2017年8月22日火曜日

続フシギな短詩170[田中槐]/柳本々々


  横にいてこうして座っているだけで輪唱をするあまた素粒子  田中槐

NHKラジオ「科学と人間 ミクロの窓から宇宙をさぐる」を聞いていたら、藤田貢崇さんがこんな話をしていた。

  ニュートリノは他の粒子と相互作用しにくく、わたしたちのからだを毎秒毎秒ニュートリノは10超個以上もつきぬけてゆく。ニュートリノは空からぱちぱち降ってきてわたしたちのからだを通り抜けてゆく。
 (藤田貢崇「科学と人間 ミクロの窓から宇宙をさぐる」NHKラジオ)

わたしたちは、なんにもしてないないときに・なんにもしていない。それはあたりまえのことだ。わたしたちはわたしたちの日常のチャンネルの、認知のレベルで、そう、判断している。

けれど、いったん物理学のチャンネルを通せば、わたしたちがたとえなんにもしていなくても、元気がなくてうつぶせになっていても、失恋してつっぷしていても、失業して海老のようにまるまっていても、そのからだに10超個以上のニュートリノがふりそそぎ、あなたのからだをつきぬけてゆく。誰かに「好きだよ」と言ったときも、その言ってるときに、10超個以上のニュートリノがあなたのからだをつきぬけている。「好きだよ」と言われてうれしくてわあわあ泣いているあなたのからだにも。

物理学の次元でわたしたちの日常をとらえかえせば、〈なんにもしていない〉ことは、なんにもしていないことに、ならない。

槐さんの歌が述べるように、「横にいてこうして座っているだけで」も、おびただしい「素粒子」が「輪唱をする」。

槐さんの歌集には他にも素粒子の歌がある。

  このままを肯定的に受け入れる 宇宙から来る素粒子を待つ  田中槐

「宇宙から来る素粒子を待つ」ことで、次元が変わるチャンスを待っているようにも思える。物理学の認知は、わたしやあなたの知見を変えるジャンピング・ボードになるかもしれないから。

つまり、物理学とは、ものごとのしくみの解明ではなくて、わたしたちの日常の〈なんにもない〉場所、〈なんにもなかった〉場所を、〈なんかある〉場所、〈なんかあった〉場所に変える装置なのだ。これは、文学の話である。

槐さんの歌は物理学の認知に敏感なせいか、次元をめぐる歌が多い。

  十番目の次元で消える坂道に〈緑色脳髄〉描きつづけて  田中槐

  「超ひも」は超難解でウトウトと午後の教室ゆるくねじれる  〃

  太陽は必ず影を作るんだ 並行宇宙つまり、右側  〃

「ゆるくねじ」れ、「並行宇宙」的でもある多「次元」的世界に、日常の「ウトウト」したような次元を接続させること。それがそう遠くないことを認知すること。それは、詩や文学の役割かもしれないとも、おもう。そもそも、ことばは、もともと、多次元的変性をもっている。

  沈黙はマイノリティーの物語 サ変動詞がし、する、すれ、せよ  田中槐

ことばの物理学的変性。たとえば、妖怪ミステリーというよりも、認識ミステリーを書き続けた京極夏彦『姑獲鳥の夏』は、物理学的認識が事件になった話だった。ワトソン役にあたる関口巽は、素粒子の世界で、素粒子の観測者としての悲劇と喜劇を駆け抜けたのだ。

  そう、色も光であれば気まぐれな粒子がふっと駆け出してくる  田中槐

物理学と文学は近いのかもしれない。そう、思いながら、今回の次元をめぐる話を終わりにする。

  両端をつまんでそっと持ち上げる この美しい次元を終える  田中槐


          (「ギャザー」『ギャザー』短歌研究社・1999年 所収)