2017年9月3日日曜日

続フシギな短詩196[前田夕暮]/柳本々々


  春あさみ髪洗ひをるわが妻のひそけきさまを吾はみまもる  前田夕暮

ちょうど戦後くらいの前田夕暮の歌なのだが、春も浅いなかで目立たぬように密かに髪を洗っている妻のようすを語り手はじっとみつめている。

あれこんな歌、現代にもあったよな、と思ったのだが、たとえばこうした〈愛しいひとをみつめる〉系譜はこんなところにたどりついているのではないだろうか。

  終電の連結部分で恋人を異常なぐらいじっくりと見る  谷川電話

ときどき、非対称の〈視線〉はどう救済されたり相対化されたりするんだろう、と思うことがある。妻をみまもる吾の〈まなざし〉、恋人をじっくりと見る〈わたし〉の〈まなざし〉、それはどう〈見られた人間〉とイーブンな関係になりうるのか(なりえないのか)。

たぶん夕暮の歌を過剰にしてゆくと電話さんの歌に行き着くのではないかと思うのだが、この電話さんの歌が、「じっくりと」相手を「見る」なかで、それでもどこか相対化されているように感じるのは、「異常なぐらい」と自分自身への〈まなざし〉が差し挟まれていることだ。

これは「終電の連結部分で」から実はそうで、「異常なぐらいじっくりと見」ているにも関わらず、語り手はその〈まなざし〉に没入せず、「終電の連結部分で」とまずじぶんたちがいる場所を遠景から〈み〉ている。

また「恋人」という呼称にも注意したい。ここは人名でもなければ、きみやおまえでもなく、「恋人」となっている。「恋人いる? いない?」ときくように、「恋人」というのは第三者に説明するときの言葉である。「異常なぐらいじっくりと見」てはいるのだが、その「異常なぐらいじっくりと見」ているさまが、歌の全体的な〈外〉からの質感に客観視されていくという、実はとても不思議な歌だ。

こういう視線を短詩独特の〈まなざし〉と呼んだらいいだろうか。夕暮の歌もそうで、「みまもる」と言いながら髪を洗っている妻を実は「異常なぐらいじっくりと見」ているのかもしれないが、ただ「春あさみ」と情景は遠景として気にされている。「わが妻」という言い方も、説明的である。

ここには、ひとは、ほんとうに、〈まなざし〉に没入することができるのかどうか、という問題が隠されているような気がする。愛しいひとというのは、そうした、問題をあぶりだしてくる。愛しいひとを、じっくりとみたときに、その〈異常なまなざし〉そのものがせり出してきて、まなざしがわたしをはじき、まなざしそのものに不思議な距離をとらせてしまう。それが、短歌として形式化されてしまう。

だとしたら問題はこうだ。

問い。ひとは人生のなかで、ほんとうにたった一度でも、そのまなざしのなかにちゃんと没入しながら、恋人の顔を異常なぐらいじっくりと見ることができるのかどうか適切なことばも不適切なことばも使いながら記述しなさい。

  顔を近づけ過ぎてだれだかわからない  佐藤みさ子

          (『現代短歌鑑賞シリーズ 前田夕暮の秀歌』短歌新聞社・1975年 所収)