2017年6月30日金曜日

続フシギな短詩139[むさし]/柳本々々


  決めました私自身が吹雪きます  むさし

むさしさんの句集『亀裂』を読んでいると〈わたし〉のエネルギー量というものを考える。ひとはどれだけ〈わたし〉のなかにエネルギーをため込むことができるのだろう。

  踊れ踊れ心が吹雪く手が吹雪く  むさし

掲句によれば〈わたし〉は「吹雪」と匹敵するエネルギー量を持っている。決意さえすれば。わたしは自然と同格である。

  止めてくれどんどん人が好きになる  むさし

  俺の指すり抜け俺が落ちて行く  〃

誰かに止めてもらわなければ止まらない加速する「人を好きになる」エネルギー。俺の指をすり抜けていく落下する「俺」エネルギー。この句集タイトル『亀裂』があらわすように、〈わたし〉の「亀裂」からエネルギーが噴き出す。

それは〈わたし〉を取り巻く環境エネルギーも、そうだ。

  率爾ながらあなた文字化けしてますよ  むさし

  ブログの端をダチョウの群れが横切った  〃

「あなた」は「文字化け」し、「ブログの端」を「ダチョウの群れ」が横切る。わたしにも亀裂があるが、わたしの周囲にも亀裂が入り、あちこちからエネルギーがほとばしる。

  眉間から飛び出してゆく戦闘機  むさし

  胃袋がマグマ溜まりになっている  〃

〈わたし〉の身体はもはや〈わたし〉の身体ではない。それはエネルギーの通過点であり溜まり場である。あるときは、わたしの「眉間」が「戦闘機」の空母であり、あるときはわたしの「胃袋」は「マグマ溜まり」となっている。《わたしの身体はわたしに貢献しない》。

  おーいおーいと指紋の渦の真ん中で  むさし

エネルギーをいちばん感じるときってどんなときだろう。それは発熱しているときではないか。つまり、エネルギーが吹き出し、循環しはじめたときだ。

  帽子からはみ出している導火線  むさし

むさしさんの句は、わたしを、周辺を、わたしの身体を、そっとしておかない。エネルギーを循環させるために、ありとあるところに亀裂をはしらせる。そこから思いがけないエネルギーを引き出す。

  空即是色あんたはわたし手を挙げろ  むさし

ところで、わたしたちが人生の最後にエネルギーを噴き出すのはいつだろう。

死ぬとき、だ。

でも、死ぬときにも、エネルギーはわたしたちを忘れない。エネルギーはわたしを忘れないでいてくれる。わたしが死ぬまさにその瞬間、月エネルギーが、わたしを訪れる。

  死ぬときは月を吐くかもしれないな  むさし


          (『亀裂』東奥日報社・2014年 所収)

続フシギな短詩138[奈良一艘]/柳本々々


  ひとときは鯖缶その後モアイ像  奈良一艘

短詩の読解が一般にそうだと思うのだけれども、特に現代川柳を読むことっていうのはとても難しいことなんじゃないかと感じている。なにが難しいかというと、〈わかりそうで・わからない〉ところが難しい。〈わからない〉だったら問題は、ない。あきらめがつくので。

でも、〈わかりそうで・わからない〉のだ。広瀬ちえみさんのところでも少しはなしたけれど、川柳はそういうところを何度も何度も連打しているように思う。〈~しそうで・~しない〉ところを。

最近私は「伝達性」「共感性」「意味性」というテーマを与えられたことがあって、この三つでみてみると、わりあい、川柳というものは〈わかりやすくなる〉んじゃないかという気もした。ちょっとやってみよう。

まずは「伝達性」なのだけれども、私はこれは〈ショック〉ととらえてもいいと思う。たとえばピカソの絵をみたときに、なんかわけがわからないんだけれども、ショックを受ける感じってあったりしますよね。そういうのを「伝達性」といっていいんじゃないかと思うんですよ。たとえば電車に乗っているときにふいに手をにぎられるとか。そういうことです。

で、一艘さんの句なのだが、「鯖缶」から「モアイ像」への飛躍がある。これはちょっと〈ショック〉だと思う。とつぜん「モアイ像」っていわれると、なんだ? ってなる。たとえばこれが、

  ひとときは抹茶その後カモミールティー

とかだったらショックは受けない。お茶が好きなひとなんだなあ、で終わりである。ところが一艘さんの句は「鯖缶」から「モアイ像」へと飛躍した。ここにこの句の〈伝達度〉がある。

じゃあ「共感性」はどうだろう。

  ひとときは殺人その後残虐無道

だったらどうだろう。「殺人」をわれわれはめったなことではしない(ルイス・キャロルが言うようにわれわれは弱い存在だからしてしまうこともあるかもしれない。でも、まあ、しない。倫理に悖るんで)。倫理的に共感できないのではないか。たとえばまた絵の例を出すが、クールベの「世界の起源」という絵がある。絵は女性の裸の下半身でまるまる満たされ、絵のまんなかには女性器が写実的に描かれている。これが〈世界の起源〉という意味はわかる。ショック=伝達度も大きいだろう。しかし、共感できるだろうか。なんでこんなものをこんなていねいに、と思うひともいるのではないだろうか。男性がみるのと、女性がみるのとでは違うだろう。こどものいる女性と、こどものいない女性がみるのもまた違うだろう。

「共感性」はそのひとが〈どこ〉にいるかで異なるのだ。で、一艘さんの句だが、「鯖缶」はたぶんみんなが知っている。で、ほとんどのひとが、たぶん、味を思い出すこともできるだろう。「モアイ像」もたぶんみんな学校で学んだだろう。こうした〈食べ物〉や誰もが知っている〈文化アイコン〉を埋め込んだことがこの句の〈共感度〉になっていると私は思う。もちろん、鯖が嫌いなひとは共感しないかもしれない。でもそれは殺人ほどには強い反感でもないだろう。わたしたちは食べ物に対してそうそう倫理的判断はしないのだから(もちろん、する場合もある。牛が宗教上食べられない国もある)。

現代川柳には食べ物や流通している文化アイコンを埋め込んだ句が多いが、私はそれらを確保することで共感度をあげているんじゃないかと思う。

さいごに「意味性」についてみてみよう。ちなみに「意味性」を絵で例にとれば、ラッセンの絵がいちばんいいと思う。ピカソをみて、「これいったいどんな意味?」と思うひとはいるけれど、ラッセンの絵をみて「意味がわからない」というひとはあんまりいないと思う。もちろん解釈はいろいろあるだろうけれど、まあ素敵でゴージャスなきらきらした風景のなかでイルカがこれでもかと楽しく躍動的に跳ねているのをみて、ここには不幸しかない、と意味をとるひとはあんまりいないだろう。ラッセンの絵はわかりやすいのだ。

で、一艘さんの句。

  ひとときはXその後Y

この構文は、わたしたちは意味がとれる構文である。

  ひとときは悲しいその後でも元気

とか。わたしたちがふだん使える構文だ。でもこのXとYをいじっていくことで、意味性も変化していく。難易度があがるのだ。現代川柳はちょっと容赦なくここに「鯖缶」や「モアイ像」をいれてくる。だから、あまりにもとつぜんすぎて驚くひともいるかもしれない。これ意味わかんないよ、と。でも、ふだんワンダーな世界に暮らしてるひとは、こういうこともあるよね、って思うかもしれない。そういうぶっとんだ世界にひとはときに暮らすことだってある。ある時期は鯖缶ばかり食べていたのに、とつぜんモアイ像に熱中しだしてしまったとか。〈わかろう〉とすれば〈わかる〉ことができる句でもある。

こんなふうに「伝達性」「共感性」「意味性」の三つのレベルで短詩(短いことば)をみてみると、意外にいろんなことがわかる場合があるのではないだろうか。

これはふだんの読書でも使えるはずだ。たとえばシャーロック・ホームズの「バスカヴィル家の犬」を例にとろう。

「伝達性」:えっ、犬が光るの! 魔物なの? なんで! なんかすごい! なんでか知りたい。この事件どうなってんの!

「共感性」:犬、近所歩いてるし、昔飼ってた経験があるから、別にイギリスの犬だからって、なんとなくわかるよ。犬みたことあるし、さわったことあるし。

「意味性」:あっ、そうかあ、こういう理由で犬が光ってたんだ。なるほど。ふんふん。ミステリーだし、日本語の翻訳もあったし、ドラマでもみてたし、わかりやすいなあ。いろんな意味のアプローチができるんだもの。

  白桃の果肉の産毛 卑怯だよ  奈良一艘


          (『おかじょうき』2017年3月号 所収)

2017年6月28日水曜日

続フシギな短詩137[山川舞句]/柳本々々


  怒怒怒怒怒 怒怒怒怒怒怒怒 怒怒と海  山川舞句



中7の「怒怒怒怒怒怒怒」は正しくは逆さまになって印刷されている。鈴木逸志さんによればこの舞句さんの句が高田寄生木賞を取ったときに選者の次の評があったという。

  3・11を一句で表現すればこうなる、これは人の怒りではなく、人に対する海の怒りであろう。特に中七の怒の連発には逆巻く海の怒りが込められている。それにしても津波の音を「怒」で表現できるとは、思ってもみなかった作者の発見である。川柳が強い詩歌として前進するキッカケとなるだろう。

そのとおりだと、おもう(ちなみにこの評は私が調べたところによれば渡辺隆夫さんの言葉である)。

ここでは少し違った視点からこの句を読み直してみたい。

〈怒り〉というものの伝達不可能性(表象不可能性)の視点から。

たとえばこの句を虚心に読むとどうだろう。とりあえずものすごく怒っている句だと言えるだろう。語り手はほんとうに怒っている。だから怒を連打している。それはよくわかる。

だがもし中の7音が逆さま表記ではなく、ふつうの表記だったらどうだろう。どれだけ怒を連ねても、〈ただ珍しい〉ものとして即座に「コピペ」されるだろう。これだけ語り手が怒っているのに、「コピペ」する者はまったく手間をかけずにコピーし、ペーストし、こんな面白い句があるんだよと伝えるだろう。

しかし、それでいいのだろうか。怒り、ってそういうものなのだろうか。

舞句さんの句では中7の「怒」がぜんぶ逆転している。それは、〈打ち込めない〉。舞句さんの句の怒りは舞句さんの句のなかにある。それは移動も転写もできない。そして、それは印字されるたびに、そのつど・そのたびに、あらたに生成されるだろう、いろんな濃度で、いろんな大きさで、いろんな文字間隔で、いろんなフォントで。

この句の怒りとはそういうものではないか。そのつど、そのたびごとにしかみいだしえない怒り。かんたんに近づかないでくれという怒り。かんたんに処理しないでくれという怒り。

ひとの普遍的な怒りだ。

わたしは短詩における記号操作というものは実はそういうアナログな機能があるのではないかと思っている。句をハイテクにしていくのではなく、もっとローテクにしていくための。

怒るということは、とても手間がかかることだ。しかし手間とは、怒りなのだ。あなたも手間をかけろ、というのが、怒りなのだ。かんたんに私の怒りを転送されては困るのだ。それだけのことが、起きていたのだ。

  類似品注意と類似品が言う  山川舞句  


          (「山川舞句作品(広瀬ちえみ抄出)」『杜人』254号・2017年6月号 所収)

続フシギな短詩136[広瀬ちえみ]/柳本々々


  開けたら閉めるなんにも見ていない  広瀬ちえみ

カワヤナギ君「なんにも見ていない、ってどういうことなのかなあ。でもなんか見ていそうだな」

ナンニモ博士「ああいいところに気づいたね。『開けたら閉める』って書いてあるから語り手はきっとなにかを見たうえで「なんにも見ていない」ってあえて語ったんだろうね。じぶんは見たつもりはないって。つまり、見ているんだけれど・見ていないっていうそういう見ることのサンドイッチのようなところにある句なんだね」

カワ「あ、そうかあ。

  ああでもねちらっと見えたモコモコの  広瀬ちえみ

  白くって丸くて秋に生まれるそう  〃

ってこの連作は続いてゆくんだけど、でもいったいその「ちらっと見えたモコモコ」がなんなのかはわからないんだなあ。「白くって丸くて秋に生まれる」こともわかるのに」

博士「ああいいところに気づいたね。現代川柳は前も言ったんだけれども、たぶん、ものごとの周辺をていねいに語りながらも、そのどまんなかを名指さないことによって成立してしまっている不思議な文芸なんじゃないかと思って。でもなんでそんなことになってるのかわたしにもよくわからないんだよ。ただ、現代川柳っていうのはとっても名詞の世界と深い関係を結んでいて、しかもその名詞がうまく機能していないところに現代川柳の味がありそうなんだ。名詞の機能不全の世界に」

カワ「あ、そうかあ。

  道なりにどこかで眠りながら行く  広瀬ちえみ

これも誰が・なにが眠るかはなんでもいいのかあ」

博士「ああいいところに気づいたね。たぶんだから川柳って述語的世界観が肥大化した世界なんだとも、思う。述語的世界観=動詞の世界観をどんどん太らせていったときに、なにか不思議な世界がうまれてしまうことがわかったんだね」

カワ「なんでそんなことになっちゃったんだろ。どうして。なんでなんだろ。なんでなの」

博士「ああいいところに気づいたね。うーん、なんでなんだろ。わたしはね、サラリーマン川柳の差異化じゃないかと思ったんだ。違いをうみだすためにそうしたんじゃないか。サラリーマン川柳はよく、夫は、とか、課長とか、妻は、とか主語の世界だよね。名詞の世界なんだ。その名詞がどうこうする、その名詞にどうこうする、だからその名詞のトホホ、アハハ、の世界なんだと言える。名詞がはっきりした世界なんだ。でも詩性川柳はそのサラリーマン川柳とは別の方向にいくために、述語のほうの世界をふくらましていったんじゃないかな。名詞や主語に限定されない世界観を」

カワ「ああいいところに気づいたね」

博士「だから詩性川柳って、名詞を手に入れられなくしたところから始まってるんじゃないかな。もちろん、一概には言えないんだけれど。たとえば樋口由紀子さんの川柳は名詞の世界の関節が外れてゆくふんいきなんだ。

  明るいうちに隠しておいた鹿の肉  樋口由紀子

でもこの樋口さんの句、もちろん「鹿の肉」っていう名詞がすごく大きいんだけれども、その「鹿の肉」を〈どうしたか〉っていうのがとても詩性川柳的だと思うんだ。「明るいうちに隠しておいた」んだよね。そのことによってこの「鹿の肉」が通常の名詞として機能する部分が微妙に外れてしまう」

カワ「そして大事なことはいったい誰が・なにが「隠した」のかわからないってことなんだな?」

博士「えっ、あっ、ああ、いいところに気づいたね。そうなんだ。まるで「鹿の肉」が述語のように働くんだよ。不穏なかんじがでてくる。だからサラリーマン川柳は名詞の世界だから、あんしんできるんだ。終えることができるんだよ。妻は鬼みたいとか夫はゴミみたいとかね。述語が安定するんだ。でも詩性川柳は名詞の関節がびみょうに外れていて終えることができないんだよ」

カワ「そうおもうんだな」

博士「うん。そう、おもう」

カワ「こりゃあ知ったらまずい世界だぞ、博士。かえれなくなる」

博士「そうさ」

  戻れないけれどどうぞと森番は  広瀬ちえみ  


          (「開けたら閉める」『杜人』254号・2017年6月 所収)

2017年6月27日火曜日

続フシギな短詩135[村井見也子]/柳本々々


  少し猫背になってやがて近くにいる  村井見也子

よく現代川柳は〈問答〉の構造から解釈されることが多い(これはもともと川柳という文芸が題を与えられてそこに答えを〈付〉けることから来ている、「問」われて「答」える)。たとえば、

  薔薇を切る日はネクタイをする  小池正博

これを〈問答構造〉でみてみると、

  問い:薔薇を切る日は?

  答え:ネクタイをする。

ということになる(ちなみにこうした問い+答えのような構造的連なりの分析としては、小池さんの川柳を連句の圧縮から分析した浅沼璞さんの考察がある。参照『俳句・連句REMIX』東京四季出版、2016年)。

たとえばこないだの、

  悲しくてあなたの手話がわからない  月波与生

も、

  問い:悲しくて?

  答え:あなたの手話がわからない。

そもそもある題を与えられてそれに応じて句をつくるというのは現代川柳では今でも盛んなので〈問答構造〉で読み解けるものもたしかに多いのだけれど、ときどき、現代川柳の性質として、〈問答〉の外部をゆくような〈ぼうっとした認識〉を描く現代川柳がある。私はそれもまた現代川柳の醍醐味なのではないかと思って、気にしている。たとえば以前取り上げた佐藤みさ子さん。

  生まれたてですとくるんだものを出す  佐藤みさ子

〈答え〉というよりはむしろ〈問い〉にもなっている。なんなのか、と思う。くるんだ「生まれたて」を出されてどうすればいいのか。或いはこれはもう〈答え〉なのかもしれない。〈答え〉られてしまったから〈答え〉られないのかもしれない。でも、「生まれたてです」と問いをつきつけられてもいる。目の前に「出」されて。やけに具体的なのにやけに抽象的でもある。具体的にぼうっとしている。

もういつもそうなので断らなくていいのかもしれないが、長い遠回りをしたが、村井さんの掲句。

  少し猫背になってやがて近くにいる  村井見也子

とっても具体的だ。どんなふうに〈それ〉がわたしに近づいてきたが、とても詳細に、ていねいに、描写されている。まず〈それ)の伸びていた背が「少し猫背」になった。それからしばらくは〈それ〉は「少し猫背」のままでいたのだが、しばらく時間がたって〈それ〉は「やがて」わたしの「近くに」やってきた。そして、今、〈それ〉はわたしの「近くにいる」。

でも、なにが?

〈それ〉って、なんなのだ。

非常に具体的なのに、非常に抽象的だ。

みさ子句と同じように、「生まれたてです」といわれたものが、「やがて近くにいる」ものが、わかんないのだ。

わかんないんだけれど、《切実なのだ》ということはわかる。だってすごくていねいに描写されているから。でも、わかんないのだ。

  雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁  斉藤斎藤

現代川柳ではもしかしたら「のり弁」という答えを出さないんじゃないか、とも思う。七七は「のり弁」であり世界の答えなのだが、その「これはのり弁」を現代川柳は手に入れられず、しかしその手に入れなさを《ぼうっとした認識》として昇華した。ていねいなぼうっとした認識として。

現代川柳は、ていねいに、ぼんやりしている。

わたしは、とても、そんな、き、がする。

  食べて寝てこわいところへ降りてゆく  村井見也子


          (「荒れじまい」『月見草の沖』あざみエージェント・2017年 所収)

2017年6月25日日曜日

続フシギな短詩134[囲碁川柳]/柳本々々


  下手だけど桜の下で囲碁を打つ  囲碁川柳

NHK「囲碁フォーカス「ハサまれたら?~小目」」2017年6月25日放送の「囲碁川柳」のコーナーからの一句。

ときどき書いている〈答えは出ないかもしれないけれど書いて考えてみよう〉シリーズ。

不思議なのは、どうして川柳は(短歌も俳句もだが)いろんなものとコネクトする/できるのか、ということだ。

囲碁川柳、シルバー川柳、OL川柳、女子会川柳、オタク川柳、お米川柳、妖怪川柳、ブライダル川柳、節税川柳、プレママ・新米ママあるある川柳、もふもふ川柳、いや、っていうか、なんでもあるのだ。

思い浮かんだ名詞があればそれはすべて「~川柳」とくっつけることができるのだ。

そのうち、短歌川柳俳句川柳という、短歌のあるあるを川柳で詠もうといったものまで飛び出すのではないかと思っているが(ちなみに川柳川柳さんという落語家がおられるのだが「ガーコン」という演題がとても面白い)、どうしてこんなに短詩は言わば〈無敵〉なのだろう。

かつて川柳人の小池正博さんがあるイベントにおいて(たしか)こう言ったことがある。「川柳は近代化に遅れた、というより、近代化できなかった」と。私はここにヒントがある気がする。

川柳が近代化できなかったということはジャンルとして身を立てられなかったということである。明治近代の動力の最大キーワードである〈立身出世〉が川柳はできなかったのだ。

だからNHK短歌やNHK俳句はあっても、NHK川柳は、ない。川柳は、身を立てるほど教育されるべきものではない(と思われている)からだ。

ただそうした未分化性、明治近代を通り越してなお〈赤ちゃん〉でいることができた川柳は、さまざまなものと結びつき、ジャンルをそのつど色変わりさせることができる(出会った人物に即座に同化してしまう人間のフェイクドキュメンタリー映画であるウディ・アレンの『カメレオンマン』を思いだそう。あれは川柳映画でもある)。

以前、福田若之さんがイベントで俳句の困難と川柳の困難の違いはなにか、という質問をたしかされて、私は、NHK俳句は、だいたいみんなの俳句イメージが一致しているからできるのだけれど、もしNHK川柳というものができたときに、川柳イメージはサラリーマン川柳と詩性川柳に大きく分裂しているのでNHK川柳というものをたちあげるとしたら方向性が難しいんじゃないか、そういう違いがあるのではないか、と述べたことがある。

川柳は、もしかしたら、未分化を引き受け、はじめて未分化そのままでジャンルとしてたちあがっていけるものではないかとも思っているのだが、そんなのはいやだ! と声をあげる川柳人もいっぱいいると思う。川柳人だってえらくいたいのだと(もちろんそれはもっともだともおもう)。

思想家のジュリア・クリステヴァは、アブジェクションという、魅力的だがおぞましい未分化なものを排斥する行為を思想としてたちあげたが(ちなみにある俳句の方がクリステヴァのもとで学んでいたことがあると話されていたことがあって私はとても驚いたことがある。大学時代、クリステヴァの本によく勇気づけられていたので)、たとえば牛乳の膜のように主体がはっきりしないものをわたしたちはどこかで憧れながらも遠ざけようとする機制がある。それらを遠ざけ抑圧することによってわたしたちはわたしたちの主体を保つのだ(一度抜けた髪の毛がなんだか不気味に感じられるのはそういう機制があるからだ。わたしたちのものであって・わたしたちのものでないもの)。

しかしなぜ抜けた髪や牛乳の膜のような未分化のものをわたしたちは遠ざけるのか。それは主体と客体がはっきりしないからだ(死体や体液なんかもそう。なにかねばねばぬちゃぬちゃしたもの。だからエイリアンやモンスターなんかもそうだ。ホラー映画なんかはたいていそう。たとえば『リング』の貞子を思いだそう。貞子はかつてはわたしたちだったのに(生者=主体)、いまはあっちにいるひとである(死者=客体)。わたしたちは未分化の貞子をメディアに閉じこめる。それでも貞子はこちらにやってきて、わたしたちの主体を脅かすだろう)。

クリステヴァの考えを通して、未分化かもしれない川柳に近づいてゆくことはできないだろうか。クリステヴァの考え、体液のような記号のどろどろした感じをかんがえることは、わたしは川柳によく合っているような気もしたりするのだが(とくに定型は、クリステヴァのフェノ・テクストに近い気もする。わたしたちはどろどろとかんがえていること(ジェノ・テクスト)を定型という整理された音律(フェノ・テクスト)に落とし込んでいくことで主体化する)。

囲碁川柳から川柳の体液まできた。体液までくることはできたので、今回は、もう、終わりにしようと、おもう(あんまりひととさわやかな日曜の昼に会話しているときに、体液の話しませんよね。おしゃれなランチかなんか食べているときとかに。体液の話は)。

最後にわたしの好きなオタク川柳を。

  デュフフコポォ オウフドプフォ フォカヌポウ  オタク川柳

          (NHK「囲碁フォーカス「ハサまれたら?~小目」」2017年6月 放送)

続フシギな短詩133[中村安伸]/柳本々々


   殺さないでください夜どほし桜ちる 中村安伸

俳句と悲しいについて書いたので、少しそれを押し進めて俳句と傷のようなものについて書いてみたい。

私が俳句と傷について考えるようになったのは、『俳句新空間』の外山一機さんの時評を読んでゆくうちに、である。読み進めていくうちに、このひとは、俳句について《語ろう》としているよりも、俳句について語っていくうちに《傷つこう》としているのではないかと思った。しかも、意図的に(だからある意味、《自傷》である)。

このことにふと気づいたとき私は電車で読んでいた手をとめ、頭をかかえ、じっとした。《俳句が傷つくことがあるのか!》と。私はそれまで俳句が傷とは無縁のものだと思っていたから。

外山さんが評を書くときに意識的に選ぶ「僕たち」や「僕」という主語もそうだと思う。村上春樹もレイモンド・カーヴァーもそうだが、「僕」という主語は傷つく準備を待機する主語なのではないか(外山さんが生成した「僕」の対極をゆく「あたし」主体〈巻民代〉もそうだったのではないか。傷を引き受ける主体だったのではないか)。

外山一機は俳句に〈傷〉というテーマを持ち込んだのではないか。

外山さんは現在『角川俳句』において時評を連載されているが、来月号でこんなことを書いている。

  実際、僕は句集を読んでいて、勝手に傷ついていることがある。
  (外山一機「現代俳句時評7 俳句を不公平に読む」『角川俳句』2017年7月号)

外山一機にとって読むことは傷つくことである。しかしそれを率直に語れる人間がどれだけいるだろうか。

ちょっとまた長い遠回りをしてしまったが、中村さんの句集『虎の夜食』は特殊な構成で成り立っている。俳句の合間合間にフィクションとしての短文が入るのである。たとえば。

  王立図書館の設計図には、収蔵される全ての書籍の題名、著者名等が記されてゐる。収納位置はサイズや厚みなどを考慮して決められてをり、ちやうど千年後に全ての書棚が隙間なく埋まることになつてゐる。
  別冊の著者名牽引で自分の名を探さうとしたとき、誰かに殴られて意識を失つた。
  (中村安伸「一篇の詩」『虎の夜食』邑書林、2016年)

俳句俳句の合間合間にある短文のなかで語り手は「殴られ」ている。こうした〈可傷性〉というのは、掲句の「殺さないでください」と響きあっているように思う。句だけではわからなかった〈傷つく〉風景が短文=散文の導入によって〈具体的・状況的な傷〉になっているのである(散文という形式はシーンを描くため、そもそも形式的傷つきやすさを持っていると言えるかもしれない)。

この短文の前にはこんな句があった。

  黄落や父を刺さずに二十歳過ぐ  中村安伸

「刺さずに」の句と「殴られて」の短文がゆるく〈傷〉の連なりをもっている。

この句集では後に「父」が刺される。

  父を刺せば玩具出てくる文化の日  中村安伸

他にもこんな句が〈傷〉をめぐる句としてあげられるのではないか。  

  はたらくのこはくて泣いた夏帽子  中村安伸

  空をとぶ女の子たちにまもられ  〃

  二人を繋いで沈む手錠が売られてゐる  〃

  切腹にたつぷり使ふ春の水  〃

この句集が〈傷〉をめぐる句集だとは言い切れないが、ある側面からみれば、この句集は〈傷〉をめぐるテーマを抱えているのではないかと思う。先ほども少し述べたが、句の合間に挿入される短文もそうだ。そうした散文形式が句における〈傷口〉にシーンを与える。

この中村さんの句集が取り上げられた現代俳句協会青年部のイベントでは、他に岡村知昭さん、小津夜景さん、田島健一さんの句集も取り上げられたのだが(70年代生まれの四人)、そのどの句集にもやはり〈傷〉をめぐる句があったと思う。

かなり雑に言うけれど「一般」に、個人的に傷ついたひとは短歌に(恋愛/失恋が詠みやすい)、社会的に傷ついたひとは川柳に(階層構造的なトホホを詠む)、傷ついてもその傷を言語化したくないひとは俳句(写生=多方向的認識)に向かうのではないだろうか。

でも、現在、俳句はどうも〈傷〉というテーマを引き込んでいる気がする。

そう言えば、中村さんの句集タイトル『虎の夜食』って、とっても可傷的ではないか! わたしたちは時に人生を大きく間違えば「虎の夜食」になることだってあるのだ(もちろん、できることならなりたくはないが)。しかし中村さんの句集が面白いのは、虎が傷つき「バター」になった〈例のあの姿〉も描いていて、しかも、その〈傷ついた虎〉を育てようとしていることだ。

  バターになつた虎を育てる冷蔵庫  中村安伸

傷というのはもしかしたら治すものではなく、育てるものなのかもしれない。

  「おまえの親たちを殺して食べてしまったことについては、心からすまないと思っているんだよ。でも、わかってほしい。おれたち虎は悪ではないのだ。ただ、こうしなければならないのだ」
  「わかったよ」とわたしはいった。「算数教えてくれてありがとう」
  「なんの、なんの」
  虎たちは行ってしまった。
  (ブローティガン「算数」『西瓜糖の日々』河出文庫、2003年)
  

          (「手錠」『虎の夜食』邑書林・2016年 所収)

2017年6月24日土曜日

続フシギな短詩132[曾根毅]/柳本々々


  立ち上がるときの悲しき巨人かな  曾根毅

ちょっと月波与生さんの川柳で、川柳と悲しみについて考えてみたので、俳句と悲しみについても考えてみよう。

月波さんの川柳は〈わたし〉が悲しがっていたが、まるで川柳と俳句の違いを示唆するかのように今回の俳句では巨人を〈みるひと〉が悲しがっている。巨人が「立ち上がる」その瞬間が、悲しい、と。月波さんの句は〈わからなさ〉が軸にある悲しみだったが、曾根さんの句は〈わかってしまう〉ことが軸にある悲しみである。この「みているひと」は巨人のことを、なんとなく、知っているのだ。巨人に、精通している。

しかし、巨人についてわたしたちが知っていることとはなんだろうか。

巨人俳句と言えば、

  ひんがしに霧の巨人がよこたわる  夏石番矢

という句がある。『ガリヴァー旅行記』のガリヴァーがそうだったように巨人は横たわるものだ。巨人でありながら横たわるからこそ巨人より遙かに低いわたしたちともコミュニケーションができるのだから(たとえば『シン・ゴジラ』でも〈巨人〉であるゴジラを無人在来線爆弾によって〈横たわらせ〉なければ血液凝固剤を注入(コミュニケーション)することができなかったことを思いだそう。あのときはじめて私達はゴジラとコミュニケーションがとれたのである)。

童話「ジャックと豆の木」や漫画『進撃の巨人』、ゲーム『ワンダと巨像』が示唆するように、巨人が「立ち上がるとき」はわたしたちと〈対立〉するときだ。すなわち、ディスコミュニケーションの瞬間なのだ。

だから巨人をみているひとは、わかった。巨人が立ち上がる時それは、かなしい、と。

曾根さんの句には、実はこんなふうに〈動きの結果〉をとらえた句が多い。

  滝おちてこの世のものとなりにけり  曾根毅

まるでやっぱりまたもや血液凝固剤によって凍結され「この世のもの」となった『シン・ゴジラ』のゴジラをなんだか思い出してしまうが、「滝」が「おちて」「滝」でなくなり、「この世のものとな」る。裏返せば「この世のもの」となるまで「滝」はまだ「滝」であり「この世のもの」ではなかった。わたしたちと微分的に関わる「この世の」カテゴリーにあてはまらないものが「滝」だった。「滝」はまだ巨人やゴジラのような〈結果〉にならない〈結果未満〉のものなのだ。

だから曾根俳句のなかで「滝」の対義語は「立ち上がった巨人」である。

結果。

「この世のもの」となってしまう結果。

動いた結果、「この世のもの」となってしまうものたち。

  鶴二百三百五百戦争へ  曾根毅

  この国や鬱のかたちの耳飾り  〃

  燃え残るプルトニウムと傘の骨 〃

「この世のもの」となってしまった「戦争」「鬱」「プルトニウムと傘の骨」。

どの巨人も「立ち上がって」しまったのだ。

巨人とは、わたしたちの閾値をあらわすものなのではないだろうか。巨人がたちがあるとき、それはわたしたちの閾値をこえる。滝は落ちて、わたしたちの閾値をこえる。戦争、鬱、原発事故。どれもわたしたちのふだんの閾値をこえていくものばかりだ。

もしかしたら、「悲しい」の正体とは、〈閾値をこえること〉なのではないだろうか。だとしたら、月波与生さんの「悲しくてあなたの手話がわからない」だって、おなじだったのだ。閾値をこえて「わからな」くなっていたのだ。

曾根さんの俳句をみていて思う。俳句とは閾値をめぐる冒険なのかもしれないと。だから、俳句とは別に感情を無視した詩なのではなく、ときに、おおいに、「悲しみ」といった感情にも関わるんだろうということも。

にんげんにとって、どこまでが「この世のもの」の閾値で、どこからが「あの世のもの」の閾値なんだろう。

仏になれたら、その閾値から、解放されるんだろうか。

もちろん、わたしたちにはそんなことはわからない。でもたぶん、いや間違いなくそうなのだが、俳句は〈それ〉を知っている。

  何処まで釈迦の声する百日紅  曾根毅

          (「『俳句』創刊65周年記念付録「現代俳人名鑑Ⅱ」『角川俳句』2017年6月号 所収)

2017年6月23日金曜日

続フシギな短詩131[Sin]/柳本々々


  ビリビリと剥がされてゆくコンビニのおでん  Sin

Sin さんの川柳を読んでいると、ある現代川柳の志向性のようなものが見えてくるのではないかと私はおもう。

たとえば掲句。「コンビニのおでん」が「ビリビリと剥がされてゆく」のだが、ここで語り手が着目しているのは「剥がされてゆく」ときの「ビリビリ」とした〈擬音〉であり、「コンビニのおでん」の内実ではない。それが、おいしいか、まずいか、安いか、高いか、そう言ったことはどうでもよいことである。

また、「コンビニのおでん」が貼り紙のように剥がされるものなのかどうかといったこともとくに問題ではない。現代川柳の語り手たちはそんなことにいちいち驚きはしない。「コンビニのおでん」という商品物を指し示す記号物=〈概念〉が「剥がされ」るときに、語り手が知覚しているのは「ビリビリ」である。

わたしはここには現代川柳の語り手のある顕著な特徴がしっかりとあらわれているのではないかと思う。その1、世界や概念のルールの変更に驚かないこと。その2、内実ではなく、外郭を浮き彫りにすること。

「コンビニのおでん」が剥がされてもそれは驚くべきことではないし、むしろ「コンビニのおでん」を語るときに現代川柳の語り手は「コンビニのおでん」が貼り付けてある〈外〉としての外部を語るということである。

これをこんなふうに言い換えてもいいかもしれない。現代川柳がやっているのは基本的に〈概念を剥ぐこと〉であると。

  そうやって机は使うもんじゃない  Sin

この句では「じゃあどうやって使ったらいいの」は決して語られない。ということは、〈どう〉机を使っても、この句は「そうやって机は使うもんじゃない」と発話し続けるということだ。だからこの句のコンセプトをあえて言うならこうだ。《机の概念を剥ぐこと》。

現代川柳は概念を剥ぐ。概念を与えない。付与しない。暴力的に剥ぎ取っていくだけだ。だから現代川柳はなにも生み出さない。むしろ〈生み出さない〉ことを生み出す。

だから現代川柳はいつも「さいご」までは行かない。いやもし行くとしたらとってもチープなものを《あえて》「さいご」にもってくる。〈すかす〉ことで終わらせないのである。だからどっちでも意味は同じことなのだが、現代川柳にはいつもふたつのエンドが用意されているだろう。

「さいごまでいけな」い超越的エンドか(「呪文」=ファンタジー)、とってもチープな世俗的エンドか(「消費税」=世俗)。

  さいごまでいけなかったのはじゅもんのせい  Sin
  盗撮の最後に映る消費税  〃

          (『おかじょうき』2016年4月 所収)

続フシギな短詩130[パパ(ほんだただよし=本多忠義)]/柳本々々


  ふんもえさもどちらでもいい子が迫る木陰で喘ぐ羊の鼻に  パパ(ほんだただよし=本多忠義)

「父親の視点からの短歌のみを収めた」ほんだただよし(本多忠義)さんの近刊歌集『パパはこんなきもち。~こそだてたんか~』。

特徴的なのは、著者プロフィールの著者名が「パパ」になっていることだ。これは短歌史において初ではないだろうか。

つまり私はこういうことだと思うのだ。ほんださんは、みずからの作者性の個性をさしおいたとしても「パパ」性の方を重視し貫いたのだ、と。私は「パパ」とはこういうものではないかと思った。〈わたし〉を捨てようと思えば捨てられること。それが「パパ」だ。

ところが「パパ」は、すべてを投げ捨ててただ「パパ」でいるわけではない。「パパ」の表現というものがそこには立ち上がってくる。「パパ」だけができる表現が。

掲歌をみてほしい。ここには言説が混じり合う様子がうかがえないだろうか。「ふんもえさもどちらでもいい子」という語り口は〈こどもの言説〉である。こどもの視点に寄った語り口だ。「パパ」はこどもの内面に入り込んでいる。しかし「迫る木陰で喘ぐ羊の鼻に」は〈大人の言説〉である。「木陰」や「喘ぐ」などは〈こども〉の言説ではない。これは大人の内面である。

この歌では〈こどもの言説〉と〈大人の言説〉が混じり合っているのだ。パパの言説とはそういうものではないだろうか。

パパが立っている位置性というのは、こどもの内面に寄り添いながらも、そのこどもをまなざしているパパとしての内面も同時に成立させる。それが〈パパ〉なのではないだろうか。

ほんださんが「パパ」という語り手になったとき、ほんださんは〈パパ言説〉を発明した。それは、こどものことばと大人のことばが混じり合った〈パパのことば〉だ。

わたしたちは、わたしたちのいま・ここにしか立てない。でもそのいま・ここでわたしたちはあたらしいことばのつむぎ方をはっけんすることができる。

いまは、いつも、とおくだ。

でも、わたしたちはしゃぼんだまのようなそれをつかまえ、かきとめる。

かきとめて、いまを、うたにする。

  たまちゃんのパパの気持ちが分かるほどきらめく娘の頭のシャボン  パパ(ほんだただよし=本多忠義)


          (『パパはこんなきもち。』書肆侃侃房・2017年 所収)

続フシギな短詩129[月波与生]/柳本々々


  悲しくてあなたの手話がわからない  月波与生

私は2013年の秋から川柳と短歌を投稿し始めたのだが、そのときネットで現代川柳においてどう活動していくかを模索しながら日々精力的に実作されていたのが月波与生さんだった。私は月波さんがいる「おかじょうき」に興味をもってその後「おかじょうき」に入った(でも「おかじょうき」の句会に一度も出席したことがないし、「おかじょうき」の方々にいまだお会いしたこともない。そういう川柳人もここにいます)。

その頃、『川柳マガジン』で月波さんのある句をみて急いで書き写した。掲句である。

それは「時事川柳」のコーナーに投句されたものだった。2014年の頭のことだ。でも、今、2017年にこの句をみて「時事川柳」だとわかるひとがいるだろうか。

わたしは、そこに、惹かれた。

「時事川柳」という枠組みで、「時事」をこえた句をつくっているひとが、いる。つまり、時間とともに成長する句を。

じゃあこの句の時事性とはなんだったのか。とてもインパクトのあるニュースだったから覚えているひともいるかもしれないけれど、南アフリカのネルソン・マンデラ大統領の追悼式でデタラメ手話通訳をしていたひとがいたのである(2013年12月のニュース)。彼はまあとりあえず適当に手をふりまわして、でたらめに手話をしていた(ある意味、通訳というよりは彼は手の表現者だったと言える。パフォーマンス・ハンド・アーティスト)。

手話はでたらめだった。だから手話を知っているひとたちがテレビでそれをみてすぐに気づいた。あの手話はでたらめだ、あいつの手話はなにをいっているのか《わからない》と。

この突然ニュースとして時事にあらわれた〈わからなさ〉を月波さんは「時事川柳」として句に組み込んだ。

そのとき大事なことは月波さんが「時事川柳」によくある〈トホホ〉や〈怒り〉や〈アハハ〉の枠組みを用いなかったことだ。

ここにあるのは、〈悲しみ〉である。しかも一般的な誰かの悲しみではない。今、手話を受けている〈わたし〉の〈悲しみ〉である。

わたしはあまりに悲しんでいて、あなたの手話がわからない。泣いているのかもしれない。あまりにもショックで視界がおぼろなのかもしれない。あなたのことを見る気力さえもうないのかもしれない。ほんとうに、わたしは、かなしい。ほんとうにかなしいとき、言葉がつたわるのかどうかという問題がここにはある。

わたしたちは悲しいときも、その悲しみを言葉にしなければならないときがある。しかし、ほんとうにひとが悲しいときに、コミュニケーションができるのだろうか。それは、〈でたらめ〉にならざるを得ないではないのだろうか。

そしてそれはわたしたち人類が滅びるまで、ずっと、ずうっと、続くのだ。わたしたちは、まだ死すべきにんげんだから。わたしたちは死をうけとめてかなしくならざるをえないし、コミュニケーションの不可能性に直面せざるをえないから。

つまり、月波さんは人類の〈時事川柳〉を描いたとも言える。人類のニュースなんだ、これは。人類の時事なんだ。

人類の時事川柳というものがあるんだ。

だから、私はいそいで書き写した。これを見落としてはいけないと思ったから。わたしは、まだ、たぶん、どんなにかなしくても、まだすこし、いきていかなければならなかったから。

  にんげんになりたいものは手をあげて  月波与生


          (「尾藤三柳 選・時事川柳」『川柳マガジン』2014年2月号 所収)

続フシギな短詩128[山下一路]/柳本々々


  とつぜんのスーパーアメフラシ父さんの見る海にボクは棲めない  山下一路

以前、

  たぶん親の収入超せない僕たちがペットボトルを補充してゆく  山田航

という短歌をみてから、短歌と〈失意〉の関係が気になっている。

たとえばこの歌では「ペットボトルを補充してゆく」と語り手は〈労働〉に従事している。ところが〈労働〉に従事してなお「親の収入超せない僕たち」と〈失意〉なのである。

例えばこんな有名な近代短歌を思い出してみる。

   たはむれに
   母を背負ひて
   そのあまり軽きに泣きて
   三歩あゆまず  石川啄木

ここでは親の「あまり軽き」という〈軽さ〉が〈私〉の「三歩あゆまず」という〈失意〉になっている。これは〈私〉が自発的に発している〈私の失意〉である。もっと言えばこの失意は〈母〉のものではなくて、〈私〉のものだ。私が手にできている〈失意〉だ(母は私の失意なんて気にしないかもしれない)。近代短歌は失意を自分もものにできている。

山田さんの歌の場合はこの啄木とは逆に親の〈重み〉が失意になっている。ここで「親」と「僕たち」という名称が使われていることに注意しよう。それは「母」でもない。〈背負う私〉でもない。「親」という普遍的な上の世代を代表する名詞と「僕たち」という〈今〉の世代を代表する名詞。これは〈わたし〉の問題なのではない。この失意は、〈全体〉としての〈構造的な失意〉なのである。

だから、山田さんの歌では〈失意〉を〈わたし〉は手に入れることができない。「僕たち」の〈失意〉は誰のものにもならない〈失意〉でありその〈失意の喪失〉こそがこの歌のほんとうの〈失意〉でもあるのだ。私は近代と現代の差異はこの〈手に入れなさ〉にあるのではないかと漠然と思う。失意さえも、もう、手に入れられない。「ペットボトルを補充してゆく」という〈仕事〉が、〈わたしの希望の補充〉に結びつかない。

  こころよく
  我にはたらく仕事あれ
  それを仕遂げて死なむと思ふ  石川啄木

「こころよく/我にはたらく仕事」があるかどうかが問題なのではない。たとえそれがあったとしても「親の収入超せない」という構造的問題に突き当たってしまうかもしれないこと、またそういう問題を抱えても「ペットボトルの補充」がなんの補充にもならなかったように、「仕遂げ」ることも「死」ぬこともできないような状況が山田さんの歌のシーンなのではないか。だからもし願うとしたらこうだ。「構造にはたらく仕事あれ」。

長い遠回りをしたが、実は山下さんの歌で山田さんの歌をあげたのには理由がある。それは、山下さんの近刊の歌集『スーパーアメフラシ』の解説を山田さんが書かれているからだ。山田さんは山下さんの歌の方法論をこう指摘する。

  「重み」よりも「苦み」を演出する方法論を、この『スーパーアメフラシ』という歌集では一貫して採用している。消費主義社会に取り込まれた個人たちの実存のどうしようもない軽さを、そして軽いからこその苦い哀しみを、あくまで捉えようとしている。
  (山田航「解説」『スーパーアメフラシ』青磁社、2017年)

この山田さんの解説は、たぶん、山下さんの「スーパーアメフラシ」の歌をみてみるとよくわかる。山田さんの歌は先ほど述べたように〈構造的重み〉があったが、山下さんの歌では「父さんの見る海にボクは棲めない」と「父さん」や「ボク」という名称を採用することで〈わたしの苦み〉が出る。啄木歌の軽さでも山田歌の重みでもない、〈父/私〉という構造的な問題が喚起されながらも、「父さん/ボク」という〈私の言説〉に落とし込んでいく〈苦み〉。それは軽いのでも重いのでもなく、苦かったのだ。

だから「アメフラシ」なのではないか。アメフラシとは、なんなのか。腹足綱後鰓類の無楯類に属する軟体動物である。しかしそれは適切ではない。海のなめくじのようなぐにゃぐにゃしたかたつむりようななめくじのような、しかも紫色の粘液のようなものを握れば放出するのがアメフラシである。

私はこのアメフラシに〈苦み〉の象徴性があるように思う。アメフラシは「母」や「ペットボトル」と比べ、私たちからは微妙な距離感がある。それは軽くも重くもない。アメフラシを噛んでみたことはないけれど、美味しそうでもない。苦そうではある。たぶん噛むと苦いだろう。口のなかが紫の液体でぐちゃぐちゃになるだろう。しかも「スーパーアメフラシ」だから、わたしたちが出会ったこともない「アメフラシ」なんだろうと思う。それは「父さん」が見たことのない風景であり「海」だったのだろう。奇天烈奇怪な。

「海」という言葉で構造的問題が喚起されながらも、この歌の「父さん」と「ボク」と「スーパーアメフラシ」は〈ここ〉にしかいない。啄木歌の母と、山田歌のペットボトルに挟まれた、〈苦い〉としか言えない状況を「ボク」は引き受けているのではないか(ちょっと私は今なんだか森見登美彦の小説を思い出している。構造に翻弄されながらも〈私〉の苦みを引き受けていくこと)。

山下さんの歌集はこうした絶妙な〈失意〉が蔓延している。「スーパーアメフラシ」が失意として組み込まれたように、「アズマモグラ」、「向日葵病」、「キイロスズメバチ」や「おばさん」が失意と共に組み込まれていく。

  このままなにも知らずにボクタチは滅んでしまうアズマモグラさ  山下一路

  生まれつきアゴから上を明るいほうへよじられている向日葵病  〃

  膨らんだおしりから汁をえんがわに引き摺っているキイロスズメバチ  〃

  二駅目で座れたのに目のまえにおばさんが立つ。死ねとばかりに  〃

〈失意〉を〈私の失意〉にするためには文法がある。それを山下さんの短歌は教えてくれる。

わたしたちは、今この時代にあって、失意を〈練習〉しなくてはならない。

          (「スーパーアメフラシあらわる」『スーパーアメフラシ』青磁社・2017年 所収)

2017年6月21日水曜日

続フシギな短詩127[疋田龍乃介]/柳本々々


  700枚の閉ざされたあなたが
  書いた長編スピーチ文の中の湯船にすら
  簡単におぼれてしまっている自分が
  いることへの僕は毎日可愛がって
  可愛がってしていた犬と
  ゆく末をサイコロの目と睨みあい
  決断している朝
  唱えるように
  いぬがひ、げのがん、  疋田龍乃介「犬がひげのがん」

この疋田さんの詩が収められた詩集『歯車 vs 丙午』の栞文のなかで渡辺玄英さんがこんなふうに書かれている。

  言葉は言葉であるかぎり、完全に意味から逃れることは出来ない。しかし、詩は、言葉が逃れられないはずの意味から自由になれる瞬間を可能にする。
  (渡辺玄英「迂回して虹を」)

詩は、意味から自由になれる瞬間がある。たしかに詩を読んでいるとそう感じるときがある。しかし、《なぜ》そう感じることができるのだろう。

例えば疋田さんの上の詩をみてほしい。

この詩においては「が」が意味をたちあげようとすることを非常に〈邪魔〉してくることに注意したい。たとえば詩の一行目の「あなたが」がこれからの一節の主語なのかと思いきや、三行目に再び「自分が」と出てくる。じゃあこれが主語なのかと安心しようと思ったせつな、その「自分が」は「いることへの僕は」と「僕は」に回収されてしまう。

どうも、この詩においては、〈が〉の磁力のありかたが、おかしい。〈が〉が出てくるとまるで砂鉄を集めるように、言葉の磁場が変容する。

とりあえず「僕は」が主語でよさそうなのだが、すぐさま、「可愛がって/可愛がってしていた犬と」と再び〈が〉の近辺の磁場がゆらいでいる。わたしたちがふだんのシンタックス(文の立ち上げ方)では〈しないやり方〉で文がたちあげられている。

なんでこんなことになったんだろう。

だんだん、詩を読んでいると理由がわかってくる。

引用の最後の一行に、「いぬがひ、げのがん、」と語られている。ここからまだまだ詩は続くのだが、この「いぬがひ、げのがん、」に注意したい。この詩のタイトルは、「犬がひげのがん」だが、語り手は「犬がひげのがん」とまとまった言葉の意味として把捉しようとはせず、「いぬがひ、げのがん、」とすでに意味のまとまりを手放している。ということは、この語り手は、意味単位で文章を構成していくというよりは、「が」単位で語りを構成していくかもしれないということを表している。

このあとこの詩は「げのがん、げのがん、」という言葉や「犬ヶ髭」という言葉を見出していく。やはり、〈が〉から発想されていく造語である。

つまりこの詩は〈意味〉でわかろうとすると、返り討ちにあうかもしれなくて、語り手が〈が〉の磁力によって、文章という磁場を変容させようとしているんだ、と読もうとすることによって読める詩かもしれないのだ。

私は以前、詩とは語っていくうちに、みずから形式を発見していくものだと述べたけれど、詩とはもうひとつ大事な役割がある。語りながら、言葉の磁力や磁場をそのつどそのつど変容させていく役割だ。詩力(しりょく)とは、磁力(じりょく)でもある。

  いつも客席から彩るような
  かるがもがな可能なら
  かもとかもとか
  たとえばさような
  さようならのような
  叩き割っても結び合わされる
  これが世界なのかも、虹の裏かもしれないな
   (疋田龍乃介「直結の虹」)

ことばは実は大事にしなくていい。たたきわったって、いい。

言葉を叩き割ると、おどろくことに、結び合わされるものがある。言葉はタフだから、叩き割っても叩き割っても、言葉はこわれない。こわれないので、私たちは「これが世界なのかも、虹の裏かも」という言葉の裏側にまわりこむことができる。ただそれをふつうの感覚でやってしまうと、わたしたちはあっち側に行ったまま〈帰ってこられなくなる〉かもしれないので、わたしたちはその行為に名前をつけた。

詩、と。

          (「犬がひげのがん」『歯車 vs 丙午』思潮社・2012年 所収)

2017年6月17日土曜日

続フシギな短詩126[吉井勇]/柳本々々


  かにかくに祗園はこひし寝(ぬ)るときも枕の下を水のながるる  吉井勇

加藤政洋さんの『モダン京都 〈遊楽〉の空間文化誌』(ナカニシヤ出版、2017年)を読んでいたら面白い指摘があった。

上の吉井勇の歌は有名な歌で短歌のアンソロジーなどを読んでいるとよく眼にする歌である。たぶん「枕の下を水のながるる」という比喩が現代的でいまだに有効だからじゃないかとも思う(ちなみに枕って音響装置的役割をすることが本当にあるのだ。たとえばマンション暮らしをしていると枕に耳をつけて眠ると下の階の話し声が聞こえたりする時もある。枕の下には世界が広がっている)。

で、加藤さんが指摘しているのは、この吉井の歌と谷崎潤一郎の歌の比較である。谷崎潤一郎は著作の中でこの吉井の歌を引用している。ところが谷崎は〈まちがって〉引用しているらしいのだ。

  吉井勇の歌に、「かにかくに祗園はうれし酔ひざめの枕の下を水の流るゝ」と云ふ吟詠があるのは、……
  (谷崎潤一郎「青春物語」)

吉井の歌の第2句・3句の「こひし寝るときも」が、谷崎引用バージョンでは「うれし酔ひざめの」になっているのだ。

吉井勇の歌では「こひし」だった箇所が、谷崎が引用した歌では「うれし」になってしまった。この谷崎の〈引用間違い〉によってなにが言えるだろう。

  「恋し」は、距離を前提する語句だから…、今はもうそこにいないという空間的な次元と、時間的な事後性とを含意する。つまり、恋しい《祗園》を離れている状態でうたわれているものとみるべきであろう。
  (加藤政洋、同上)

だから吉井の歌の語り手は、祗園から離れている。ところが谷崎の歌の「うれし」は、

  酔いの醒めるのが夜半であれ、明け方であれ、あるいは翌朝であっても、その場の満足感をうたっている
  (加藤政洋、同上)

だから谷崎の引用歌の語り手は、《祗園そのものの場》にいることになる。

つまり、わたしは恋しい、と、わたしは嬉しい、の語り手の位置性の違いである。恋しいというひとは離れた場所にいるが、うれしいというひとは今・そこにいる。

  吉井は祗園《で》ではなく(no-where)、祗園《を》うたった。それに対して、谷崎の「酔ひざめ」には、「今・ここ」性がある(now-here)。
  (加藤政洋、同上)

谷崎にとってこの歌は、〈今・ここ〉的な歌だったのだ。

この加藤さんの指摘からわかることはなんだろう。

わたしは別に引用を間違えることを推奨するわけではない。でも、引用を間違えたとき、そこにはなんらかの〈当事者性〉が入るということは考えてもいいのではないかと思う。〈わたし〉や〈あなた〉の問題として。

短歌の引用は、よく間違えるし間違えられる(私もできるだけ気をつけているのだがやはり間違えることがある)。間違った引用は直さなければならないが、直す時にあなたがその歌の引用の〈当事者〉としてどうして〈そう〉間違ったかを考えてみてもいいかもしれない。あなたが〈だれ〉であったのかを。

わたしは昔、木下龍也さんの「鯛飯タイムマシン」の歌(ラップ)を「蛸飯タイムマシン」と〈まちがえ〉てこんなことを言ったことがある。

  たぶん自分に鯛飯文化がなかったんだとおもうんですよ。たこめししかしらなかったっていう。それでそのときのことを歌にしたら蛸飯タイムマシンになったんですよ。でもたぶんあの場にいないとまちがいはおこらないじゃないですか。なんかだからそういう体験の歌なんだとおもって。その場にいるからこそ間違いっておこるんです。そう、おもったんですよ。
 (「鯛と蛸」『きょうごめん行けないんだ』食パンとペン、2017年)

何度も言うが間違いは正当化されることなくちゃんと直さなければならない。それをふまえた上で、でも〈間違ったじぶん〉がどうして〈間違った〉のかも考えてみてもいいかもしれない。それはあなたが、そのとき・そこに・あなたとして・そういうかたちでしかいられないかたちで・いた、ということにもなるかもしれないから。

わたしたちは別に短歌でなくても、日々、だれかの、テレビの、ネットの、ほんの、まんがの、えいがの、言説を引用している。でも引用されていくうちに、引用者の〈当事者性〉が塗り重ねられていく。わたしたちは歴史的な存在だから、そこにわたしたちの今・ここが塗り重ねられる。

引用者は透明な存在ではない。いや、わたしたちは透明じゃない。どんなに透明であろうとしても、あなたは透明ではない。そこにはかならず〈あなた〉がいる。その〈あなた〉にときどき出会ってみてもいいんじゃないか。そう、おもうんだけど。


          (「祗園はうれし酔ひざめの……《祗園新橋》の強制疎開」『モダン京都 〈遊楽〉の空間文化誌』ナカニシヤ出版・2017年 所収)

2017年6月14日水曜日

DAZZLEHAIKU4 [森澤程]渡邉美保



鯉跳ねる音の数秒夏銀河  森澤程


あっ鯉が跳ねた。その一瞬の水音を聴きとめたとき、作者は何をしていたのだろうか。どこにいたのだろうか。いろいろなシチュエーションが考えられる。どんな場合であれ、その数秒間の水音は、確かなものであり、夏の夜の静けさと、鯉の存在を浮かび上がらせる。澄んだ大気の中、空には銀河がゆったりと広がっている。
「鯉」と「夏銀河」の組み合わせにより、空間は一挙に広がりと奥行きを持ち始める。「鯉」から「銀河」への飛び方は、一見唐突なようで、どこか繋がっている。
鯉の跳ねる水音を聴いたその刹那、作者は銀河のほとりに立っていたのかもしれない。無数の星々がばらまかれた広大な銀河。その中で鯉が小さな点となって泳いでいる光景。鯉の寂寥感は、それを見ている作者の寂寥感でもあるだろう。


  鯉を抱く夢のつづきの夏の水

  真夜中の方から来たり錦鯉

  小雨から緋鯉の模様抜け出しぬ


いずれも同句集中の鯉の句。現実と異空間の間を行き来している鯉の姿は美しく、寂しげだ。


〈『プレイ・オブ・カラー』2016.10 ふらんす堂〉

2017年6月10日土曜日

続フシギな短詩125[高橋順子]/柳本々々


  いつも誰かの電話が気になっていたこと
  何もしなくてもいい一日があったこと
  暗くなるまで詩を書いたこと
  横着だと責めない男たちと
  野山を歩いたこと
  晩ごはんをぬいたこと
  いつもご破算にできると思っていたこと
  さようなら  高橋順子「いつも誰かの」

高橋順子さんの詩集に『時の雨』がある。48歳でふいにぶつかるように思いがけなく出会い結婚した小説家の車谷長吉との生活が軸に描かれたものだ(私は以前、この〈生活〉のことをこのフシギな短詩で車谷長吉の側から書いた)。高橋順子は詩集の「あとがき」でこんなふうに書いている。

  晩い結婚の二年四ヶ月後、連れ合いが強迫神経症を発病しました。…ものに怯える家人は、私に対してもまた怯えたのでした。私たちは自由に息をすることができなくなり、緊張の日々を過ごしました。 連れ合いの書く小説には髪の毛一すじの狂気が宿っていることに私は無意識であったわけではありません。それは、文学だと思っていたのです。生活とは別次元のものだ、と。ところが或る日、文学が生活に侵入してきてしまった。日常が非日常の霧におおわれてしまった、ともいえます。そのとき、人はどうするか──。 生活を強引に文学にしてしまうこと。自分を全力で虚の存在と化し、文学たらしめること。 
  (高橋順子「あとがき」『時の雨』青土社、1996年)

上に引用した「いつも誰かの」という詩が収められたこの詩集『時の雨』は「あとがき」から解釈すれば、〈車谷長吉との生活〉を描いたものなのだけれど、私はこの詩集を〈二人〉というユニットをとことん詩によって考え抜いた詩集として読んでもいいのではないかと思う。

ふたり、で生きるとはどういうことなのか。ひとりじゃなくて。

たとえばそれは「いつも誰かの」〈わたし〉であった〈わたし〉が自分から〈失われ〉てゆくことだ。ひとりだった私の〈いつも誰かの〉に焦点化された生活は、ふたりになった私の〈あなた〉へと再焦点化されていく。あなたは、わたしから、なにもかもを奪っていくだろう。二人で生きるとは、そうした劇的な経験だから。

  俺、ときどき思うんだけど、恋愛をするという行為は、人が一杯いる中で二人きりになろうとする行為じゃない? だから、恋愛は良いことなんだけど、もっと大きな目で見れば、ほとんど2人で破滅しようという行為に近いなと思って。絶対、その2人だけでは成立しないものが生まれてくる。「そのことを知っていて尚、なぜ人は恋愛をするのか?」というのを考えることがある。
  (岩松了「対談:岩松了×若手写真家 第1回●中村紋子/世間に対してどう立ち向かっていくか?」)

すなわち。

いつも誰かの電話が気になっていたことが失われ(不特定関係の喪失)、何もしなくてもいい一日が失われ(不特定時間の喪失)、暗くなるまで詩を書くことが失われ(不特定表現の喪失)、横着だと責めない男たちと野山を歩くことが失われ(不特定気ままの喪失)、晩ごはんをぬくことが失われ(不特定生活の喪失)、いつでもできたはずの人生のご破算=リセットが失われる(不特定破壊の喪失)。

こうしたおびただしい喪失をくぐり抜けながら、「いつも誰か」になれる〈わたし〉を失っていく経験、同時に、「いつも誰かの」〈わたし〉になれる〈わたし〉を失っていく経験。それが、〈ふたり〉で生きるということだ。

この詩のすべての行末が「こと」で終わりになっていることに注意しよう。そして最後にこの詩が「さようなら」で終わっていることに注意しよう。

「こと」への「さようなら」の詩なのだ。〈ふたり〉で生きるということは、〈ことの終わり〉でもあるのだ。

自分が〈こうこうこうしたい〉をコト化しようとするとき、それに疑義や異議を挟む〈あなた〉が出てくる(これはこのフシギな短詩の千春さんの回でも書いた)。それが二人で生きてゆくときの〈あなた〉である。

だから、二人で生きるわたしは容易にコト化できず、コトの挫折を味わうようになる。わたしはコト化できない人生のなかに入っていくが、しかしそれは新しい人生の価値観になるかもしれない。この世界にはわたしが容易にコト化できないものもあるんだと。わたしと暮らす〈あなた〉はそれを教えてくれるから。あなたはわたしに豊かな挫折をくれる。

ふたりで生きるとはそういうことなのだ。

恋愛だってもしかしたらそうかもしれない。わたしとあなたは、たゆまずコト化できないコトにふたりで取り組む。きょうはこんな新しいコトがあったね。未知だったね。コト化できなかったね。すっごいね。とんでもないね。こんな詩を思い出してもいいね。

  はてしのない場所にいた
  草いっぽんはえていない
  だれもいない
  こころぼそい場所に

  おとなになって
  世の中は秩序だち
  緑豊かな涼しい場所で
  私は仲間と安心を得た
  それなのに、また

  あなたに会って
  こんなに遠くまで来てしまった
  草いっぽんはえていない
  こんな荒れはてた
  こんなさびしい
  こんな茫々とひろがるはてしのない場所に
  また
  (江國香織『江國香織詩集 すみれの花の砂糖づけ』)

コト化できない場所、「はてしのない場所」、「草いっぽんはえていないだれもいないこころぼそい場所」、「こんなに遠」い場所、「荒れはてた/さびしい/茫々とひろがるはてしのない場所」、それがコト化できない場所だ。でも、そのコトがすべてうしなわれた世界には〈あなた〉がいる。なんで?

わたし〈たち〉は〈ふたり〉だから。

  枯れ草のような しようもない男につかまった」
  踊りやまなかった枯れ枝が風に飛ばされとばされ
  土をつかんでじっとしていた枯れ草と出会った のだそうだ
  時の雨の中で
  せわしい雨だれの中で
   (高橋順子「時雨」『時の雨』)

「草いっぽんはえていないだれもいないこころぼそい場所」で「枯れ枝」が「枯れ草」に出会う。「中で」とこの詩は文の〈途中〉で終わっている。体言=名詞=コトではなくて。コトがぐずぐずしたなかに、これから、出会ったふたりは、入っていくのだ。すべてを〈途中〉化させる世界に。雨の降り続ける時の雨の世界に(雨とは、〈途中〉の象徴なのだ)。

この詩集『時の雨』はこんな詩でおわる。

  精神病院からの帰り道
  休耕田の真ん中に生えている一本の
  椎の木の下に坐り
  おにぎりを食べた
  野漆と耳菜草の名をおぼえた
  模型飛行機をとばしている人たちがいた
  川で釣りをしている人たちがいた
  いつかきっとこの木のことを思い出すだろう
  二人ともまだ若かったころ
  木の下に坐ったことがあった と
   (高橋順子「この木のことを」同上)

コトにお別れを告げたこの詩集『時の雨』は「この木」という世界でたったいっぽんの「木」を発見する。二人をめぐる「この木」。それは二人のコトである。その「木の下」で「おにぎり」を食べた。「おにぎり」=名詞=コトを手に入れた。野漆と耳名草の「名」をおぼえた。コトを手に入れた。模型飛行機を飛ばし川で釣りをしているひとたちという思い出を手に入れた。コトを手に入れた。そうして「いつかこの木」という「いつか誰かの」に代わるものを「二人」で発見した。「木の下に坐ったことがあった」と。

そういうかたちで、二人は、コトを手に入れた。

  「あなたの部屋に行ってみてください」
  と連れ合いになる男が言う
  ……
  似過ぎているものをもっていることを
  喜ばずに惧れた
  知らなくてもいいものを
  知ってしまうことがあるだろう そのときは
  野の花がわたしたちを見ていてくれますように
   (高橋順子「あなたの部屋に」同上)

          (「いつか誰かの」『現代詩文庫163 高橋順子詩集』思潮社・2001年 所収)

2017年6月4日日曜日

続フシギな短詩124[樹萄らき]/柳本々々


  淡々と・・・淡々なんていかねーよ  樹萄らき

この「・・・」と「いかねーよ」というのがらきさんの川柳の文体の特徴になっているだが、この「・・・」というのはよくマンガの吹き出しなどで見られる。

たとえば小説だと三点リーダは「……」となるのだが、マンガの吹き出しなどでは「・・・」と大きくなっていることがある(マンガの表記の自在さによるものかもしれない。マンガの言説は独特の記号使用の自在さがある)。

  まいったねえ右も左も寸足らず  樹萄らき

  おまえさん脛にキズもつお人好し  〃

  未来は過去の延長じゃない・・・けどさ  〃

「いかねーよ」「まいったねえ」「おまえさん」「けどさ」。ここには独特の〈姉御言葉〉のような文体がある。

川柳人の小池正博さんがよく現代川柳におけるキャラクター論を論じているのだが、一般的にキャラクター論はコンテンツとして論じられる。たとえばAというキャラクターが連作のなかにあらわれ、さまざまな句のなかでAのキャラクターがつくられていく。

ただらきさんの川柳はそうしたキャラクター論の死角をつくものではないかとも思っている。

らきさんの川柳にはキャラクターはいない。連作のなかでそれらを一手に引き受けていくキャラクターとしての主体はない。

ところがこの連作の文体には、キャラがある。姉御的・マンガ的なキャラだ(伊藤剛さんの本に詳しいが、キャラクターとキャラの違いを今私なりに簡単に述べると、キャラクターは形であり、キャラとは性である。キャラクターとしてののび太の形はドラえもんの原作の中だけだが、のび太のキャラはダメ・軟弱・0点・寝るとして原作内を越えてさまざまに飛び火する。「あんたって、ほんとうにダメで、のび太みたいだね」と友人や恋人から言われたとしたらあなたのキャラはのび太なのだ。キャラクターは原作内に留まるが、キャラが強ければ強いほど原作を越えてあちこちにキャラクターは移動することができる。キャラクターとキャラは違う。これを川柳論に生かすとどうなるだろうか)。

  「キャラの強度」とは、テクストからの自律性の強さというだけではなく、複数のテクストを横断し、個別の二次創作作家に固有の描線の差異、コードの差異に耐えうる「同一性存在感」の強さである。この「横断性」こそが、重要な点なのである。
  (伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』)

文体がつくりあげていくキャラというものがある。というよりも、文体は、ときどき、キャラになる。キャラクターとして見えにくいので焦点化できず論じにくいのだが、キャラとして文体化されていくものがある。

そういうキャラ的な文体というのは、どう考察したらいいのだろう。

私は、実は、キャラ=文体というのは、わかりにくい、言語化しにくいだけで、けっこう飛び火しているのではないかと、思っている。

そのヒントを樹萄らきさんの川柳はくれる。ここには私はなにか新しい川柳論のヒントがあるのではないかと思っている。だから、考え続けていこうと思っている。いつか、続きを書くために。

ただ今はそれをどう言葉にすればいいかちょっとわからない。そう、まだ、今は。

だから、今回は異例なのだけれど、「ちょっとわからない」という結論で終えてみようかと、おもう。

ちょっとわからない。


          (「そよ風」『川柳の仲間 旬』211号・2017年5月号 所収)

続フシギな短詩123[柳本々々]/柳本々々


  ジャイアント馬場それも霊体がマーライオンを通過する  柳本々々

以前、ある川柳のイベントで話をするとして十句選を提出してくださいと言われ、私は次の十句を提出した。

 (テーマ【世界の終わりと任意の世界】)
  みんな去って 全身に降る味の素/中村冨二
  頷いてここは確かに壇の浦/小池正博
  ファイティングポーズ豆腐が立っている/岩田多佳子
  オルガンとすすきになって殴りあう/石部明
  妖精は酢豚に似ている絶対似ている/石田柊馬
  人差し指で回し続ける私小説/樋口由紀子
  中八がそんなに憎いかさあ殺せ/川合大祐
  おはようございます ※個人の感想です/兵頭全郎
  毎度おなじみ主体交換でございます/飯島章友
  菜の花菜の花子供でも産もうかな/時実新子

テーマをつけろとは言われてなかったのだが、テーマもつけて提出した(私はときどきそういうなんだかずるいリークみたいなことをすることがある)。

で、最近、川柳作家の川合大祐さんと電話していて、川合さんが、あのやぎもとさんの、マーライオンの句、あれ、過剰ですね、と言われたときに、あれっ、そう言えば、川柳って〈過剰性〉ってキーワードになるんじゃないの、と思ったりした。「過剰性、そう言えば」と私は言う。

「前に、川柳のイベントで提出した十句も今思えば、ぜんぶ、過剰性ですよね。『みんな去って/全身に降る』という演劇的過剰性、「頷いてここは確かに」という肯定の過剰性、『ファイティングポーズ豆腐』という豆腐の過剰性、『殴りあう』という武闘的過剰性、『似ている絶対似ている』という認識の過剰性、『回し続ける私』という私の過剰性、『さあ殺せ』という自虐の過剰性、『※個人の感想です』という相対化する過剰性、『主体交換』という主体の過剰性、『子供でも産もうかな』というジェンダーの過剰性。なあんだ、ぜんぶ、過剰性なんだ」と私は言った。それから「はぁはぁ」と。少し息も切らずに過剰性過剰性しゃべったので。

ああ、あああ、あ、ああ」と川合さんも言う。「いやあのね、やぎもとさんの句の『それも』ってのが、なんか気になったんですけどね、それも過剰性ですよね、まあなんでもかんでもこの句ぜんぶ過剰性なんですけどね」

あーあ」と私は言った。気を抜いていたので変に伸びたが、勘違いされるかもしれないので、すぐに「ああ」と言い直した。「どうしてね、川柳が過剰性を引き受けるようになったのかは謎なんだけど、たとえばね、アルチュセールが、フーコーが、バルトが、ラカンが、クリステヴァが、もし現代川柳を読んだらね、すごく喜んだじゃないか、嬉しがったんじゃないかって思うときがあるんですよ。それはなんだろう。主体の過剰なぐずぐず感、あらゆることの過剰性かなあ、でもそれってまさにポスト構造主義じゃないですか、ポスト構造主義は構造主義にはなかった主体の過剰性、構造からぐずぐずはみ出していくなにかを見つけた。現代川柳ってポスト構造主義のぐじゅぐじゅしてる感じと実はとっても親しいような気がするんです」

「たしかにね、構造主義と定型は似ていて、でもその構造主義=定型から、なんだかはみ出ていくものも定型は同時にかかえもつ場合がありますよね。それってポスト構造主義的な部分に近づいていくのかもしれない」と川合さん。

「ああ、そうですよ。ほんと、そうだ。うーん、だから現代思想とか文学理論で現代川柳って読み解きやすいのかな。私は実は現代川柳の感想を書くとき、ぜんぶ、現代思想か文学理論の枠組みでしか読んでないんですよ。だから最初は怒られてパンチされたりするのかなとか思ってたんですよ。でもとくに怒られはしなかった。それって現代川柳がそういう部分をかかえてたからなんですかね」とわたし。

「ああ、そうですよ。そうかもしれない」と川合さん。

そうですよね。そうなのかな」とわたし。

そうだなあ、そういうことなのかなあ」と川合さん。

そう。うーん。あ、ああ。そう」とわたし。

しかし、これ以上、無駄に会話も続けられない。さすがに「そう」「そう」だけで電話もしていられない。フシギな短詩ではなく、フシギな会話になってしまう。

「そう」を「それでは」に切り換えて、「はい。失礼します」と言って私は電話を切った。

電話を切って、正座して、部屋のまんなかでぼんやりして、絨毯をひとさしゆびで無駄になぞりながら、ああ、そうだ、あの人のことも言えばよかった、と私は思った。わたしはいつも大事なことを忘れてしまう。ジャック・デリダのことだ。

  デリダは大胆にも、ハイデガーの現-存在とは電話の呼びかけに応えて「電話に出ること」だという。人間は存在にではなく、電話というテレコミュニカシオンに拘束され、電話に釘づけにされ、電話へと運命づけられているわけである。
  (上利博規『デリダ』)

私は電話に手をかける。いやもう夜遅いしさすがに今度でいいよくだらないことに電話を使うなよ、とデリダの声。はい(oui)、と私。

  怒られたらどうしようと思う眠る  柳本々々

          (「暗い人間」『川柳の仲間 旬』211号・2017年5月号 所収)

2017年6月3日土曜日

DAZZLEHAIKU3 [恩田侑布子]渡邉美保



驟雨いま葉音となれり吾(あ)も茂る   恩田侑布子


新緑の季節から夏へ向って、樹木は枝葉を伸ばし、緑を押し広げてゆく。繁茂した緑の深さはエネルギーに満ちている。そんな季節の中、突然降り出した雨。驟雨は、急にどっと降り出し、しばらくすると止んでしまう雨である。

「驟雨いま葉音となれり」の一瞬の切り取りが、雨の勢いやスピードを実感させてくれる。

葉音となった驟雨は、作者の聴覚を通して、五感を刺激し、覚醒を促す。驟雨は作者の内部にも降ってくる。身体はすみずみまで潤い、緑に染まる。そして内部は外へ反転する。

樹木と吾は一体となり繁茂する。「吾も茂る」のだ。生命の源のような力を得て。
葉音はいつしか風の音を含んでいるだろう。

 〈句集『夢洗ひ』2016・8角川書店 所収〉

2017年6月2日金曜日

続フシギな短詩122[千春]/柳本々々


  土にかえるから夫への説得  千春

「浮雲」と題された連作。「浮雲」のように〈わたし〉は連作のなかでたびたび消えそうになる。

  天の雲浮遊する前笑おうね  千春

  ウグイスが鳴くから私とけてゆく  〃

ただ問題はどう自らが〈転生〉して浮かび上がろうとしようとしても「夫」という最終審級がいるということだ。

この「夫」はわたしの転生を許さない。「土にかえる」ときに「夫」を「説得」しなければならない。

説得、ってどういう意味かあらためて考えたことがあるだろうか。実はわたしもない。ちょっと辞書で調べてみよう。

【説得】自分の意志や主張を相手に話し伝えて納得させること。

とあった。「説得」の「説」は「説き伏せる」の「説」であり、「得」は「納得させる」の「得」である。このように相手に過剰に関わり、相手と関係を築くことが〈説得〉なのだということがわかる。説得とは、相手の納得なのであり、相手の主体性の確保なのであり、私の主体のありようではどうにもならないものなのだ。

だからこの連作における「説得」という言葉の強さは、大きい。

この連作は例を示したようにともすれば〈わたし〉が「浮雲」化しようとする連作である。雲のように消えようとしている。ところがそこに「夫」がいる。夫は「浮雲」になるならなるで「説得」しなければならない存在である。しかし「説得」とは主体の連携なのだから、もし「夫」を「説得」させられたなら、わたしは「浮雲」になることはできない。「夫」に〈留め置かれる〉ことになるからだ。「夫」と共に生きることになってしまうからだ。

説得は、激しい。生命の激しさがある。

連作の最後にこの句が置かれていた。

  生きるんだそうと決めれば鳥かなあ  千春

語り手は「生きるんだ」と「決め」そうになっている。「夫」との関わりで「浮雲」化しない方向を選ぶのかもしれない。それも共に生きることだと、思う。まだ「かなあ」の段階だけれども。でも「生きるんだ」と語り手は、ことばにした。

「鳥かなあ」に注意したい。連作は「浮雲」というタイトルだった。「雲」は地上には降りてこない。生命でもない。しかし、「鳥」は雲に近い場所にいることもあるが、大地にも降りる。生命である。語り手は「浮雲」というタイトルを冠しながらも「夫」との関係のなかで「雲」にならない生を選びとったようだ。

生きる、は、タイトルを裏切ることが、ある。

          (「浮雲」『川柳の仲間 旬』211号・2017年5月号 所収)