタク川柳、お米川柳、妖怪川柳、ブライダル川柳、節税川柳、プレママ・新米ママあるある川柳、もふもふ川柳、いや、っていうか、なんでもあるのだ。

思い浮かんだ名詞があればそれはすべて「~川柳」とくっつけることができるのだ。

そのうち、短歌川柳俳句川柳という、短歌のあるあるを川柳で詠もうといったものまで飛び出すのではないかと思っているが(ちなみに川柳川柳さんという落語家がおられるのだが「ガーコン」という演題がとても面白い)、どうしてこんなに短詩は言わば〈無敵〉なのだろう。

かつて川柳人の小池正博さんがあるイベントにおいて(たしか)こう言ったことがある。「川柳は近代化に遅れた、というより、近代化できなかった」と。私はここにヒントがある気がする。

川柳が近代化できなかったということはジャンルとして身を立てられなかったということである。明治近代の動力の最大キーワードである〈立身出世〉が川柳はできなかったのだ。

だからNHK短歌やNHK俳句はあっても、NHK川柳は、ない。川柳は、身を立てるほど教育されるべきものではない(と思われている)からだ。

ただそうした未分化性、明治近代を通り越してなお〈赤ちゃん〉でいることができた川柳は、さまざまなものと結びつき、ジャンルをそのつど色変わりさせることができる(出会った人物に即座に同化してしまう人間のフェイクドキュメンタリー映画であるウディ・アレンの『カメレオンマン』を思いだそう。あれは川柳映画でもある)。

以前、福田若之さんがイベントで俳句の困難と川柳の困難の違いはなにか、という質問をたしかされて、私は、NHK俳句は、だいたいみんなの俳句イメージが一致しているからできるのだけれど、もしNHK川柳というものができたときに、川柳イメージはサラリーマン川柳と詩性川柳に大きく分裂しているのでNHK川柳というものをたちあげるとしたら方向性が難しいんじゃないか、そういう違いがあるのではないか、と述べたことがある。

川柳は、もしかしたら、未分化を引き受け、はじめて未分化そのままでジャンルとしてたちあがっていけるものではないかとも思っているのだが、そんなのはいやだ! と声をあげる川柳人もいっぱいいると思う。川柳人だってえらくいたいのだと(もちろんそれはもっともだともおもう)。

思想家のジュリア・クリステヴァは、アブジェクションという、魅力的だがおぞましい未分化なものを排斥する行為を思想としてたちあげたが(ちなみにある俳句の方がクリステヴァのもとで学んでいたことがあると話されていたことがあって私はとても驚いたことがある。大学時代、クリステヴァの本によく勇気づけられていたので)、たとえば牛乳の膜のように主体がはっきりしないものをわたしたちはどこかで憧れながらも遠ざけようとする機制がある。それらを遠ざけ抑圧することによってわたしたちはわたしたちの主体を保つのだ(一度抜けた髪の毛がなんだか不気味に感じられるのはそういう機制があるからだ。わたしたちのものであって・わたしたちのものでないもの)。

しかしなぜ抜けた髪や牛乳の膜のような未分化のものをわたしたちは遠ざけるのか。それは主体と客体がはっきりしないからだ(死体や体液なんかもそう。なにかねばねばぬちゃぬちゃしたもの。だからエイリアンやモンスターなんかもそうだ。ホラー映画なんかはたいていそう。たとえば『リング』の貞子を思いだそう。貞子はかつてはわたしたちだったのに(生者=主体)、いまはあっちにいるひとである(死者=客体)。わたしたちは未分化の貞子をメディアに閉じこめる。それでも貞子はこちらにやってきて、わたしたちの主体を脅かすだろう)。

クリステヴァの考えを通して、未分化かもしれない川柳に近づいてゆくことはできないだろうか。クリステヴァの考え、体液のような記号のどろどろした感じをかんがえることは、わたしは川柳によく合っているような気もしたりするのだが(とくに定型は、クリステヴァのフェノ・テクストに近い気もする。わたしたちはどろどろとかんがえていること(ジェノ・テクスト)を定型という整理された音律(フェノ・テクスト)に落とし込んでいくことで主体化する)。

囲碁川柳から川柳の体液まできた。体液までくることはできたので、今回は、もう、終わりにしようと、おもう(あんまりひととさわやかな日曜の昼に会話しているときに、体液の話しませんよね。おしゃれなランチかなんか食べているときとかに。体液の話は)。

最後にわたしの好きなオタク川柳を。

  デュフフコポォ オウフドプフォ フォカヌポウ  オタク川柳

          (NHK「囲碁フォーカス「ハサまれたら?~小目」」2017年6月 放送)

続フシギな短詩133[中村安伸]/柳本々々


   殺さないでください夜どほし桜ちる 中村安伸

俳句と悲しいについて書いたので、少しそれを押し進めて俳句と傷のようなものについて書いてみたい。

私が俳句と傷について考えるようになったのは、『俳句新空間』の外山一機さんの時評を読んでゆくうちに、である。読み進めていくうちに、このひとは、俳句について《語ろう》としているよりも、俳句について語っていくうちに《傷つこう》としているのではないかと思った。しかも、意図的に(だからある意味、《自傷》である)。

このことにふと気づいたとき私は電車で読んでいた手をとめ、頭をかかえ、じっとした。《俳句が傷つくことがあるのか!》と。私はそれまで俳句が傷とは無縁のものだと思っていたから。

外山さんが評を書くときに意識的に選ぶ「僕たち」や「僕」という主語もそうだと思う。村上春樹もレイモンド・カーヴァーもそうだが、「僕」という主語は傷つく準備を待機する主語なのではないか(外山さんが生成した「僕」の対極をゆく「あたし」主体〈巻民代〉もそうだったのではないか。傷を引き受ける主体だったのではないか)。

外山一機は俳句に〈傷〉というテーマを持ち込んだのではないか。

外山さんは現在『角川俳句』において時評を連載されているが、来月号でこんなことを書いている。

  実際、僕は句集を読んでいて、勝手に傷ついていることがある。
  (外山一機「現代俳句時評7 俳句を不公平に読む」『角川俳句』2017年7月号)

外山一機にとって読むことは傷つくことである。しかしそれを率直に語れる人間がどれだけいるだろうか。

ちょっとまた長い遠回りをしてしまったが、中村さんの句集『虎の夜食』は特殊な構成で成り立っている。俳句の合間合間にフィクションとしての短文が入るのである。たとえば。

  王立図書館の設計図には、収蔵される全ての書籍の題名、著者名等が記されてゐる。収納位置はサイズや厚みなどを考慮して決められてをり、ちやうど千年後に全ての書棚が隙間なく埋まることになつてゐる。
  別冊の著者名牽引で自分の名を探さうとしたとき、誰かに殴られて意識を失つた。
  (中村安伸「一篇の詩」『虎の夜食』邑書林、2016年)

俳句俳句の合間合間にある短文のなかで語り手は「殴られ」ている。こうした〈可傷性〉というのは、掲句の「殺さないでください」と響きあっているように思う。句だけではわからなかった〈傷つく〉風景が短文=散文の導入によって〈具体的・状況的な傷〉になっているのである(散文という形式はシーンを描くため、そもそも形式的傷つきやすさを持っていると言えるかもしれない)。

この短文の前にはこんな句があった。

  黄落や父を刺さずに二十歳過ぐ  中村安伸

「刺さずに」の句と「殴られて」の短文がゆるく〈傷〉の連なりをもっている。

この句集では後に「父」が刺される。

  父を刺せば玩具出てくる文化の日  中村安伸

他にもこんな句が〈傷〉をめぐる句としてあげられるのではないか。  

  はたらくのこはくて泣いた夏帽子  中村安伸

  空をとぶ女の子たちにまもられ  〃

  二人を繋いで沈む手錠が売られてゐる  〃

  切腹にたつぷり使ふ春の水  〃

この句集が〈傷〉をめぐる句集だとは言い切れないが、ある側面からみれば、この句集は〈傷〉をめぐるテーマを抱えているのではないかと思う。先ほども少し述べたが、句の合間に挿入される短文もそうだ。そうした散文形式が句における〈傷口〉にシーンを与える。

この中村さんの句集が取り上げられた現代俳句協会青年部のイベントでは、他に岡村知昭さん、小津夜景さん、田島健一さんの句集も取り上げられたのだが(70年代生まれの四人)、そのどの句集にもやはり〈傷〉をめぐる句があったと思う。

かなり雑に言うけれど「一般」に、個人的に傷ついたひとは短歌に(恋愛/失恋が詠みやすい)、社会的に傷ついたひとは川柳に(階層構造的なトホホを詠む)、傷ついてもその傷を言語化したくないひとは俳句(写生=多方向的認識)に向かうのではないだろうか。

でも、現在、俳句はどうも〈傷〉というテーマを引き込んでいる気がする。

そう言えば、中村さんの句集タイトル『虎の夜食』って、とっても可傷的ではないか! わたしたちは時に人生を大きく間違えば「虎の夜食」になることだってあるのだ(もちろん、できることならなりたくはないが)。しかし中村さんの句集が面白いのは、虎が傷つき「バター」になった〈例のあの姿〉も描いていて、しかも、その〈傷ついた虎〉を育てようとしていることだ。

  バターになつた虎を育てる冷蔵庫  中村安伸

傷というのはもしかしたら治すものではなく、育てるものなのかもしれない。

  「おまえの親たちを殺して食べてしまったことについては、心からすまないと思っているんだよ。でも、わかってほしい。おれたち虎は悪ではないのだ。ただ、こうしなければならないのだ」
  「わかったよ」とわたしはいった。「算数教えてくれてありがとう」
  「なんの、なんの」
  虎たちは行ってしまった。
  (ブローティガン「算数」『西瓜糖の日々』河出文庫、2003年)
  

          (「手錠」『虎の夜食』邑書林・2016年 所収)

2017年6月24日土曜日

続フシギな短詩132[曾根毅]/柳本々々


  立ち上がるときの悲しき巨人かな  曾根毅

ちょっと月波与生さんの川柳で、川柳と悲しみについて考えてみたので、俳句と悲しみについても考えてみよう。

月波さんの川柳は〈わたし〉が悲しがっていたが、まるで川柳と俳句の違いを示唆するかのように今回の俳句では巨人を〈みるひと〉が悲しがっている。巨人が「立ち上がる」その瞬間が、悲しい、と。月波さんの句は〈わからなさ〉が軸にある悲しみだったが、曾根さんの句は〈わかってしまう〉ことが軸にある悲しみである。この「みているひと」は巨人のことを、なんとなく、知っているのだ。巨人に、精通している。

しかし、巨人についてわたしたちが知っていることとはなんだろうか。

巨人俳句と言えば、

  ひんがしに霧の巨人がよこたわる  夏石番矢

という句がある。『ガリヴァー旅行記』のガリヴァーがそうだったように巨人は横たわるものだ。巨人でありながら横たわるからこそ巨人より遙かに低いわたしたちともコミュニケーションができるのだから(たとえば『シン・ゴジラ』でも〈巨人〉であるゴジラを無人在来線爆弾によって〈横たわらせ〉なければ血液凝固剤を注入(コミュニケーション)することができなかったことを思いだそう。あのときはじめて私達はゴジラとコミュニケーションがとれたのである)。

童話「ジャックと豆の木」や漫画『進撃の巨人』、ゲーム『ワンダと巨像』が示唆するように、巨人が「立ち上がるとき」はわたしたちと〈対立〉するときだ。すなわち、ディスコミュニケーションの瞬間なのだ。

だから巨人をみているひとは、わかった。巨人が立ち上がる時それは、かなしい、と。

曾根さんの句には、実はこんなふうに〈動きの結果〉をとらえた句が多い。

  滝おちてこの世のものとなりにけり  曾根毅

まるでやっぱりまたもや血液凝固剤によって凍結され「この世のもの」となった『シン・ゴジラ』のゴジラをなんだか思い出してしまうが、「滝」が「おちて」「滝」でなくなり、「この世のものとな」る。裏返せば「この世のもの」となるまで「滝」はまだ「滝」であり「この世のもの」ではなかった。わたしたちと微分的に関わる「この世の」カテゴリーにあてはまらないものが「滝」だった。「滝」はまだ巨人やゴジラのような〈結果〉にならない〈結果未満〉のものなのだ。

だから曾根俳句のなかで「滝」の対義語は「立ち上がった巨人」である。

結果。

「この世のもの」となってしまう結果。

動いた結果、「この世のもの」となってしまうものたち。

  鶴二百三百五百戦争へ  曾根毅

  この国や鬱のかたちの耳飾り  〃

  燃え残るプルトニウムと傘の骨 〃

「この世のもの」となってしまった「戦争」「鬱」「プルトニウムと傘の骨」。

どの巨人も「立ち上がって」しまったのだ。

巨人とは、わたしたちの閾値をあらわすものなのではないだろうか。巨人がたちがあるとき、それはわたしたちの閾値をこえる。滝は落ちて、わたしたちの閾値をこえる。戦争、鬱、原発事故。どれもわたしたちのふだんの閾値をこえていくものばかりだ。

もしかしたら、「悲しい」の正体とは、〈閾値をこえること〉なのではないだろうか。だとしたら、月波与生さんの「悲しくてあなたの手話がわからない」だって、おなじだったのだ。閾値をこえて「わからな」くなっていたのだ。

曾根さんの俳句をみていて思う。俳句とは閾値をめぐる冒険なのかもしれないと。だから、俳句とは別に感情を無視した詩なのではなく、ときに、おおいに、「悲しみ」といった感情にも関わるんだろうということも。

にんげんにとって、どこまでが「この世のもの」の閾値で、どこからが「あの世のもの」の閾値なんだろう。

仏になれたら、その閾値から、解放されるんだろうか。

もちろん、わたしたちにはそんなことはわからない。でもたぶん、いや間違いなくそうなのだが、俳句は〈それ〉を知っている。

  何処まで釈迦の声する百日紅  曾根毅

          (「『俳句』創刊65周年記念付録「現代俳人名鑑Ⅱ」『角川俳句』2017年6月号 所収)

2017年6月23日金曜日

続フシギな短詩131[Sin]/柳本々々


  ビリビリと剥がされてゆくコンビニのおでん  Sin

Sin さんの川柳を読んでいると、ある現代川柳の志向性のようなものが見えてくるのではないかと私はおもう。

たとえば掲句。「コンビニのおでん」が「ビリビリと剥がされてゆく」のだが、ここで語り手が着目しているのは「剥がされてゆく」ときの「ビリビリ」とした〈擬音〉であり、「コンビニのおでん」の内実ではない。それが、おいしいか、まずいか、安いか、高いか、そう言ったことはどうでもよいことである。

また、「コンビニのおでん」が貼り紙のように剥がされるものなのかどうかといったこともとくに問題ではない。現代川柳の語り手たちはそんなことにいちいち驚きはしない。「コンビニのおでん」という商品物を指し示す記号物=〈概念〉が「剥がされ」るときに、語り手が知覚しているのは「ビリビリ」である。

わたしはここには現代川柳の語り手のある顕著な特徴がしっかりとあらわれているのではないかと思う。その1、世界や概念のルールの変更に驚かないこと。その2、内実ではなく、外郭を浮き彫りにすること。

「コンビニのおでん」が剥がされてもそれは驚くべきことではないし、むしろ「コンビニのおでん」を語るときに現代川柳の語り手は「コンビニのおでん」が貼り付けてある〈外〉としての外部を語るということである。

これをこんなふうに言い換えてもいいかもしれない。現代川柳がやっているのは基本的に〈概念を剥ぐこと〉であると。

  そうやって机は使うもんじゃない  Sin

この句では「じゃあどうやって使ったらいいの」は決して語られない。ということは、〈どう〉机を使っても、この句は「そうやって机は使うもんじゃない」と発話し続けるということだ。だからこの句のコンセプトをあえて言うならこうだ。《机の概念を剥ぐこと》。

現代川柳は概念を剥ぐ。概念を与えない。付与しない。暴力的に剥ぎ取っていくだけだ。だから現代川柳はなにも生み出さない。むしろ〈生み出さない〉ことを生み出す。

だから現代川柳はいつも「さいご」までは行かない。いやもし行くとしたらとってもチープなものを《あえて》「さいご」にもってくる。〈すかす〉ことで終わらせないのである。だからどっちでも意味は同じことなのだが、現代川柳にはいつもふたつのエンドが用意されているだろう。

「さいごまでいけな」い超越的エンドか(「呪文」=ファンタジー)、とってもチープな世俗的エンドか(「消費税」=世俗)。

  さいごまでいけなかったのはじゅもんのせい  Sin
  盗撮の最後に映る消費税  〃

          (『おかじょうき』2016年4月 所収)

続フシギな短詩130[パパ(ほんだただよし=本多忠義)]/柳本々々


  ふんもえさもどちらでもいい子が迫る木陰で喘ぐ羊の鼻に  パパ(ほんだただよし=本多忠義)

「父親の視点からの短歌のみを収めた」ほんだただよし(本多忠義)さんの近刊歌集『パパはこんなきもち。~こそだてたんか~』。

特徴的なのは、著者プロフィールの著者名が「パパ」になっていることだ。これは短歌史において初ではないだろうか。

つまり私はこういうことだと思うのだ。ほんださんは、みずからの作者性の個性をさしおいたとしても「パパ」性の方を重視し貫いたのだ、と。私は「パパ」とはこういうものではないかと思った。〈わたし〉を捨てようと思えば捨てられること。それが「パパ」だ。

ところが「パパ」は、すべてを投げ捨ててただ「パパ」でいるわけではない。「パパ」の表現というものがそこには立ち上がってくる。「パパ」だけができる表現が。

掲歌をみてほしい。ここには言説が混じり合う様子がうかがえないだろうか。「ふんもえさもどちらでもいい子」という語り口は〈こどもの言説〉である。こどもの視点に寄った語り口だ。「パパ」はこどもの内面に入り込んでいる。しかし「迫る木陰で喘ぐ羊の鼻に」は〈大人の言説〉である。「木陰」や「喘ぐ」などは〈こども〉の言説ではない。これは大人の内面である。

この歌では〈こどもの言説〉と〈大人の言説〉が混じり合っているのだ。パパの言説とはそういうものではないだろうか。

パパが立っている位置性というのは、こどもの内面に寄り添いながらも、そのこどもをまなざしているパパとしての内面も同時に成立させる。それが〈パパ〉なのではないだろうか。

ほんださんが「パパ」という語り手になったとき、ほんださんは〈パパ言説〉を発明した。それは、こどものことばと大人のことばが混じり合った〈パパのことば〉だ。

わたしたちは、わたしたちのいま・ここにしか立てない。でもそのいま・ここでわたしたちはあたらしいことばのつむぎ方をはっけんすることができる。

いまは、いつも、とおくだ。

でも、わたしたちはしゃぼんだまのようなそれをつかまえ、かきとめる。

かきとめて、いまを、うたにする。

  たまちゃんのパパの気持ちが分かるほどきらめく娘の頭のシャボン  パパ(ほんだただよし=本多忠義)


          (『パパはこんなきもち。』書肆侃侃房・2017年 所収)

続フシギな短詩129[月波与生]/柳本々々


  悲しくてあなたの手話がわからない  月波与生

私は2013年の秋から川柳と短歌を投稿し始めたのだが、そのときネットで現代川柳においてどう活動していくかを模索しながら日々精力的に実作されていたのが月波与生さんだった。私は月波さんがいる「おかじょうき」に興味をもってその後「おかじょうき」に入った(でも「おかじょうき」の句会に一度も出席したことがないし、「おかじょうき」の方々にいまだお会いしたこともない。そういう川柳人もここにいます)。

その頃、『川柳マガジン』で月波さんのある句をみて急いで書き写した。掲句である。

それは「時事川柳」のコーナーに投句されたものだった。2014年の頭のことだ。でも、今、2017年にこの句をみて「時事川柳」だとわかるひとがいるだろうか。

わたしは、そこに、惹かれた。

「時事川柳」という枠組みで、「時事」をこえた句をつくっているひとが、いる。つまり、時間とともに成長する句を。

じゃあこの句の時事性とはなんだったのか。とてもインパクトのあるニュースだったから覚えているひともいるかもしれないけれど、南アフリカのネルソン・マンデラ大統領の追悼式でデタラメ手話通訳をしていたひとがいたのである(2013年12月のニュース)。彼はまあとりあえず適当に手をふりまわして、でたらめに手話をしていた(ある意味、通訳というよりは彼は手の表現者だったと言える。パフォーマンス・ハンド・アーティスト)。

手話はでたらめだった。だから手話を知っているひとたちがテレビでそれをみてすぐに気づいた。あの手話はでたらめだ、あいつの手話はなにをいっているのか《わからない》と。

この突然ニュースとして時事にあらわれた〈わからなさ〉を月波さんは「時事川柳」として句に組み込んだ。

そのとき大事なことは月波さんが「時事川柳」によくある〈トホホ〉や〈怒り〉や〈アハハ〉の枠組みを用いなかったことだ。

ここにあるのは、〈悲しみ〉である。しかも一般的な誰かの悲しみではない。今、手話を受けている〈わたし〉の〈悲しみ〉である。

わたしはあまりに悲しんでいて、あなたの手話がわからない。泣いているのかもしれない。あまりにもショックで視界がおぼろなのかもしれない。あなたのことを見る気力さえもうないのかもしれない。ほんとうに、わたしは、かなしい。ほんとうにかなしいとき、言葉がつたわるのかどうかという問題がここにはある。

わたしたちは悲しいときも、その悲しみを言葉にしなければならないときがある。しかし、ほんとうにひとが悲しいときに、コミュニケーションができるのだろうか。それは、〈でたらめ〉にならざるを得ないではないのだろうか。

そしてそれはわたしたち人類が滅びるまで、ずっと、ずうっと、続くのだ。わたしたちは、まだ死すべきにんげんだから。わたしたちは死をうけとめてかなしくならざるをえないし、コミュニケーションの不可能性に直面せざるをえないから。

つまり、月波さんは人類の〈時事川柳〉を描いたとも言える。人類のニュースなんだ、これは。人類の時事なんだ。

人類の時事川柳というものがあるんだ。

だから、私はいそいで書き写した。これを見落としてはいけないと思ったから。わたしは、まだ、たぶん、どんなにかなしくても、まだすこし、いきていかなければならなかったから。

  にんげんになりたいものは手をあげて  月波与生


          (「尾藤三柳 選・時事川柳」『川柳マガジン』2014年2月号 所収)

続フシギな短詩128[山下一路]/柳本々々


  とつぜんのスーパーアメフラシ父さんの見る海にボクは棲めない  山下一路

以前、

  たぶん親の収入超せない僕たちがペットボトルを補充してゆく  山田航

という短歌をみてから、短歌と〈失意〉の関係が気になっている。

たとえばこの歌では「ペットボトルを補充してゆく」と語り手は〈労働〉に従事している。ところが〈労働〉に従事してなお「親の収入超せない僕たち」と〈失意〉なのである。

例えばこんな有名な近代短歌を思い出してみる。

   たはむれに
   母を背負ひて
   そのあまり軽きに泣きて
   三歩あゆまず  石川啄木

ここでは親の「あまり軽き」という〈軽さ〉が〈私〉の「三歩あゆまず」という〈失意〉になっている。これは〈私〉が自発的に発している〈私の失意〉である。もっと言えばこの失意は〈母〉のものではなくて、〈私〉のものだ。私が手にできている〈失意〉だ(母は私の失意なんて気にしないかもしれない)。近代短歌は失意を自分もものにできている。

山田さんの歌の場合はこの啄木とは逆に親の〈重み〉が失意になっている。ここで「親」と「僕たち」という名称が使われていることに注意しよう。それは「母」でもない。〈背負う私〉でもない。「親」という普遍的な上の世代を代表する名詞と「僕たち」という〈今〉の世代を代表する名詞。これは〈わたし〉の問題なのではない。この失意は、〈全体〉としての〈構造的な失意〉なのである。

だから、山田さんの歌では〈失意〉を〈わたし〉は手に入れることができない。「僕たち」の〈失意〉は誰のものにもならない〈失意〉でありその〈失意の喪失〉こそがこの歌のほんとうの〈失意〉でもあるのだ。私は近代と現代の差異はこの〈手に入れなさ〉にあるのではないかと漠然と思う。失意さえも、もう、手に入れられない。「ペットボトルを補充してゆく」という〈仕事〉が、〈わたしの希望の補充〉に結びつかない。

  こころよく
  我にはたらく仕事あれ
  それを仕遂げて死なむと思ふ  石川啄木

「こころよく/我にはたらく仕事」があるかどうかが問題なのではない。たとえそれがあったとしても「親の収入超せない」という構造的問題に突き当たってしまうかもしれないこと、またそういう問題を抱えても「ペットボトルの補充」がなんの補充にもならなかったように、「仕遂げ」ることも「死」ぬこともできないような状況が山田さんの歌のシーンなのではないか。だからもし願うとしたらこうだ。「構造にはたらく仕事あれ」。

長い遠回りをしたが、実は山下さんの歌で山田さんの歌をあげたのには理由がある。それは、山下さんの近刊の歌集『スーパーアメフラシ』の解説を山田さんが書かれているからだ。山田さんは山下さんの歌の方法論をこう指摘する。

  「重み」よりも「苦み」を演出する方法論を、この『スーパーアメフラシ』という歌集では一貫して採用している。消費主義社会に取り込まれた個人たちの実存のどうしようもない軽さを、そして軽いからこその苦い哀しみを、あくまで捉えようとしている。
  (山田航「解説」『スーパーアメフラシ』青磁社、2017年)

この山田さんの解説は、たぶん、山下さんの「スーパーアメフラシ」の歌をみてみるとよくわかる。山田さんの歌は先ほど述べたように〈構造的重み〉があったが、山下さんの歌では「父さんの見る海にボクは棲めない」と「父さん」や「ボク」という名称を採用することで〈わたしの苦み〉が出る。啄木歌の軽さでも山田歌の重みでもない、〈父/私〉という構造的な問題が喚起されながらも、「父さん/ボク」という〈私の言説〉に落とし込んでいく〈苦み〉。それは軽いのでも重いのでもなく、苦かったのだ。

だから「アメフラシ」なのではないか。アメフラシとは、なんなのか。腹足綱後鰓類の無楯類に属する軟体動物である。しかしそれは適切ではない。海のなめくじのようなぐにゃぐにゃしたかたつむりようななめくじのような、しかも紫色の粘液のようなものを握れば放出するのがアメフラシである。

私はこのアメフラシに〈苦み〉の象徴性があるように思う。アメフラシは「母」や「ペットボトル」と比べ、私たちからは微妙な距離感がある。それは軽くも重くもない。アメフラシを噛んでみたことはないけれど、美味しそうでもない。苦そうではある。たぶん噛むと苦いだろう。口のなかが紫の液体でぐちゃぐちゃになるだろう。しかも「スーパーアメフラシ」だから、わたしたちが出会ったこともない「アメフラシ」なんだろうと思う。それは「父さん」が見たことのない風景であり「海」だったのだろう。奇天烈奇怪な。

「海」という言葉で構造的問題が喚起されながらも、この歌の「父さん」と「ボク」と「スーパーアメフラシ」は〈ここ〉にしかいない。啄木歌の母と、山田歌のペットボトルに挟まれた、〈苦い〉としか言えない状況を「ボク」は引き受けているのではないか(ちょっと私は今なんだか森見登美彦の小説を思い出している。構造に翻弄されながらも〈私〉の苦みを引き受けていくこと)。

山下さんの歌集はこうした絶妙な〈失意〉が蔓延している。「スーパーアメフラシ」が失意として組み込まれたように、「アズマモグラ」、「向日葵病」、「キイロスズメバチ」や「おばさん」が失意と共に組み込まれていく。

  このままなにも知らずにボクタチは滅んでしまうアズマモグラさ  山下一路

  生まれつきアゴから上を明るいほうへよじられている向日葵病  〃

  膨らんだおしりから汁をえんがわに引き摺っているキイロスズメバチ  〃

  二駅目で座れたのに目のまえにおばさんが立つ。死ねとばかりに  〃

〈失意〉を〈私の失意〉にするためには文法がある。それを山下さんの短歌は教えてくれる。

わたしたちは、今この時代にあって、失意を〈練習〉しなくてはならない。

          (「スーパーアメフラシあらわる」『スーパーアメフラシ』青磁社・2017年 所収)

2017年6月21日水曜日

続フシギな短詩127[疋田龍乃介]/柳本々々


  700枚の閉ざされたあなたが
  書いた長編スピーチ文の中の湯船にすら
  簡単におぼれてしまっている自分が
  いることへの僕は毎日可愛がって
  可愛がってしていた犬と
  ゆく末をサイコロの目と睨みあい
  決断している朝
  唱えるように
  いぬがひ、げのがん、  疋田龍乃介「犬がひげのがん」

この疋田さんの詩が収められた詩集『歯車 vs 丙午』の栞文のなかで渡辺玄英さんがこんなふうに書かれている。

  言葉は言葉であるかぎり、完全に意味から逃れることは出来ない。しかし、詩は、言葉が逃れられないはずの意味から自由になれる瞬間を可能にする。
  (渡辺玄英「迂回して虹を」)

詩は、意味から自由になれる瞬間がある。たしかに詩を読んでいるとそう感じるときがある。しかし、《なぜ》そう感じることができるのだろう。

例えば疋田さんの上の詩をみてほしい。

この詩においては「が」が意味をたちあげようとすることを非常に〈邪魔〉してくることに注意したい。たとえば詩の一行目の「あなたが」がこれからの一節の主語なのかと思いきや、三行目に再び「自分が」と出てくる。じゃあこれが主語なのかと安心しようと思ったせつな、その「自分が」は「いることへの僕は」と「僕は」に回収されてしまう。

どうも、この詩においては、〈が〉の磁力のありかたが、おかしい。〈が〉が出てくるとまるで砂鉄を集めるように、言葉の磁場が変容する。

とりあえず「僕は」が主語でよさそうなのだが、すぐさま、「可愛がって/可愛がってしていた犬と」と再び〈が〉の近辺の磁場がゆらいでいる。わたしたちがふだんのシンタックス(文の立ち上げ方)では〈しないやり方〉で文がたちあげられている。

なんでこんなことになったんだろう。

だんだん、詩を読んでいると理由がわかってくる。

引用の最後の一行に、「いぬがひ、げのがん、」と語られている。ここからまだまだ詩は続くのだが、この「いぬがひ、げのがん、」に注意したい。この詩のタイトルは、「犬がひげのがん」だが、語り手は「犬がひげのがん」とまとまった言葉の意味として把捉しようとはせず、「いぬがひ、げのがん、」とすでに意味のまとまりを手放している。ということは、この語り手は、意味単位で文章を構成していくというよりは、「が」単位で語りを構成していくかもしれないということを表している。

このあとこの詩は「げのがん、げのがん、」という言葉や「犬ヶ髭」という言葉を見出していく。やはり、〈が〉から発想されていく造語である。

つまりこの詩は〈意味〉でわかろうとすると、返り討ちにあうかもしれなくて、語り手が〈が〉の磁力によって、文章という磁場を変容させようとしているんだ、と読もうとすることによって読める詩かもしれないのだ。

私は以前、詩とは語っていくうちに、みずから形式を発見していくものだと述べたけれど、詩とはもうひとつ大事な役割がある。語りながら、言葉の磁力や磁場をそのつどそのつど変容させていく役割だ。詩力(しりょく)とは、磁力(じりょく)でもある。

  いつも客席から彩るような
  かるがもがな可能なら
  かもとかもとか
  たとえばさような
  さようならのような
  叩き割っても結び合わされる
  これが世界なのかも、虹の裏かもしれないな
   (疋田龍乃介「直結の虹」)

ことばは実は大事にしなくていい。たたきわったって、いい。

言葉を叩き割ると、おどろくことに、結び合わされるものがある。言葉はタフだから、叩き割っても叩き割っても、言葉はこわれない。こわれないので、私たちは「これが世界なのかも、虹の裏かも」という言葉の裏側にまわりこむことができる。ただそれをふつうの感覚でやってしまうと、わたしたちはあっち側に行ったまま〈帰ってこられなくなる〉かもしれないので、わたしたちはその行為に名前をつけた。

詩、と。

          (「犬がひげのがん」『歯車 vs 丙午』思潮社・2012年 所収)

2017年6月17日土曜日

続フシギな短詩126[吉井勇]/柳本々々


  かにかくに祗園はこひし寝(ぬ)るときも枕の下を水のながるる  吉井勇

加藤政洋さんの『モダン京都 〈遊楽〉の空間文化誌』(ナカニシヤ出版、2017年)を読んでいたら面白い指摘があった。

上の吉井勇の歌は有名な歌で短歌のアンソロジーなどを読んでいるとよく眼にする歌である。たぶん「枕の下を水のながるる」という比喩が現代的でいまだに有効だからじゃないかとも思う(ちなみに枕って音響装置的役割をすることが本当にあるのだ。たとえばマンション暮らしをしていると枕に耳をつけて眠ると下の階の話し声が聞こえたりする時もある。枕の下には世界が広がっている)。

で、加藤さんが指摘しているのは、この吉井の歌と谷崎潤一郎の歌の比較である。谷崎潤一郎は著作の中でこの吉井の歌を引用している。ところが谷崎は〈まちがって〉引用しているらしいのだ。

  吉井勇の歌に、「かにかくに祗園はうれし酔ひざめの枕の下を水の流るゝ」と云ふ吟詠があるのは、……
  (谷崎潤一郎「青春物語」)

吉井の歌の第2句・3句の「こひし寝るときも」が、谷崎引用バージョンでは「うれし酔ひざめの」になっているのだ。

吉井勇の歌では「こひし」だった箇所が、谷崎が引用した歌では「うれし」になってしまった。この谷崎の〈引用間違い〉によってなにが言えるだろう。

  「恋し」は、距離を前提する語句だから…、今はもうそこにいないという空間的な次元と、時間的な事後性とを含意する。つまり、恋しい《祗園》を離れている状態でうたわれているものとみるべきであろう。
  (加藤政洋、同上)

だから吉井の歌の語り手は、祗園から離れている。ところが谷崎の歌の「うれし」は、

  酔いの醒めるのが夜半であれ、明け方であれ、あるいは翌朝であっても、その場の満足感をうたっている
  (加藤政洋、同上)

だから谷崎の引用歌の語り手は、《祗園そのものの場》にいることになる。

つまり、わたしは恋しい、と、わたしは嬉しい、の語り手の位置性の違いである。恋しいというひとは離れた場所にいるが、うれしいというひとは今・そこにいる。

  吉井は祗園《で》ではなく(no-where)、祗園《を》うたった。それに対して、谷崎の「酔ひざめ」には、「今・ここ」性がある(now-here)。
  (加藤政洋、同上)

谷崎にとってこの歌は、〈今・ここ〉的な歌だったのだ。

この加藤さんの指摘からわかることはなんだろう。

わたしは別に引用を間違えることを推奨するわけではない。でも、引用を間違えたとき、そこにはなんらかの〈当事者性〉が入るということは考えてもいいのではないかと思う。〈わたし〉や〈あなた〉の問題として。

短歌の引用は、よく間違えるし間違えられる(私もできるだけ気をつけているのだがやはり間違えることがある)。間違った引用は直さなければならないが、直す時にあなたがその歌の引用の〈当事者〉としてどうして〈そう〉間違ったかを考えてみてもいいかもしれない。あなたが〈だれ〉であったのかを。

わたしは昔、木下龍也さんの「鯛飯タイムマシン」の歌(ラップ)を「蛸飯タイムマシン」と〈まちがえ〉てこんなことを言ったことがある。

  たぶん自分に鯛飯文化がなかったんだとおもうんですよ。たこめししかしらなかったっていう。それでそのときのことを歌にしたら蛸飯タイムマシンになったんですよ。でもたぶんあの場にいないとまちがいはおこらないじゃないですか。なんかだからそういう体験の歌なんだとおもって。その場にいるからこそ間違いっておこるんです。そう、おもったんですよ。
 (「鯛と蛸」『きょうごめん行けないんだ』食パンとペン、2017年)

何度も言うが間違いは正当化されることなくちゃんと直さなければならない。それをふまえた上で、でも〈間違ったじぶん〉がどうして〈間違った〉のかも考えてみてもいいかもしれない。それはあなたが、そのとき・そこに・あなたとして・そういうかたちでしかいられないかたちで・いた、ということにもなるかもしれないから。

わたしたちは別に短歌でなくても、日々、だれかの、テレビの、ネットの、ほんの、まんがの、えいがの、言説を引用している。でも引用されていくうちに、引用者の〈当事者性〉が塗り重ねられていく。わたしたちは歴史的な存在だから、そこにわたしたちの今・ここが塗り重ねられる。

引用者は透明な存在ではない。いや、わたしたちは透明じゃない。どんなに透明であろうとしても、あなたは透明ではない。そこにはかならず〈あなた〉がいる。その〈あなた〉にときどき出会ってみてもいいんじゃないか。そう、おもうんだけど。


          (「祗園はうれし酔ひざめの……《祗園新橋》の強制疎開」『モダン京都 〈遊楽〉の空間文化誌』ナカニシヤ出版・2017年 所収)

2017年6月14日水曜日

DAZZLEHAIKU4 [森澤程]渡邉美保



鯉跳ねる音の数秒夏銀河  森澤程


あっ鯉が跳ねた。その一瞬の水音を聴きとめたとき、作者は何をしていたのだろうか。どこにいたのだろうか。いろいろなシチュエーションが考えられる。どんな場合であれ、その数秒間の水音は、確かなものであり、夏の夜の静けさと、鯉の存在を浮かび上がらせる。澄んだ大気の中、空には銀河がゆったりと広がっている。
「鯉」と「夏銀河」の組み合わせにより、空間は一挙に広がりと奥行きを持ち始める。「鯉」から「銀河」への飛び方は、一見唐突なようで、どこか繋がっている。
鯉の跳ねる水音を聴いたその刹那、作者は銀河のほとりに立っていたのかもしれない。無数の星々がばらまかれた広大な銀河。その中で鯉が小さな点となって泳いでいる光景。鯉の寂寥感は、それを見ている作者の寂寥感でもあるだろう。


  鯉を抱く夢のつづきの夏の水

  真夜中の方から来たり錦鯉

  小雨から緋鯉の模様抜け出しぬ


いずれも同句集中の鯉の句。現実と異空間の間を行き来している鯉の姿は美しく、寂しげだ。


〈『プレイ・オブ・カラー』2016.10 ふらんす堂〉

2017年6月10日土曜日

続フシギな短詩125[高橋順子]/柳本々々


  いつも誰かの電話が気になっていたこと
  何もしなくてもいい一日があったこと
  暗くなるまで詩を書いたこと
  横着だと責めない男たちと
  野山を歩いたこと
  晩ごはんをぬいたこと
  いつもご破算にできると思っていたこと
  さようなら  高橋順子「いつも誰かの」

高橋順子さんの詩集に『時の雨』がある。48歳でふいにぶつかるように思いがけなく出会い結婚した小説家の車谷長吉との生活が軸に描かれたものだ(私は以前、この〈生活〉のことをこのフシギな短詩で車谷長吉の側から書いた)。高橋順子は詩集の「あとがき」でこんなふうに書いている。

  晩い結婚の二年四ヶ月後、連れ合いが強迫神経症を発病しました。…ものに怯える家人は、私に対してもまた怯えたのでした。私たちは自由に息をすることができなくなり、緊張の日々を過ごしました。 連れ合いの書く小説には髪の毛一すじの狂気が宿っていることに私は無意識であったわけではありません。それは、文学だと思っていたのです。生活とは別次元のものだ、と。ところが或る日、文学が生活に侵入してきてしまった。日常が非日常の霧におおわれてしまった、ともいえます。そのとき、人はどうするか──。 生活を強引に文学にしてしまうこと。自分を全力で虚の存在と化し、文学たらしめること。 
  (高橋順子「あとがき」『時の雨』青土社、1996年)

上に引用した「いつも誰かの」という詩が収められたこの詩集『時の雨』は「あとがき」から解釈すれば、〈車谷長吉との生活〉を描いたものなのだけれど、私はこの詩集を〈二人〉というユニットをとことん詩によって考え抜いた詩集として読んでもいいのではないかと思う。

ふたり、で生きるとはどういうことなのか。ひとりじゃなくて。

たとえばそれは「いつも誰かの」〈わたし〉であった〈わたし〉が自分から〈失われ〉てゆくことだ。ひとりだった私の〈いつも誰かの〉に焦点化された生活は、ふたりになった私の〈あなた〉へと再焦点化されていく。あなたは、わたしから、なにもかもを奪っていくだろう。二人で生きるとは、そうした劇的な経験だから。

  俺、ときどき思うんだけど、恋愛をするという行為は、人が一杯いる中で二人きりになろうとする行為じゃない? だから、恋愛は良いことなんだけど、もっと大きな目で見れば、ほとんど2人で破滅しようという行為に近いなと思って。絶対、その2人だけでは成立しないものが生まれてくる。「そのことを知っていて尚、なぜ人は恋愛をするのか?」というのを考えることがある。
  (岩松了「対談:岩松了×若手写真家 第1回●中村紋子/世間に対してどう立ち向かっていくか?」)

すなわち。

いつも誰かの電話が気になっていたことが失われ(不特定関係の喪失)、何もしなくてもいい一日が失われ(不特定時間の喪失)、暗くなるまで詩を書くことが失われ(不特定表現の喪失)、横着だと責めない男たちと野山を歩くことが失われ(不特定気ままの喪失)、晩ごはんをぬくことが失われ(不特定生活の喪失)、いつでもできたはずの人生のご破算=リセットが失われる(不特定破壊の喪失)。

こうしたおびただしい喪失をくぐり抜けながら、「いつも誰か」になれる〈わたし〉を失っていく経験、同時に、「いつも誰かの」〈わたし〉になれる〈わたし〉を失っていく経験。それが、〈ふたり〉で生きるということだ。

この詩のすべての行末が「こと」で終わりになっていることに注意しよう。そして最後にこの詩が「さようなら」で終わっていることに注意しよう。

「こと」への「さようなら」の詩なのだ。〈ふたり〉で生きるということは、〈ことの終わり〉でもあるのだ。

自分が〈こうこうこうしたい〉をコト化しようとするとき、それに疑義や異議を挟む〈あなた〉が出てくる(これはこのフシギな短詩の千春さんの回でも書いた)。それが二人で生きてゆくときの〈あなた〉である。

だから、二人で生きるわたしは容易にコト化できず、コトの挫折を味わうようになる。わたしはコト化できない人生のなかに入っていくが、しかしそれは新しい人生の価値観になるかもしれない。この世界にはわたしが容易にコト化できないものもあるんだと。わたしと暮らす〈あなた〉はそれを教えてくれるから。あなたはわたしに豊かな挫折をくれる。

ふたりで生きるとはそういうことなのだ。

恋愛だってもしかしたらそうかもしれない。わたしとあなたは、たゆまずコト化できないコトにふたりで取り組む。きょうはこんな新しいコトがあったね。未知だったね。コト化できなかったね。すっごいね。とんでもないね。こんな詩を思い出してもいいね。

  はてしのない場所にいた
  草いっぽんはえていない
  だれもいない
  こころぼそい場所に

  おとなになって
  世の中は秩序だち
  緑豊かな涼しい場所で
  私は仲間と安心を得た
  それなのに、また

  あなたに会って
  こんなに遠くまで来てしまった
  草いっぽんはえていない
  こんな荒れはてた
  こんなさびしい
  こんな茫々とひろがるはてしのない場所に
  また
  (江國香織『江國香織詩集 すみれの花の砂糖づけ』)

コト化できない場所、「はてしのない場所」、「草いっぽんはえていないだれもいないこころぼそい場所」、「こんなに遠」い場所、「荒れはてた/さびしい/茫々とひろがるはてしのない場所」、それがコト化できない場所だ。でも、そのコトがすべてうしなわれた世界には〈あなた〉がいる。なんで?

わたし〈たち〉は〈ふたり〉だから。

  枯れ草のような しようもない男につかまった」
  踊りやまなかった枯れ枝が風に飛ばされとばされ
  土をつかんでじっとしていた枯れ草と出会った のだそうだ
  時の雨の中で
  せわしい雨だれの中で
   (高橋順子「時雨」『時の雨』)

「草いっぽんはえていないだれもいないこころぼそい場所」で「枯れ枝」が「枯れ草」に出会う。「中で」とこの詩は文の〈途中〉で終わっている。体言=名詞=コトではなくて。コトがぐずぐずしたなかに、これから、出会ったふたりは、入っていくのだ。すべてを〈途中〉化させる世界に。雨の降り続ける時の雨の世界に(雨とは、〈途中〉の象徴なのだ)。

この詩集『時の雨』はこんな詩でおわる。

  精神病院からの帰り道
  休耕田の真ん中に生えている一本の
  椎の木の下に坐り
  おにぎりを食べた
  野漆と耳菜草の名をおぼえた
  模型飛行機をとばしている人たちがいた
  川で釣りをしている人たちがいた
  いつかきっとこの木のことを思い出すだろう
  二人ともまだ若かったころ
  木の下に坐ったことがあった と
   (高橋順子「この木のことを」同上)

コトにお別れを告げたこの詩集『時の雨』は「この木」という世界でたったいっぽんの「木」を発見する。二人をめぐる「この木」。それは二人のコトである。その「木の下」で「おにぎり」を食べた。「おにぎり」=名詞=コトを手に入れた。野漆と耳名草の「名」をおぼえた。コトを手に入れた。模型飛行機を飛ばし川で釣りをしているひとたちという思い出を手に入れた。コトを手に入れた。そうして「いつかこの木」という「いつか誰かの」に代わるものを「二人」で発見した。「木の下に坐ったことがあった」と。

そういうかたちで、二人は、コトを手に入れた。

  「あなたの部屋に行ってみてください」
  と連れ合いになる男が言う
  ……
  似過ぎているものをもっていることを
  喜ばずに惧れた
  知らなくてもいいものを
  知ってしまうことがあるだろう そのときは
  野の花がわたしたちを見ていてくれますように
   (高橋順子「あなたの部屋に」同上)

          (「いつか誰かの」『現代詩文庫163 高橋順子詩集』思潮社・2001年 所収)

2017年6月4日日曜日

続フシギな短詩124[樹萄らき]/柳本々々


  淡々と・・・淡々なんていかねーよ  樹萄らき

この「・・・」と「いかねーよ」というのがらきさんの川柳の文体の特徴になっているだが、この「・・・」というのはよくマンガの吹き出しなどで見られる。

たとえば小説だと三点リーダは「……」となるのだが、マンガの吹き出しなどでは「・・・」と大きくなっていることがある(マンガの表記の自在さによるものかもしれない。マンガの言説は独特の記号使用の自在さがある)。

  まいったねえ右も左も寸足らず  樹萄らき

  おまえさん脛にキズもつお人好し  〃

  未来は過去の延長じゃない・・・けどさ  〃

「いかねーよ」「まいったねえ」「おまえさん」「けどさ」。ここには独特の〈姉御言葉〉のような文体がある。

川柳人の小池正博さんがよく現代川柳におけるキャラクター論を論じているのだが、一般的にキャラクター論はコンテンツとして論じられる。たとえばAというキャラクターが連作のなかにあらわれ、さまざまな句のなかでAのキャラクターがつくられていく。

ただらきさんの川柳はそうしたキャラクター論の死角をつくものではないかとも思っている。

らきさんの川柳にはキャラクターはいない。連作のなかでそれらを一手に引き受けていくキャラクターとしての主体はない。

ところがこの連作の文体には、キャラがある。姉御的・マンガ的なキャラだ(伊藤剛さんの本に詳しいが、キャラクターとキャラの違いを今私なりに簡単に述べると、キャラクターは形であり、キャラとは性である。キャラクターとしてののび太の形はドラえもんの原作の中だけだが、のび太のキャラはダメ・軟弱・0点・寝るとして原作内を越えてさまざまに飛び火する。「あんたって、ほんとうにダメで、のび太みたいだね」と友人や恋人から言われたとしたらあなたのキャラはのび太なのだ。キャラクターは原作内に留まるが、キャラが強ければ強いほど原作を越えてあちこちにキャラクターは移動することができる。キャラクターとキャラは違う。これを川柳論に生かすとどうなるだろうか)。

  「キャラの強度」とは、テクストからの自律性の強さというだけではなく、複数のテクストを横断し、個別の二次創作作家に固有の描線の差異、コードの差異に耐えうる「同一性存在感」の強さである。この「横断性」こそが、重要な点なのである。
  (伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』)

文体がつくりあげていくキャラというものがある。というよりも、文体は、ときどき、キャラになる。キャラクターとして見えにくいので焦点化できず論じにくいのだが、キャラとして文体化されていくものがある。

そういうキャラ的な文体というのは、どう考察したらいいのだろう。

私は、実は、キャラ=文体というのは、わかりにくい、言語化しにくいだけで、けっこう飛び火しているのではないかと、思っている。

そのヒントを樹萄らきさんの川柳はくれる。ここには私はなにか新しい川柳論のヒントがあるのではないかと思っている。だから、考え続けていこうと思っている。いつか、続きを書くために。

ただ今はそれをどう言葉にすればいいかちょっとわからない。そう、まだ、今は。

だから、今回は異例なのだけれど、「ちょっとわからない」という結論で終えてみようかと、おもう。

ちょっとわからない。


          (「そよ風」『川柳の仲間 旬』211号・2017年5月号 所収)

続フシギな短詩123[柳本々々]/柳本々々


  ジャイアント馬場それも霊体がマーライオンを通過する  柳本々々

以前、ある川柳のイベントで話をするとして十句選を提出してくださいと言われ、私は次の十句を提出した。

 (テーマ【世界の終わりと任意の世界】)
  みんな去って 全身に降る味の素/中村冨二
  頷いてここは確かに壇の浦/小池正博
  ファイティングポーズ豆腐が立っている/岩田多佳子
  オルガンとすすきになって殴りあう/石部明
  妖精は酢豚に似ている絶対似ている/石田柊馬
  人差し指で回し続ける私小説/樋口由紀子
  中八がそんなに憎いかさあ殺せ/川合大祐
  おはようございます ※個人の感想です/兵頭全郎
  毎度おなじみ主体交換でございます/飯島章友
  菜の花菜の花子供でも産もうかな/時実新子

テーマをつけろとは言われてなかったのだが、テーマもつけて提出した(私はときどきそういうなんだかずるいリークみたいなことをすることがある)。

で、最近、川柳作家の川合大祐さんと電話していて、川合さんが、あのやぎもとさんの、マーライオンの句、あれ、過剰ですね、と言われたときに、あれっ、そう言えば、川柳って〈過剰性〉ってキーワードになるんじゃないの、と思ったりした。「過剰性、そう言えば」と私は言う。

「前に、川柳のイベントで提出した十句も今思えば、ぜんぶ、過剰性ですよね。『みんな去って/全身に降る』という演劇的過剰性、「頷いてここは確かに」という肯定の過剰性、『ファイティングポーズ豆腐』という豆腐の過剰性、『殴りあう』という武闘的過剰性、『似ている絶対似ている』という認識の過剰性、『回し続ける私』という私の過剰性、『さあ殺せ』という自虐の過剰性、『※個人の感想です』という相対化する過剰性、『主体交換』という主体の過剰性、『子供でも産もうかな』というジェンダーの過剰性。なあんだ、ぜんぶ、過剰性なんだ」と私は言った。それから「はぁはぁ」と。少し息も切らずに過剰性過剰性しゃべったので。

ああ、あああ、あ、ああ」と川合さんも言う。「いやあのね、やぎもとさんの句の『それも』ってのが、なんか気になったんですけどね、それも過剰性ですよね、まあなんでもかんでもこの句ぜんぶ過剰性なんですけどね」

あーあ」と私は言った。気を抜いていたので変に伸びたが、勘違いされるかもしれないので、すぐに「ああ」と言い直した。「どうしてね、川柳が過剰性を引き受けるようになったのかは謎なんだけど、たとえばね、アルチュセールが、フーコーが、バルトが、ラカンが、クリステヴァが、もし現代川柳を読んだらね、すごく喜んだじゃないか、嬉しがったんじゃないかって思うときがあるんですよ。それはなんだろう。主体の過剰なぐずぐず感、あらゆることの過剰性かなあ、でもそれってまさにポスト構造主義じゃないですか、ポスト構造主義は構造主義にはなかった主体の過剰性、構造からぐずぐずはみ出していくなにかを見つけた。現代川柳ってポスト構造主義のぐじゅぐじゅしてる感じと実はとっても親しいような気がするんです」

「たしかにね、構造主義と定型は似ていて、でもその構造主義=定型から、なんだかはみ出ていくものも定型は同時にかかえもつ場合がありますよね。それってポスト構造主義的な部分に近づいていくのかもしれない」と川合さん。

「ああ、そうですよ。ほんと、そうだ。うーん、だから現代思想とか文学理論で現代川柳って読み解きやすいのかな。私は実は現代川柳の感想を書くとき、ぜんぶ、現代思想か文学理論の枠組みでしか読んでないんですよ。だから最初は怒られてパンチされたりするのかなとか思ってたんですよ。でもとくに怒られはしなかった。それって現代川柳がそういう部分をかかえてたからなんですかね」とわたし。

「ああ、そうですよ。そうかもしれない」と川合さん。

そうですよね。そうなのかな」とわたし。

そうだなあ、そういうことなのかなあ」と川合さん。

そう。うーん。あ、ああ。そう」とわたし。

しかし、これ以上、無駄に会話も続けられない。さすがに「そう」「そう」だけで電話もしていられない。フシギな短詩ではなく、フシギな会話になってしまう。

「そう」を「それでは」に切り換えて、「はい。失礼します」と言って私は電話を切った。

電話を切って、正座して、部屋のまんなかでぼんやりして、絨毯をひとさしゆびで無駄になぞりながら、ああ、そうだ、あの人のことも言えばよかった、と私は思った。わたしはいつも大事なことを忘れてしまう。ジャック・デリダのことだ。

  デリダは大胆にも、ハイデガーの現-存在とは電話の呼びかけに応えて「電話に出ること」だという。人間は存在にではなく、電話というテレコミュニカシオンに拘束され、電話に釘づけにされ、電話へと運命づけられているわけである。
  (上利博規『デリダ』)

私は電話に手をかける。いやもう夜遅いしさすがに今度でいいよくだらないことに電話を使うなよ、とデリダの声。はい(oui)、と私。

  怒られたらどうしようと思う眠る  柳本々々

          (「暗い人間」『川柳の仲間 旬』211号・2017年5月号 所収)

2017年6月3日土曜日

DAZZLEHAIKU3 [恩田侑布子]渡邉美保



驟雨いま葉音となれり吾(あ)も茂る   恩田侑布子


新緑の季節から夏へ向って、樹木は枝葉を伸ばし、緑を押し広げてゆく。繁茂した緑の深さはエネルギーに満ちている。そんな季節の中、突然降り出した雨。驟雨は、急にどっと降り出し、しばらくすると止んでしまう雨である。

「驟雨いま葉音となれり」の一瞬の切り取りが、雨の勢いやスピードを実感させてくれる。

葉音となった驟雨は、作者の聴覚を通して、五感を刺激し、覚醒を促す。驟雨は作者の内部にも降ってくる。身体はすみずみまで潤い、緑に染まる。そして内部は外へ反転する。

樹木と吾は一体となり繁茂する。「吾も茂る」のだ。生命の源のような力を得て。
葉音はいつしか風の音を含んでいるだろう。

 〈句集『夢洗ひ』2016・8角川書店 所収〉

2017年6月2日金曜日

続フシギな短詩122[千春]/柳本々々


  土にかえるから夫への説得  千春

「浮雲」と題された連作。「浮雲」のように〈わたし〉は連作のなかでたびたび消えそうになる。

  天の雲浮遊する前笑おうね  千春

  ウグイスが鳴くから私とけてゆく  〃

ただ問題はどう自らが〈転生〉して浮かび上がろうとしようとしても「夫」という最終審級がいるということだ。

この「夫」はわたしの転生を許さない。「土にかえる」ときに「夫」を「説得」しなければならない。

説得、ってどういう意味かあらためて考えたことがあるだろうか。実はわたしもない。ちょっと辞書で調べてみよう。

【説得】自分の意志や主張を相手に話し伝えて納得させること。

とあった。「説得」の「説」は「説き伏せる」の「説」であり、「得」は「納得させる」の「得」である。このように相手に過剰に関わり、相手と関係を築くことが〈説得〉なのだということがわかる。説得とは、相手の納得なのであり、相手の主体性の確保なのであり、私の主体のありようではどうにもならないものなのだ。

だからこの連作における「説得」という言葉の強さは、大きい。

この連作は例を示したようにともすれば〈わたし〉が「浮雲」化しようとする連作である。雲のように消えようとしている。ところがそこに「夫」がいる。夫は「浮雲」になるならなるで「説得」しなければならない存在である。しかし「説得」とは主体の連携なのだから、もし「夫」を「説得」させられたなら、わたしは「浮雲」になることはできない。「夫」に〈留め置かれる〉ことになるからだ。「夫」と共に生きることになってしまうからだ。

説得は、激しい。生命の激しさがある。

連作の最後にこの句が置かれていた。

  生きるんだそうと決めれば鳥かなあ  千春

語り手は「生きるんだ」と「決め」そうになっている。「夫」との関わりで「浮雲」化しない方向を選ぶのかもしれない。それも共に生きることだと、思う。まだ「かなあ」の段階だけれども。でも「生きるんだ」と語り手は、ことばにした。

「鳥かなあ」に注意したい。連作は「浮雲」というタイトルだった。「雲」は地上には降りてこない。生命でもない。しかし、「鳥」は雲に近い場所にいることもあるが、大地にも降りる。生命である。語り手は「浮雲」というタイトルを冠しながらも「夫」との関係のなかで「雲」にならない生を選びとったようだ。

生きる、は、タイトルを裏切ることが、ある。

          (「浮雲」『川柳の仲間 旬』211号・2017年5月号 所収)

2017年5月29日月曜日

続フシギな短詩121[新聞歌壇]/柳本々々


   明日は雨らしい大人をこじらせたことをしみじみ思う雨らしい  櫻井周太

連句を専門としている浅沼璞さんの『「超」連句入門』(東京文献センター、2000年)にチェーホフの連句性を指摘する話が出てくる。連句とは俳句をめぐる話だけでなく広く文化をめぐる話(「超」ジャンル)だというのだ。浅沼さんは山崎正和のこんな言葉を引いている。

  チェーホフの台詞は連歌でいう付句なんです。よくお読みになればわかるけど、論理的には繋がってないけど、気分で繋がってる。 この「気分」で繋がる感覚。

これだけ押さえても連句という「気分」で連なる「詩的な繋がり」がわかるのではないだろうか。たとえばこれはいろんなところに応用できる。ツイッターのタイムラインも〈あなたのアカウント〉のカラーがまとめあげた「気分」の連なりだろうし、2ちゃんねるのスレッドもそのスレッドのトピックの「気分」が各書き込みを「連」ねているだろう。

で、わたしはこうした連句的な〈詩的気分の連なり〉がとてもよく打ち出されているのが〈新聞歌壇〉という詩の場なのではないかと思う。これは私自身が実際に投稿し、毎週眼にしていくことでわかったものだ。 たとえば今日の毎日新聞・毎日歌壇の米川千嘉子欄をみてみよう。 特選歌は、

   明日は雨らしい大人をこじらせたことをしみじみ思う雨らしい  櫻井周太

である。このすぐ下の歌には、

   席立ちくれし青年わが前に揺れつつ読みつぐ「日本の未来」  越川伸子

と、「大人をこじらせたこと」が「青年わが前に揺れつつ」と、〈大人/こじらせ〉が〈青年/揺れ〉に〈青年期〉の「気分」として「連」なっていく。そしてその下、

   ゆるぎなき七十年の尊きを小庭(さにわ)のすずらん記念日に香る  堀青子 

と、今度は「日本の未来」が「ゆるぎなき七十年の尊き」と〈国と個人の時間幅〉の「気分」として「連」なっていくのだ。

となると、選者というのは、ただ「選」んでいるだけなのではない。あたかも連句の巻物をつくりあげるように、一首一首の歌を〈配置〉していくことで、〈現代の気分〉の連なりを〈連句〉として語っているのだとも、いえる。 

私たちは新聞歌壇で一首一首に出会っているわけではないのだ。選者が用意した「連句的連なり」としての〈現代の気分〉にたちあっているのである。

だから、新聞歌壇の選者は、現代の気分という〈作品〉の〈作者〉でもある

ときどき、〈気分〉とはなんだろう、と思うのだが、〈気分〉とは「連句的作用」によって立ち上がる〈なにか〉かもしれない。わたしたちは思いがけない連なりのなかで、連鎖のなかで、〈気分〉にたちあう。

ちなみに浅沼璞さんが自身の学生たちと行ったさいきんの学生の連句には次のようなものがある。

   あなたのラーメン探して台所に這ふ  真那美

   彼の前歯胸につまり  綾 
   (浅沼璞『俳句・連句REMIX』東京四季出版、2016年)

「あなたのラーメン」という〈同棲の気分〉が、「前歯胸に」という身体を過剰に「同」じくする〈性〉への〈気分〉へと連ねられていく。

だれかに連なると、わたしたちに「気分」が生まれる。からだも、ことばも。

わたしたちの「気分」というのはそのつど生まれた「作品」なのかもしれない。、どんな気分ですか?

   今の方がもっと彼を愛してる。この体が焼けつくくらい。どうしようもないくらいに彼を愛してる。ねえコースチャ、あの頃はよかったとは思わない? 人生のなにもかもがまっすぐで、あったかくて、むじゃきで、しあわせだった。なんだったのかしら。かれんで、繊細な花のようなあの感覚。覚えてるでしょう?
 (チェーホフ、木内宏昌訳『かもめ』)

          (「毎日歌壇」『毎日新聞』2017年5月29日 所収)

2017年5月26日金曜日

続フシギな短詩120[岡村知昭]/柳本々々


   コントロール下の夕虹へ来てください  岡村知昭 

現代俳句協会青年部のイベントで岡村知昭さんの句集『然るべく』を担当された橋本直さんは、この句集の「第四章 タンク」は圧倒的に変だと話されていた。

たとえば「第四章 タンク」にはこんな句がある。

  痒くなりタンクのねじの弛みだす  岡村知昭

橋本さんは岡村句集に頻出する構文「AなのにB」を指摘していたが、たとえばこの句で言えば、「タンクなのに痒い」ということが言える。タンクなのに痒くなってしまいねじが弛みだすのだ。しかし、この事態を、どうとらえればよいのか。

だから、これは意味論というよりは構造的にこう捉えるしかない。「AなのにB」なんだ、と。

たとえば、掲句も第四章のものだ。

夕虹がコントロールされている。そのコントロールされた夕虹のもとへ来てください、という句。しかしなぜ「虹なのにコントロールされているんだ」ということになる。これもこう言うふうにも言える。「AなのにB」なんだと。

私は岡村さんと川柳のイベントで何度もお会いするのだが、岡村さんは川柳人でもある。しかしその前に、私が岡村さんを知ったのは、山田航さんが書かれていた岡村さんの短歌の鑑賞文によってだった。歌人としての岡村さん。

つまり、岡村さんはさまざまな短詩を越境しながら、〈ここ〉にたどりついている。かゆいタンクやコントロールレインボーという〈ここ〉に(注1)。

【注1:岡村句集の帯文には歩くチューリップから岡村さんのシルエットまでの〈進化論的イラスト〉が掲載されている。彼は〈ここ〉までさまざまな形態をとりながらやってきたひとである。】

この「AなのにB」というのは実は現代川柳の枠組みに慣れていると理解しやすい。小池正博は川柳は〈断言の文体〉だと述べたが、「AなのにB」、痒いのにタンク、虹なのにコントロール、などの「AなのにB」は〈断言の文体〉になる。たとえば、

  走りたい逢いたい痛い人体図  きゅういち
     (『ほぼむほん』川柳カード、2014年)

きゅういちさんの川柳、「人体図なのに走りたい/逢いたい/痛い」という「AなのにB」構文である。だから橋本さんの指摘した岡村構文を現代川柳にあてはまると、実はけっこうな現代川柳が読み解けるのではないかとも思う。そしてこのときわかるのは、現代川柳とは意味論的問題なのではなく、文体論的問題なのではないかということだ(注2)。

【注2:ちなみに最近浅沼璞さんの『俳句・連句REMIX』所収の浅沼さんの連句の観点から書かれた小池正博論を読んでいて思ったのだが小池正博の川柳は、文体論と意味論を接続していく試みだったのかもしれない。小池正博が助詞で語られることが多い川柳人でありながら(文体論)、小池正博自身は創作態度として「詩的飛躍」をめざしているとかつて語っていたのは(意味論)、そういうところが多いように思われる。小池正博という川柳人は私は多面体の肖像を持っているような気がして、岡村知昭句集の多面性を考えながらも少しそんなことも思ったりした。】

ただ岡村句集は、川柳の句集ではない。俳句の句集である。

  タンクへと飛んでいかない頭痛かな  岡村知昭

のように「かな」の切れ字も入っている。だから、構文的エネルギーを発しながらも、逆にジャンルとジャンルを掛け合わせつつそこからズレていく反エネルギーのようなものも同時に持ち合わせている。まとまるちからと、ずれるちから。

橋本直さんは、岡村句集のイメージカラーはピンクだと語られていた。それはいい意味で無責任なんだと。

そのときこの句集タイトル『然るべく』の意味も効いてくるのではないか。

「然るべく」とは、「適当に、よいように」という意味だ。「適当に、よいように、然るべく」読んでください、と句集はタイトルによってベクトル付けられている。しかし、その〈適当さ〉〈然るべき在り方〉というのは読者が〈どこ〉から読むかによって変わってもくるだろう。しかもジャンルを練り歩く岡村さんにはさまざまな位置性の読者がいる(注3)。

【注3:わたしもその読者のひとりです。わたしのここから読んでいます】

だとしたら〈然るべき〉読者、〈然るべき〉位置性というのは、どこにあるのだろう。短詩を読むときの、越境する短詩人が〈然るべく〉書いた短詩を〈然るべく〉読むときの位置性は。そしてその評はどのように〈然るべく〉書かれるべき、語られるべきなのだろう。

この句集の「第六章 見物」は語る主体があからさまにどんどん去勢されていくフシギな章だ。この最後の章を読んでいると、〈然るべく〉できなければ〈然るべく〉くじけるのもありだよ、とも私には言っているように思われる。つまり、

然るべく生きるべきなのに、然るべく生きられない。

これもまた「AなのにB」構文だと、わたしは、そう、かんがえる。泣いていいんだ(注4)。

【注4:ついに泣き三連休の交差点  岡村知昭


          (「タンク」『然るべく』草原詩社・2016年 所収)

続フシギな短詩119[川嶋健佑]/柳本々々


 向日葵に秘密を隠すララとキキ  川嶋健佑 

連作のタイトルは、連作の中身に、どう関わるのだろう。

掲句の収められた川嶋さんの連作タイトルは「ララとキキ」である。有名なサンリオキャラクターが「キキララ」と呼ばれているのに対し、「ララとキキ」はその逆の慣性をもっている。しかも「ララキキ」でもない。

「キキとララ」ではなく「ララとキキ」とあえて逆にしてあるのは、キキ(男)とララ(女)という男女の階層差で並べたわけではなく、ララ(姉)とキキ(弟)という姉弟の階層差で並べた可能性もある。

どうしてそんな〈姉弟〉の枠組みの可能性を持ち出したかというとこの連作には「魔女」「小鳥」「少年」「帽子」「逃げ出す」「追いかける」「秘密を隠す」といった童話的なモチーフが頻出するからだ。

だからこの「ララとキキ」は必ずしもサンリオのキャラクターではなく、この連作においてそのつど発生した〈姉弟キャラ〉とみることもできるかもしれない(童話「ヘンゼルとグレーテル」のような。ちなみに「ヘンゼルとグレーテル」は双子(ツインズ)らしいのだが、「キキララ」の正式名称は「リトルツインスターズ」であり「双子」である)。

この連作、タイトルは「ララとキキ」だが、すべての句に「向日葵」が内蔵されている。「向日葵」が入っていない句はない。その意味でこの連作は、サンリオ・童話的雰囲気をまといながらも、すべての軸が「向日葵」によって進行されていく。

しかもその向日葵は魔法がかかったように自在である。

  向日葵の影に降りれば皆小鳥  川嶋健佑

  百年の向日葵にある祖母の家  〃

  どんよりが来て向日葵が泣いている  〃

  故郷を捨てて向日葵祖父と来る  〃

  向日葵で少年に会う若き魔女  〃

  向日葵の空は開けっぱなしかな  〃

向日葵が向日葵であるだけでなく、〈マジカルな場所〉であり(みんな小鳥に)、〈人間化された主体〉であり(ひまわりが泣く)、〈名詞の修飾〉にもなっている(向日葵の空)。

ここで不思議なのは連作内すべてが向日葵で満たされていたのに、なぜ、語り手はタイトルに「向日葵」とつけなかったのだろう、ということだ。タイトルは「ララとキキ」なのである。「ララとキキ」が出てくる句は冒頭とラストにサンドイッチのように出てくるのだが、20句中5句しかない。

  向日葵へちょっと逃げ出すララとキキ  川嶋健佑

  向日葵へララ行けばキキ追いかける  〃

  向日葵の彼方まで行くララとキキ  〃

  向日葵で少年に会うララとキキ  〃

  向日葵に秘密を隠すララとキキ  〃

この5句だけ抜き出すとわかるのだが、「ララとキキ」をめぐる「向日葵」の物語はすべて「向日葵」という〈場所〉をめぐる物語になっている。つまり、「ララとキキ」が関与するときは「向日葵」は行動の範囲や性質を規定する〈場所〉になるのだが、「ララとキキ」が関与しないときは先に述べたようにマジカルな自在さをみせる。

となると、この連作はタイトルで「ララとキキ」という意図的な反転する階層をみせていたように、タイトルを「ララとキキ」とすることで「ララとキキ/向日葵」という前景/後景の階層をタイトルに仕込んでいたということができる。これは「向日葵」の物語ではない。「ララとキキ」の物語なのである。その位相を用意しなければならない。

連作タイトルは、連作の中身に、どう関わるのか。

私たちは連作を読むときに、タイトルも含めて連作を読み込まなければならない。なぜなら、タイトルが連作の階層を《自然と》つくりあげていることもあるからだ。

タイトルは、連作内に階層差をつくる。タイトルの付け方次第では、連作の表情(凸凹)は、まったく反転するのだ。キキとララと、ララとキキのように。

連作を読むときは、タイトルのありえた可能性と同時に、ありえなかった可能性も考えてみよう。連作の断層が、わかってくる。

ちなみに私は今回サンリオ公式ページをみながらこの記事を書いたが、キキとララは「ひと」ではなく「ふしぎ系」に分類されていた。おどろきだった。こんなところにも断層があるのだ。この「ふしぎ系」にはほかに「ぐでたま」や「ハンギョドン」もいて、そうか、ここは人外カテゴリーなのだなと思った。キキララは、人外なのだ。ひとじゃないんだ。いつか、誰かに、真摯に話そう。そういえばね、と。

キキララ公式解説「ゆめ星雲のおもいやり星でうまれた双子のきょうだい星。立派に輝く星になるために遠い星の国からやってきました」

キキララはひとではない。星なのだ。覚えておこう。きっと、いつか、なんかのときに、なんかの役に立つ。

          (「ララとキキ」『豈』59号、2016年12月 所収)

2017年5月25日木曜日

続フシギな短詩118[仲畑流万能川柳]/柳本々々


  骨壺に入りたいかを考える  八重根隆

毎日新聞で毎日続いている「仲畑流万能川柳」からの一句。

TBSラジオ『爆笑問題カーボーイ』2017年5月23日放送で、爆笑問題の太田光さんと田中裕二さんが次のようにサラリーマン川柳を語っていた。

  太田 カミさんの尻にしかれてる、みたいなことを言えばいいんだろみたいなさ。

  田中 新人類的なものにビビってるパターンか、奥さん、子どもに虐げられてるパターン。

  太田 部下とコミュニケーションできないみたいなのとか。あとスマホ使いこなせないとか。だいたいその辺やっとけばいいんだろみたいな。
  (爆笑問題 太田光・田中裕二『爆笑問題カーボーイ』TBSラジオ、2017年5月23日放送)

爆笑問題の二人によって〈サラリーマン川柳〉がとてもわかりやすく語られているがここで私が興味深いと思うのは、「尻にしかれてる」「ビビってる」「虐げられてる」「コミュニケーションできない」「使いこなせない」という部分である。どれも〈できない〉という〈損なわれた主体〉が問題になっている。かんたんにいうと、ここに出てくるひとびとはみな、くじかれた、〈去勢〉されたひとびとであり、なにかができなかったひとたちである。

これは大枠としては〈サラリーマン川柳〉的な川柳を基調とする毎日新聞の連載「仲畑流万能川柳」から句を任意で抜き出してみてもわかる。

  骨壺に入りたいかを考える  八重根隆

  美味そうに見えたけどなあ犬のエサ  ピロリ金太

  悪いことしていないのに句ができぬ  ひねのり

「骨壺に入りたいかを考える」終わりの主体(命の去勢)。犬のエサが「美味そうに見え」てしまう欲望の主体(人間の去勢)。悪いことはなんにもしていないのに「句ができ」ない挫折の主体(表現の去勢)。

サラリーマン川柳は少し難しい言葉でいえば、主体が去勢されたひとたちばかりなのだ。

現在の川柳には大きくわけてふたつの流れがある。ひとを笑わせる方向の社会派川柳(サラリーマン川柳、シルバー川柳、女子会川柳、オタク川柳)とひとを考えさせる方向の詩性川柳(現代川柳)である。

現代川柳は詩性川柳という〈ひとを笑わせない〉方向を取ったのだが、現代川柳でたびたび問題になるのは、詩性川柳とサラリーマン川柳の〈裂け目〉であり、〈分裂〉である。詩性川柳とサラリーマン川柳はたびたび〈違う〉ものであるように語られる。しかし、ほんとうに、そうなのか。それはわたしたちにそれをつなぐだけの〈接点〉や〈枠組み〉がなかっただけなのではないか。

たとえば現代川柳にこんな句がある。

  たてがみを失ってからまた逢おう  小池正博

これは詩性川柳なのでひとを笑わせようとはしていない。髪が全部抜け落ちてからまた逢おうと解釈すれば笑えないこともないかもしれないが(私は笑わないけれど)、でももしそうだとしても「頭髪」が「たてがみ」と語られていることが重要だろう。笑わせるならば「頭髪を失ってからまた逢おう」でも、よい。

なぜ、「たてがみ」なのか。「たてがみ」は髪だけでなく、権威や父権、あらかじめあるプライド、動物性、など喩えとしてさまざまに機能するからである。さまざまに機能するということは、当然解釈もさまざまに生まれるわけで、多くの解釈を生む詩になっていくのだ。

この句を構造としてとらえた場合、〈主体の去勢〉の句にもなっている。〈たてがみを失う〉ということは、〈主体〉が〈去勢〉されるということでもある。その〈主体の去勢〉を通してはじめて「また逢おう」と語り手が肯定的に語れたのだとしたら、これは〈主体の去勢〉を構造的に受け止めた句になっている。

もちろんこれは私のひとつの解釈に過ぎないのだが、しかし現代川柳は〈去勢〉されるととつぜん元気まんまんになることは注意しておいて、いい。たとえば、

  「けれども」がぼうぼうぼうと建っている  佐藤みさ子

「けれども」という去勢そのものが「ぼうぼうぼうと」勢いよく建っている。去勢そのものが男根化するというとんでもないダイナミックな風景だ。

爆笑問題が語っていた〈去勢〉をわたしたちは詩性川柳にも見いだすことができる。〈去勢〉という枠組みを適用すると、とりあえずは、サラリーマン川柳と詩性川柳をつなぐことができるし、実はそうかんたんに川柳というジャンルは分別できないかもしれないということがわかってくる。

〈去勢〉という枠組みの適用。

小池正博さんは、川柳のイベントで、現代川柳というジャンルは〈ジャンルの近代化〉に乗り損ねた、大岡信さんの「折々のうた」にさえ出てこなかった、と語られていたが、川柳というジャンルそのものが近代という時代を通して〈去勢〉されたというのは興味深いと私は思う。ただ、小池正博さんはそのイベントで〈去勢〉という枠組みは不満だと語られていたので、私の枠組みは恣意的なものだということを、ここに書いておく。この枠組みだと取りこぼされてしまうものを検証する必要があるし、心情的にも「あなたのよさは、くじけているところですね」というのは受け入れがたいものだと思う。

〈去勢〉という枠組みを適用すると、取りこぼしてしまうものがある。たとえば〈去勢〉はあくまでコンテンツの問題であるので、〈文体〉の問題を落としてしまう。先ほどの小池さんのたてがみ句で言えば、「逢おう」という〈文体のいさぎよさ〉をどうするのかという問題があるだろう。みさ子さんで言えば、「ぼうぼうぼうと」のような擬態・擬音語をどうするか、など。また、ジャンルの未来や共同性の問題もあるのかもしれない。去勢によって共同性がつくれるなどと言えたのは、〈分有〉の概念を提唱したジャン=リュック・ナンシーだけだったのではないか。わからないけれど。

わたしが〈去勢〉のヒントをもらったのは、NHKラジオ深夜便の頭木弘樹さんの「絶望名言を味わう」を聞いていたときだった。頭木さんはカフカを「絶望名人」と名付け、絶望から本を読み解く「絶望読書」を提唱しているが、そうした「絶望」という〈去勢〉から文化を揺り起こすことができるんだというのは私にとって新鮮な驚きだった。

また、もう一人、ヒントをくれたひとがいる。小林秀雄である。小林秀雄は、ドストエフスキーの感想を書くとしたら、ドストエフスキーが書いている以上のことを書いてはいけないと、〈書かない感想〉を提唱したが、たしかにひとは読んだ後、なにか感想を語らねばならない、ということに強迫的にさらされており、しかしその強迫的な感想(ひとは本を読んだら映画を見たらゲームをしたら感想を語らねばならない)をくじかせた点で新鮮だった。この問題については山城むつみさんの本がくわしい。

また、もう一人、ヒントをくれたひとがいる。川柳人の竹井紫乙である。私は昔、竹井紫乙の句集『白百合亭日常』の「あとがき」を書かせてもらったのだが、第一句集『ひよこ』第二句集『白百合亭日常』と続いて竹井紫乙は、〈去勢〉を迫ってくる川柳を描いてみせた。紫乙の川柳の語り手たちは、〈去勢される〉のではなく、〈去勢する〉ことを迫ってくる、のである。

  階段で待っているから落ちて来て  竹井紫乙

率直に、階段を落ちてこい、と言っている。竹井紫乙の川柳には、〈おまえも去勢される勇気があるのか〉とこちらに迫ってくる力強さがある。

また、もう一人、ヒントをくれたひとが、いや、ヒントもらいすぎじゃないか。ここらへんで、やめよう。しっかりしないと。

  「しっかりとして」しっかりとしてるのに  別人28号「仲畑流万能川柳」


          (「仲畑流万能川柳」『毎日新聞』2017年5月9日 所収)

2017年5月24日水曜日

続フシギな短詩117[新・幻聴妄想かるた]/柳本々々


  能力ある流れ者のスターの僕に「ないない」とダンボールは言う  新・幻聴妄想かるた

ある日の電話から。

Y「もしもし、ああ、はい、やぎもとです。あっ、川柳作家の川合大祐さん。こんばんは。

ああ、そうなんです、さいきん、田島健一さんの感想をときどき書いていて。うーん、そうなんですよ、田島さんの俳句を考えているうちに、ことばにとっての〈違法行為〉ってなんなのかを考えざるをえなくなって。

それで、たぶん、ことばにとっての〈違法行為〉って名詞をいじくることだと思ったんですよね。「白鳥定食」とかね。あれは、やっちゃいけないことでしょう。「白鳥定食」っていうことばをふつうはつくっちゃいけない。それはヴィクター・フランケンシュタイン博士のしたことにも近い行為なんじゃないかと思う。操作しちゃいけないものをつぎはぎしてあってはならない生命をつくるような。

でもそのことによってわたしたちは〈ふれてはならない現実〉そのものを考えることもできるわけですよね。名詞をいじくることによって、世界のルールを変えてみることで、原〈現実〉をかいま見るっていうのかな。

えっ、新・幻聴妄想かるた? ああ、そういうのがあるんですね。ええ、無関係ではないと思います。

  能力ある流れ者のスターの僕に「ないない」とダンボールは言う  新・幻聴妄想かるた

ああ、なるほど。こういうのなんですね。うんうん。たとえばこれなんかも「ダンボールは言う」と本来〈ひと〉しか持ってこられない名詞の部分に〈もの〉を持ってきているわけですよね。これもひとつの違法ですね。ただその違法行為が詩になったり〈現実〉に近づいたりしている。

あ、でも、そうそう、そうですよね。こういうのって現代川柳では常套な手段なわけですよね。

  オルガンとすすきになって殴りあう  石部明

これなんかも〈ひと〉が本来的にはあるところに〈もの〉をつっこむという言語外科手術的な処置を施していますよね。でも現代川柳ってこれが〈ふつう〉の風景なわけですよね。

うーん、だから、なんて言えばいいんでしょうか、そういう精神医療的言説と現代川柳の親和性っていうのはあると思います。どうしてそんなことになったのかわからないんですが、たぶん現代川柳が語られるときによく持ち出されることば、「詩性」「暴力」などはここらへんと関係しているんじゃないかと思うんですよね。

つまり、本来的にはいじくってはいけない場所を現代川柳はいじくってしまう。だから、新・幻聴妄想かるたとも親和性をみせる。

  バらバラだ時間も空間も  新・幻聴妄想かるた

これなんかは中村冨二の〈解体〉される去勢された風景を思い出すんですよ。中村冨二の句は、

  パチンコ屋 オヤ 貴方にも影が無い  中村冨二

というふうに根っこの部分から解体されているでしょう。時間も空間も影も解体されてしまう。これはどういうことなんでしょうね。

  チュルチュルピー小動物に演説する私  新・幻聴妄想かるた

ああ、そういう、モノに話しかける、語りかけていく世界というのも現代川柳的ですね。うーん、現代川柳はどうしてそんなことになったのかなあ。短歌には77というストッパーがあり、俳句には季語というストッパーがありますよね。そのストッパーが構造をつくってくれる。現代川柳のストッパーってなんだったんですかね。

私ね、小池正博さんがね、川柳は《断言の文体》なんだ、ってとつぜん断言されたときにすごくそれもまた川柳的だと思ったんです。断言って狂気じゃないですか。たとえば、わたしが「わたしはナポレオンです」っていうのは狂気ですね。「わたしはナポレオンかもしれない。ちがうかもしれない」だとまだ正気なんだけれども。

たしかに現代川柳って断言の文体が多いんですね。それは俳句の切れの文体とちょっと違いますね。短歌の伸びていく文体ともちょっと違うとおもう。断言の文体ってすごく意味が深い気がして。なんか断言っていうのがなあ。狂気の文体に近い気もして。でもこれはあんまりかんたんに言っちゃいけないんだけど。うーん。

川柳ってもともとは、題に対して「付」けるという付句のかたちだったわけですよね。ということは、なにかに応答する、答えることが川柳だったわけだけれど、〈答える〉ことって答え方によっては狂気になりますよね。不思議の国のアリスで、アリスに道をきかれたチェシャ猫は「こっちって、どっち?」と答えていますよね。なんかそれを思い出すんですよね。答えっていうのはときに狂気だぞって。

わたしはそういうのも含めてなかはられいこさんの句集『脱衣場のアリス』っていう「アリス」のタイトルは興味深いと思ってるんですよ。どうして現代川柳とアリスが突き合わされたのかっていうのは一度なんだかちゃんと考えた方がいい。

あのアリスが行った不思議の国は、くるっている、というよりは、言葉に忠実すぎるあまりに、文法的な正しさがくるっている世界なんですね。そこらへんもまた言語のいじくりと関連がふかいきもする。だからチェシャ猫はきいたんですよ。「こっちって、どっち?」って。言語的には「こっち」が「どっち」かわかりませんからね。それは行為ではわかりますけど、言語的にはわかりませんからね。こっちは、こっちでしかないから。だからチェシャ猫はくるっていない。《ことばを常軌を逸することなくつかえるにんげん》がくるっているんです。とワンダーランドは言っている。

でも、これもわたしの妄想なのかなあ。たぶんこんな話をすると、やぎもとはまた現代川柳をアブナい方向にもっていくんじゃないかって言われるんだろうな。でもなんだか現代川柳って一回そこらへんともつきあわせて考えてみた方がいいんじゃないだろうかっていうのが川合さんの『スロー・リバー』を読んだときちょっと思ったんですよ。なんだかあの句集で封じられていたパンドラの箱が開け放たれてしまったような気もして。

でも、かんちがいかもしれませんね。そうですね。夜も遅いし、そろそろ切ります。はい、わかりました。ええ、だいじょうぶですよ。それでは。はい。おやすみなさい。……」

         (『新・幻聴妄想かるた』 所収)


 

DAZZLE HAIKU 2 [岡田耕治]渡邉美保



帰らない人たちと居て春の山  岡田耕治


「春の山」というとき、まず明るい日差しや、芽吹く木々、鳥の囀りなどを思い浮かべる。反面、「春の山」という広い空間には、明るい日差しとは別の深い闇も内包されていて、どこか不思議な空気が漂う。

 その春の山に、「帰らない人たち」といる作者。自分の心の中にはいつもいるけれど、もういない人たち。自分の人生に深く関わった大切な人である。いま確かにここに一緒にいる、と実感できる瞬間。「帰らない人たち」の存在感がクローズアップされる。それが春の山の持つ力であり、「居て」という言葉の力ではないだろうか。

この句のシンプルな力強さに惹かれる。

 年齢を重ねていくにつれて、人は「帰らない人」を増やしていく。その感懐の深さが、春の山に呼応しているような気がする。


<句集『日脚』邑書林2017年所収>

2017年5月22日月曜日

続フシギな短詩116[最果タヒ]/柳本々々


  きみに会わなくても、どこかにいるのだから、それでいい。
  みんながそれで、安心してしまう。
  水のように、春のように、きみの瞳がどこかにいる。
  会わなくても、どこかで、
  息をしている、希望や愛や、心臓をならしている、
  死ななくて、眠り、ときに起きて、表情を作る、
  テレビをみて、じっと、座ったり立ったりしている、
  きみが泣いているか、絶望か、そんなことは関係がない、  最果タヒ「彫刻刀の詩」


最果さんの詩の力強さに、〈ない〉の力強さがある。

たとえば上の詩だが、「きみに会わなくても」と〈会わない〉ことから始まっている。「会わなくても」「みんながそれで、安心してしまう」。「会わなくても、どこかで/息をしている」と〈会わない〉が繰り返される。

〈会わない風景〉のなかにおける「きみ」のことがめんめんと語られていく。〈会わない風景〉のなかできみは「希望や愛や、心臓をならしている」。そして〈死なない〉でいる。

この「死ななくて、眠り、ときに起きて、表情を作る」の「死ななくて」の〈ない〉が「きみ」の力強さの焦点になる。「きみ」は「生きて」ではない。「死ななくて」そこにいるのだ。息をしている。

最果さんの詩には〈ない〉が満ちているのだが、それが〈ない〉になっていかないことが強度になっていく。「死ななくて」は、〈いつでも死ねる〉状態だが、しかし〈いつでも死ねる状態にありながら・死なない〉で、生きているのが、「死ななくて」である。そうしたぎりぎりの生のなかで「きみ」は「息をしている」。が、「みんな」はそんな「きみ」に「会わなくても、どこかにいるのだから」と新しい〈ない〉を持ち出して「安心してしまう」。

だから、ほんとうはこの詩は「みんな」からは《なかったもの》にされている詩だ。「みんな」は「きみ」に「会わなくても」それで「安心」しているのだから。

でも、最果さんは詩によって《そのない》をひっぱりだす。会わない風景のなかで息をする「きみ」を安心している「みんな」につきつける。

そして〈ない〉のせめぎ合いを、用意する。〈会わない〉でいいと思う「みんな」と、〈死なない〉で息をしている「きみ」のせめぎあいを。詩として、かきだす。

「生きる」ことではなく、「死なない」ことをきみのたたかう価値として。いつどのしゅんかんにだって「死んでしまう」ことをたえず思いながらも、思い出させながらも、「死なない」ことを価値にする。〈ない〉ことを価値としてわすれなく、する。

  ぼくの最低な部分が湖のように、深いところで光って、中を泳ぐ魚たちが絶対に死なないことが、実は、ちょっとだけ好きだ。
  (最果タヒ「美術館」)

  死んでしまうことを不幸だと思うなら、生きていくこともできない。
  (「とあるCUTE」)

世界の〈ある〉ではなく〈ない〉をひっぱりだし、つきつけ、せめぎ合わせ、深める。世界のとんでもなく低い場所が、きゅうにふかくなる。でもそこに、ないきみがいて、死なないでいる

  なんて地獄なんでしょう。きみも私も地獄出身。生きていたらいいことあるよ。70億人と友達になれるし、ならなきゃずっと死ねないよ。
  (最果タヒ「雪」)


          (「彫刻刀の詩」『夜空はいつでも最高密度の青色だ』リトルモア・2016年 所収)

続フシギな短詩115[山田露結]/柳本々々


  たんぽぽに踏まるるつもりありにけり  山田露結

以前から、山田露結さんの句集『ホームスウィートホーム』の構成が気になっていた。

句集『ホームスウィートホーム』は、構成として春・夏・秋・冬の四つのセクションに分かれており、その合間合間に色紙のページが入っている。それぞれの色紙には自由律句が一句ずつ載っている(五七五句や七七句など)。

春のピンクの色紙には、

  みろ。みろ。あとからあとから、虹が立つ  山田露結

夏のグリーンの色紙には、

  長男叫ぶ「今っ!今っ!今っ!今っ!今っ!今っ!今っ!」  山田露結

秋のイエローの色紙には、

  ちんこ、大人になっても一つ  山田露結

冬のパープルの色紙には、

  とうとう料理酒を飲んでる  山田露結

そして最後、中原道夫さんの解説と露結さんのあとがきのパートに入る前に、ブルーの色紙があり、

  うなだれるもホームスウィートホーム  山田露結

と載っている。ちなみに春夏秋冬の色紙には中央に大きく句が載っているのだが、最後の色紙の「ホームスウィートホーム」の句はほんとうに語り手が「うなだれ」たように隅に小さく載っている。

こうやってセクション扉の句だけ抜き出して並べてみるとわかるのだが、この扉の色紙の句はあるベクトル(ゆるい連なり)をもっている。

春扉の最初の句は「あとからあとから、虹が立つ」というように、こう言ってよければ、〈男根的〉である。「みろ。みろ」なども父権的に感じられる。『ホームスウィートホーム』という句集は〈父親的〉なものから始まった。

夏扉。その〈父親〉には「長男」がいる。「長男」が「叫ぶ」。「今っ!今っ!今っ!」と。春扉には「あとからあとから、虹が立つ」と語り手は〈これからも続く時間〉を語ったが、夏扉において「長男」は〈これからも続く時間〉を語らなかった。「今」という〈現在の瞬間〉を連呼し、シャウトしている。父は、それを聴き、記した。「ホーム」は〈家庭〉なので父親もいれば長男もいるわけだが、「ホーム」で暮らすということは、時間をずらしてくる〈他者〉と共生することでもある。「あとからあとから、虹」を語った〈父親〉は「長男」の「今っ!」のシャウトによって父権的な垂直した〈男根的〉時間をずらされていく。しかし、それが、「ホーム」だ。

秋扉。「ちんこ、大人になってもひとつ」と語り手は「あとからあとから、虹が立つ」ことを象徴的に諦めている。これは長男の〈今シャウト〉とも重なっている。「今」を何度連呼しても「今」は「今」しかないのだ。「今」がどれだけ林立しようとも「今」は「ひとつ」だ。もちろん「大人になっても」だ。「あとからあとから、虹が立つ」は長男の〈今シャウト〉を通して「ちんこ、大人になってもひとつ」に、変わった。

そして冬扉。「とうとう料理酒を飲んでる」。春に語られていた〈これから〉の始発の時間意識は、「とうとう」という帰着の時間意識に変化し、ひっくりかえった。一年を通して、ホームを通して、時間意識が、〈裏返った〉のだ(解説を書かれている中原道夫さんは露結俳句の〈逆説〉=〈ヒネリ〉を指摘している。だからこのヒネリの気分は句集に満ちている)。

最後の扉。「うなだれるもホームスウィートホーム」。「みろ。みろ」と言っていた語り手は「うなだれる」とあるように〈ホーム〉を通して〈去勢〉されたが、しかしそうした時間意識が変容する場所を〈ひねり返す〉ように語り手は「ホームスウィートホーム」と名付け、受け止めた。「うなだれ」たが、「うなだれるも」というひねりによって「ホームスウィートホーム」を見いだしたのだ。

「ちんこ、大人になって《も》ひとつ」の「も」は、〈あきらめ〉の「も」であったが、「うなだれるも」の「も」は〈意志〉の「も」である。「うなだれても、いいえ、そこはホームスウィートホーム」というわけだ。

このとき、この句集のいちばん最初に置いてある、

  人間はつくしの仲間だと思ふ  山田露結

という「人間」を「仲間」という〈帰属意識〉でとらえた一句が意味をもってくる。おそらくこのはじめの一句は、〈はじめて読んだとき〉と〈この句集を読み終えてからもう一度読んだとき〉では意味が変わってくる句である。

「人間」は「つくし」のように〈群生〉して生きるだけではない。〈群生〉のなかで思わぬ〈去勢〉を受け、時間意識の変容を感じ、それでもその〈群生〉を「ホームスウィートホーム」と「思ふ」ことがこの句集が、この句集の構成が見いだしていることなのである。

だから、

  たんぽぽに踏まるるつもりありにけり  山田露結

という「踏ま」れる「たんぽぽ」の意識を、「つもり」と逆の主体意識から〈ひねり返し〉た句が意味をもってくる。

〈ホームスウィートホーム〉とは「踏まるるつもりありにけり」を育てる場所なのだ。タフな機知で。

わたしは、ひとりでは、うらがえらない。うらがえられない。ひとは〈うらがえる〉ことを、ひとと、家族と、まなぶ。うらがえると、おなじ・ちがう顔をした、また、家がある。

家族と生きるって、なんですか。

  終点の起点に同じ立夏かな  山田露結


          (『ホームスウィートホーム』邑書林・2012年 所収)

続フシギな短詩114[西尾勝彦]/柳本々々


  会合では
   こたつ主義とは何か
   理想のこたつ生活
   こたつと本
   こたつとコーヒー
   こたつとお茶
   こたつとみかん
   こたつと猫
   こたつと湯豆腐
   こたつとおでん
   こたつと音楽
  といった事柄について
  なにも
  話し合われず
  みんなで
  みかんを食べながら
  七ならべをして
  なんとなく
  過ごしていた  西尾勝彦「こたつ主義とは何か?」


詩とは、なんだろう。詩を読むにはどうしたらいいのだろう。

むずかしいもんだいだ。

詩には定型がない。だから定型から読むことはできない。しかし詩にはなんらかの〈カタチへの意志〉がある。詩はだらだら続かないからだ。〈始まりますよという意識と終わりますよという意識〉でパッケージングされたもの。それが、詩である。

だからどんな詩にも形式を欲望する〈くせ〉がある。

それが詩を読むヒントになるのではないだろうか。詩集から自分なりにあなたなりに〈くせ〉を発見してみるということ。

たとえば西尾勝彦さんの詩集を読んでいると、名詞が並んでいく風景に出会うことがある。上の「こたつ主義とは何か?」もそうだ。みてほしい。「こたつとX」というふうに「こたつ」を軸にしながらさまざまな名詞が「こたつ」と組み合わされていく。

ここでは〈こたつの可能性〉が検討されている。「こたつ」を軸にさまざまな〈こたつパラレル〉が繰り広げられる。これは語り手がそうした〈世界〉に住んでいるからだ。この詩の語り手は「こたつ」からパラレルワールドを〈そうしよう〉と思えばすぐに展開できる語り手である。

ところが、そうした「こたつ」をめぐる「事柄」は予想に反して「なにも/話し合われ」ない。これは「こたつ主義者の会合」なのに。語り手の予想に反して「こたつ」については「話し合われず」に「みんなで/なんとなく/過ご」すのだ。

ここで語り手は〈他者〉に出会っている。「こたつ主義者の会合」に参加した語り手は「こたつ」をめぐる世界を頭のなかで事細かに展開したが、しかしその「会合」は「こたつ」を展開しない、話し合わない、「こたつ主義者の会合」だったのだ。

つまり語り手は語り手自身が持っている〈世界のくせ〉とは違う〈世界のくせ〉を持つひとびとに「こたつ」を介して、いま、出会っている

〈世界のくせ〉がちがうひと。それは〈言葉のくせ〉がちがうひとたちと言ってもいい。そしてそういうひとたちを、わたしたちは、〈他者〉と呼んで、いい。

詩とは、そうした、〈言葉のくせ〉をもつ語り手が、〈言葉のくせ〉の違う他者と出会う空間なのではないか。

だから詩を読むとき、わたしはこう思うのだ。その詩のなかにある〈くせ〉を探してみようと。そうすると、〈くせ〉を介して、〈くせ〉がリンクしていくからと。それが詩をダイビングする行為なのではないか。

わたしは、詩とは〈言葉のくせ〉を発明することなのではないかと、思うのだ。 そして詩集においては、読者にむけて、言葉をめぐる〈くせ〉がたえず「光ったり眠ったりしている」のではないかと、思うのだ。その〈くせ〉を通して、わたしは、ことばに、もっと近づく。

  近づいてくる人は
  なぜか
  僕に
   小瓶の日本酒
   牛タンの佃煮
   児童文学書
   シーサーの置物
   文楽のチケット
   ビルケンシュトックのトートバッグ
   小さな詩集
   古いウイスキー
   くまモンのバッジ
  などを
  ほいと
  分けてくれます。
   (西尾勝彦「半笑い」)


          (「こたつ主義とは何か?」『光ったり眠ったりしているものたち』ブックロア・2017年 所収)

2017年5月20日土曜日

続フシギな短詩113[鶴見俊輔]/柳本々々


  もうろく。廃墟から自分を見る方法の出発点  鶴見俊輔

哲学者の鶴見俊輔が晩年大事にしていた概念に〈もうろく〉がある。鶴見俊輔は自分から失われていくもの、もうろうとしたもの、あいまいなもの、ぼんやりとしたものを自らの哲学の基礎におこうとしていた。たとえば鶴見俊輔の〈ぼんやり〉をめぐる発言。

  ぼんやりしているが、自分にとってしっかりした思想というものは、あると思う。

    *

  人間を動かすものは明確なものじゃなくて、ぼんやりした信念なんだ。ぼんやりしているけど、確かなものなんだ。

    *

  自分をどんな時にでも支えられる考えというのは、ぼんやりした、しかし自分の一生を支える考えなんです。

    *

  自分を支える哲学の底には、自分のわかっていないものがあるのです。それが自分を支えているのです。結局、そのなかから出てきた哲学的な信条は、自分にとって重大な信条というものはぼんやりしているということなのです。明晰に、はっきり命題にできるものは、必ずしも自分を生かしている、自分を支える重大な信条じゃないのです。
  (鶴見俊輔「ぼんやり」『鶴見俊輔語録① 定義集』皓星社、2011年)

鶴見俊輔にとって〈ぼんやり〉という思想は自分を支える根っこになっている。ぼんやりがわたしを通し、生かすのだ。そしてこの〈ぼんやりの思想〉は〈もうろくの思想〉につながっていく。

鶴見俊輔の晩年の覚え書きを記した手帖をそのまま書籍化した本に『もうろく帖』『「もうろく帖」後篇』がある。編集グループSUREから最近発刊されたものだ。

鶴見俊輔晩年の毎日の覚え書きを綴る手控え帖なので鶴見の思索の断片だけでなくその日その日に鶴見が書き留めておきたかったスクラップとしての引用も記されているのだが、読んでいて興味ぶかかったのが短歌や俳句の引用が多かったことだ。

もうろく帖にはもうろくをめぐる思索の合間合間に短歌・俳句の引用がちりばめられている。

それは〈なぜ〉なんだろう。

私は短歌や俳句がどこかで〈もうろく〉や〈ぼんやり〉にリンクする文芸だからではないかと思う。これはこの「もうろく帖」という〈表現形式〉としても関係している。

「もうろく帖」には長い記述はみられない。ほとんどが数行、長くても1、2ページの断片がずっと続いていく。こうした断片の思索を重ねていくことが〈もうろくの思想〉だったとも言える。

この断片の思索とは、短歌や俳句にも言えることだ。短歌や俳句は〈始まっては・すぐに終わってしまう〉。そういう文芸形式である。この〈始まっては・すぐに終わってしまう〉ものを支えているのは、定型である。定型があるからこそ、どんなに語る主体がぼんやりしていたとしても、〈もうろく〉していたとしても、表現は成立してしまう。少し過激な言い方をするなら、語る主体がどんなにくるっていたとしても表現が成立するのが「定型」である。定型には〈もうろく〉にアクセスし、〈もうろく〉を思想化させる〈なにか〉がある。そこには、

  わからないことを
  わからないまま
  はなしつづける
  たのしさ

    *

  自分が口に出す言葉にしても、その言葉に自分が話す意図と、その言葉を発する状況とのずれを感じることが多い。自分がはなしている言葉を、はなしている自分のうしろ姿と同時に半分半分にしてとらえたらどういう意味が出てくるだろうか。
  (鶴見俊輔「もうろくの春」『鶴見俊輔語録② この九十年』皓星社、2011年)

鶴見さんの老いともうろくをめぐる記述だが、これはこのまま〈定型論〉にもなっている。定型を通した発話とは、「わからないことをわからないままはなしつづけるたのしさ」であり、〈わたし〉という存在を〈わかるわたし〉と〈わからないわたし〉の「半分半分」にすることである。このわたしがはなしているわたしの後ろ姿(岡井隆のことば、「短歌における〈私性〉というのは、作品の背後に一人の人の、ただ一人だけの人の顔が見えるということです」太字はやぎもとが強調)。

鶴見俊輔が晩年に思索し続けた〈もうろくの思想〉は〈短詩の思索〉とも通底している。

短詩とは定型による去勢でもあるわけだが(量的にしゃべれなくなること)、しかしその去勢の奥に質的な「ある」があらわれてくる。

  もうろくという感覚を自分でとらえてみると、もうろくの中心に「ある」というこの感覚がある。昨日までできたことが、ひとつひとつできなくなる。その向こうに、「ある」という感覚が、待っている。
  (鶴見俊輔「もうろく」『鶴見俊輔語録① 定義集』前掲)

絶対に誰からも気づかれようもないことなのでここに書いてしまうが、実は安福望さんとの共著『きょうごめん行けないんだ』は鶴見俊輔さんの『定義集』のような本がつくりたいねという話から始まった。鶴見俊輔さんの〈できなくなっていく思想〉に基づいた言葉辞典のような本がつくりたいねと。そのなかで、いろんなことができなくなっていったひとの、それでも生きていかなければならない話をしたいね、と。

  私にはもうろくのけいこをする機会があった。うつ病の期間三度。
  (鶴見俊輔『もうろく帖』2010年、編集グループSURE)

だからあの本のベースは、実は鶴見俊輔さんにあった。


          (『「もうろく帖」後篇』編集グループSURE・2017年 所収)

2017年5月17日水曜日

続フシギな短詩112[安福望]/柳本々々


  季語の必要性ってずっとわかんなかったんですけど、俳句という場に死者をよみがえらせるための呪文のような、装置のようなものなのかなって  安福望

『きょうごめん行けないんだ』の「俳句」の項目で安福望さんが次のようにひとりで語っている。

 この前東京でみた杉本博司さんの新しい劇場シリーズの写真をときどき思い出すんですけど、何回思い出してもなんかこわいんです。廃墟になった映画館で映画をながしてそれを杉本さんがいつもの方法で写真をとってんるですけど死んだ映画館を無理やり蘇らせてるのが死者を蘇らせてるように見えて。その杉本さんの写真がわたしにとって俳句のイメージだなって思いました。季語のの必要性ってずっとわかんなかったんですけど、俳句という場に死者をよみがえらせるための呪文のような、装置のようなものなのかなって思って、だから必要なんですよね。ないと俳句の場にならないんですよね。あたりまえですけど。死んだ映画館って生きてるひとには見えてないけど、ずっと映画がながれつづけていて、幽霊たちが見てんじゃないかなって思いました。だから杉本さんの写真、映ってないけど、死者がうつってるようなみえるような気がしました。
  (安福望「俳句」『きょうごめん行けないんだ』食パンとペン、2017年)

安福さんが俳句を語るのは意外かもしれないが、安福さんは〈短歌的〉なひとなのではなく、〈俳句的〉なひとなのではないかとおもうことがある。

安福さんの絵をみていると、ひとや動物よりも〈場所〉が主体になっていることが多い。ときどき、まるでそこに仕方なく添えるしかなかったように、やむをえなかったんだよという感じでひとや動物がそっけなく〈場所に添えられている〉場合もある。

安福さんはほんとうはがすきなのだという。木がとても好きなのだそうだ。木をひたすら集めたいとも言う。ただ〈それをやってしまう〉となんだかヤバい気がするので、そこをすこし〈よけている〉という。

たしかに、木ばかりの絵だと、とたんに安福さんの絵は荒涼としてくるだろう。私たちにとってひとや動物などの〈キャラクター〉はいつでも翻訳者である。その翻訳者たちが消えた世界はムコウの世界である。

安福さんの世界観の根底に、木ばかりの風景がある、というのをきいたときに、わたしはその風景をすこし〈俳句的〉にかんじた。ひとがいない風景。でもそれをみている〈ひと〉がいるしかない風景。この『きょうごめん行けないんだ』という本は〈会話辞典〉なのだけれど、この「俳句」の項目では会話はなされていない。安福さんがただひとりでしゃべり、しゃべり終えただけである。この「俳句」の項目には、誰も、いない。わたしも、なんにも、しゃべっていない。安福さんはいったいにむかってしゃべっていたのか。

ときどき、イラストとマンガの違いをかんがえるのだが、わたしはイラストとマンガの違いは〈マグカップに絵が載せられるかどうか〉なんじゃないかと考えている。毎日使用するマグカップに載せられるくらいの〈積極的そっけなさ〉がイラストなのだと。マンガだと情報量が濃密すぎて、毎日使うマグカップにそぐわないのだ。

そう考えたときに、そのイラストとマンガの違いはそのまま、俳句と川柳の差異にスライドできるんじゃないかという気もしてくる。イラストは俳句的で、マンガは川柳的という見方ができるんじゃないかと。

これもまたマグカップ理論とおなじで、過剰性の差である。イラストと俳句は過剰性から距離をおくことで成立しているが、一方、マンガと川柳は過剰性をさらに盛り込んでいくことで成立していく。

川柳人の渡辺隆夫さんはかつて、

  俳句の読みとか川柳の読みなどから解放されて、普通の一般的な読み方が必要だ。そして、現代における一般的な読みとは、マンガ的読みということになる。
  (渡辺隆夫「隣りは何をする人ぞ」『セレクション柳論』2009年、邑書林)

と述べたが、この「マンガ的読み」というものを今いちどそういう文脈で考え直すこともできる。たとえば、過剰な川柳に対しては、過剰な読みで対応=対抗しなければならないということ、など(逆に、俳句という形式にとって過剰な読みをした場合、どういう〈読みのしくじり〉が起きてしまうのかという問題も含めて)。

安福望の世界観の根底にあるらしい〈木の風景〉というものはこうしたさまざまな意外なリンクを考え(直)させるようにも、おもう。

ところで『きょうごめん行けないんだ』のいちばんはじめの「挨拶」の項目で安福さんが、

  はじまったらおわりますもんね。

と言っているが、ほんとうに、そう思う。なんでもそうだが、はじまったら・おわる。どんなに緊張した場でも、吐き気がして卒倒しそうな場でも、とにかく、はじまったら・おわる。

はじめられさえすれば、おわるのだ

要は、〈はじめられるか・どうか〉なのだ。〈そこに・そのとき・ちゃんといられるかどうか〉だ。そこに・そのとき・その自分がいられさえすれば、あとは、もう、はじまったら・おわる。だからどんな場所だって、だいじょうぶだ。ひとがしなければならないことは、そこにたどりつくこと、だけなのだ(ただし、そこにゆかねばならない。なにがなんでも。どんな手を尽くしても。でもゆきさえすれば、あとは勝手におわってくれるのだ。ほうけた顔で座っていても、だいじょうぶ。たぶん)。

どんなにそれが艱難辛苦の場所だって、はじまったら・おわる。それをわたしは勇気にしていこうと、おもう。



          (「俳句」『きょうごめん行けないんだ』食パンとペン・2017年 所収)

2017年5月16日火曜日

続フシギな短詩111[鴇田智哉]/柳本々々


  人参を並べておけば分かるなり  鴇田智哉

111、という数字をみてまるで並べられた人参みたいだね、と思う。

ひとは並べられた人参をみたときに、なにを思うのだろうか。

わたしだが、御前田あなたというひとが次のように言っている。少し長くなるが引用してみよう。

 田島健一は「現実」とは「餌場の鶴」のようなものであり「質問してはいけない」と言っている。質問してはいけないよ。そう、いけない。もし「餌場の鶴」が質問に〈答え〉てしまったら、私たちは今あんのんと住んでいるこの世界に帰ってこられなくなるかもしれないからだ。だから、決してきいてはいけない。いけない、がしかしそれが「現実」の手触りなのである。「現実」とは質問してはいけないものなのだ。好きなひとにきいてはいけないたったひとつの質問のように。

 そもそもふつうに生きていると「現実は鶴だ!」という発想が出てくるのかどうかという問題がある。これを鶴問題と呼ぼう。現実は採用試験だ! とか言う人はいても、現実は鶴だ! という発想ってなかなかないんじゃないか。本気で戦ったら鶴には勝てそうだし。わからんけど。負けるかもしれんけれども。くちばし長いし。

 ただちょっと思うのは私も季語をベーシックとする世界に生きていたら「」って発想がふっとでてきたかもしれないなあということだ。そこには、俳句を生きる、俳句を暮らす、ってどういうことなのかという問題があるような気がする。季語というのはひとの認識の根っこそのものに侵蝕してくる。触手のような。触手、わかるかな

 ひとは鶴と暮らさない。ひとは鶴を食べない。ひとは鶴をかわいがらない。ひとは鶴に仮装しない。ひとは鶴をぬいぐるみで所有しない。しかし鶴は季語としてならひんぱんにアクセスすることができる。それは現実に似ていて、やり方さえわかれば、アクセスすることができる。ただし帰り方は、また別だ。アクセスしてしまったら帰ってくる方法はじぶんで見つけなければならない。もちろん、鶴に触れたきり帰ってこなかったひとたちも、いる。そのひとたちが、いま、どうしているかは、わたしは、知らない。わからない

 今、田島健一の俳句を考えてきて思うのは、季語というのが或る〈世界の認識〉に関わっているということだ。これは私にはとても新鮮だった。季語というのを私は〈使う〉ものだと思っていたから。けれども、田島俳句における季語はちがう。田島俳句における季語は〈このわたし〉の生を侵蝕するのである。認識の根っこにタッチしてくる。

 この季語と認識/認知のかかわり合いを教えてくれたのが田島俳句なのだが、このとき、わたしは鴇田俳句のことをあらためて思い出した。

   人参を並べておけば分かるなり  鴇田智哉

 樋口由紀子が鴇田俳句についてこんな評を書いている。

   「人参」は冬の季語とされているようだが、そうなのかと不思議な気さえする。だから、当然季語としてのはたらきはわからない。…なぜ「人参」で分かるのだろうか。確かにいろんなものを並べていると見えてくるものがあるが、「人参」は思いつかない。「分かる」ということの意味を考えた。…おかしなことがあまりにもふつうに書かれている。
   (樋口由紀子「言葉そのものへの関心」『MANO』20号、2017年4月)

 ここで樋口由紀子が書いているようにこの句は「人参」という季語を通して、〈わかる/わからない〉といった認識/認知のあり方そのものを問うてくる。樋口由紀子が「「分かる」ということの意味を考えた」と書いたように、人参を並べておけばわかりますよ、わかるんですよ、と言われても、いったいなにが? だれが? どこで? なんのために? と思うからだ。しかし、そもそも〈分かる〉とはいったいなんのことなのか。ひとが、はいわかった、と膝をたたくとき、いったいそのひとは、〈なに〉が〈わかっ〉ているのか。わかるよ

 この句にあらわれているのは、そうした〈人参(にんじん)〉と〈認知(にんち)〉の関係である。これがたとえば、〈書物〉と〈認知〉、〈愛〉と〈認知〉だったらまた違った風合いをみせるだろう。しかし、「人参」なのである。「人参」は〈認知〉と関わりがない。しかし、季語を通したベーシックな世界観では、〈それ〉が問題になるのだ。

 おかしなことがあまりにもふつうに書かれている

 私も、そう思う。だが、「餌場の鶴」が〈現実〉となってしまう世界とはそういう世界である。そしてそれが俳句のリアルなのだと田島健一は言っていた。だからこの「人参」も俳句のリアルなのだと言える。この「人参」はリアルなのである。リアルが〈ワカル〉を導いている。

   毛布から白いテレビを見てゐたり  鴇田智哉

 私はある時期からこの句のことをずーっと考えている。なんにもわからない、と言いながら、わかることを放棄しようとしながら、考えている。〈なに〉を見ているのだろう。「白いテレビ」を見ているのか。「白い」画面を見ているのか。要するに、なにも見ていないのか。なぜ、「毛布」からなのだろう。ひょっとすると、語り手は、もう、死んじゃっているのか。だとしたら、死後のにんげんが〈見〉ているものとは、なんなのか。それとも、ゆめうつつなのか。ゆめうつつのときの〈見る〉ことのレベルとは、どれくらいなのか。わからない。わからないが、〈見る〉ことそのものが問われている。見ることってそもそもなんでしたっけ、と。うーん

 私はこう言った俳句があらわれていることをとっても不思議に思うし、田島健一や鴇田智哉が奏でる季語を通じた危機的な生の様相が、どこか表現というものの根っこにも関わるような気がしている。でも、今、言えることは、たったこれだけだ。

 わからない、と。なにか今、わからない、とあえて言うことが、正しい、ことのように感じられる、と。だから。
 けっきょくなんにもわかりませんでした

御前田あなたは、そう、書いていた。

         (「言葉そのものへの関心」『MANO』20号、2017年4月 所収)

2017年5月15日月曜日

続フシギな短詩110[三谷幸喜]/柳本々々


  鼻がかゆいのです なぜか
  鼻がかゆいのです なぜか
  気になって
  気になって
  演奏どころじゃない  三谷幸喜

三谷幸喜のミュージカル『オケピ!』からピアニストが歌っている部分を抜き出してみた。

ピアノの演奏中は鼻がかゆくてもかけない。しかし鼻がかゆい。どうすればいいのか。そのピアニストの悲しみや切なさを歌い上げている。

この『オケピ!』で興味深いのは、歌っているときは自分自身の心情を素直に打ち明けられることだ。つまり、歌っているときの言葉というのはすべてひとりの〈内面〉の言葉であり、他人には聞くことのできないモノローグだということになる。

ひとと話すときはふつうの言葉でしゃべり、ひとに話せないことは歌になっていく。こうした言葉の位相が、『オケピ!』には見られる。

ところがこの『オケピ!』が面白いのは、最終的にこうしたモノローグとしての歌だったはずの言葉の位相が劇が進行するにつれて〈全員〉の歌=言葉になっていくところだ。歌っているうちにひとりひとりの内面が混じり合っていくのだ。

『オケピ!』は最終的に、

  たとえばどんな出来のよくないミュージカルにも
  きっとあるさ みんなの好きなうた
  そこにいることのしあわせ
  歌のよろこび

と全員(みんな)の合唱で終わるのだが、この言葉の位相はもはやひとりの内面の位相なのか、みんなの内面の位相なのかわからない。舞台が進行するにつれて、登場人物たちの内面の位相が、〈ひとり〉から〈みんな〉に変わってゆく。それが「歌のよろこび」であり『オケピ!』なのである。

だから『オケピ!』のギミックとは、ひとが歌うときにチャンネルを変える意識のモードを仕掛けとして使っていることだ。ひとは歌をうたっているとき、意識のモードが違う。しかしその異なる意識のモードが、〈みんなの意識〉のモードになることがある。これが『オケピ!』なのだ。

歌うときにひとは意識のモードを変えること。

しかし考えてみればこれは短歌や俳句や川柳もそうではないだろうか。短歌や俳句や川柳はふだんの意識のチャンネルと〈ちがう〉ふうにしてうたわれているはずだ。

それはたとえば電話口でとつぜん短歌や俳句や川柳をそれとなくしゃべってみるとよい。「あれどうしたの?」となるはずだ。「どうした?」と。ふだんの意識のモードと違うはずだから。

うたうことと、〈なんかあった?〉には、関わりがある。

藤井貞和さんが『事典 哲学の木』の「うた」の項目で、「うた」うことによるモード・チェンジをこんなふうにえぐりだしている。

  うたっているひとのしぐさを見ると、大口をあけ、紅潮した顔を人前にさらし、律動に身をゆだねて、もしうたっている動作だと知られない場合には、まったくどうかしている、と他人はあきれざるをえない。うたう行為だから、うわずる声も、異常な低音も、だいたい許可され、一般にははずかしいはずの絶叫や、からだをゆすってうっとりすることも、まあまあはずかしがらずにやれる。…うたう身体はそのような「われをわすれる」状態にある。
  (藤井貞和「うた」『事典 哲学の木』講談社、2002年)

うたう、という行為はなんらかの、意識の、ことばの、モードを変化=変成させる(ここから古代の〈歌う合コン〉である歌垣文化を考えてみてもいい。参考「音で訪ねるニッポン時空旅「古代の合コン!?歌垣」NHKラジオ第2)。そしてそのモードの変成を探求するのに、ミュージカルはもってこいとも言える。いつ・うたいだすのか、なにを・うたいだすのか、だれに・うたいだすのか、なんのために・うたいだすのか、うたっているときに・なにが変わっているのか、うたったあとに・どう変わったのか、けっきょくそのひとにとって・うたとはなんだったのか。これらのモードの変成を教えてくれるのがミュージカルである。

そしてわたしは短歌や川柳や俳句は、その意味で、実は、ミュージカル的だと思うのだ。だって道を一緒に歩いているひとがとつぜん短歌を詠(うた)いだしたら、ど、どうしちゃったの、と言いますよね。ただその〈ミュージカル性〉を〈隠して〉成り立っているのも、また、短詩型文芸なのではないかと思うのだ。

なぜ、ひとは、うたうんだろう。そしてうたったあと、なぜ、真顔でまた暮らしをつづけるのだろう。

ずーっと、考えている。ずっとね。

ところで電話越しにうたってもバレない短歌・俳句・川柳というものが存在するだろうか? うたったあとに、うんそうだね、と相手がいってくれるような。いっしゅんたりともあなたが気づきさえもしなかったような。

  もうお風呂の後、濡れた体でいつまでも歩き回らないよ。君の姪っこの誕生日には必ず電話を入れて、ミッキーマウスの声でハッピーバースデーを唄うよ
  (三谷幸喜『オケピ!』白水社、2001年)


          (『オケピ!』白水社・2001年 所収)