2017年2月28日火曜日

フシギな短詩88[丸山進]/柳本々々


  あなたから見ても私は変ですか  丸山進

現代川柳を考えようとしているときにいつも丸山さんの川柳は私にとってのひとつの指標になっている。

今回の記事はこの文にふたたびかえってくることができたら終わりにしようと思う。

現代川柳を考えようとしているときにいつも丸山さんの川柳は私にとってのひとつの指標になっている。

分水嶺と言ってもいいかもしれない。

なんの?

詩と社会の境界線である。

川柳には大きくわけてふたつある。世間の斜め=トホホな感覚をユーモラスに描いたサラリーマン川柳と呼称されるものと、世界の事物を問い直そうとする境界=幻想的な詩性川柳である。

基本的に「川柳を知っていますか」ときくと、だいたいのひとは「サラリーマン川柳」を思い浮かべる。詩性川柳があることは知られていない。私も数年前までは知らなかった。これは〈知らないから知らない〉のではなく、〈知っていたから知らなかった〉のである。だって川柳といえば、サラリーマン川柳に決まってるじゃないかとはじめから思いこんでいたから。

サラリーマン川柳と詩性川柳。これらは一見、異なるもののように思われる。そこにはたしかな境界線があるようにもみえる。

ところが丸山さんの川柳はサラリーマン川柳と詩性川柳の境界線をこわしてくる。その分節に息づく〈なにか〉を描こうとするのが丸山さんの川柳なのではないかと私は思っている。

つまり丸山進の川柳を読むということは、サラリーマン川柳と詩性川柳はほんとうにそんなにはっきりと分けられるものなんですか、と自らに問い返すことになるのだ。先ほどから大きなことばかりしゃべってしまっていて、柳本どうした、と思われるかもしれないので具体的に句をみてみよう。

  あなたから見ても私は変ですか  丸山進

これをたとえばサラリーマン川柳の枠組みを用いて、夫が妻からみられている〈情けない構図〉を描くことは可能である。世間から「変」だと思われているけれど、家族から「見ても私は変」なのだろうかとトホホな風景を描くことができる。言わば、愛を問いかける〈普遍〉的な句に。

ところがそれを詩として反転させることも可能だ。この「あなた」は読者のひとりひとりに切実に問いかけてくる実存的な「あなた」として機能する。それは「から見ても」という言葉の使い方によるものだ。他のひとはわたしを変だと見ている。それは、いい。でも、「あなた」はどうなんですか。わたしはあなたに問いかけたい。「あなたから見ても私は変」なの「ですか」。

言語の技術的な面が駆使されることで読み手である〈あなた〉に実存的に問いかける構造になったこと。わたしはそうした文を詩と呼びたいと思う。

つまり、〈どう〉読むかで丸山さんの川柳は表情が変わってくる。それを端的に象徴するのが今回の句だと思う。サラリーマン川柳と詩性川柳はそうかんたんに分割できるものではない。わたしはここに現代川柳のひとつの可能性があるのではないかとすら、おもう。

だから最初の文にもどる。
現代川柳を考えようとしているときにいつも丸山さんの川柳は私にとってのひとつの指標になっている。

おや、かえってきた。終わりにしよう。

  交番の前はスキップして通る  丸山進

          (『おもしろ川柳会 合同句集』10号・2016年10月 所収)

2017年2月24日金曜日

フシギな短詩87[富野由悠季]/柳本々々


  悲しいけどこれ戦争なのよね  富野由悠季


ガンダムをつくったアニメ監督・富野由悠季さんには独特な言い回しからなる「富野ゼリフ(富野節)」というものがある。

たとえば映画『劇場版 機動戦士ガンダムⅢめぐりあい宇宙(そら)編』のなかでジオン公国軍の試作型モビルアーマー、ビグ・ザムに特攻する前につぶやいたスレッガー・ロウ中尉のセリフ「悲しいけどこれ戦争なのよね」。有名なセリフだが、これを富野節を抜いて一般的な言い回しにするならば、

  悲しいかもしれないが、これが戦争をするということなんだ。

になるだろう。中性的な文体だし言い回しにクセもないが、どこか〈ひとごと〉のようなセリフである。

これが富野節をとおすと、

  悲しいけどこれ戦争なのよね

になる。注目したいのは、〈短さ〉である。助詞が切り詰められながらも語末に「よね」とみずからの認識を再確認する終助詞を置くことで切り詰められたセリフがぐっと生きている。「悲しいけどこれ戦争」と極端に切り詰められながらも最後の「なのよね」と冗長にさせることでスレッガー・ロウ中尉がそのセリフを個人的に〈どう〉生きようとしているかが一瞬でわかる。

この独特なクセをもつ富野節はどのようにして生まれたのだろう。

やはり富野由悠季さんの作品『∀(ターンエー)ガンダム』のプロデューサーを務めたサンライズの河口佳高さんは『劇場版∀ガンダムⅡ 月光蝶』(2002年)の映画パンフレットにおける「スタッフ座談会」において次のような興味深いことを述べている。

  今回僕が、わかったことは、 「富野ゼリフ」はなぜ生まれるのかっていうこと。あれは、尺に合わせてセリフをつくるからなんだよね。口パクに合わせるために、セリフを全部言わせないで短くして、エッセンスとリズムのセリフ構成にしちゃう。きっとファースト・ガンダムの劇場版をやったあたりから、その傾向が強くなったんじゃないかな。アフレコでセリフを直す様子を見てそれは思った。
  (河口佳高「スタッフ座談会 いかにして『∀』映画は生まれたか」『「劇場版∀ガンダムⅡ 月光蝶」パンフレット』、2002年)

アニメーションの画としての「尺」=「口パク」に合わせるために「セリフ」=言葉を「短く」して「リズム」を与えること。これは31音、或いは、17音の定型にことばを「短く」して「リズム」を与える《定型詩の思考》に近いではないか。

もし定型詩にクセのある文体が生まれるのであれば、富野ゼリフがそうであったように、定型と言葉との照応関係によって生まれるのではないか。そうした枠組みとことばの相互作用のありかたが富野節にはあるように思うのだ。

すでに決まっている形式(アニメーション/定型)があって、《それでもしゃべらなければならない》ときにどのように不自然でなく、しかし、切り詰めていくなかで《文体》をつくることができるのか。17音、31音を与えられたわたしたちは、2音や8音だけでことばをやめてしまうことはできないから。 

定型詩は定型がある以上は、しゃべらなくてはならない。

ここですこし具体的に短歌をみてみよう。

  春の夜の夢ばかりなる枕頭にあっあかねさす召集令狀  塚本邦雄

よく引用される有名な短歌だが、わたしはずっとこの短歌の「あっ」が気になっていた。なんだろう、この「あっ」は、と。なんなんだ。

もちろんこの「あっ」を意味内容から考えることもできる。この「あっ」という感動詞によって「召集令状」に対する語り手の驚きや緊張感や現実のてざわりがあらわされる。「春の夜の夢」のあいまいな〈きぶん〉は、「あっ」によって打ち砕かれる。

でもこの「あっ」を形式的に考えてみたらどうだろう。「あっあかねさす」は下の句の七七における7音だが、もしこの短歌に「あっ」がなければ、7音の箇所が「あかねさす」で5音になってしまう。そうするとこの「あっ」は定型が発話した「あっ」とは言えないだろうか。もし定型がなければ「あかねさす召集令狀」で終わったかもしれないものが定型が介在することによって「あっ」が召喚された。

定型が話しはじめてしまった「あっ」。そこにわたしは定型詩の非生命的な身体性やぶきみさが即物的なてざわりがあるように思うのだ。そして画によってことばに〈生命のクセ〉が生まれるアニメーションにも。

批評家の福嶋亮大さんがこんなことを述べている。

  富野由悠季は、生身の人間どうしの闘いではなくて、メディア化された人間とメディア化された人間の闘いを演出し、戦争を反復した。
  (福嶋亮大『神話が考える』青土社、2010年)

定型というメディアを介してメディア化された発話形式をもつ歌人/俳人/柳人もまた「メディア化された人間とメディア化された人間の闘い」をひきうけるものたちといえるのではないだろうか。「あっ」に取り憑かれたものたちとして。


          (『劇場版 機動戦士ガンダムⅢめぐりあい宇宙(そら)編』1982年 所収)




2017年2月21日火曜日

フシギな短詩86[永井一郎]/柳本々々


  ナウシカ役の島本須美さんの「うれしいの」を聞いたとき、この作品も島本さんも成功すると確信しました。  永井一郎

『サザエさん』の波平の声でも有名だった俳優・声優の永井一郎さんが書いた本に『朗読のススメ』がある。そのなかで永井さんは役をつかむポイントとして、そのキャラクターのキャラクター性をよくあらわす一言を見抜く大切さを書いている。

たとえば永井さんは宮崎駿の映画『風の谷のナウシカ』でナウシカの忠臣であるミトの役をつとめたがそのミトに対して永井さんは次のような役作りを行っていた。

  私にはナウシカしかありませんでした。どんなセリフもその内容は「ナウシカを守り抜く」ということでした。ミトにとっても私にとっても「ひめさまー」がいちばん重要なセリフでした。「ひめさまー」だけがしっかり言えれば、あとは自然についてくると信じました。いま、ミトについて、「ひめさまー」しか思い出せないのはそのせいでしょう。こうした役づくりは、ハムレットであろうと、スカパンであろうと同じだと思います。ミトを演じるについて、「ひめさまー」だけに全精力を使ったと、いま、しみじみ思い出しています。
   (永井一郎『朗読のススメ』新潮文庫、2009年)

永井さんにとってミトのキャラクター性を決定的にあらわす一言は「ひめさまー」だった。このナウシカを想う一言がミトのすべてを決定した。

永井さんにとってキャラクターをつかむとはこのようにキャラクターの発する決定的・象徴的なことばをキャッチすることだった。

そしてそのキャッチされたことばに、永井一郎の音律があてられて、《声》になるのだ。

声といえば、こんな川柳がある。

  絞っても絞っても声は大きい  稲垣康江 
   (『おかじょうき』2016年9月)

以前、誌上大会で選者をさせてもらったときに私が特選に選ばせてもらった句なのだが、最初みたときに、不思議な句だなと思った。

題は「絞」だった。

〈声を振り絞る〉という言い方があるように、声はしぼりあげると、大きくなっていく。ところがこの句では「絞っても絞っても声は大きい」と語られているので、声を大きくしても大きくしても、《まだ》、声は「大きい」かのように感じられる。

もちろん、「絞る」というのがテレビの音を「絞る」のように小さくするでもかまわない。その場合、声を小さくしても小さくしてもそれでも「声」がきこえてしまうというやはり不思議な声の様相があらわれている。

わたしが選をしたその頃、ある大きな事件が起きて、たくさんの声がいちどに消えた。声は、消える。ある日。思いがけなく。誰も残せないうちに。消えたように、みえる。しかし一方で、声は、のこりつづける。声は、消えない。

この稲垣さんの句の「声」は、「絞る」という複雑なアクションがほどこされている。抑圧を受けている「声」なのかもしれない。しかし、声は、きえない。小手先の加工技術が結局はかなわない「声」の深さ。ひとりの人間が生まれたときの、死にゆくときの句だと思った。

わたしは、その句に、決めた。

この句が、いいたいことは、たぶん、たったひとつのことだ。

声は消えない》ということ。どんなに消そうとしても、いや消そうとすればするほど、声は大きくなっていくこと。

となるとこの句で語られているのは、大小で計れるような声ではない。量、ではない。《ある》としか言えないような「声」のあり方である。それは大小が問題にならない。ただ《ある》ことに気づいたひとだけがきこえてしまった声。そして聞こえてしまったらもう消えない声。声はあるなしではないのだ。《ある》のだ。

  この作品(『風の谷のナウシカ』)のいちばん重要なセリフは、ナウシカの「うれしいの」というたった五文字のセリフです。人類の愚かさのために、腐って滅びるしかない地球。そんななかでナウシカは、地球が自浄作用で復活しようとしていることを発見します。ナウシカは腐った地球の地下の、美しい砂の上に倒れ伏します。ペジテのアスベルという少年がナウシカに尋ねます。
  「泣いているの?」
  「うん、うれしいの」
  ナウシカは小さくつぶやきます。作品でいちばん重要な言葉を発見することはとても大切なことですが、さらにきちんと言えなければなりません。ナウシカ役の島本須美さんの「うれしいの」を聞いたとき、この作品も島本さんも成功すると確信しました。
  (永井一郎、前掲)

永井さんは『風の谷のナウシカ』のなかに、ナウシカの「うれしいの」の《声》や、ミトの「ひめさまー」の《声》を発見した。その《声》をキャッチした。その《声》をつかんだとき、『風の谷のナウシカ』に埋め込まれた《声(ヴォイス)》に気がついた。

実はわたしは、声優のひとたちが声を役にあてる作業と、定型に言葉をあてていく作業は、どこか通じ合っているようにも思うのだ。アニメのキャラクターの口パクの動きや秒数に合わせて台詞をおさめていくこと、それは定型に応じてことばを変化させていくことに似ている。

しかしそれらのおさめられた言葉は、尺や音数にあわせた機械的な言葉の連なりであってはならない。ひとつの声(ヴォイス)としてきこえるものでなくてはならないのだ。自然な、しかしそれでいて、尺や定型にあわせなければ出てこなかったような奇妙な言葉の可能性をも同時にあわせもって。

口パクの尺や定型の音数にことばをあてていきながらも、その尺や音数を自然に忘却できるくらいに一体化したときにそこには〈声〉が生まれる。

声、ってあらためてなんなんだろう。声をいしきすること。

意味ではなく、声として、わたしの、あなたの目の前にいる相手と向き合ってみること。そのとき、声からみられたわたしやあなたはなにを思い、なにを思われ、なにが通じ合い、すれちがうのか。

声、とはなにか。

ブラックジャックやムーミンパパの声でも有名な大塚明夫さんは、こんなふうに言っている。

声とは、刺すものである、と。

量じゃないんだ。刺さるか、刺さらないか、なんだ、と。

いちど刺さった声は、きえない。

  大切なことは、言葉を相手に届けること。状況に応じて「刺す」ことです。
   (大塚明夫『声優魂』星海社新書、2015年)


          (『朗読のススメ』新潮文庫・2009年 所収)


2017年2月17日金曜日

フシギな短詩85[くんじろう]/柳本々々


  新月をまさぐったのはムーミンパパの方  くんじろう

ムーミン谷は記号学のようなところがある。ムーミンたちは記号の差異によって成立している。たとえばムーミンパパのシルクハットやムーミンママのエプロン、スノークのお嬢さんの前髪、署長さんの制服。

裸にしてしまえばムーミンたちに差異はないがわずかな記号の差異によってムーミンたちは弁別されている。だから、パパは毎日シルクハットをかぶるし、ママは毎日エプロンをかける。

つまり、ムーミンたちの身体性とは、身体そのものにあるのではなく、シルクハットやエプロンの方にある。それがかれらの身体を成立させている。

ところがこの句では「まさぐる」という動詞を採用することにより、それまではシルクハットにあったムーミンパパの身体性を〈手〉の方に移植している(あなたはムーミンパパの手をこれまで一度でも意識したことがあったか)。

「新月」のとき、太陽と月が同じ方向にあるため、月が見えなくなる。太陽のまぶしさでわたしたちには月がみえないのだ。だからみえなくなった「月」を「まさぐ」る必要性があるのだが、この「ムーミンパパの方」の「の方」に注意してみよう。

ここではムーミンパパ以外のだれかも「まさぐる」可能性があった。ママかもしれないし、スナフキンかもしれないし、ヘムレンかもしれないし、ミイかもしれない。

でも、「まさぐ」ったのは「ムーミンパパの方」だった。ここでは「ムーミンパパの方」という、シルクハットで弁別していたやり方とはちがうやり方で、「まさぐらなかった誰か/まさぐったムーミンパパ」という〈新しい弁別〉が持ち込まれている。 

「シルクハットをかぶっているムーミン/シルクハットをかぶっていないムーミン」という名詞で弁別されるのではなく、「まさぐったムーミン/まさぐらなかったムーミン」という動詞で弁別される状況。

もしこの句に性的なエロスがあるのだとしたら、わたしは、その名詞から動詞への転換こそが、エロいのではないかと思うのだ。エロスとは、それまで結びつかなかったような新しい記号の文法のことだから。エロスにはいつも驚きと興奮しかない。

このムーミンパパの句は、榊陽子さんが選者となり、森茂俊さんの出題「ムーミン」のもと、『川柳 北田辺』の句会において行われたものだけれど、榊さんが選んだほかのムーミン句もみてみよう。

  ムーミンと同じ顔色の子供  竹井紫乙

  くちびるがなくてムーミンくちづけす  野口裕

  人間を見るためムーミン谷へ行く  森田律子

現代川柳は、ムーミンにおける新しい身体性を見いだすことに積極的なのかもしれない。たしかにムーミンの肌の色は病的であり、ムーミンにはくちびるがない。これらの句はこれまでのムーミンのありかた=身体性を解体している。ここではこれまでのムーミンが〈不在〉になる。「人間を見るためムーミン谷へ行く」のも、〈ムーミンを不在〉化させるやり口だ。

川柳において、ムーミンたちは、ムーミン的な外部へ、さらけだされる。
  
では、俳句におけるムーミンはどうなのだろう。

俳句においては、ムーミンについて、なにも言わない。なにも言わないことを言うことで、ムーミンを語ろうとする。川柳はムーミンについて非ムーミン的ムーミンを語ろうとするが、俳句はムーミンについてムーミン的ムーミンという同語反復を語ろうとする。いったい何を言っているのかというと、

  ムーミンはムーミン谷に住んでゐる  高山れおな


          (「題「ムーミン」榊陽子 選」『川柳 北田辺』76号・2017年1月 所収)

2017年2月14日火曜日

フシギな短詩84[鳥居]/柳本々々


  町角のポストのなかに隣り合うかなしい手紙やさしい手紙  鳥居

この歌のなかでは「かなしい手紙」と「やさしい手紙」が「隣り合う」ことによって、「かなしさ」だけでも「やさしさ」だけでもない不思議な空間が「ポストのなか」につくられている。

それが「かなしみ」と「やさしさ」が「隣り合」ってはじめて生まれた空間だ。

なにが、なにと隣り合うことによって、なに以外が、生まれたのか。

鳥居さんの歌の〈まなざし〉はそのことにとても敏感なのではないかと、思う。

  駅前で眠る老人すぐ横にマクドナルドの温かいごみ  鳥居

社会から投げ出されたように「駅前で眠る老人」と、社会から廃棄されたばかりの「マクドナルドの温かいごみ」。どちらも社会の〈外〉に排斥されながらも、それでも社会のなかに、わたしたちの視界のなかにきちんと存在するものだ。

では、この歌の〈まなざし〉はどこにあるのか。それは「」という格助詞のたった一音にあるように思う。

「に」という助詞をいれ、「老人」と「温かいごみ」を隣り合わせることにより、「老人」にも「温かいごみ」にも決着=結着がつかない空間を描く。この歌ではわたしたちはどちらにも行き着くことは、できない。ただ「に」だけが、場所を描いている。「に」だけが、どこにもゆかない場所を、指し示している。

場所は、場所にだけあるものではない。わたしたちの身体も、じつは、場所である。場所と場所が隣り合って身体ができている。

  冷房をいちばん強くかけ母の体はすでに死体へ移る  鳥居

  眠るとは死ぬことだから心臓を押さえて白い薬飲み干す  〃


「体」と「死体」の隣り合った様相。「眠る」と「死ぬ」が隣接している状況。これらの移行する隣り合った〈現場〉を身体は引き受けている。身体とはもともとばらばらなはずなのに、いつでもばらばらになるはずなのに、なぜかわたしたちは身体を〈ひとつ〉だと思っている。「心臓を押さえて」必死にその〈ひとつ〉を確認し、誤認しようとする。でもその〈ひとつ〉において、「眠る」は「死ぬ」に変位し、「体」は「死体」に移行する。

隣り合う状況を描くことによって、その決着のつかなさを描く。それが鳥居さんの短歌のひとつの様相ではないだろうか。

鳥居さんの短歌は境涯と結びつけられがちだけれども、でも、容易に〈答え合わせ〉ができない状況を〈そのまま〉描いているのも鳥居さんの短歌なのではないかと、おもう。

答え合わせが、できないので、問いかけつづける。隣り合うって、でも、そういうことだと、おもうのだ。わたしがなんかいっても、「なんで」ときいてくるひとがいる。なんで生きるの。なんで死ぬの。って。

  あおぞらが、妙に、乾いて、紫陽花が、路に、あざやか なんで死んだの  鳥居

          (「NEXT 未来のために「響き合う歌~歌人・鳥居と若者たち」NHK、2017年2月7日・放送)


2017年2月12日日曜日

広渡敬雄句集『間取図』ー感性と観察眼に裏打ちされた描写力ー    豊里友行 




郭公や雲を離るる小海線



 なんか好きなリズムで観察眼にも流れる威風堂々とした格調高さに舌を巻く。

小海線(こうみせん)は、山梨県北杜市の小淵沢駅から長野県小諸市の小諸駅までを結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(地方交通線)。郭公(かっこう)のドラミングが木魂する南アルプスを背に雲を離れていくというリズムも心地よく走る小海線が、眼に浮かぶようです。


 裏返りつつ沢蟹の遡る

懸命に生きている生き物たちの命の描写がドラマチックでありながら感動をダイレクトに伝えてくれる。

観察眼の効いた俳句には、まさに威風堂々とした格調高さが立ち現れる。

共鳴句を頂きます。


 冬すみれ夕暮れ畳むやうに来て


夕暮れを「畳む」という感性に脱帽。


 蛇ゆきし草ゆつくりと立ち上がり 草を擦りつつ上りゆく鯉幟 蛍烏賊闇を震はせ上がりくる


蛇のゆっくりと這う様の描写力が凄い。鯉幟を上げる描写力も。蛍烏賊が「闇を震はせ」上がりくるという描写力。


これら感性と観察眼に裏打ちされた秀句がこの句集の醍醐味。



 糸瓜棚より子規が見え律が見え おまへだつたのか狐の剃刀は 木枯し一号何となく父のこと 冥王星ほどの明るさ梟の眼 間取図に手書きの出窓夏の山 角よりも尻たかだかと鹿去りぬ 兜虫ふるさとすでに詩のごとし




2017年2月10日金曜日

フシギな短詩83[筒井祥文]/柳本々々


  こんな手をしてると猫が見せに来る  筒井祥文


祥文さんの句で注意してみたいのが、カテゴリーに対する敏感さだ。「こんな手をしてると猫が見せに来」たわけだが、ここではいくつかのカテゴリーミステイクが起こっている。

「こんな手をしてる」のを見せたいという人間のような猫の意志=発話や、猫の足を「手」とすることによってまるで「猫」が「人」のように語られているのだ。たとえばこの句が、


  こんな手をしてると孫が見せに来る


だったらなんの不思議もない。でも「猫」にすると、とたんに、不思議さが、でる。それはカテゴリーをいれかえたからだ。

しかし、そもそも、カテゴリーとはなんなのか。


  卵かもしれぬ古寺かもしれぬ  筒井祥文


《これ》は《これ》だと思っているうちはカテゴリーの誤りは起きないが、《これ》は《あれ》だとも思うようになったらカテゴリーの誤りは起きる。

《このカテゴリー》は《このカテゴリー》でなければならない、という絶対認識がなければ、カテゴリーミステイクはひんぱんに起こるのだ。《これ》が《あれ》だとときどき思うようになっては、カテゴリーは食い違うから。

そしてこのカテゴリーミステイクこそ、現代川柳の認識の基本的視座になっているのではないかと思うのだ。その意味で、現代川柳の基本的視座は、《こんな手をしてると猫が見せに来る》である。

世界にあらかじめ据え置かれたカテゴリーを攪乱/撤廃する視座。それは絶対的な〈執着〉からの解放でもある。

時実新子さんの回のときに


  入っています入っていますこの世です  時実新子


という句を取り上げたのだが、このとき「この世」の〈たまたま性〉に注目してみた。トイレの個室のように〈たまたま〉「この世」に「入ってい」ること。

それは、「この世」への絶対的な執着から解き放たれたひとつの〈達観〉である。

で、この〈達観〉というもの、区別や差別や分別からの解放、というのが現代川柳にはあるのではないかとある時から川柳を読みながら考えていた。

たとえば。

  縊死の木か猫かしばらくわからない  石部明


この句では「縊死の木」と「猫」を区別/差別/分別する〈認識〉がうしなわれている。「しばらく」の間だけれど、その「しばらく」の間、語り手は区別も差別も分別もない世界にいた。だから「しばらくわからな」かった。

「縊死の木」と「猫」が同一視される世界。こうした差別がうしなわれる世界観というのは、実はわたしたちは古くから〈なじみ〉があるものだ。〈仏への視座〉である。

歌人の西川和栄さんが「仏法を生きる」でこんな話をされている。


  お婆ちゃんが、囲炉裏で火を焚いておって、その煙がスーッと上がっていくのを見て、「ほ~ら、見まし見まし、あの煙が、ほら、お日さんにさぁっといくあの煙の中の埃が見えるじゃろう、見えるじゃろう。あの埃の一つひとつが仏様やぞ」と言うたわけやな。それで十代の私は、ははぁ、埃までも仏さんなんか。そうすると、私は、埃を埃と思わんと、仏さんを吸うとるんやな。 
  (西川和栄「仏法を生きる」『宗教の時間』NHKラジオ第2、2014年4月6日放送)

仏教では苦しみの根本原因が「執着」にあるとされている。だからこそ、〈これ〉が絶対に〈これ〉でなければならないという考え方は採用されない。それは、執着になるからだ。仏さまは「埃」であることもあれば、塵であることもあるし、棒きれであることもあるし、ビルであることもあるし、なにものでもないこともあるし、あなたであることもあるし、わたしであることもある。すべては仏であり、すべては仏でないのだ。

こうした仏の観点を経由してみると、石部明さんの「縊死の木か猫かしばらくわからない」句も、そんなに不思議なことでもないと思うようになる。この世界の事物、すべてが仏である可能性なら、「わからない」こともあるからだ。

だから、「埃までも仏さん」であるならば、この世界、どんなカテゴリーミステイクが起きようとも、なんの不思議もないのだ。

現代川柳には不思議な句が多いが、実はこの世界には不思議なことなどなにもない。

不思議は、ない。

  めっそうもございませんが咲いている  筒井祥文

          (「信号灯の余技」『セレクション柳人9 筒井祥文集』邑書林・2006年 所収)







2017年2月7日火曜日

フシギな短詩82[新宿歌舞伎町俳句一家屍派]/柳本々々


    歌舞伎町っていうのは一個の理由、集まる理由になる  北大路翼

2017年1月31日NHKのハートネットTVで「これは新宿・歌舞伎町で俳句を詠む人たちの物語です」として「新宿歌舞伎町俳句一家屍(しかばね)派」が放送された。

その番組冒頭、屍派「取り纏め役」の北大路翼さんがこんなことを述べられていた。

  人はみんな集まりたいわけでしょ。集まる理由は探してるんだと思うのね、みんな。理由を探さないと人とも一緒に過ごせない。そういう人が多いんじゃないかな、歌舞伎町って。歌舞伎町っていうのは一個の理由、集まる理由になる。多面性というか広さというかね、そこが良いんじゃないかな。…違うところで作っても僕は歌舞伎町の人間として作ってるんだよ。歌舞伎町からのメッセージとして俳句はよんでほしいと思ってる。

この北大路さんの言葉で少し注意してみたいのが、「歌舞伎町」という〈場所性〉を言葉にどこまでもまとわせようとするその態度である。たとえば北大路さんの句集『天使の涎』(邑書林、2015年)を思い出してみても、その視野は〈場所〉へのまなざしがあった。ちょっとあげてみよう。

  風俗店を貫くエレベーターの寒  北大路翼

  新宿公園ぶらんこも砂場もない  〃

  学校を模した風俗春の月  〃

雑居ビルにひしめく「風俗店」。各階の風俗店にはそれぞれの嗜好にあわせた客が入っていくが、そのばらばらな嗜好を一本の「エレベーター」が貫いている。ここでは〈風俗〉をまとめあげるそうした場所的な〈貫き〉に注意が寄せられている。「ぶらんこも砂場もない」「新宿公園」(昔、勤務先が間近だったのでよく昼休みに新宿公園で倒れるひとのようにふらふらしていたことがあったが昼間はほとんどひとがいなかったように思う。夜は知らない)や「学校を模した」イメクラ「風俗」店。ある場所は与えられるはずの機能を奪われ、ある場所はなくてもいいはずの機能を盛られ、凸凹に〈修飾〉された都市・新宿を〈俳句的まなざし〉が貫いていく。

〈俳句〉とは、ここでは都市の偏りの〈読み直し〉に他ならない。ひとびとの〈機能〉ではなくて〈嗜好〉にあわせて修飾された凸凹の都市を読み直すこと。

  町に立つホスト同士の距離うらら  北大路翼

  キャバ嬢と見てゐるライバル店の火事  〃

  さつきまで遺体が乗つてゐたタンポポ  〃

もちろん、都市は嗜好に修飾されるだけでなく、その嗜好にあわせて移動するひとびとによっても都市の文体がかたちづくられていく。

  紙雛にふれつつデリヘル嬢待機  北大路翼

  蝶になる職務質問すり抜けて  〃

  浅春の早番遅番すれ違ふ  〃

「待機」する「デリヘル嬢」は〈嗜好〉にあわせてひとが過密化することをあらわしているし、「職務質問すり抜けて」や「早番遅番すれ違う」からは、ひとの移動が、〈実体的〉なものではなく〈かりそめ〉にしかすぎないことをあらわしている。「デリヘル嬢」が名前を持たないように(或いは源氏名という仮名をもつように)。「早」くの出勤か「遅」くの出勤かの「早番遅番」によってふりわけられる〈職場〉のネットワークは「すれ違ふ」くらいには〈軽快〉なものである。ここには緊密なネットワークはなく、むしろ、移動によって形作られていく移動的移動がつづられている。それは移動のための移動だ。

ここで発見されている都市は、〈移動〉することによって〈修飾〉されている都市だ。だから「公園」に「ぶらんこ」や「砂場」などの〈停止〉させるものは必要ない。

もっと言えば、都市の隙間としての要所を織りなしていく〈風俗〉の基本的な原動力とは〈移動〉なのではないか。

ひとは風俗にゆくときに「エレベーター」で多くの風俗店のなかを上に突き抜ける。風俗店は「学校」システムを性的イメージの修飾のために制服や教師/生徒の設定などのイメージだけを〈移植=移動〉させる。これから〈移動〉するためにデリヘル嬢は「待機」し、おのおのの出勤時間にあわせた風俗嬢は「早番遅番」という時間の違いによって〈移動〉する。

北大路さんの句集『天使の涎』の装画は、漫画家の新井英樹さんが描いているのだけれど、絵の中央にいる人間(モデルは北大路翼さんとのこと)はこちらに向かって全力で走っているようにもみえる。彼はこの絵の消失点になっている。そして彼は走っている。読者に向かって走ってくる。走ったまま、こちらに、走りつづけている。

だとしたら、やはり、核は〈移動〉にあるのではないか。

そういえば、北大路さんは、歩きながら、番組冒頭、しゃべっていたのだった。歌舞伎町を歩きながら。そして番組最後も歩きながら消えていった。歌舞伎町とは、〈歩くため〉の町なのかもしれない。

歌舞伎町が、〈歩き続けるための町〉であること。

  呼んでくれ俺なら朧にゐる叫べ  北大路翼

思えば、ひとは、性=生のために、歩く。性=生は移動の根本原理にもなる。性=生に衝き動かされて、あるく。ときどき、或いは、毎日、セックスするために。或いは、セックスしないために。ひとは、あるきつづける。生きるために。生きないために。春の通路を。

  春の闇どこへも繋がらない通路  北大路翼


          (「ハートネットTV 新宿歌舞伎町俳句一家屍派」NHKEテレ1・2017年1月31日 放送)

2017年2月3日金曜日

フシギな短詩81[尾崎放哉]/柳本々々


  咳をしても一人  尾崎放哉

自由律俳句ってなんなんだろうと時々考えるのだが、次の上野千鶴子さんの言葉にひとつのヒントがあるような気がする。

  放哉もある時期までは順当にエリートコースを歩んできた人ですよね。捨てて、捨てて、捨てて、捨てきったはずなのに、言葉を捨てないという 
  (上野千鶴子「「捨てて、捨てて、捨てきってもなおあふれでた言葉」『尾崎放哉 つぶやきが詩になるとき』河出書房新社、2016年)

私は今まで自由律を「自由」に「律」をつくりこむことから、〈盛る〉文学だというふうに考えていた。定型に加えて、さらに〈盛り込んで〉いくのが自由律なのだと。

でも、上野さんの言葉を読んだときに、実は逆なんじゃないかとふと思った。〈捨てる〉のが自由律なんじゃないかと。それはどれだけ長くてもそうなのだ。たとえば、

  鳩が出はひりするまるいあながみんなうすぐらい  中塚一碧樓

この句もこれだけ長くても、捨てられた〈あと〉の句なのだ。

いったいなにを捨てているのか。

それは、〈定型〉である。定型が捨てられた地点から自由律は出発する。その意味でどれだけ長くてもそれは〈捨てた〉文学なのだ。

ただし、上野さんが「捨てきったはずなのに」と述べたように、「自由」を志向しながらもそのせつな「律」とふたたび「律」に支配されるところに〈自由律〉の特徴がある。〈定型〉を捨てたはずなのに、ふたたび、また別の顔で、ちがった顔をして、〈定型〉はやってくるのだ。

吉田知子が小説で書いていたことだが、〈捨てる〉ということのいちばんこわいことは、一度捨てたものは二度と捨てられないことだ。

  もう帰る、と私は老婆に言った。……  「あんたは帰れんよ」老婆は言った。「帰れる道理がなかろうがさ。これまでだって捨てられんかったんだ。あんたは捨てた気かしらんが。一度捨てたら二度は捨てられんよ」
  (吉田知子「迷蕨」『お供え』講談社文芸文庫、2015年)

すなわち、〈捨てる〉ということは、どこかでそれを永遠に背負っていくことも意味する。

  咳をしても一人  尾崎放哉

の〈孤独感〉とは〈定型〉を捨てた・にもかかわらず、せきを・しても・ひとり、と3・3・3の律(リズム)をつくろうとしているところにあるのではないか。しかし、その律は、孤独である。この句とともに、その律は運命を終えるかもしれない。その意味でこの律は「咳」のようなものだし、その「咳」の律はたとえ律だとして「も」〈一人〉だ。

だけれども、〈捨てた〉あとの風景とはそういうものではないか。

  日本語の生理は、ものすごく五七五にひきずられていくんです。「適齢期みんなで越せば怖くない」とか「狭い日本そんなに急いでどこへ行く」とか、五七五にしてしまえばどんな標語でも何となく詩のフレーズになるみたいに、言語的に定型にひきずられていくでしょう。この重力を振り切るには、逆噴射みたいなものすごいパワーがいるはずなんです。
  (上野千鶴子、同上)

俳句も短歌も川柳も定型を通して、定型のなかで、定型にふちどられて、定型に去勢されて、なにかを語るのだが、その意味では、定型に依拠した世界に対する〈失語〉なのだが、しかし、《定型そのものに対して失語》を感じた者はどうすればよいのか。世界に対して、ではなく、定型に対して言葉を失ってしまった人間。定型によってこわれてしまったにんげん。そのにんげんの律はいったいどうなるのか。

その問題が、自由律にはあるんじゃないか。

こわれても、こわれても、こわれても、なおあふれでた言葉。


  春の山のうしろから烟が出だした  尾崎放哉


          
(「捨てて、捨てて、捨てきってもなおあふれでた言葉」『尾崎放哉 つぶやきが詩になるとき』河出書房新社・2016年 所収)