2017年9月20日水曜日

超不思議な短詩226[千葉雅也]/柳本々々


  ツイッターの一四〇字以内というのも、短歌の五七五七七やフランス詩の一二音節も、非意味的切断による個体化の「原器」であると言えるでしょう。  千葉雅也

千葉雅也さんの『動きすぎてはいけない』という本は、すごく乱暴に簡略に(かつ私が理解できた範囲で)言えば、現在のなんにでもすぐアクセスできてしまうような接続過剰の世界で、どのように〈切断〉をみずから持ち込み、取り入れるか、〈動きすぎてはいけない〉をつくりだせるか、ということが書かれていたように思うのだが、その〈切断〉の〈器〉のヒントは、実は、ツイッターメディアの制約された文字数や定型にもあるのかもしれない。

たとえばすごくかんたんに言うとこんな経験はないだろうか。あの番組をみなくてはならない、あれをブログに書いておかなくてはならない、あのサイトをチェックしなくちゃならない、Amazonがまた商品をおすすめしてきていて・しかも自分の嗜好にどんぴしゃなので・買わなければならない。これは、接続過剰の一例である。わたしたちはたぶんもう〈とまっていて〉も、どんどん・動く。動きすぎる。動きすぎて(どこにも)いけない。

つまり、今考えなければならないのは、どれだけわたしたちが動いていけるか、ではなくて、どういうふうに工夫して〈動きすぎない〉でいられようにするか、接続過剰な世界で、切断をはぐくんでいけるか、ということなのだ。

  ツイッターの一四〇字以内というのも、短歌の五七五七七やフランス詩の一二音節も、非意味的切断による個体化の「原器」であると言えるでしょう。これら様々なフォーマット、決まり事は、私たちの「もっと」=欲望の過剰を諦めさせるものであり、精神分析の概念を使うならば「去勢」の装置である。けれども、おそらくこう言えるのではないでしょうか。去勢の形式は複数的である、と。つまり、《諦めさせられ方は、複数的である》。だから、別のしかたでの諦めへ旅立つこともできるのです。
  (千葉雅也「あとがき」『別のしかたで』)

千葉さんのこの本の「別のしかたで」というこのタイトルが重要だと思うのだが、この文章を読んで気付くことがふたつある。

まずひとつは、あ、そうか、定型っていうのはひとつの去勢の練習になるんだということだ。そして、もうひとつは、去勢というのはひとつなんかじゃない、実はいろいろあって複数なんだ、ということだ。

ここには二重の「別のしかたで」がある。

ひとつは、とまらない欲望をあえて切断し、定型をとおして、去勢させることで、みずからの欲望の「別のしかた」、言語や思想や世界の「別のしかた」に出会うこと。

もうひとつはその「別のしかた」の去勢のありかた、欲望や、発話や、思想や、世界の去勢された「その別のかたち」自体にさらに「別のしかた」が《いろいろ》あるのだという《別のしかたの複数性》に気付くこと。

以前とりあげた筑紫磐井さんの句をみてみよう。

  行く先を知らない妻に聞いてみたい  筑紫磐井

「行く先」という〈意味論的な答え〉を「聞いてみたい」のだが、定型という「非意味的切断」に〈去勢〉されてしまう。ここには意味論的に問いかける主体が、非意味論的に切断される様態があらわれる。でも、こうした主体の去勢のありかた、躍動のありかたが定型詩なのだとも言える。定型詩は、いくら問答体のていをなしても、答えをみちびきださない。さいごに、去勢されるから。

じゃあこんな短歌はどうだろうか。

  雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁  斉藤斎藤

たしかに答えはでている。問い、「なんでしょう」。答え、「これはのり弁」。でも、このぶちまけられているのり弁にであっている出来事の「行き先」にたいする答えはない。それは定型が締め切ってしまっている。主体がわからない「ぶちまけられて」の無人称の暴発的な挿入。ここではまるでのり弁よりも人称がぶちまけられている。この歌の解釈は、いくつもの主体の「別のしかたで」が付随していくだろう。でも答えが定型詩そのものにはない以上、読み手の主体もつねに「別のしかたで」を続けてゆくしかない。定型詩は、答えることなく、締め切ってしまう。語り手に対しても、読み手に対しても。

定型詩というのは、〈わたし〉という主体の「別のしかたで」をずっと考えていく詩学なのかもしれない。ただそれは、答えがでた瞬間、その答えの「別のしかたで」がすでに・つねに待っているような、そういう詩学だ。

去勢を、別のしかたで、を考えること。

  しかし、真剣に少しでも新しいものを作ろうと思ったら、あまりにも多くのことがなされてしまったという歴史に真剣に絶望しなければならないのです。
  (千葉雅也『高校生と考える世界とつながる生き方』)

「別のしかたで」と極端に構えるのも、千葉さんの哲学のカラーとは少し違うように思う。たとえばこんなふうに日常のなにげない、とるにたらない、意外なところに「別のかたちで」は密輸できたりもする。それは「なんとなく」を「環境設定」としてとりこんでいく〈創造的な抜け穴〉になるかもしれない。

  重要なのは、惰性的にやってしまう日々のルーチンのなかに、なんとなく勉強してしまえるタイミングとかをうまく組み込むこと。「惰性的に創造力を高めるための環境設定」をする。
  (千葉雅也、同上)

諦めることは、生成に、創造に実は深く関わっているんじゃないか(締め切りも)。

  なぜツイッターの一四〇字以内がこんなに書きやすいかというと、それは、書き始めた途端にもう締め切りだからである。
  (千葉雅也、同上)

  

          (「あとがき」『別のしかたで』河出書房新社・2014年 所収)

超不思議な短詩225[石川美南]/柳本々々


  村を捨てた男の家はこの冬より民俗資料館へと変はる  石川美南

石川さんの短歌にとっては、テキスト(文字/文章/資料/書物/物語)と生世界の交渉がとても大事なテーマのように思う。

掲出歌。それまで生活空間として生きられていた「男の家」は、「民俗資料館」という読みとられるテキストの館へと変わる。これは「村を捨てた」という共同体の離脱と深い関わりがある。ひとが共同体を離脱するその瞬間は、ひとがテキストそのものになる瞬間かもしれないということを示唆している。

その流れでこんな短歌をみてみよう。

  何ひとつうまく行かざる金曜よポップだらけの書店にひとり  石川美南

「何ひとつうまく行か」ないという生世界=現状の噛み合わなさが「ポップだらけの書店」というやはりテキストの〈館〉と複合される。書店もやはり「民俗資料館」のように「ポップだらけの書店」として読みとられるテキスト空間をなしているのだが、「ポップだらけの書店」という複雑なテキスト空間がある問いを喚起する。

いったいテキスト空間とはなにが読まれえて・なにが捨てられるのか、と。「民俗資料館」にしても「ポップだらけの書店」にしても、本当に読まれるべきテキストは「民俗」や〈書物〉のはずなのだが、そこには「資料館」や「ポップ」でパッケージングされてしまったがために〈到達できないテキスト〉もあらわれてくる。つまり石川さんの短歌では、生活世界とテキストがまず交渉しているのだが、そのテキスト空間も「ポップ」対〈書物〉とテキスト同士が交渉しあっているのだ。

  実現に至らなかつた企画たちが水面(みなも)に浮いて油膜のやうに  石川美南

そして読まれえなかった企画(テキスト)たちは、生活世界のなかに「油膜」のようにどろどろした記号ならざるものとして、帰ってくる。

  空色の胸をかすかに上下させ呼吸してゐき折り紙の犬  石川美南

  鼻うたや夢の類(たぐひ)も記録して完璧な社史編纂室よ  〃

「折り紙の犬」というテキストになれたはずの「紙」が「呼吸」という生命を帯びながらこちらの世界に帰ってくる。一方で、「鼻うたや夢の類」は、「記録」され、〈テキスト〉となり、わたしたちの生きられる生活世界から「完璧な社史編纂室」というもう手のつけられることも変化することもできない〈死んだテキストの館〉へと葬られる。

こちらとあちらの往還の物語。歴史ではこれまでも・これからもずーっと反復されてきた物語だ(最古では『古事記』の死んだ伊邪那美(イザナミ)に逢いたくて黄泉国に逢いにいった伊邪那岐(イザナギ)のあちらとこちら。日本最古の引きこもりともいわれる天照大神(アマテラスオオミカミ)がこもった天岩戸というあちら)。

たとえばこんなふうに同時代の漫画文化と結びつける想像もしてみたい。石川美南さんの歌集『裏島』は2011年に刊行された。 諫山創の漫画『進撃の巨人』の連載がはじまったのは2009年だけれども、『進撃の巨人』では〈壁(か・べ)〉を介して、こちら側とあちら側が行き来する、ときに、こちら側があちら側であったりあちら側がこちら側であることが露呈してゆくこちらとあちらのねじれの物語が描かれた。花沢健吾『アイアムアヒーロー』も感染によって〈強化ゾンビ化〉してゆく感染を介したあちら側とこちら側の物語だったが、それは〈わたし〉の感染可能性によってあちらとこちらが交錯しねじれていく物語としてもあった(『アイアムアヒーロー』には、ほかにも非モテ/モテ、2ちゃん的情報世界/非2ちゃん的情報世界などさまざまな境界の往還がある)。

石川さんの歌集のなかには、〈紙(か・み)〉を介したテキストと生世界の往還や交渉、交錯が描かれており、テキストと生のどちらかがどちらかへと影響を与え続けるような一方的な関係は描かれてない。テキストと生は交渉しあい、あちらとこちらはねじれつづける。

あちらとこちらの境界線は、ねじれ、たびたび、ずっと、ゆらめく。

あちら(テキスト)と、こちら(生)は、ときどき、ちかづき、交渉し、ひっくりかえり、こちら(テキスト)とあちら(生)になり、また、ちかづく。

書き「足」すたびにわたしたちは境界線をつくり、あなたとわたしとあちらとこちらにわかれる。

  凸凹に描き足してゆく、ある人は煙をある人は階段を  石川美南


          (「晩秋の」『裏島』本阿弥書店・2011年 所収)

2017年9月19日火曜日

DAZZLEHAIKU11[西原天気]渡邉美保



   空港に靴音あまた秋澄める   西原天気



「空港に靴音あまた」と言われると、素直にそうだと思ってしまう。至極当然のことなのに、はっとするものがある。

秋になり、空気が澄み、遠方の山や木々がよく見えるようになる季節、「秋澄める」である。どこか遠い所へと、旅に出たくなるような、そんな時季、旅の出発点としての空港が目に浮かぶ。
空港の建物の中は旅行客が行き交い、雑多な音もまた行き交っている。一句の中、周囲のさまざまなものは一切省略され、靴音だけがある潔さ。普段はあまり意識しない靴音が、秋の澄んだ空気のなかで、高らかに弾んでいるような気分にさせてくれる。

空港には、空の広やかさがあり、遠くまで見わたせる明るさがある。澄みわたった秋空のなかを、これから飛び立つ旅への期待感が増す。


〈句集『けむり』西田書店2011年所収〉  


超不思議な短詩224[芝村裕吏]/柳本々々


  ゲームって、究極的に言えば、絵を描くというか、写生の一つなんです。  芝村裕吏

去年、ながや宏高さんとお話したときに、ながやさんが短歌=定型詩とゲームの関係について話されていて、そうかあ、ゲームの箱庭的な部分と定型詩と
いうのは似ているのかもしれないなあと思った覚えがある。

たとえば定型をハード=ゲーム機として考えてみよう。そしてその定型にセットするソフトを短歌、俳句、川柳と考えてみよう。定型(ハード)のスペックや容量は決まっているのだが、そこにセットされるソフトによって、さまざまにプレイ(読み)は変わってくる。

ゲーム・デザイナーの芝村裕吏さんは、ゲームは「写生」だと言う。ある現実や日常の一瞬を切り取る。その切り取られたものが世界観になり、ミクロなグランドデザインになる。

  ゲームって、究極的に言えば、絵を描くというか、写生の一つなんです。現実の一部を切り取って、それを描くことがゲームデザインだと思うんですよね。何かの瞬間とか現実の一部、あるいはファンタジーでもなんでもいいんですけど、その一部を切り取れるかどうか。その切り取り方によって、ゲームデザインが変わる。人によっては、格闘してるところを切り取って提示する。格闘ゲームは、まさにそうですよね。
  (芝村裕吏『ゲームの流儀』)

ある切り取られたミクロな現実が、マクロな世界そのものとなる。たしかにそう言われてみると、格闘ゲームは奇妙な世界で、たとえば『ストリートファイターⅡ』を例にとってもいいが、〈格闘しかしていない〉のだ。そこには〈成長〉もなければ、〈ストーリー〉もほぼない。ただし、現実世界から切り取られた〈格闘だけの世界〉が、象徴的にマクロな世界を提示し、象徴し、代替する。

ここで大事なのが、ゲームにはハードの機能、ソフトのコンテンツにもうひとつ大事な関数が関わることだ。それは、プレイヤーの経験値としてのストーリーである。たとえばマリオをはじめてプレイしたとしよう。最初はクリアできなかったステージも、何度も死にながら何回も同じところをプレイしているうちにプレイヤーの経験値がたまってゆき、そのステージをクリアできるようになる。マリオ自体には、ただ複数のうちのひとつのステージをクリアしたというストーリーしかないが、プレイヤーのなかではどうしてもクリアできなかったなんどもなんども死んだステージをクリアできたというプレイヤーの経験値としてのストーリーが生まれる。

つまり、ゲームのストーリーは、ゲーム本編のストーリーと、プレイヤーが経験値のなかで育んでいくストーリーがある。

ゲームにはプレイヤーの経験値をめぐるストーリーがあるように、定型詩にもプレイヤーの経験値をめぐるストーリーがあるのではないだろうか。たとえばここまではわかるがここからはわからない。でも何度もプレイしていると突然クリアできるステージがあるように何年かたったあとにふいに〈わかってしまう〉ことがある。でもわからないひともいるので、そこからは〈難解〉かどうかの境界線がひかれていく。クリアできるひととできないひと、難解かどうか、の境界線がおのおので生まれていく。でもそうしたクリア可/不可の複数の境界線もひっくるめながらゲーム/定型詩のジャンルがつくられていく。

「ゼビウス」という名作ゲームをうんだ遠藤雅伸さんがこんなふうに述べている。

  良いゲームの条件として、難易度調整は一番大事だと思います。どんなクソゲーでも上手く難易度調整してやれば、そこそこ遊べるはずなんですよ。その辺を上手くやらないから、どんなにすごいゲームを作ってもクソゲーだって言われてしまうんですよ。
 (遠藤雅伸『ゲームの流儀』)

この「難易度調整」というのは定型詩にも関わっているように思う。どこらへんに「難易度」を「調整」するのか。あまりに難易度が高すぎると「無理ゲー」がうまれてくる。ただときどき「無理ゲー」や「クソゲー」からそれまでのジャンルの世界観を更新するような(『デスクリムゾン』や『たけしの挑戦状』のような)ソフトが生まれることもある。

ゲームというのはプレイする人間の、プレイヤーの経験の質感(成功体験・失敗体験の微妙なバランス、プレイヤーをいかに成功させ・失敗させるか)をとてもよく考えられながらつくられるが、定型詩にもそうした〈読みの質感〉〈読みの経験値〉がどうなるかを微細に考えながらつくられるところがあるのではないだろうか。

定められた(少ない)容量のなかでプレイヤー(読み手)のプレイを考えながら工夫しつづけること。

 ファミコンは、パソコンと考え方の違うハードだし、何しろ動かし方も違うし、容量もパソコンに比べていきなり小さい。色数も少なければ、プログラムはアセンブラ。ゲームもシューティングとアクションばかりでしたから。
 『ドラゴンクエスト』が出たときに衝撃を受けましたよ。「ふっかつのじゅもん」という形でセーブもできて、きっちりとしたRPGになっていたから。「工夫さえすれば、ファミコンでもRPGができるんだ」って。『ドラゴンクエスト』がきっかけで『FF』を作ろうと思ったんです。
 「もう大学を八年間も留年してるし、ファミコンの3Dゲームも上手くいかないし、次のゲームがダメだったら大学に戻ろう」と思ってました。それで『ファイナルファンタジー』というタイトルに。
当初は『ファイティングファンタジー』という案もありましたけど、「自分自身のファイナルなゲームにしよう」と思っていたんですね。「これでゲームの仕事は終わりになるかもしれないけど、頑張ろう」って。
  (坂口博信『ゲームの流儀』)

仮の思考実験として7世紀『万葉集』の万葉人や9世紀『古今和歌集』の歌人を、1899年寝たきりの正岡子規を、ゲーム・クリエイター=ゲーム・プレイヤーとして想像してみること。

意外なことかもしれないけど、ゲームと定型詩はよく似ているように、思う。

  プレイヤーは難しいゲームを好みます。プレイヤーは失敗が好き。だけど大好きではない。ゲームに気持ちよく没頭できる「フロー」と呼ばれる魅力的な心理状態にプレイヤーを引き込むのはこのようなバランスだと言われます。
  (ユール『しかめっ面にさせるゲームは成功する』)

あえて言い換えてみよう。

  読み手は難しい定型詩を好みます。読み手は失敗が好き。だけど大好きではない。定型詩に気持ちよく没頭できる「フロー」と呼ばれる魅力的な心理状態に読み手を引き込むのはこのようなバランスだと言われます。
  (ユール(偽)『しかめっ面にさせる定型詩は成功する』)

          (『ゲームの流儀』太田出版・2012年 所収)



2017年9月17日日曜日

超不思議な短詩223[さやわか]/柳本々々


  コンピュータゲームとはもっとも素朴な形に還元すると「入力すると反応がある」ということである。  さやわか

ゲームと俳句の話が続いているのでせっかくなのでもう少し冒険して続けてみようと思う。さやわかさんがゲームの本質について次のように語っている。

  ゲームの本質。コンピュータゲームとはもっとも素朴な形に還元すると「入力すると反応がある」ということである。それはAボタンを押すとマリオがジャンプするということだったり、エンターキーを押すと次の画面が表示されることだったりする。我々はしばしばモニタの前で、どうしても選びきれない選択肢を選ぶ羽目になる。その時も、ボタンはいつも通りに軽いし、ボタンそれ自体は画面内で展開されているいかなる物語やキャラクターとも関連がない。重要な選択であっても実際に行うのはエンターキーを押すか否か、「する/しない」という些細な選択なのだ。たったそれだけのことにすべてを左右させることで、スリルと不安を喚起する。選択自体には意味がないが、しかしその行動が世界を改変してしまう。
  (さやわか「ゲームのように」『ユリイカ臨時増刊 涼宮ハルヒのユリイカ』)

ここでさやさんが言っているのはたぶんこのようなことだと思う。ゲームというのは、非常にシンプルな行為、入力すると反応があるという行為が、世界をつくりあげ変えていく行為なんだと。

前回、フローな俳句として鴇田智哉さんの俳句をあげたが、ときどき、鴇田さんの句集を読みながら、任天堂のアクションゲーム『スーパーマリオブラザーズ』に近いんじゃないかと思ったりしたことがあった。これはさやさんで引用したような、シンプルな入力が、世界への触知とつながっている感覚と思ってもらえばいいと思う。たとえば、

  水面ふたつ越えて高きにのぼりけり  鴇田智哉
   (『句集 凧と円柱』)

あえてマリオっぽい句を選んでみたのだが、〈水面をふたつ越えて高いところにのぼった〉というのはふつうなら「それがいったいなんなんだ」的なところがあるが、もしこれがマリオが読んだ句だったら、どうだろう。水面をふたつ越えて・高いところにのぼったなら、ステージ=世界を攻略してゆく喜びがある(プレイヤーも同様にその喜びを感受する)。マリオにとっては、こうした原始的で・シンプルな行為が、至上の意味をもつ(マリオ=プレイヤーにとってすべての価値観はステージを前進することなのだから)。

ちなみにこの句集のタイトルは、『凧と円柱』で、高い場所やポールのような突端が気にされているのだが、そうした〈高い場所〉や〈とがったもの〉への至高もマリオ的である(土管、城のポール、キノコ)。

  春めくと枝にあたってから気づく  鴇田智哉

この世界では突端に触れる、というただそれだけの行為が「春」に気づくという世界そのもののベースへの触知につながっている。これはマリオがクリボーに触れて命を失ったり(触れることが世界の終わり)、キノコに触れる(食べる)ことで身体を巨大化させたり(世界の視野の改変)することにも似ている。

こんな句もみてみたい。

  近い日傘と遠い日傘とちかちかす  鴇田智哉

遠近に「ちかちか」と視覚的なデジタル・ノイズが入ってくる風景。これなども処理落ちのマリオのステージのようなノイズ的風景を想起することができる。

  裏側を人々のゆく枇杷の花  鴇田智哉

  断面があらはれてきて冬に入る  〃

世界の「裏側」や「断面」の意識。マリオ3では、↓ボタンを押しっぱなしにすることでステージの裏側にすとんと落ちることができる裏技とは言えないまでも小技があったが、あるいはさいきんのペーパーマリオではステージを3Dで断面的に見ることが可能になったが、「裏側」や「断面」はゲームの世界(ステージ)では、たびたび〈世界の果て〉として出会うことでもある。

鴇田さんの俳句がゲーム的世界観に支えられているというつもりはないのだが、さやさんが述べたようなゲームの本質、シンプルな入力が世界の原理につながっていく感じは、鴇田さんの俳句の風景によく似通っているのではないかと思う(というかそういう思いがけない枠組みを導入すると鴇田さんの俳句はぐっと理解しやすくなったりするのではないだろうか)。

小津夜景さんの句集『フラワーズ・カンフー』を読んでいて、或いは関悦史さんの俳句を読んでいて思うのは、俳句がB級的な要素をそれとなく密輸しながら成立してきていることだ。そのB級的要素とはなんだろう、と時々考えるのだが、たとえばそれはこうしたゲーム的世界観との思いがけないリンクと言うこともできないだろうか。

たとえば、小津夜景さんは関悦史さんとのトークで、

 ぷろぺらのぷるんぷるんと花の宵  小津夜景

は自分がはじめて俳句をつくったと実感することができた《写生句》だと述べたが(たしか夜景さんは海辺で吟行していたときにできた句だと言ったような気がする、ぼんやりだが)、「ぷるんぷるん」している「ぷろぺら」もゲームのCG世界ではごくまっとうなゲーム的リアリズムとしてあらわれそうではある(例えば私ならプレイステーションソフト『クーロンズ・ゲート』を想起する)。

関さんのこんなリアリズムとゲーム的リアリズムが融合する句。

  牛久のスーパーCGほどの美少女歩み来しかも白服  関悦史

現実のリアリズム的世界では非常識なことが、ゲーム的リアリズムの世界では、なんのためらいもなくまっとうで・ノーマルなことがある。

  蝉の死にぱちんぱちんと星が出る  鴇田智哉


          (「ゲームのように」『ユリイカ臨時増刊 涼宮ハルヒのユリイカ』2011年7月 所収)

超不思議な短詩222[阿部公彦]/柳本々々


  おもしろいのは、ブローティガンの『アメリカの鱒釣り』のような作品を読んだ人なら覚えているあの脱力感覚と、日本的な俳句の精神のまじり具合である  阿部公彦

70年代はマンガ『巨人の星』の「スポ根劇画」に代表されるようなハードな汗と涙と闘いのエネルギッシュな時代という言われ方をされることがあるが(前に取り上げた攝津幸彦はその70年代に二十代を過ごしていた)、その70年代半ば、1976年にアメリカの作家リチャード・ブローティガンは東京に一ヶ月半滞在し、『東京日記』という詩を書いた。

阿部公彦さんは「解説」でこんなふうに書いている。

  「東京日記」の多くの作品は、俳句に触発された語り口になっている。俳句ならではの唐突さや切断感は、はじめて訪れる東京で足場のないまま、さまざまな“瞬間”をあやうく渡り歩いていた詩人にとって、まさにぴったりの装置を提供してくれたのだろう。
  おもしろいのは、ブローティガンの『アメリカの鱒釣り』のような作品を読んだ人なら覚えているあの脱力感覚と、日本的な俳句の精神のまじり具合である。切断や転換、接合などによって生み出される俳句特有の凝縮した緊張感を支えているのがある種の“拮抗”だと考えれば、これに対してブローティガンで目立つのは、拡散と散逸の気分でもある。主旋律は緊張よりも弛緩であり、興奮や熱気よりも冷却となぐさめが言葉を生み出していく。
  (阿部公彦「解説」『東京日記』)

瞬間を渡り歩く装置として「俳句の精神」を使いながらも、その瞬間は凝縮されるよりも「拡散と散逸」を伴っていく。「日常を鋭く切り取り緊張」というよりは、「緊張と驚きと空虚さをゆったり流してくれるやさしさ」の方に傾いていく。

  俳句的な装いをまとう本書の短詩は、実際には、俳句的なキャプチャの身振りをほどき、流し、平凡化・日常化する。平凡であるとは何と難しいことだろう。際だたず、とがらず、立ち止まらない。
  (阿部公彦、同上)

〈平凡さ〉というフローのなかに身を置くこと。

  テレビの
  日本の子どもたちの番組を見て
     ぼくはこの三十分間をすごした
  ここ東京には何百万ものぼくたちがいる
     ぼくたちは自分の好きなものがわかっている
  (ブローティガン「日本の子どもたち」『東京日記』)

日本の「テレビ」を「三十間」見ている時間が〈わたし〉の個を際だたせることなく、「何百万ものぼくたち」に拡散・散逸していく。「ぼくは自分の好きなものがわかっている」ではなく、「ぼくたちは自分の好きなものがわかっている」というひどく曖昧な流れるような言い方。〈見る〉という行為が〈わたしたちの見る〉につながり、〈何百万もの見る〉とともにフローな個の流れとしてうかびあがってくる。

 この不思議な短詩では何度か取り上げている句だが、こんな俳句がある。

  毛布から白いテレビを見てゐたり  鴇田智哉

毛布から白いテレビを見ているのだが、この助動詞「たり」を完了(~した)ではなく、存続(ある時点からずーっと~している)の意味合いでとった場合、語り手は、ずーっと白いテレビを見ているなかに身をおいていることになる。ずーっと語り手は毛布から白いテレビを見ている。そのときこの「たり」は神秘化していく。毛布から白いテレビをずーっと見ている風景は死後の景にも近いからだ。

その「死後の景」を誘導するのが「毛布」と「白いテレビ」の組み合わせである。たとえばこのテレビが〈白い画面〉だった場合、テレビを見ていながら・同時に・テレビをなんにも見ていないということになる。この句は突き詰めれば・突き詰めるほど〈見ること〉の危機的な様相が浮かび上がり、〈見ること・見ないこと〉を通して死者も含めた〈何百万もの見るぼくたち〉が現れる。

この俳句にもブローティガンの詩にあるようなフローな感覚が見いだされうるように思う(ちなみにフローという概念はよくゲームを論じた本を読んでいると出てくるゲームのプレイヤーを考えるときのキーワードになっている。たとえばマリオをプレイしているとき、あなたはあなたがあなたでありつつも没入していく感覚を経験していないだろうか。ゲームをプレイしながら、個でありつつも・個を没入させていく感覚。俳句とゲームの親和性)。現在の俳句は、瞬間的な切り取りではなく、フローな感覚に敏感になっている。フローな俳句としてはこんな印象的な俳句もあげられる。

  息のある方へ動いている流氷  田島健一
   (『句集 ただならぬぽ』)

この田島さんの句にも鴇田さんの神秘的な「たり」に通じるような神秘的な存続の助動詞「ている」がある。70年代アメリカの労働者階級の〈どこにもゆけなさ〉を描いた小説家にレイモンド・カーヴァーがいる。ただカーヴァーが特徴的だったのは、労働者階級のミドルクラスの生活をミニマルに描きながらも、それが〈外〉に神秘的に抜けていってしまう点だった。どこにもゆけなさのなかで神秘性があらわれる。

 カーヴァーのマジックは、貧困を含めた、ありとあらゆるものを、無意味化、身体化する、そのミニマリズムのスタイルにある。そのスタイルの特徴は、既存のリアリズムにあるような社会的、政治的文脈を無視し、まるでそこに社会など存在しないかのように、身体化された世界だけを描くことにある。言ってみれば、カーヴァーの作品は、アメリカ合衆国の話ではない。それは、合衆国のなかのどこかの街の話であるが、カーヴァーの作品世界は、その街を描くことで成立していて、そこに街よりも大きなもの、大きな社会、合衆国は存在しないのだから。ミニマリズムとは、自分の周囲十メートルの話なのである。カーヴァーのマジックは、労働者階級なら労働者階級の生活を描きながら、それが単なる労働者階級の生活ではなくなる瞬間を提出することにある。その瞬間とは、「大聖堂」の啓示が示すように、無意味化、身体化の結晶である。それは、既存の政治的・社会的文脈を破壊した、まったく新しいなにかなのだ。
  (三浦玲一『村上春樹とポストモダン・ジャパン』)

わたしはこのマジックのありかた、「毛布から」という「自分の周囲十メートルの話」を描きながら「白いテレビ」という魔術的メディアを通して〈日本の話〉だけではないマジカルな啓示的瞬間があらわれているのを鴇田さんのテレビの句に感じる。それは、ブローティガンの「子ども番組のテレビ」を見ていただけで「何百万ものぼくたち」につながってしまうようなフローしていく何かである。

私は実は三年前に鴇田さんの白いテレビの句をはじめて眼にしたときに、すぐに思い出したカーヴァーの一節があった。ただその一節がどの作品にあるのか、ずっと思い出せなかった。だから思い出すまで待っていようとおもった。ところが、きのう、雨がふっているのかふっていないのかわからない白い光の空の真下を、ぼんやり、傘をさしながら道を歩いていたら、とつぜん思い出した。それは、テレビを見ているなかで、テレビを見ていることを突き抜けてしまう、白いテレビのなかに暴力的に包まれてしまう一節だった。横になって、どこにもゆけないなかで・その《どこにも》が圧倒的に・暴力的に押し寄せ、しずかに、その場で、じっとしながら、押し流されていく〈終わりの風景〉。私が思い出したかったのは、これだった。

  私はそこに横になってテレビを見ていた、軍服を着た男たちの姿が画面に映っていた。ぼそぼそとした声。それから戦車隊が現れ、ひとりの男が火炎放射器を発射した。音は聞こえなかったが、わざわざ起き上がるのも面倒だった。私は瞼が重なるまで、じっとテレビを見ていた。でもはっと目を覚ました。私のパジャマは汗でぐしょ濡れになっていた。雪明かりのような光が部屋に満ちていた。ゴオオオという音が私に押し寄せてきた。その轟音は耳を聾せんばかりだった。私はそこに横になっていた。私は動かなかった。
  (カーヴァー「みんなは何処に行ったのか?」『ファイアズ』)


          (「解説」『東京日記』平凡社ライブラリー・2017年 所収)

超不思議な短詩221[井上法子]/柳本々々


  煮えたぎる鍋を見すえて だいじょうぶ これは永遠でないほうの火  井上法子

短詩のなかで〈鍋〉は〈鏡〉のようにとても大きな意味を持っている。

  わが思ふこと夫や子にかかはらず大鍋に温かきものを煮ながら  石川不二子

「大鍋に温か」いものを煮ながらわたしの「思」うことがせり上がってくる。わたしの「思」うことは「夫や子にかか」わらない〈わたし〉のことだ。煮る、という行為は、時間をかけて物を少しずつ変成させていく行為だ。それが、内面の醸成とも関わってくる。そう考えるとちょっとこわいことだが、妻は「夫や子」のために料理をつくりながら、「夫や子」以外の〈何か〉を考えている。料理は、短歌によって、〈奉仕〉されえない思いの叙述になる。

短詩において、ひとは(というよりも〈女性主体〉は)、鍋の前で、食べ物ではなく、みずからの〈内面〉に降りてゆく。

茹でる、だが、こんな歌もある。

  十六夜の寸胴鍋にふかぶかとくらげを茹でて君が恋しい  鯨井可菜子

「くらげを茹で」るという、料理に一見似つかわしくない表現が採用されることで、「君」への「恋」しさが不思議な感情としてあらわれる。寸胴鍋にくらげが「ふかぶかと」漂う海中の幻景が一瞬あらわれながらも、「くらげを茹で」これから食べようとしているのだという激しい感情も同時にここにはたたえられている。川上弘美のこんな一節を思い出す。ふわふわしたものを、煮ること。食べること。

  長い間の片思いのひとから、「好きなひとができました。これから一生そのひととしあわせに暮らします」という葉書がきた。泣きながら、いちにち花の種を蒔いた。途中少しの間気を失い、それからいくらか元気が出たので、夕飯には蛸を煮た。
  (川上弘美『椰子・椰子』)
  
石川不二子さんの歌は1976年刊行『牧歌』からだが、1960年代に定着した典型としての「専業主婦」像=「良妻賢母」像が崩壊しはじめる1970年代後半からの歴史状況とあわせて考えることもできる。フェミニズム全盛の時代だ。「妻」ではなく、料理をしながら、「妻」の外を志向すること。

そうした〈外〉への意識はこんな川柳にも見いだすことができる。

  ことばにはならないものが茹で上がる  佐藤幸子

料理をしながら、料理に奉仕するのではなく、「ことばにはならないもの」としての不気味な外に抜けてゆくこと。わたしのイメージ、料理のイメージが問い直される。

それが2010年代の鯨井さんの短歌では「寸胴鍋」「ふかぶか」「くらげ」と、〈外〉への意識ではなく、〈外〉への意識が深められた〈下〉への意識としてあらわれてくる。鍋は「専業主婦」的女性像の外に抜けるための装置ではなく、自らのひととしての内面の深度をさぐる装置になっている。

ちょっとかなり長い遠回りになってしまったが、井上さんの掲出歌をみてみよう。

井上さんの〈鍋〉の歌で大事なのは、〈外〉や〈下〉への意識ではなく、世界の基盤=〈根〉への意識に傾いていることだ。料理をすることが、〈永遠の火〉という世界の生成に関わるものとリンクしていく。

「だいじょうぶ」という発話に注意したい。この歌は、〈常にだいじょうぶじゃない〉世界におかれており、「永遠の火」におびやかされている。もちろん、「永遠の火」におびやかされる〈常にだいじょうぶじゃない〉世界と言えば、わたしたちは2011年の福島第一原発水素爆発を思い出す。ただ井上さんの歌は、それより、もっと、根底の、根深い火のようにも、思える。

主体の前に用意された「鍋」は、「わが思ふこと」という個人の内面に降りてゆく装置から、だんだんと、世界の根っこの危機を測位する装置へと変わっていった。

つまり、女性/男性関わらず、わたしたちは「鍋」の「火」を通して、世界の危機にリンクしてしまうような状況が現在ある。2017年は、北朝鮮からの弾道ミサイル発射によりJアラートが鳴った年として記憶されるだろうが、「火」はわたしたちをもう〈外〉連れ出すのではなく、〈外〉からわたしたちを滅ぼすためのメタファーとして機能しはじめるのでははないか。

火が、外から、やってくる。

  夏の鍋なべて煮くずれ 面影はいつだってこわいんだ夏の鍋  井上法子


          (『桜前線開架宣言』左右社・2015年 所収)

2017年9月16日土曜日

超不思議な短詩220[攝津幸彦]/柳本々々


  三島忌の帽子の中のうどんかな  攝津幸彦

前回、『MOTHER』と俳句をめぐる話だったのだが、『MOTHER』というゲームは最終的に〈赤ん坊(のときの記憶〉と出会うゲームであり、その意味で、大人の分節をどんどんなくして、どろどろの世界に還っていくゲームでもあった(例えば『MOTHER2』のラスボスはもはや輪郭をなしていない。苦悶の表情のような、胎児の姿のような、連続し、流動する背景そのものが、ラスボスだった)。

だから『MOTHER』は、みずからが〈母親〉になりながら、意味や分節や価値観がわたしとあなたが生まれる前の未生の世界へ、赤ちゃんの世界を探求する、遡行・退行・去勢の物語と言うこともできるかもしれない。

そこでちょっと意外なのだが、この『MOTHER』的世界に俳句からアクセスしていたのだが、攝津幸彦だったのではないかと、おもう(ゲーム『MOTHER』と攝津幸彦を組み合わせると異色すぎて怒るひともいるかもしれないが、しかし、ゲーム『MOTHER』では豊富な映画史的記憶の引用がなされており、映画を一年で300本以上観ていたという映画史的記憶と共にあった攝津幸彦と共通点がないわけではない)。

攝津幸彦の俳句に出会ったとき、まず抱くのは、不可解さ、ではないかと思うのだが、しかしそれは『MOTHER』で主人公たちが最終的に赤ちゃん化してゆくラスボスに出会ったような、どこか不可解でありながらもわかってしまうかんじ、身体の奥のほうでじぶんがいつか歩いてきた道、にも通じているのではないか。攝津幸彦は句集『鳥屋』のあとがきでこんなふうに書いている。

  どうやらぼくの意識下には、幼時すでに表現されてしまっている確固とした世界があり、その世界が、ある時、記憶の光を通じて外部の風景に触発されるや、自然とそこに一句が成立してしまうのだと、しばしば思ってみることがある。
  幼時の表現世界は、きまってフリーキーでしかも暴力的であり美しい全うな世界に対していつも挑発的であるのだが、時折、俳句形式に遭遇することにより、別の世界の貌をして小さな安息を求めているのかも知れない。
 (攝津幸彦『俳句幻景』)

なんだかとても奇妙な話なのだが、『MOTHER』のゲーム世界を攝津幸彦に解説されているような気になってくる(ちなみにこの「あとがき」が書かれた句集『鳥屋』は1986``年に刊行されており、1989年発売の『MOTHER』とほぼ同じ時期にある)。

この攝津幸彦にとっての「幼時の表現世界」というのは、言ってみれば、〈未分節性〉へ立ち返るということではないのかと思う。大人の分節をこわせば、当然そこには、暴力性や挑発性、フリーキー、不可解さがあらわれてくる。

たとえば掲句の「帽子の中のうどん」だが、「帽子の中のうどん」を率直にいえば、〈取り返しがつかない〉ということだ。もし帽子の中にうどんを入れたら、帽子とうどんの分節は消え、分離しがたくなってくる。帽子は帽子の機能をやめ、うどんはうどんの機能をやめ、帽子うどんのような奇怪な意味分節があらわれてくる(いちごとうふ)。

これは攝津幸彦の有名な句、

  階段を濡らして昼が来てゐたり  攝津幸彦

にも通底しているように思う。階段が濡れて、階段と液体の分節がこわれるとき、そこに〈意味の昼〉がやってくる。それはどこかやはり不快でありながら、未分節が新しい分節をもたらす予感もある。

  口腔にわだかまりけり森の端  攝津幸彦

  浄土これ畳のへりにとろゝ汁  〃

口のなかにわだかまる「森の端」はやはり不快感がある。食べ物ではなく、それが「森」なのだから、根本的にこの口のなかの不快感は消えないのではないかというおそれもある(神話的不快感というか)。

畳のへりにとろゝ汁とやはり〈取り返しのつかない不快〉が描かれる(吉田戦車が描きそうな不快でもある。吉田戦車でも、言語や意味の未分節を探究することをギャグマンガとして昇華していた。ちなみに吉田戦車『伝染るんです。』は1989年からの連載。攝津幸彦、『MOTHER』、吉田戦車は同時期にいる)。

こうした未分節の風景を、不快感とともに、俳句にあらわすことが攝津幸彦の俳句にあるんじゃないかと思う。

  そう言えば、ぼくの句にたち現れる、人や毛物や花は、いずれも現実の地上にあるとするより、その身のいずこかに奇形を抱え込んだまま、遠い宙空を漂っているとした方がいっそう似つかわしいのではあるまいか。
  この遙かにしてなつかしい表現世界は、その奇形ゆえ久しく脳球の奥にとどまり、他者の理解をあらかじめ拒絶する在り方をしているのだが、ぼくにとっては逆にいつも新鮮で親しいものとして存在しているのだった。
  (攝津幸彦、同上)

他者を拒絶するものでありながら・いつも新鮮で親しいものとしてあらわれてくるもの。『MOTHER2』のラスボスであるギーグは、戦闘中、どんどん「奇形」になり「宙空を漂」いながら、こんなセリフを洩らしている。

  …カエレ…チガウ…チガウ…チガウ
  アーアーアー
  ……ウレシイ…
  …カナシイ…ネスサン。
  ……トモダチ…
   (『MOTHER2』)

  オギャーとは何の音ぞよ芋嵐  攝津幸彦

        (『俳句幻景』南風の会・1999年 所収)


 

2017年9月15日金曜日

超不思議な短詩219[糸井重里]/柳本々々


  フライングマンは「古池や・蛙飛び込む・水の音」なんです。  糸井重里

名作RPGと言われる『MOTHER』をつくった糸井重里さんがインタビューのなかで『MOTHER』を俳句と関連づけながら語っている。『MOTHER』と俳句という取り合わせは意外だったのだが、しかし考え直してみると、『MOTHER』の説明過少な朴訥で〈無口〉な語り口には、たしかに俳句と通底しているところがある。

  セリフは、ひらがなで作りましたから。声に出して、そのまま耳に響く音として、自分で受け止め直して、反響させてみて「これは違うな」と思うなら消す。原稿書きのように、自分でひたすら推敲していました。だから、敢えて言うなら俳句ですよね。「古池や・蛙飛び込む・水の音」って俳句には「だからどうした?」ってリアクションをしたくなりますよね。古池があって、蛙が飛び込んだ? 水の音がしたんだ? それはどんな音だった? ポチャンと音がしたのか、しなかったのか。自分にマイクを突きつけられたような、コール&レスポンスがあると思うんですよ。
  (糸井重里『ゲームの流儀』)

任天堂から『MOTHER』が発売されたのは1989年。プラットフォームとなるファミリーコンピュータ発売の1983年の6年後に発売された。この間には『スーパーマリオブラザーズ』や『ファイナルファンタジー』『ドラゴンクエスト』など後々までそのブランドを維持していくゲームが発売されている。

糸井さんは俳句の「だからどうした?」性を『MOTHER』のなかに持ち込んだというが、そもそも過少な容量で広大な物語世界を表現するドットをベースにしたファミコンには、そもそもの「だからどうした?」性があった。

たとえば今でも『マリオメーカー』でプレイできる初代ファミコンマリオ。クリボーとはいったいなんなのか、なぜクリボーにふれただけで死ぬのか、死ぬといってもマリオはいったい画面外のどこにいくのか、マリオにとって命とはなんなのか、穴に落ちるとなぜ死ぬのか、穴に落ちて死んだのになぜ陽気な音楽がかかるのか、キノコを食べるとなぜ大きくなるのか、なぜキノコがブロックのなかにあるのか、キノピオは食われるキノコをどう見ているのか、花を食べて火を放つのはどういう仕組みなのか、なぜクッパは何体もいるのか、或いはなぜクッパはたびたび自ら出向いてくるのか、なぜクッパはマリオがぎりぎり自らのもとまでたどりつけるようコースをつくってあげたのか、ピーチとキノピオの関係はどうなっているのか、この国の〈種差〉のありかたは? ピーチ姫はさらわれている間何をして過ごし生きていたのか、食べ物や排泄はどうしていたのか、助けにいけないままだとどうなるのか、クッパはピーチをどうしたかったのか、なぜマリオはおじさんなのか。

これらはほとんど説明されることなく、プレイヤーはプレイのなかに投げ込まれていく。しかし大事なことはそうした不条理をドットという過少な表現が支えていてしまったことにあるように思う。こうしたゲームへ投げ出されながら、プレイしていくなかでリアリティを確保していく様子は、定型に投げ出されながらその定型のなかでリアリティを確保していくようすに似ている。とりあえず・やっていくこと、体験や経験のプレイがリアリティを支えていく。プレイ・リアリズム、というか。

その意味で、ゲームや定型詩のリアリズムとは、《すること》が《すること》を支えていくという同語反復的なゲーム・リアリズムに支えられているのかもしれない(だからゲームをプレイしたことのないひと、定型詩を詠まないひとにはわかりにくい。《プレイ》していないから)。

プレイすることに加えて、もうひとつ大切なのは、というより、糸井さんが強調したのは、足りない部分を補っていく想像力だ。足りないからこそ、補う。

『MOTHER』は、ただでさえ足りない情報量の世界を、テキストにまで俳句的足りなさをもちこむことで、さらに想像力をひきだした。

  たとえば『MOTHER』のキャラクターには、「お前は○○なのか?」と聞いておきながら「そうか」と答えるだけの奴がいるんです。そういうぶった切るやり取りが、すごくある。だから、その短い言葉の中に、相手の気持ちを斟酌する“想像力”が必要になってくる。「『そうか』ってどういう意味だよ!」という、単なる三文字の中に、想像力に応じたオマケがついてくるんです。
  (糸井重里、同上)

RPGは世界観を構築するために、またはゲームの容量上制限された視覚情報を補うために、膨大なテキストを用意するが、『MOTHER』はそのテキストをあえて俳句的に〈外し〉ていく。

『MOTHER』にはフライングマンという主人公をかばうだけの、一見強そうななりで、ひ弱なキャラクターがいる。かれらはすぐに死ぬのだが、しかし、寡黙なかれらからは使命感が伝わってくる。俺らが主人公をかばわなきゃ誰がかばうんだと。わたしたちは命を賭けて主人公をかばい死んでいくと。「わたしはフライングマン。あなたのちからになる。そのためにうまれてきた」とかっこいいセリフも用意されている。でも、かれらは弱い。弱いうえに、ゲーム上どうでもいいキャラなのである。だから、おもう。いったいなんなんだ? と。でもその「いったいなんなんだ?」が組成していく世界が『MOTHER』だった。俳句のように。

  ゲームの中に「フライングマン」という、勝手に冒険に加わって死んでいくキャラクターが出てくるんだけど、この感想も人によって全然違う。……その人の想像力に応じて、フライングマンが役割を果たすわけで。フライングマンは「古池や・蛙飛び込む・水の音」なんです。リズムが五・七・五ではないのだけれど、問いかけの構造。未完成のものをポンポン置いてあるってのが、僕のテキスト世界じゃないかな。
  (糸井重里、同上)

モンスターを駆逐し、父親のようなラスボスを倒し、世界を領土化し、仲間をふやしていく〈完成型〉のRPGが多いなかで、『MOTHER』はそのタイトルから〈父権的〉なものを喪失しており、未完の世界のなかで、未生の赤ん坊をめぐる物語だった。主人公たちが最後に出会うのは赤ん坊であり、その赤ん坊の〈母親〉になれるかどうかが『MOTHER』には賭けられていた。さいごに主人公たちは、〈たたかう〉ではなく、〈うたう〉を選んだ。

ときどき、なんで『MOTHER』は3D化できる機会を失ったんだろうと考える。『MOTHER3』は当初3Dで開発が進められていたのだが結局頓挫し、2Dになった。でも、その〈達成しがたさ〉としての未完のありかたは、マザーっぽいと言えば、マザーっぽい。マザーというゲームは、くじけること、たたかわないこと、無意味なこと、いちごとうふ、意味不明なこと、素朴なこと、あたたかいこと、いきてゆくことを考えさせてくれる。

『MOTHER』は1989年というバブル・カルチャーが終わりに向かってゆく年に発売された。もう後5年で1995年という〈世界の終わり〉をサブカルチャーが描くような変わり目の年がくるのだが(新世紀エヴァンゲリオン・オウム真理教事件・阪神淡路大震災)、その5年前にこうした淡々とした俳句的世界観のゲームがあった。

  人生はゲームよ。休んだり戻ったりも大事よ。
   (『MOTHER』)

          (『ゲームの流儀』太田出版・2012年 所収)

2017年9月14日木曜日

超不思議な短詩218[鶴見和子]/柳本々々


  俳句というものはすっかり自分の忘れ果てていたような原体験をぱっと思い起こさせてくれる、触発するのよ  鶴見和子

鶴見和子さんと金子兜太さんの対談本『米寿快談』のなかで鶴見さんが、俳句がとつぜん自分の身近に迫ってきた風景としてこんなふうに話している。

  私は俳句を作る人…は世界が違うんだ、人種が違うんだってずっと思っていたんです。というのは、俳句を読んでも何のことかわからない。自分で作るなんてことはもちろん考えもしないけれど、どうも分からない。ああいうものはできない、そう考えていたんです。……
  とくに私は子供の俳句のなかで〈雪解けを待つ植物のように少年は〉、あれが私はすごく印象的だったの。というのは、俳句というものはすっかり自分の忘れ果てていたような原体験をぱっと思い起こさせてくれる、触発するのよ。……
  俳句というものは、すごい力、触発力をもってる。つまり原体験の触発力なの。すっかり忘れているでしょう、それをパッとじつに鮮烈に教えてくれるの。その日なんです。これが俳句なのか、それなら私にだってわからないことはないな。むしろ俳句を読むことによって、私も歌がつくれるようになる、そういうものじゃないかなとはじめて思った。……
  つまり、これまで私は俳句に親近感は全くなかったんです。芭蕉だとか蕪村だとか、そういう世界だけが俳句だったら私にはわからない。ああいうさびとかわびとか、その上になんだかむずかしい季語を入れなきゃいけないのは。それでこれから俳句を勉強しなくちゃいけないと。つまり感性の活性化、それを俳句から私がいただくことができる。それが一つの驚き。
  (鶴見和子『米寿快談』)

とても長く引用したがここにはひとりの俳句とは無縁だと感じられていた人間がとうとつに俳句に出会い、驚き、俳句との距離感がとつぜん変化してゆくさまが語られている。それは「一つの驚き」であり「パッ」であり「鮮烈」であり、「原体験の触発力」である。

どうして鶴見さんがこの俳句の「原体験の触発力」に出会えたかというと、それは、俳句がもつ〈認識の基盤〉〈認識の原風景〉にであったから、ではないかと思う。鶴見さんは「さび」「わび」「むずかしい季語」は「わからない」と述べている。でもそういう〈趣向〉や〈風情〉ではなく「感性」として俳句にであった。そのとき、俳句が鶴見さんのなかに流れ込んできた。

こうした〈認識の基盤〉としての俳句を考えたときにわたしが思い出すのが、俳誌『オルガン』の俳句である。たとえば『オルガン』のメンバーにはこんな俳句がある。

  くちびるが顔にありけり扇風機  宮本佳世乃
   (『句集 鳥飛ぶ仕組み』)

扇風機にあたっているうちに「くちびる」が「顔」にあることに気づいてしまう。顔の本来的な存在に気づいてしまう。存在論的俳句。

  なにもない雪のみなみへつれてゆく  田島健一
   (『句集 ただならぬぽ』)

「なにもない」と語られることによって「なにもない/なにかある」という二項対立が形作られる。しかしここで語り手は「なにもない」という虚無的な次元を《あえて》選ぶ。しかも「つれてゆく」とその虚無的な次元への意志は強い。この句は、なにかがあるということと、なんにもないということの、存在論的次元を喚起する。でも、「ある」とか「ない」って実は認識の話だ。佳世乃さんの句のように、《そのひとが・世界をいま・これから・どう・みようとしているか・みているか》の話だ。

  ゐた人の残してゆきし咳のこゑ  鴇田智哉

この句においても存在論的次元が喚起される。「ゐた人」が「咳のこゑ」を残してゆくのだが、だからとうぜん今は〈いない人〉ということになる。この「咳のこゑ」も咳の〈遅延〉という咳の存在論的次元物のようなものだ。ところが語り手はその〈存在の遅れ〉のような次元にいる。「ゐた/残して/ゆきし/咳のこゑ」というひとにとってはすべて過去に葬った次元に語り手は、いま、たっている。語り手は、いったい、どの次元にいるのか。いったい、いるとかいないって、じゃあ、なんなのか。

  居ることに泉のふつと落ちてくる  宮崎莉々香
   (「かつてのまなざしでどうしても見」『オルガン』10号、2017年8月)

これら俳句には、認識の仕方を、魔術的に〈ぶり返し〉ていくような切なさがある。「かつてのまなざしでどうしても見」ようとするわたしに働きかけてくる。魔術的切なさとして。なんで切ないのかというと、世界の臨界に達しそうになるからだ。あるとかない、いるとかいない、に抵触することは、だんだんと、世界がある、世界がない、に関わっていく。もしかしたらわたしたちにとって、もう、世界は終わったものとしてあるのかもしれない、という世界の認識論にかかわってゆくのだ。

こんなことが俳句で起こってしまっているのは、驚きだと思う。でも、いま、こんなことが俳句で起こってしまている。

こうした俳句が俳句として成立してしまったとき、わたしは、そもそもの〈こちら側〉の認識を点検しなおさなくてはならないような気もするのだ。鶴見さんが「驚き」をもって俳句をうけとめたように。

俳句は、わたしに、認識の点検を要請する。きのう・きょう・あしたのわたしの認識のしかたをたしかめてごらんよと、手を、眼を、からだを、眼を、手を、とってくる。わたしたちは、いつも、俳句に「遅れ着」く。

  多く見て感じて夜が来て蛾来て  福田若之
   (「遅れ着いたもののしるしに」
    

          (「俳句の触発力」『米寿快談』藤原書店・2006年 所収)

2017年9月13日水曜日

超不思議な短詩217[笹田かなえ]/柳本々々


  夢に見る猫はわたしの夢を見る  笹田かなえ

教師と生徒の言語が渡り合う世界の話を前回したが、じゃあ、ひとと猫が渡り合う世界は、どうだろう。

そうしたひとと猫がからまりあいながらひとつの世界をあらわす句としてかなえさんの句をあげてみたい。

よく猫は擬人化され、飼い主が猫の〈内面〉をしゃべってしまっていることがある。猫はしゃべらないにも関わらずひとが猫の言語を代弁してしまい、猫の内面を奪い取ってしまうのだ。そこにはひとと猫、しゃべることのできる人間、しゃべることのできない猫の微妙な非対称性がある。猫はしゃべらないのだから、猫の言語に寄り添おうとするならば、わたしたちも黙るしかない。

でも、夢、ならどうか。かなえさんの句では、わたしが猫を夢にみている。だがその猫はわたしの夢をみている。わたしは猫の夢の存在かもしれない。猫はわたしの夢の存在かもしれない。どちらも夢の存在かもしれない。

ここには非対称性はない。ここにあるのは、どちらかがどちらかをどうこうする構造ではなく、猫とわたしをめぐる螺旋=スパイラル構造だ。そして、わたしがきえるとき猫もきえ、猫がきえるときわたしもきえるような関係がここにはある。

もしわたしたちが動物と関係をもてるならば、こういうところにあるのではないだろうか。動物の言語を代弁してしゃべるのではなく、共にあらわれ・共にきえるような関係。わたしがきえればあなたもきえるし、あなたがきえればわたしもきえますという、生と死のらせんを共に生きるような関係。

わたしはこんなひとと動物の生き死にの螺旋構造をかつて眼にしたことがあった。

  ぴしゃというように鉄砲の音が小十郎に聞えた。ところが熊は少しも倒れないで嵐のように黒くゆらいでやって来たようだった。…と思うと小十郎はがあんと頭が鳴ってまわりがいちめんまっ青になった。それから遠くでこう言うことばを聞いた。
 「おお小十郎おまえを殺すつもりはなかった」
  もうおれは死んだと小十郎は思った。そしてちらちらちらちら青い星のような光がそこらいちめんに見えた。
 「これが死んだしるしだ。死ぬとき見る火だ。熊ども、ゆるせよ」と小十郎は思った。それからあとの小十郎の心持はもう私にはわからない。
  …栗の木と白い雪の峯々にかこまれた山の上の平らに黒い大きなものがたくさん環になって集って各々黒い影を置き回々教徒の祈るときのようにじっと雪にひれふしたままいつまでもいつまでも動かなかった。そしてその雪と月のあかりで見るといちばん高いとこに小十郎の死骸が半分座ったようになって置かれていた。
  (宮沢賢治「なめとこ山の熊」)

生活のために熊を撃ち殺していた小十郎だが、熊に殺されるときに、小十郎は、「熊どもゆるせよ」としんでいく。熊も小十郎に対し「おまえを殺すつもりはなかった」といいながら、「があん」と小十郎を殴り殺す。

そして小十郎の死体を円心に「回々教徒の祈」りのような熊たちの螺旋ができる。ここにも、ひとと動物と生と死のスパイラルがある。ともにいき・ともにしぬような関係が。

共生、ということばがある。でも、かなえさんの句や「なめとこ山の熊」にみられるように、共生という概念は、じつは、共死をも含むというとてもラディカルなものなのではないだろうか。いっしょにいきてゆきましょう、が、いっしょにしんでゆきましょう、をふくみもつような。しぬときはべつべつだよ、ではなくて。

セーターをほどくみたいに、わたしとあなたが共にいて、いっしょにいきたり、しんだりしている。

  セーターをほどくみたいに逢いましょう  笹田かなえ


          (「前菜」『お味はいかが?』東奥日報社・2015年 所収)

2017年9月12日火曜日

超不思議な短詩216[千葉聡]/柳本々々


  「おはよう」に応えて「おう」と言うようになった生徒を「おう君」と呼ぶ  千葉聡

千葉さんの歌集は教師の日常の風景が歌で詠まれたものが多いのだが、面白いのは教師の言語風景と生徒の言語風景がセッションするときだ。語り手みずからの言語世界が、生徒の言葉の風景と渡り合うのである。

掲出歌をみてみよう。「おはよう」と言う教師の挨拶に対して「おう」と言うようになってきた生徒。ここで語り手はその「おう」を「お(はよ)う」にはたださずに、その「おう」をその生徒自身のアイデンティティとして付与してしまう。「おう君」と。

この教師から生徒への「あだ名づけ」=名付けからいろんなことがわかってくる(そもそも「あだ名」とは言語世界同士のセッションのようなところがあるのかもしれない)。

まず、教師である語り手にとって挨拶とは、ただ単に機械的に交わされるだけの言語ではなく、そのひと自身を体現していくものであるということだ。だからこそ「おはよう」に「おう」と返されてもそれを矯正するようなことはしない。むしろ「おう」でも返答してくれたことのほうが大事なのであり、その返答してくれた生徒自身を「おう君」として尊重する。

また「おう」と言うように《なった》と語られていることからもわかるようにこの「おう」としての《ここ》に来るまでには時間がかかっている。たぶん「おう」以前はまだ名付けられることもできないような状態であり、「おう」にいたってはじめて言語が人格化できるような状態に達したことをあわらわしている。

そして、「おう君」と相手を名付けてしまうことは、みずからの言語分節よりも、相手の言語分節=言語世界を優先することのあらわれである。名付けられた相手は、みずからの「おう」の言語分節を忘れず、そうして教師とのやりとりをしたことが自分の生きられる身体「おう君」になったことを忘れないだろう。

もちろん、「おう君」とあだ名をつけられた生徒本人の気持ちはここではわからない。嬉しかったのか嫌だったのかそれはわからない。わからないけれど、「「おう」と言うようになった」からは教師と生徒がなんらかの関係をはぐくんでいることが感じられる。また「おう」はそのうち「おはよう」に変わることもありうるかもしれない。そのとき、「おう」はまた違った意味をもつことになるだろう。

  「大丈夫だ」何も大丈夫じゃないが教員ならばそう答えるのだ  千葉聡

教師の言語分節とはなんだろう。千葉さんの歌集を読んで思うのは、自らの言語分節が優先されない世界が教師の言語分節である。「大丈夫じゃない」と思っても「大丈夫だ」という言語分節を行う。それが教師だ。ところがそのように優先された言語分節は、生徒との関わりのなかで、生徒の言語分節と、ずれ、かさなりつつ、出会う。

  「大丈夫、大丈夫だ」と熱のある子は僕に寄りかかってそう言う  千葉聡

大丈夫じゃないのに大丈夫という生徒。このとき、教師の言語分節における「大丈夫」と生徒の言語分節における「大丈夫」がぶつかりあい、かさなりあい、ずれ、共振する。大丈夫じゃないのに大丈夫と言う教員。大丈夫そうじゃないのに大丈夫という生徒。「大丈夫」ということばが教師と生徒の関係のなかで、ずれ、ゆれ、ぶつかり、かさなる。

このときの「大丈夫」は「大丈夫」にあるのではない。わたし(教師)とあなた(生徒)の間にある「大丈夫」であり、関係が明滅しながらあらわれ、「大丈夫」自体を問いかけるような「大丈夫」である。

あなたとわたしの、わたしとあなたの、言語分節に敏感になること。

  」杜子春は恐怖のあまり目を閉じた。括弧の中には入れないのだ。「  千葉聡

みずからの言語世界の発展〈だけ〉ではなく、他者と言語世界を切り結びながら《そこにしかない》言語世界をつくりあげていく場所がこの世界にはある。いや、あった。わたしもずっと忘れていたのだが、その場所を「学校」と言う。

  T君は僕を「先生」とは呼ばない 「ねえ」とも言わない 「ん」とにらむだけ  千葉聡



          (「非実力派教師の日常」『そこにある光と傷と忘れもの』風媒社・2003年 所収)

2017年9月11日月曜日

超不思議な短詩215[加藤久子]/柳本々々


  私って何だろう水が洩れている  加藤久子

以前、サラリーマン川柳は主体がはっきりしているのに対して、現代川柳(詩性川柳)は主体がはっきりしていない、それは現代川柳というジャンルが主体性を支えているんじゃないかという話をしたのだが、例えば、加藤さんの掲句。

「私って何だろう」と〈わたし〉を問いかけた瞬間、「水が洩れている」。主体が主体たろうとして主体的に主体である〈わたし〉自身に問いかけた瞬間、主体は損壊してしまう。この主体性のなさというよりは、非主体性への本領発揮の仕方は、川柳が発句である俳句と違って、付句からきているところ、〈付く〉ところからきているのかもしれないが、それにしても、縦横無尽にばらばらに損壊していくのが現代川柳なのである。

だから現代川柳が〈人間を描く〉という言説は、どこか当たっているような気がしながらも、どこかで致命的に間違っているような気もする。ポスト構造主義のフーコーが〈人間の終わり〉を唱えたような、終わってからのばらばらのドゥルーズ的器官のような人間が現代川柳には描かれているのではないかと思うこともあるからだ。

  人間は、われわれの思考の考古学によってその日付けの新しさが容易に示されるような発明品にすぎぬ。そしておそらくその終焉は間近いのだ。
  (フーコー『言葉と物』)

対して、現代川柳は〈他者〉としての「異人」にはとても関心を示している。これは他者を見いだして、その他者との二項対立から自身を逆照射して主体性をみいだそうとしているのだろうか。

  白菜をさくりと割って異邦人  加藤久子

  レタス裂く窓いっぱいの異人船  〃

そう言えば以前、現代川柳によってはじめて凄まじく遅れに遅れた〈近代〉が来たのではないかとちょっととんでもないことを言ったりしたが、実はそうではなくて、近代がこなかった現代川柳はそのまま未分化のままでポスト近代(ポストモダン)につっこんでいったという見方もできるのではないかと思っている(本当は近代とかポスト近代とかかんたんに使ってはいけないのは承知のうえで)。

  言語を用いてごまかすこと、言語をごまかすこと。たえず変遷回帰する言語活動の輝きにつつまれた、この健全なごまかし、この肩すかし、この壮麗な罠、私としては、それを文学と呼ぶのである。
  (ロラン・バルト『文学の記号学』)

現代川柳は、ポストモダンやポスト構造主義とこのうえなく、相性がいい。というか、現代川柳は《そのまま》現代思想の直感的で体感的なわかりやすい解説書になっているところがある。たぶん、デリダもドゥルーズもアルチュセールもラカンもフーコーもロラン・バルトだって、現代川柳をすごく愉しんで読んだと、おもう。きっと、そう、おもう。

わたしはロラン・バルトがずっと好きだったので、バルトに、いま、きいてみたい。わたしってなんなんですか。

  ノートに佇っている貌のない私  加藤久子

  この俺、何がどうなっちゃったんだろう。
   (ロラン・バルト『現代思想』1984年3月)

          (『動詞別川柳秀句集「かもしか篇」』かもしか川柳社・1999年 所収)

超不思議な短詩214[光森裕樹]/柳本々々


  どの虹にも第一発見した者がゐることそれが僕でないこと  光森裕樹

感染の話をもう少し続けてみよう。

こんな光の感染をめぐる歌がある。

  キラキラに撃たれてやばい 終電で美しが丘に帰れなくなる  佐藤りえ
  (『歌集 フラジャイル』)

この歌の場合、キラキラに感染し、キラキラまみれになってる歌と取ることもできる。どういうことか。たとえばこんなふうに考えてみよう。すごくすてきなキラキラしてみえるひとに出会ったとする(「キラキラに撃たれてやばい!」)。終電が近づいているのにそのキラキラに圧倒されて、感染してしまい、帰れない。たとえば自分の家が帰る場所は「自由が丘」(任意の場所なので、どこでもいい)だったりするのに、自分の帰る場所さえ、キラキラにもう感染してしまっていて、自分の言語体系がキラキラ言語体系になってしまっていて、「美しが丘」と言ってしまったりする。これが、キラキラ感染である。キラキラは感染する。そしてこのキラキラ感染の言語ダイナミズムを短歌にするとりえさんのこの歌になるように思う。

光森さんの歌では事態はその逆である。「虹」というキラキラに即座に感染しそうな歌語といってもいいくらいの〈光〉に対して、〈孤独〉を発見している。

掲出歌。虹が出ている。でもどの虹にもすでに第一発見者がいる。確かにわかっていることは、その第一発見者が僕ではないということだ。この歌では、「虹」に感染していない。むしろ感染しなかったそのことが歌として昇華されている。

光森さんの歌では光は感染する共同体ではなく、孤独する個人を呼び込んでいく。

  それぞれの花火は尽きてそれぞれの線香花火を探し始める  光森裕樹

やはり「花火」という感染する共同体をつくりそうなキラキラした歌語にすでに「それぞれの」と孤独と孤絶のためのジャンピングボードがもうけられている。花火が終われば、「線香花火」というマクロからミクロな光にうつっていく。光は縮小再生産され、そのたびごとにそれぞれの孤独をうんでいく。孤独はこの歌集において称揚されている。

  はつなつの運転手さんありがたう やつぱりぼくは此処で降ります  光森裕樹

「やつぱり」と意を決しての決断が入り、「此処で降ります」と決意が入る。「はつなつ」の光のなかでバスという仮想の共同体から「降り」る。

では、ただ、孤独なのか。闇があるじゃないかという返答がこの歌集にはあるだろう。

  手探りでくだりつづける階段に擦れちがふための踊り場がある  光森裕樹

手探りでくだりつづける階段。そんな闇のなかの階段に「擦れちがふための踊り場」が用意されている。闇のなかだからこそ、感触を通した闇の共同体が生成される。ただこの共同体は「擦れちがふ」と語られるのがポイントで、あくまで共有ではなく、分有のポイントである。あなたとわたしはすれちがう。でも踊り場という同じ場所において。

光森さんの歌集では、光と闇がどう感染しどんなふうに共同体をつくったりつくらなかったりするかに意識的な感性が働いている。これはフィルム=写真そのもので歌集をつくる光森さんならではの明暗の詩学といってもいいのではないだろうか(佐藤りえさんも写真を短歌に取り入れているので明暗への感性に意識的である)。

  ポケットに電球を入れ街にゆく寸分違はぬものを買ふため  光森裕樹

電球は光だが、電球を買いに行くために持ってゆく電球なのだからすでに切れた電球である。だからこれは闇の電球だ。かつて光だった闇を語り手はポケットに入れ、寸分違わぬものを買いに行く。明暗への鋭い意識がポケットで割れそうな電球の危機的な感じと共鳴して、激しい。

  請はれたるままに男に火をわたす煙草につける火と疑はず  光森裕樹



          (「鈴を産むひばり」『鈴を産むひばり』港の人・2010年 所収)

超不思議な短詩213[永井祐]/柳本々々


  あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな  永井祐

永井祐さんの短歌の特徴に試行されたコミュニケーションの厳しい断絶というものがあるんじゃないかと思っている。

例えば掲出歌。「あの青い電車」に語り手は「ぶつか」ることを試行するのだが、それは「はね飛ばさ」るのではないかと思考している。「あの青い電車」という電車をやわらかく言い換えてみても、電車とコミュニケーションをとることは不可能だ。

  日本の中でたのしく暮らす 道ばたでぐちゃぐちゃの雪に手をさし入れる  永井祐

「日本の中でたのしく暮ら」し、日本とまるで十全で充実したコミュニケーションがとれているかのような語り手。ところがその語り手は次の瞬間、局所的な「道ばた」の「ぐちゃぐちゃの雪」という〈ぜんぜんたのしくなさそうな〉ところに「手をさし入れる」というやはり〈たのしくなさそうな〉ことをする。コミュニケーションはとつぜん断絶される。dumb、というかんじに。

  月を見つけて月いいよねと君が言う  ぼくはこっちだからじゃあまたね  永井祐

「月を見つけて月いいよね」と「ぼく」に言ってくれる「君」。ところが不穏な二字空きのあと、「ぼく」はそれにはまったく返答せず、「ぼくはこっちだからじゃあまたね」と言う。コミュニケーションは試行されたのだが、断絶されてしまった。ここでも先ほどの「日本」から局所の「ぐちゃぐちゃの雪」のように、「月」から「こっち」という局所性=偏狭性が志向される。

この試行されたコミュニケーションの断絶をこんなふうに言い換えてもいいかもしれない。それは、感染への遮断なのだと。言葉は感染しやすい。言葉はすぐに返答(レス)がつき、感染され、伝播してゆく。言葉は、感染しやすい。その感染のしやすさを、断絶によって、浮き彫りにする。

  本当に最悪なのは何だろう 君がわたしをあだ名で呼んだ  永井祐

「本当に最悪なのは」「君がわたしをあだ名で呼」ぶといういつの間にか言語感染=言語共有されていることかもしれないこと。

  わたくしの口癖があなたへとうつりそろそろ次へゆかねばならぬ  斉藤斎藤

「口癖」がうつったら「次へゆかねばならぬ」。この言語感染への恐怖はなんなのだろう。もちろん、言語感染そのものは悪いことではない。それは共同体をはぐくむし、対話の基盤にもなる。でも、ゼロ年代の短歌にはどこかにその感染恐怖がある。感染への意識が。

  偏見は物語を通して感染する。言葉はウィルスなのだから。
  (西山智則『恐怖の君臨』

あんまり簡単に言えないのだけれど、ゼロ年代の短歌は、〈偏差〉というものをとても強く意識するようになったということは言えないだろうか(『日本の中でたのしく暮らす』の「日本の中で」、『渡辺のわたし』の「渡辺の」)。わたしとあなたには偏差がある。わたしとあなたは実はおなじ基盤を共有していない。だからその偏差を意識しつづける。いっけん、言語感染し、言語共有していると、その偏差が隠れ、わすれがちになるが、しかし、偏差はあるのだと。それをゼロ年代短歌は意識しはじめたんじゃないかと。そしてそれはテン年代の〈向かうことのできない向こう側〉を意識する短歌に変わるだろう(続フシギな短詩199[吉田恭大]/柳本々々


あなたとわたしは違うということ。でも、あなたはときどき「壁」を越えてやってくるということ。ゼロ年代をこえてそんな漫画がヒットする。漫画の名前は、『進撃の巨人』。

  あなたはぼくの寝てる間に玄関のチャイムを鳴らし帰っていった  永井祐


          (「1」『日本の中でたのしく暮らす』ブックパーク・2012年 所収)

超不思議な短詩212[宮柊二]/柳本々々


  ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す  宮柊二

穂村弘さんの解説がある。

  「ひきよせて」は、戦闘の一場面と読める歌。感情語を排した動詞の連続が緊迫感を伝える。
  (穂村弘『近現代詩歌』)

穂村さんの「動詞の連続」という指摘が面白いのだが、「ひきよせ/寄り添ふ/刺し/立てなく/くづおれ/伏す」とたしかにこの歌は動詞に満ち満ちている。こんな歌を思い出してみたい。

  前肢が崩折れて顔から倒れねじれて牛肉になってゆく  斉藤斎藤

この歌をはじめてみたとき、どうしてスローに感じられるんだろうと思ったことがある。屠殺される牛が、一瞬で殺されるのではなく、スローでゆっくりと死に、牛という個体から牛肉という食物=商品になっていく様子が感じられる。

宮柊二の歌では、ひとを刺すとはどういうことか、ひとを殺すとはどういうことか、ひとが刺され・殺され・死ぬとはどういうことか、がじっくりと描かれているのだが、この斉藤さんの歌にも「動詞の連続」によって牛が牛肉になっていくまでの死のプロセスが「崩/折れ/倒れ/ねじれ/なって/ゆく」とじっくりとスローで、動詞の連鎖で描かれている。

宮さんや斉藤さんの歌がスローを感じさせることがあるならば、それは、反復しつつも・ズラされながら連鎖してゆく動詞にある。定型の枠=時間を微分するかのように並列=列挙される動詞。読み手はそれら動詞を即座に処理し、連続させ、積分してゆかなくてはならない。

  崩→折れ→倒れ→ねじれ→なって→ゆく

こうやってみるとわかるように、おなじような意味の動詞が並びつつもだんだんズレてゆき、「崩」という↓への肉体がダウンするエネルギーは、「ゆく」という→への食品流通への流れへと、漢語からひらがなへの軽やかさとともに変化していく。

こういう技法は現在は漫画が効果的に使っている。例えば岡野玲子『ファンシィダンス』では主人公が三年の寺での修行生活を抜け、「まっ暗なシャバへ旅立」つときを、一コマのなかに身体の動きをズレつつ反復しながら印象的なスロー・シーンに変えている。

    (岡野玲子『ファンシィダンス』5巻、小学館文庫、1999年、p.43)

微分化された身体がスローな感覚をうむこと。たとえばこの考え方をこんなふうに〈逆〉に考えることもできるかもしれない。なぜ、チャップリンやバスター・キートンやマルクス兄弟がコマを早送りしながら自分たちのアクロバティックな身体を撮っていたかというと、それは、速度をはやめることで、身体に動詞を多重に折り重ねるプロセスだったのではないかと。

限定された時間のなかに動詞を多重に折り重ねることでスローな感覚をもたらす短歌と、限定された身体の速度を高めることで身体に動詞を多重に折り重ねるサイレント・コメディ。

動詞、速度、身体。短歌も映画も身体のテクノロジーにかかわっている。

  チャップリンのテクノロジー化した身体は、逆に周囲の環境からの刺激(機械のリズム)に自分を同調させることができるような、柔軟な有機的身体である。つまりこの身体は、機械の断続的なリズムを自らの生命のリズムとして生きてしまうのだ。
  (長谷正人『映画というテクノロジー経験』)


          (『近現代詩歌』河出書房新社・2016年 所収)

2017年9月9日土曜日

超不思議な短詩211[法橋ひらく]/柳本々々


  デンマーク風オープンサンド見た目よりずっしりとくるこれは良いランチ  法橋ひらく

法橋さんの歌集は『それはとても速くて永い』ととても印象的なタイトルがついている。法橋さんとお話したときに聞いたのだが、実際は名詞で短いタイトルも候補としてあったそうだ。

それはとても速くて永い。このタイトルにも法橋さんの歌のひみつが隠れていそうだ。

掲出歌をみてみよう。まず、長い。たとえば名詞なんかも出だしから長い。デンマーク風オープンサンド。まず長さがある。ただどこかに速さもある。この速さはなにか。それは「良いランチ」と体言=名詞で止めたところにある。長い歌なのに、余情や余韻を残さず終える。つまり、それはとても永くて・速い。

この歌の結句の「これは良いランチ」に注意したい。語り手は、〈気づいた〉のだ。歌っているうちに。ああ「これは良いランチ」なんだ、と。

つまり実質的にも形式的にも「それはとても速くて永い」のだが、しかし、もっと大事な点は、語り手の〈認知〉のありかたそのものが、「とても速くて永い」のだ。語り手は、永い認知のながで素速く気づく。「これは良いランチ」と。

このタイトルは、語り手の〈認知〉の様式を指していたのではないか。

ほかの歌も例にあげてみよう。歌いながら、歌のなかで、気づいていく歌を。

  風がすこし涼しくなっていつの間に登場人物(キャスト)こんなに入れ替わったの  法橋ひらく

  めちゃくちゃに笑ったあとの空白ふいにあなたが住んでいること  〃

  ケシの花って浮かぶみたいに咲くんだな草も声もぜんぶぜんぶ波  〃

  飛ばされるための帽子も油性ペンもないけど僕は今日ここにいた  〃

  追いかけっこの少年たちに囲まれて自分の脚を長いとおもう  〃

法橋さんの歌は、ながくて・はやい。気づくためのながさ、と、気づいてからのはやさ。

でも、実は短歌って本質的にそういう部分をもっているんじゃないか。認知のながさと認知のはやさを。

だとすると、やっぱり、こういうしかないんだと思う。それはとても速くて永い。

  「無宗教やと信頼されん言うてたわ」「そうなんや」ジョッキの底の、泡。  法橋ひらく


          (「万華鏡」『それはとても速くて永い』書肆侃侃房・2015年 所収)

超不思議な短詩210[山田航]/柳本々々


  夏はゆく何度でもゆくだから僕は捕まへたくて虫籠を置く  山田航

前回、〈たった一度きりの夏〉の歌の記憶の話をしたのだが、その記憶をまったく逆用=転用してしまうこともあるのではないか。

山田さんの歌では「夏」はもう〈たった一度きり〉の表情はみせていない。「夏はゆく何度でもゆく」と、夏の絶対性ではなく、夏の複数性が展開される。

けれどもそうした夏に対して刹那的・虚無的な態度をとるのではなく、「僕は捕まへたくて虫籠を置く」と極めて具体的(虫籠)で身体的(捕まへ)で積極的(たくて)で、それでいて、〈待つ〉(虫籠を置く)という受け身の姿勢が同時にあらわれる。

この積極的受動性のようなものは、山田さんの歌のあちこちにあらわれる。

  水飲み場の蛇口をすべて上向きにしたまま空が濡れるのを待つ  山田航

「水飲み場の蛇口をすべて上向きに」するという力強い積極性が発揮された後で、しかし「上向きにしたまま空が濡れるのを待つ」という受動性が歌の後半、展開される。つまりこの歌では、積極性と受動性が対立しあっていて、かつ、「まま」という言辞がそれらを結びつけ、積極的受動性のようなものが展開されている。

それをこういう言葉であらわしてもいい。潜勢力、と。

  僕らには未だ見えざる五つ目の季節が窓の向うに揺れる  山田航

四季しかわたしたちには見えていないのだが、語り手は「五つ目の季節」を窓の向うに感受している。季節の潜勢力を感じているのだと言ってもいい。世界の潜勢力を感じ取ること。そしてここにも絶対化ではなく、複数化された季節によって世界の潜勢力を感じ取る心性が感じられる。

こんなふうに言ってもよいのはないだろうか。山田さんの歌においては世界の複数性を感じ取りながらも、その複数性を分岐される弱さとしてではなく、まだ発見されてない隠れたエネルギー、潜勢力として感じ取っているのだと。

  たぶん親の収入超せない僕たちがペットボトルを補充してゆく  山田航

かつて取り上げた歌だが、「たぶん」というのは認識の複数性だ。たぶんこうなんだけれど、もしかしたらああかもしれない。たぶん親の収入は超せないんだけれどでも超せるひともいるかもしれない。いるかもしれないが、でもたぶん超せない。そしてその主体は「僕」が複数化された「僕たち」である。

でもだからといってそれらの複数化された世界が虚無的になるというわけでもない。「ペットボトルを補充してゆく」というのは、エネルギーを蓄えてメタファーにもなってゆく。なんらかの潜勢力の予兆のようなものはここに感じ取れないだろうか。これをコンビニエンスストアのアルバイトとしてとらえることはたやすいのだけれど、しかしそれにしては「を補充してゆく」からは〈待っている力〉のようなものを感じ取ることができる。

  思考するというのは、たんに、これこれの物やしかじかのすでに現勢化した思考内容に動かされる、という意味であるだけではない。受容性そのものに動かされ、それぞれの思考対象において、思考するという純粋な潜勢力を経験する、という意味でもある。
  (アガンベン『人権の彼方へ』)

複数化する世界は認めてしまう。でもその複数性のなかに潜在的な力を待機させること。それが短歌として形象化されたのが山田さんの歌のように思うのだ。だとしたら、それは希望といってもいい。

  花火の火を君と分け合ふ獣から人類になる儀式のやうに  山田航


          (「桜前線開架宣言・紀伊國屋書店新宿本店限定購入特典・2015年12月 所収)

超不思議な短詩209[小野茂樹]/柳本々々


  あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ  小野茂樹

たくさんで、それでいて、たったひとつの表情をしろ、という不思議な歌だ。ヒントは、「あの夏」だ。この「あの夏」を知っている人間は、その矛盾した複雑な表情ができるのだ。たぶん「した」ことがある人間だから。ここには「あの」という経験が矛盾律を越えてしまうようなことがうたわれている。出来事性が、理屈を、こえている。

ところで短歌史を流れている〈記憶〉のようなものがあるんじゃないかと思い、実験的に書いてみようと思う。

この掲出歌に次の二首を並べてみたい。

  逆立ちしておまへがおれを眺めてた たつた一度きりのあの夏のこと  河野裕子

  この夏も一度しかなく空き瓶は発見次第まっすぐ立てる  虫武一俊

河野さんの歌にも「あの夏」がやはり出てきて、「たつた一度」も出てくる。ただこの「たつた一度」は小野さんの歌からずれて、「たつた一度きりのあの夏」と夏にかかってくる。でも「たつた一度きりのあの夏」の〈表情〉をうたっている歌だ。しかもその〈表情〉とは、「逆立ちしておまへがおれを眺めてた」表情だ。

あえて小野さんの歌と一緒に読んでみるならば、ここにはこの歌の記憶を引き継ぎながらも、河野さんの立場からの〈フレッシュなねじれ〉がある。小野さんの歌が「せよ」と命令形だったのに対し、河野さんの歌は「逆立ち」を導入することによってこちらをみつめる人間の〈微妙な心性〉が浮かび上がってくる。「おまへ」は素直な人間ではないのかもしれない、「おれ」の「せよ」という命令をきくような人間でもないかもしれない。そうした相互の主体性の微妙な距離感がでている。

虫武さんの歌もこの〈歌の記憶〉に沿うような歌としてあえて読んでみるならば、「この夏も一度しかなく」と小野さんの表情の矛盾にあったものが、数の矛盾としてここではうたわれている。「この夏も」と夏はたくさんあるのだが、しかし「一度」なのである。表情の力点は、時間の力点におかれた。つまり、表情の有限ではなく、時間の有限を気にする位置性に語り手は身を置いている。

そして河野さんの歌にいた「おまへ」は消え、ここにあるのは「空き瓶」である。表情も、他者も、消えてしまったのだが、それが逆に現代の〈フレッシュなねじれ〉になっていると思う。

ところで、なぜ「空き瓶」を「発見次第まっすぐ立てる」必要があるのか。拾ったら回収し分別し捨てればいいのではないか。

こんなふうに答えてみたい。この語り手は、短歌史のなかにいる人間だったから、歌の記憶のなかで、「まっすぐ立て」たのだと。たった一度きりの夏のなかで、短歌の記憶を引き継いだ語り手は、空き瓶をみつけて「まっすぐ立て」た。これは、そういう歌なんじゃないか。

これは一度と夏をめぐる歌の記憶だったが、わたしはときどき、短歌史のなかの〈気づきの歌の記憶〉のようなものも、気になっている。そんなものはないかもしれないし、気づきそこねなのかもしれないが、でも、ちょっと、気になっている。気にしていこうと、おもう。

  呼吸する色の不思議を見ていたら「火よ」と貴方は教えてくれる  穂村弘

  雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁  斉藤斎藤

  草と風のもつれる秋の底にきて抱き起こすこれは自転車なのか  虫武一俊


          (『近現代詩歌』河出書房新社・2016年 所収)

超不思議な短詩208[佐々木紺]/柳本々々


  妖精の嘔吐や桜蕊ふりぬ  佐々木紺

この句には横に「#金原まさ子resp.」(金原まさ子さんをリスペクトして作った句)と詞書がついている(もともとTwitterのタグだったのかもしれない)。

この句の「妖精の嘔吐」に注意したい。紺さんの句をみてはじめて気づいたような気もしているのだが、金原さんの俳句は、出会うことのないふたつの物を強い悪意によって出会わせる、という質感がある。

たとえばかつて取り上げた金原さんの句。

  蛍狩ほたる奇声を発しおり  金原まさ子

「ほたる」と「奇声」が出会っている。私はかつて金原さんの句を川柳だと思っていて読んでいたことがあったのだが、たぶんその勘違いは、この強い《悪意の出会い》にあったようにおもう。

ただ《悪意の出会い》というのは前回BLをめぐって話したように関係性の詩学である。だから『庫内灯』創刊号で、佐々木紺さんと金原まさ子さんが往復書簡をしているのは、《必然的》なようにも思うのだ。BLとは、このような関係もある、あのような関係もある、と関係的想像力の強度を高めることであるならば、金原さんの俳句とはまさにその関係的想像力の強度がそのまま俳句になっているからだ。

紺さんは往復書簡でこんなふうに述べている。

  また他の人の俳句をBL読みすることは、萌えを見つける遊びであるのに加え、世界に対する小さな反旗を翻すことでもあると考えています。
  (佐々木紺「往復書簡 金原まさ子×佐々木紺」『庫内灯』)

ここで興味深いのは、「BL読み」は「萌えを見つける遊び」だけでなく「世界に対する小さな反旗」と〈小さな戦い〉にもなっていることだ。それは、〈関係〉は《こうあらねばならない》という強制される関係への「反旗」なのだ。

たとえば、妖精は嘔吐してはいけない、光って踊って楽しげにふるまっていなくてはならない、蛍は美しく光り続けていなくてはならない、奇声を発してはいけない、そうした要請=強制された関係を、関係的詩学のBL的枠組みは問い直し、抑圧された関係性をひっぱりだす。妖精の嘔吐、蛍の奇声として。

金原さんは紺さんの「ここ最近でときめかれた作品はありますか?」という手紙に「仮面の告白」「塚本邦雄」「マイケルジャクソン」「森茉莉」「ドグラ・マグラ」など作品を羅列したのだが、そのなかにこんな漫画家たちがいた。

  萩尾望都 山岸凉子 竹宮恵子

漫画史的には24年組と呼ばれる1970年代に少女マンガの革新を行った漫画家たちだ。

  萩尾望都たち24年組の特徴は、死や異世界や過去へのノスタルジーという、いわばロマン主義的な「退行」を作中に必ず抱え込むことだ。それが彼女たちの甘美さを担保している。その上で「死の世界」と「現実」との往復が主題となる。これは24年組の末裔としての岡崎京子の「リバーズ・エッジ」にまで通底する。
 (大塚英志『ジブリの教科書9 耳をすませば』)

考えてみると、金原さんの蛍の「奇声」も、紺さんの妖精の「嘔吐」も、「死の世界」への「退行」ととらえることもできる。ところがその「退行」が俳句で行われたときに、新たな関係性を俳句にもちこむ。

最近たまたま私も山岸凉子と竹宮恵子を読んでいたのだが、彼女たちは、凄絶にキャラクターの抑圧された〈内面〉をひきずりだす。それが「美少年」でも、その「美少年」性を食い破るような〈内面〉やそのたびごとの枠を逸脱するような関係性を描こうとする。

この佐々木紺さんと金原まさ子さんの往復書簡における《関係性》を読みながら私がみえてきたのは、BL読みは楽しみとしてだけでなく、ときに、〈そうあらねばならない〉関係性をそれがほんとうに〈そうあらねばならないのか〉、たまたま偶有的に〈そうあっただけでないのか〉という、関係の「小さな反旗」になるということだ。

逸脱することで、偏差がみえてくる。関係は決して対称的なものではないこと。それが逸脱によってみえてくる。すごくシンプルなことなのだが、なかなかできそうにないこと。

  逸脱のたのしさでヨットに乗らう  佐々木紺


          (「A Film」『庫内灯』2015年9月 所収)

2017年9月8日金曜日

超不思議な短詩207[藤幹子]/柳本々々


  銀河行くふたつの旅行鞄かな  藤幹子

『庫内灯 BL俳句誌』の「鞄はふたつ」から掲句。

『BL進化論』の溝口彰子さんによれば、女性読者がポルノを読む際の感情移入の対象は複数化していくという。

  「受」、「攻」にそれぞれアイデンティファイするというふたつのモードに加えて、もうひとつ、物語宇宙の外側に立つ読者としての視点、いわゆる「神の視点」へのアイデンティフィケーションもある。…
  三つのモードのうち、どれが最も強く働くかは、読者それぞれのファンタジーや物語の内容によっても異なる。…
  強弱はあれど、読者の頭のなかでは、この三つは同時進行であろう。「攻」、「受」そして「神」、すべてが「私」=読者なのである。
  (溝口彰子『BL進化論』)

ここで興味深いのは、BL的視点は決して〈攻め・受け〉の二項対立だけでなく、それらを俯瞰する第三者の視点をも同時にもつということである。

掲句をみてみよう。この句が、〈BL俳句〉である点は、どういう点にあるのか。

まず「ふたつの旅行鞄」で〈関係性〉を示唆している。〈攻めの旅行鞄/受けの旅行鞄〉と〈攻め/受け〉の二項対立が想起される。ここで注意したいのは、旅行鞄の所持者への関係性だけでなく、旅行鞄それ自体への関係性へも視点が潜り込んでいることだ。どういうことか。

たとえばこう考えてほしい。所持者に関係性がなくても、ふたつの旅行鞄が隣り合っておかれるだけで〈BL的想像力〉は働かせることができるのだと。BL的想像力は複数化の視点だから。

  恋愛がヘテロのものでない可能性があること、あるいは恋愛とは違っても互いを求め合う(対等な)関係性があること。BL俳句/短歌は、自分にとってそのひとつの象徴です。ときに異性愛に満ちて息苦しく感じられる世界への、ささやかな抵抗でもあります。
  (佐々木紺「編集後記」『庫内灯』2015年9月)

しかし/だから、もちろん〈攻め/受け〉の二項対立だけではない。

「銀河行く」という俯瞰の視点。この句ではこの「ふたつの旅行鞄」が「銀河行く」のを〈みている〉俯瞰の〈神〉の視点がある。BL的関係性を発動させている神の視点のような。

こうしてさまざまな複数的関係性を一句に折り畳んでいるのがBL俳句と言えないだろうか。

  抱くときは後ろ抱きなり春の月  岡田一実

〈背後から抱く(攻め)/後ろ抱きされる(受け)〉関係をみている「春の月(神の視点)」。

  ともだちを抱くこともある夏の果て  佐々木紺

〈抱く(攻め)/抱かれるともだち(受け)〉の関係をみている「夏の果て(神の視点)」。

ここでたぶんもっと大事なのは、いま・これをBL的に読もうとしている柳本々々もこの関係的想像力にかかわっていることである。これは柳本々々をてこにしたBL的想像力の関係性であり、この基点としての視点をだれが・どこから・どのように読むかによってまた関係性の束は変わってくるだろう。たぶんその意味で石原ユキオさんは『庫内灯』序文にこんなふうに書いている。

  BL俳句に決まった読み方はありません。
  でも、「俳句なんて読むの初めてだし、まず何をどう読んでいいかわかんなよー!」という方もいらっしゃるかもしれないので、BL俳句を楽しむコツを書いておきます。
  情景を想像し、ストーリーを妄想せよ!
   (石原ユキオ「BL俳句の醸し方」『庫内灯』)

関係性の束のなかにさらに読み手としての〈わたし〉をも関数として、関数的想像力として、その関係性の束のなかに関わらせること。BL的想像のダイナミクスは、読み手としての〈わたし〉に関係性の詩学を教えてくれる。

  穂村弘の「こんなめにきみをあわせる人間は、ぼくのほかにはありはしないよ」という明智と怪人20面相との関係を描いた短歌がありますが、私の理想はまさにこれです。
  「たったひとりの、代替不可能な互いの理解者であり、敵」という関係性にきゅんとします。
 (佐々木紺「往復書簡 金原まさ子×佐々木紺」『庫内灯』)

          (「鞄はふたつ」『庫内灯』2015年9月 所収)

超不思議な短詩206[復本一郎]/柳本々々


  「俳意」とは、俳諧性の(庶民性・滑稽性)のことである。  復本一郎

復本一郎さんが「川柳のルーツ」を次のように書いている。

  川柳のルーツ「江戸川柳」は、俳句のルーツである俳諧から派生したところの雑俳前句付という文芸として誕生したものであった。それゆえ、俳句と川柳とは、血縁関係にある文芸であると言っていい。源流をまったく異にする文芸ではないのである。かくて、俳諧発生時からの特質の一つである「滑稽性」(「笑い」)は、川柳にもかかわる特質だったのである。
  (復本一郎『俳句と川柳』)

復本さんによれば、もともと俳句と川柳のルーツにある「俳諧」は、庶民性・滑稽性が大事にされており、したがって、そこから派生した俳句・川柳にも滑稽性が引き継がれていたという。

今でもどちらかというと川柳と言えば、〈笑える文芸〉というふうに理解されているんじゃないだろうか。たとえばこんなシルバー川柳。

  誕生日ローソク吹いて立ちくらみ  シルバー川柳

誕生日にローソクを吹いたら立ちくらみしてしまう自分自身のエネルギーのなさをシルバーの立場から自虐的に描いている。こうした笑いを探求する川柳がある一方で、樋口由紀子さんはこんなふうに語っている。

  生きて有る事の不可解さ、不気味さ、奇妙さ、あいまいさなどが書けるのも川柳の特質である。
  (樋口由紀子『MANO』1998年5月)

不可解、不気味、奇妙、あいまい。これは「滑稽」とはまったく逆のベクトルをゆく、負やネガティブな力強さということになる。そういう価値観を川柳は引き受けることにもなった。ここで《あえて》樋口由紀子さんの句集から〈暗い〉価値観をもつ句を(分類しながら)みてみたい。

  ちょっと湿っている山高帽子  樋口由紀子
   (不快)

  悪になるオニオンスープ召し上がれ  〃
   (悪意)

  ねばねばしているおとうとの楽器  〃
   (不気味)

  荒野から両手両足垂れ下がる  〃
   (不可解)

  洗面器に水を満たして憧れる  〃
   (奇妙)

  階段の前を流れる不確実  〃
   (あいまい)

現代川柳はこうした負の価値観を積極的に育てる現場になった。

だから川柳にはおおまかに言えばふたつの流れがある。滑稽性を育む川柳と、負の価値観をも孕む川柳。簡単にいうと、サラリーマン川柳は自虐的だが明るく、現代川柳は他虐的で暗いと言えるだろうか。

私が面白いなと思うのは、復本さんが書かれたようにルーツには滑稽性があったとしても、またサラリーマン川柳のようにちゃんと滑稽性を引き継ぎ育んでいるものがあるのに、なぜわざわざ〈暗さ〉を引き受けるような現代川柳がうまれていったのかということだ。なぜなんだろう。滑稽性を突き詰めればよかったのではないか。ネオサラリーマン川柳のような。

ここからはちょっとこの一年を通しての推測なのだけれど、この負の価値観によって、川柳ははじめて〈近代〉をむかえようとしたんじゃないかと、おもう。つまり、個としてジャンルを自律させようとしていたんじゃないかと。樋口さんの句にあらわれたような不快や不気味や不可解は〈存在〉を際だたせるものである。ひとは享楽的なときは存在を意識しないが、みずからが死すべき存在であることを意識することによって実存を意識する。こうしたジャンルの実存意識として、負の価値観をはらみこんだのではないか。

わたしが不思議だったのは、主体性をめぐる観点だ。たとえばシルバー川柳では主体性ははっきりしている。シルバーな主体が、火を消すために息をふきかけ、エネルギーを消尽し、倒れんとしている。その主体は滑稽だ。そういうはっきりした主体がある。でも一方、樋口さんの句では主体性がみえないようになっている。「ねばねばしている弟の楽器」があって、姉にとって・ねばねばしているのだが、だからといってそれがどのような主体性になるのか。

わからないなかで不可解ななにかを感触してしまう。そのとき、主体は、主体にあるのではなく、むしろ、ジャンルが個としてたちあがる、ジャンルが実存的=主体的にそれら負の価値観を感触しているのではないか。つまり、主体は句のなかにあるのではなくジャンルにある。ジャンルが主体なのである。

現代川柳を〈読む〉という作業はとても難しい(といつも感じるしいつも挫ける)。それはカミュの『異邦人(よそもの)』で、ムルソーがどうして太陽のせいでひとを殺したのかよくわからないのに似ている。

ただたとえばそのムルソーの殺人の理由は、実存主義文学が理由なんですよ、と言われればなんとなく見えてくるように、ジャンルに主体の根拠があるのだ、そうやって川柳のとても遅れた近代がきているんだとおもうと、すこしわかりやすいような気がする。でもちょっと今回のこの話題はこれからも長くかんがえていこうと思っています。カミュがいってました。「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。それは自殺だ。だが、肝心なのは生きることだ」と。

  額の汗きらきらきらと悪である  樋口由紀子

          (「俳句に必要な「笑い」とは」『俳句と川柳』ふらんす堂・1999年 所収)

2017年9月7日木曜日

超不思議な短詩205[斎藤史]/柳本々々


  白い手紙がとどいて明日は春となるうすいがらすも磨いて待たう  斎藤史

短歌のアンソロジーを読むとたいてい載っているとても有名な歌だ。

ちょっとデリダのこんな言葉を引いてみたい。

  明日、君に手紙を書く、でもおそらく、またしても、手紙より私のほうが先に着くだろう
  (デリダ『絵葉書Ⅰ』)

デリダは、こう言ってよければ、手紙に挫折したひとである(〈郵便的誤配〉とは、手紙に対する挫折だったのではないか)。

手紙は、届かない。というよりも、届くんだが、届くまえに、わたしが先に着いてしまう。だから、手紙は届かない。まだ来ていないからだ。

ここには、手紙の身体性があらわれている。斎藤史さんの歌をテクストとして読んでみよう。デリダと事態は逆である。

すでに手紙は届いている。けれども、語り手は、「待たう」というのだ。手紙は、もう、着いているのに。

おそらく、その手紙に、誰かがくることが書かれている。それは語り手の父親かもしれないし、デリダかもしれない。わからないけれど、でも、身体は遅れてやってくる。手紙をめぐる身体は、《先に着いたり、遅れてやって来たり》する。

つまり、手紙は身体の時間差をうむ。その身体の時間差が、手紙の誤配をうんでいく。いくら言葉を読みとっても、もう身体はさきに着いているのだし、まだ着いていないのだし、が、言葉を先走らせたり遅延させたりする。意味は、ずれていく。

では、手紙と身体が、《同時に》やってきた場合は、どうなるのだろう。こんな歌がある。ほんとうに同時にやってくる歌だ。

  お手紙ごつこ流行りて毎日お手紙を持ち帰り来る おまへが手紙なのに  米川千嘉子

お手紙をもって母親のもとにやってくる子ども。ちゃんと手紙と身体が同時にやってきた。ところが、やはり、《遅延》が起きる。語り手は、「おまへが手紙なのに」と思うのだ。ここには、手紙と手紙のズレがある。やはり、手紙は誤配され、届かなかったのだ。なぜなら、「おまへが手紙なのに」おまえはそれに気づいていないから。だから、手紙は、届かない。身体は、そこにあるのに。

  私はまだソクラテスの背後のプラトンという、あの啓示的な破局から立ち直っていない。
  (デリダ『絵葉書Ⅰ』)

手紙は、身体を、分割する。そしてその身体の分割の破局を、立ち直らせない。

そういえば、穂村さんに、こんな手紙の歌があった。

  窓のひとつにまたがればきらきらとすべてをゆるす手紙になった  穂村弘

なんで「窓のひとつにまたが」ったのか? それは自ら積極的に身体を分割し、手紙身体になったからだ。窓枠にまたがり、みずからを、ソクラテス/プラトンに分割(スプリット)する。破局させる。そのとき、積極的にわたしが手紙を追いかけたことで、手紙の遅れをとりもどし、わたしに《だけ》わたしの手紙が、とどく。すべてをゆるす手紙に「なる」。わたしにとってだけれど。

もちろん、すべてをゆるす手紙は、また、誤配を重ねる。でも、あいても、窓枠にまたがって読むかもしれない。そうしたら、相手に、手紙は届くかもしれない。届くんだったら、

  時差は私のうちにある、それは私だ。時差は私を阻止し、禁じ、分離し、停止させる──しかしまた、私から楔を取り去り、私を飛翔させる、君も知っているように、私は自分に何も禁止しない、というか、私を禁止しない、そして私はまさに君のほうへ、君へと飛翔する。
ただただ君のほうへと。一瞬のうちに。
  (デリダ『絵葉書Ⅰ』)

          (『斎藤史全歌集』大和書房・1997年 所収)

超不思議な短詩204[筑紫磐井]/柳本々々


  行く先を知らない妻に聞いてみたい  筑紫磐井

筑紫さんの句のひとつの特徴に、〈非-自己完結性〉(自己完結しない)ところがあるんじゃないかと、おもう。

たとえば掲句だが、「行く先」を「行く先を知らない妻」に「聞いて」いる。しかも率先して「聞いてみたい」と言っている。語り手は妻が行き先を知らないことを《知っていて》それでも「聞いてみたい」というのである。しかも〈そういうこと〉が俳句になっているのだ。

とうぜん、妻は行く先を知らないので、知らない、というだろう。それでも聞いてみたいのである。行く先を。だとすると、この行く先は、いま・どこにある行く先なのだろう。なんの目的のための行く先なのだろう。いま・ここに踏みとどまるための〈行く先〉ではないか。しかしそれはここでも私でもなく「妻」にゆだねられている。つまり、外へと。

筑紫さんにはこんな句もある。

  さういふものに私はなりたくない  筑紫磐井

すぐに宮沢賢治「雨ニモマケズ」の「サウイフモノニワタシハナリタイ」を彷彿とさせるが、しかし「さういふもの」とは、なんだろう。「私はなりたくない」とさきほどのようにやはり〈欲動〉は発動している。しかしその目的がわからない。目的論的にならない。「さういふもの」がどういうものか、わからないからだ。さきほどの句のようにいま・ここにぐるぐる踏みとどまる句だが、「さういふもの」という何かを指し示す語があることによって、やはり〈外〉にでている。外へ。

こんな句もみてみよう。

  サムシングが足りぬと言はれさう思ふ  筑紫磐井

なにかが足りないと言われる。語り手は、言われて、そうだとも、思っている。しかし、その何かとは何なのか。しかもその何かはサムシングとなっている。この何かのサムシングの何かとは何なのか。何が足りないのか。何故サムシングなのか。「さう思ふ」と完結しそうになりながらも、「サムシング」によってやはり読み手は外に連れ出されてしまう。

この筑紫さんの俳句における「外」への連れだしエネルギーのようなものは、なんなのだろう。俳句の外へ外へとおもむこうとするエネルギー。俳句そのものを問いただしかねないエネルギー。それを俳句がもってしまうこと。

私はかつて筑紫磐井さんの掲句の拙評を書かせていただいたときにフロイトのこんな言葉を引用した。

  人は通常、倫理的な要求が最初にあり、欲動の断念がその結果として生まれると考えがちである。しかしそれでは、倫理性の由来が不明なままである。実際にはその反対に進行するように思われる。最初の欲動の断念は、外部の力によって強制されたものであり、欲動の断念が初めて倫理性を生み出し、これが良心というかたちで表現され、欲動の断念をさらに求めるのである。
   (フロイト、本間直樹訳「マゾヒズムの経済的問題」『フロイト全集18』岩波書店、2007年)

フロイトによると、欲動の断念、あきらめ、というのは、あきらめなきゃだめだ、があって、あきらめる、のではなくて、むしろ、逆だというのだ。最初にとつぜん、あきらめさせられて、その後に、そのあきらめさせられたことによって、あきらめなきゃだめだ、という「良心」や「倫理」がやってくるという。

  あきらめなきゃだめだ→あきらめる

ではなくて、

  あきらめる→あきらめなきゃだめだ

この外からの強制的諦めが自意識の倫理や良心を育むというのは、どこか、定型という強制的枠組みと似てはいないだろうか。

わたしたちはまず定型によってあきらめさせられる。妻にこれからの行く先をききたいし、そういうものが何かをしりたいし、サムシングが何なのかをききたいけれど、あきらめさせる。しかし、その諦めによって、定型をめぐる自意識のようなものを養っていく。これは、よいことなのだと。これこそまさに定型詩であり、俳句なのだと。まもるべきものだと。

筑紫さんの俳句というのはこうした定型と外部の交通や折衝、緊張のありかたをそのまま俳句化しているように、おもうのだ。

もちろん、わたしも知りたい。しりたいけれど、あきらめなければいけない。そしてあきらめることはよいことだと、わたしは〈もう〉おもっている。

定型は、自意識を育むことがあるのだろうか。そもそも、自意識とは、どうやってうまれているのだろう。しかしそうした自意識の探求をあきらめさせるのも、また、定型が育んでいく自意識である。

定型は欲動させながらも欲動するわたしを断念させる。

定型的自意識は、「なんにもしない」私をよしとするだろう。

  うるふ日をなんにもしないことにする  筑紫磐井


          (『俳句新空間 No.4』2015年 所収)

超不思議な短詩203[竹山広]/柳本々々


  二万発の核弾頭を積む星のゆふかがやきの中のかなかな  竹山広

穂村弘さんの解説がある。

  「核弾頭」と「ゆふかがやきの中のかなかな」が共存する世界に我々は生きている。
  (穂村弘『近現代詩歌』)

先日放送されたNHKの「SWITCH インタビュー 達人達(たち) 山本直樹×柄本佑」を観ていたら漫画家の山本直樹さんが連合赤軍事件を描いたマンガ『レッド』で、凄惨な事件のなかでもつい笑ってしまうような楽しいことがある、それも描きたかったと話していた。これもひとつのレベルの違うものの共存である。でも、たしかにヴォネガットの小説を読めばわかるようにどんなに凄惨な状況でもわらってしまうことはあるかもしれない。

たとえばそうした違うレベルの共存をずっと描いたのが、松尾スズキだとも、おもう。松尾スズキさんがかつて「トップランナー」というインタビュー番組で、葬式に向かう途中で週刊誌の袋とじヌードを破ってしまうことがあったとする、すごくかなしいことはかなしいのだけれど、その一方で、そういう状況のなかでもヌードをみたいきもちが共存してしまうときがある。その状況とはなんなのか、みたいなことを話されていた(『ファンキー! 宇宙は見える所までしかない』には障害者と笑いの共存というテーマが模索されている)。そういうものを忘れないでいたい、と。これもレベルの違うものの共存の話である。

レベルの落差の共存を描いたアニメに富野由悠季の『 ∀ガンダム(ターンエーガンダム)』がある。このアニメは、世界名作劇場+ガンダムと言われるような、ほのぼの日常労働社会と戦争リアルロボットアニメが融合していく特異というかとってもヘンなアニメなのだが(その意味で〈それまで〉のガンダムサーガを裏返している)、竹山さんの歌のうおな「核弾頭」と「ゆふかがやきの中のかなかな」が共存・折衝していく状況が描かれている。

物語の主人公ロランは偶然核弾頭を見つけてしまうのだが、そのとき核弾頭は、キャラクターたちの内面を、核の恐ろしさを知る味方、核の恐ろしさをまったく知らない味方、核の恐ろしさを知る敵、核の恐ろしさを知らない敵と微妙な層をわけながら、描き出していく。

核の恐ろしさをもとに協同しようとする敵味方、核のおそろしさを知らずそれが何かとても〈いいもの〉だと思い横取りしようとする味方。

結局、核は暴発してしまうのだが、そのとき、その回のタイトルにもなっているのだが、あまりの明るさで真っ暗闇のなか「夜中の夜明け」がきてしまう。核のおそろしさを人間はこの〈夜中の夜明け〉のひかり(まるで「ゆふかがやき」のような)に恐ろしさを感じるし、知らない人間は、美しいと感じる。

たぶん、核を考えるということは、このような核と一見無縁の〈風景〉=「夜中の夜明け」「ゆふかがやきの中のかなかな」と核を含んだ風景が、等価であるような状況を考えるということになるんじゃないかと思う。

ほのぼのした風景のなかに、核がある。

キューブリックの映画『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』のロデオのようにまたがることのできる核、タイムボカンシリーズの三悪の爆発するしゃれこうべ型の煙の核、核の風景は凄絶さよりもいつも〈コミカル〉や〈ほのぼの〉とも同居していたのではないか。

その凄絶さとほのぼのがコンタクトをとるその地点に、たぶん、ずっと立っている。わたしたちは凄絶な状況で、おかしなことがあれば思わずわらうし、ほのぼのとした日常のなかで凄絶な死をとげたりする。だれかがそれを正しいといったり、まちがっているといったりする。だけどもう、それだけじゃ足りないんだ。

  おそろしきことぞ思ほゆ原爆ののちなほわれに戦意ありにき  竹山広

  人生について知るべきことは、すべてフョードル・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中にある、と彼はいうのだった。そしてこうつけ加えた。「だけどもう、それだけじゃ足りないんだ!」
  (ヴォネガット『スローターハウス5』)


          (『近現代詩歌』河出書房新社・2016年 所収)

超不思議な短詩202[土屋文明]/柳本々々


 子供等は浮かぶ海月に興じつつ戦争といふことを理解せず  土屋文明

1935年の歌。

  時代と社会の動きを捉えようとする目を感じる。「子供等」の「海月に興じつつ」には、無邪気さの中に不穏なイメージがある。大人等は戦争を理解していたのだろうか。
  (穂村弘『近現代詩歌』)

この土屋の歌では、「理解」という行為が軸になることで、さまざまな二項対立を形作っている。

  子供等  /大人等
  浮かぶ海月/沈む重い何か
  興じる  /興じない
  理解せず /理解している

子どもたちが浮かぶ海月にはしゃぎ戦争を理解しない一方で、大人たちは浮かぶことのない何かを前にはしゃぐこともできず、ただ戦争という事態を理解している。

「理解」ということは、「あなたたち」と「わたしたち」という二項対立をどうしてもうみだしてしまう。かならず、理解できるひとと理解できないひとがでてくるからだ。

この「理解」ということばは現代の歌ではどのように受け止められているだろう。

  3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって  中澤系

中澤さんのこの歌でもある意味、「理解」は戦争状態を通して《行われ》ている。「快速電車が通過」するとき、「理解できない」にんげんは「理解できない」まま、死んでいく可傷性がある。わたしを破壊的な死に巻き込むこの電車とはいったいなんなのか、なぜわたしたちの社会に電車があるのか、こんな危険な致死にもたらす可能性があるものになぜぼんやりとわたしたちはホームで待つのか、理解できないまま身体を損壊されて、しんでゆく。

ただし。

「理解」できたからといってそれがなんなのだろう。いったい《なに》を理解したことになるのだろう。「3番線快速電車が通過します」というセンテンスの意味性を理解した(つもりになっている)に過ぎないのではないか。それを「理解」したところでときどき電車という暴力装置のなかで骨片になってゆくひとたちの〈きもち〉は理解できない。毎日、朝の、夜の、生の、機械の、戦争のなかで、電車によってこなごなにされ、ふいつぶされ、たたきつぶされ、しんでゆくひとたち。「理解」は、どこにあるのだろう。

  戦争が平和を生むように、平和もまた戦争を生む。単に戦争でないというだけの消極的で空疎な平和は、いずれ実体としての戦争によって埋め合わされる。そう思ったことはないか。その成果だけはしっかりと受け取っておきながらモニターの向こうに戦争を押し込め、ここが戦線の単なる後方に過ぎないことを忘れる。いや、忘れた振りをし続ける。そんな欺瞞を続けていれば、いずれは大きな罰が下される。
  (押井守『機動警察パトレイバー2』)

わたしたちとあなたたちを《分けて》いたはずの「戦争」や「理解」はいったいどこにいってしまったのか。

わからないけれど、しかしわからないなかで、「理解」そのものを拒むという理解への積極的否定をとることだって、できる。「理解できない人は下がって」と大きな主体から言われたときに、「理解しよう」と飛びつくのではなく、だったらそうかんたんには「理解しません」と〈理解しない〉ことを耐え抜く態度だ。

死にたくはないので「下が」るが、だからといって、「理解」については譲らない。理解しない。理解する気なんてない。理解しないままのわたしで《あえて》下がる。理解しないその場所で、忍耐強く、たたずみつづける。中澤さんのうた。

  小さめにきざんでおいてくれないか口を大きく開ける気はない  中澤系
  

          (『近現代詩歌』河出書房新社・2016年 所収)

2017年9月6日水曜日

超不思議な短詩201[与謝野晶子]/柳本々々


  大いなるツアラツストラの蔑すみし女の中にわれもあるかな  与謝野晶子

この歌に関してこんな解説がある。

  夫との愛の相剋の悩みを歌い続けていた三十四歳のころ、ニイチェの書をよみ愕然とします。女の盲目的従属性を突く「ツアラツストラ」の言葉を肯定しつつも自恃を砕かれた反発ともよみとれます。
  (川口美根子「与謝野晶子」『岡井隆の短歌塾 鑑賞編』)

短歌を読んでいてときどき気になるのが、書物=テクストが歌のなかに出てくる場合だ。テクストは歌のなかで、どんなふうに機能するのか。たとえばこんな歌がある。

  愛情のまさる者先づ死にゆきしとふ方丈記の飢饉描写するどし  五島美代子

愛を優先する人間、なによりも愛のために自分よりもひとのために行動してしまう人間の方がまず死んでしまうという『方丈記』の飢饉描写がするどい、と言っている。

こんな歌もある。

  十三歳(じふさん)で読みし『舞姫』不愉快なり四十歳(しじふ)で読めどかなしからず不愉快  米川千嘉子
  (歌集『一葉の井戸』)

森鴎外『舞姫』はいつ読んでも不愉快だと言っている。この米川さんの歌は、与謝野晶子の掲出歌の系譜を引き継いだ歌といってもいい。『舞姫』は主人公の太田豊太郎の視点をあわせると〈近代自我形成の物語(わたしはどう生きていくべきか、人生とはなんなのか)〉になるのだが、エリスという女性に視点をあわせると、エリスが妊娠させられ、捨てられてしまう〈だけ〉の物語となる。また、エリスが豊太郎に決断をせまる大事なシーンで、豊太郎は気絶してしまい、その決断を友人にまかせてしまう。

  実は『舞姫』の豊太郎は、作中で何一つ自分では決断できていない。一番決断しなければならなかったとき、彼は人事不省に陥っており、やっかいな事後処理をしてくれたのはすべて友人の相沢謙吉なのだった。ヒーローとヒロインの間にはついに何の対話もないまま、一切は友の手によってひそかに片づけられてしまっていたのである。
  (安藤宏『「私」をつくる』)

だから米川さんのおそらく女性主体の語り手はこの『舞姫』を〈女性主体〉=エリスの立場から読んで「不愉快」だと言っている。

与謝野晶子のニーチェ、五島美代子の方丈記、米川千嘉子さんの舞姫。

これら歌にでてきたテクストは、読者の〈期待の地平〉を裏切っていくものであり、歌のなかで逆なでされている。ニーチェのたくましい強さの哲学は女性主体の立場から〈切り捨てられたもの〉が渦を巻き、『方丈記』は「ゆく河の流れはたえずして、しかももとの水にあらず」という〈無常〉よりも〈飢饉〉という現実(リアル)な問題が渦を巻く。米川さんの『舞姫』ではエリスの声が女性主体の身体に宿り渦を巻いている。

テクストは逆なでされながら、歌に顔をあらわしはじめる。それが、歌のなかの、テクスト=書物ではないだろうか。

それは、感動ではない。感動ではなくて、逆なでされた、感・動なのだ。感じて・動いてしまった〈なにか〉。

米川千嘉子さんの歌集タイトルは『一葉の井戸』だが、タイトルに樋口一葉の名前があらわれているように、米川さんはテクストをとりこんだ歌が多い。

  賢治はやさしくせつなく少し変な人花巻花時計に来てまた思ふ  米川千嘉子

  「銃後といふ不思議な町」を産んできたをんなのやうで帽子を被る  〃

宮沢賢治が「やさしくせつなく少し変な人」とやわらかく、しかしとらえがたいアマルガムなイメージで〈現代〉に召喚される。「銃後といふ不思議な町」はかつて取り上げた渡辺白泉さんの句テクストだけれど、「銃後という不思議な町」を「産んできた/帽子を被る」と女性身体から読み直している。

  銃後といふ不思議な町を丘で見た  渡辺白泉

白泉は「見た」と見る主体なのだが、米川さんの歌ではそれを「産んできた」と女性身体から〈翻訳〉し直している。そのことによって、「見た」という「不思議な町」との距離が抹消し、その町を銃後を支えていたのは誰だったのかに想像力が向けられる。しかし語り手は「帽子を被る」。なぜだろう。それはこの語り手が男性/女性という分節だけでなく、当事者/非当事者も意識しているからではないか。

テクストは、多くの人間を取り込むとともに、多くの人間(マイノリティ)を疎外し、忘れたものとしてそれを含みこんで語る。〈忘れたもの〉としてそれは語られる(まるでヒッチコックの映画の地下鉄のシーンに〈黒人〉がいないように)。

けれども、だからといって、テクストの当事者に〈なろう〉というのも、ちがうのだ。それはただの転倒としての反復にしかならない。そうではなくて、テクストを裏返しながら、語らずに、「帽子を被る」こと。それが、テクストを、小説を、本を、〈読み直す〉ということではないだろうか。

テクストを、みつめる、のではなくて、テクストから、みつめかえされること。ここからはじめたい。

  絵はがきにフォービスムの緑のをんなゐてわれを見ながらポストに落ちる  米川千嘉子


          (「与謝野晶子」『岡井隆の短歌塾 鑑賞編1月明の巻』六法出版社・1986年 所収)

DAZZLEHAIKU10[鎌田 俊]渡邉美保



  蚊の仔細眺めんと手を喰はせをり  鎌田 俊


「刺されるのは嫌ですが、近寄ってきたら観察する余裕を持ちつつ、夏を乗り切りたい」という記事を読んだ。もちろん蚊の話。

 蚊のほとんどの種類のメスは、脊椎動物の血を吸うが、それは卵をつくるため。オスもメスも日々のエネルギー源としては花の蜜などを吸っていて、血と蜜が入るところは、体の中で分かれているのだとか。そんな話を聞くと、血を吸いにくるメスの蚊がいじらしく思えてくる。

 手にとまって血を吸っている蚊の様子を観察している姿は、ちょっとおかしく、俳味にあふれている。一句一章のおおらかさ、「手を喰はせをり」の大仰な言い方が効果的である。

 ここには、仔細に眺めた蚊そのものではなく、「手を喰はせをる」人(作者)の人となりが表れている。


〈東京四季出版「俳句四季」2017年9月号〉


2017年9月5日火曜日

続フシギな短詩200[目次Ⅱ]/柳本々々

【101、高屋窓秋さんとカラー
 頭の中が極彩色の夏野となっていく

【102、まひろさんと安福望さんとクリスチャン・ラッセン
 プレシャスラブドルフィンフリーダムエンドレスドリーム。すなわち、愛、自由、夢。

【103、加賀田優子さんとおにぎり
 おにぎりをつくるみたいにわたしたちされてできたのかもしれないね

【104、介護百人一首と形式】  
 僕たちが何をするか、なぜそうするかなんて、いったい誰にわかるだろう。

【105、池田澄子さんとピーマン】  
 ピーマンに出会う方法はすくなくともふたつある。ひとつは、わたしの場所にピーマンを呼び込んでくること。ふたつめは、わたしじしんがピーマンになってしまうこと。

【106、樋口由紀子さんとジャック=マリー=エミール・ラカン】  
 「きみは、この地球が宇宙の精神病院だと思わないか?」

【107、佐藤みさ子さんとたたかい
 生まれたてですとくるんだものを出す

【108、榊陽子さんと悪意】  
 汝の虫酸を、汝のたてがみを、われに与えたまえ

【109、ひとり静さんとポ】  
 すべてのポのために。

【110、三谷幸喜さんとミュージカル
 もうお風呂の後、濡れた体でいつまでも歩き回らないよ。君の姪っこの誕生日には必ず電話を入れて、ミッキーマウスの声でハッピーバースデーを唄うよ

【111、鴇田智哉さんと人参】  
 ニンジンを並べてわかったこと。

【112、安福望さんと木】  
 どんなに緊張した場でも吐き気がして卒倒しそうな場でも、とにかく、はじまったら・おわる。どんなにそれが艱難辛苦の場所だって、はじまったら・おわる。それを私は勇気にしていこうと思う

【113、鶴見俊輔さんともうろく】  
 私は「でも」ということしかいえない。赤ん坊がいえるのはそういうことなんだ。「でも」が、私の生涯の著作になったということでいいんじゃないか。

【114、西尾勝彦さんとこたつ】  
 …こたつ主義とは何か…理想のこたつ生活…こたつと本…こたつとコーヒー…こたつとお茶…こたつとみかん…こたつと猫…こたつと湯豆腐…こたつとおでん…こたつと音楽

【115、山田露結さんと家族】  
 家族と生きるって、なんですか。

【116、最果タヒさんと死なない
 「生きる」ことではなく、「死なない」ことをきみのたたかう価値として。

【117、新・幻聴妄想かるたと不思議の国のアリスたち
 チュルチュルピー小動物に演説する私

【118、仲畑流万能川柳と爆笑問題】  
 「世界とお前の戦いでは世界に味方せよ」というカフカの言葉

【119、川嶋健佑さんとキキとララ
 ララは、鳥かごに閉じ込められたキキのところへかけよりました。「おい、弟よ! 魔女はやっつけた! あたしたち、助かったのよ!」「ほんとうかい! ありがとう、ララ」

【120、岡村知昭さんとAなのにB】  
 然るべく生きるべきなのに、然るべく生きられなかったら、泣いていい。

【121、新聞歌壇とアントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ】  
 彼の前歯が胸につまっていく。「ねえあの頃はよかったとは思わない?人生のなにもかもがまっすぐであったかくてむじゃきで幸せだった。なんだったのかしら」 

【122、千春さんと夫への説得】  
 説得は、激しい。説得には、生きてゆくことの激しさがある。私がしにたくても、あなたがいるのだ。あなたの説得されなさの激しさのあなたが

【123、柳本々々さんと過剰性】  
 というのも、そのたびに、そのたびに特異に、そのたびにかけがえなしに、そのたびに無限に、死はまさしく《世界〈の〉終わり》だからである。

【124、樹萄らきさんとキャラ】  
 欠損と誇張を媒介として生み出されるのが「キャラ」=のび太なのだ。それゆえキャラ=のび太には内面がない。アトムの内面はアトムの髪型であり、のび太の内面は0点なのである。

【125、高橋順子さんとあなたに会ってこんなに遠くまで来てしまった】  
 あなたなんかと結婚するひとがいるとは思えないと人に言われたことがあります

【126、吉井勇さんと吉井勇さんの歌の引用を間違える谷崎潤一郎さん】  
 どこにもない(no-where)から、今・ここ(now-here)の世界へ

【127、疋田龍乃介さんと犬がひげのがん】  
 アリスはあっち側に行ったまま〈帰ってこられなくなるかもしれないわ〉と思ったので、その行為に名前をつけた。犬、と。

【128、山下一路さんと失意のアメフラシ】  
 何一つとして人から贈られたものはない。一切のものをあらたに獲得しなければなりません。現在と未来ばかりではありません。過去さえも新たに獲得しなければならないのです

【129、月波与生さんと本当に悲しい】  
 私は、あなたにかなしい縁を感じてゐる。

【130、パパ(ほんだただよし=本多忠義)さんとパパのことば】  
 「ねえ、真実を話して」「真実? ダースベイダーはルークの父だよ」

【131、Sinさんとおでん剥ぎ】  
 むかし、友達に、いくらこころが汚濁してても、身体はきれいだからあなたのこと好きだよっていったら、ふつう逆だよねっていわれたんだ

【132、曾根毅さんと巨人】  
 立ち上がった巨人への最後の一撃は、せつない。

【133、中村安伸さんとバターになった虎】  
 ものを書くというプロセスの核心にどのような暗黒の謎がひそんでいようともそこにはただ一つの企業秘密があるだけだ。それは君は生きのびなくてはならないということなのだ

【134、囲碁川柳と体液】  
 どんなときでも彼は爽やかに「デュフフコポォ」と笑ってくれた。「心配ないよ」と言って「オウフドプフォ」と微笑した。私を励ましてくれたときの彼の「フォカヌポウ」の笑顔を私は忘れない

【135、村井見也子さんとやがて近くにいるそれ
 現代川柳は、ていねいに、ぼんやりしている。

【136、広瀬ちえみさんとなんにも見ていない】  
 戻れないけれどどうぞ

【137、山川舞句さんと怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒
 怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒

【138、奈良一艘さんと鯖缶】  
 クリスチャン・ラッセンのこんな名言がある。「フォーエバー・ラブ」

【139、むさしさんとエネルギー噴出】  
 止めてくれどんどん人が好きになる

【140、中村冨二としっぽ】  
 しっぽは、何人称なんだろう?

【141、三宅やよいさんと鶫】  
 鶫って、読めますか?

【142、北山まみどりさんと少女マンガ】  
 そもそも恋愛状態の人間というのは、いろんな矛盾の中に置かれているといってもいいんです

【143、陣崎草子さんと蛇口】  
 「好きでしょ、蛇口。だって飛びでているとこが三つもあるし、光っているわ」とモネは言った

【144、藤本玲未さんとやつ】  
 「死なせたら死んだままだと気付かずにあなたにずっと話しかけたい」はあの星のことば

【145、橘上さんとイズミ】  
 イズミは寂しさで死んだ。その寂しさは数値化され、イズミの死んだときの寂しさは「1IZ」という単位で表現され、寂しさの致死量を計る基準値となった

【146、今井和子さんとネコバス】  
 猫と本って似ているよう気がする。向こうからはこない。時々仲が悪くなる。でも仲がいい時は変に仲がいい。わかったようなきもちになることがある。そして次の瞬間わからなくなる。

【147、種田山頭火とさみしい】  
 倒錯してしまった私(猫)には帰る場所なんてない。だから私はいつもさみしい。まっすぐな道なのに全然どこにもたどりつかない。たどりつけない。歩いても歩いても。また鞄に帰ってくる

【148、カニエ・ナハさんと改行】  
 改行するのはその行のところでことばの角を曲がるからです。ここを曲がったら、自分の知らないなにかがあるのではないかと思って、角を曲がるのです

【149、吉岡太朗さんと潜勢力】  
 よくわからない知らないひとがわたしがおしっこをするところを見にきてしかもよくほめる

【150、谷川電話さんと恋人】  
 恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の不死

【151、浅沼璞さんと桜の園】  
 あなたのものかもしれないかった桜の園がいまやわたしのものであるということ。

【152、芥川龍之介と芥川君が自殺した夏】  
 芥川君が自殺した夏は大変な暑さで、それが何日も続き、息が出来ない様であった。余り暑いので死んでしまったのだと考え、又それでいいのだと思った。

【153、ロマンシングサガ2と皇帝継承歌】  
 それに、だれにだって、あるだろう、やるしかないっていう気持になる時が。

【154、楢崎進弘さんとメロンパン】  
 次の世がメロンパンでもかまわない

【155、赤松ますみさんと光りなさい】  
 魔法だと思うこの世に生きている

【156、北川美美さんと中にどんどん入っていく
 いったい、私は、誰を待っているのだろう。はっきりした形のものは何もない。ただ、もやもやしている。けれども、私は待っている。大戦争がはじまってからは、毎日、

【157、きゅういちさんと反逆
 縁取りにぬるいファンタをたててゆく

【158、いなだ豆乃助さんと渦】  
 鳴門には縁もゆかりもない@

【159、生駒大祐さんと空と底】  
 花の中をゆっくりゆっくり歩いてゆかなくてはね 

【160、柴田千晶さんと鋏】  
 複雑な穴と頭をめぐって

【161、廿楽順治さんと幼虫】  
 【ペンフレンド募集】字の書ける人ならどなたでも。顔をうしなった友だちになりませう。理想の

【162、川柳少女と五七五系女子】  
 そういえば私玉ネギだめだった

【163、徳田ひろ子さんと人】  
 野口五郎からのみんなへの問いかけ

【164、松井真吾さんと収拾のつかない空間】  
 向日葵のアジトで内緒の少女たちと遊べ

【165、河野聡子さんときみを呼ぶのは生きている者だけだ】  
 きみは長いあいだ呼ばれていると感じていた。とにかく段を踏まなくてはならない。自由にのぼったりおりたりできるわけじゃない

【166、寺山修司と中国⇄アフリカ】  
 初出のかたちは、サバンナの象のうんこよ聞いてくれつらいせつないこわいさびしい

【167、楳図かずおさんと美少女⇄蛇少女】  
 美少女の嘔吐がほしいな/裏悪水

【168、坂野信彦さんと律文】  
 日本語の発話の最小単位が二音であること。一音の語は、しばしば二音ぶんにのばして発音されます。たとえば「目見て」を「めーみて」、「絵かく」を「えーかく」というぐあいです

【169、飯島耕一さんと二人称】  
 来るべき古代にはきみは水をくぐるように生きることができる。来るべき古代にはきみは言語によって苦しまない。来るべき古代にはきみはきみとは別のものである
【170、田中槐さんと素粒子
 ニュートリノは他の粒子と相互作用しにくく私達のからだを毎秒毎秒ニュートリノは10超個以上もつきぬけてゆく。ニュートリノは空からぱちぱち降ってきて私達のからだを通り抜けてゆく

【171、佐藤弓生さんと幻想】  
 ながいながいあそびのはての生のはじまり

【172、川口晴美さんとシン・ゴジラ】  
 地下なのか夜なのか明かりというあかりの失われた場所で、おそろしいことがすばらしいことが起こるのをわたしは待ちました

【173、瀧村小奈生さんと木じゃないとこ】  
 そうですかきれいでしたかわたくしは

【174、米山明日歌さんと鏡】  
 鏡からわたしやわたしたちが帰ってくる

【175、荻原裕幸さんと文字禍】  
 この発見を手始めに、今まで知られなかった文字の霊の性質が次第に少しずつ判って来た。文字の精霊の数は、地上の事物の数ほど多い、文字の精は野鼠のように仔を産んで殖える

【176、岡部桂一郎さんと岡部桂一郎さん】  
 3に5を足せば桂一郎9になるなあ?そんなむずかしいこと聞かれても

【177、?さんと松茸】  
 壁を一枚へだてて、そこはもう、車がバンバン通ってる……壁がバタンて倒れたら、ここは、この坂を通る人や車から丸見え……フフフ……私、お化粧してこなかったことを悔やむかしら……。

【178、大岡信さんとさわる】  
 さわることはさわることの確かさをたしかめることか。

【179、鶴彬と戦争Ⅰ】  
 「驚いてはいけませんよ」と言いながら、そっと白いシーツをまくって見せてくれた。そこには、悪夢の中のお化けみたいに、手のあるべき所に手が、足のあるべき所に足が、まったく見えないで、

【180、塚本邦雄と戦争Ⅱ】  
 電車の中でもセックスをせよ戦争へゆくのはきっときみたちだから

【181、野沢省悟さんと中村冨二】  
 私の影よ そんなに夢中で鰯を喰ふなよ

【182、芦田愛菜さんと下の句の忘却】  
 「やって」と黒柳徹子は言った。

【183、河野裕子さんとあなたとあなた】  
 あなたとあなたに触れたい

【184、茨木のり子さんとわたしが一番きれいだったとき
 あなたが一番きれいだったとき、とんでもないところからいったい何が見えていたのか

【185、小久保佳世子さんと1
 一人称単数としてあなたの前へ

【186、萩原朔太郎さんと病気】  
 おわああ、ここの家の主人は病気です

【187、北野岸柳さんと密会
 歳時記の中で密会してみよう

【188、神野紗希さんとすぐそこにある神話】  
 ともかくむかしむかし、天から降り立ったコンビニな、それが変えたんだよ人類を。人類を、深夜小腹減ったって問題から救った、それから、夜道暗くてこれ心細いぞって問題

【189、与謝野鉄幹と斉藤斎藤さん】  
 「あなたと一緒になりたい」じゃなく、「あなたになりたい」になってしまったらどうしたらいいのか

【190、奥村晃作さんとボルヘス】  
 ここにはカテゴリーしかないので、百年後、やはり、中年のハゲの男が立ち上がる、立ち上がり大太鼓打つ。年齢も頭髪も体力もまったく変わらずに。

【191、金子兜太さんとアクセスポイントⅠ
 蝉を流れるスピリットと岩を流れるスピリットが、相互貫入を起こして染み込み合うと?

【192、小澤實さんとアクセスポイントⅡ】  
 本の山がこちらに崩れてきたときに、アクセスポイントを発見してしまう

【193、普川素床さんとアクセスポイントⅢ】  
 顔のスイッチを入れる 夜を消すのを忘れていた 

【194、佐佐木幸綱さんとたつからだ】  
 のぼり坂のペダル踏みつつ子は叫ぶ「まっすぐ?」、そうだ、どんどんのぼれ

【195、村木道彦さんとするだろう】  
 「するだろう ぼくをすてたるものがたりマシュマロくちにほおばりながら」とは言うけれど、誰がするのか?

 【196、前田夕暮さんとじっくり見る】  
 異常なぐらいじっくりと見る vs 顔を近づけ過ぎてだれだかわからない

【197、福島泰樹さんとバリケード・一九六六年のノルウェイの森】  
 あれはあれとして終わってしまってほしかった。「僕」と緑さんがあのあとどうなるかなんて、僕としては考えたくないし読者にも考えてほしくなかった

 【198、野口あや子さんと大きな主体】  
 わたしは今大きな主体にさらされていることがわかっている。でも、あきらめて肯定する。でも、あきらめて否定する。だから、くびもとに錐が刺さろうとしている
【199、吉田恭大さんとむこう側】  
 最後の風景は、「名詞から覚えた鳥が金網を挟んでむこう側で飛んでいる」

2017年9月4日月曜日

続フシギな短詩199[吉田恭大]/柳本々々


  名詞から覚えた鳥が金網を挟んでむこう側で飛んでいる  吉田恭大

最後はこの歌で終わりにしようと、おもう。

高柳蕗子さんが『短歌の酵母Ⅱ 空はともだち?』において最後にあげられている歌だ。

  喜びも悲しみもしない。この無感動には、“興ざめ”が感じられる。
  [向こう側]が見えているにもかかわらず、ここは[果て]なのだ。その遮るような遮らないような状態を「金網」が表していると思う。……
  言葉の[果て]は眼前にある。表現はその[こちら側]のものである。……
  見つけた人がいる以上、言葉の[果て]はこの先も少しずつ意識され続けるだろう。
  (高柳蕗子『短歌の酵母Ⅱ 空はともだち?』)

「名詞から覚えた鳥」という記号と物の一致する「鳥」が「金網」の「むこう側」を飛んでいる。そのとき鳥の名前である記号表現とその鳥の意味そのものの記号内容と、今実際に飛んでいる鳥そのものを一致させることはできる。しかしそれは金網のむこう側にいる。《みる》ことはできる。しかし、みたからといって、この届かなさは、なんなのか。しかし、その届かなさを意識できた人間だけが届いてしまう領域がある。

  ああむこう側にいるのかこの蠅はこちら側なら殺せるのにな  木下龍也

「むこう側」にいる「蠅」。《みる》ことはできる。しかし「こちら側」にいないので、「殺せ」はしない。ここには、「むこう側/こちら側」という記号的分節が、現実の分節に及んでしまった人間が描かれている。これもひとつの届かなさだが、この届かなさに届いてしまった人間だけが入り込めるところに踏み込んでいる。

  3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって  中澤系

「理解できる人/理解できない人」という〈脳〉の問題。しかしそれも単なる「電車が通過するから危険/電車が通過するということがわからない危険もわからない」という〈記号の答え合わせ〉的問題に過ぎないような状況。だとしたら、理解とはなんなのか。理解と記号の関係は? だれが理解できて・だれが理解できないのか。そして、どんな大きな主体が、わたしたちを「こちら側」と「むこう側」にわけているのか。大きな主体は、金網を《どこ》に用意している?

短詩をずーっとみてきて今思うのは、この「こちら側」と「むこう側」の問題だったようにおもう。定型は、どうしても〈外部〉をつくりだす。でもその〈外部〉は捨て置かれずに、内側に取り込んでいくのもまた定型詩であり、短詩である。でもそのうちとそとの境界線を、それを読む人間は、〈どこ〉に据えたらいいのか。それが、短詩には、ずーっと問われているような気がする。定型とは、つまり、吉田さんの歌のことばを使うなら「金網の置きどころ」なのではないかと、おもうのだ。

金網は、どこにあるのか。

ずっとそれがわからなくて、ひとは短歌を読んだり川柳を読んだり俳句を読んだりするのではないか。

外にいっても外にいってもどれだけ外にいってもずっと内側においてある自転車。この自転車は、なんだ?

  外国はここよりずっと遠いから友達の置いてゆく自転車  吉田恭大


          (「袖振り合うも」『短歌の酵母Ⅱ 空はともだち?』沖積舎・2016年 所収)

続フシギな短詩198[野口あや子]/柳本々々


  良い本です よければ貸します じわじわと春の唾液を滲ませて言う  野口あや子

さいきん谷川電話さんの歌集について書かせていただく機会があって、そのとき、唾液というのは短歌においてどんなふうに歌語として培われてきたのだろう、と漠然と考えた。

  二種類の唾液が溶けたエビアンのペットボトルが朝日を通す  谷川電話
  (『恋人不死身説』)

わたしと恋人の「唾液」がエピアンの水とまじりあい、わたしと恋人が一体となった液体をひかりがきらきら通過する。赤坂真理さんの小説『ヴァイブレータ』のこんな一節を思い出す。

  栄養を取り込むように男の汗を吸っている。誰かが言ってた、人はすべてを、水溶液のかたちでしか取り込めない。空気でさえも、体内の水に溶かし込んだものを摂っていると。
  (赤坂真理『ヴァイブレータ』)

電話さんの歌や赤坂さんの小説を読んでわかるように、ひととひとが融合できるのは〈水〉になったときだけだ。わたしはどこにもゆけないが、わたしの水は(行こうとおもえば)どこでにもゆける。あなたの水はわたしのなかに、わたしの水はあなたのなかに。

で、冒頭に話した唾液と短歌をめぐる関係なのだが、飯田有子さんの歌集を読み返していたらこんな〈唾液〉をめぐる歌をみつけた。

  純粋悪夢再生機鳴るたそがれのあたしあなたの唾がきらい  飯田有子
  (『林檎貫通式』ブックパーク、2001年)

実はこの歌の次は飯田さんのここでもかつて取り上げた有名なこの歌がのっている。

  たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔  飯田有子

こうして連作として読んでみるとわかってくる質感は、〈無機質性〉と〈融合への拒絶〉である。「あなたの唾がきらい」や「枝毛姉さん」へのヘルプには、「あなたの唾」が入ってくることの拒絶や「枝毛」という枝分かれ=分岐の称揚がある。

こうして〈唾液〉への距離のスタンスによってその歌の質感も変わってくる。電話さんの歌なら融合感がでてくるし、飯田さんの歌なら非融合感がでてくる。

すごく長い遠回りをしたが、野口さんの歌。この野口さんの歌がおさめられている歌集タイトルは『夏にふれる』で、季節の身体性がよくあらわれているタイトルだが、この歌にも「春の唾液」というように季節の身体性があらわれている。この「唾液」は、電話さんや有子さんの歌にみられたような誰かに所有されている「唾液」ではない。「春の唾液」という大きな主体の、無人称的な唾液である(都市の唾液、国の唾液、雲の唾液のような)。

ただ、この歌が俯瞰的にみえないのは、「良い本です よければ貸します じわじわと春の唾液を滲ませて言う」と、個人の発話によって「春の唾液」がサンドイッチされている点だ。ここには個人の小さな主体と季節という大きな主体がミックスされている、重層的な主体性をみることができる。

野口さんの歌集は性の主題が強くあらわれるが、この歌の「春」も性的なモチーフを含んでいると言ってもいいと思う。「良い本です よければ貸します」と性的な主体がいま近づいている、もしくは今近づかれているのだと。ただそのときの率直な性の欲動の象徴となるような「唾液」が「春の唾液」とされることによってここには大きな主体があらわれている。これは小さな主体と小さな主体の競り合いではない。背景に大きな主体をかかえた小さな主体との競り合いなのである。

だから、この小さな主体をしりぞけても、「春の唾液」はほかの小さな主体に浸透し、またやってくるだろう。性的に競り合うというのは、たぶん、そういうことなのだ。

こんな歌をみてみよう。

  性的な喩ですと言えりくびかざりと首のあいだに錐差し込んで  野口あや子

なぜ「性的な喩です」と言うことによって首に錐を刺されるような瀕死状態に陥っているのか。それは、おそらくここでも、「性的な喩なんですよね? これは?」と言ってくる相手(小さな主体)に対して、大きな主体をっみているからではないだろうか。この小さな主体を否定しても、大きな主体は否定されない。またやってくる。だから、肯定してしまう。「性的な喩です」と。否定なんかしても意味がないのがわかっているので。でも、だからといって、大きな主体のことを感覚もしている。わたしは今大きな主体にさらされていることがわかっている。だから、くびもとに錐が刺さろうとしている。

野口さんの〈唾液〉をめぐる歌は、こうした小さな主体の背後にひかえる大きな主体をみいだしたのではないか。

問題は、こうだとおもう。世界には、小さな主体を肯定しても、意味がないことがある。背後には、大きな主体がいるので。でもだからといって、背後には、大きな主体がいるのだから、否定したって、やはり、意味がないのだ。では、どうすればいいのか。

そのとき、歌う、ということがでてくるのではないのか。それを、その構造を、定型で、うたうということ。

  そういうこともありますよねって言ったときひとりで見ていた黒い川がある  野口あや子


          (「短き木の葉」『夏にふれる』ふらんす堂・2012年 所収)

続フシギな短詩197[福島泰樹]/柳本々々


  一隊をみおろす 夜の構内に三〇〇〇の髪戦(そよ)ぎてやまぬ  福島泰樹

こんな穂村弘さんの解説がある。

  第一歌集『バリケード・一九六六年二月』は、そのタイトルかあも明らかなように背景に六〇年代の学園闘争がある。…校舎の上に立てば、眼下には「構内」を埋め尽くした同志たちの「三〇〇〇の髪」が戦(そよ)いでいる。
 (穂村弘『近現代詩歌』)

「一九六六年」という「六〇年代の学園闘争」という時間の括りのなかにあってはじめて「一隊」や「三〇〇〇の髪」「戦(そよ)ぎ」が意味をもってくる。タイトルが『バリケード・一九六六年二月』とあるように、〈一九六六年二月〉という時間のバリケードのなかにあえてこれらの言葉は閉じこめられた。

60年代を背景にした100パーセント恋愛小説というベストセラーを書いた作家がいる。村上春樹だ。村上春樹さんは柴田元幸さんとの対談において自作『ノルウェイの森』についてこんなふうに述べている。

  僕が書いている小説世界というのは、だいたいいつもふたつの世界を内包しているんですね。こっちの世界とあっちの世界ですね。……でも『ノルウェイの森』ではそういう時間性の重層性というのはあまりかかわってこないような気がするんです。だから僕はこれはリアリズムの小説だと感じるんです。実感としてね。『ノルウェイの森』というのは、びしっとあの時代に限定しなくてはならなかったんです。もっと極端に言えば、そこから広がってほしくなかったんです。あれはあれとして終わってしまってほしかった。「僕」と緑さんがあのあとどうなるかなんて、僕としては考えたくないし、読者にも考えてほしくなかったんです。変な言い方かもしれないけれどね。だから僕にとってあの小説は他の小説とはぜんぜん違うものですね。
  (村上春樹「山羊さん郵便みたいに迷路化した世界の中で」『ユリイカ臨時増刊 村上春樹の世界』1989年6月)

ここで興味深いのが、村上さんが「リアリズム」とは「時間の単層性」だと述べている点である。それは「時間の重層性」を感じさせてはだめなのだ。リアリズムとは、時間の檻(おり)に閉じこめてはじめて効力を発揮する。だから福島さんの歌のこの「一隊」や「夜の構内」や「三〇〇〇の髪」や「戦(そよ)ぎてやまぬ」は《ここ》、《この時・ここ》だけのものだ。それは、その後の後日譚のようなものもないし、この歌を補足し補完するような解説も書かれえない。そこで始まって・そこで終わる歌。

  だから僕が言いたいのは、とにかくあの時代に時間を限定された小説を書きたかったということですね。それはそこで始まって、そこで終わる話なんです。だから僕は『ノルウェイの森』の続編は書かないし、それを補完する短編も書かないのです。
  (村上春樹、同上)

福島さんの歌の「一」と「三〇〇〇」の数の対比が象徴的なのではないかと思う。「一」のあとに「三〇〇〇」も「四〇〇〇」も「五〇〇〇」もこの歌を読む読者があらわれるかもしれないが、しかしこの歌はその圧倒的な数に、ある時代のなかに閉じこめられた「一」としてずっと対峙しつづける。その「一」に、〈今〉生きる立場から、負けて、この歌をはじめて読むことができるような気がするのだ。つまり、もう、補完しえない者として。

なんども書くのだが、感想を書くということは、いつも、どこかで、負け戦なんだと、おもう。

そこにいられなかった者が、そこにいようと試み、でも試みた結果、そこにいられ《え》なかったことに気づき、はじめからじぶんは負けていたことに気づくのだ。感想とは、そのようなものではないかと、おもう。

  二日酔いの無念極まるぼくのためもっと電車よ まじめに走れ  福島泰樹


          (『近現代詩歌』河出書房新社・2016年 所収)

2017年9月3日日曜日

DAZZLEHAIKU9[山口昭男]渡邉美保 



月を待つみんな同じ顔をして   山口昭男


 子どもの頃、私の住む町では、十五夜(中秋の名月)に町を挙げての綱引きが行われていた。まだ宵の口から、若者たちが綱引きの綱を担ぎ、何やら叫びながら町を練り歩く。月が上ったら、通りの真ん中で、隣接する地区同士で綱引きが始まる。綱引きの中心になるのは若者達だが、町中の老若男女、子供たちも参加する。手の届かない子供たちは、綱に細いロープを掛けてもらい、それを必死に引っ張るのだ。
 豊漁の神と豊作の神の対戦とかで、豊漁が勝つか、豊作が勝つか綱の引き合いとなる。やがて綱が二つに千切れることで引分けとなり、豊漁、豊作の両方がめでたく確定する。空には満月が煌々と輝いている。夢の中の出来事のような、遠い日の光景を思い出す。
 月の出を待つみんなは、同じ顔をしていた。

  つきの ひかりの なかで
  つきの ひかりに さわられています
  つきの ひかりに さわられながら


      (まどみちお詩集「つきのひかり」より抜粋)

〈句集『木簡』青磁社2017年所収〉 


続フシギな短詩196[前田夕暮]/柳本々々


  春あさみ髪洗ひをるわが妻のひそけきさまを吾はみまもる  前田夕暮

ちょうど戦後くらいの前田夕暮の歌なのだが、春も浅いなかで目立たぬように密かに髪を洗っている妻のようすを語り手はじっとみつめている。

あれこんな歌、現代にもあったよな、と思ったのだが、たとえばこうした〈愛しいひとをみつめる〉系譜はこんなところにたどりついているのではないだろうか。

  終電の連結部分で恋人を異常なぐらいじっくりと見る  谷川電話

ときどき、非対称の〈視線〉はどう救済されたり相対化されたりするんだろう、と思うことがある。妻をみまもる吾の〈まなざし〉、恋人をじっくりと見る〈わたし〉の〈まなざし〉、それはどう〈見られた人間〉とイーブンな関係になりうるのか(なりえないのか)。

たぶん夕暮の歌を過剰にしてゆくと電話さんの歌に行き着くのではないかと思うのだが、この電話さんの歌が、「じっくりと」相手を「見る」なかで、それでもどこか相対化されているように感じるのは、「異常なぐらい」と自分自身への〈まなざし〉が差し挟まれていることだ。

これは「終電の連結部分で」から実はそうで、「異常なぐらいじっくりと見」ているにも関わらず、語り手はその〈まなざし〉に没入せず、「終電の連結部分で」とまずじぶんたちがいる場所を遠景から〈み〉ている。

また「恋人」という呼称にも注意したい。ここは人名でもなければ、きみやおまえでもなく、「恋人」となっている。「恋人いる? いない?」ときくように、「恋人」というのは第三者に説明するときの言葉である。「異常なぐらいじっくりと見」てはいるのだが、その「異常なぐらいじっくりと見」ているさまが、歌の全体的な〈外〉からの質感に客観視されていくという、実はとても不思議な歌だ。

こういう視線を短詩独特の〈まなざし〉と呼んだらいいだろうか。夕暮の歌もそうで、「みまもる」と言いながら髪を洗っている妻を実は「異常なぐらいじっくりと見」ているのかもしれないが、ただ「春あさみ」と情景は遠景として気にされている。「わが妻」という言い方も、説明的である。

ここには、ひとは、ほんとうに、〈まなざし〉に没入することができるのかどうか、という問題が隠されているような気がする。愛しいひとというのは、そうした、問題をあぶりだしてくる。愛しいひとを、じっくりとみたときに、その〈異常なまなざし〉そのものがせり出してきて、まなざしがわたしをはじき、まなざしそのものに不思議な距離をとらせてしまう。それが、短歌として形式化されてしまう。

だとしたら問題はこうだ。

問い。ひとは人生のなかで、ほんとうにたった一度でも、そのまなざしのなかにちゃんと没入しながら、恋人の顔を異常なぐらいじっくりと見ることができるのかどうか適切なことばも不適切なことばも使いながら記述しなさい。

  顔を近づけ過ぎてだれだかわからない  佐藤みさ子

          (『現代短歌鑑賞シリーズ 前田夕暮の秀歌』短歌新聞社・1975年 所収)

2017年9月2日土曜日

続フシギな短詩195[村木道彦]/柳本々々


  するだろう ぼくをすてたるものがたりマシュマロくちにほおばりながら  村木道彦

とても有名な村木道彦さんの歌なのだが、「するだろう」という出だしをみてわかるように一首単位では意味がとれないようにつくられている。

ただその不安定さが魅力といえば魅力で、たとえば「ぼくをすてたるものがたり」をするのは、「ぼく」がするのか、それとも「ぼくをすてた」あなたがするのか、「マシュマロ」をくちにほおばりながらそのようにはなすのは〈だれ〉なのかという不安定さが魅力にもなっている。たとえば「するだろう」という切り出し方などは、この歌が、〈無人称〉をみずから選び取っているような強さがある。

でも、連作のなかでこの一首を読んだらどうなるのか。

この歌は、「緋の椅子」という連作のなかにおさめられている。

このマシュマロの歌の次に置かれているのは次の歌である。

  秋いたるおもいさみしくみずにあらうくちびるの熱 口中の熱  村木道彦

「秋」に「いたる」「おもい」は「さみしく」(捨てられたからだろうか)、「みずにあらうくちびるの熱」を感じ取っている(マシュマロを食べたから洗っているのだろうか)。もちろん、歌と歌は隣に置かれたからといってそんなにダイレクトな接続はしないが、続けてみて気になるのは、「くちにほおばりながら」から「くちびるの熱」がゆるやかに連鎖しているということだ。むしろそちらの感覚的連鎖が気になってくる。

では、マシュマロの歌の前にはどんな歌がのっていたのか。

  耳のみがふき遺されているわれにきれぎれやなんの鐘ぞきこゆる  村木道彦

ちょっと謎めいた耳なし芳一のような歌だ。耳だけがふきのこされていて、きれぎれになにかの鐘の音がきこえるのだが、それがなんの鐘なのかわからない。とてもこの後にマシュマロの甘い歌がくるとは思えないような、けっこう奇怪な歌だと思う。

三首を順番どおりにならべてみよう。

  耳のみがふき遺されているわれにきれぎれやなんの鐘ぞきこゆる  村木道彦
  
  するだろう ぼくをすてたるものがたりマシュマロくちにほおばりながら  〃

  秋いたるおもいさみしくみずにあらうくちびるの熱 口中の熱  〃

こうして並べてみると、〔聴覚(きこゆる)〕→〔聴覚(するだろう/ものがたり)+触覚(マシュマロくちにほおばりながら〕→〔触覚(くちびるの熱)〕と感覚が推移していくのがわかる。「するだろう」の主体のわからなさは、「なんの鐘ぞきこゆる」と鐘の音の主体性のわからなさと響きあっている。それは「ぼく」かもしれないし、「ぼく」をすてたあなたかもしれない。でも、それは「きれぎれ」にきこえるものであって、《わからなくてもいい》。

「耳のみ」だった聴覚への感覚は、「マシュマロ」を口に放り込んだ瞬間、触覚への関心に変わり、ぼくは触覚へとらわれ、「ぼくをすてたるものがたり」自体を忘れ、「くちびるの熱 口中の熱」と口=触覚への関心にうつるだろう。

こうして連作として並べてみると、このマシュマロの歌で問題となるのは、《だれが・どうした》という問題ではなくて、《ぼくの感覚の推移》という問題ではないだろうか。この「するだろう」は、「ぼくをすてたる」というロマンに比重が置かれそうだが、そうではなくて、「くちにほおばりながら」に重心がおかれる歌なのではないか。

つまり、マシュマロ感覚の歌、と。だから、この感覚の特権化は、「するだろう」という感覚的な切り出し方を用意する。それは、「なんの鐘ぞきこゆる」のように感覚的な「するだろう」であって、だれが・どうした、というような発話が正確におかれたものではないのだ。

このように《感覚》からこの歌を読んでみると一首単位で読むのとはまた違った風景がみえてくる。ちなみに、この連作の最後の歌に置かれたのは、やはり視覚の特権化の歌なのだ。めの歌。

  めをほそめみるものなべてあやうきか あやうし緋色の一脚の椅子  村木道彦

この《感覚》から読むというのは春日井建が次のように村木道彦歌集におさめられた歌人論に書いている。

  視覚 聴覚 味覚 触覚の五官、あるいは気分 神経 欲望といった生理的に実感できるものを村木は抒情する。その姿勢はまぎれもない。
  (春日井建『村木道彦歌集』)

また連作から「感覚」を鍵語に読まれている方もいる:「村木道彦の「緋の椅子」。

最後にこんなことをつけくわえておきたい。マシュマロの歌の「するだろう」という独特の切り出し方なのだが、村木さんにはこんな歌がある。

  ーー。そしてなお、空にも虚構あるごとく朗々として雲そそりたち  村木道彦

  ジャンプ! 三歩助走のアタッカー突きぬけてむなしきものをこそ撃て  〃

  たれか? かぜか隣室に本をめくりおる顔あげぬままわれは伏しいて  〃

  ああ そらに雲の出でたるそのこととわれの生(あ)れたること異ならず  〃

こうした唐突な切り出し方の歌が村木さんの歌集には多い。とくに、「ーー。」などの表現方法は今みても新鮮かもしれない。これも先の枠組みでいえば、理(ことわり)よりも、感覚的発話・衝動的発話が、優先されてしまうということが言えないだろうか。感覚的発話なのでそれは片言になるのだが、まず、感覚的に読み手を刺すのだ。

だから、「するだろう」って「だれがするの?」と聞かれたときは、こう答えたい。感覚がするんだよ、と。

  ついてくるだれひとりないまひるまはまひるまにわれおいつめられて  村木道彦

          (「緋の椅子」『現代歌人文庫 村木道彦歌集』国文社・1979年 所収)