2017年6月4日日曜日

続フシギな短詩124[樹萄らき]/柳本々々


  淡々と・・・淡々なんていかねーよ  樹萄らき

この「・・・」と「いかねーよ」というのがらきさんの川柳の文体の特徴になっているだが、この「・・・」というのはよくマンガの吹き出しなどで見られる。

たとえば小説だと三点リーダは「……」となるのだが、マンガの吹き出しなどでは「・・・」と大きくなっていることがある(マンガの表記の自在さによるものかもしれない。マンガの言説は独特の記号使用の自在さがある)。

  まいったねえ右も左も寸足らず  樹萄らき

  おまえさん脛にキズもつお人好し  〃

  未来は過去の延長じゃない・・・けどさ  〃

「いかねーよ」「まいったねえ」「おまえさん」「けどさ」。ここには独特の〈姉御言葉〉のような文体がある。

川柳人の小池正博さんがよく現代川柳におけるキャラクター論を論じているのだが、一般的にキャラクター論はコンテンツとして論じられる。たとえばAというキャラクターが連作のなかにあらわれ、さまざまな句のなかでAのキャラクターがつくられていく。

ただらきさんの川柳はそうしたキャラクター論の死角をつくものではないかとも思っている。

らきさんの川柳にはキャラクターはいない。連作のなかでそれらを一手に引き受けていくキャラクターとしての主体はない。

ところがこの連作の文体には、キャラがある。姉御的・マンガ的なキャラだ(伊藤剛さんの本に詳しいが、キャラクターとキャラの違いを今私なりに簡単に述べると、キャラクターは形であり、キャラとは性である。キャラクターとしてののび太の形はドラえもんの原作の中だけだが、のび太のキャラはダメ・軟弱・0点・寝るとして原作内を越えてさまざまに飛び火する。「あんたって、ほんとうにダメで、のび太みたいだね」と友人や恋人から言われたとしたらあなたのキャラはのび太なのだ。キャラクターは原作内に留まるが、キャラが強ければ強いほど原作を越えてあちこちにキャラクターは移動することができる。キャラクターとキャラは違う。これを川柳論に生かすとどうなるだろうか)。

  「キャラの強度」とは、テクストからの自律性の強さというだけではなく、複数のテクストを横断し、個別の二次創作作家に固有の描線の差異、コードの差異に耐えうる「同一性存在感」の強さである。この「横断性」こそが、重要な点なのである。
  (伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』)

文体がつくりあげていくキャラというものがある。というよりも、文体は、ときどき、キャラになる。キャラクターとして見えにくいので焦点化できず論じにくいのだが、キャラとして文体化されていくものがある。

そういうキャラ的な文体というのは、どう考察したらいいのだろう。

私は、実は、キャラ=文体というのは、わかりにくい、言語化しにくいだけで、けっこう飛び火しているのではないかと、思っている。

そのヒントを樹萄らきさんの川柳はくれる。ここには私はなにか新しい川柳論のヒントがあるのではないかと思っている。だから、考え続けていこうと思っている。いつか、続きを書くために。

ただ今はそれをどう言葉にすればいいかちょっとわからない。そう、まだ、今は。

だから、今回は異例なのだけれど、「ちょっとわからない」という結論で終えてみようかと、おもう。

ちょっとわからない。


          (「そよ風」『川柳の仲間 旬』211号・2017年5月号 所収)