2017年9月29日金曜日

超不思議な短詩230[江國香織]/柳本々々


  身も世もなく恋をした果ての結婚も
  なんとなくなりゆきで
  気がついたらしていた結婚も結婚で
  世界じゅうに結婚が
  あふれ返っているのでした
  たとえばこの
  あかるい夏の夕暮れに  江國香織「世界じゅうに結婚が」

江國香織さんの詩を読んでいると、ひとが・ひとと〈いっしょにいる〉ってどういうことなんだろうと、考えさせられる。

  あの路地にもこのビルにも
  結婚したひとたちが住んでいて
  あの電車にもこのバスにも
  結婚したひとたちが乗っていて
  あの花屋でもこの八百屋でも
  結婚したひとたちが働いている

  続いていくそれも
  破綻するそれも
  みずみずしいそれも
  かさかさのそれも
  饒舌なそれも
  寡黙なそれも
  結婚は結婚で
  世界じゅうに結婚が
  あふれ返っているのでした
  たとえばこの
  あかるい夏の夕暮れに
  (江國香織「世界じゅうに結婚が」『扉のかたちをした闇』)

この「結婚」をめぐる詩は、「結婚」を制度的にとらえた詩ではない。ただ、〈おどろいた〉のだ。「世界じゅうに結婚があふれ返っている」ということに。そしてその「結婚」がどんなプロセスを含んでその「結婚」に行き着いていたとしても、それは〈わたし〉にとって等質な、あふれ返った「結婚」でしかないことに。

ただ、それを、びっくりしている。

〈いっしょにいる〉ひとたちが「あふれ返」るように〈いてしまう〉ことに語り手はおどろいている(そしてたぶんそのなかに〈この・わたし〉も含まれてしまうことに)。

「たとえばこのあかるい夏の夕暮れに」という時間の限定に注意してみよう。これは語り手が「たとえばこのあかるい夏の夕暮れに」「世界じゅうに結婚があふれ返っている」ことに〈気づいた〉ことをあらわしている。ある時間の区切りのなかに、「たとえば」というある任意の時間のなかに。この「たとえば」はわたしたちには関係のない時間だ。でも語り手にとっては関係のある時間なのだ。〈あるとき気づいてしまった〉時間として。

「世界じゅうに結婚が」いっぱいあること、は気づきさえすればいつでも気づけたはずなのだけれど、語り手は、とうとつに、「たとえばこのあかるい夏の夕暮れに」気づいてしまった。ひとが・ひとと〈いっしょにいる〉ことのふしぎさに。

江國香織さんの詩は、そうやって、〈いっしょにいる〉ことの不思議さに、あるとき、かみくだきながら(あの路地にもこのビルにも/あの電車にもこのバスにも/あの花屋でもこの八百屋でも)、きづいてしまう。そのときの、ふしぎさは、〈いっしょにいるってふしぎだね〉という〈あたしたちは運命的(非論理的)にであっちゃったんだね〉というほほえましいものではない。〈いっしょにいる〉ことが〈いっしょにいる〉の意味をぜんぶ剥ぎ取られながらも、それでも〈いっしょにいる〉ことしか残らないような、ちょっと、おののくような風景である。つまり、運命論とは別の、〈あたしたちの出会いなんてなんでもないのかもしれないね。それでもあたしたちはいっしょにいようとするんだね。これってなんなんだろうね。しかもそうした出会いで世界じゅうあふれ返っているんだ〉という風景。

こんな詩をみてみよう。

  よく知らない男の人と
  寝るときには緊張します
  と言えば放埒(ほうらつ)なようですが
  最初のときには
  誰だってよくは知らない男の人です
  すこしずつなじみ
  いとしんだりいとしまれたり
  あふれたりあふれさせたり
  して
  やがて
  よく知っている男の人と
  安心して寝られるようになります
  (江國香織「よく知らない男のひと」同上)

ここには〈いっしょにいる〉になるまでのかみくだかれたプロセスが描かれている。たとえよく知っている男の人でもセックスのときに至っては、いったんゼロに、「よく知らない男の人」になること。それから「すこしずつなじみいとしんだりいとしまれたりあふれたりあふれさせたりしてやがてよく知っている男の人」として〈いっしょにいる〉のに「安心」できる「男」になること。けれどそのとき、その〈気づき〉に到達したとき、〈いっしょにいる〉ことの危機もやってくる。

  けれど
  でも
  よく知っている男の人とのあれこれはみんな
  おぼろであいまいな一つの記憶にすぎなくなり
  記憶のなかでしたたかに微笑み
  私を誘(いざ)ない
  焦がれさせるのは
  もうどこにもいない
  よく知らない男の人
  だったりします
  (江國香織、同上)

「よく知っている男の人とのあれこれはみんなおぼろであいまいな一つの記憶にすぎなくなり」、〈いっしょにいる〉という「安心」に対して、「よく知らない男の人」からの〈いっしょにいよう〉という「誘い」がやってくる。「よく知っている男の人」との〈いっしょにいる〉は、「よく知らない男の人」の〈いっしょにいよう〉からの危機にさらされる。

語り手が、世界じゅうに結婚があふれ返っている、とある日、それまで〈当たり前〉だったことを、〈知らなかったわたし〉と〈知ったわたし〉を通して気づいたように、そしてそのことを通して〈いっしょにいる〉とはどういうことかに気づいてしまいそうになっているように、〈知らなかったあなた〉と〈知ったあなた〉を通して、やはり語り手は〈いっしょにいる〉とはどういうことかに気づいてしまいそうになる。

  けさ
  めがさめて
  さいしょに
  たこを一匹
  まるごと茹でて
  たべたいと
  おもった
  (江國香織「一月の朝」同上)

「めがさめて」「たこを一匹まるごと茹でてたべ」るような唐突で・圧倒的で・感覚的な〈気づき〉が、だれかと〈いっしょにいる〉ときに、〈いっしょにいる〉ひとをみたときに、江國さんの詩にはしばしば訪れる。それは「たこ」のように、どこか露骨に具体的で、しかし、つかもうとすると未知であるような〈気づき〉なのだが、〈いっしょにいる〉とき、〈いっしょにいない〉ときに、その「たこ」的な気づきはやってくる。

だれかといっしょにいることは、なんなのだろう。だれかといっしょにいないことは、なんなのだろう。すごくシンプルで、ありふれていて、根の深い問いだと、おもう。うまれたときから、しぬまで、ひとが、ありふれた顔をしながら、ずっと問いかけていく、問いだと、おもう。

  そして私は
  二月の音楽にとじこめられる
  ミートソースの具体的な匂いまで

  私はなぜまだここにいるのだろう
  ひとりで この世に
  この部屋のなかに
  (江國香織「二月の音楽」同上)


          (「世界じゅうに結婚が」『扉のかたちをした闇』小学館・2016年 所収)