2017年1月20日金曜日

フシギな短詩77[宝川踊]/柳本々々


 帰らない言葉があるよ相撲にも  宝川踊

こんなことを言ったら怒られるのかもしれないけれど、さいきん考え始めているのが、川柳は〈人間を描く〉とよく言われるのだが、実は〈人間を描かない〉んじゃないか、〈人間を描くことをやめた〉ところからまた始まるのも川柳なんじゃないかということだ。

じゃあ、人間を描かないでなにを描くのかというと、概念を描く。概念がくみかわるしゅんかんを描く。

こういうことを言うと怒られるかもしれないけれど、それでもこういう立ち位置に立ってみると、なぜ現代川柳が動物や食べ物や擬音が好きで、しかもそれらを〈そのまま〉に描かずに内実を組み替えたかたちで描こうとするかがわかるように思う。

もちろん、川柳は〈人間も描く〉。ただ、現代川柳の実質は、〈人間を描かない〉ところにも起点をもつような気がする。しかしこれは直観なので、もう少し、長く考えてみたいと思っている。直観は、直感とちがって、時間の長さがもとになっている認識だそうだから。

でもここで少し具体的になにをいいたいのかを書いてみようと思う。宝川さんの句をみてほしい。

宝川さんの句では、「相撲」という身体競技が身体的に描かれない。ここで描かれているのは、「言葉」の側面からとらえられた「相撲」である。だからある意味で、まず「相撲」は一般的なイメージからすれば〈機能不全〉に陥っている。ここで一般的なイメージに逆らわずに、相撲的に相撲を語れば〈人間を描く〉ことに近づくが、この語り手は、それをさけた。

さらに語り手が関心をもつのは、「相撲」の「言葉」は「言葉」でも「帰らない言葉」の方だ。「言葉」だけでも「相撲」にとってはマイノリティなのに、さらにそのマイノリティのマイノリティにつっこんでゆくように「帰らない言葉」に眼を向ける。

ここではほとんど〈人間は問われていない〉。強いて言うなら、〈人間は問われていない〉かたちで〈人間〉が問われている。ただこれを言うことは意味がないような気もする。問われているのは、「言葉」だからだ。そしてそのことによって「相撲」の〈概念〉が組み換わる。

宝川さんは2015年から川柳を始めたとプロフィールに書かれているが、川柳を始めた宝川さんが、〈まず〉こういう川柳を〈現代川柳〉の枠組みとして措定して、句作されていることが私にはとても興味深く、おもう。いつも、始点に、ジャンルのひみつが隠されているようにもおもうからだ。

わたしは現代川柳のひみつの棲み処がこの宝川さんの川柳に隠されているんじゃないかと思った。

起源を探すことに意味はないような気もするが、しかし移ろい続けるはじまりでもおわりでもない「紙吹雪」のなかでとつぜん「原点」をみつけてしまうこともあるのではないだろうか。原点は星のように散らばっている。

  まぶされた紙吹雪に探す原点  宝川踊

          (「 LUNCH BOX」『川柳スープレックス』2017年1月1月 所収)