2017年3月16日木曜日

フシギな短詩93[ドラマ『相棒』]/柳本々々


  愛は時に人に勇気を与えます。しかし愛は時に人を臆病にもします。  杉下右京


*『相棒』第3話「晩夏」と『鉄鼠の檻』のネタバレがあります。

テレビ朝日のドラマ『相棒』第3話「晩夏」には三田佳子演じる女流歌人・高塔織絵が出てくる(なぜ〈女流小説家〉という偏差ある名称はもう使われなくなったのに〈女流歌人〉はいまだに使われるのだろう。ここには短歌とジェンダーをめぐる問題があるような気がする)。

ここでなぜ「歌人」という設定が事件に必要だったのだろうかと考えてみるのはおもしろいかもしれない(おもしろくないかもしれないが)。「歌人」という属性を設定することでドラマ『相棒』にはどのようなことがもたらされるのだろう。

まずひとつは事件、殺害の動機が〈才能〉をめぐる問題になるということだ。

歌人・高塔織絵は20代の初めから注目され、歌壇の賞賛を浴び、数々の受賞を得て、結社の主催を引き継ぐが、その彼女の〈才能〉をめぐって実は殺人が起きていたことが最後にわかる。

それは彼女が師事していた歌人・浅沼幸夫(小林勝也)によるものだった。彼女が結婚して世俗にまみれ才能をつぶさないように彼女の愛するひとを毒殺したのだ。

ただやはり最後にわかるのだが、それは師匠・浅沼の表向きの理由で、本当はただの嫉妬だったらしい。師匠という立場であるにも関わらず好きになってしまって嫉妬で殺人をしたのだが、でも実は両想いだったから無駄な嫉妬だったらしい。けれどその両想いに気づいたときは相手である高塔は死んでいた、という皮肉な展開になっている。今回の事件の教訓はこうだ。気持ちはちゃんと伝えよう。

属性は、事件の殺人の動機となることがある。たとえば京極夏彦さんの『鉄鼠の檻』を思い出してもいいかもしれない。あれだけ分厚い本で、禅の蘊蓄がこれでもかと盛り込まれているが、殺害の動機はいたってシンプルだ。それは、自分は悟れないにも関わらず自分を差し置いて悟っていったひとたちがうらやましかったから。禅僧でありたい、というアイデンティティをめぐる殺人だったのだ。

事件における属性というのは、その属性からわきあがる才能のあるなし、そこから生まれる嫉妬感情をもたらす。それが殺人の動機になってくる。

ただ、表現の才能だけだったら無理に歌人でなくてもいいように思う。

今回の事件はもうひとつ短歌特有の仕掛けがあった。歌会のテーマを「背」と決めて高塔は死んでいくのだが、その「背」のために高塔が遺した歌があった。

  罪あらば罪ふかくあれ紺青の空に背きて汝(なれ)を愛さん  高塔織絵

罪を犯したっていいよ。一緒に背負ってあなたを愛するよ。という歌だと思うのだが、「背」は『万葉集』などの古語では「夫、兄弟、恋人など親しい男性」をあらわす。だからここの「背きて」の「背」にはそういう愛するひとへの情愛もたぶん埋め込まれている。ただその「背」が「背き」として使われているのがポイントだと思う。

結局この事件は愛がすれ違い続けていた。お互いに両想いでも、すれちがっていた。いくら「我が背」と思っても、その愛はつねに〈背反〉していくかたちになった。そういうすれ違いがポイントの事件だった。

短歌には「懸詞」(ダジャレのようなもの)という技法があるように、二重の意味を埋め込むにはもってこいの表現である。しかもそれは〈言わないで・言う〉ことができる。

「背(愛されるわたし)」に「背く」ことになった浅沼はこの歌を一生記憶したまま生きて死んでいくだろう。彼の「背」が背負い込んだ歌はあまりにも重いはずだ。

この回は、珍しく〈無音〉で終わる。スローになり、音が完全に絶え、終わる。短歌という音をめぐる物語は完全に終わったのだ。無音の世界。無音のエンディング。歌人が終わるということは、音の終わりの世界に向かうことかもしれない。そう、おもった。


          (「晩夏」『相棒』テレビ朝日・2011年11月2日 放送)