2017年4月25日火曜日

続フシギな短詩104[介護百人一首]/柳本々々


  いつの間に一人暮らしが三人になっているかと母不思議がる  辻田早代美

NHKの番組「ハートネットTV 介護百人一首2017」からの一首。

大阪在住の辻田早代美さん。母親に少し認知症があることがわかり、いまは同居しているという。

辻田さん夫婦と92歳の母親のきみこさんの暮らし。

早代美さんはNHK短歌をみて興味をもち、短歌をつくりはじめたという。

「思ってることをぱっと切り取れる」ことから早代美さんは短歌をつくっている。

わたしは、このフシギな短詩で、なぜひとは〈わざわざ〉短いことばを選択するのだろうと書いたことがあるが、しかし人生の形式によって〈短さの形式〉に出会うこともある。「思ってることを長々と書き連ねていく」形式では、「思ってること」が逃げていってしまう。母との同居生活は、そのつどそのつど〈新鮮なぱっとした思い〉がわきあがる暮らしだからだ。

母との暮らしのなかで、「ぱっと」「思ってること」を「切り取」ることに短歌は適している。

たとえば、介護で忙しく時間がとれないときでも、短歌ならうたうことができる。

すこし関係なくて、すこし関係あるのだけれど、わたしはよくアメリカの作家レイモンド・カーヴァーを思い出す。かれは、短編ばかり書いた。長編は書かなかった。かれは、ある時期まではブルーカラーであり、ある時期までは肉体労働者だった。そうしたかれの時間のとれない生活、しかもこどももいた生活のなかで、それでも時間を見つけて書いた彼の生活が短編作家としてのレイモンド・カーヴァーを用意したのではないかとおもうのだ。

なぜ、プロレタリア短歌というものがあるのか、なぜプロレタリア文学はたいてい〈短い〉のか、が、そう考えるとわかるような気がする。それは、〈短さ〉を選択したというよりは、生活が形式を選んだのだ(こんな問いを立ててもいい。なぜ志賀直哉は長編が書けて、芥川龍之介は短編ばかりだったのか。志賀直哉の暮らしと芥川龍之介の暮らしの〈格差〉)。

その意味で、短い形式としてのジャンルは、いつでもひとつの表現の民主化の道をきりひらいている。それはときに表現をめぐる階層差をうちくずす契機になるかもしれないから。

さいきん、川柳作家の川合大祐さんと電話しているときに「妄想幻聴かるた」について話した。ふたりでこれは、まるで、現代川柳じゃないかと、話し合った。ここにあるのは認識の根っこだと。ちょうど私は田島健一さんの句集『ただならぬぽ』を読みながら、ひとの経験の基底=古層についてかんがえていて、なんだかいろんなものが、リンクしていった。

かるた、という短い形式のジャンル。

ジャンルのなかをひとが出入りし、ゆきかっている。それは、長さや短さなどの形式のちがいによって、すこし、ひとの感じもまた、変わってくる。

ジャンル、ってなんなのだろう。だれが・どう・決めているのか。だれがなにを位置づけ、迎え入れ、追い出し、それがどうくつがえされたり、あらそわれたりしているのか。

夜のそんなに早くもない時間のなかで、わたしは電話を切った。

  隙ねらい外へ出たがる母と猫三年暮らせばよく似てきたり  辻田早代美

          (「ハートネットTV 介護百人一首2017 春編その一」NHK・2017年4月20日 放送)