2017年1月10日火曜日

フシギな短詩74[渥美清]/柳本々々


  いま暗殺されて鍋だけくつくつ  渥美清

2016年12月29日、NHKBSプレミアムで「寅さん、何考えていたの?~渥美清・心の旅路~」が放送された。

そのなかで俳号が風天だった渥美清の俳句がいろいろ紹介されたのだが、俳人の金子兜太さんが選んだ渥美清の句が掲句。

  ローソクもつてみんなはなれてゆきむほん  阿部完市

のようなちょっとフシギな句だ。

兜太さんは渥美清の俳句をこんなふうに評している。

  俺が思っていた渥美というのはもっと正直なひとだと思っていたけれど、こりゃ相当な化け物だぞという思いが出てきましたね。

この番組をみていて思ったのが渥美清の俳句における定型のフシギさだった。

掲句の575も、

  いまあんさ/つされてなべだ/けくつくつ

と定型の不穏さが「暗殺」「くつくつ」と響き合ってふしぎなふあんを醸成する句になっているが、ほかの句も定型が独特なのだ。

  着ぶくれた乞食じっと見ているプール  渥美清
    *作者の表現を尊重し原文のまま表記しています  

  マスクのガーゼずれた女(ひと)や酉の市  〃

  ポトリと言ったような気する毛虫かな  〃


  いみもなくふきげんな顔してみる三が日  〃


  ほうかごピアノ五月の風  〃


どの句も定型が不安定な句だが、その不安定さが不安な内容と〈負の調和〉を生み出している。たとえば2句目の「マスク」の句は「ずれたおんなや」と「おんな」にすれば7音になるところを〈わざわざ〉「ひと」とルビをふって6音にしている。でもそのせいで「ガーゼ」の「ずれ」た感じが形式としてもよく出てくる。

定型。

そういえば渥美清という俳優は『男はつらいよ』において車寅次郎という〈定型(パターン)〉を生きた人間だった。

私は最初『男はつらいよ』なんてただのパターン主義の映画じゃないかとぜんぜん真面目にみていなかった時期もあったが、たまたま最初期の『男はつらいよ』をみたときに渥美清の芸の細かさに驚いて、そこから一気に全話みた。みながら、ひとつひとつの渥美清の芸の豊かさに、すごくびっくりした(ちなみに強いてあげるならおすすめは「寅次郎忘れな草」)。

そしてその後、渥美清主演の連続テレビドラマ「泣いてたまるか」をみてまたびっくりした。一話完結で毎回職業が変わる主人公。そこにはばらばらなズレとしての豊かな差異を生きる渥美清がいた。そこでの渥美清は教師であり、労働者であり、サラリーマンであり、警察官であり、飼育員だった。渥美清にとって、差異は豊かさだったのだ。

しかし『男はつらいよ』のステレオイメージは、渥美清の差異の豊かさをある意味で、一元化し、抹殺してしまった。渥美清という俳優は定型としての物語に〈暗殺〉されたのだ。

でもその差異の豊かさは、俳句にあらわれていた。

『男はつらいよ』を48作〈継続〉して演じ切った渥美清。哲学者のドゥルーズは、「持続」についてこんなふうに言っていた。「持続とは、自己に対して差異化していくものである」と。渥美清の俳句から、わたしたちはドゥルーズの実践者としての渥美清を見いだすこともできるのではないか。

渥美清というひとは定型である寅さん=車寅次郎のステレオイメージに屈しないひとだった。いちいちひとつひとつの寅次郎の挙措に視線や間などの細かい演技を練り込むことで、小さなズレを生み出していった。気晴らしで映画を観る者にだけでなく、観察者としてのオーディエンスにも、注視に耐える演技をまるで〈物語〉を〈暗殺〉し返すように行っていた。

渥美清は、〈俳人〉としても、〈俳優〉としても、どちらの〈俳〉においても、定型におさまらないひとだった。

だから、「寅さん、何考えていたの?」という問いに、私なら、こう答えてみたいような気もする。

ずれ、を。

  山吹キイロひまわりキイロたくわんキイロで生きるたのしさ  渥美清


          (「寅さん、何考えていたの?~渥美清・心の旅路~」NHKBSプレミアム・2016年12月29日 放送)