2017年10月6日金曜日

超不思議な短詩235[オクタビオ・パス]/柳本々々


  しばしば、連歌は日本人に対し、自分自身から脱出する可能性、孤立した個人の無名性から、交換と承認が形づくる円環へと転じる可能性を提供したのではないかと思われる。  オクタビオ・パス

今年の夏に青森の川柳ステーションに呼ばれたときに、ある方から連歌(連句)に誘っていただいてそれからずっと今も続けている。

オクタビオ・パスの『RENGA』序文のことばは、連歌の性質をよく、わかりやすく、あらわしていると思うので、引用してみよう(私は大学の頃、パスの「波と暮らして」という運命の波と浜辺で出会い、波と同棲し、波と添い寝し、波と破局する超現実的な短篇が大好きだったが、まさかまた別のかたちでパスと巡り会うとは思わなかった)。

  しばしば、連歌は日本人に対し、自分自身から脱出する可能性、孤立した個人の無名性から、交換と承認が形づくる円環へと転じる可能性を提供したのではないかと思われる。これは階級制度の重圧から自己を解き放つ一つの方法だった。連歌は礼儀作法に匹敵するような厳格な規則にしばられてはいるものの、その目的は個人の自発性を抑え付けることではなく、反対に、各人の才能が、他人にも自分自身にも害を及ぼすことなく発揮されるような自由な空間を開くことにあった。
 (オクタビオ・パス『RENGA』序文)

連歌(連句)をやってみて体感的にすごくよくわかったのが、俳句とは発句だというのが実感として理解できたということだ。わたしはずっとこの発句というのはいまいちよくわからなかった。連句のはじまり、出「発」としての発句は、はじまりだからきちんとしていかなければならない。だから、切れや季語によってきちんとする。それでいて、はじまりなのだから、これからの長い旅への挨拶になっていなければならない。これは小澤實さんがよく書かれている俳句は「挨拶の文芸」とも通じ合う。

「挨拶」がつねに誰かに向けてなされるものであるように、発句という一句屹立するものでありながら、次に続くひとのことを考えるのも連句である。これをパスは「交換と承認が形づくる円環」というふうに表現している。

「交換と承認」のサークルのなかで、じぶんがどこまで個性を発揮していいのか考えながら、じぶんの出力のバランスをかんがえながら、同時に、これまで続いてきた句を、いま、じぶんがつくる句にどのように入力していくかのバランスも考えながら続けていく連句。

小池正博さんがかつて書いていたように、連句は後戻りすることはできない。前へ前へ〈それでも〉進んでゆく勇気が、連句である。

だから、あまりにネガティヴになると、だんだん連句の座が暗いムードになっていくので、捌きというリーダーのひとから、やぎもとさん、ちょっと暗いです、暗すぎます、と注意を受けるのだが、ああわたしって暗いんだなあ、と連句をやってはじめてわかった(それまでは明るい人間だと思っていたのだ)。ただし実はこれは現代川柳そのものがわりと暗い色調をもっているからなのではないかとあとでうつむきながら考えたりもした。

浅沼璞さんの本を読んでいて知ったのだが、小津安二郎も連句をよくやっていたらしい。たしかに、自分の個性の入出力のバランスをとりながら、ぽんぽん会話しながら、なにがあってもそれでも前へ前へと進んでいく小津安二郎映画の風景は、連句の風景によく合うように、おもう。

いや、そもそも連句は、小津安二郎が言うように、映画的、なのだ。

  ゴム林の中で働く仕事を命じられ、そこに働いているあいだ暇をみては連句などをやっていました。撮影班の一行がその仲間なんです。故寺田寅彦博士もいわれていたが、連句の構成は映画のモンタージュと共通するものがある。
 (小津安二郎『キネマ旬報』1947年4月)

         (「受け継ぐこと、紡ぐこと」『リアル・アノニマスデザイン-ネットワーク時代の建築・デザイン・メディア』学芸出版社・2013年 所収)