2017年8月20日日曜日

続フシギな短詩165[河野聡子]/柳本々々


  きみはいろいろな人にいろいろな名前で呼ばれる。きみの人生はスマホの画面に流れていく。だれかがきみの物語を読む。きみはもう不滅を求めない。生きている者だけがきみの名を呼ぶ。  河野聡子「きみを呼ぶのは生きている者だけだ」

詩「きみを呼ぶのは生きている者だけだ」は、「きみ」のこれまでの人生のさまざまな〈傷〉をめぐって書き継がれていく。たとえば冒頭はこんな一行だ。

  きみが車にはねられたのは仮面ライダーの三輪車に乗って路地裏で遊んでいたときだった。

そして「きみ」の少年期・青年期の〈傷〉(それは周囲の「きみ」の他者〈傷〉も含めて)語った語り手はこんな言葉を挿し挟む。

  たくさんの出来事がおきるが
  階段をいちだんいちだんのぼってはおりるようなものだ
  きみはよく知っていただろう
  ころびやすい段もすべりやすい段も
  きみの足にはとどかないように思える高い段も
  とりあえず踏んでしまえばいいのだと

興味深いのは、「階段をいちだんいちだんのぼってはおりるようなものだ」と「いちだんいちだん」のぼったにも関わらずそれが〈人生の経験値〉として積算されていかないことだ。〈傷〉なのに、だ。

傷なのにそれは決定的なものにならない。車にはねられても、ひたいを縫っても、妹を溺れさせても、学校に行かなくなっても、小指を骨折しても、鼻の骨を折っても、右脚を骨折しても、親友がバイク事故で死んでも、マルチ商法に入れ込んだ恋人と別れても、何年か失業しても、ハワイで結婚したのちべつのひとと駆け落ちしても、それは〈傷〉ではあるが、加算された経験値としての傷にはならない。「のぼってはおりる」なのである。

だとしたらこの〈経験値の質〉とはなんだろう。この〈傷の質〉とはなんなのだろう。このフローな傷/経験値の質の感覚。はこばれているような。これは、なんだ。

冒頭に引用した詩の最後の箇所に少しヒントがある。「きみはいろいろな人にいろいろな名前で呼ばれる。きみの人生はスマホの画面に流れていく」。人生は「スマホの画面に流れ」「きみはいろいろな人にいろいろな名前で呼ばれる」。フローな傷の質感は、このスクロールされる「のぼってはおりる」生の感覚からきているのかもしれない。

でも大事なことがひとつある。詩の最後の一行「生きている者だけがきみの名を呼ぶ」だ。これはこの詩のタイトルにもなっている。この詩は最後にスマホできみをみるオーディエンスではなく、「生きている者」で「きみの名を呼ぶ」ものを見いだしている。もちろんそれはこの詩の語り手自身もそうなのだ。「きみ」の人生の傷をフローするように語りながら、最終的に「生きている者だけが」と「きみの名を呼」び強く刻むような語りにたどりついている。「生きている者」は語り手自身でもある(この詩では根強いかたちで〈死〉が抑圧されておりそれもひとつのテーマになっている)。

わたしはそうした「生きている者だけが」という、ある意味では死者を差異化し排除した強度のある〈生〉が「スマホの画面に流れ」る人生と対立しているとは思えない。むしろそれを含みこんでなお刻まれるような、フローから生まれた強度のある語り口がここには同居している。

  きみは長いあいだ呼ばれていると感じていた
  とにかく段を踏まなくてはならない
  自由にのぼったりおりたりできるわけじゃない

傷を特別視することなく、しかしそのフローな感覚のなかから、力強い語りがうまれること。

すごく、詩って、不思議だとおもう。

          (「きみを呼ぶのは生きている者だけだ」『ユリイカ』2017年4月 所収)