2017年4月30日日曜日

続フシギな短詩106[樋口由紀子]/柳本々々


  軽症だから道の真ん中を歩く  樋口由紀子

以前、そんなに遠くはない昔に、

  むこうから白線引きがやって来る  樋口由紀子

という樋口さんの句の感想を『週刊俳句』に書いたことがある。それは「境界破壊者たち」というタイトルだった。

そのときはまだよくわかっていなかったのだが、今もう一度この句について考えてみると、この句で描かれているのは、〈わたしの紹介(しょうかい)〉ではない。わたしがなんとなくそうしなければならないような気がしてそのときそのタイトルをつけたようにここで描かれているのは〈わたしの境界(きょうかい)〉である。《境界例》だ。

「むこうから白線引きがやって来る」。なにかが起こるかもしれないし、なにも起こらないかもしれない。しかし、やって来る以上、「線」は引かれるだろう。引かれてしまった線。わたしが何かしても何もしなくてもその引かれた線によってわたしの行為も変質してしまう。わたしはなにもしなくてもわたしは境界にたたされてしまっている。これは〈わたし〉の問題ではない。句の構造がつくってしまった〈境界〉の問題、そこからいかんともしがたく発生してしまう〈わたし〉の問題である。現代川柳はこうした症候的なわたしを発見してしまったのだ。

そのことに気づいていたのが小池正博さんである。『MANO』(13号、2008年3月)に小池さんは「樋口由紀子・鏡像の世界」という樋口由紀子論を書いている。そこで小池さんは樋口さんの句における「鏡像」をこんなふうに説明する。

  川柳の鏡に映る世界と自己の像は、次第に屈折を見せ、独自の変容をとげはじめる。…樋口由紀子は「川柳」という自己投影の鏡を手に入れたのである。けれども、この鏡面自体が一種の歪みをもっていた。そこには「私」の姿が映し出されていたが、鏡に映る像は日常性を超えて非日常的な姿を見せ始める。現実の投影というよりも鏡像自体がおもしろかったのである。
  (小池正博「樋口由紀子・鏡像の世界」『MANO』13号、2008年3月)

このとき小池さんのイメージの中には明らかに精神分析家ジャック・ラカンの鏡像段階のイメージがあるのだが、大事な点は現代川柳が鏡像的主体を手に入れたとき同時に〈傷ついたわたし〉も手に入れるということである。

たとえばラカンを知らなくても鏡をみてみるとよい。鏡のなかにはわたしがいる。しかしそれは左右が逆であり、また他者がふだん肉眼でみているわたしとも違う鏡のなかのわたしである。〈そこ〉、鏡にしか〈わたし〉はいないのだが、しかし、〈それ〉は〈この〉わたしではない。だとしたら、わたしの位相はどこにあるのだろう。わたしは分裂し、傷つき、裂けてしまう。鏡の前に立つとは、「むこうから白線引きがやって来る」をそのまま引き受けることになるのだ。

小池さんはこのあとこの鏡像イメージからキャラクター論へと移行していく(しかし斎藤環さんの一連の著作をみてもわかるようにキャラクターとは精神分析的な存在である)。精神分析的言説には深入りしていかなかったのだが、しかしわたしは十年前に小池さんが示したこの現代川柳と精神分析的言説のリンクをとても興味深いと思う。

とっても遠回りしたが、掲句をみてほしい。「軽症」と書いてある。「軽症だから道の真ん中を歩く」と。この句も症候事例的である。「軽症/重症」という境界が示され、どうじに、「真ん中/端」という境界が示される。

わたしは別に現代川柳が病的だと言いたいわけではない。そうではなくて、現代川柳は主体の構造が複雑であり、その複雑さを説明するには、日常的な言説だけでなく、精神分析学のような複雑な言説も参照する必要があるかもしれないということを考えているだけだ。ただし、精神分析学といっても臆することはない。みながみな、精神分析学を生きてしまっている。精神分析学はその意味ではずるい学問でもある。みんなが知らないふりをして知っていることを言葉にしているだけなのだから。

さいきんの樋口さんの句をみてみよう。

  空想のかたまりである赤チョーク  樋口由紀子
   (「姉の逆立ち」『MANO』20号、2017年4月)

『MANO』終刊号からの一句。「赤チョーク」は「空想のかたまり」として回収されてしまう。しかしその「赤チョーク」が「空想のかたまり」であるということを〈ちゃんと〉認識しているメタな視線もここにはある。「空想のかたまりである赤チョーク」を「空想のかたまりである赤チョーク」とメタ認識できている〈わたし〉。この〈わたし〉は《誰》なのだろう。この〈わたし〉はもはやキャラクターでもないように思う。キャラクターはメタ視線を有しないようにもおもうから(たとえば、のび太がじぶんがのび太であることを自覚したときのび太はのび太でいられるだろうか)。

樋口さんはこの『MANO』終刊号で「言葉そのものへの関心」という鴇田智哉さんの句集評を書いている。わたしはこの樋口さんのタイトルにひとつの答えがあるような気がする。「言葉そのものへの関心」。樋口さんの〈わたし〉とはイメージでも私性でも鏡像でもキャラクターでもなく言葉かもしれない。言葉のシステムから起動/再起動されるわたし。ラカンは無意識は言語のシステムとして構造化されているといった。

言葉から立ち上がるわたし。それは決して虚無的なわたしではない。ドライなわたしでもない。むしろ、言葉を使い言葉にとらわれ言葉をのりこえようとする切実なわたしである。

そしてもっとも肝心なことは、鏡があってもなくても、わたしは、いま、ここに、生きているということなのだ。

  生きているといろいろなことに出会い、突き当たる。それらの事を通じて「私」のなかに蠢きだした何か、それを無関係だといって、無視をして生きていくことなどはできない。…書かれたものには、その人が、その人の物の見方が現われる。私はそうでなければ表現もしくは表現者とは言えないと思っている。彼はこの世を諦めない。この世の不条理はどうしようもなく、受け入れがたく存在するが、根っこの部分では人を信頼している。けして諦めないでおこうと思っている。
  (樋口由紀子「言葉そのものへの関心」『MANO』20号、2017年4月)

          (「樋口由紀子・鏡像の世界」『MANO』13号、2008年3月 所収)

2017年4月27日木曜日

続フシギな短詩105[池田澄子]/柳本々々


  ピーマン切って中を明るくしてあげた  池田澄子

田島健一さんが『現代詩手帖』の連載「俳句のしるし」において池田澄子さんの俳句の特徴を次のように指摘している。

  氏の作風の特徴は、作者と読者の間に第三者的主体が想定される点にある。…口語独特の呼びかけは、直接読者へではなく想定された「誰か」に向けられる。…
  池田澄子は…〈他者〉に向けて「思い」を呼びかける。
   (田島健一「「読む主体」について」『現代詩手帖』2016年10月)

この田島さんの指摘した特徴は池田さんのピーマンの句を例にとるととてもわかりやすい。掲句の特徴は、「してあげた」にある。〈わたし〉が「誰か」に「してあげた」のである。「してあげる」でもない。それはちゃんとやってあげ〈た〉なのだ。すでに行為はおわっている。他者のためになにかをし終えたのだ。

池田澄子にとってピーマンとは他者を呼び込むための、オープン・スペースになっている。ピーマンを思い出してほしい。ピーマンの肉詰めというおいしい食べ物があるように、ピーマンの中は空洞になっている。そこに挽き肉を詰め込むこともできれば、発想を変えれば、他者を招き入れることだってできるはずだ。

ここで比較するためにこんな野菜の句をあげてみよう。

  玉葱を切るいにしえを直接見る  田島健一
   (『ただならぬぽ』ふらんす堂、2017年)

こちらはピーマンではなくタマネギを切っている。玉葱を思い出してみよう。玉葱はピーマンと違い、何層もの「葉」が肥厚し折り重なってできあがっている重層的な食べ物だ。空洞は、ない。語り手は玉葱を「切」ったあとで「いにしえを直接見」ている。まるで時をかける少女のように玉葱を切りながら時間の古層へとアース・ダイブしていく。

とくに「直接見る」の「直接」に注意したい。ここでは〈見る行為〉そのものがふだんのなにげなく見る行為とは少し変質している。語り手の〈見る行為〉そのものになんらかのダイレクトな変化が生じているのだ。

だからもし池田さんのピーマン句とあえて比較するなら、田島さんの玉葱句において他者化されているのは〈見る行為〉そのもの、すなわち〈見ているじぶん〉そのものである。

田島さんは池田さんの句を「想定された「誰か」に向けられる」と指摘したが、田島さんの句は「想定されなかった「自分」に向けられる」のだ。

他者に出会う方法はすくなくともふたつある。ひとつは、わたしの場所に他者を呼び込んでくること。ふたつめは、わたしじしんが他者になってしまうこと。

ちなみに掲句がおさめられた『シリーズ自句自解Ⅰベスト100 池田澄子』の最後に掲載されている池田澄子さんの文章のタイトルは「書きながら出会う」である。池田さんにとってピーマンを切ることも、書くという行為そのものも、他者との〈出会い〉につながっている。

ところで池田さんの句でわたしがずっと何年も考えている句がある。

  屠蘇散や夫は他人なので好き  池田澄子

どうして夫が「他人」であったら「好き」なんだろうとずっと考えていた。でも田島さんの時評を通してはじめてわかったような気がする。それは、そのまま、だったのだ。答えはこの句のなかにちゃんと書いてあった。池田さんの俳句は他者とそのつど出会おうとしている俳句なのだ。だから相手はいつでも他者でなければならない。他人でなければならない。夫がもし「他人」であるならば、夫が「他人」であり続けるかぎり、毎日夫に出会える。だから答えはそのままだったのだ。「他人なので好き」。答えは、「他人なので」だからだ。書いてあること、そのままだったのだ。長いあいだ考えていたけれど、やっと、わかった。そう、田島さんが、教えてくれた。

          (『シリーズ自句自解Ⅰベスト100 池田澄子』ふらんす堂・2010年 所収)

2017年4月25日火曜日

続フシギな短詩104[介護百人一首]/柳本々々


  いつの間に一人暮らしが三人になっているかと母不思議がる  辻田早代美

NHKの番組「ハートネットTV 介護百人一首2017」からの一首。

大阪在住の辻田早代美さん。母親に少し認知症があることがわかり、いまは同居しているという。

辻田さん夫婦と92歳の母親のきみこさんの暮らし。

早代美さんはNHK短歌をみて興味をもち、短歌をつくりはじめたという。

「思ってることをぱっと切り取れる」ことから早代美さんは短歌をつくっている。

わたしは、このフシギな短詩で、なぜひとは〈わざわざ〉短いことばを選択するのだろうと書いたことがあるが、しかし人生の形式によって〈短さの形式〉に出会うこともある。「思ってることを長々と書き連ねていく」形式では、「思ってること」が逃げていってしまう。母との同居生活は、そのつどそのつど〈新鮮なぱっとした思い〉がわきあがる暮らしだからだ。

母との暮らしのなかで、「ぱっと」「思ってること」を「切り取」ることに短歌は適している。

たとえば、介護で忙しく時間がとれないときでも、短歌ならうたうことができる。

すこし関係なくて、すこし関係あるのだけれど、わたしはよくアメリカの作家レイモンド・カーヴァーを思い出す。かれは、短編ばかり書いた。長編は書かなかった。かれは、ある時期まではブルーカラーであり、ある時期までは肉体労働者だった。そうしたかれの時間のとれない生活、しかもこどももいた生活のなかで、それでも時間を見つけて書いた彼の生活が短編作家としてのレイモンド・カーヴァーを用意したのではないかとおもうのだ。

なぜ、プロレタリア短歌というものがあるのか、なぜプロレタリア文学はたいてい〈短い〉のか、が、そう考えるとわかるような気がする。それは、〈短さ〉を選択したというよりは、生活が形式を選んだのだ(こんな問いを立ててもいい。なぜ志賀直哉は長編が書けて、芥川龍之介は短編ばかりだったのか。志賀直哉の暮らしと芥川龍之介の暮らしの〈格差〉)。

その意味で、短い形式としてのジャンルは、いつでもひとつの表現の民主化の道をきりひらいている。それはときに表現をめぐる階層差をうちくずす契機になるかもしれないから。

さいきん、川柳作家の川合大祐さんと電話しているときに「妄想幻聴かるた」について話した。ふたりでこれは、まるで、現代川柳じゃないかと、話し合った。ここにあるのは認識の根っこだと。ちょうど私は田島健一さんの句集『ただならぬぽ』を読みながら、ひとの経験の基底=古層についてかんがえていて、なんだかいろんなものが、リンクしていった。

かるた、という短い形式のジャンル。

ジャンルのなかをひとが出入りし、ゆきかっている。それは、長さや短さなどの形式のちがいによって、すこし、ひとの感じもまた、変わってくる。

ジャンル、ってなんなのだろう。だれが・どう・決めているのか。だれがなにを位置づけ、迎え入れ、追い出し、それがどうくつがえされたり、あらそわれたりしているのか。

夜のそんなに早くもない時間のなかで、わたしは電話を切った。

  隙ねらい外へ出たがる母と猫三年暮らせばよく似てきたり  辻田早代美

          (「ハートネットTV 介護百人一首2017 春編その一」NHK・2017年4月20日 放送)

2017年4月19日水曜日

続フシギな短詩103[加賀田優子]/柳本々々


  おにぎりをつくるみたいにわたしたちされてできたのかもしれないね  加賀田優子

『大阪短歌チョップ2』のテーマ「集」に投稿された加賀田さんの一首。

以前、このフシギな短詩において、俵万智さんと岡野大嗣さんのサンドイッチの歌を主体性をめぐって考えたことがあるが、この歌においてもおもしろいのは、あたかも「おにぎり」という集合体過密物としての食べ物が象徴するように、四つの主体性がおにぎりをつくるようにぎゅっぎゅっと「集」められていることだ(サンドイッチは「重」ねられた食べ物であるのに対し、おにぎりは「集」められた食べ物だ)。主体性を箇条書きしてみよう。

ひとつめの主体性は、「Xがおにぎりをつくる」

ふたつめの主体性は、「わたしたちはされた」

みっつめの主体性は、「わたしたちはできた」

よっつめの主体性は、「~かもしれないねとわたしは思う」

これらよっつの主体性がおにぎりのように一首にまとめられたのがこの歌である。しかもそれらはすべて主体性のレベルがちがう。ひとくちずつ食べるごとに味覚が微妙に変化していくおにぎりのように(おにぎりとはどこからどう食べるかで具材への接近の仕方が変わり味が変わる空間的な食べ物だ)。

それではよっつの主体性の内実をみてみよう。ひとつめは、超越的な主体がおにぎりをつくっている。このXには、「神様」が入るかもしれないし「親」が入るかもしれないし「遺伝子」が入るかもしれないが、そのどれでもない。なにか、世界のずっと上にある、巨大な主体である。

その巨大な主体性から、ふたつめの、「された」「わたしたち」という、「わたしたち」の受動的な主体性に主体がおりてくる。能動→受動と主体の移行が起きた。

そしてみっつめの「できた」「わたしたち」への変化。「できた」という能動でも受動でもない、生まれてしまったという生成。能動→受動→生成。

そして最後、この歌の結語の「ね」という問いかけ・同意の終助詞。〈わたし〉は《能動→受動→生成》のみっつの主体変化を一首にまとめて〈あなた〉に同意を求めるという「主体性」をさいごにみせた。

こうしたよっつの主体性が〈それとなく〉込められた〈主体おにぎり〉の歌がこの歌だとおもう。だからテーマ「集」にぴったりの歌だ。これはレベルの異なる主体性が「凝集」された歌なのだから。

わたしは、かつて、サンドイッチとは、危機的な食べ物かもしれない、と述べた。サンドイッチはつねに分離の危険をはらむから。

しかし、おにぎりは、どうだろう。おにぎりは、そうかんたんには、分離しない。むしろ、できてしまったものが、分離できなくなってしまったことのほうが、問題なのだ。「されてできた」ものを引き受けなければならないことが。

おにぎりは。

おにぎりは、生成変化のふしぎを、引き受ける食べ物かもしれない。

たとえば、おにぎりの生成変化未満の歌。

  鮭の死を米で包んでまたさらに海苔で包んだあれが食べたい  木下龍也


          (『大阪短歌チョップ2 メモリアルブック』2017年2月 所収)

2017年4月17日月曜日

続フシギな短詩102[まひろ]/柳本々々


 あいうえおかきくけこさしすきでしたちつてとなにぬねえきいてるの  まひろ 

ひとはたくさんしゃべることができるはずなのに、なぜひとはそれでもなお〈短いことば〉を選択することがあるのだろう。

その意味で、《短》詩は、どこかで、〈不能性(ごめんできないんだ)〉の文学でもある。

まひろさんの短歌をみてみよう。この短歌で伝達したいことは、「すきでした」の5音のはずだが、それが「あいうえおかきくけこさしす」の日本語の五十音にまぎれてしまう。そのために〈相手がよくわからない〉状況に陥ってしまう。いちばん肝心な「すきでした」の「す」が、「すき」の《す》なのか、「さしすせそ」の《す》なのかが、わからないからだ。

しかし、語り手は、「ねえきいてるの」と最終的にいらだちをみせた。わからなくしてわざわざしゃべったのに、だ。そして、この「ねえきいてるの」の「ね」さえもふたたび「なにぬねの」にまぎれてしまう。

だからこの短歌にはみっつの不能性がある。「すきでした」と〈そのまま〉言えなかったこと。「すきでした」を五十音の勢いのなかに隠してしまったこと。そしてそれから先のあなたへの問いかけもその五十音の流れのなかでそのまま言ってしまったこと。

このまひろさんの歌にあらわれた不能性は、安福望さんの描く絵のなかの不能性にも少し似ているな、と思った。

たとえば最近安福さんはよく宇宙を描いている。NEW PURE+でのギャラリートークのときに、「なぜさいきん宇宙が多いんですか」と宇宙の絵に囲まれながらきいたら、これはたまたま手持ちの画材の組み合わせでそうなったということである。宇宙の色があったから、宇宙を描いた。しかし、宇宙の色はたくさん使わねばならない。だから宇宙の色ばかりそのうち買うようになりました。画材店でその色がなくなっていかないか心配しています、と。

裏では宇宙のために泥臭く四苦八苦している安福望がいたが、ここでたとえば宇宙をよくモチーフにするクリスチャン・ラッセンと安福望を比較してもいいかもしれない。

ラッセンの描く宇宙は、宇宙そのまま世界である。宇宙即世界。ラッセンの描く宇宙はためらいがないし限定されていない。のびやかすきるほどに伸びやかである。海と一体化し、イルミネーションにあふれ、そこでイルカやシャチがはしゃいでいる宇宙である。

この宇宙には不能性がない。こう言ってよければ、この宇宙には可能性しかないのだ。

だから、ラッセンの絵がスピリチュアリティと結びつきやすいのも納得ができる。それは、《無限》の象徴でもあるからだ。幸福のさいげんの無さ。「毎日ぜんぶできるんだ」の世界。

(絵:安福望。「安福望個展・詩と愛と光と風と暴力ときょうごめん行けないんだの世界」案内パンフレットの表紙から。)

しかし、安福望の宇宙は限定的である。それはラッセンの海=宇宙とは対照的に、ふちどられた池=宇宙である。桜に囲まれた池のような宇宙。その池におとなしく舟を浮かべた人間と熊がいる。かれらは、はしゃいでいない。宇宙もかれらもどことなく抑圧されているようにも、みえる。安福望の宇宙は、まひろさんの「すきでした」のようになにかにまぎれてしまった不能性でもある。なぜかれらには表情がないのだろう。かれらはこれからどこにゆくのだろう。かれらにできることはなにがあるのだろう。

そのとき、どうして安福さんが、個展に「きょうごめん行けないんだ」などというずいぶんとネガティブな展示タイトルをつけたかが少しわかったような気がした。ラッセンだったらもっとポジティブなタイトルをつけるだろう。「プレシャス ラブ」「ドルフィン フリーダム」「エンドレス ドリーム」の彼の作品タイトルのような。愛、自由、夢。

まひろさんの歌にみられたように〈きょうごめん行けないんだ性〉は短詩にそれとなく〈もともと〉胚胎しているのかもしれない。ことばのすきまにまぎれこむようなかたちで。

ギャラリートークで、安福望さんが、学校に行けなくなった話をしていたのがきょうみぶかかった。なんの理由もなくある日ふっと学校に行けなくなってしまった。「きょうごめん行けないんだ」になった。でもあるとき、1995年だが、とつぜん、「みんながきょうごめん行けないんだ」という状況になった。そのときになぜか不思議とふたたび学校に行けるようになった。ふっ、と。その理由がなぜかはわからないけれど、と。

まひろさんの短歌では、「ごめん言えないんだ」のなかでもきちんと「すきでした」と言うことは言えている。いろんなことが言えなくなる状況のなかで、ふっと、言えてしまったこと。

不能性のなかで、それまでなかった強い可能性がうまれる場合がある。

阪本順治監督の映画『顔』を、思い出した。

          (『食器と食パンとペン わたしの好きな短歌』キノブックス・2015年 所収)

2017年4月14日金曜日

続フシギな短詩101[高屋窓秋]/柳本々々


 頭の中で白い夏野となつてゐる  高屋窓秋


川名大さんがこの句の「白」に関して文化的側面からみた興味深い指摘をしている。

川名さんはこの句が生まれた昭和初期のモダン都市下の政治・文化情況を素描した上でその多面的情況としてのポジティブ・ネガティブどちらをも同時にあらわす色が「白」だったとつなげている。「『白』は純粋なもの、明るく輝くものなどのコードとして用いられる一方、空虚感や虚無感など負のコードとしても用いられた」。

  円本ブーム・ラジオ放送・映画・レコード・デパートなどメディアを中心とする文化・芸術・娯楽などのモダンなポジティブな面。他方、三・一五事件(日本共産党弾圧)・世界恐慌による不況、就職難、農村の疲弊・治安維持法・満州事変・五・一五事件(犬養首相射殺)など政治経済のネガティブな面。こうした多面的なモダン都市の相貌を、小説家・詩人・歌人・俳人・川柳人たちは鋭敏な感性でとらえ、「白」や「青」として発光させた。
  (川名大「高屋窓秋『白い夏野』」『挑発する俳句 癒す俳句』筑摩書房、2010年)

 モダン都市にあふれる光やモダンな文化住宅の色として「白」は、関東大震災以後の新しい思潮や風俗としてのモダニズムを表すための象徴となる色だった。そしてそれは「小説家・詩人・歌人・俳人・川柳人」にまたがっていた。

  白い住宅
  白い
  桃色の貴婦人
  白い遠景
  青い空     北園克衛

  植物の感じがひじやうに白いから何もおもはずに眠らうとする  前川佐美雄

  白い手紙がとどいて明日は春となるうすいがらすも磨いて待たう  斎藤史

この短詩にあらわれた〈色〉を同時代の文化的状況と接続させる視点は、後の時代にくだっても有益かもしれない。

たとえばかつてこの「フシギな短詩」の「村上春樹」の回で取り上げた色の歌。

 赤、橙、黄、緑、青、藍、紫、きらきらとラインマーカーまみれの聖書  穂村弘
   (『ラインマーカーズ』小学館、2003年)

  緑でも赤でも黄色でも茶色でも青でも黒でもない鬼  伊舎堂仁
   (『新鋭短歌シリーズ18 トントングラム』書肆侃侃房、2014年)

  赤青黄緑橙茶紫桃黒柳徹子の部屋着  木下龍也
   (『きみを嫌いな奴はクズだよ』書肆侃侃房、2016年)

これらの歌には色がサイケデリックに叛乱しているのだが、「白」や「青」という〈単色〉がモダンをあらわす色だったならば、これらの〈色まみれ〉の歌は、そうしたモダンの状況が壊れ、ポストモダニズムとして価値観がばらばらになった文化状況の歌として読めるかもしれない。

モダンは合理性を、ポストモダンは非合理性を追求する。

「ラインマーカーまみれの聖書」は価値観が複雑化=多重化した人間の様相をあらわすだろうし、否定神学的にしか言い表せないような指摘不可能な色をもつ「鬼」はすでに「色」でなにかを象徴することが困難になったばらばらな時代を表すかもしれない。またそれを反転させた「徹子の部屋着」も同様に〈色のおびただしさ〉が逆説的に色のむなしさを描いている。

モダニズムが「頭の中」を「白い夏野」として単色であらわせるものだったとすれば、ポストモダニズム以降の短詩においては、〈色彩の叛乱〉という〈極彩色〉がわたしたちの「頭の中」をあらわしている。頭の中は極彩色の夏野となっているのだ。

しかし極彩色とは穂村さんの歌にいみじくも「きらきら」と書かれたようにそれは〈無色〉の〈光〉に近い。つまり、極彩色とはもしかしたら、なんの色でもないということかもしれない。ポストモダニズムが、なんの価値でもないことが、価値であったように。

光。現在のわたしたちは、光を、ある危機的な枠組みのなかで、意識しはじめているように思う。モダニズムの「白」は、光の明暗としての両義性があった。川名さんはそれを「溌剌とした発光と虚無的な発光」と呼んだ。しかし、いまのわたしたちにとって「光」とは、もう、溌剌さや虚無をも越えた《危機的》な発光である。

  原子炉がこわれ泉は星だらけ  田島健一
   (『ただならぬぽ』ふらんす堂、2017年)

  (「高屋窓秋『白い夏野』」『挑発する俳句 癒す俳句』筑摩書房・2010年 所収)


2017年4月9日日曜日

フシギな短詩100[目次]/柳本々々

【1、御中虫さんと揺れ
2016年の〈今〉も、わたしたちの〈すべて〉の関さんは、揺れる。

【2、北大路翼さんと乳輪
俳句は、乳房に、たどりつけない。

 【3、イイダアリコさんとゴジラ
わたしたちは俳句を通して〈初めてのゴジラ〉や〈初めての乳輪〉に出会う。

【4、松本てふこさんと希望
語り手は逮捕されるかもしれない。でも、状況はシリアスではなく、「うららか」だ。これから「出頭」をするというのに、ここにはフシギな希望がある。

【5、石原ユキオさんと災難
ひしめきあったペンギンたちをひとめみてわかるのは、それが〈もふもふ〉しているということである。たぶん、あなたがそこに頭からつっこめば〈もふもふ〉するだろう。わたしも。

【6、関悦史さんとテラベクレル
語り手はいまや季語をあんのんと使える世界には暮らしていない。季語を使い、季節のなかに身を置こうとすると、〈テラベクレル〉をも抱えこまざるをえない世界。それが語り手が身をおく春である。

【7、中山奈々さんと外傷】  
「傷って消すもんじゃないんだよ。生きられるものなんだ」 私は、もっと、床の一部になる。 

【8、宮本佳世乃さんと心臓
ひとりにひとつずつの心臓、ひとりにひとつずつの手、ひとりにひとつずつの足、ひとりにひとつずつの内臓、ひとりにひとつずつの身体、ひとりにひとつずつの身体の《仕組み》。わたしたちの身体は、桜餅のように、驚くほど律儀だ。

【9、佐藤文香さんと恋愛
恋愛とは〈俳句〉に疎外される〈わたし〉のことだ。

【10、小倉喜郎さんと多忙】  
だからこんなふうにも思う。語り手は身体を完成させるために「急」いでいるのかもしれないと。それならば私にもわかる。私もきっとこう言うはずだ。「急がねば」。

【11、榮猿丸さんと抱擁】  
今度抱擁するときに少しだけ確かめてみてほしい。いま、〈僕ら/二人〉は〈どこ〉で〈いちゃいちゃ〉し〈抱擁〉しているのかを。

【12、長嶋有さんと不倫】  
わたしたちはときどき「すごい不倫」の話をきく。わたしたちは「すごい不倫」のわきでなにげなく買い物をしたり、ブランコに乗ったり、河のほとりでたたずんでおしゃべりをしたり、電車のなかでずっと読みかけのままだった文庫本を読み終えたりする。でも「すごい不倫」はいつもそこここにある。

【13、喪字男さんと混入】  
お花見のなかで、語り手は「乳房」からいま・ここの感覚をとらえようとしている。そこでは誰それがいるということが問題になるのではなく、どのような乳房があるかが問題に、なる

【14、久保田紺さんと隙間】   
いま、〈大好き〉を通して〈未知〉にであう

【15、なかはられいこさんと回避】  
わたしたちは、わたしたちがいつも語ろうとしない〈回避〉のなかに《こそ》、棲みつづけている。

【16、中澤系さんと理解】  
「誰もが未来のどこかの地点で、世界から「理解できない人は」と告げられることになる。「下がって」と」 

【17、リチャード・ブローティガンさんと俳句】  
「森の中をこっそりと動いてゆくオオカミのように、書くということの、ひとりぼっちの道すじをたどりつづける勇気」 

 【18、野間幸恵さんと水
たえず〈ここ〉になることのできない〈ここ〉がわたしたちのなかに〈ある〉。水、のような。

【19、米川千嘉子さんと主人公
どんなに「死のうと思って」も、たえず、歌を、言語を、顔をとおして〈わたし〉に複数性を与えること。もうひとつの生を。どんなに生が行き詰まっても、わたしたちはわたしとわたしの往還をつづける限り、どうにか、なる。

【20、加藤治郎さんと崩壊】  
わたしたちは、創造しなければならない。新しい廃墟で。

【21、東直子さんと桜桃忌】  
「私の大好きな、よわい、やさしい、さびしい神様。世の中にある生命を、私に教えて下さったのは、あなたです」

【22、泉紅実さんとあんかけ】  
ちゃんといちゃいちゃしてみよう。

【23、牛隆佑さんと二人暮らし
凹凸の少ない町で、凹凸のような突然の「そして」から〈ふたり〉の暮らしは始まった

【24、岡野大嗣さんと祈り】  
それは〈きれいな鼻歌〉の、終わりのない、〈とぎれとぎれ〉の、たったひとつの〈長い歌〉としての祈り 

【25、木下龍也さんと幽霊】  
どれだけ〈わたし〉が死んだとしても、まだやってくる生のたくましさと愛おしさ。「おめめ」、この愛すべきもの。

【26、兵頭全郎さんとポテチ】  
意味に負けないよう、燃え尽きないよう、くるくると循環し続けること。無限のポテチ(∞)と共に。  

【27、金原まさ子さんとシャウト】  
「折檻部屋」を出たり入ったりする。真顔で。すました顔をして。折檻される季語のシャウトを目撃しながら。ああ。世界はなんて〈初めて〉ばかりなんだろう、とおもう。

【28、飯田有子さんとたすけて】  
「たすけて」ほしい主体が「たすけて」と叫んでゆくそのプロセスのなかで壊れていく。たすけて

【29、柳谷あゆみさんとマリオ】  
たった〈一度〉しか生きられないこと。わたしたちのすごくシンプルな生のリアリズム。

【30、田島健一さんと奥だらけ】  
「もはや誰が不審者なのかすらわからない」全方位的に主体が解体される場所。

【31、飯島章友さんと巨眼
でも誰かはわからない。誰かがいるのはわかるけれど。そして、その誰かと、ときどき、ふっと、眼が、合う。

【32、車谷長吉さんと崖
「頭の中には崖があるのね?」「そうや、崖があるんや」

【33、川合大祐さんと野比のび太
のび太とわたしはタンジールの大門で別れた。たしか、わたしたちは「さようなら」もいわなかったように思う
 
【34、外山一機さんとドラゴンクエスト
ここは ゆうきをためされる しんでんじゃ。 たとえひとりでも たたかうゆうきが おまえにはあるか? 

【35、中家菜津子さんとフェルナンド・ペソア】  
あらゆる詩はいつも翌日に書かれる。

【36、吉田類さんとロラン・バルト
少しでも希望があるのならおまえは行動する。希望はまったくないけれど、それでもなおわたしは……あるいはまた、わたしは断固として選ばぬことを選ぶ。漂流を選ぶ。どこまでも続けるのだ。

【37、北山あさひさんと廃屋】  
結婚をひとりでしたい。

【38、瀬戸夏子さんと相思相愛】  
「デニーズが消えたとき、どんな感じだった?」「ものすごく光ってた。きらきらしてた」

【39、夢野久作さんと犯罪】  
なぜということなしに殺したくなるのです。あとからついて行きたくなるのです。

【40、佐藤りえさんと人外】  
「まず最初に幽霊(妖精やら異星人や鶴)という不思議キャラ設定が紹介され、そこから二人の関係性が始まるのがサブカル的「人外」の基本セオリーなのだ」  

【41、松尾芭蕉さんとゾンビ】   
芭蕉ゾンビは順応するのでも抵抗するのでもない。増殖するにしても生成変化することも進化することも退化することもない。芭蕉ゾンビにはいかなる解決もカタルシスもない

【42、正岡豊さんとまばたき】  
つまり、〈終わってしまった〉のではなく、〈はじまってしまった〉こと。それが《ほんとうに》ひとがあきらめることのかたちなのではないか。

【43、石川啄木さんとだらしなさ】  
縦の文芸にあらわれる〈だらしない〉横の姿勢の系譜。それはなんなのだろう。

【44、穂村弘さんと魔術】  
夢の中では、光ることと喋ることはおなじこと。お会いしましょう

【45、荒木飛呂彦さんと五・七・五】   
五・七・五は自分の数でしか割ることのできない孤独な数字……わたしに勇気を与えてくれる

 【46、小坂井大輔さんと三十五歳問題】  
芥川龍之介にはおそらくいなかった「死ぬなと往復ビンタしてくる」先生。2016年の35歳は、奇妙に〈ひらかれた場所〉に、いる。

 【47、笹井宏之さんとえーえん/永遠】  
かつてジャック・ラカンは言った、「えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい」

 【48、ながや宏高さんと覚悟】  
この連作の水は、このわたしに覚悟を要請してくる水だ。境界を越えるのか、越えないのかの、覚悟を。おまえはどうするのか、と。

 【49、壇蜜さんと友だちってなんですか】   
手放せることが出会いなのかもしれない。なんか、あ、手放していいんだなって。ともだちってなんですかってきかれたら、たぶん、手放せることだなって。

【50、ミムラさんと音のとげ
短歌は〈音のきもちよさ〉だけでなく〈音のきもちわるさ〉も考えることができるジャンルかもしれない。〈きもちよさ〉だけでなく〈きもちわるさ〉に敏感であるためにはどうしたらよいのか

 【51、斉藤斎藤さんと歩くしかないように歩いた
船のなかでは手紙を書いて星に降りたら歩くしかないように歩いた

【52、村上春樹さんと若山牧水】  
でも青がないんだ、と僕は小さな声で言った。そしてそれは僕が好きな色だったのだ。  

【53、岩田多佳子さんと世界に味方せよ】  
お前と世界のたたかいでは、世界に味方せよ──。  

【54、小津夜景さんとぷるんぷるん】  
純粋にはなれない。何も捨てることもできない。忘れることもできない。叶うこともない。ぷるんぷるんは切迫する。そしてぷるんぷるんは、たぶん、そのたびごとにがまんができないという。

【55、石部明さんと嘔吐するシン・ゴジラ】  
ゴジラは「かがんで蝶を吐」いている。美しいスペクタクルのような蝶を吐きながら、ゴジラは「生きるか死ぬかに関わる痙攣にして闘争」をしている。

【56、雪舟えまさんとゆれるぽるぽる】  
きみは何でもできるのにここにいる

【57、西原天気さんとソファー】  
これからどんな素晴らしく、くだらなく、崇高で、過激で、だるく、斬新で、陳腐で、軽やかな「身に覚え」のあってないようなことがやってくるのか

【58、田村ゆかりさんと8音】  
わたしたちはときどき寝込みながらもいっしょうけんめい生きてきた。

【59、森三中・大島美幸さんと夏井いつきさん】  
「なぜわたしではないのです」の世界から「夫は他人なので好き」の世界へ

【60、平岡直子さんとライオン】  
そのライオンさえも見つけられなかった者たちがいたこと。それは力に触れ得なかった者たちがひとりふたりさんにんと無力でありながら生きていくための生き延び方についての話。

【61、新海誠さんと小野小町】  
世界から忘却されたふたりだけれど、お互いは、光っているから、その〈運動〉によって、それとなく、わかる。わかってしまう。わかってしまった。だから、問いかけた。「君の

【62、舞城王太郎さんと木下龍也さん】  
絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶
 
【63、熊谷冬鼓さんと茹であがるパスタ
茹であがるパスタ以上でも以下でもない場所にたたずんで未来から次から次へとおとずれる〈あなた〉のことを待っているのだ。ことば、茹でながら。

【64、フラワーしげるさんと柿本人麻呂
なにを記憶し、なにを忘れようとしたか

【65、リービ英雄さんと言葉の興奮
わたしは、いま、こうふんしている。

【66、時実新子さんと産もうかな
きょういちにちをたまたま生きてみよう
 
【67、小池正博さんと兎カニバリズム】  
これからは兎を食べて生きてゆく

【68、俵万智さんと卵サンド】  
ともかく、サンドイッチは危機的な食べ物かもしれない。

【69、本多真弓/本多響乃さんとひとを好きになる
クリスマス前なので「ひとを好きになる」ということについて少し考えてみよう。

【70、吉田戦車さんと萩原さん(仮名)】   
つまり、なんなのか。

【71、松岡瑞枝さんとさようなら
(2016年の最終回)  Oh, Mama, can this really be the end もといこんにちは

【72、宮沢賢治さんとキノコ短歌】  
新年キノコ始め。私にとってもはじめてのキノコ感想文。キノコをみて泣いているひとがいる。いったい、どうしたのか。そして私は、いったい、どうなるのか。

【73、TVのCMと柄井川柳】  
前回はキノコの食べ過ぎでこんらんしてしまい、72回のところを誤って73回と記したが、今回がほんとうの73回である。今は、落ち着いている。

【74、渥美清さんと暗殺】  
ローソクをもってみんなが離れてゆく。むほん、だ。 

【75、昔昔亭桃太郎さんと石川豚木(ぶたぼく)
「知能テストです。『夜明け前』を書いた作家は誰ですか」「それは簡単です。2人います。島崎さんと藤村さんです」(私の頭はときどきふわふわしている) 

【76、八上桐子さんと時実新子
なにを見るか、ではなくて、まぶたを閉じた上で、なにを見ないことで・見ようとしたのか。決意したのか。

【77、宝川踊さんと帰らない力士
すこしだけ笑って、そのまま帰ってこなかった力士。いったい、なにがあったのか。力士のきもちになってかんがえてみた

【78、伊藤左千夫さんと太宰治さん】  
元気で行こう。絶望するな。では失敬。  

【79、望月裕二郎さんと時をかける少女】  
玉川上水水流循環動力生成装置とは、いったいなんなのか

【80、R15指定と悲しいセックス】  
「入れたら終わりよ。そういう遊びなんだから」

【81、尾崎放哉さんと捨てる
「あんたは帰れんよ。帰れる道理がなかろうがさ。これまでだって捨てられんかったんだ。あんたは捨てた気かしらんが。一度捨てたら二度は捨てられんよ」

【82、新宿歌舞伎町俳句一家屍派と北大路翼さん
あるきつづける。生きるために。生きないために。春の通路を。

【83、筒井祥文さんとやって来た猫
こんな手をしてると猫が見せに来たわけだが

【84、鳥居さんとなんで
なんで生きるの。なんで死ぬの。

【85、くんじろうさんとムーミン
よその家を訪ねるのです。人に会いにいくのです。一日中お喋りをして愉快に騒いで忙しく家から出たり入ったりして薄気味の悪いことなんて考えている暇のない人たちに会いにいくのです

【86、永井一郎さんと声
私にはナウシカしかありませんでした。どんなセリフもその内容は「ナウシカを守り抜く」ということでした。ミトにとっても私にとっても「ひめさまー」がいちばん重要なセリフでした。

【87、富野由悠季さんと戦争なのよね
戦線から遠のくと楽観主義が現実に取って代わる。そして最高意思決定の段階では現実なるものはしばしば存在しない。戦争に負けているときは特にそうだ。

【88、丸山進さんと私は変ですか
あなたから見ても私は変ですか

【89、竹井紫乙さんと痛い
傷つくと、会える。

【90、堂園昌彦さんと創造されるゆっくり
わたしたちは〈ゆっくり〉をつくらなければいけない。
 
【91、加藤知子さんと関悦史さん
少し、ずるくて、かっこいい者とは。

【92、夏石番矢さんとコカ・コーラ
内面化とは、それに気づかなくなることなのではないだろうか。ナイこと。内(ナイ)として、気づかないこと。「内面の吸収を抑え、内面の排出を増加」する特定保健用食品コーラ。

【93、ドラマ『相棒』と歌人
愛は時に人に勇気を与えます。しかし愛は時に人を臆病にもします。/杉下右京

【94、正岡子規さんと田島健一さん
脳のなかがもうもう、ぼんやり、座ったまま眠るでも覚めているでもない、私が言ったわけでもなくひとが言ったわけでもなく、ただ、カエル、耳に響いてくる、それはもう俳句だった。

【95、うんこ漢字ドリルと現代川柳】  
「うんこにも羽が生えたらいいのに」「うん、そうだね」

【96、石田柊馬さんと妖精大戦争】   
妖精は酢豚に似ている絶対似ている妖精は酢豚に似ている絶対似ている妖精は酢豚に似ている絶対似ている妖精は酢豚に似ている絶対似ている妖精は酢豚に似ている絶対似ている

【97、大川博幸さんとあやふや
私はぼんやりした猫である。気づいたときはあやふやだった。ぼんやりしたひとに飼われて、二人で、あやふやな暮らしを送っていた。彼はいつもぼんやり編物をしぼんやり花に水を遣った

【98、谷川俊太郎さんと岡野大嗣さん
人類は小さな球の上で眠り起きそして働きときどき火星に仲間を欲しがったりする

【99、明恵上人さんとんんんんんんん】 ○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

【100、目次と100の不思議
「アイザック・ディーネセンはこう言った。私は、希望もなく絶望もなく、毎日ちょっとずつ書きます、と。いつか私はその言葉を小さなカードに書いて、机の横の壁に貼っておこうと思う」

2017年4月6日木曜日

フシギな短詩99[明恵上人]/柳本々々


あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月  明恵上人


定型詩は定型がある以上、定型を満たすまでしゃべり続けなければならない。以前このフシギな短詩で富野由悠季さんの富野ゼリフをめぐりながらそんなことを書いた。

丸の内の出光美術館で江戸時代の禅僧・仙崖(せんがい)による禅画を展示した「大仙崖展」をみたことがある。仙崖というひとは〈ゆるかわいい禅画〉として再発見されていった面があるが、展示には筆で大きく○を描いた円相の軸もかけられていた。いろんな○があったのだが、それをみていてちょっと思ったのが、《他にもたくさん描けるものがあったはずなのに○しか描かなかったのはどういうわけなんだろう》ってことだ。

円相っていうのは○として完全な悟りをあらわす。だから余計なものをそこに描いてはだめなのだが、むしろ大事なのは○なのではなくて、そこにほかにも描けたはずなのに・描かないということなのかなと思ったのだ。

絵と短歌というのは実は形式においてよく似ている。それは絵がかならず額や枠やコマを必要とする点が、短歌の定型と形式的に類似するからだ。絵や言葉の意味を決めているのは、実は絵や言葉そのものでなくて、《枠=定型》という形式そのものかもしれないということ。

鎌倉時代前期の僧である明恵上人の掲出歌。定型で29音使えたはずのところをほぼ「あかあかや」で使い切ってしまっている。それ以外も語れたはずなのに、語らなかったこと。もしかして定型において円相を描くのだとしたら《これ》なのかなと思った。「月」という形の○も際だっている。

歌人の橋本喜典さんが『自然と身につく 名歌で学ぶ文語文法』という著書のなかでこの歌を引いてこんなふうに解説している。

  この「あかあか」は「明明」で明るく澄みきった月を詠んでいます。戯歌(ざれうた)のように言われますが、無限・夢幻の感のただよう宗教性が私には感じられるのです。
  (「副詞」『自然と身につく 名歌で学ぶ文語文法角川書店2016年)

橋本さんがどうしてこの歌に「宗教性」を感じたのか。それはこの歌が「あかあかや」を繰り返すことによって言葉=意味の領域を離脱し、無限に円環する○の領域に入ったからではないか。それは言葉=意味=分節の支配しない主客のない領域だ。ただ○だけが茫漠と月のように浮かぶ領域。もちろんその○に意味などない。あってもなくてもどうでもいい○だ。そもそもそれを認識する〈わたし〉などそこらじゅうに溶け込んでいないのだから。

明恵上人の質感に似た現代短歌を引用してみよう。

  んんんんん何もかもんんんんんんんもう何もかもんんんんんんん  荻原裕幸
  (『あるまじろん』沖積舎、1992年)

なぜ語り手は「んんんんん」で埋め尽くさなかったのだろう。「何もかもんんんんんんん」なら「何もかも」さえ語らずに「んんんんん」で埋め尽くせばいいではないか。ところが語り手はそれをしなかった。「何もかも」が「何もかも」と繰り返されている。ここがこの歌の《ポイント》なのでないか。「んんんんん」ではなくて。

「んんんんん」と「ん」を繰り返していくうちに、「何もかも」という有意味的=構造化できる最小限の統語意識さえも《繰り返し》の渦のなかに巻き込まれ「何もかも何もかも何もかも何もかも何もかも」と新たな渦の生成に巻き込まれてゆく。「何もかも」というかすかな意味性さえも「ん」の螺旋のなかで意味をうしなっていく。この短歌はそうした《巻き込まれ》を実況中継的に描いたものなのではないか。

円相という完全な悟りには実は《あと》がある。悟りが悟りとして《終わった》と思ったら、それは《悟り》になりえない。《悟り》と勘違いしているにすぎない。《悟り》には終わりが、ない。だから、悟りのプロセスを描いた十牛図には、円相のあとにさらに絵が続いてゆく。○で終わりではないのだ。終わらないことをうけいれられることこそが、悟りだから。

わたしはその「○で終わりではない」をこの「んんんんん」の歌に見いだしたいと思う。《巻き込まれ》ながら、《巻き込み返し》ながら、「んんんんん」の大海のなかで悟りかけながら・悟りきらずに生きてゆくこと。そこにひとつの「難題をすり抜けていく」希望を見いだしたいと思う。

  難題をすり抜けていくんんんんん  吉田吹喜


          (「副詞」『自然と身につく 名歌で学ぶ文語文法』角川書店・2016年 所収)





2017年4月2日日曜日

フシギな短詩98[谷川俊太郎]/柳本々々


  建物は実にかすかに揺れているそのことだけに気がついている  谷川俊太郎


短詩に対しては谷川さんのこんな発言がある。

  七・五調のもっている日本的な情感というのに、僕はちょっと不感症的なところがあって、俳句止まりなんです。短歌になると、もう、あの演歌みたいな調子が心情的にちょっとだめなんです。七・五調で書かれたものというのは、やっぱりどうしても我々から見ると、アナクロニズムなんですよ。だから、七・五調をうまく取り入れながら、それを崩して、日本語の調べというものをなにか探してきたというのが、私の詩の書き方だと思いますね。
  (谷川俊太郎『心理臨床プロムナード-こころをめぐる13の対話』遠見書房、2015年)

この発言には、「七・五調をうまく取り入れながら」も「それを崩」しながら独自の「調べ」を立ち上げていくという谷川さんの〈関係的リズム観〉がよくあらわれている。「七・五調」をただ「アナクロニズム」として否定するのでもなく、取り入れつつも・崩し、調べを探求しつづける。

瀬尾育生さんは『日本文芸史-表現の流れ 第八巻・現代Ⅱ』(鈴木貞美編、河出書房新社、2005年)において谷川俊太郎さんの詩の特徴を、

  透明で無限定なひろがりとしての〈コスミック(宇宙的)なもの〉と、親和的な他者たちがかたちづくる〈ソシアル(社会的)なもの〉とが交叉しあう神話的な秩序が谷川俊太郎の世界をかたちづくる。

と述べている。「人々との伸びやかな関係の中にある肯定的な生」が谷川俊太郎さんの詩のダイナミズムだという。ここにも先ほどのような関係を切断するのではなく育みながら考えていく生のあり方が記述されている。

  人類は小さな球の上で
  眠り起きそして働き
  ときどき火星に仲間を欲しがったりする
  火星人は小さな球の上で
  何をしてるか 僕は知らない
  (或いは ネリリし キルルし ハララしているか)
  しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする
  それはまったくたしかなことだ

  万有引力とは
  ひき合う孤独の力である

  宇宙はひずんでいる
  それ故みんなはもとめ合う

  宇宙はどんどん膨らんでゆく
  それ故みんなは不安である

  二十億光年の孤独に
  僕は思わずくしゃみをした
   (谷川俊太郎「二十億光年の孤独」『谷川俊太郎詩選集1』集英社文庫、2005年)

谷川さんの有名な詩。「孤独」と詩は題されながらも〈もとめ合う力〉を軸に詩は展開されていく。

「人類」は「仲間を欲しがったり」し、「火星人」の「ネリリ」「キルル」「ハララ」という異言語に想像をめぐらす。「火星人」の言葉を想像し言語的関係を持つことで、「火星人」の立場から〈こちら側〉の〈わたしたち〉をみつめなおし、「人類」と「火星人」のきもちどちらもを複合させる「万有引力」という発想にたどりつく。

「万有引力」こそ、最強の〈関係〉のちからになる。

しかしその最強の〈関係〉が手に入るやいなや、「不安」があらわれ、「僕」という孤独な主語が最後にやってくる。この詩が〈孤独〉なのは、「僕」という主語を〈最強の関係〉の後に〈発見〉してしまったからだ。だから「僕」は「くしゃみ」をする。「くしゃみ」は、歌うことや話すことや手をつなぐことや抱き合うことと違い、たったひとりでしなければならないアクションだから。

こうした〈関係〉と〈孤独〉の「ひき合う」ちからこそ、谷川さんの詩のダイナミズムかもしれない。それは、どっちでもない。「みんな」の詩でもあり、「僕」の詩でもあるのだ。

掲出歌も、そうだろう。「建物は」「ゆれている」のだけれど「実にかすかに」ゆれているので、それは誰にも気づかれない。ここには「建物」の〈孤独〉がある。しかし「建物」は「ゆれ」ることによって、〈みんなの力〉のなかにも組み込まれている。建物を支える土台そのものもおそらくゆれているのだから、それはその土台にたつものたちにも感じられるはずだ。

でも短歌の下の句では「思わずくしゃみを」するように孤独なアクションがつづられる。「そのことだけに気がついている」と。「建物」はほかのことには気がついていない。ただ「ゆれている」ことだけに「気がつ」くという〈認識の孤独〉が語られる。でも、「ゆれ」は〈万有引力〉としては、どこかへはつながるだろう。

ところで谷川さんの詩と歌の意味内容としての〈ゆれ〉をみたが、この〈ゆれ〉の感覚を形式=定型の生命感覚として実践する歌人に岡野大嗣というひとがいるように、おもう。

  ひやごはんをおちゃわんにぼそっとよそうようにわたしをふとんによそう  岡野大嗣
   (「わたしだけのうるう」『大阪短歌チョップ2 メモリアルブック』2017年2月)

  ひやごはんを/おちゃわんにぼそ/っとよそう/ようにわたしを/ふとんによそう

わたしなりに区切ってみたが、67577になっている。だから実は定型からほとんどぶれていないのだが、6音の不安な出だしから「ぼそ/っと」で定型がまたがっていくあたりで不安が増幅される。定型のゆれていく使用によって、「ひやごはん」的生のありかたが醸成されている。語り手は「ひやごはん」のように「ぼそっと」ふとんに転がる。ゆれながら。この歌をみているとこの「ゆれ」は谷川さんの建物のように定型が「そのことだけに気がついている」ものなんじゃないかと思えたりもする。

かっちりし切れない〈ゆれ〉というのはなにかの感覚を呼び起こすかもしれない。それがなんなのかわたしにもわからないけれど。定型をゆさぶったり定型からゆさぶられたりするのはどういうことなんだろう。そのヒントが定型と組んず解れつしている谷川さんや岡野さんにはあるように思う。しかし今回はいったいどうしたんだと言われるようなゆれた記事を書いた気がしている。まあ、いいんだけれど。

  ほほえみに私自身も気づかない落ちたりんごが腐り始める  谷川俊太郎

  歌詞わからないまま好きな洋楽のそういう良さの暮らしをしたい  岡野大嗣

          (「生誕について」『詩を書く なぜ私は詩をつくるか』詩の森文庫・2006年 所収)