2017年11月14日火曜日

DAZZLEHAIKU14[友岡子郷]渡邉美保



   文手渡すやうに寄せくる小春波   友岡子郷


冬に入ったとはいえ、春のように暖かい小春日和。うららかな空、うららかな日ざしのもと、海岸にいると、波は一定の間隔を置きながら、ゆったりと寄せてはかえす。次から次へと畳みかけてくる波の様子が目に浮かぶ。その単調で、静かな波音も聞こえてきそうだ。
波が寄せてくるさまはまさしく「文手渡すやうに」なのだ。それは巻紙にしたためられた長い長い文かもしれない。
本句集のあとがきに「海鳴り、潮風、舟の音…、今の私の生活圏にある」と記されている作者ならではの繊細な感懐ではないだろうか。
海のひろさ、水平線のはるかさ、日頃の思いがすべて含まれているような気がする。
寒さに向う前のほっとするような暖かいひととき、「文手渡すやうに」と形容される波がなんともやさしく、さびしい。


〈句集『海の音』朔出版2117年所収〉 


2017年10月22日日曜日

DAZZLEHAIKU13[杉山久子]渡邉美保



  縞縞の徹頭徹尾秋の蛇   杉山久子


琵琶湖周辺の里山を歩いているとき「蛇がいる」という声を聞いた。近寄ってみると、縦縞の蛇が草の中に横たわっていた。人の足音や人声にも動く気配がない。ぱっちりと開いた目の周りには、蠅が集っている。その蛇は死んでいた。

掲句、「徹頭徹尾」が意表をついていて、とてもおかしい。頭から尾っぽまで一貫して縞が通っているということだろうか。秋になり動きが鈍くなった蛇が、ゆっくりと縞模様を見せてくれたのかもしれない。

この句の中にあって「徹頭徹尾」は、熟語本来の意味を離れて脱力。縞縞の蛇のためにある言葉のように思われてくるから不思議だ。しかも、この蛇のために使われると、字画の多い四文字の漢字がするするとほどけて、一匹の蛇になってしまいそう。
「徹頭徹尾」が軽やかに弄ばれているようだ。


〈句集『泉』ふらんす堂/2015年所収〉


2017年10月13日金曜日

超不思議な短詩239[野口る理]/柳本々々


  チャーリー・ブラウンの巻き毛に幸せな雪  野口る理

前にも書いたが、俳句とは、世界のアクセスポイントをさぐる試みでもあるのではないかと思っていて、たとえば、

  おおかみに蛍が一つ付いていた  金子兜太

  本の山くづれて遠き海に鮫  小澤實

「おおかみ」と「蛍」のアクセス・ポイント、「本の山」が崩れる瞬間と「鮫」のアクセス・ポイントなどがこれまで名句として発見され引用されてきた。俳句は、ただ、アクセス・ポイントを、提出する。こういうアクセスが、そのときありました、ということを(あるいは、アクセスしてしまいました、ということを)。

関悦史さんにこんな句がある。

  内臓のひとつは夏の月にかかる  関悦史

ここでは「内臓」が「夏の月」にアクセスしている。「夏の月」という〈清潔〉そうなものに「内臓」が「かか」り、血みどろにしてゆく(海外ドラマ『ウォーキング・デッド』ではゾンビ避けのために登場人物が死体の内臓をぶらさげてあえて死臭を放ちながら歩くシーンがあった)。

冬の季語「おおかみ」に夏の季語「蛍」がアクセスし神話的な時間に、「本の山」の「くづれ」に「遠」い「海」の「鮫」がアクセスし可傷的瞬間に、「内臓」に「夏の月」がアクセスしプレーンなものが血みどろになるサブカルゾンビ的侵犯の時間に。

じゃあ、野口さんの句ではどうだろうか。

私はかつてもこの句を考えてみたことがあるのだが、「チャーリー・ブラウン」というマンガ・アニメの身体が、「巻き毛」という記号の線から実体を伴った「毛」を手に入れ、さらにその「毛」に「雪」がのることがこの句のアクセス・ポイントになっているのではないかと思う。

 マンガ・アニメのチャーリー・ブラウン(線の記号的身体)
   ↓
 巻き毛という毛をもったチャーリー・ブラウン(毛をもった実質的・脱キャラクター的身体)
   ↓
 雪がちゃんと毛のうえにのるような巻き毛をもったチャーリー・ブラウン(モノの身体としてのチャーリー・ブラウン)

雪が毛の上にのるということは、その毛はモノであり、いつかは抜けるということでもある。抜けるということは、このチャーリー・ブラウンの身体は、やがては、老いて、死んでゆくということでもある。この「幸せな雪」の「幸せ」とはそういう身体をもちながらも、それでも〈いま・ここ〉の時間を「幸せ」と感じることのできることをあらわしている。

だからここでのアクセスポイントは、チャーリー・ブラウンが〈老いる身体〉と出会ったというそのことにある。それでも、その〈老いる身体〉のうえに、「幸せな雪」がふり・つもった。その〈重み〉がこの句の生になっていると、おもう。

  チョコチップクッキー世界ぢゆう淑気  野口る理


          (「Ⅰ おもしろい」『天の川銀河発電所』左右社・2017年 所収)

2017年10月11日水曜日

超不思議な短詩238[岡崎京子]/柳本々々


  いつも一人の女の子のことを書こうと思っている。いつも。たった一人の。一人ぼっちの。一人の女の子の落ち方というものを。  岡崎京子

「岡崎京子展 戦場のガールズ・ライフ」の図録『岡崎京子 戦場のガールズ・ライフ』に寄せた文章のなかで小沢健二は次のように書いている。

  岡崎京子は『ヘルタースケルター』で、「みなさん」という言葉を使っている。マーケティングの会議/思考がとらえようとするのは、この「みなさん」の動向だ。
  ……
  でも、「みなさん」は、実は存在しない。
  「みなさん」は、実は数字だ。
  (小沢健二「「みなさん」の話は禁句」『岡崎京子 戦場のガールズ・ライフ』)

小沢健二は『ヘルタースケルター』に埋め込まれた「みなさん」と「あんた達」の差異について語る。「みなさん」に取り巻かれた主人公のりりこ。表の「みなさん」と裏の「あんた達」の二重構造的環境にとりまかれるりりこ。

ここで興味深いなと思うのが、岡崎京子マンガが喚起してくる全体性である。岡崎京子は、冒頭に掲げたように「たった一人の」「女の子のことを書こうと思っている」と述べるのに、そして実際それは納得できるはずなのに、岡崎マンガでは、その「一人」が〈全体的ななにか〉を立ち上げていく。それは「女の子」を取り巻く全体的な「みなさん」や「あんた達」かもしれないし、「一人の女の子」が「全体」(終末感と奇妙な明るさが同居した80年代)の「女の子」を代表してしまう。「一人」が「全体」に結びついていってしまう風景を岡崎マンガは描いていたのではないか。

冒頭の引用部分は『ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね』の「ノート(ある日の)」からだが、こんな続きがある。

  いつも一人の女の子のことを書こうと思っている。
  いつも。たった一人の。一人ぼっちの。一人の女の子の落ち方というものを。
  一人の女の子の落ちかた。
  一人の女の子の駄目になりかた。
  それは別のありかたとして全て同じ私たちの。
  どこの街、どこの時間、誰だって。
  近頃の落ちかた。
  そういうものを。
  (岡崎京子『ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね』)

「一人の女の子」の風景は、「別のありかたとして全て同じ私たち」につながっていく。それはもう女の子/女性/男の差異もない「全て同じ私たちの」風景である。

『岡崎京子 戦場のガールズ・ライフ』には穂村弘さんの短歌が寄せられているが、やはり、〈全体〉を想起させる短歌になっている。

  長い夢から覚めたら世界がなんか変 タクシーの基本料金がちがう  穂村弘

  「商社ってシステムでかいから一度海老に決まると一生海老だ」  〃


  真っ青な目に僕たちを入れたまま台風はゆっくりとウインク  〃

  「目玉焼き、かたさどのくらい?」と問いかける誰かの声が永遠になる  〃

  「気をつけて一OLのあやまちは全OLのあやまちだから」  〃
  (「インターフォンにありんこがいる」『岡崎京子 戦場のガールズ・ライフ』)

夢から覚めると「世界」が変わり、「システム」は「海老」が「海老」で一生ありつづけることを決め、「台風」の「真っ青な目」のなかに「僕たち」はいて、「誰かの」なにげない「声が永遠にな」り、「一OLのあやまちは全OLのあやまち」になる〈世界〉。

  そうよ あたしはあたしがつくったのよ
  (岡崎京子『ヘルタースケルター』)

〈ひとり〉の「あたし」の世界は、〈ぜんぶ〉の「あたし」の世界に結びついてゆく。

  日本の女の子の人生の幸福と不幸と困難さと退屈さについて行ってみよう。
  (岡崎京子「ノート(ある日の)」『岡崎京子 戦場のガールズ・ライフ』)

「いつも一人の女の子のことを書こうと思っている」と書き出した文章で岡崎京子は「日本の女の子の人生の幸福と不幸と困難さと退屈さ」について書き始めている。岡崎マンガでは、絶望的に、ひとりの女の子とぜんぶの女の子が結びついてゆく。それは、時間さえも、超えて、だ。

  あなたが これから 向かうところは わたし達が やってきたところ
  (岡崎京子『チワワちゃん』)


          (『岡崎京子 戦場のガールズ・ライフ』平凡社・2015年 所収)

超不思議な短詩237[高山れおな]/柳本々々


  ムーミンはムーミン谷に住んでいる  高山れおな

「ムーミンはムーミン谷に住んでいる」というのはほんとうにそのままであるのだが、しかし、誰かが・どこかに・住んでいる、ということ、誰かが・どこかにいざるをえないということとは、そのことを句にするだけで意味生成の現場になることがある。地政学的感性、と言ったら大げさかもしれないが、だれが・どこに回収されてゆくのかということ。

  無能無害の僕らはみんな年鑑に  高山れおな

「ムーミン」は「ムーミン谷」に〈回収〉されたが、「無能無害の僕らはみんな年鑑に」〈回収〉されてゆく。こうした回収の差異のありかたによって、「ムーミン」が「ムーミン谷」に回収されるというあり方もほんとうに〈そのまま〉であるのかどうかという〈偏差〉が出てくる(ムーミンは俳句にも住み込んでしまっているわけだし)。

この〈回収〉という枠組みでれおなさんの俳句をみてみると、たとえば、

  麿、変?  高山れおな

の句は、「麿」が「変」に回収されるかいなかの瀬戸際というか臨界そのものを描いている句にもみえる。「変」に回収されるかもしれないし、「変」に回収されないかもしれないそのぎりぎりのところを切り詰めた言葉で、それしかいわないようにして、描いている。

こうした〈回収〉への意識は、〈回収〉しえないものたちも呼んでくる。

  げんぱつ は おとな の あそび ぜんゑい も  高山れおな

の、「あそび」としての「げんぱつ」は、「ムーミン谷」にも「年鑑」にも「変」にも〈回収〉しきれない「あそび」としての揺れ動きや余剰のなかで存在しつづける。

  踊る嫁が君(マウス)よ、私が私で、明るすぎる  高山れおな

「踊る嫁が君(マウス)」という揺れ動く〈あなた〉に対して、「私が私で」と即座に「私」を「私」に回収させる「私」。その対立が「明るすぎる」空間としてスパークする。

こうした回収不能性と回収可能性の対立のダイナミックスのなかに「ムーミンはムーミン谷に住んでいる」という句が置かれることによって、回収可能性としてのムーミン句は、実は、回収不能性としての意識も孕んだ句、回収不能性と関係しつづける句だということもみえてくるのではないだろうか。

ムーミンはムーミン谷に住んでいる、という言説ほど質素で過激なものはないかもしれない。

  虚空より紫蘇揉み出すは寂しけれ  高山れおな


          (「Ⅰ おもしろい」『天の川銀河発電所』左右社・2017年 所収)

超不思議な短詩236[星野源]/柳本々々


   夫婦を超えてゆけ/2人を超えてゆけ/1人を超えてゆけ  星野源

最近星野源の「恋」の歌詞「夫婦を超えてゆけ/2人を超えてゆけ」について考えていて、これは漱石『門』の、

  宗助と御米とは仲の好い夫婦に違なかった。いっしょになってから今日(こんにち)まで六年ほどの長い月日を、まだ半日も気不味(きまず)く暮した事はなかった。
  (漱石『門』)

や、

  屠蘇散や夫は他人なので好き  池田澄子

などの〈夫婦〉というユニットをめぐる小説や句と通底しあっている歌なのではないかと思った。

夫婦を考えるときに問題となるのは、夫婦を夫婦として意識しはじめたときに2人のあいだで逸脱してきてしまう〈なにか〉である。でもその〈なにか〉は〈なにか〉の余剰としてしか感じ取れず、〈なにか〉のままで置くしかないのだが、星野源の歌詞にも語られているように、「夫婦」を考えたとき、「夫婦」とは、「2人」とは、「1人」とは、というカテゴリーをめぐる問いが生まれてくる。

星野源も漱石も池田澄子さんもいったん〈夫婦〉というカテゴリーに沿いながら、その夫婦というユニットのカテゴリーをたどっているうちに越え出ようとしているところに特徴がある。星野源の歌の「似た顔や虚構」と言った第三者が夫婦幻想に介入してくるのも、星野・漱石・澄子に共通するところだ。夫婦は夫婦で簡潔しない。池田さんの句にあるように「他人」という第三項の問題がかかわってくる。

たとえばこの池田さんの句を漱石『門』になぞらえるなら、

  屠蘇散や夫は他人(の安井がいるから)なので好き

ということになる。

  二人はそれから以後安井の名を口にするのを避けた。考え出す事さえもあえてしなかった。
  (漱石『門』)

は、逆にどれだけ安井を夫婦が意識しているかを〈逆語り〉している。安井から駆け落ちするように逃げるように2人になった2人。私は星野源の恋ダンスをほんとうは漱石『門』の野中夫婦に踊って貰いたいなあと思ったりもする。例えば野中宗助が、野中御米が、恋ダンスを踊りながら「夫婦を超えてゆけ/2人を超えてゆけ/1人を超えてゆけ」の部分でなにを思うのか。いや夫婦というユニットを考え続けた漱石に恋ダンス踊ってもらいたい。

夫婦であるということは、夫婦というカテゴリーを考えると同時に、2人であるとはどういうことかを考えると同時に、1人であるとはどういうことかを同時に考えることでもある。そして時々たぶん私たちはその夫婦という、2人という、1人というカテゴリーを〈恋〉によって(なんとなく)超えてしまう。

星野源の歌でも「似た顔や虚構」という〈脅威〉が迫っているように漱石『門』でも「安井」という夫婦存在を脅かす「似た顔や虚構」が現れる(宗助は脅えるがその安井がどの安井なのか作品では結局明らかにならないぶん、宗助は「似た顔や虚構」に怯え続けることになる)。

  そうして父母未生以前と、御米と、安井に、脅かされながら、村の中をうろついて帰った。
  (漱石『門』)

宗助は最終的に、じぶんの存在の根っこと、妻と、妻のかつての夫婦となろうとした相手に、おびやかされることになる。つまり、夫婦で今じぶんがたまたまいることの可能性、夫婦がこわれることの可能性、夫婦でなかったことの可能性、のみっつのねじれ≒夫婦ループのなかにはいりこんでゆく。

夫婦というユニットの静かな危機と崩壊を描き続けてきたのが劇作家の岩松了で、『水の戯れ』や『テレビ・デイズ』でなんとなく・しずかに・はげしく・こわれていく夫婦を描いている。

  夫 でもキミは、その前、自分だけの問題じゃない。ふたりの問題だって言ったよ。
  妻 問題なんて言わないわ。生活だって言ったのよ。
  夫 ……。
  妻 ……。
  夫 生活って?
  妻 ……。
  夫 ……。
  妻 生活よ……。
  (岩松了『テレビ・デイズ』)

『水の戯れ』では、もう「結婚」しているのに、「ちゃんと結婚してないような気がする」と夫の春樹が言い始める。しかし、「ちゃんと結婚」するとはどういうことなのか。夫婦に「ちゃんと」を持ち込みはじめたとき、その夫婦は、どうなるのか。夫婦を、2人を、1人を、ひとは、どうやって、越えられるのだろうか。恋ダンスのねじれるようなダンスは、その答えがアクロバティックにしか見いだせないことをあらわしているかもしれない。

ちゃんと2人になりたい、ちゃんと2人でいたい、ってどういうことなんだろう。おおくの〈2人〉がといかけていること。

  春樹 ちゃんと結婚したい……
  明子 え?
  春樹 ちゃんと結婚したい。
  明子 どういうこと?
  春樹 ちゃんと結婚してないような気がする……。
  (岩松了『水の戯れ』)


          (「恋」・2016年 所収)

2017年10月6日金曜日

超不思議な短詩235[オクタビオ・パス]/柳本々々


  しばしば、連歌は日本人に対し、自分自身から脱出する可能性、孤立した個人の無名性から、交換と承認が形づくる円環へと転じる可能性を提供したのではないかと思われる。  オクタビオ・パス

今年の夏に青森の川柳ステーションに呼ばれたときに、ある方から連歌(連句)に誘っていただいてそれからずっと今も続けている。

オクタビオ・パスの『RENGA』序文のことばは、連歌の性質をよく、わかりやすく、あらわしていると思うので、引用してみよう(私は大学の頃、パスの「波と暮らして」という運命の波と浜辺で出会い、波と同棲し、波と添い寝し、波と破局する超現実的な短篇が大好きだったが、まさかまた別のかたちでパスと巡り会うとは思わなかった)。

  しばしば、連歌は日本人に対し、自分自身から脱出する可能性、孤立した個人の無名性から、交換と承認が形づくる円環へと転じる可能性を提供したのではないかと思われる。これは階級制度の重圧から自己を解き放つ一つの方法だった。連歌は礼儀作法に匹敵するような厳格な規則にしばられてはいるものの、その目的は個人の自発性を抑え付けることではなく、反対に、各人の才能が、他人にも自分自身にも害を及ぼすことなく発揮されるような自由な空間を開くことにあった。
 (オクタビオ・パス『RENGA』序文)

連歌(連句)をやってみて体感的にすごくよくわかったのが、俳句とは発句だというのが実感として理解できたということだ。わたしはずっとこの発句というのはいまいちよくわからなかった。連句のはじまり、出「発」としての発句は、はじまりだからきちんとしていかなければならない。だから、切れや季語によってきちんとする。それでいて、はじまりなのだから、これからの長い旅への挨拶になっていなければならない。これは小澤實さんがよく書かれている俳句は「挨拶の文芸」とも通じ合う。

「挨拶」がつねに誰かに向けてなされるものであるように、発句という一句屹立するものでありながら、次に続くひとのことを考えるのも連句である。これをパスは「交換と承認が形づくる円環」というふうに表現している。

「交換と承認」のサークルのなかで、じぶんがどこまで個性を発揮していいのか考えながら、じぶんの出力のバランスをかんがえながら、同時に、これまで続いてきた句を、いま、じぶんがつくる句にどのように入力していくかのバランスも考えながら続けていく連句。

小池正博さんがかつて書いていたように、連句は後戻りすることはできない。前へ前へ〈それでも〉進んでゆく勇気が、連句である。

だから、あまりにネガティヴになると、だんだん連句の座が暗いムードになっていくので、捌きというリーダーのひとから、やぎもとさん、ちょっと暗いです、暗すぎます、と注意を受けるのだが、ああわたしって暗いんだなあ、と連句をやってはじめてわかった(それまでは明るい人間だと思っていたのだ)。ただし実はこれは現代川柳そのものがわりと暗い色調をもっているからなのではないかとあとでうつむきながら考えたりもした。

浅沼璞さんの本を読んでいて知ったのだが、小津安二郎も連句をよくやっていたらしい。たしかに、自分の個性の入出力のバランスをとりながら、ぽんぽん会話しながら、なにがあってもそれでも前へ前へと進んでいく小津安二郎映画の風景は、連句の風景によく合うように、おもう。

いや、そもそも連句は、小津安二郎が言うように、映画的、なのだ。

  ゴム林の中で働く仕事を命じられ、そこに働いているあいだ暇をみては連句などをやっていました。撮影班の一行がその仲間なんです。故寺田寅彦博士もいわれていたが、連句の構成は映画のモンタージュと共通するものがある。
 (小津安二郎『キネマ旬報』1947年4月)

         (「受け継ぐこと、紡ぐこと」『リアル・アノニマスデザイン-ネットワーク時代の建築・デザイン・メディア』学芸出版社・2013年 所収)

超不思議な短詩234[福田若之]/柳本々々


  春はすぐそこだけどパスワードが違う  福田若之

ときどき、俳句のなかのアクセス不能、というものについて考えている。いや、というよりも、この福田さんの句をはじめてみたときに、俳句にはアクセス不能というテーマがあるように知ったのかもしれない。

当たり前のことだけれど、俳句とは、季語を通して・季節にアクセスする文芸である。季語や『歳時記』というメディアを通して季節にアクセスする。そのためのパスワードは季語そのものである。

ところがこの句では「春」を感触しながらも、アクセスするための「パスワードが違う」ために、「すぐそこ」の「春」にアクセスできない。感触しながら、触知できない。

たとえばこんな句と比較して考えてみよう。

  おおかみに螢が一つ付いていた  金子兜太

「おおかみ」(冬の季語)と「螢」(夏の季語)がアクセスしてしまう神話的な時間がここにはある。超アクセスの句である(アクセス過剰の力といったらいいか)。

でも福田さんの句は「春」というすごくシンプルな季節にたどりつけない。金子さんの句が季語を使えばそれがパスワードそのものになったようにはできていない。季語はいつかパスワードとしては失効しはじめ、〈別のパスワード〉が必要になっている。春も、季語も、アクセスも、この句では遅延している。

  ながれぼしそれをながびかせることば  福田若之

アクセス不能とは「ながびかせる」遅延として言い換えることもできるかもしれない。「春」はやがてはアクセスできるかもしれない。「すぐそこ」まで来ていることは感触できているんだから。でも、触知はできない。「それをながびかせることば」にわたしたちは「まかれて」包囲されているので。

  なんという霧にまかれていて思う  福田若之

もちろん、アクセスできたとしてもこんどはアクセスそのものも疑う必要がある。

  騙されながら風船に手を伸ばす  福田若之

さきほども言ったようにアクセス自体も遅延しつづけるからだ。

季語は世界にアクセスするためのパスワードだったはずなのに、俳句の現在においてはそのパスワードが失効しはじめている。という事態が、俳句そのもので、失効し、遅延しながら、それそのものが俳句化しながら、かんがえられている。「どこか」にたしかな「ねじ」が落ちていることは、わかる。

  夜景どこかにつめたいねじが落ちている  福田若之

わかるのだけれど、でもそれはどうすれば到達できるのだろう。「どこか」は、どこまでも、「どこか」でしかない。おおきな、とても、おおきな不可能性が、ある。

  真っ白な息して君は今日も耳栓が抜けないと言う  福田若之


          (「Ⅰ おもしろい」『天の川銀河発電所』左右社・2017年 所収)

2017年10月5日木曜日

DAZZLEHAIKU12[山口昭男]渡邉美保



   鎌の刃に露草の花のつてゐる   山口昭男


鎌の刃と聞くとなんとなく心がざわめく。三日月のような湾曲した形と、刃はつねに自分に向かってくるという怖さがある。だが本来、鎌は、草を刈ったり、作物を収穫するために日常的に用いられる農具である。刈った草が刃の上に乗り、そのまま一緒に運ばれて手元まで寄って来るので、効率よく草刈をすることができるという。

一方、露草は道端や畑にはえる一年草。夏から秋にかけて藍色の清楚な花を咲かせる。その清く儚いイメージとは裏腹に、生命力旺盛で、畑にとっては、蔓延すると厄介な雑草である。
容赦なく刈り取られていく雑草、露草。ふと見ると鎌の刃に切られた露草の花が乗っている。農作業の後の(もしくは最中の)見過ごしてしまいそうな光景に目をとめた作者。よく切れそうな鎌の刃と、目の覚めるような瑠璃色の可憐な花。

「鎌の刃に露草の花のつてゐる」ただそれだけで、瑞々しい映像が浮かぶ。美しくも、シュールにも想像できる一句である。
こちらは、さらに残忍(?)な一句
〈露草の瑠璃をとばしぬ鎌試し・吉岡禪寺洞〉


〈句集『讀本』ふらんす堂2011年所収〉


2017年10月3日火曜日

超不思議な短詩233[シルバー川柳]/柳本々々


  寝てるのに起こされて飲む睡眠薬  シルバー川柳(瀬戸なおこ)

ある俳句の方が、俳句の認識における〈過入力〉の話をされていて面白いなと思ったことがある。

俳句は〈短い〉ので過剰な入力を施すことで、〈過剰な認識〉が形式化される。例えば雑に言えば、古池やカエルの飛び込む音が過剰に意識される。過剰に意識されるだけ、のことである。しかし、それが俳句になってしまう。俳句って、なんだろうか。

俳句が認識の過入力をほどこすのだとしたら、川柳は身体に対して過入力をほどこすのかもしれない。以前、詩性川柳とサラリーマン川柳の共通点は〈悪意〉だと述べたことがあるけれど、これは身体への悪意としての過入力時だということもできる(考えてみると、意地悪とは、過入力である)。

「寝てるのに」わざわざ「起こされて」(過入力)、「睡眠薬」を「飲」まされる(過入力)。シルバーの身体が過入力に遭い、それが悪意の形式化として詩になっている。川柳は、悪意と身体への過入力ではないか。

  紙おむつ地位も名誉も吸いとられ  シルバー川柳(厚木のかずちゃん)

「紙おむつ」というそれまでの人生にはなかった「過入力」が「地位も名誉も」剥ぎ取っていく。

  「君の名は?」老人会でも流行語   シルバー川柳(はだのさとこ)

新海誠の映画『君の名は。』の「流行」は、「老人会」に密輸され、「老人」たちの認知をめぐる〈過入力〉(=過出力)となっていく。シルバーな認知=脳をめぐる過剰。

浅沼璞さんとの往復書簡で私は俳句や川柳は〈人称の強度〉と関わりがあるのではないかと述べて、あとで自分でこれ宿題にしていかないといけないなあ、と思ったのだが(それは人称のグラデーションの比較的少なさでそう述べたのだが)、過剰入力や過剰出力のありかた、過剰認知や過剰身体というのは、俳句や川柳と関係しているかもしれないと、おもう。

俳句/川柳は、過剰であるという地平。

  付いて来い言った家内に付いていく  シルバー川柳(山本敦義)  

  

          (『シルバー川柳7』ポプラ社・2017年 所収)

2017年9月30日土曜日

超不思議な短詩232[伴風花]/柳本々々


  恋人じゃないきみからの『おやすみ!』はみているだけのお菓子のように  伴風花

伴風花さんの歌集『イチゴフェア』は、歌集のタイトルのとおり、さまざまな食べ物がレトリックとして出てくる。

きみから『おやすみ!』のメールをもらっても、「きみ」は「恋人じゃない」ので〈食べる〉わけにはいかない。でも、それは、どこかおいしそうで、甘いものだ。「みているだけのお菓子のよう」なきみの『おやすみ!』。この歌は、食べ物がお菓子として甘いレトリックとして働いているが、食べ物のレトリックが効果的なのは、さまざまな味覚を有するとともに、その味覚があたたかい・つめたいによってグラデーションのような変化をもつことだ。

  キッチンにわたし一人が生きていてラップのしたのカレー冷えてく  伴風花

ラップは「カレー」を「保存」するためのものだが、どうして「冷えてく」〈状態〉を語り手は「一人」でいま、感じているのだろう。それは〈待っている〉からだ。ここで「冷えてく」のは、もちろん「カレー」だけではない。待っているわたしの〈内面〉も「冷えてく」。

冷たい食べ物と言えば、こんな啄木の詩とあわせて読んでみたい歌もある。

  われは知る、テロリストの
  かなしき心を――
  言葉とおこなひとを分ちがたき
  ただひとつの心を、
  奪はれたる言葉のかはりに
  おこなひをもて語らむとする心を、
  われとわがからだを敵に擲げつくる心を――
  しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有つかなしみなり。

  はてしなき議論の後の
  冷めたるココアのひと匙を啜りて、
  そのうすにがき舌触りに、
  われは知る、テロリストの
  かなしき、かなしき心を。
  (石川啄木「ココアのひと匙」1911年)

  おとうとの頬にココアの湯気がふれ終わらせてきた夢こぼれだす  伴風花

啄木の詩では、言葉と行動を分けることのできないテロリストのかなしいほろ苦い心が〈冷たいココア〉と掛けられているのだが、伴さんの歌では「おとうと」の言葉と行動が一致し、「終わらせてきた」はずの「夢」が「こぼれだす」瞬間が〈温かいココア〉と重ねられる。

1911年の冷たいココアの記憶は、2004年の温かいココアとして反転して蘇る。1911年大逆事件検挙者処刑の時代から、2004年のイラクの日本人人質事件による「自己責任論」の時代へ。

「終わらせてきた夢」とココアが出会ったが、伴さんの歌集では学生時代を詠んだ短歌に食べ物がでてくる。

  売店で牛乳を買う 炭酸も髪のばすのも一緒にがまん  伴風花

  香りさえ想像されることはなくりんごはxみかんはyに  〃

野球部のマネージャーとして野球部員と「一緒にがまん」しながら飲むときの青春の時間をパックするような「牛乳」。数学の授業であらわれた数式に消費されるだけの「りんご」や「みかん」。でもその名もなく、口に入れられることもない「りんご」や「みかん」たちは短歌のなかでパックされたまま青春の「終わらせてきた夢」として保存される。

〈イチゴフェア〉という食べ物のレトリックに彩られるわたしたちの生は、ときおり、節目となるような食べ物に保存されながら、ずっと、続いてゆく。順に忘れられながら、それでも順に、歌い出されるのを待ちながら。

  やっといて、は三十個まで保存され順に忘れる(きみのを除き)  伴風花

  りんごはまるく
  でもそのまるさは
  オレンジのそれよりもしずかで
  にぎやかなオレンジにはにぎやかなオレンジの
  しずかなりんごにはしずかなりんごの
  一年がある
  それぞれの皮の内側に
  きっちりと閉じ込められて

  髪を切ったり
  冗談を言ったり
  旅にでたり
  風邪をひいたり
  して
  一匹の蚊にとってはSF的にながい一年を
  私たちはやすやすと生きる
  (江國香織「一年」『扉のかたちをした闇』)



          (「夜の銀杏」『イチゴフェア』風媒社・2004年 所収)

超不思議な短詩231[人体の構造と機能]/柳本々々


  心臓は胸部の中心、左右の肺の間にあり、成人の握りこぶし大の大きさである。また心臓は4弁・4室からなり、体循環から静脈血は右心房へ戻り、三尖弁と呼ばれる房室弁を通り右心室、肺動脈弁から肺へ。肺循環を終えた動脈血は左心房へ戻り、僧帽弁を通り左心室、大動脈弁から全身へと血流を維持するポンプとしての構造を持っている。  山本真千子

浅沼璞さんとの往復書簡の関係で、さいきん編集をしてくれている宮本佳世乃さんとお話する機会があり、そのなかで、斉藤斎藤さんの「のり弁」の歌の話が出た。佳世乃さんは「のり弁」の歌は、同連作内の「急ブレーキ音」や「医師」との応答などの歌とあわせて読むと「のり弁」の歌の読みが一首単位とは変わってくるという(佳世乃さんは医療の仕事に携わっているのでもともとそういう視野をもっているところもある)。今回の記事は佳世乃さんとの会話から想を得ている。

次回の璞さんとの往復書簡は、「三句の転じ」と言って、句が横にひろがっていくことで〈認知のし直し〉が行われていくという話題になる予定なのだが(『オルガン』11号に掲載予定)、こうした〈認知のし直し〉は連作においても行われているように思える。

  雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁  斉藤斎藤
  (「ちから、ちから」『渡辺のわたし』2004年)

この歌は、

  問い、「(これは)なんでしょう」←答、「のり弁」

とわたしの〈問いかけ〉がわたしの見たもの(認知)に〈答えられる〉構造になっているのだが、問題は、この「ぶちまけられて」の不穏な挿入である。いくら、「なんでしょう」の正体が「のり弁」だとわかってしまったとしても、その「ぶちまけられ」た〈事態〉、だれが・なんのために「ぶちまけ」たのか、ということには答えが出ない。ここにはふたつの位相がある。

 すごくよく見ればわかること。→のり弁だとわかった

 すごくよく見ても絶対に答えがでないこと。→だれが・なんのためにのり弁をぶちまけたのか。

つまりこの歌は、形而下の「ぶちまけられたのり弁」には答えが与えられながらも、形而上の「なんのためのぶちまけられたのり弁」には答えが与えられない構造になっている(ちょっとこれは連作のタイトル「ちから、ちから」の二重構造の〈ちから〉のあり方にも関わっているかもしれない。「(答えが与えられる)ちから、(答えが与えられない)ちから」。

〈縦〉としての一首だけでみるとこうした二層構造が出てくるのだが、〈横〉として連でみていくと、この「のり弁」の歌はまた違った質感が出てくる。

この連作「ちから、ちから」には詞書を手がかりにすれば〈二年前〉にこんな歌が置かれている。

  急ブレーキ音は夜空にのみこまれ世界は無意味のおまけが愛  斉藤斎藤

  医師はひとり冷静だったぼくを見た もうそろそろ、とぼくが殺した  〃

「急ブレーキ音」。なにかの事故に関わるものだと思うが、ただその「事故」は「愛」に関わったものである(「愛」に関わるような大事なひとが事故にあっている)。そして「医師」が心臓マッサージをしているような場面。「冷静」で判断ができそうな「ぼく」を「見」る「医師」。〈もうそろそろ(やめてもいいです)〉と「医師」に〈答える〉「ぼく」。「ぼくが殺した」は、ぼくが心臓マッサージをやめさせた、「ぼくが(愛に関わるあなたを)殺した」に掛かってゆく。

連作には、こうした〈事故〉と、その〈事故〉によって起こる医師との〈受け答え〉が置かれている。

そのまま連作を読み進めてゆくと〈その後〉として「のり弁」の歌は置かれている。事故が起きて、医師に〈答え〉て、「ぼくが殺し」て、〈答え〉が出たのだけれど、でも、「のり弁」の「ぶちまけられて」には、〈答え〉が出ない。医師への応答もそうだし、のり弁の気づきもそうなのだが、〈答える〉ことは、〈答え〉ではない。

今度の往復書簡にも書いたのだが、例えば「のり弁」の歌の一首おいて後には次の歌が置かれている。

  ほんのりとさびしいひるはあめなめてややあほらしくなりますように  斉藤斎藤

〈わたし〉を包んでいた景としての「雨」は、「あめ」として隠されるように〈わたし〉の口の中に包まれながら、〈わたし〉の口の「ちから」によって溶かされながら消えていく。「ややあほらしくなりますように」と、〈のり弁的問いかけ〉そのものが放棄されるような「あほ」的状態への願いが志向されるが、しかしそれは「あほらしく」という〈擬態(ふり)〉でしかなく、また「なりますように」という〈願い〉でしかない(ことも〈わたし〉にはわかっている)。「あほ」であることを志向しながらも、その「あほ」になれない〈わたし〉の気づき。「ぶちまけられて」から逃れようのない〈わたし〉。

「のり弁」が「のり弁」と書いてある限り「心臓」のメタファーであるとは言えないが、「のり弁」をめぐる〈問いかけ〉の二重構造は愛に関わるひととの事故と連なりながらこの連作のなかで通底しているように思う。

 医師との応答:〈わたし〉が答えてしまうこと。〈わたし〉答えがきっちり享受されること。

 のり弁の問答:〈わたし〉の答えがわかること。しかしわかっただけでは出てこない〈わたし〉の問いかけに気づくこと。

 あめをめぐる問いの放棄:〈わたし〉の問いかけや答えを放棄しようとする願い。しかしその願いがどこまでいっても〈ふり〉でしかなく、放棄できない問いかけでもあることに気づいてしまうこと。

答えられることと答えられないこと、問いかけを放棄しようとすることと、問いかけを放棄しきれないこと。そうした〈わたし〉の「ゆきつもどりつ」をめぐって「のり弁」の歌がある。

「心臓」は「ひとりにひとつづつ」しかないのに、わたしたちが生きると、どうしてもそれだけでは割り切れない、「ぶちまけられて」に向き合うしかない生の様相が生まれてくる。横へ、横へ、生きるにつれて、わたしたちに、わたしたちから、わたしたちへの問い直しが、生まれてくる。

  桜餅ひとりにひとつづつ心臓  宮本佳世乃
   (『鳥飛ぶ仕組み』)


          (「心臓と血管」『人体の構造と機能』放送大学教育振興会・2005年 所収)

2017年9月29日金曜日

超不思議な短詩230[江國香織]/柳本々々


  身も世もなく恋をした果ての結婚も
  なんとなくなりゆきで
  気がついたらしていた結婚も結婚で
  世界じゅうに結婚が
  あふれ返っているのでした
  たとえばこの
  あかるい夏の夕暮れに  江國香織「世界じゅうに結婚が」

江國香織さんの詩を読んでいると、ひとが・ひとと〈いっしょにいる〉ってどういうことなんだろうと、考えさせられる。

  あの路地にもこのビルにも
  結婚したひとたちが住んでいて
  あの電車にもこのバスにも
  結婚したひとたちが乗っていて
  あの花屋でもこの八百屋でも
  結婚したひとたちが働いている

  続いていくそれも
  破綻するそれも
  みずみずしいそれも
  かさかさのそれも
  饒舌なそれも
  寡黙なそれも
  結婚は結婚で
  世界じゅうに結婚が
  あふれ返っているのでした
  たとえばこの
  あかるい夏の夕暮れに
  (江國香織「世界じゅうに結婚が」『扉のかたちをした闇』)

この「結婚」をめぐる詩は、「結婚」を制度的にとらえた詩ではない。ただ、〈おどろいた〉のだ。「世界じゅうに結婚があふれ返っている」ということに。そしてその「結婚」がどんなプロセスを含んでその「結婚」に行き着いていたとしても、それは〈わたし〉にとって等質な、あふれ返った「結婚」でしかないことに。

ただ、それを、びっくりしている。

〈いっしょにいる〉ひとたちが「あふれ返」るように〈いてしまう〉ことに語り手はおどろいている(そしてたぶんそのなかに〈この・わたし〉も含まれてしまうことに)。

「たとえばこのあかるい夏の夕暮れに」という時間の限定に注意してみよう。これは語り手が「たとえばこのあかるい夏の夕暮れに」「世界じゅうに結婚があふれ返っている」ことに〈気づいた〉ことをあらわしている。ある時間の区切りのなかに、「たとえば」というある任意の時間のなかに。この「たとえば」はわたしたちには関係のない時間だ。でも語り手にとっては関係のある時間なのだ。〈あるとき気づいてしまった〉時間として。

「世界じゅうに結婚が」いっぱいあること、は気づきさえすればいつでも気づけたはずなのだけれど、語り手は、とうとつに、「たとえばこのあかるい夏の夕暮れに」気づいてしまった。ひとが・ひとと〈いっしょにいる〉ことのふしぎさに。

江國香織さんの詩は、そうやって、〈いっしょにいる〉ことの不思議さに、あるとき、かみくだきながら(あの路地にもこのビルにも/あの電車にもこのバスにも/あの花屋でもこの八百屋でも)、きづいてしまう。そのときの、ふしぎさは、〈いっしょにいるってふしぎだね〉という〈あたしたちは運命的(非論理的)にであっちゃったんだね〉というほほえましいものではない。〈いっしょにいる〉ことが〈いっしょにいる〉の意味をぜんぶ剥ぎ取られながらも、それでも〈いっしょにいる〉ことしか残らないような、ちょっと、おののくような風景である。つまり、運命論とは別の、〈あたしたちの出会いなんてなんでもないのかもしれないね。それでもあたしたちはいっしょにいようとするんだね。これってなんなんだろうね。しかもそうした出会いで世界じゅうあふれ返っているんだ〉という風景。

こんな詩をみてみよう。

  よく知らない男の人と
  寝るときには緊張します
  と言えば放埒(ほうらつ)なようですが
  最初のときには
  誰だってよくは知らない男の人です
  すこしずつなじみ
  いとしんだりいとしまれたり
  あふれたりあふれさせたり
  して
  やがて
  よく知っている男の人と
  安心して寝られるようになります
  (江國香織「よく知らない男のひと」同上)

ここには〈いっしょにいる〉になるまでのかみくだかれたプロセスが描かれている。たとえよく知っている男の人でもセックスのときに至っては、いったんゼロに、「よく知らない男の人」になること。それから「すこしずつなじみいとしんだりいとしまれたりあふれたりあふれさせたりしてやがてよく知っている男の人」として〈いっしょにいる〉のに「安心」できる「男」になること。けれどそのとき、その〈気づき〉に到達したとき、〈いっしょにいる〉ことの危機もやってくる。

  けれど
  でも
  よく知っている男の人とのあれこれはみんな
  おぼろであいまいな一つの記憶にすぎなくなり
  記憶のなかでしたたかに微笑み
  私を誘(いざ)ない
  焦がれさせるのは
  もうどこにもいない
  よく知らない男の人
  だったりします
  (江國香織、同上)

「よく知っている男の人とのあれこれはみんなおぼろであいまいな一つの記憶にすぎなくなり」、〈いっしょにいる〉という「安心」に対して、「よく知らない男の人」からの〈いっしょにいよう〉という「誘い」がやってくる。「よく知っている男の人」との〈いっしょにいる〉は、「よく知らない男の人」の〈いっしょにいよう〉からの危機にさらされる。

語り手が、世界じゅうに結婚があふれ返っている、とある日、それまで〈当たり前〉だったことを、〈知らなかったわたし〉と〈知ったわたし〉を通して気づいたように、そしてそのことを通して〈いっしょにいる〉とはどういうことかに気づいてしまいそうになっているように、〈知らなかったあなた〉と〈知ったあなた〉を通して、やはり語り手は〈いっしょにいる〉とはどういうことかに気づいてしまいそうになる。

  けさ
  めがさめて
  さいしょに
  たこを一匹
  まるごと茹でて
  たべたいと
  おもった
  (江國香織「一月の朝」同上)

「めがさめて」「たこを一匹まるごと茹でてたべ」るような唐突で・圧倒的で・感覚的な〈気づき〉が、だれかと〈いっしょにいる〉ときに、〈いっしょにいる〉ひとをみたときに、江國さんの詩にはしばしば訪れる。それは「たこ」のように、どこか露骨に具体的で、しかし、つかもうとすると未知であるような〈気づき〉なのだが、〈いっしょにいる〉とき、〈いっしょにいない〉ときに、その「たこ」的な気づきはやってくる。

だれかといっしょにいることは、なんなのだろう。だれかといっしょにいないことは、なんなのだろう。すごくシンプルで、ありふれていて、根の深い問いだと、おもう。うまれたときから、しぬまで、ひとが、ありふれた顔をしながら、ずっと問いかけていく、問いだと、おもう。

  そして私は
  二月の音楽にとじこめられる
  ミートソースの具体的な匂いまで

  私はなぜまだここにいるのだろう
  ひとりで この世に
  この部屋のなかに
  (江國香織「二月の音楽」同上)


          (「世界じゅうに結婚が」『扉のかたちをした闇』小学館・2016年 所収)

2017年9月24日日曜日

超不思議な短詩229[京極夏彦]/柳本々々


  せをはやみ岩にせかるゝ瀧川の、思ふ男はーーおまへならでは。  京極夏彦

京極堂シリーズには、カバーの折った部分(前袖)に、かならずその物語全体にかかわるエピグラフがかかげてあるのだが、『絡新婦の理』のエピグラフが冒頭の歌である。

  瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ  崇徳院

という百人一首からとられているエピグラフなのだが、この「おまへならでは。」というのは私はずっと京極夏彦のオリジナルだと思っていたのだけれど、そうではなくて、鶴屋南北『四谷怪談』には「夢の場」と呼ばれる夢の中の場面があって、そのなかのこんな伊右衛門とお岩のやりとりから取られていることが最近わかった。

  お岩 スリヤあのあなたの御家名は、民谷様と申しまするか
  伊右 いかにも民谷。シテ、そなたの名は、なんと言ふぞ
  お岩 アイ、わたしがその名は。…
     すなはちこれが、わたくしが
      ト差し出す。伊右衛門、取つてこの歌を見て
  伊右 こりや七夕へさゝげたる百人一首の歌の内、瀬をはやみ、岩にかるゝ滝川の
  お岩 われても末に、逢はんとぞ思ふ。○(間) われても末に
      ト伊右衛門が顔をじつと見て
     逢うてたまはれ民谷様
  伊右 ヤ、さう言ふそなたは、家出しやった
  お岩 岩に堰かるゝその岩が、思ふ男はおまへならでは
      ト膝にもたれて、思ひ入れ
  (「後日中幕」『東海道四谷怪談 新潮日本古典集成』新潮社、1981年)

もともと崇徳院の歌は、川の流れが岩でふたつに割れたとしても、また終いにはそのふたつの流れは必ず出会うことになる、という別れた男女の再会という〈恋歌〉になっているのだが、お岩はその恋人の再会の歌の「岩」を「岩に堰かるゝその岩が、思ふ男はおまへならでは」と自身の名前と掛けながら民谷伊右衛門に「思ふ男はおまへならでは(わたしの想う男のひとはあなたでなくてはならない)」と言う。川をせきとめる岩だったものが「岩」という名前になることで、すさまじく情念のこもったものにもなっている(つまり、彼女は誰かと誰かを引き剥がし別れさせる障害物にもなりうるような存在でもある)。

この百人一首と四谷怪談が複合した歌が、『絡新婦の理』のエピグラフになっている。「二人は別れてしまうけれど、やっぱりあなたではなくてはなりません」

じゃあ、『絡新婦の理』ってどういう物語だったんだろう。

京極夏彦の小説は〈レンガ本〉と言われるようにとても分厚く長大な物語(ミステリ)なのだが、この『絡新婦の理』というストーリーを私なりにこんなふうに短く要約してみたいと思う。

 システムに自覚的なあまり悲しい男が、システムに無自覚なあまり悲しい女に出会う物語。

ここで男とは京極堂であり、女とはこの事件の本当の犯罪者(絡新婦=じょろうぐも)のことである。どちらもシステムをめぐる立場でありながら、自覚/無自覚というちがいをとおして、ふたりは〈おまえではなくてはならない〉ような人間(おまえ)に出会う。

  「慥かに、観測者が無自覚である場合は不確定性の理(ことわり)から逃れられるものではありません。だが観測者がそうした限界を常に括弧(かっこ)に入れて臨む限りはそのうちではない。僕は事件の傍観者たることを自覚している。つまり観察行為の限界を識(し)っている。だから僕は言葉を使う。言葉で己の境界を区切っている。僕は僕が観察することまでを事件の総体として捉え言説に置き換えている。僕は既存の境界を逸脱しようと思ってはいない。脱領域化を意図している訳でもない」
  「あ、貴方はーー」
  「《僕の悲しみ》はそこにあるのです。あなたにはそれはないのかと、ずっと思っていた。しかしどうやら、あなたはそれに無自覚だっただけのようだーー」
  男は女に向き直る。
  女は戦(おのの)く。しかしたじろぐことはしない。
  男は隈取(くまどり)のある凶悪な眼で女を見据える。
  「ーーこれで漸く解りました。あなたは《あなたが発動した計画がどのような理に則って動く》のか、全く理解していなかったのですねーー」

  「ーーだからあなたは《止められなかった》んだ」
  (京極夏彦『絡新婦の理』)

京極堂/犯罪者双方ともシステムに関わる者としては二人はおなじ種類の人間である。二人ともシステムを産み出す側の人間だ(ちなみによく探偵と犯罪者は一心同体ではないかと言われることがある。事件解決とは事件を忠実にたどり直すことに他ならないから探偵は犯罪者の立場になることができる人間なのだ)。

ただ京極堂はシステムを産み出す(解決する/説明する)ときにそれを自覚している。ほんとうはやりたくないことなのだとも思っている。じぶんができることなんてなにもない。ただシステムを言葉にして可視化するだけだ。そんなことは実は意味がない。なんの生産にもならない。出来事の速度を、結果をはやめるだけだ。それになんの意味があるのか。だから彼はかなしい。この世の中に《不思議なことはなにもない》のだから放置しておけばいい。なるようになる。でも彼はひっぱりだされ、システムを言語化=可視化するよう要請=強制させられ、そのことによって、時間を、時間の流れを、出来事の流れをはやめ、出会うべくして出会うべきだった不幸なものたちを不幸なかたちで出会わせることに《たずさわる》。ネガティヴな「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ」を京極堂は雑司ヶ谷の産院の事件から、ずっと行っているし、行わされている。

でも『絡新婦の理』の犯罪者には、そのシステムの理(ことわり)が自覚できていなかった。彼女にとっての「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ」は、いつも、偶発的なかたちで(彼女の思いがけないかたちで)起こった。京極堂にとっては必然的な「瀬をはやみ~」は、彼女にとっては偶発的な「瀬をはやみ~」だったのだ(そしてたぶんそのことさえをも自覚してしまうこと、できてしまうことをも京極堂は悲しがっている)。

『絡新婦の理』はフェミニズムをめぐる長大な物語なのだけれど、シンプルにまとめるならば、こうしたシステムの認識の違う男女が《出会う》物語としてみることができる。そして、その意味で、実は、『絡新婦の理』の最大の事件は、この男女がすれ違いつつも《出会(ってしま)う》ことにある。

犯罪者である彼女にとって、この《違い》を教えてくれるのは、たぶん、京極堂しかいなかった。その意味で彼女にとって「おまへならでは」は京極堂である。そして京極堂にとって彼女にそれを教えてやれるのは自分しかいなかった。悲しいことだけれど京極堂にとってまた彼女も「おまへならでは」だった。

フェミニズムが、男女の出会いを演じながらも、その違いを、《男女の出会いの失敗》を、析出する思想であるならば、まさしく本書は〈フェミニズム〉をめぐる物語である。『絡新婦の理』では、男女の出会いが、男女の出会いの失敗が、出会いの失敗のあきらめが、しかしその失敗からのかすかな新しい希望が、描かれる。

この長大な物語の最初と最後は同じセリフであり、ループのような構造になっている。この京極堂の一言で『絡新婦の理』は、始まり・終わる。

  「あなたがーー蜘蛛だったのですね」

つまり、この物語は、男女が出会い、男が女に「蜘蛛」としての、複雑に交錯=交雑するシステム(蜘蛛の巣)の中央に君臨する者としての、アイデンティティを付与する物語だということができる。

だけれども、それは決して男が女に名付けを与える類のマスキュリンな、マッチョな物語ではない(男から女への「感情教育」の物語ではない)。なぜなら、男は、京極堂は、そうせざるをえないことを自覚し、悲しんでいるから。

つまり、はじめから、どの事件でもそうなのだが、京極堂は負けを自覚してやっている。負けを自覚はしているが、しかし京極堂の悲しみは、負けを自覚することではなく、他者に関わりながら・なにもできないことの〈自覚〉にある。それを〈負け〉というなら〈負け〉だが、『邪魅の雫』で超越的探偵の榎木津礼二郎が言ったように、大事なことは「勝ち負け」でも「善し悪し」でもない。他者に今関わっている自分を「逢いたかった」とか「久し振り」とか「こんにちは」と〈関わり〉として自覚することなのだ。

  「え?」
  「馬鹿野郎と云った。君はーー本当に馬鹿だ」
  「わ、私は、だって」
  「逢いたかったとか、久し振りとか、せめてこんにちはとかーーそう云うことを云うものだろう」
  「だってーーそんな、私は」
  「勝ち負けじゃないぞ」
  「勝ちーー負け?」
  「善し悪しでもない」
  どう云うーー意味?
  「解らないようだな」
  「え、榎木津君ーー」
  「もう遅い」
  (京極夏彦『邪魅の雫』)  

他者にいま自分が関わりながら同時になにかをしてあげることの限界を自覚することの認識。探偵にあって、犯罪者にないものは、それだ。犯罪者はいつもそれに《気づく》ことの「遅さ」を抱えこんでいる。

『絡新婦の理』はそうした意味で、京極堂シリーズにおける京極堂の〈悲しい認識〉、ひいてはすべての探偵たちの〈悲しい認識〉を位置づける物語になっている。

探偵たちは、「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に」、幾つもの事件を通して、世界の中心にいようと《試みた》「おまへならでは」に出会う。

探偵たちは、数限りない事件と再会をとおして、犯罪者たちに告げる。この世界には中心なんてないのだ、と。

  それは幻想(まやかし)だ。
  大いなる錯誤だ。
  己と世界は同等だとーー。
  或いは己こそが世界だとーー。
  或いは己が世界の中心に居るとーー。
  何(いず)れも間違っている。
  あの奇妙な男が教えてくれたことだ。
  …世界の構成要素であることと、世界そのものであることは、同義ではない。
  そしてーー世界に中心などない。
  (京極夏彦『邪魅の雫』)


          (『絡新婦の理』講談社・1996年 所収)

*システムの網の目とその中心にいるものの話をしたが、歴史的に考えてみると、『絡新婦の理』は1996年刊行であり、1995年がインターネット普及の年だったことを思い出してもいいかもしれない(1996年はヤフー創業年)。つまり、わたしたちが蜘蛛の巣状のネットワークのセカイの中心になりはじめたときなのである。1995年『新世紀エヴァンゲリオン』の最終話タイトルは「セカイの中心でアイを叫んだけもの」だった。ちなみに『邪魅の雫』はセカイ系がテーマの事件になっている。

2017年9月23日土曜日

超不思議な短詩228[ドラゴンクエスト]/柳本々々


  ぎこそざだ とてつちにひふ へねてとだ ぢりび  ふっかつのじゅもん「ドラゴンクエスト」

現在ゲームはオートセーブ機能があって突然アプリが終了してしまってもゲームが勝手に事前にセーブしてくれていたところから進めることができる。だから何かの事態が起きてもそこまで頭をかかえて膝をついて苦悩することはないのだが、『ファイナルファンタジー』発売の1987年までセーブは画面に映し出されたパスワードを紙に書き取り、再度プレイするときは、その紙のパスワードを打ち込んで始めていた。だからそのパスワードの書き取りが間違えると、すべてのそれまでの冒険データは消えることになる。このパスワードは、遊び手の前に立ちふさがる「画面外の“敵”」とまで呼ばれた。

  『ドラゴンクエストⅠ』『Ⅱ』では、セーブの代わりにパスワードを入力する方式だった。「じ」と「ぢ」や「ぬ」と「ね」を間違えて、苦難の結晶である冒険の記録がパーになる。ああ、悪夢!
  (『別冊宝島 決定版! 僕たちの好きなTVゲーム』)

『ドラゴンクエスト』(1986)のパスワードは意味不明な言葉の羅列が「ふっかつのじゅもん」と呼ばれていたのだが、意味不明な羅列のため、書き取り間違いを起こしやすかった(入力が違うと「じゅもんが ちがいます」と無情なテロップが出る)。ただ意味不明だけでなく、実はこの「ふっかつのじゅもん」は《定型》もそれとなく取り入れていた。

  バックアップメモリなどがなかった時代、データを保存するために考えられたのが復活の呪文。単なる進行度のパスワードではなく呪文の中に経験値などのでーを含むというアイデアが秀逸であった。五・七・五・三の韻を踏んだ日本的なリズムも味がある。しかし、所詮はデータ、無意味な音の羅列にドラマが生まれる。…夢中でメモした紙が会社の重要書類や保険証だったり。
  (同上)

意味不明なじゅもんの羅列であったとしても、かすかな〈ユーザーフレンドリー〉としての 「五・七・五・三」の定型意識。当時の『ドラゴンクエスト』のプレイヤーたちは、ゲームをプレイしながら、中断するたびに、〈定型詩〉を紙に書き記していたとも言える。そしてその定型詩は世界にアクセスするためのものであったのだが、その書記行為の精度によっては、二度と世界へアクセスできなくなってしまう。

こうした書記行為と世界のリンク/アクセスをずっと短歌で考えていたのが荻原裕幸さんだったのではないかと思う。

『ドラゴンクエスト』発売翌年の1987年に荻原さんは短歌研究新人賞を受賞しているが、荻原さんの短歌には「ふっかつのじゅもん」のような書記行為と世界がリンクする歌が出てくる。

90年代後半の歌になるが

  歌、卵、ル、虹、凩、好きな字を拾ひ書きして世界が欠ける  荻原裕幸
  (『デジタル・ビスケット』)

「好きな字」という〈自由な書記行為〉(書取の逸脱)が〈世界(データ)の喪失〉に結びつくこと。「ふっかつのじゅもん」のように書記のあり方がデータ=世界が消えることに結びつく。

あえてゲーム文化を枠組みに読んでみると、書記行為と世界のリンクの風景がみえてくる。

92年の歌集『あるまじろん』は書記行為/文字意識への問いかけをめぐる歌が多いのだが、

  だだQQQミタイデ変ダ★★ケレド☆?夜ハQ&コンナ感ジダ  荻原裕幸

などは80年代後期のファミコンのバグ画面の質感、読みとれそうなメッセージがバグによってノイズ入りまくりになってしまう〈読みとりぎりぎりの文章〉になっていく、詩的バグの風景を想起させる。

こうしたバグはカセット方式からCD読みとり方式に変わった94年のプレイステーション発売によってなくなっていくのだが、それと共にまた書式意識の仕方も変化していく部分もあるかもしれない。

ときどき思うのだけれど、わたしたちの書記意識を支えているものはなんなのだろう。わたしたちが眼にする文字量は、本よりも、ネットの文字データのほうが、ブログのほうが、ゲームのテキストのほうが、テレビのテロップのほうが、LINEの書き込みのほうが、多くないだろうか。

だとしたら、わたしたちの書記意識を支えているものは、なんなのだろう。書記意識というと、すぐに本や書物といった規範になりそうなのだけれど、日常的にフローに流れているメディアのなかに実は書記意識があったりしないだろうか。

日本語が日本語になるまでの「数秒」の非日本語意識は、いつも・いま・どこに、あるんだろう。

  春の夜のラジオの奇声を日本語と識別できるまでの数秒  荻原裕幸


          (『別冊宝島 決定版! 僕たちの好きなTVゲーム』宝島社・2010年 所収)

2017年9月21日木曜日

超不思議な短詩227[レイモンド・カーヴァー]/柳本々々


  夫婦はパン屋に押しかける。そして彼らは互いの苦しみを夜があけるまで語り合う。そして、彼らは《ある種の》救済へと到達するのだ。  村上春樹

村上春樹はレイモンド・カーヴァーの短編「ささやかだけれど、役にたつこと」についてこんな解説を書いている。

  夫婦はパン屋に押しかける。そして彼らは互いの苦しみを夜があけるまで語り合う。そして、彼らは《ある種の》救済へと到達するのだ。……すべては失われ、損なわれてしまっている。子供は死んでいる。ケーキは腐っている。夫婦はうちのめされている。パン屋の人生は破綻している。救済はどこにもない。でもそれはいうなれば救済があるはずの空白なのだ。そこでは救済は「救済の不在」という空白の形をとって姿を表す。つまり不在というかたちをとった存在である。そう、そこには《救済があってもよかったのだ》。
  (村上春樹「レイモンド・カーヴァーの早すぎた死」『ささやかだけれど、役にたつこと』)

真夜中、夫婦は、事故で死んだ子どもの腹いせをするかのようにパン屋に押しかける。でも、夫婦は《ほんとうに思いがけなく》その場で・そのとき、パン屋とパンを通して、非言語的に和解する。なんて言ったらいいか誰にもわからないような啓示的な瞬間が訪れる(「大聖堂」や「ぼくが電話をかけている場所」や「ダンスしないか?」なども同じ構造をとっている)。

以前に、カーヴァーと鴇田さんとの親近感のようなものを書いたのだけれど、わたしが気になっている句にこんな句がある。

  うすぐらいバスは鯨を食べにゆく  鴇田智哉
    (『凧と円柱』)

最近、この句について考えていたときに、ふっとまた思い出したのが、カーヴァーの「ささやかだけれど、役に立つこと」だった。いったい、なにが、親近しているのだろう。

トークのときに鴇田さんが話されていたのを聞いたのだが、たしかこの鯨の句は、〈吟行句〉だったと思う。たしかに、バスってうすぐらいときがあるし、バスに乗って鯨を食べにゆくような経験をすることがひとにはあるとおもう。〈そのまま〉読もうと思えば、〈そのまま〉読める句である。

カーヴァーの短編も同じで、なにかが起こっているのだが、しかしなにか超常現象のようなことが起こるわけではない。SF的なことが起こるわけでもない。ただパン屋はあたたかいパンを真夜中にこどもを亡くし怒っている夫婦に提供しただけで、怒り心頭の夫婦はそのあたたかい糖蜜たっぷりのパンをもくもく食べただけだ。

だから、なにも起こっていないのだが、なにかが起こっているようにも思える。

なんでか、あえて、かんがえてみたい。

たとえば、カーヴァーの小説でいえば、パン屋は〈世界の果て〉と等価になっている。そこは、ふつうのひといとってはただのパン屋だが、夫婦はパン屋にとっては世界のぎりぎりの果てである。だからこの世界の果てで命を養うということが神秘的な意味をもつことになる。まるで世界がむしゃむしゃパンを食べ、世界自体が栄養補給し回復の途上にあるような感覚になるのだ。それが、啓示として感じられるのではないか。パン屋という部分で世界という全体をあらわすこと。それを提喩的、といってもいいかもしれない(提喩とは、皿が食べ物をあらわすといった、部分が全体をあらわすたとえ)。

鴇田さんの句をみてみよう。「うすぐらいバス(に乗ってわれわれ)は鯨(料理)を食べにゆく」という意味なのだが、定型で省略されることによって、「うすぐらいバス」自体が生命をもちあたかも「鯨」をまるごと食べにゆくようなダイナミックな構図になる。その「うすぐらいバス」は、カーヴァーのパン屋のような世界の縮図になっている。「うすぐらいバス」というバスが〈自然〉に還ってゆくようなミニマルな世界が、みずからのエネルギーを補給するかのように鯨をくらいにゆく。

そのまま読めばそのままなんだけれど、そのまま読むと省略された世界の縮図のようなものに関わってしまい、自分でも意識しないかたちで〈啓示〉にふれてしまうこと。そのようなことが、鴇田さんの句にもあるのではないだろうか。

世界の終わりの風景のなかの箱船としてのバス・その世界と等価としての〈聖書物語〉的な鯨・食べる、という根源的行為。でも、そのまま読めば、そこには、なんにもない風景。なんにもないけれど、すべてがあること。

  彼は二人がそれぞれに大皿からひとつずつパンを取って口に運ぶのを待った。「何かを食べるって、いいことなんです」と彼は二人を見ながら言った。「もっと沢山あります。いっぱい食べて下さい。世界中のロールパンを集めたくらい、ここにはいっぱいあるんです」
  (レイモンド・カーヴァー『ささやかだけれど、役にたつこと』)

  ここは何処だらうか海苔が干してある  鴇田智哉

          (「レイモンド・カーヴァーの早すぎた死」『ささやかだけれど、役にたつこと』中央公論社・1989年 所収)

2017年9月20日水曜日

超不思議な短詩226[千葉雅也]/柳本々々


  ツイッターの一四〇字以内というのも、短歌の五七五七七やフランス詩の一二音節も、非意味的切断による個体化の「原器」であると言えるでしょう。  千葉雅也

千葉雅也さんの『動きすぎてはいけない』という本は、すごく乱暴に簡略に(かつ私が理解できた範囲で)言えば、現在のなんにでもすぐアクセスできてしまうような接続過剰の世界で、どのように〈切断〉をみずから持ち込み、取り入れるか、〈動きすぎてはいけない〉をつくりだせるか、ということが書かれていたように思うのだが、その〈切断〉の〈器〉のヒントは、実は、ツイッターメディアの制約された文字数や定型にもあるのかもしれない。

たとえばすごくかんたんに言うとこんな経験はないだろうか。あの番組をみなくてはならない、あれをブログに書いておかなくてはならない、あのサイトをチェックしなくちゃならない、Amazonがまた商品をおすすめしてきていて・しかも自分の嗜好にどんぴしゃなので・買わなければならない。これは、接続過剰の一例である。わたしたちはたぶんもう〈とまっていて〉も、どんどん・動く。動きすぎる。動きすぎて(どこにも)いけない。

つまり、今考えなければならないのは、どれだけわたしたちが動いていけるか、ではなくて、どういうふうに工夫して〈動きすぎない〉でいられようにするか、接続過剰な世界で、切断をはぐくんでいけるか、ということなのだ。

  ツイッターの一四〇字以内というのも、短歌の五七五七七やフランス詩の一二音節も、非意味的切断による個体化の「原器」であると言えるでしょう。これら様々なフォーマット、決まり事は、私たちの「もっと」=欲望の過剰を諦めさせるものであり、精神分析の概念を使うならば「去勢」の装置である。けれども、おそらくこう言えるのではないでしょうか。去勢の形式は複数的である、と。つまり、《諦めさせられ方は、複数的である》。だから、別のしかたでの諦めへ旅立つこともできるのです。
  (千葉雅也「あとがき」『別のしかたで』)

千葉さんのこの本の「別のしかたで」というこのタイトルが重要だと思うのだが、この文章を読んで気付くことがふたつある。

まずひとつは、あ、そうか、定型っていうのはひとつの去勢の練習になるんだということだ。そして、もうひとつは、去勢というのはひとつなんかじゃない、実はいろいろあって複数なんだ、ということだ。

ここには二重の「別のしかたで」がある。

ひとつは、とまらない欲望をあえて切断し、定型をとおして、去勢させることで、みずからの欲望の「別のしかた」、言語や思想や世界の「別のしかた」に出会うこと。

もうひとつはその「別のしかた」の去勢のありかた、欲望や、発話や、思想や、世界の去勢された「その別のかたち」自体にさらに「別のしかた」が《いろいろ》あるのだという《別のしかたの複数性》に気付くこと。

以前とりあげた筑紫磐井さんの句をみてみよう。

  行く先を知らない妻に聞いてみたい  筑紫磐井

「行く先」という〈意味論的な答え〉を「聞いてみたい」のだが、定型という「非意味的切断」に〈去勢〉されてしまう。ここには意味論的に問いかける主体が、非意味論的に切断される様態があらわれる。でも、こうした主体の去勢のありかた、躍動のありかたが定型詩なのだとも言える。定型詩は、いくら問答体のていをなしても、答えをみちびきださない。さいごに、去勢されるから。

じゃあこんな短歌はどうだろうか。

  雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁  斉藤斎藤

たしかに答えはでている。問い、「なんでしょう」。答え、「これはのり弁」。でも、このぶちまけられているのり弁にであっている出来事の「行き先」にたいする答えはない。それは定型が締め切ってしまっている。主体がわからない「ぶちまけられて」の無人称の暴発的な挿入。ここではまるでのり弁よりも人称がぶちまけられている。この歌の解釈は、いくつもの主体の「別のしかたで」が付随していくだろう。でも答えが定型詩そのものにはない以上、読み手の主体もつねに「別のしかたで」を続けてゆくしかない。定型詩は、答えることなく、締め切ってしまう。語り手に対しても、読み手に対しても。

定型詩というのは、〈わたし〉という主体の「別のしかたで」をずっと考えていく詩学なのかもしれない。ただそれは、答えがでた瞬間、その答えの「別のしかたで」がすでに・つねに待っているような、そういう詩学だ。

去勢を、別のしかたで、を考えること。

  しかし、真剣に少しでも新しいものを作ろうと思ったら、あまりにも多くのことがなされてしまったという歴史に真剣に絶望しなければならないのです。
  (千葉雅也『高校生と考える世界とつながる生き方』)

「別のしかたで」と極端に構えるのも、千葉さんの哲学のカラーとは少し違うように思う。たとえばこんなふうに日常のなにげない、とるにたらない、意外なところに「別のかたちで」は密輸できたりもする。それは「なんとなく」を「環境設定」としてとりこんでいく〈創造的な抜け穴〉になるかもしれない。

  重要なのは、惰性的にやってしまう日々のルーチンのなかに、なんとなく勉強してしまえるタイミングとかをうまく組み込むこと。「惰性的に創造力を高めるための環境設定」をする。
  (千葉雅也『別のしかたで』)

諦めることは、生成に、創造に実は深く関わっているんじゃないか(締め切りも)。

  なぜツイッターの一四〇字以内がこんなに書きやすいかというと、それは、書き始めた途端にもう締め切りだからである。
  (千葉雅也、同上)

  

          (「あとがき」『別のしかたで』河出書房新社・2014年 所収)

超不思議な短詩225[石川美南]/柳本々々


  村を捨てた男の家はこの冬より民俗資料館へと変はる  石川美南

石川さんの短歌にとっては、テキスト(文字/文章/資料/書物/物語)と生世界の交渉がとても大事なテーマのように思う。

掲出歌。それまで生活空間として生きられていた「男の家」は、「民俗資料館」という読みとられるテキストの館へと変わる。これは「村を捨てた」という共同体の離脱と深い関わりがある。ひとが共同体を離脱するその瞬間は、ひとがテキストそのものになる瞬間かもしれないということを示唆している。

その流れでこんな短歌をみてみよう。

  何ひとつうまく行かざる金曜よポップだらけの書店にひとり  石川美南

「何ひとつうまく行か」ないという生世界=現状の噛み合わなさが「ポップだらけの書店」というやはりテキストの〈館〉と複合される。書店もやはり「民俗資料館」のように「ポップだらけの書店」として読みとられるテキスト空間をなしているのだが、「ポップだらけの書店」という複雑なテキスト空間がある問いを喚起する。

いったいテキスト空間とはなにが読まれえて・なにが捨てられるのか、と。「民俗資料館」にしても「ポップだらけの書店」にしても、本当に読まれるべきテキストは「民俗」や〈書物〉のはずなのだが、そこには「資料館」や「ポップ」でパッケージングされてしまったがために〈到達できないテキスト〉もあらわれてくる。つまり石川さんの短歌では、生活世界とテキストがまず交渉しているのだが、そのテキスト空間も「ポップ」対〈書物〉とテキスト同士が交渉しあっているのだ。

  実現に至らなかつた企画たちが水面(みなも)に浮いて油膜のやうに  石川美南

そして読まれえなかった企画(テキスト)たちは、生活世界のなかに「油膜」のようにどろどろした記号ならざるものとして、帰ってくる。

  空色の胸をかすかに上下させ呼吸してゐき折り紙の犬  石川美南

  鼻うたや夢の類(たぐひ)も記録して完璧な社史編纂室よ  〃

「折り紙の犬」というテキストになれたはずの「紙」が「呼吸」という生命を帯びながらこちらの世界に帰ってくる。一方で、「鼻うたや夢の類」は、「記録」され、〈テキスト〉となり、わたしたちの生きられる生活世界から「完璧な社史編纂室」というもう手のつけられることも変化することもできない〈死んだテキストの館〉へと葬られる。

こちらとあちらの往還の物語。歴史ではこれまでも・これからもずーっと反復されてきた物語だ(最古では『古事記』の死んだ伊邪那美(イザナミ)に逢いたくて黄泉国に逢いにいった伊邪那岐(イザナギ)のあちらとこちら。日本最古の引きこもりともいわれる天照大神(アマテラスオオミカミ)がこもった天岩戸というあちら)。

たとえばこんなふうに同時代の漫画文化と結びつける想像もしてみたい。石川美南さんの歌集『裏島』は2011年に刊行された。 諫山創の漫画『進撃の巨人』の連載がはじまったのは2009年だけれども、『進撃の巨人』では〈壁(か・べ)〉を介して、こちら側とあちら側が行き来する、ときに、こちら側があちら側であったりあちら側がこちら側であることが露呈してゆくこちらとあちらのねじれの物語が描かれた。花沢健吾『アイアムアヒーロー』も感染によって〈強化ゾンビ化〉してゆく感染を介したあちら側とこちら側の物語だったが、それは〈わたし〉の感染可能性によってあちらとこちらが交錯しねじれていく物語としてもあった(『アイアムアヒーロー』には、ほかにも非モテ/モテ、2ちゃん的情報世界/非2ちゃん的情報世界などさまざまな境界の往還がある)。

石川さんの歌集のなかには、〈紙(か・み)〉を介したテキストと生世界の往還や交渉、交錯が描かれており、テキストと生のどちらかがどちらかへと影響を与え続けるような一方的な関係は描かれてない。テキストと生は交渉しあい、あちらとこちらはねじれつづける。

あちらとこちらの境界線は、ねじれ、たびたび、ずっと、ゆらめく。

あちら(テキスト)と、こちら(生)は、ときどき、ちかづき、交渉し、ひっくりかえり、こちら(テキスト)とあちら(生)になり、また、ちかづく。

書き「足」すたびにわたしたちは境界線をつくり、あなたとわたしとあちらとこちらにわかれる。

  凸凹に描き足してゆく、ある人は煙をある人は階段を  石川美南


          (「晩秋の」『裏島』本阿弥書店・2011年 所収)

2017年9月19日火曜日

DAZZLEHAIKU11[西原天気]渡邉美保



   空港に靴音あまた秋澄める   西原天気



「空港に靴音あまた」と言われると、素直にそうだと思ってしまう。至極当然のことなのに、はっとするものがある。

秋になり、空気が澄み、遠方の山や木々がよく見えるようになる季節、「秋澄める」である。どこか遠い所へと、旅に出たくなるような、そんな時季、旅の出発点としての空港が目に浮かぶ。
空港の建物の中は旅行客が行き交い、雑多な音もまた行き交っている。一句の中、周囲のさまざまなものは一切省略され、靴音だけがある潔さ。普段はあまり意識しない靴音が、秋の澄んだ空気のなかで、高らかに弾んでいるような気分にさせてくれる。

空港には、空の広やかさがあり、遠くまで見わたせる明るさがある。澄みわたった秋空のなかを、これから飛び立つ旅への期待感が増す。


〈句集『けむり』西田書店2011年所収〉  


超不思議な短詩224[芝村裕吏]/柳本々々


  ゲームって、究極的に言えば、絵を描くというか、写生の一つなんです。  芝村裕吏

去年、ながや宏高さんとお話したときに、ながやさんが短歌=定型詩とゲームの関係について話されていて、そうかあ、ゲームの箱庭的な部分と定型詩と
いうのは似ているのかもしれないなあと思った覚えがある。

たとえば定型をハード=ゲーム機として考えてみよう。そしてその定型にセットするソフトを短歌、俳句、川柳と考えてみよう。定型(ハード)のスペックや容量は決まっているのだが、そこにセットされるソフトによって、さまざまにプレイ(読み)は変わってくる。

ゲーム・デザイナーの芝村裕吏さんは、ゲームは「写生」だと言う。ある現実や日常の一瞬を切り取る。その切り取られたものが世界観になり、ミクロなグランドデザインになる。

  ゲームって、究極的に言えば、絵を描くというか、写生の一つなんです。現実の一部を切り取って、それを描くことがゲームデザインだと思うんですよね。何かの瞬間とか現実の一部、あるいはファンタジーでもなんでもいいんですけど、その一部を切り取れるかどうか。その切り取り方によって、ゲームデザインが変わる。人によっては、格闘してるところを切り取って提示する。格闘ゲームは、まさにそうですよね。
  (芝村裕吏『ゲームの流儀』)

ある切り取られたミクロな現実が、マクロな世界そのものとなる。たしかにそう言われてみると、格闘ゲームは奇妙な世界で、たとえば『ストリートファイターⅡ』を例にとってもいいが、〈格闘しかしていない〉のだ。そこには〈成長〉もなければ、〈ストーリー〉もほぼない。ただし、現実世界から切り取られた〈格闘だけの世界〉が、象徴的にマクロな世界を提示し、象徴し、代替する。

ここで大事なのが、ゲームにはハードの機能、ソフトのコンテンツにもうひとつ大事な関数が関わることだ。それは、プレイヤーの経験値としてのストーリーである。たとえばマリオをはじめてプレイしたとしよう。最初はクリアできなかったステージも、何度も死にながら何回も同じところをプレイしているうちにプレイヤーの経験値がたまってゆき、そのステージをクリアできるようになる。マリオ自体には、ただ複数のうちのひとつのステージをクリアしたというストーリーしかないが、プレイヤーのなかではどうしてもクリアできなかったなんどもなんども死んだステージをクリアできたというプレイヤーの経験値としてのストーリーが生まれる。

つまり、ゲームのストーリーは、ゲーム本編のストーリーと、プレイヤーが経験値のなかで育んでいくストーリーがある。

ゲームにはプレイヤーの経験値をめぐるストーリーがあるように、定型詩にもプレイヤーの経験値をめぐるストーリーがあるのではないだろうか。たとえばここまではわかるがここからはわからない。でも何度もプレイしていると突然クリアできるステージがあるように何年かたったあとにふいに〈わかってしまう〉ことがある。でもわからないひともいるので、そこからは〈難解〉かどうかの境界線がひかれていく。クリアできるひととできないひと、難解かどうか、の境界線がおのおので生まれていく。でもそうしたクリア可/不可の複数の境界線もひっくるめながらゲーム/定型詩のジャンルがつくられていく。

「ゼビウス」という名作ゲームをうんだ遠藤雅伸さんがこんなふうに述べている。

  良いゲームの条件として、難易度調整は一番大事だと思います。どんなクソゲーでも上手く難易度調整してやれば、そこそこ遊べるはずなんですよ。その辺を上手くやらないから、どんなにすごいゲームを作ってもクソゲーだって言われてしまうんですよ。
 (遠藤雅伸『ゲームの流儀』)

この「難易度調整」というのは定型詩にも関わっているように思う。どこらへんに「難易度」を「調整」するのか。あまりに難易度が高すぎると「無理ゲー」がうまれてくる。ただときどき「無理ゲー」や「クソゲー」からそれまでのジャンルの世界観を更新するような(『デスクリムゾン』や『たけしの挑戦状』のような)ソフトが生まれることもある。

ゲームというのはプレイする人間の、プレイヤーの経験の質感(成功体験・失敗体験の微妙なバランス、プレイヤーをいかに成功させ・失敗させるか)をとてもよく考えられながらつくられるが、定型詩にもそうした〈読みの質感〉〈読みの経験値〉がどうなるかを微細に考えながらつくられるところがあるのではないだろうか。

  そもそも、僕が初期のファミコンのゲームソフトに感じた魅惑の核心は、現実世界の惰性的に際限ない拡がりを、ゲームソフトの「狭いなりに広い緊張した世界」へと切り詰められるということだったと思う。
  (千葉雅也『別のしかたで』)

定められた(少ない)容量のなかでプレイヤー(読み手)のプレイを考えながら工夫しつづけること。

 ファミコンは、パソコンと考え方の違うハードだし、何しろ動かし方も違うし、容量もパソコンに比べていきなり小さい。色数も少なければ、プログラムはアセンブラ。ゲームもシューティングとアクションばかりでしたから。
 『ドラゴンクエスト』が出たときに衝撃を受けましたよ。「ふっかつのじゅもん」という形でセーブもできて、きっちりとしたRPGになっていたから。「工夫さえすれば、ファミコンでもRPGができるんだ」って。『ドラゴンクエスト』がきっかけで『FF』を作ろうと思ったんです。
 「もう大学を八年間も留年してるし、ファミコンの3Dゲームも上手くいかないし、次のゲームがダメだったら大学に戻ろう」と思ってました。それで『ファイナルファンタジー』というタイトルに。
当初は『ファイティングファンタジー』という案もありましたけど、「自分自身のファイナルなゲームにしよう」と思っていたんですね。「これでゲームの仕事は終わりになるかもしれないけど、頑張ろう」って。
  (坂口博信『ゲームの流儀』)

仮の思考実験として7世紀『万葉集』の万葉人や9世紀『古今和歌集』の歌人を、1899年寝たきりの正岡子規を、ゲーム・クリエイター=ゲーム・プレイヤーとして想像してみること。

意外なことかもしれないけど、ゲームと定型詩はよく似ているように、思う。

  プレイヤーは難しいゲームを好みます。プレイヤーは失敗が好き。だけど大好きではない。ゲームに気持ちよく没頭できる「フロー」と呼ばれる魅力的な心理状態にプレイヤーを引き込むのはこのようなバランスだと言われます。
  (ユール『しかめっ面にさせるゲームは成功する』)

あえて言い換えてみよう。

  読み手は難しい定型詩を好みます。読み手は失敗が好き。だけど大好きではない。定型詩に気持ちよく没頭できる「フロー」と呼ばれる魅力的な心理状態に読み手を引き込むのはこのようなバランスだと言われます。
  (ユール(偽)『しかめっ面にさせる定型詩は成功する』)

          (『ゲームの流儀』太田出版・2012年 所収)



2017年9月17日日曜日

超不思議な短詩223[さやわか]/柳本々々


  コンピュータゲームとはもっとも素朴な形に還元すると「入力すると反応がある」ということである。  さやわか

ゲームと俳句の話が続いているのでせっかくなのでもう少し冒険して続けてみようと思う。さやわかさんがゲームの本質について次のように語っている。

  ゲームの本質。コンピュータゲームとはもっとも素朴な形に還元すると「入力すると反応がある」ということである。それはAボタンを押すとマリオがジャンプするということだったり、エンターキーを押すと次の画面が表示されることだったりする。我々はしばしばモニタの前で、どうしても選びきれない選択肢を選ぶ羽目になる。その時も、ボタンはいつも通りに軽いし、ボタンそれ自体は画面内で展開されているいかなる物語やキャラクターとも関連がない。重要な選択であっても実際に行うのはエンターキーを押すか否か、「する/しない」という些細な選択なのだ。たったそれだけのことにすべてを左右させることで、スリルと不安を喚起する。選択自体には意味がないが、しかしその行動が世界を改変してしまう。
  (さやわか「ゲームのように」『ユリイカ臨時増刊 涼宮ハルヒのユリイカ』)

ここでさやさんが言っているのはたぶんこのようなことだと思う。ゲームというのは、非常にシンプルな行為、入力すると反応があるという行為が、世界をつくりあげ変えていく行為なんだと。

前回、フローな俳句として鴇田智哉さんの俳句をあげたが、ときどき、鴇田さんの句集を読みながら、任天堂のアクションゲーム『スーパーマリオブラザーズ』に近いんじゃないかと思ったりしたことがあった。これはさやさんで引用したような、シンプルな入力が、世界への触知とつながっている感覚と思ってもらえばいいと思う。たとえば、

  水面ふたつ越えて高きにのぼりけり  鴇田智哉
   (『句集 凧と円柱』)

あえてマリオっぽい句を選んでみたのだが、〈水面をふたつ越えて高いところにのぼった〉というのはふつうなら「それがいったいなんなんだ」的なところがあるが、もしこれがマリオが読んだ句だったら、どうだろう。水面をふたつ越えて・高いところにのぼったなら、ステージ=世界を攻略してゆく喜びがある(プレイヤーも同様にその喜びを感受する)。マリオにとっては、こうした原始的で・シンプルな行為が、至上の意味をもつ(マリオ=プレイヤーにとってすべての価値観はステージを前進することなのだから)。

ちなみにこの句集のタイトルは、『凧と円柱』で、高い場所やポールのような突端が気にされているのだが、そうした〈高い場所〉や〈とがったもの〉への至高もマリオ的である(土管、城のポール、キノコ)。

  春めくと枝にあたってから気づく  鴇田智哉

この世界では突端に触れる、というただそれだけの行為が「春」に気づくという世界そのもののベースへの触知につながっている。これはマリオがクリボーに触れて命を失ったり(触れることが世界の終わり)、キノコに触れる(食べる)ことで身体を巨大化させたり(世界の視野の改変)することにも似ている。

こんな句もみてみたい。

  近い日傘と遠い日傘とちかちかす  鴇田智哉

遠近に「ちかちか」と視覚的なデジタル・ノイズが入ってくる風景。これなども処理落ちのマリオのステージのようなノイズ的風景を想起することができる。

  裏側を人々のゆく枇杷の花  鴇田智哉

  断面があらはれてきて冬に入る  〃

世界の「裏側」や「断面」の意識。マリオ3では、↓ボタンを押しっぱなしにすることでステージの裏側にすとんと落ちることができる裏技とは言えないまでも小技があったが、あるいはさいきんのペーパーマリオではステージを3Dで断面的に見ることが可能になったが、「裏側」や「断面」はゲームの世界(ステージ)では、たびたび〈世界の果て〉として出会うことでもある。

鴇田さんの俳句がゲーム的世界観に支えられているというつもりはないのだが、さやさんが述べたようなゲームの本質、シンプルな入力が世界の原理につながっていく感じは、鴇田さんの俳句の風景によく似通っているのではないかと思う(というかそういう思いがけない枠組みを導入すると鴇田さんの俳句はぐっと理解しやすくなったりするのではないだろうか)。

小津夜景さんの句集『フラワーズ・カンフー』を読んでいて、或いは関悦史さんの俳句を読んでいて思うのは、俳句がB級的な要素をそれとなく密輸しながら成立してきていることだ。そのB級的要素とはなんだろう、と時々考えるのだが、たとえばそれはこうしたゲーム的世界観との思いがけないリンクと言うこともできないだろうか。

たとえば、小津夜景さんは関悦史さんとのトークで、

 ぷろぺらのぷるんぷるんと花の宵  小津夜景

は自分がはじめて俳句をつくったと実感することができた《写生句》だと述べたが(たしか夜景さんは海辺で吟行していたときにできた句だと言ったような気がする、ぼんやりだが)、「ぷるんぷるん」している「ぷろぺら」もゲームのCG世界ではごくまっとうなゲーム的リアリズムとしてあらわれそうではある(例えば私ならプレイステーションソフト『クーロンズ・ゲート』を想起する)。

関さんのこんなリアリズムとゲーム的リアリズムが融合する句。

  牛久のスーパーCGほどの美少女歩み来しかも白服  関悦史

現実のリアリズム的世界では非常識なことが、ゲーム的リアリズムの世界では、なんのためらいもなくまっとうで・ノーマルなことがある。

  蝉の死にぱちんぱちんと星が出る  鴇田智哉


          (「ゲームのように」『ユリイカ臨時増刊 涼宮ハルヒのユリイカ』2011年7月 所収)

超不思議な短詩222[阿部公彦]/柳本々々


  おもしろいのは、ブローティガンの『アメリカの鱒釣り』のような作品を読んだ人なら覚えているあの脱力感覚と、日本的な俳句の精神のまじり具合である  阿部公彦

70年代はマンガ『巨人の星』の「スポ根劇画」に代表されるようなハードな汗と涙と闘いのエネルギッシュな60年代が終わり、女性誌『an・an』や『non・no』の創刊、マクドナルド、ミスタードーナツ、サーティワンといったファーストフードの日本の開店など、キャラクターやファンシービジネスが始まってゆく時代という言われ方をされることがあるが(前に取り上げた攝津幸彦はその70年代に二十代を過ごしていた)、その70年代半ば、1976年にアメリカの作家リチャード・ブローティガンは東京に一ヶ月半滞在し、『東京日記』という詩を書いた。

阿部公彦さんは「解説」でこんなふうに書いている。

  「東京日記」の多くの作品は、俳句に触発された語り口になっている。俳句ならではの唐突さや切断感は、はじめて訪れる東京で足場のないまま、さまざまな“瞬間”をあやうく渡り歩いていた詩人にとって、まさにぴったりの装置を提供してくれたのだろう。
  おもしろいのは、ブローティガンの『アメリカの鱒釣り』のような作品を読んだ人なら覚えているあの脱力感覚と、日本的な俳句の精神のまじり具合である。切断や転換、接合などによって生み出される俳句特有の凝縮した緊張感を支えているのがある種の“拮抗”だと考えれば、これに対してブローティガンで目立つのは、拡散と散逸の気分でもある。主旋律は緊張よりも弛緩であり、興奮や熱気よりも冷却となぐさめが言葉を生み出していく。
  (阿部公彦「解説」『東京日記』)

瞬間を渡り歩く装置として「俳句の精神」を使いながらも、その瞬間は凝縮されるよりも「拡散と散逸」を伴っていく。「日常を鋭く切り取り緊張」というよりは、「緊張と驚きと空虚さをゆったり流してくれるやさしさ」の方に傾いていく。

  俳句的な装いをまとう本書の短詩は、実際には、俳句的なキャプチャの身振りをほどき、流し、平凡化・日常化する。平凡であるとは何と難しいことだろう。際だたず、とがらず、立ち止まらない。
  (阿部公彦、同上)

〈平凡さ〉というフローのなかに身を置くこと。

  テレビの
  日本の子どもたちの番組を見て
     ぼくはこの三十分間をすごした
  ここ東京には何百万ものぼくたちがいる
     ぼくたちは自分の好きなものがわかっている
  (ブローティガン「日本の子どもたち」『東京日記』)

日本の「テレビ」を「三十間」見ている時間が〈わたし〉の個を際だたせることなく、「何百万ものぼくたち」に拡散・散逸していく。「ぼくは自分の好きなものがわかっている」ではなく、「ぼくたちは自分の好きなものがわかっている」というひどく曖昧な流れるような言い方。〈見る〉という行為が〈わたしたちの見る〉につながり、〈何百万もの見る〉とともにフローな個の流れとしてうかびあがってくる。

 この不思議な短詩では何度か取り上げている句だが、こんな俳句がある。

  毛布から白いテレビを見てゐたり  鴇田智哉

毛布から白いテレビを見ているのだが、この助動詞「たり」を完了(~した)ではなく、存続(ある時点からずーっと~している)の意味合いでとった場合、語り手は、ずーっと白いテレビを見ているなかに身をおいていることになる。ずーっと語り手は毛布から白いテレビを見ている。そのときこの「たり」は神秘化していく。毛布から白いテレビをずーっと見ている風景は死後の景にも近いからだ。

その「死後の景」を誘導するのが「毛布」と「白いテレビ」の組み合わせである。たとえばこのテレビが〈白い画面〉だった場合、テレビを見ていながら・同時に・テレビをなんにも見ていないということになる。この句は突き詰めれば・突き詰めるほど〈見ること〉の危機的な様相が浮かび上がり、〈見ること・見ないこと〉を通して死者も含めた〈何百万もの見るぼくたち〉が現れる。

この俳句にもブローティガンの詩にあるようなフローな感覚が見いだされうるように思う(ちなみにフローという概念はよくゲームを論じた本を読んでいると出てくるゲームのプレイヤーを考えるときのキーワードになっている。たとえばマリオをプレイしているとき、あなたはあなたがあなたでありつつも没入していく感覚を経験していないだろうか。ゲームをプレイしながら、個でありつつも・個を没入させていく感覚。俳句とゲームの親和性)。現在の俳句は、瞬間的な切り取りではなく、フローな感覚に敏感になっている。フローな俳句としてはこんな印象的な俳句もあげられる。

  息のある方へ動いている流氷  田島健一
   (『句集 ただならぬぽ』)

この田島さんの句にも鴇田さんの神秘的な「たり」に通じるような神秘的な存続の助動詞「ている」がある。70年代アメリカの労働者階級の〈どこにもゆけなさ〉を描いた小説家にレイモンド・カーヴァーがいる。ただカーヴァーが特徴的だったのは、労働者階級のミドルクラスの生活をミニマルに描きながらも、それが〈外〉に神秘的に抜けていってしまう点だった。どこにもゆけなさのなかで神秘性があらわれる。

 カーヴァーのマジックは、貧困を含めた、ありとあらゆるものを、無意味化、身体化する、そのミニマリズムのスタイルにある。そのスタイルの特徴は、既存のリアリズムにあるような社会的、政治的文脈を無視し、まるでそこに社会など存在しないかのように、身体化された世界だけを描くことにある。言ってみれば、カーヴァーの作品は、アメリカ合衆国の話ではない。それは、合衆国のなかのどこかの街の話であるが、カーヴァーの作品世界は、その街を描くことで成立していて、そこに街よりも大きなもの、大きな社会、合衆国は存在しないのだから。ミニマリズムとは、自分の周囲十メートルの話なのである。カーヴァーのマジックは、労働者階級なら労働者階級の生活を描きながら、それが単なる労働者階級の生活ではなくなる瞬間を提出することにある。その瞬間とは、「大聖堂」の啓示が示すように、無意味化、身体化の結晶である。それは、既存の政治的・社会的文脈を破壊した、まったく新しいなにかなのだ。
  (三浦玲一『村上春樹とポストモダン・ジャパン』)

わたしはこのマジックのありかた、「毛布から」という「自分の周囲十メートルの話」を描きながら「白いテレビ」という魔術的メディアを通して〈日本の話〉だけではないマジカルな啓示的瞬間があらわれているのを鴇田さんのテレビの句に感じる。それは、ブローティガンの「子ども番組のテレビ」を見ていただけで「何百万ものぼくたち」につながってしまうようなフローしていく何かである。

私は実は三年前に鴇田さんの白いテレビの句をはじめて眼にしたときに、すぐに思い出したカーヴァーの一節があった。ただその一節がどの作品にあるのか、ずっと思い出せなかった。だから思い出すまで待っていようとおもった。ところが、きのう、雨がふっているのかふっていないのかわからない白い光の空の真下を、ぼんやり、傘をさしながら道を歩いていたら、とつぜん思い出した。それは、テレビを見ているなかで、テレビを見ていることを突き抜けてしまう、白いテレビのなかに暴力的に包まれてしまう一節だった。横になって、どこにもゆけないなかで・その《どこにも》が圧倒的に・暴力的に押し寄せ、しずかに、その場で、じっとしながら、押し流されていく〈終わりの風景〉。私が思い出したかったのは、これだった。

  私はそこに横になってテレビを見ていた、軍服を着た男たちの姿が画面に映っていた。ぼそぼそとした声。それから戦車隊が現れ、ひとりの男が火炎放射器を発射した。音は聞こえなかったが、わざわざ起き上がるのも面倒だった。私は瞼が重なるまで、じっとテレビを見ていた。でもはっと目を覚ました。私のパジャマは汗でぐしょ濡れになっていた。雪明かりのような光が部屋に満ちていた。ゴオオオという音が私に押し寄せてきた。その轟音は耳を聾せんばかりだった。私はそこに横になっていた。私は動かなかった。
  (カーヴァー「みんなは何処に行ったのか?」『ファイアズ』)


          (「解説」『東京日記』平凡社ライブラリー・2017年 所収)

超不思議な短詩221[井上法子]/柳本々々


  煮えたぎる鍋を見すえて だいじょうぶ これは永遠でないほうの火  井上法子

短詩のなかで〈鍋〉は〈鏡〉のようにとても大きな意味を持っている。

  わが思ふこと夫や子にかかはらず大鍋に温かきものを煮ながら  石川不二子

「大鍋に温か」いものを煮ながらわたしの「思」うことがせり上がってくる。わたしの「思」うことは「夫や子にかか」わらない〈わたし〉のことだ。煮る、という行為は、時間をかけて物を少しずつ変成させていく行為だ。それが、内面の醸成とも関わってくる。そう考えるとちょっとこわいことだが、妻は「夫や子」のために料理をつくりながら、「夫や子」以外の〈何か〉を考えている。料理は、短歌によって、〈奉仕〉されえない思いの叙述になる。

短詩において、ひとは(というよりも〈女性主体〉は)、鍋の前で、食べ物ではなく、みずからの〈内面〉に降りてゆく。

茹でる、だが、こんな歌もある。

  十六夜の寸胴鍋にふかぶかとくらげを茹でて君が恋しい  鯨井可菜子

「くらげを茹で」るという、料理に一見似つかわしくない表現が採用されることで、「君」への「恋」しさが不思議な感情としてあらわれる。寸胴鍋にくらげが「ふかぶかと」漂う海中の幻景が一瞬あらわれながらも、「くらげを茹で」これから食べようとしているのだという激しい感情も同時にここにはたたえられている。川上弘美のこんな一節を思い出す。ふわふわしたものを、煮ること。食べること。

  長い間の片思いのひとから、「好きなひとができました。これから一生そのひととしあわせに暮らします」という葉書がきた。泣きながら、いちにち花の種を蒔いた。途中少しの間気を失い、それからいくらか元気が出たので、夕飯には蛸を煮た。
  (川上弘美『椰子・椰子』)
  
石川不二子さんの歌は1976年刊行『牧歌』からだが、1960年代に定着した典型としての「専業主婦」像=「良妻賢母」像が崩壊しはじめる1970年代後半からの歴史状況とあわせて考えることもできる。フェミニズム全盛の時代だ。「妻」ではなく、料理をしながら、「妻」の外を志向すること。

そうした〈外〉への意識はこんな川柳にも見いだすことができる。

  ことばにはならないものが茹で上がる  佐藤幸子

料理をしながら、料理に奉仕するのではなく、「ことばにはならないもの」としての不気味な外に抜けてゆくこと。わたしのイメージ、料理のイメージが問い直される。

それが2010年代の鯨井さんの短歌では「寸胴鍋」「ふかぶか」「くらげ」と、〈外〉への意識ではなく、〈外〉への意識が深められた〈下〉への意識としてあらわれてくる。鍋は「専業主婦」的女性像の外に抜けるための装置ではなく、自らのひととしての内面の深度をさぐる装置になっている。

ちょっとかなり長い遠回りになってしまったが、井上さんの掲出歌をみてみよう。

井上さんの〈鍋〉の歌で大事なのは、〈外〉や〈下〉への意識ではなく、世界の基盤=〈根〉への意識に傾いていることだ。料理をすることが、〈永遠の火〉という世界の生成に関わるものとリンクしていく。

「だいじょうぶ」という発話に注意したい。この歌は、〈常にだいじょうぶじゃない〉世界におかれており、「永遠の火」におびやかされている。もちろん、「永遠の火」におびやかされる〈常にだいじょうぶじゃない〉世界と言えば、わたしたちは2011年の福島第一原発水素爆発を思い出す。ただ井上さんの歌は、それより、もっと、根底の、根深い火のようにも、思える。

主体の前に用意された「鍋」は、「わが思ふこと」という個人の内面に降りてゆく装置から、だんだんと、世界の根っこの危機を測位する装置へと変わっていった。

つまり、女性/男性関わらず、わたしたちは「鍋」の「火」を通して、世界の危機にリンクしてしまうような状況が現在ある。2017年は、北朝鮮からの弾道ミサイル発射によりJアラートが鳴った年として記憶されるだろうが、「火」はわたしたちをもう〈外〉連れ出すのではなく、〈外〉からわたしたちを滅ぼすためのメタファーとして機能しはじめるのでははないか。

火が、外から、やってくる。

  夏の鍋なべて煮くずれ 面影はいつだってこわいんだ夏の鍋  井上法子


          (『桜前線開架宣言』左右社・2015年 所収)

2017年9月16日土曜日

超不思議な短詩220[攝津幸彦]/柳本々々


  三島忌の帽子の中のうどんかな  攝津幸彦

前回、『MOTHER』と俳句をめぐる話だったのだが、『MOTHER』というゲームは最終的に〈赤ん坊(のときの記憶〉と出会うゲームであり、その意味で、大人の分節をどんどんなくして、どろどろの世界に還っていくゲームでもあった(例えば『MOTHER2』のラスボスはもはや輪郭をなしていない。苦悶の表情のような、胎児の姿のような、連続し、流動する背景そのものが、ラスボスだった)。

だから『MOTHER』は、みずからが〈母親〉になりながら、意味や分節や価値観がわたしとあなたが生まれる前の未生の世界へ、赤ちゃんの世界を探求する、遡行・退行・去勢の物語と言うこともできるかもしれない。

そこでちょっと意外なのだが、この『MOTHER』的世界に俳句からアクセスしていたのだが、攝津幸彦だったのではないかと、おもう(ゲーム『MOTHER』と攝津幸彦を組み合わせると異色すぎて怒るひともいるかもしれないが、しかし、ゲーム『MOTHER』では豊富な映画史的記憶の引用がなされており、映画を一年で300本以上観ていたという映画史的記憶と共にあった攝津幸彦と共通点がないわけではない)。

攝津幸彦の俳句に出会ったとき、まず抱くのは、不可解さ、ではないかと思うのだが、しかしそれは『MOTHER』で主人公たちが最終的に赤ちゃん化してゆくラスボスに出会ったような、どこか不可解でありながらもわかってしまうかんじ、身体の奥のほうでじぶんがいつか歩いてきた道、にも通じているのではないか。攝津幸彦は句集『鳥屋』のあとがきでこんなふうに書いている。

  どうやらぼくの意識下には、幼時すでに表現されてしまっている確固とした世界があり、その世界が、ある時、記憶の光を通じて外部の風景に触発されるや、自然とそこに一句が成立してしまうのだと、しばしば思ってみることがある。
  幼時の表現世界は、きまってフリーキーでしかも暴力的であり美しい全うな世界に対していつも挑発的であるのだが、時折、俳句形式に遭遇することにより、別の世界の貌をして小さな安息を求めているのかも知れない。
 (攝津幸彦『俳句幻景』)

なんだかとても奇妙な話なのだが、『MOTHER』のゲーム世界を攝津幸彦に解説されているような気になってくる(ちなみにこの「あとがき」が書かれた句集『鳥屋』は1986``年に刊行されており、1989年発売の『MOTHER』とほぼ同じ時期にある)。

この攝津幸彦にとっての「幼時の表現世界」というのは、言ってみれば、〈未分節性〉へ立ち返るということではないのかと思う。大人の分節をこわせば、当然そこには、暴力性や挑発性、フリーキー、不可解さがあらわれてくる。

たとえば掲句の「帽子の中のうどん」だが、「帽子の中のうどん」を率直にいえば、〈取り返しがつかない〉ということだ。もし帽子の中にうどんを入れたら、帽子とうどんの分節は消え、分離しがたくなってくる。帽子は帽子の機能をやめ、うどんはうどんの機能をやめ、帽子うどんのような奇怪な意味分節があらわれてくる(いちごとうふ)。

これは攝津幸彦の有名な句、

  階段を濡らして昼が来てゐたり  攝津幸彦

にも通底しているように思う。階段が濡れて、階段と液体の分節がこわれるとき、そこに〈意味の昼〉がやってくる。それはどこかやはり不快でありながら、未分節が新しい分節をもたらす予感もある。

  口腔にわだかまりけり森の端  攝津幸彦

  浄土これ畳のへりにとろゝ汁  〃

口のなかにわだかまる「森の端」はやはり不快感がある。食べ物ではなく、それが「森」なのだから、根本的にこの口のなかの不快感は消えないのではないかというおそれもある(神話的不快感というか)。

畳のへりにとろゝ汁とやはり〈取り返しのつかない不快〉が描かれる(吉田戦車が描きそうな不快でもある。吉田戦車でも、言語や意味の未分節を探究することをギャグマンガとして昇華していた。ちなみに吉田戦車『伝染るんです。』は1989年からの連載。攝津幸彦、『MOTHER』、吉田戦車は同時期にいる)。

こうした未分節の風景を、不快感とともに、俳句にあらわすことが攝津幸彦の俳句にあるんじゃないかと思う。

  そう言えば、ぼくの句にたち現れる、人や毛物や花は、いずれも現実の地上にあるとするより、その身のいずこかに奇形を抱え込んだまま、遠い宙空を漂っているとした方がいっそう似つかわしいのではあるまいか。
  この遙かにしてなつかしい表現世界は、その奇形ゆえ久しく脳球の奥にとどまり、他者の理解をあらかじめ拒絶する在り方をしているのだが、ぼくにとっては逆にいつも新鮮で親しいものとして存在しているのだった。
  (攝津幸彦、同上)

他者を拒絶するものでありながら・いつも新鮮で親しいものとしてあらわれてくるもの。『MOTHER2』のラスボスであるギーグは、戦闘中、どんどん「奇形」になり「宙空を漂」いながら、こんなセリフを洩らしている。

  …カエレ…チガウ…チガウ…チガウ
  アーアーアー
  ……ウレシイ…
  …カナシイ…ネスサン。
  ……トモダチ…
   (『MOTHER2』)

  オギャーとは何の音ぞよ芋嵐  攝津幸彦

        (『俳句幻景』南風の会・1999年 所収)


 

2017年9月15日金曜日

超不思議な短詩219[糸井重里]/柳本々々


  フライングマンは「古池や・蛙飛び込む・水の音」なんです。  糸井重里

名作RPGと言われる『MOTHER』をつくった糸井重里さんがインタビューのなかで『MOTHER』を俳句と関連づけながら語っている。『MOTHER』と俳句という取り合わせは意外だったのだが、しかし考え直してみると、『MOTHER』の説明過少な朴訥で〈無口〉な語り口には、たしかに俳句と通底しているところがある。

  セリフは、ひらがなで作りましたから。声に出して、そのまま耳に響く音として、自分で受け止め直して、反響させてみて「これは違うな」と思うなら消す。原稿書きのように、自分でひたすら推敲していました。だから、敢えて言うなら俳句ですよね。「古池や・蛙飛び込む・水の音」って俳句には「だからどうした?」ってリアクションをしたくなりますよね。古池があって、蛙が飛び込んだ? 水の音がしたんだ? それはどんな音だった? ポチャンと音がしたのか、しなかったのか。自分にマイクを突きつけられたような、コール&レスポンスがあると思うんですよ。
  (糸井重里『ゲームの流儀』)

また『MOTHER』と〈写生的認識〉のかかわり合いをめぐるこんな記述も見逃せない。

  糸井重里の作り出した劇中人物に「~じゃ!」というおじいさんは出てこなかった。ゲームシナリオに自然主義的写生文を持ち込んだわけで、決まり文句で構成する古典の手法は音楽同様に否定されている。
  (『別冊宝島 決定版! 僕たちの好きなTVゲーム』)

任天堂から『MOTHER』が発売されたのは1989年。プラットフォームとなるファミリーコンピュータ発売の1983年の6年後に発売された。この間には『スーパーマリオブラザーズ』や『ファイナルファンタジー』『ドラゴンクエスト』など後々までそのブランドを維持していくゲームが発売されている。

糸井さんは俳句の「だからどうした?」性を『MOTHER』のなかに持ち込んだというが、そもそも過少な容量で広大な物語世界を表現するドットをベースにしたファミコンには、そもそもの「だからどうした?」性があった。

たとえば今でも『マリオメーカー』でプレイできる初代ファミコンマリオ。クリボーとはいったいなんなのか、なぜクリボーにふれただけで死ぬのか、死ぬといってもマリオはいったい画面外のどこにいくのか、マリオにとって命とはなんなのか、穴に落ちるとなぜ死ぬのか、穴に落ちて死んだのになぜ陽気な音楽がかかるのか、キノコを食べるとなぜ大きくなるのか、なぜキノコがブロックのなかにあるのか、キノピオは食われるキノコをどう見ているのか、花を食べて火を放つのはどういう仕組みなのか、なぜクッパは何体もいるのか(クリボーやノコノコがクッパに化けているから)、或いはなぜクッパはたびたび自ら出向いてくるのか、なぜクッパはマリオがぎりぎり自らのもとまでたどりつけるようコースをつくってあげたのか、ピーチとキノピオの関係はどうなっているのか、この国の〈種差〉のありかたは? ピーチ姫はさらわれている間何をして過ごし生きていたのか、食べ物や排泄はどうしていたのか、助けにいけないままだとどうなるのか、クッパはピーチをどうしたかったのか、なぜマリオはおじさんなのか。

これらはほとんど説明されることなく、プレイヤーはプレイのなかに投げ込まれていく。しかし大事なことはそうした不条理をドットという過少な表現が支えていてしまったことにあるように思う。こうしたゲームへ投げ出されながら、プレイしていくなかでリアリティを確保していく様子は、定型に投げ出されながらその定型のなかでリアリティを確保していくようすに似ている。とりあえず・やっていくこと、体験や経験のプレイがリアリティを支えていく。プレイ・リアリズム、というか。

その意味で、ゲームや定型詩のリアリズムとは、《すること》が《すること》を支えていくという同語反復的なゲーム・リアリズムに支えられているのかもしれない(だからゲームをプレイしたことのないひと、定型詩を詠まないひとにはわかりにくい。《プレイ》していないから)。

プレイすることに加えて、もうひとつ大切なのは、というより、糸井さんが強調したのは、足りない部分を補っていく想像力だ。足りないからこそ、補う。

『MOTHER』は、ただでさえ足りない情報量の世界を、テキストにまで俳句的足りなさをもちこむことで、さらに想像力をひきだした。

  たとえば『MOTHER』のキャラクターには、「お前は○○なのか?」と聞いておきながら「そうか」と答えるだけの奴がいるんです。そういうぶった切るやり取りが、すごくある。だから、その短い言葉の中に、相手の気持ちを斟酌する“想像力”が必要になってくる。「『そうか』ってどういう意味だよ!」という、単なる三文字の中に、想像力に応じたオマケがついてくるんです。
  (糸井重里『ゲームの流儀』)

RPGは世界観を構築するために、またはゲームの容量上制限された視覚情報を補うために、膨大なテキストを用意するが、『MOTHER』はそのテキストをあえて俳句的に〈外し〉ていく。

『MOTHER』にはフライングマンという主人公をかばうだけの、一見強そうななりで、ひ弱なキャラクターがいる。かれらはすぐに死ぬのだが、しかし、寡黙なかれらからは使命感が伝わってくる。俺らが主人公をかばわなきゃ誰がかばうんだと。わたしたちは命を賭けて主人公をかばい死んでいくと。「わたしはフライングマン。あなたのちからになる。そのためにうまれてきた」とかっこいいセリフも用意されている。でも、かれらは弱い。弱いうえに、ゲーム上どうでもいいキャラなのである。だから、おもう。いったいなんなんだ? と。でもその「いったいなんなんだ?」が組成していく世界が『MOTHER』だった。俳句のように。

  ゲームの中に「フライングマン」という、勝手に冒険に加わって死んでいくキャラクターが出てくるんだけど、この感想も人によって全然違う。……その人の想像力に応じて、フライングマンが役割を果たすわけで。フライングマンは「古池や・蛙飛び込む・水の音」なんです。リズムが五・七・五ではないのだけれど、問いかけの構造。未完成のものをポンポン置いてあるってのが、僕のテキスト世界じゃないかな。
  (糸井重里、同上)

モンスターを駆逐し、父親のようなラスボスを倒し、世界を領土化し、仲間をふやしていく〈完成型〉のRPGが多いなかで、『MOTHER』はそのタイトルから〈父権的〉なものを喪失しており、未完の世界のなかで、未生の赤ん坊をめぐる物語だった。主人公たちが最後に出会うのは赤ん坊であり、その赤ん坊の〈母親〉になれるかどうかが『MOTHER』には賭けられていた。さいごに主人公たちは、〈たたかう〉ではなく、〈うたう〉を選んだ。

ときどき、なんで『MOTHER』は3D化できる機会を失ったんだろうと考える。『MOTHER3』は当初3Dで開発が進められていたのだが結局頓挫し、2Dになった。でも、その〈達成しがたさ〉としての未完のありかたは、マザーっぽいと言えば、マザーっぽい。マザーというゲームは、くじけること、たたかわないこと、無意味なこと、いちごとうふ、意味不明なこと、素朴なこと、あたたかいこと、いきてゆくことを考えさせてくれる。

『MOTHER』は1989年というバブル・カルチャーが終わりに向かってゆく年に発売された。もう後5年で1995年という〈世界の終わり〉をサブカルチャーが描くような変わり目の年がくるのだが(新世紀エヴァンゲリオン・オウム真理教事件・阪神淡路大震災)、その5年前にこうした淡々とした俳句的世界観のゲームがあった。

  人生はゲームよ。休んだり戻ったりも大事よ。
   (『MOTHER』)

          (『ゲームの流儀』太田出版・2012年 所収)

2017年9月14日木曜日

超不思議な短詩218[鶴見和子]/柳本々々


  俳句というものはすっかり自分の忘れ果てていたような原体験をぱっと思い起こさせてくれる、触発するのよ  鶴見和子

鶴見和子さんと金子兜太さんの対談本『米寿快談』のなかで鶴見さんが、俳句がとつぜん自分の身近に迫ってきた風景としてこんなふうに話している。

  私は俳句を作る人…は世界が違うんだ、人種が違うんだってずっと思っていたんです。というのは、俳句を読んでも何のことかわからない。自分で作るなんてことはもちろん考えもしないけれど、どうも分からない。ああいうものはできない、そう考えていたんです。……
  とくに私は子供の俳句のなかで〈雪解けを待つ植物のように少年は〉、あれが私はすごく印象的だったの。というのは、俳句というものはすっかり自分の忘れ果てていたような原体験をぱっと思い起こさせてくれる、触発するのよ。……
  俳句というものは、すごい力、触発力をもってる。つまり原体験の触発力なの。すっかり忘れているでしょう、それをパッとじつに鮮烈に教えてくれるの。その日なんです。これが俳句なのか、それなら私にだってわからないことはないな。むしろ俳句を読むことによって、私も歌がつくれるようになる、そういうものじゃないかなとはじめて思った。……
  つまり、これまで私は俳句に親近感は全くなかったんです。芭蕉だとか蕪村だとか、そういう世界だけが俳句だったら私にはわからない。ああいうさびとかわびとか、その上になんだかむずかしい季語を入れなきゃいけないのは。それでこれから俳句を勉強しなくちゃいけないと。つまり感性の活性化、それを俳句から私がいただくことができる。それが一つの驚き。
  (鶴見和子『米寿快談』)

とても長く引用したがここにはひとりの俳句とは無縁だと感じられていた人間がとうとつに俳句に出会い、驚き、俳句との距離感がとつぜん変化してゆくさまが語られている。それは「一つの驚き」であり「パッ」であり「鮮烈」であり、「原体験の触発力」である。

どうして鶴見さんがこの俳句の「原体験の触発力」に出会えたかというと、それは、俳句がもつ〈認識の基盤〉〈認識の原風景〉にであったから、ではないかと思う。鶴見さんは「さび」「わび」「むずかしい季語」は「わからない」と述べている。でもそういう〈趣向〉や〈風情〉ではなく「感性」として俳句にであった。そのとき、俳句が鶴見さんのなかに流れ込んできた。

こうした〈認識の基盤〉としての俳句を考えたときにわたしが思い出すのが、俳誌『オルガン』の俳句である。たとえば『オルガン』のメンバーにはこんな俳句がある。

  くちびるが顔にありけり扇風機  宮本佳世乃
   (『句集 鳥飛ぶ仕組み』)

扇風機にあたっているうちに「くちびる」が「顔」にあることに気づいてしまう。顔の本来的な存在に気づいてしまう。存在論的俳句。

  なにもない雪のみなみへつれてゆく  田島健一
   (『句集 ただならぬぽ』)

「なにもない」と語られることによって「なにもない/なにかある」という二項対立が形作られる。しかしここで語り手は「なにもない」という虚無的な次元を《あえて》選ぶ。しかも「つれてゆく」とその虚無的な次元への意志は強い。この句は、なにかがあるということと、なんにもないということの、存在論的次元を喚起する。でも、「ある」とか「ない」って実は認識の話だ。佳世乃さんの句のように、《そのひとが・世界をいま・これから・どう・みようとしているか・みているか》の話だ。

  ゐた人の残してゆきし咳のこゑ  鴇田智哉

この句においても存在論的次元が喚起される。「ゐた人」が「咳のこゑ」を残してゆくのだが、だからとうぜん今は〈いない人〉ということになる。この「咳のこゑ」も咳の〈遅延〉という咳の存在論的次元物のようなものだ。ところが語り手はその〈存在の遅れ〉のような次元にいる。「ゐた/残して/ゆきし/咳のこゑ」というひとにとってはすべて過去に葬った次元に語り手は、いま、たっている。語り手は、いったい、どの次元にいるのか。いったい、いるとかいないって、じゃあ、なんなのか。

  居ることに泉のふつと落ちてくる  宮崎莉々香
   (「かつてのまなざしでどうしても見」『オルガン』10号、2017年8月)

これら俳句には、認識の仕方を、魔術的に〈ぶり返し〉ていくような切なさがある。「かつてのまなざしでどうしても見」ようとするわたしに働きかけてくる。魔術的切なさとして。なんで切ないのかというと、世界の臨界に達しそうになるからだ。あるとかない、いるとかいない、に抵触することは、だんだんと、世界がある、世界がない、に関わっていく。もしかしたらわたしたちにとって、もう、世界は終わったものとしてあるのかもしれない、という世界の認識論にかかわってゆくのだ。

こんなことが俳句で起こってしまっているのは、驚きだと思う。でも、いま、こんなことが俳句で起こってしまている。

こうした俳句が俳句として成立してしまったとき、わたしは、そもそもの〈こちら側〉の認識を点検しなおさなくてはならないような気もするのだ。鶴見さんが「驚き」をもって俳句をうけとめたように。

俳句は、わたしに、認識の点検を要請する。きのう・きょう・あしたのわたしの認識のしかたをたしかめてごらんよと、手を、眼を、からだを、眼を、手を、とってくる。わたしたちは、いつも、俳句に「遅れ着」く。

  多く見て感じて夜が来て蛾来て  福田若之
   (「遅れ着いたもののしるしに」
    

          (「俳句の触発力」『米寿快談』藤原書店・2006年 所収)

2017年9月13日水曜日

超不思議な短詩217[笹田かなえ]/柳本々々


  夢に見る猫はわたしの夢を見る  笹田かなえ

教師と生徒の言語が渡り合う世界の話を前回したが、じゃあ、ひとと猫が渡り合う世界は、どうだろう。

そうしたひとと猫がからまりあいながらひとつの世界をあらわす句としてかなえさんの句をあげてみたい。

よく猫は擬人化され、飼い主が猫の〈内面〉をしゃべってしまっていることがある。猫はしゃべらないにも関わらずひとが猫の言語を代弁してしまい、猫の内面を奪い取ってしまうのだ。そこにはひとと猫、しゃべることのできる人間、しゃべることのできない猫の微妙な非対称性がある。猫はしゃべらないのだから、猫の言語に寄り添おうとするならば、わたしたちも黙るしかない。

でも、夢、ならどうか。かなえさんの句では、わたしが猫を夢にみている。だがその猫はわたしの夢をみている。わたしは猫の夢の存在かもしれない。猫はわたしの夢の存在かもしれない。どちらも夢の存在かもしれない。

ここには非対称性はない。ここにあるのは、どちらかがどちらかをどうこうする構造ではなく、猫とわたしをめぐる螺旋=スパイラル構造だ。そして、わたしがきえるとき猫もきえ、猫がきえるときわたしもきえるような関係がここにはある。

もしわたしたちが動物と関係をもてるならば、こういうところにあるのではないだろうか。動物の言語を代弁してしゃべるのではなく、共にあらわれ・共にきえるような関係。わたしがきえればあなたもきえるし、あなたがきえればわたしもきえますという、生と死のらせんを共に生きるような関係。

わたしはこんなひとと動物の生き死にの螺旋構造をかつて眼にしたことがあった。

  ぴしゃというように鉄砲の音が小十郎に聞えた。ところが熊は少しも倒れないで嵐のように黒くゆらいでやって来たようだった。…と思うと小十郎はがあんと頭が鳴ってまわりがいちめんまっ青になった。それから遠くでこう言うことばを聞いた。
 「おお小十郎おまえを殺すつもりはなかった」
  もうおれは死んだと小十郎は思った。そしてちらちらちらちら青い星のような光がそこらいちめんに見えた。
 「これが死んだしるしだ。死ぬとき見る火だ。熊ども、ゆるせよ」と小十郎は思った。それからあとの小十郎の心持はもう私にはわからない。
  …栗の木と白い雪の峯々にかこまれた山の上の平らに黒い大きなものがたくさん環になって集って各々黒い影を置き回々教徒の祈るときのようにじっと雪にひれふしたままいつまでもいつまでも動かなかった。そしてその雪と月のあかりで見るといちばん高いとこに小十郎の死骸が半分座ったようになって置かれていた。
  (宮沢賢治「なめとこ山の熊」)

生活のために熊を撃ち殺していた小十郎だが、熊に殺されるときに、小十郎は、「熊どもゆるせよ」としんでいく。熊も小十郎に対し「おまえを殺すつもりはなかった」といいながら、「があん」と小十郎を殴り殺す。

そして小十郎の死体を円心に「回々教徒の祈」りのような熊たちの螺旋ができる。ここにも、ひとと動物と生と死のスパイラルがある。ともにいき・ともにしぬような関係が。

共生、ということばがある。でも、かなえさんの句や「なめとこ山の熊」にみられるように、共生という概念は、じつは、共死をも含むというとてもラディカルなものなのではないだろうか。いっしょにいきてゆきましょう、が、いっしょにしんでゆきましょう、をふくみもつような。しぬときはべつべつだよ、ではなくて。

セーターをほどくみたいに、わたしとあなたが共にいて、いっしょにいきたり、しんだりしている。

  セーターをほどくみたいに逢いましょう  笹田かなえ


          (「前菜」『お味はいかが?』東奥日報社・2015年 所収)

2017年9月12日火曜日

超不思議な短詩216[千葉聡]/柳本々々


  「おはよう」に応えて「おう」と言うようになった生徒を「おう君」と呼ぶ  千葉聡

千葉さんの歌集は教師の日常の風景が歌で詠まれたものが多いのだが、面白いのは教師の言語風景と生徒の言語風景がセッションするときだ。語り手みずからの言語世界が、生徒の言葉の風景と渡り合うのである。

掲出歌をみてみよう。「おはよう」と言う教師の挨拶に対して「おう」と言うようになってきた生徒。ここで語り手はその「おう」を「お(はよ)う」にはたださずに、その「おう」をその生徒自身のアイデンティティとして付与してしまう。「おう君」と。

この教師から生徒への「あだ名づけ」=名付けからいろんなことがわかってくる(そもそも「あだ名」とは言語世界同士のセッションのようなところがあるのかもしれない)。

まず、教師である語り手にとって挨拶とは、ただ単に機械的に交わされるだけの言語ではなく、そのひと自身を体現していくものであるということだ。だからこそ「おはよう」に「おう」と返されてもそれを矯正するようなことはしない。むしろ「おう」でも返答してくれたことのほうが大事なのであり、その返答してくれた生徒自身を「おう君」として尊重する。

また「おう」と言うように《なった》と語られていることからもわかるようにこの「おう」としての《ここ》に来るまでには時間がかかっている。たぶん「おう」以前はまだ名付けられることもできないような状態であり、「おう」にいたってはじめて言語が人格化できるような状態に達したことをあわらわしている。

そして、「おう君」と相手を名付けてしまうことは、みずからの言語分節よりも、相手の言語分節=言語世界を優先することのあらわれである。名付けられた相手は、みずからの「おう」の言語分節を忘れず、そうして教師とのやりとりをしたことが自分の生きられる身体「おう君」になったことを忘れないだろう。

もちろん、「おう君」とあだ名をつけられた生徒本人の気持ちはここではわからない。嬉しかったのか嫌だったのかそれはわからない。わからないけれど、「「おう」と言うようになった」からは教師と生徒がなんらかの関係をはぐくんでいることが感じられる。また「おう」はそのうち「おはよう」に変わることもありうるかもしれない。そのとき、「おう」はまた違った意味をもつことになるだろう。

  「大丈夫だ」何も大丈夫じゃないが教員ならばそう答えるのだ  千葉聡

教師の言語分節とはなんだろう。千葉さんの歌集を読んで思うのは、自らの言語分節が優先されない世界が教師の言語分節である。「大丈夫じゃない」と思っても「大丈夫だ」という言語分節を行う。それが教師だ。ところがそのように優先された言語分節は、生徒との関わりのなかで、生徒の言語分節と、ずれ、かさなりつつ、出会う。

  「大丈夫、大丈夫だ」と熱のある子は僕に寄りかかってそう言う  千葉聡

大丈夫じゃないのに大丈夫という生徒。このとき、教師の言語分節における「大丈夫」と生徒の言語分節における「大丈夫」がぶつかりあい、かさなりあい、ずれ、共振する。大丈夫じゃないのに大丈夫と言う教員。大丈夫そうじゃないのに大丈夫という生徒。「大丈夫」ということばが教師と生徒の関係のなかで、ずれ、ゆれ、ぶつかり、かさなる。

このときの「大丈夫」は「大丈夫」にあるのではない。わたし(教師)とあなた(生徒)の間にある「大丈夫」であり、関係が明滅しながらあらわれ、「大丈夫」自体を問いかけるような「大丈夫」である。

あなたとわたしの、わたしとあなたの、言語分節に敏感になること。

  」杜子春は恐怖のあまり目を閉じた。括弧の中には入れないのだ。「  千葉聡

みずからの言語世界の発展〈だけ〉ではなく、他者と言語世界を切り結びながら《そこにしかない》言語世界をつくりあげていく場所がこの世界にはある。いや、あった。わたしもずっと忘れていたのだが、その場所を「学校」と言う。

  T君は僕を「先生」とは呼ばない 「ねえ」とも言わない 「ん」とにらむだけ  千葉聡



          (「非実力派教師の日常」『そこにある光と傷と忘れもの』風媒社・2003年 所収)

2017年9月11日月曜日

超不思議な短詩215[加藤久子]/柳本々々


  私って何だろう水が洩れている  加藤久子

以前、サラリーマン川柳は主体がはっきりしているのに対して、現代川柳(詩性川柳)は主体がはっきりしていない、それは現代川柳というジャンルが主体性を支えているんじゃないかという話をしたのだが、例えば、加藤さんの掲句。

「私って何だろう」と〈わたし〉を問いかけた瞬間、「水が洩れている」。主体が主体たろうとして主体的に主体である〈わたし〉自身に問いかけた瞬間、主体は損壊してしまう。この主体性のなさというよりは、非主体性への本領発揮の仕方は、川柳が発句である俳句と違って、付句からきているところ、〈付く〉ところからきているのかもしれないが、それにしても、縦横無尽にばらばらに損壊していくのが現代川柳なのである。

だから現代川柳が〈人間を描く〉という言説は、どこか当たっているような気がしながらも、どこかで致命的に間違っているような気もする。ポスト構造主義のフーコーが〈人間の終わり〉を唱えたような、終わってからのばらばらのドゥルーズ的器官のような人間が現代川柳には描かれているのではないかと思うこともあるからだ。

  人間は、われわれの思考の考古学によってその日付けの新しさが容易に示されるような発明品にすぎぬ。そしておそらくその終焉は間近いのだ。
  (フーコー『言葉と物』)

対して、現代川柳は〈他者〉としての「異人」にはとても関心を示している。これは他者を見いだして、その他者との二項対立から自身を逆照射して主体性をみいだそうとしているのだろうか。

  白菜をさくりと割って異邦人  加藤久子

  レタス裂く窓いっぱいの異人船  〃

そう言えば以前、現代川柳によってはじめて凄まじく遅れに遅れた〈近代〉が来たのではないかとちょっととんでもないことを言ったりしたが、実はそうではなくて、近代がこなかった現代川柳はそのまま未分化のままでポスト近代(ポストモダン)につっこんでいったという見方もできるのではないかと思っている(本当は近代とかポスト近代とかかんたんに使ってはいけないのは承知のうえで)。

  言語を用いてごまかすこと、言語をごまかすこと。たえず変遷回帰する言語活動の輝きにつつまれた、この健全なごまかし、この肩すかし、この壮麗な罠、私としては、それを文学と呼ぶのである。
  (ロラン・バルト『文学の記号学』)

現代川柳は、ポストモダンやポスト構造主義とこのうえなく、相性がいい。というか、現代川柳は《そのまま》現代思想の直感的で体感的なわかりやすい解説書になっているところがある。たぶん、デリダもドゥルーズもアルチュセールもラカンもフーコーもロラン・バルトだって、現代川柳をすごく愉しんで読んだと、おもう。きっと、そう、おもう。

わたしはロラン・バルトがずっと好きだったので、バルトに、いま、きいてみたい。わたしってなんなんですか。

  ノートに佇っている貌のない私  加藤久子

  この俺、何がどうなっちゃったんだろう。
   (ロラン・バルト『現代思想』1984年3月)

          (『動詞別川柳秀句集「かもしか篇」』かもしか川柳社・1999年 所収)

超不思議な短詩214[光森裕樹]/柳本々々


  どの虹にも第一発見した者がゐることそれが僕でないこと  光森裕樹

感染の話をもう少し続けてみよう。

こんな光の感染をめぐる歌がある。

  キラキラに撃たれてやばい 終電で美しが丘に帰れなくなる  佐藤りえ
  (『歌集 フラジャイル』)

この歌の場合、キラキラに感染し、キラキラまみれになってる歌と取ることもできる。どういうことか。たとえばこんなふうに考えてみよう。すごくすてきなキラキラしてみえるひとに出会ったとする(「キラキラに撃たれてやばい!」)。終電が近づいているのにそのキラキラに圧倒されて、感染してしまい、帰れない。たとえば自分の家が帰る場所は「自由が丘」(任意の場所なので、どこでもいい)だったりするのに、自分の帰る場所さえ、キラキラにもう感染してしまっていて、自分の言語体系がキラキラ言語体系になってしまっていて、「美しが丘」と言ってしまったりする。これが、キラキラ感染である。キラキラは感染する。そしてこのキラキラ感染の言語ダイナミズムを短歌にするとりえさんのこの歌になるように思う。

光森さんの歌では事態はその逆である。「虹」というキラキラに即座に感染しそうな歌語といってもいいくらいの〈光〉に対して、〈孤独〉を発見している。

掲出歌。虹が出ている。でもどの虹にもすでに第一発見者がいる。確かにわかっていることは、その第一発見者が僕ではないということだ。この歌では、「虹」に感染していない。むしろ感染しなかったそのことが歌として昇華されている。

光森さんの歌では光は感染する共同体ではなく、孤独する個人を呼び込んでいく。

  それぞれの花火は尽きてそれぞれの線香花火を探し始める  光森裕樹

やはり「花火」という感染する共同体をつくりそうなキラキラした歌語にすでに「それぞれの」と孤独と孤絶のためのジャンピングボードがもうけられている。花火が終われば、「線香花火」というマクロからミクロな光にうつっていく。光は縮小再生産され、そのたびごとにそれぞれの孤独をうんでいく。孤独はこの歌集において称揚されている。

  はつなつの運転手さんありがたう やつぱりぼくは此処で降ります  光森裕樹

「やつぱり」と意を決しての決断が入り、「此処で降ります」と決意が入る。「はつなつ」の光のなかでバスという仮想の共同体から「降り」る。

では、ただ、孤独なのか。闇があるじゃないかという返答がこの歌集にはあるだろう。

  手探りでくだりつづける階段に擦れちがふための踊り場がある  光森裕樹

手探りでくだりつづける階段。そんな闇のなかの階段に「擦れちがふための踊り場」が用意されている。闇のなかだからこそ、感触を通した闇の共同体が生成される。ただこの共同体は「擦れちがふ」と語られるのがポイントで、あくまで共有ではなく、分有のポイントである。あなたとわたしはすれちがう。でも踊り場という同じ場所において。

光森さんの歌集では、光と闇がどう感染しどんなふうに共同体をつくったりつくらなかったりするかに意識的な感性が働いている。これはフィルム=写真そのもので歌集をつくる光森さんならではの明暗の詩学といってもいいのではないだろうか(佐藤りえさんも写真を短歌に取り入れているので明暗への感性に意識的である)。

  ポケットに電球を入れ街にゆく寸分違はぬものを買ふため  光森裕樹

電球は光だが、電球を買いに行くために持ってゆく電球なのだからすでに切れた電球である。だからこれは闇の電球だ。かつて光だった闇を語り手はポケットに入れ、寸分違わぬものを買いに行く。明暗への鋭い意識がポケットで割れそうな電球の危機的な感じと共鳴して、激しい。

  請はれたるままに男に火をわたす煙草につける火と疑はず  光森裕樹



          (「鈴を産むひばり」『鈴を産むひばり』港の人・2010年 所収)

超不思議な短詩213[永井祐]/柳本々々


  あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな  永井祐

永井祐さんの短歌の特徴に試行されたコミュニケーションの厳しい断絶というものがあるんじゃないかと思っている。

例えば掲出歌。「あの青い電車」に語り手は「ぶつか」ることを試行するのだが、それは「はね飛ばさ」るのではないかと思考している。「あの青い電車」という電車をやわらかく言い換えてみても、電車とコミュニケーションをとることは不可能だ。

  日本の中でたのしく暮らす 道ばたでぐちゃぐちゃの雪に手をさし入れる  永井祐

「日本の中でたのしく暮ら」し、日本とまるで十全で充実したコミュニケーションがとれているかのような語り手。ところがその語り手は次の瞬間、局所的な「道ばた」の「ぐちゃぐちゃの雪」という〈ぜんぜんたのしくなさそうな〉ところに「手をさし入れる」というやはり〈たのしくなさそうな〉ことをする。コミュニケーションはとつぜん断絶される。dumb、というかんじに。

  月を見つけて月いいよねと君が言う  ぼくはこっちだからじゃあまたね  永井祐

「月を見つけて月いいよね」と「ぼく」に言ってくれる「君」。ところが不穏な二字空きのあと、「ぼく」はそれにはまったく返答せず、「ぼくはこっちだからじゃあまたね」と言う。コミュニケーションは試行されたのだが、断絶されてしまった。ここでも先ほどの「日本」から局所の「ぐちゃぐちゃの雪」のように、「月」から「こっち」という局所性=偏狭性が志向される。

この試行されたコミュニケーションの断絶をこんなふうに言い換えてもいいかもしれない。それは、感染への遮断なのだと。言葉は感染しやすい。言葉はすぐに返答(レス)がつき、感染され、伝播してゆく。言葉は、感染しやすい。その感染のしやすさを、断絶によって、浮き彫りにする。

  本当に最悪なのは何だろう 君がわたしをあだ名で呼んだ  永井祐

「本当に最悪なのは」「君がわたしをあだ名で呼」ぶといういつの間にか言語感染=言語共有されていることかもしれないこと。

  わたくしの口癖があなたへとうつりそろそろ次へゆかねばならぬ  斉藤斎藤

「口癖」がうつったら「次へゆかねばならぬ」。この言語感染への恐怖はなんなのだろう。もちろん、言語感染そのものは悪いことではない。それは共同体をはぐくむし、対話の基盤にもなる。でも、ゼロ年代の短歌にはどこかにその感染恐怖がある。感染への意識が。

  偏見は物語を通して感染する。言葉はウィルスなのだから。
  (西山智則『恐怖の君臨』

あんまり簡単に言えないのだけれど、ゼロ年代の短歌は、〈偏差〉というものをとても強く意識するようになったということは言えないだろうか(『日本の中でたのしく暮らす』の「日本の中で」、『渡辺のわたし』の「渡辺の」)。わたしとあなたには偏差がある。わたしとあなたは実はおなじ基盤を共有していない。だからその偏差を意識しつづける。いっけん、言語感染し、言語共有していると、その偏差が隠れ、わすれがちになるが、しかし、偏差はあるのだと。それをゼロ年代短歌は意識しはじめたんじゃないかと。そしてそれはテン年代の〈向かうことのできない向こう側〉を意識する短歌に変わるだろう(続フシギな短詩199[吉田恭大]/柳本々々


あなたとわたしは違うということ。でも、あなたはときどき「壁」を越えてやってくるということ。ゼロ年代をこえてそんな漫画がヒットする。漫画の名前は、『進撃の巨人』。

  あなたはぼくの寝てる間に玄関のチャイムを鳴らし帰っていった  永井祐


          (「1」『日本の中でたのしく暮らす』ブックパーク・2012年 所収)

超不思議な短詩212[宮柊二]/柳本々々


  ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す  宮柊二

穂村弘さんの解説がある。

  「ひきよせて」は、戦闘の一場面と読める歌。感情語を排した動詞の連続が緊迫感を伝える。
  (穂村弘『近現代詩歌』)

穂村さんの「動詞の連続」という指摘が面白いのだが、「ひきよせ/寄り添ふ/刺し/立てなく/くづおれ/伏す」とたしかにこの歌は動詞に満ち満ちている。こんな歌を思い出してみたい。

  前肢が崩折れて顔から倒れねじれて牛肉になってゆく  斉藤斎藤

この歌をはじめてみたとき、どうしてスローに感じられるんだろうと思ったことがある。屠殺される牛が、一瞬で殺されるのではなく、スローでゆっくりと死に、牛という個体から牛肉という食物=商品になっていく様子が感じられる。

宮柊二の歌では、ひとを刺すとはどういうことか、ひとを殺すとはどういうことか、ひとが刺され・殺され・死ぬとはどういうことか、がじっくりと描かれているのだが、この斉藤さんの歌にも「動詞の連続」によって牛が牛肉になっていくまでの死のプロセスが「崩/折れ/倒れ/ねじれ/なって/ゆく」とじっくりとスローで、動詞の連鎖で描かれている。

宮さんや斉藤さんの歌がスローを感じさせることがあるならば、それは、反復しつつも・ズラされながら連鎖してゆく動詞にある。定型の枠=時間を微分するかのように並列=列挙される動詞。読み手はそれら動詞を即座に処理し、連続させ、積分してゆかなくてはならない。

  崩→折れ→倒れ→ねじれ→なって→ゆく

こうやってみるとわかるように、おなじような意味の動詞が並びつつもだんだんズレてゆき、「崩」という↓への肉体がダウンするエネルギーは、「ゆく」という→への食品流通への流れへと、漢語からひらがなへの軽やかさとともに変化していく。

  スローモーションの魔術。どんなジャンルでもあえて低速にすると、高尚なものより尊重されやすいような気がする。
  (千葉雅也『別のしかたで』)

こういう技法は現在は漫画が効果的に使っている。例えば岡野玲子『ファンシィダンス』では主人公が三年の寺での修行生活を抜け、「まっ暗なシャバへ旅立」つときを、一コマのなかに身体の動きをズレつつ反復しながら印象的なスロー・シーンに変えている。

    (岡野玲子『ファンシィダンス』5巻、小学館文庫、1999年、p.43)

微分化された身体がスローな感覚をうむこと。たとえばこの考え方をこんなふうに〈逆〉に考えることもできるかもしれない。なぜ、チャップリンやバスター・キートンやマルクス兄弟がコマを早送りしながら自分たちのアクロバティックな身体を撮っていたかというと、それは、速度をはやめることで、身体に動詞を多重に折り重ねるプロセスだったのではないかと。

限定された時間のなかに動詞を多重に折り重ねることでスローな感覚をもたらす短歌と、限定された身体の速度を高めることで身体に動詞を多重に折り重ねるサイレント・コメディ。

動詞、速度、身体。短歌も映画も身体のテクノロジーにかかわっている。

  チャップリンのテクノロジー化した身体は、逆に周囲の環境からの刺激(機械のリズム)に自分を同調させることができるような、柔軟な有機的身体である。つまりこの身体は、機械の断続的なリズムを自らの生命のリズムとして生きてしまうのだ。
  (長谷正人『映画というテクノロジー経験』)


          (『近現代詩歌』河出書房新社・2016年 所収)

2017年9月9日土曜日

超不思議な短詩211[法橋ひらく]/柳本々々


  デンマーク風オープンサンド見た目よりずっしりとくるこれは良いランチ  法橋ひらく

法橋さんの歌集は『それはとても速くて永い』ととても印象的なタイトルがついている。法橋さんとお話したときに聞いたのだが、実際は名詞で短いタイトルも候補としてあったそうだ。

それはとても速くて永い。このタイトルにも法橋さんの歌のひみつが隠れていそうだ。

掲出歌をみてみよう。まず、長い。たとえば名詞なんかも出だしから長い。デンマーク風オープンサンド。まず長さがある。ただどこかに速さもある。この速さはなにか。それは「良いランチ」と体言=名詞で止めたところにある。長い歌なのに、余情や余韻を残さず終える。つまり、それはとても永くて・速い。

この歌の結句の「これは良いランチ」に注意したい。語り手は、〈気づいた〉のだ。歌っているうちに。ああ「これは良いランチ」なんだ、と。

つまり実質的にも形式的にも「それはとても速くて永い」のだが、しかし、もっと大事な点は、語り手の〈認知〉のありかたそのものが、「とても速くて永い」のだ。語り手は、永い認知のながで素速く気づく。「これは良いランチ」と。

このタイトルは、語り手の〈認知〉の様式を指していたのではないか。

ほかの歌も例にあげてみよう。歌いながら、歌のなかで、気づいていく歌を。

  風がすこし涼しくなっていつの間に登場人物(キャスト)こんなに入れ替わったの  法橋ひらく

  めちゃくちゃに笑ったあとの空白ふいにあなたが住んでいること  〃

  ケシの花って浮かぶみたいに咲くんだな草も声もぜんぶぜんぶ波  〃

  飛ばされるための帽子も油性ペンもないけど僕は今日ここにいた  〃

  追いかけっこの少年たちに囲まれて自分の脚を長いとおもう  〃

法橋さんの歌は、ながくて・はやい。気づくためのながさ、と、気づいてからのはやさ。

でも、実は短歌って本質的にそういう部分をもっているんじゃないか。認知のながさと認知のはやさを。

だとすると、やっぱり、こういうしかないんだと思う。それはとても速くて永い。

  「無宗教やと信頼されん言うてたわ」「そうなんや」ジョッキの底の、泡。  法橋ひらく


          (「万華鏡」『それはとても速くて永い』書肆侃侃房・2015年 所収)

超不思議な短詩210[山田航]/柳本々々


  夏はゆく何度でもゆくだから僕は捕まへたくて虫籠を置く  山田航

前回、〈たった一度きりの夏〉の歌の記憶の話をしたのだが、その記憶をまったく逆用=転用してしまうこともあるのではないか。

山田さんの歌では「夏」はもう〈たった一度きり〉の表情はみせていない。「夏はゆく何度でもゆく」と、夏の絶対性ではなく、夏の複数性が展開される。

けれどもそうした夏に対して刹那的・虚無的な態度をとるのではなく、「僕は捕まへたくて虫籠を置く」と極めて具体的(虫籠)で身体的(捕まへ)で積極的(たくて)で、それでいて、〈待つ〉(虫籠を置く)という受け身の姿勢が同時にあらわれる。

この積極的受動性のようなものは、山田さんの歌のあちこちにあらわれる。

  水飲み場の蛇口をすべて上向きにしたまま空が濡れるのを待つ  山田航

「水飲み場の蛇口をすべて上向きに」するという力強い積極性が発揮された後で、しかし「上向きにしたまま空が濡れるのを待つ」という受動性が歌の後半、展開される。つまりこの歌では、積極性と受動性が対立しあっていて、かつ、「まま」という言辞がそれらを結びつけ、積極的受動性のようなものが展開されている。

それをこういう言葉であらわしてもいい。潜勢力、と。

  僕らには未だ見えざる五つ目の季節が窓の向うに揺れる  山田航

四季しかわたしたちには見えていないのだが、語り手は「五つ目の季節」を窓の向うに感受している。季節の潜勢力を感じているのだと言ってもいい。世界の潜勢力を感じ取ること。そしてここにも絶対化ではなく、複数化された季節によって世界の潜勢力を感じ取る心性が感じられる。

こんなふうに言ってもよいのはないだろうか。山田さんの歌においては世界の複数性を感じ取りながらも、その複数性を分岐される弱さとしてではなく、まだ発見されてない隠れたエネルギー、潜勢力として感じ取っているのだと。

  たぶん親の収入超せない僕たちがペットボトルを補充してゆく  山田航

かつて取り上げた歌だが、「たぶん」というのは認識の複数性だ。たぶんこうなんだけれど、もしかしたらああかもしれない。たぶん親の収入は超せないんだけれどでも超せるひともいるかもしれない。いるかもしれないが、でもたぶん超せない。そしてその主体は「僕」が複数化された「僕たち」である。

でもだからといってそれらの複数化された世界が虚無的になるというわけでもない。「ペットボトルを補充してゆく」というのは、エネルギーを蓄えてメタファーにもなってゆく。なんらかの潜勢力の予兆のようなものはここに感じ取れないだろうか。これをコンビニエンスストアのアルバイトとしてとらえることはたやすいのだけれど、しかしそれにしては「を補充してゆく」からは〈待っている力〉のようなものを感じ取ることができる。

  思考するというのは、たんに、これこれの物やしかじかのすでに現勢化した思考内容に動かされる、という意味であるだけではない。受容性そのものに動かされ、それぞれの思考対象において、思考するという純粋な潜勢力を経験する、という意味でもある。
  (アガンベン『人権の彼方へ』)

複数化する世界は認めてしまう。でもその複数性のなかに潜在的な力を待機させること。それが短歌として形象化されたのが山田さんの歌のように思うのだ。だとしたら、それは希望といってもいい。

  花火の火を君と分け合ふ獣から人類になる儀式のやうに  山田航


          (「桜前線開架宣言・紀伊國屋書店新宿本店限定購入特典・2015年12月 所収)

超不思議な短詩209[小野茂樹]/柳本々々


  あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ  小野茂樹

たくさんで、それでいて、たったひとつの表情をしろ、という不思議な歌だ。ヒントは、「あの夏」だ。この「あの夏」を知っている人間は、その矛盾した複雑な表情ができるのだ。たぶん「した」ことがある人間だから。ここには「あの」という経験が矛盾律を越えてしまうようなことがうたわれている。出来事性が、理屈を、こえている。

ところで短歌史を流れている〈記憶〉のようなものがあるんじゃないかと思い、実験的に書いてみようと思う。

この掲出歌に次の二首を並べてみたい。

  逆立ちしておまへがおれを眺めてた たつた一度きりのあの夏のこと  河野裕子

  この夏も一度しかなく空き瓶は発見次第まっすぐ立てる  虫武一俊

河野さんの歌にも「あの夏」がやはり出てきて、「たつた一度」も出てくる。ただこの「たつた一度」は小野さんの歌からずれて、「たつた一度きりのあの夏」と夏にかかってくる。でも「たつた一度きりのあの夏」の〈表情〉をうたっている歌だ。しかもその〈表情〉とは、「逆立ちしておまへがおれを眺めてた」表情だ。

あえて小野さんの歌と一緒に読んでみるならば、ここにはこの歌の記憶を引き継ぎながらも、河野さんの立場からの〈フレッシュなねじれ〉がある。小野さんの歌が「せよ」と命令形だったのに対し、河野さんの歌は「逆立ち」を導入することによってこちらをみつめる人間の〈微妙な心性〉が浮かび上がってくる。「おまへ」は素直な人間ではないのかもしれない、「おれ」の「せよ」という命令をきくような人間でもないかもしれない。そうした相互の主体性の微妙な距離感がでている。

虫武さんの歌もこの〈歌の記憶〉に沿うような歌としてあえて読んでみるならば、「この夏も一度しかなく」と小野さんの表情の矛盾にあったものが、数の矛盾としてここではうたわれている。「この夏も」と夏はたくさんあるのだが、しかし「一度」なのである。表情の力点は、時間の力点におかれた。つまり、表情の有限ではなく、時間の有限を気にする位置性に語り手は身を置いている。

そして河野さんの歌にいた「おまへ」は消え、ここにあるのは「空き瓶」である。表情も、他者も、消えてしまったのだが、それが逆に現代の〈フレッシュなねじれ〉になっていると思う。

ところで、なぜ「空き瓶」を「発見次第まっすぐ立てる」必要があるのか。拾ったら回収し分別し捨てればいいのではないか。

こんなふうに答えてみたい。この語り手は、短歌史のなかにいる人間だったから、歌の記憶のなかで、「まっすぐ立て」たのだと。たった一度きりの夏のなかで、短歌の記憶を引き継いだ語り手は、空き瓶をみつけて「まっすぐ立て」た。これは、そういう歌なんじゃないか。

これは一度と夏をめぐる歌の記憶だったが、わたしはときどき、短歌史のなかの〈気づきの歌の記憶〉のようなものも、気になっている。そんなものはないかもしれないし、気づきそこねなのかもしれないが、でも、ちょっと、気になっている。気にしていこうと、おもう。

  呼吸する色の不思議を見ていたら「火よ」と貴方は教えてくれる  穂村弘

  雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁  斉藤斎藤

  草と風のもつれる秋の底にきて抱き起こすこれは自転車なのか  虫武一俊


          (『近現代詩歌』河出書房新社・2016年 所収)

超不思議な短詩208[佐々木紺]/柳本々々


  妖精の嘔吐や桜蕊ふりぬ  佐々木紺

この句には横に「#金原まさ子resp.」(金原まさ子さんをリスペクトして作った句)と詞書がついている(もともとTwitterのタグだったのかもしれない)。

この句の「妖精の嘔吐」に注意したい。紺さんの句をみてはじめて気づいたような気もしているのだが、金原さんの俳句は、出会うことのないふたつの物を強い悪意によって出会わせる、という質感がある。

たとえばかつて取り上げた金原さんの句。

  蛍狩ほたる奇声を発しおり  金原まさ子

「ほたる」と「奇声」が出会っている。私はかつて金原さんの句を川柳だと思っていて読んでいたことがあったのだが、たぶんその勘違いは、この強い《悪意の出会い》にあったようにおもう。

ただ《悪意の出会い》というのは前回BLをめぐって話したように関係性の詩学である。だから『庫内灯』創刊号で、佐々木紺さんと金原まさ子さんが往復書簡をしているのは、《必然的》なようにも思うのだ。BLとは、このような関係もある、あのような関係もある、と関係的想像力の強度を高めることであるならば、金原さんの俳句とはまさにその関係的想像力の強度がそのまま俳句になっているからだ。

紺さんは往復書簡でこんなふうに述べている。

  また他の人の俳句をBL読みすることは、萌えを見つける遊びであるのに加え、世界に対する小さな反旗を翻すことでもあると考えています。
  (佐々木紺「往復書簡 金原まさ子×佐々木紺」『庫内灯』)

ここで興味深いのは、「BL読み」は「萌えを見つける遊び」だけでなく「世界に対する小さな反旗」と〈小さな戦い〉にもなっていることだ。それは、〈関係〉は《こうあらねばならない》という強制される関係への「反旗」なのだ。

たとえば、妖精は嘔吐してはいけない、光って踊って楽しげにふるまっていなくてはならない、蛍は美しく光り続けていなくてはならない、奇声を発してはいけない、そうした要請=強制された関係を、関係的詩学のBL的枠組みは問い直し、抑圧された関係性をひっぱりだす。妖精の嘔吐、蛍の奇声として。

金原さんは紺さんの「ここ最近でときめかれた作品はありますか?」という手紙に「仮面の告白」「塚本邦雄」「マイケルジャクソン」「森茉莉」「ドグラ・マグラ」など作品を羅列したのだが、そのなかにこんな漫画家たちがいた。

  萩尾望都 山岸凉子 竹宮恵子

漫画史的には24年組と呼ばれる1970年代に少女マンガの革新を行った漫画家たちだ。

  萩尾望都たち24年組の特徴は、死や異世界や過去へのノスタルジーという、いわばロマン主義的な「退行」を作中に必ず抱え込むことだ。それが彼女たちの甘美さを担保している。その上で「死の世界」と「現実」との往復が主題となる。これは24年組の末裔としての岡崎京子の「リバーズ・エッジ」にまで通底する。
 (大塚英志『ジブリの教科書9 耳をすませば』)

考えてみると、金原さんの蛍の「奇声」も、紺さんの妖精の「嘔吐」も、「死の世界」への「退行」ととらえることもできる。ところがその「退行」が俳句で行われたときに、新たな関係性を俳句にもちこむ。

最近たまたま私も山岸凉子と竹宮恵子を読んでいたのだが、彼女たちは、凄絶にキャラクターの抑圧された〈内面〉をひきずりだす。それが「美少年」でも、その「美少年」性を食い破るような〈内面〉やそのたびごとの枠を逸脱するような関係性を描こうとする。

この佐々木紺さんと金原まさ子さんの往復書簡における《関係性》を読みながら私がみえてきたのは、BL読みは楽しみとしてだけでなく、ときに、〈そうあらねばならない〉関係性をそれがほんとうに〈そうあらねばならないのか〉、たまたま偶有的に〈そうあっただけでないのか〉という、関係の「小さな反旗」になるということだ。

逸脱することで、偏差がみえてくる。関係は決して対称的なものではないこと。それが逸脱によってみえてくる。すごくシンプルなことなのだが、なかなかできそうにないこと。

  逸脱のたのしさでヨットに乗らう  佐々木紺


          (「A Film」『庫内灯』2015年9月 所収)

2017年9月8日金曜日

超不思議な短詩207[藤幹子]/柳本々々


  銀河行くふたつの旅行鞄かな  藤幹子

『庫内灯 BL俳句誌』の「鞄はふたつ」から掲句。

『BL進化論』の溝口彰子さんによれば、女性読者がポルノを読む際の感情移入の対象は複数化していくという。

  「受」、「攻」にそれぞれアイデンティファイするというふたつのモードに加えて、もうひとつ、物語宇宙の外側に立つ読者としての視点、いわゆる「神の視点」へのアイデンティフィケーションもある。…
  三つのモードのうち、どれが最も強く働くかは、読者それぞれのファンタジーや物語の内容によっても異なる。…
  強弱はあれど、読者の頭のなかでは、この三つは同時進行であろう。「攻」、「受」そして「神」、すべてが「私」=読者なのである。
  (溝口彰子『BL進化論』)

ここで興味深いのは、BL的視点は決して〈攻め・受け〉の二項対立だけでなく、それらを俯瞰する第三者の視点をも同時にもつということである。

掲句をみてみよう。この句が、〈BL俳句〉である点は、どういう点にあるのか。

まず「ふたつの旅行鞄」で〈関係性〉を示唆している。〈攻めの旅行鞄/受けの旅行鞄〉と〈攻め/受け〉の二項対立が想起される。ここで注意したいのは、旅行鞄の所持者への関係性だけでなく、旅行鞄それ自体への関係性へも視点が潜り込んでいることだ。どういうことか。

たとえばこう考えてほしい。所持者に関係性がなくても、ふたつの旅行鞄が隣り合っておかれるだけで〈BL的想像力〉は働かせることができるのだと。BL的想像力は複数化の視点だから。

  恋愛がヘテロのものでない可能性があること、あるいは恋愛とは違っても互いを求め合う(対等な)関係性があること。BL俳句/短歌は、自分にとってそのひとつの象徴です。ときに異性愛に満ちて息苦しく感じられる世界への、ささやかな抵抗でもあります。
  (佐々木紺「編集後記」『庫内灯』2015年9月)

しかし/だから、もちろん〈攻め/受け〉の二項対立だけではない。

「銀河行く」という俯瞰の視点。この句ではこの「ふたつの旅行鞄」が「銀河行く」のを〈みている〉俯瞰の〈神〉の視点がある。BL的関係性を発動させている神の視点のような。

こうしてさまざまな複数的関係性を一句に折り畳んでいるのがBL俳句と言えないだろうか。

  抱くときは後ろ抱きなり春の月  岡田一実

〈背後から抱く(攻め)/後ろ抱きされる(受け)〉関係をみている「春の月(神の視点)」。

  ともだちを抱くこともある夏の果て  佐々木紺

〈抱く(攻め)/抱かれるともだち(受け)〉の関係をみている「夏の果て(神の視点)」。

ここでたぶんもっと大事なのは、いま・これをBL的に読もうとしている柳本々々もこの関係的想像力にかかわっていることである。これは柳本々々をてこにしたBL的想像力の関係性であり、この基点としての視点をだれが・どこから・どのように読むかによってまた関係性の束は変わってくるだろう。たぶんその意味で石原ユキオさんは『庫内灯』序文にこんなふうに書いている。

  BL俳句に決まった読み方はありません。
  でも、「俳句なんて読むの初めてだし、まず何をどう読んでいいかわかんなよー!」という方もいらっしゃるかもしれないので、BL俳句を楽しむコツを書いておきます。
  情景を想像し、ストーリーを妄想せよ!
   (石原ユキオ「BL俳句の醸し方」『庫内灯』)

関係性の束のなかにさらに読み手としての〈わたし〉をも関数として、関数的想像力として、その関係性の束のなかに関わらせること。BL的想像のダイナミクスは、読み手としての〈わたし〉に関係性の詩学を教えてくれる。

  穂村弘の「こんなめにきみをあわせる人間は、ぼくのほかにはありはしないよ」という明智と怪人20面相との関係を描いた短歌がありますが、私の理想はまさにこれです。
  「たったひとりの、代替不可能な互いの理解者であり、敵」という関係性にきゅんとします。
 (佐々木紺「往復書簡 金原まさ子×佐々木紺」『庫内灯』)

          (「鞄はふたつ」『庫内灯』2015年9月 所収)

超不思議な短詩206[復本一郎]/柳本々々


  「俳意」とは、俳諧性の(庶民性・滑稽性)のことである。  復本一郎

復本一郎さんが「川柳のルーツ」を次のように書いている。

  川柳のルーツ「江戸川柳」は、俳句のルーツである俳諧から派生したところの雑俳前句付という文芸として誕生したものであった。それゆえ、俳句と川柳とは、血縁関係にある文芸であると言っていい。源流をまったく異にする文芸ではないのである。かくて、俳諧発生時からの特質の一つである「滑稽性」(「笑い」)は、川柳にもかかわる特質だったのである。
  (復本一郎『俳句と川柳』)

復本さんによれば、もともと俳句と川柳のルーツにある「俳諧」は、庶民性・滑稽性が大事にされており、したがって、そこから派生した俳句・川柳にも滑稽性が引き継がれていたという。

今でもどちらかというと川柳と言えば、〈笑える文芸〉というふうに理解されているんじゃないだろうか。たとえばこんなシルバー川柳。

  誕生日ローソク吹いて立ちくらみ  シルバー川柳

誕生日にローソクを吹いたら立ちくらみしてしまう自分自身のエネルギーのなさをシルバーの立場から自虐的に描いている。こうした笑いを探求する川柳がある一方で、樋口由紀子さんはこんなふうに語っている。

  生きて有る事の不可解さ、不気味さ、奇妙さ、あいまいさなどが書けるのも川柳の特質である。
  (樋口由紀子『MANO』1998年5月)

不可解、不気味、奇妙、あいまい。これは「滑稽」とはまったく逆のベクトルをゆく、負やネガティブな力強さということになる。そういう価値観を川柳は引き受けることにもなった。ここで《あえて》樋口由紀子さんの句集から〈暗い〉価値観をもつ句を(分類しながら)みてみたい。

  ちょっと湿っている山高帽子  樋口由紀子
   (不快)

  悪になるオニオンスープ召し上がれ  〃
   (悪意)

  ねばねばしているおとうとの楽器  〃
   (不気味)

  荒野から両手両足垂れ下がる  〃
   (不可解)

  洗面器に水を満たして憧れる  〃
   (奇妙)

  階段の前を流れる不確実  〃
   (あいまい)

現代川柳はこうした負の価値観を積極的に育てる現場になった。

だから川柳にはおおまかに言えばふたつの流れがある。滑稽性を育む川柳と、負の価値観をも孕む川柳。簡単にいうと、サラリーマン川柳は自虐的だが明るく、現代川柳は他虐的で暗いと言えるだろうか。

私が面白いなと思うのは、復本さんが書かれたようにルーツには滑稽性があったとしても、またサラリーマン川柳のようにちゃんと滑稽性を引き継ぎ育んでいるものがあるのに、なぜわざわざ〈暗さ〉を引き受けるような現代川柳がうまれていったのかということだ。なぜなんだろう。滑稽性を突き詰めればよかったのではないか。ネオサラリーマン川柳のような。

ここからはちょっとこの一年を通しての推測なのだけれど、この負の価値観によって、川柳ははじめて〈近代〉をむかえようとしたんじゃないかと、おもう。つまり、個としてジャンルを自律させようとしていたんじゃないかと。樋口さんの句にあらわれたような不快や不気味や不可解は〈存在〉を際だたせるものである。ひとは享楽的なときは存在を意識しないが、みずからが死すべき存在であることを意識することによって実存を意識する。こうしたジャンルの実存意識として、負の価値観をはらみこんだのではないか。

わたしが不思議だったのは、主体性をめぐる観点だ。たとえばシルバー川柳では主体性ははっきりしている。シルバーな主体が、火を消すために息をふきかけ、エネルギーを消尽し、倒れんとしている。その主体は滑稽だ。そういうはっきりした主体がある。でも一方、樋口さんの句では主体性がみえないようになっている。「ねばねばしている弟の楽器」があって、姉にとって・ねばねばしているのだが、だからといってそれがどのような主体性になるのか。

わからないなかで不可解ななにかを感触してしまう。そのとき、主体は、主体にあるのではなく、むしろ、ジャンルが個としてたちあがる、ジャンルが実存的=主体的にそれら負の価値観を感触しているのではないか。つまり、主体は句のなかにあるのではなくジャンルにある。ジャンルが主体なのである。

現代川柳を〈読む〉という作業はとても難しい(といつも感じるしいつも挫ける)。それはカミュの『異邦人(よそもの)』で、ムルソーがどうして太陽のせいでひとを殺したのかよくわからないのに似ている。

ただたとえばそのムルソーの殺人の理由は、実存主義文学が理由なんですよ、と言われればなんとなく見えてくるように、ジャンルに主体の根拠があるのだ、そうやって川柳のとても遅れた近代がきているんだとおもうと、すこしわかりやすいような気がする。でもちょっと今回のこの話題はこれからも長くかんがえていこうと思っています。カミュがいってました。「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。それは自殺だ。だが、肝心なのは生きることだ」と。

  額の汗きらきらきらと悪である  樋口由紀子

          (「俳句に必要な「笑い」とは」『俳句と川柳』ふらんす堂・1999年 所収)