2017年5月26日金曜日

続フシギな短詩120[岡村知昭]/柳本々々


   コントロール下の夕虹へ来てください  岡村知昭 

現代俳句協会青年部のイベントで岡村知昭さんの句集『然るべく』を担当された橋本直さんは、この句集の「第四章 タンク」は圧倒的に変だと話されていた。

たとえば「第四章 タンク」にはこんな句がある。

  痒くなりタンクのねじの弛みだす  岡村知昭

橋本さんは岡村句集に頻出する構文「AなのにB」を指摘していたが、たとえばこの句で言えば、「タンクなのに痒い」ということが言える。タンクなのに痒くなってしまいねじが弛みだすのだ。しかし、この事態を、どうとらえればよいのか。

だから、これは意味論というよりは構造的にこう捉えるしかない。「AなのにB」なんだ、と。

たとえば、掲句も第四章のものだ。

夕虹がコントロールされている。そのコントロールされた夕虹のもとへ来てください、という句。しかしなぜ「虹なのにコントロールされているんだ」ということになる。これもこう言うふうにも言える。「AなのにB」なんだと。

私は岡村さんと川柳のイベントで何度もお会いするのだが、岡村さんは川柳人でもある。しかしその前に、私が岡村さんを知ったのは、山田航さんが書かれていた岡村さんの短歌の鑑賞文によってだった。歌人としての岡村さん。

つまり、岡村さんはさまざまな短詩を越境しながら、〈ここ〉にたどりついている。かゆいタンクやコントロールレインボーという〈ここ〉に(注1)。

【注1:岡村句集の帯文には歩くチューリップから岡村さんのシルエットまでの〈進化論的イラスト〉が掲載されている。彼は〈ここ〉までさまざまな形態をとりながらやってきたひとである。】

この「AなのにB」というのは実は現代川柳の枠組みに慣れていると理解しやすい。小池正博は川柳は〈断言の文体〉だと述べたが、「AなのにB」、痒いのにタンク、虹なのにコントロール、などの「AなのにB」は〈断言の文体〉になる。たとえば、

  走りたい逢いたい痛い人体図  きゅういち
     (『ほぼむほん』川柳カード、2014年)

きゅういちさんの川柳、「人体図なのに走りたい/逢いたい/痛い」という「AなのにB」構文である。だから橋本さんの指摘した岡村構文を現代川柳にあてはまると、実はけっこうな現代川柳が読み解けるのではないかとも思う。そしてこのときわかるのは、現代川柳とは意味論的問題なのではなく、文体論的問題なのではないかということだ(注2)。

【注2:ちなみに最近浅沼璞さんの『俳句・連句REMIX』所収の浅沼さんの連句の観点から書かれた小池正博論を読んでいて思ったのだが小池正博の川柳は、文体論と意味論を接続していく試みだったのかもしれない。小池正博が助詞で語られることが多い川柳人でありながら(文体論)、小池正博自身は創作態度として「詩的飛躍」をめざしているとかつて語っていたのは(意味論)、そういうところが多いように思われる。小池正博という川柳人は私は多面体の肖像を持っているような気がして、岡村知昭句集の多面性を考えながらも少しそんなことも思ったりした。】

ただ岡村句集は、川柳の句集ではない。俳句の句集である。

  タンクへと飛んでいかない頭痛かな  岡村知昭

のように「かな」の切れ字も入っている。だから、構文的エネルギーを発しながらも、逆にジャンルとジャンルを掛け合わせつつそこからズレていく反エネルギーのようなものも同時に持ち合わせている。まとまるちからと、ずれるちから。

橋本直さんは、岡村句集のイメージカラーはピンクだと語られていた。それはいい意味で無責任なんだと。

そのときこの句集タイトル『然るべく』の意味も効いてくるのではないか。

「然るべく」とは、「適当に、よいように」という意味だ。「適当に、よいように、然るべく」読んでください、と句集はタイトルによってベクトル付けられている。しかし、その〈適当さ〉〈然るべき在り方〉というのは読者が〈どこ〉から読むかによって変わってもくるだろう。しかもジャンルを練り歩く岡村さんにはさまざまな位置性の読者がいる(注3)。

【注3:わたしもその読者のひとりです。わたしのここから読んでいます】

だとしたら〈然るべき〉読者、〈然るべき〉位置性というのは、どこにあるのだろう。短詩を読むときの、越境する短詩人が〈然るべく〉書いた短詩を〈然るべく〉読むときの位置性は。そしてその評はどのように〈然るべく〉書かれるべき、語られるべきなのだろう。

この句集の「第六章 見物」は語る主体があからさまにどんどん去勢されていくフシギな章だ。この最後の章を読んでいると、〈然るべく〉できなければ〈然るべく〉くじけるのもありだよ、とも私には言っているように思われる。つまり、

然るべく生きるべきなのに、然るべく生きられない。

これもまた「AなのにB」構文だと、わたしは、そう、かんがえる。泣いていいんだ(注4)。

【注4:ついに泣き三連休の交差点  岡村知昭


          (「タンク」『然るべく』草原詩社・2016年 所収)

続フシギな短詩119[川嶋健佑]/柳本々々


 向日葵に秘密を隠すララとキキ  川嶋健佑 

連作のタイトルは、連作の中身に、どう関わるのだろう。

掲句の収められた川嶋さんの連作タイトルは「ララとキキ」である。有名なサンリオキャラクターが「キキララ」と呼ばれているのに対し、「ララとキキ」はその逆の慣性をもっている。しかも「ララキキ」でもない。

「キキとララ」ではなく「ララとキキ」とあえて逆にしてあるのは、キキ(男)とララ(女)という男女の階層差で並べたわけではなく、ララ(姉)とキキ(弟)という姉弟の階層差で並べた可能性もある。

どうしてそんな〈姉弟〉の枠組みの可能性を持ち出したかというとこの連作には「魔女」「小鳥」「少年」「帽子」「逃げ出す」「追いかける」「秘密を隠す」といった童話的なモチーフが頻出するからだ。

だからこの「ララとキキ」は必ずしもサンリオのキャラクターではなく、この連作においてそのつど発生した〈姉弟キャラ〉とみることもできるかもしれない(童話「ヘンゼルとグレーテル」のような。ちなみに「ヘンゼルとグレーテル」は双子(ツインズ)らしいのだが、「キキララ」の正式名称は「リトルツインスターズ」であり「双子」である)。

この連作、タイトルは「ララとキキ」だが、すべての句に「向日葵」が内蔵されている。「向日葵」が入っていない句はない。その意味でこの連作は、サンリオ・童話的雰囲気をまといながらも、すべての軸が「向日葵」によって進行されていく。

しかもその向日葵は魔法がかかったように自在である。

  向日葵の影に降りれば皆小鳥  川嶋健佑

  百年の向日葵にある祖母の家  〃

  どんよりが来て向日葵が泣いている  〃

  故郷を捨てて向日葵祖父と来る  〃

  向日葵で少年に会う若き魔女  〃

  向日葵の空は開けっぱなしかな  〃

向日葵が向日葵であるだけでなく、〈マジカルな場所〉であり(みんな小鳥に)、〈人間化された主体〉であり(ひまわりが泣く)、〈名詞の修飾〉にもなっている(向日葵の空)。

ここで不思議なのは連作内すべてが向日葵で満たされていたのに、なぜ、語り手はタイトルに「向日葵」とつけなかったのだろう、ということだ。タイトルは「ララとキキ」なのである。「ララとキキ」が出てくる句は冒頭とラストにサンドイッチのように出てくるのだが、20句中5句しかない。

  向日葵へちょっと逃げ出すララとキキ  川嶋健佑

  向日葵へララ行けばキキ追いかける  〃

  向日葵の彼方まで行くララとキキ  〃

  向日葵で少年に会うララとキキ  〃

  向日葵に秘密を隠すララとキキ  〃

この5句だけ抜き出すとわかるのだが、「ララとキキ」をめぐる「向日葵」の物語はすべて「向日葵」という〈場所〉をめぐる物語になっている。つまり、「ララとキキ」が関与するときは「向日葵」は行動の範囲や性質を規定する〈場所〉になるのだが、「ララとキキ」が関与しないときは先に述べたようにマジカルな自在さをみせる。

となると、この連作はタイトルで「ララとキキ」という意図的な反転する階層をみせていたように、タイトルを「ララとキキ」とすることで「ララとキキ/向日葵」という前景/後景の階層をタイトルに仕込んでいたということができる。これは「向日葵」の物語ではない。「ララとキキ」の物語なのである。その位相を用意しなければならない。

連作タイトルは、連作の中身に、どう関わるのか。

私たちは連作を読むときに、タイトルも含めて連作を読み込まなければならない。なぜなら、タイトルが連作の階層を《自然と》つくりあげていることもあるからだ。

タイトルは、連作内に階層差をつくる。タイトルの付け方次第では、連作の表情(凸凹)は、まったく反転するのだ。キキとララと、ララとキキのように。

連作を読むときは、タイトルのありえた可能性と同時に、ありえなかった可能性も考えてみよう。連作の断層が、わかってくる。

ちなみに私は今回サンリオ公式ページをみながらこの記事を書いたが、キキとララは「ひと」ではなく「ふしぎ系」に分類されていた。おどろきだった。こんなところにも断層があるのだ。この「ふしぎ系」にはほかに「ぐでたま」や「ハンギョドン」もいて、そうか、ここは人外カテゴリーなのだなと思った。キキララは、人外なのだ。ひとじゃないんだ。いつか、誰かに、真摯に話そう。そういえばね、と。

キキララ公式解説「ゆめ星雲のおもいやり星でうまれた双子のきょうだい星。立派に輝く星になるために遠い星の国からやってきました」

キキララはひとではない。星なのだ。覚えておこう。きっと、いつか、なんかのときに、なんかの役に立つ。

          (「ララとキキ」『豈』59号、2016年12月 所収)

2017年5月25日木曜日

続フシギな短詩118[仲畑流万能川柳]/柳本々々


  骨壺に入りたいかを考える  八重根隆

毎日新聞で毎日続いている「仲畑流万能川柳」からの一句。

TBSラジオ『爆笑問題カーボーイ』2017年5月23日放送で、爆笑問題の太田光さんと田中裕二さんが次のようにサラリーマン川柳を語っていた。

  太田 カミさんの尻にしかれてる、みたいなことを言えばいいんだろみたいなさ。

  田中 新人類的なものにビビってるパターンか、奥さん、子どもに虐げられてるパターン。

  太田 部下とコミュニケーションできないみたいなのとか。あとスマホ使いこなせないとか。だいたいその辺やっとけばいいんだろみたいな。
  (爆笑問題 太田光・田中裕二『爆笑問題カーボーイ』TBSラジオ、2017年5月23日放送)

爆笑問題の二人によって〈サラリーマン川柳〉がとてもわかりやすく語られているがここで私が興味深いと思うのは、「尻にしかれてる」「ビビってる」「虐げられてる」「コミュニケーションできない」「使いこなせない」という部分である。どれも〈できない〉という〈損なわれた主体〉が問題になっている。かんたんにいうと、ここに出てくるひとびとはみな、くじかれた、〈去勢〉されたひとびとであり、なにかができなかったひとたちである。

これは大枠としては〈サラリーマン川柳〉的な川柳を基調とする毎日新聞の連載「仲畑流万能川柳」から句を任意で抜き出してみてもわかる。

  骨壺に入りたいかを考える  八重根隆

  美味そうに見えたけどなあ犬のエサ  ピロリ金太

  悪いことしていないのに句ができぬ  ひねのり

「骨壺に入りたいかを考える」終わりの主体(命の去勢)。犬のエサが「美味そうに見え」てしまう欲望の主体(人間の去勢)。悪いことはなんにもしていないのに「句ができ」ない挫折の主体(表現の去勢)。

サラリーマン川柳は少し難しい言葉でいえば、主体が去勢されたひとたちばかりなのだ。

現在の川柳には大きくわけてふたつの流れがある。ひとを笑わせる方向の社会派川柳(サラリーマン川柳、シルバー川柳、女子会川柳、オタク川柳)とひとを考えさせる方向の詩性川柳(現代川柳)である。

現代川柳は詩性川柳という〈ひとを笑わせない〉方向を取ったのだが、現代川柳でたびたび問題になるのは、詩性川柳とサラリーマン川柳の〈裂け目〉であり、〈分裂〉である。詩性川柳とサラリーマン川柳はたびたび〈違う〉ものであるように語られる。しかし、ほんとうに、そうなのか。それはわたしたちにそれをつなぐだけの〈接点〉や〈枠組み〉がなかっただけなのではないか。

たとえば現代川柳にこんな句がある。

  たてがみを失ってからまた逢おう  小池正博

これは詩性川柳なのでひとを笑わせようとはしていない。髪が全部抜け落ちてからまた逢おうと解釈すれば笑えないこともないかもしれないが(私は笑わないけれど)、でももしそうだとしても「頭髪」が「たてがみ」と語られていることが重要だろう。笑わせるならば「頭髪を失ってからまた逢おう」でも、よい。

なぜ、「たてがみ」なのか。「たてがみ」は髪だけでなく、権威や父権、あらかじめあるプライド、動物性、など喩えとしてさまざまに機能するからである。さまざまに機能するということは、当然解釈もさまざまに生まれるわけで、多くの解釈を生む詩になっていくのだ。

この句を構造としてとらえた場合、〈主体の去勢〉の句にもなっている。〈たてがみを失う〉ということは、〈主体〉が〈去勢〉されるということでもある。その〈主体の去勢〉を通してはじめて「また逢おう」と語り手が肯定的に語れたのだとしたら、これは〈主体の去勢〉を構造的に受け止めた句になっている。

もちろんこれは私のひとつの解釈に過ぎないのだが、しかし現代川柳は〈去勢〉されるととつぜん元気まんまんになることは注意しておいて、いい。たとえば、

  「けれども」がぼうぼうぼうと建っている  佐藤みさ子

「けれども」という去勢そのものが「ぼうぼうぼうと」勢いよく建っている。去勢そのものが男根化するというとんでもないダイナミックな風景だ。

爆笑問題が語っていた〈去勢〉をわたしたちは詩性川柳にも見いだすことができる。〈去勢〉という枠組みを適用すると、とりあえずは、サラリーマン川柳と詩性川柳をつなぐことができるし、実はそうかんたんに川柳というジャンルは分別できないかもしれないということがわかってくる。

〈去勢〉という枠組みの適用。

小池正博さんは、川柳のイベントで、現代川柳というジャンルは〈ジャンルの近代化〉に乗り損ねた、大岡信さんの「折々のうた」にさえ出てこなかった、と語られていたが、川柳というジャンルそのものが近代という時代を通して〈去勢〉されたというのは興味深いと私は思う。ただ、小池正博さんはそのイベントで〈去勢〉という枠組みは不満だと語られていたので、私の枠組みは恣意的なものだということを、ここに書いておく。この枠組みだと取りこぼされてしまうものを検証する必要があるし、心情的にも「あなたのよさは、くじけているところですね」というのは受け入れがたいものだと思う。

〈去勢〉という枠組みを適用すると、取りこぼしてしまうものがある。たとえば〈去勢〉はあくまでコンテンツの問題であるので、〈文体〉の問題を落としてしまう。先ほどの小池さんのたてがみ句で言えば、「逢おう」という〈文体のいさぎよさ〉をどうするのかという問題があるだろう。みさ子さんで言えば、「ぼうぼうぼうと」のような擬態・擬音語をどうするか、など。また、ジャンルの未来や共同性の問題もあるのかもしれない。去勢によって共同性がつくれるなどと言えたのは、〈分有〉の概念を提唱したジャン=リュック・ナンシーだけだったのではないか。わからないけれど。

わたしが〈去勢〉のヒントをもらったのは、NHKラジオ深夜便の頭木弘樹さんの「絶望名言を味わう」を聞いていたときだった。頭木さんはカフカを「絶望名人」と名付け、絶望から本を読み解く「絶望読書」を提唱しているが、そうした「絶望」という〈去勢〉から文化を揺り起こすことができるんだというのは私にとって新鮮な驚きだった。

また、もう一人、ヒントをくれたひとがいる。小林秀雄である。小林秀雄は、ドストエフスキーの感想を書くとしたら、ドストエフスキーが書いている以上のことを書いてはいけないと、〈書かない感想〉を提唱したが、たしかにひとは読んだ後、なにか感想を語らねばならない、ということに強迫的にさらされており、しかしその強迫的な感想(ひとは本を読んだら映画を見たらゲームをしたら感想を語らねばならない)をくじかせた点で新鮮だった。この問題については山城むつみさんの本がくわしい。

また、もう一人、ヒントをくれたひとがいる。川柳人の竹井紫乙である。私は昔、竹井紫乙の句集『白百合亭日常』の「あとがき」を書かせてもらったのだが、第一句集『ひよこ』第二句集『白百合亭日常』と続いて竹井紫乙は、〈去勢〉を迫ってくる川柳を描いてみせた。紫乙の川柳の語り手たちは、〈去勢される〉のではなく、〈去勢する〉ことを迫ってくる、のである。

  階段で待っているから落ちて来て  竹井紫乙

率直に、階段を落ちてこい、と言っている。竹井紫乙の川柳には、〈おまえも去勢される勇気があるのか〉とこちらに迫ってくる力強さがある。

また、もう一人、ヒントをくれたひとが、いや、ヒントもらいすぎじゃないか。ここらへんで、やめよう。しっかりしないと。

  「しっかりとして」しっかりとしてるのに  別人28号「仲畑流万能川柳」


          (「仲畑流万能川柳」『毎日新聞』2017年5月9日 所収)

2017年5月24日水曜日

続フシギな短詩117[新・幻聴妄想かるた]/柳本々々


  能力ある流れ者のスターの僕に「ないない」とダンボールは言う  新・幻聴妄想かるた

ある日の電話から。

Y「もしもし、ああ、はい、やぎもとです。あっ、川柳作家の川合大祐さん。こんばんは。

ああ、そうなんです、さいきん、田島健一さんの感想をときどき書いていて。うーん、そうなんですよ、田島さんの俳句を考えているうちに、ことばにとっての〈違法行為〉ってなんなのかを考えざるをえなくなって。

それで、たぶん、ことばにとっての〈違法行為〉って名詞をいじくることだと思ったんですよね。「白鳥定食」とかね。あれは、やっちゃいけないことでしょう。「白鳥定食」っていうことばをふつうはつくっちゃいけない。それはヴィクター・フランケンシュタイン博士のしたことにも近い行為なんじゃないかと思う。操作しちゃいけないものをつぎはぎしてあってはならない生命をつくるような。

でもそのことによってわたしたちは〈ふれてはならない現実〉そのものを考えることもできるわけですよね。名詞をいじくることによって、世界のルールを変えてみることで、原〈現実〉をかいま見るっていうのかな。

えっ、新・幻聴妄想かるた? ああ、そういうのがあるんですね。ええ、無関係ではないと思います。

  能力ある流れ者のスターの僕に「ないない」とダンボールは言う  新・幻聴妄想かるた

ああ、なるほど。こういうのなんですね。うんうん。たとえばこれなんかも「ダンボールは言う」と本来〈ひと〉しか持ってこられない名詞の部分に〈もの〉を持ってきているわけですよね。これもひとつの違法ですね。ただその違法行為が詩になったり〈現実〉に近づいたりしている。

あ、でも、そうそう、そうですよね。こういうのって現代川柳では常套な手段なわけですよね。

  オルガンとすすきになって殴りあう  石部明

これなんかも〈ひと〉が本来的にはあるところに〈もの〉をつっこむという言語外科手術的な処置を施していますよね。でも現代川柳ってこれが〈ふつう〉の風景なわけですよね。

うーん、だから、なんて言えばいいんでしょうか、そういう精神医療的言説と現代川柳の親和性っていうのはあると思います。どうしてそんなことになったのかわからないんですが、たぶん現代川柳が語られるときによく持ち出されることば、「詩性」「暴力」などはここらへんと関係しているんじゃないかと思うんですよね。

つまり、本来的にはいじくってはいけない場所を現代川柳はいじくってしまう。だから、新・幻聴妄想かるたとも親和性をみせる。

  バらバラだ時間も空間も  新・幻聴妄想かるた

これなんかは中村冨二の〈解体〉される去勢された風景を思い出すんですよ。中村冨二の句は、

  パチンコ屋 オヤ 貴方にも影が無い  中村冨二

というふうに根っこの部分から解体されているでしょう。時間も空間も影も解体されてしまう。これはどういうことなんでしょうね。

  チュルチュルピー小動物に演説する私  新・幻聴妄想かるた

ああ、そういう、モノに話しかける、語りかけていく世界というのも現代川柳的ですね。うーん、現代川柳はどうしてそんなことになったのかなあ。短歌には77というストッパーがあり、俳句には季語というストッパーがありますよね。そのストッパーが構造をつくってくれる。現代川柳のストッパーってなんだったんですかね。

私ね、小池正博さんがね、川柳は《断言の文体》なんだ、ってとつぜん断言されたときにすごくそれもまた川柳的だと思ったんです。断言って狂気じゃないですか。たとえば、わたしが「わたしはナポレオンです」っていうのは狂気ですね。「わたしはナポレオンかもしれない。ちがうかもしれない」だとまだ正気なんだけれども。

たしかに現代川柳って断言の文体が多いんですね。それは俳句の切れの文体とちょっと違いますね。短歌の伸びていく文体ともちょっと違うとおもう。断言の文体ってすごく意味が深い気がして。なんか断言っていうのがなあ。狂気の文体に近い気もして。でもこれはあんまりかんたんに言っちゃいけないんだけど。うーん。

川柳ってもともとは、題に対して「付」けるという付句のかたちだったわけですよね。ということは、なにかに応答する、答えることが川柳だったわけだけれど、〈答える〉ことって答え方によっては狂気になりますよね。不思議の国のアリスで、アリスに道をきかれたチェシャ猫は「こっちって、どっち?」と答えていますよね。なんかそれを思い出すんですよね。答えっていうのはときに狂気だぞって。

わたしはそういうのも含めてなかはられいこさんの句集『脱衣場のアリス』っていう「アリス」のタイトルは興味深いと思ってるんですよ。どうして現代川柳とアリスが突き合わされたのかっていうのは一度なんだかちゃんと考えた方がいい。

あのアリスが行った不思議の国は、くるっている、というよりは、言葉に忠実すぎるあまりに、文法的な正しさがくるっている世界なんですね。そこらへんもまた言語のいじくりと関連がふかいきもする。だからチェシャ猫はきいたんですよ。「こっちって、どっち?」って。言語的には「こっち」が「どっち」かわかりませんからね。それは行為ではわかりますけど、言語的にはわかりませんからね。こっちは、こっちでしかないから。だからチェシャ猫はくるっていない。《ことばを常軌を逸することなくつかえるにんげん》がくるっているんです。とワンダーランドは言っている。

でも、これもわたしの妄想なのかなあ。たぶんこんな話をすると、やぎもとはまた現代川柳をアブナい方向にもっていくんじゃないかって言われるんだろうな。でもなんだか現代川柳って一回そこらへんともつきあわせて考えてみた方がいいんじゃないだろうかっていうのが川合さんの『スロー・リバー』を読んだときちょっと思ったんですよ。なんだかあの句集で封じられていたパンドラの箱が開け放たれてしまったような気もして。

でも、かんちがいかもしれませんね。そうですね。夜も遅いし、そろそろ切ります。はい、わかりました。ええ、だいじょうぶですよ。それでは。はい。おやすみなさい。……」

         (『新・幻聴妄想かるた』 所収)


 

DAZZLE HAIKU 2 [岡田耕治]渡邉美保



帰らない人たちと居て春の山  岡田耕治


「春の山」というとき、まず明るい日差しや、芽吹く木々、鳥の囀りなどを思い浮かべる。反面、「春の山」という広い空間には、明るい日差しとは別の深い闇も内包されていて、どこか不思議な空気が漂う。

 その春の山に、「帰らない人たち」といる作者。自分の心の中にはいつもいるけれど、もういない人たち。自分の人生に深く関わった大切な人である。いま確かにここに一緒にいる、と実感できる瞬間。「帰らない人たち」の存在感がクローズアップされる。それが春の山の持つ力であり、「居て」という言葉の力ではないだろうか。

この句のシンプルな力強さに惹かれる。

 年齢を重ねていくにつれて、人は「帰らない人」を増やしていく。その感懐の深さが、春の山に呼応しているような気がする。


<句集『日脚』邑書林2017年所収>

2017年5月22日月曜日

続フシギな短詩116[最果タヒ]/柳本々々


  きみに会わなくても、どこかにいるのだから、それでいい。
  みんながそれで、安心してしまう。
  水のように、春のように、きみの瞳がどこかにいる。
  会わなくても、どこかで、
  息をしている、希望や愛や、心臓をならしている、
  死ななくて、眠り、ときに起きて、表情を作る、
  テレビをみて、じっと、座ったり立ったりしている、
  きみが泣いているか、絶望か、そんなことは関係がない、  最果タヒ「彫刻刀の詩」


最果さんの詩の力強さに、〈ない〉の力強さがある。

たとえば上の詩だが、「きみに会わなくても」と〈会わない〉ことから始まっている。「会わなくても」「みんながそれで、安心してしまう」。「会わなくても、どこかで/息をしている」と〈会わない〉が繰り返される。

〈会わない風景〉のなかにおける「きみ」のことがめんめんと語られていく。〈会わない風景〉のなかできみは「希望や愛や、心臓をならしている」。そして〈死なない〉でいる。

この「死ななくて、眠り、ときに起きて、表情を作る」の「死ななくて」の〈ない〉が「きみ」の力強さの焦点になる。「きみ」は「生きて」ではない。「死ななくて」そこにいるのだ。息をしている。

最果さんの詩には〈ない〉が満ちているのだが、それが〈ない〉になっていかないことが強度になっていく。「死ななくて」は、〈いつでも死ねる〉状態だが、しかし〈いつでも死ねる状態にありながら・死なない〉で、生きているのが、「死ななくて」である。そうしたぎりぎりの生のなかで「きみ」は「息をしている」。が、「みんな」はそんな「きみ」に「会わなくても、どこかにいるのだから」と新しい〈ない〉を持ち出して「安心してしまう」。

だから、ほんとうはこの詩は「みんな」からは《なかったもの》にされている詩だ。「みんな」は「きみ」に「会わなくても」それで「安心」しているのだから。

でも、最果さんは詩によって《そのない》をひっぱりだす。会わない風景のなかで息をする「きみ」を安心している「みんな」につきつける。

そして〈ない〉のせめぎ合いを、用意する。〈会わない〉でいいと思う「みんな」と、〈死なない〉で息をしている「きみ」のせめぎあいを。詩として、かきだす。

「生きる」ことではなく、「死なない」ことをきみのたたかう価値として。いつどのしゅんかんにだって「死んでしまう」ことをたえず思いながらも、思い出させながらも、「死なない」ことを価値にする。〈ない〉ことを価値としてわすれなく、する。

  ぼくの最低な部分が湖のように、深いところで光って、中を泳ぐ魚たちが絶対に死なないことが、実は、ちょっとだけ好きだ。
  (最果タヒ「美術館」)

  死んでしまうことを不幸だと思うなら、生きていくこともできない。
  (「とあるCUTE」)

世界の〈ある〉ではなく〈ない〉をひっぱりだし、つきつけ、せめぎ合わせ、深める。世界のとんでもなく低い場所が、きゅうにふかくなる。でもそこに、ないきみがいて、死なないでいる

  なんて地獄なんでしょう。きみも私も地獄出身。生きていたらいいことあるよ。70億人と友達になれるし、ならなきゃずっと死ねないよ。
  (最果タヒ「雪」)


          (「彫刻刀の詩」『夜空はいつでも最高密度の青色だ』リトルモア・2016年 所収)

続フシギな短詩115[山田露結]/柳本々々


  たんぽぽに踏まるるつもりありにけり  山田露結

以前から、山田露結さんの句集『ホームスウィートホーム』の構成が気になっていた。

句集『ホームスウィートホーム』は、構成として春・夏・秋・冬の四つのセクションに分かれており、その合間合間に色紙のページが入っている。それぞれの色紙には自由律句が一句ずつ載っている(五七五句や七七句など)。

春のピンクの色紙には、

  みろ。みろ。あとからあとから、虹が立つ  山田露結

夏のグリーンの色紙には、

  長男叫ぶ「今っ!今っ!今っ!今っ!今っ!今っ!今っ!」  山田露結

秋のイエローの色紙には、

  ちんこ、大人になっても一つ  山田露結

冬のパープルの色紙には、

  とうとう料理酒を飲んでる  山田露結

そして最後、中原道夫さんの解説と露結さんのあとがきのパートに入る前に、ブルーの色紙があり、

  うなだれるもホームスウィートホーム  山田露結

と載っている。ちなみに春夏秋冬の色紙には中央に大きく句が載っているのだが、最後の色紙の「ホームスウィートホーム」の句はほんとうに語り手が「うなだれ」たように隅に小さく載っている。

こうやってセクション扉の句だけ抜き出して並べてみるとわかるのだが、この扉の色紙の句はあるベクトル(ゆるい連なり)をもっている。

春扉の最初の句は「あとからあとから、虹が立つ」というように、こう言ってよければ、〈男根的〉である。「みろ。みろ」なども父権的に感じられる。『ホームスウィートホーム』という句集は〈父親的〉なものから始まった。

夏扉。その〈父親〉には「長男」がいる。「長男」が「叫ぶ」。「今っ!今っ!今っ!」と。春扉には「あとからあとから、虹が立つ」と語り手は〈これからも続く時間〉を語ったが、夏扉において「長男」は〈これからも続く時間〉を語らなかった。「今」という〈現在の瞬間〉を連呼し、シャウトしている。父は、それを聴き、記した。「ホーム」は〈家庭〉なので父親もいれば長男もいるわけだが、「ホーム」で暮らすということは、時間をずらしてくる〈他者〉と共生することでもある。「あとからあとから、虹」を語った〈父親〉は「長男」の「今っ!」のシャウトによって父権的な垂直した〈男根的〉時間をずらされていく。しかし、それが、「ホーム」だ。

秋扉。「ちんこ、大人になってもひとつ」と語り手は「あとからあとから、虹が立つ」ことを象徴的に諦めている。これは長男の〈今シャウト〉とも重なっている。「今」を何度連呼しても「今」は「今」しかないのだ。「今」がどれだけ林立しようとも「今」は「ひとつ」だ。もちろん「大人になっても」だ。「あとからあとから、虹が立つ」は長男の〈今シャウト〉を通して「ちんこ、大人になってもひとつ」に、変わった。

そして冬扉。「とうとう料理酒を飲んでる」。春に語られていた〈これから〉の始発の時間意識は、「とうとう」という帰着の時間意識に変化し、ひっくりかえった。一年を通して、ホームを通して、時間意識が、〈裏返った〉のだ(解説を書かれている中原道夫さんは露結俳句の〈逆説〉=〈ヒネリ〉を指摘している。だからこのヒネリの気分は句集に満ちている)。

最後の扉。「うなだれるもホームスウィートホーム」。「みろ。みろ」と言っていた語り手は「うなだれる」とあるように〈ホーム〉を通して〈去勢〉されたが、しかしそうした時間意識が変容する場所を〈ひねり返す〉ように語り手は「ホームスウィートホーム」と名付け、受け止めた。「うなだれ」たが、「うなだれるも」というひねりによって「ホームスウィートホーム」を見いだしたのだ。

「ちんこ、大人になって《も》ひとつ」の「も」は、〈あきらめ〉の「も」であったが、「うなだれるも」の「も」は〈意志〉の「も」である。「うなだれても、いいえ、そこはホームスウィートホーム」というわけだ。

このとき、この句集のいちばん最初に置いてある、

  人間はつくしの仲間だと思ふ  山田露結

という「人間」を「仲間」という〈帰属意識〉でとらえた一句が意味をもってくる。おそらくこのはじめの一句は、〈はじめて読んだとき〉と〈この句集を読み終えてからもう一度読んだとき〉では意味が変わってくる句である。

「人間」は「つくし」のように〈群生〉して生きるだけではない。〈群生〉のなかで思わぬ〈去勢〉を受け、時間意識の変容を感じ、それでもその〈群生〉を「ホームスウィートホーム」と「思ふ」ことがこの句集が、この句集の構成が見いだしていることなのである。

だから、

  たんぽぽに踏まるるつもりありにけり  山田露結

という「踏ま」れる「たんぽぽ」の意識を、「つもり」と逆の主体意識から〈ひねり返し〉た句が意味をもってくる。

〈ホームスウィートホーム〉とは「踏まるるつもりありにけり」を育てる場所なのだ。タフな機知で。

わたしは、ひとりでは、うらがえらない。うらがえられない。ひとは〈うらがえる〉ことを、ひとと、家族と、まなぶ。うらがえると、おなじ・ちがう顔をした、また、家がある。

家族と生きるって、なんですか。

  終点の起点に同じ立夏かな  山田露結


          (『ホームスウィートホーム』邑書林・2012年 所収)

続フシギな短詩114[西尾勝彦]/柳本々々


  会合では
   こたつ主義とは何か
   理想のこたつ生活
   こたつと本
   こたつとコーヒー
   こたつとお茶
   こたつとみかん
   こたつと猫
   こたつと湯豆腐
   こたつとおでん
   こたつと音楽
  といった事柄について
  なにも
  話し合われず
  みんなで
  みかんを食べながら
  七ならべをして
  なんとなく
  過ごしていた  西尾勝彦「こたつ主義とは何か?」


詩とは、なんだろう。詩を読むにはどうしたらいいのだろう。

むずかしいもんだいだ。

詩には定型がない。だから定型から読むことはできない。しかし詩にはなんらかの〈カタチへの意志〉がある。詩はだらだら続かないからだ。〈始まりますよという意識と終わりますよという意識〉でパッケージングされたもの。それが、詩である。

だからどんな詩にも形式を欲望する〈くせ〉がある。

それが詩を読むヒントになるのではないだろうか。詩集から自分なりにあなたなりに〈くせ〉を発見してみるということ。

たとえば西尾勝彦さんの詩集を読んでいると、名詞が並んでいく風景に出会うことがある。上の「こたつ主義とは何か?」もそうだ。みてほしい。「こたつとX」というふうに「こたつ」を軸にしながらさまざまな名詞が「こたつ」と組み合わされていく。

ここでは〈こたつの可能性〉が検討されている。「こたつ」を軸にさまざまな〈こたつパラレル〉が繰り広げられる。これは語り手がそうした〈世界〉に住んでいるからだ。この詩の語り手は「こたつ」からパラレルワールドを〈そうしよう〉と思えばすぐに展開できる語り手である。

ところが、そうした「こたつ」をめぐる「事柄」は予想に反して「なにも/話し合われ」ない。これは「こたつ主義者の会合」なのに。語り手の予想に反して「こたつ」については「話し合われず」に「みんなで/なんとなく/過ご」すのだ。

ここで語り手は〈他者〉に出会っている。「こたつ主義者の会合」に参加した語り手は「こたつ」をめぐる世界を頭のなかで事細かに展開したが、しかしその「会合」は「こたつ」を展開しない、話し合わない、「こたつ主義者の会合」だったのだ。

つまり語り手は語り手自身が持っている〈世界のくせ〉とは違う〈世界のくせ〉を持つひとびとに「こたつ」を介して、いま、出会っている

〈世界のくせ〉がちがうひと。それは〈言葉のくせ〉がちがうひとたちと言ってもいい。そしてそういうひとたちを、わたしたちは、〈他者〉と呼んで、いい。

詩とは、そうした、〈言葉のくせ〉をもつ語り手が、〈言葉のくせ〉の違う他者と出会う空間なのではないか。

だから詩を読むとき、わたしはこう思うのだ。その詩のなかにある〈くせ〉を探してみようと。そうすると、〈くせ〉を介して、〈くせ〉がリンクしていくからと。それが詩をダイビングする行為なのではないか。

わたしは、詩とは〈言葉のくせ〉を発明することなのではないかと、思うのだ。 そして詩集においては、読者にむけて、言葉をめぐる〈くせ〉がたえず「光ったり眠ったりしている」のではないかと、思うのだ。その〈くせ〉を通して、わたしは、ことばに、もっと近づく。

  近づいてくる人は
  なぜか
  僕に
   小瓶の日本酒
   牛タンの佃煮
   児童文学書
   シーサーの置物
   文楽のチケット
   ビルケンシュトックのトートバッグ
   小さな詩集
   古いウイスキー
   くまモンのバッジ
  などを
  ほいと
  分けてくれます。
   (西尾勝彦「半笑い」)


          (「こたつ主義とは何か?」『光ったり眠ったりしているものたち』ブックロア・2017年 所収)

2017年5月20日土曜日

続フシギな短詩113[鶴見俊輔]/柳本々々


  もうろく。廃墟から自分を見る方法の出発点  鶴見俊輔

哲学者の鶴見俊輔が晩年大事にしていた概念に〈もうろく〉がある。鶴見俊輔は自分から失われていくもの、もうろうとしたもの、あいまいなもの、ぼんやりとしたものを自らの哲学の基礎におこうとしていた。たとえば鶴見俊輔の〈ぼんやり〉をめぐる発言。

  ぼんやりしているが、自分にとってしっかりした思想というものは、あると思う。

    *

  人間を動かすものは明確なものじゃなくて、ぼんやりした信念なんだ。ぼんやりしているけど、確かなものなんだ。

    *

  自分をどんな時にでも支えられる考えというのは、ぼんやりした、しかし自分の一生を支える考えなんです。

    *

  自分を支える哲学の底には、自分のわかっていないものがあるのです。それが自分を支えているのです。結局、そのなかから出てきた哲学的な信条は、自分にとって重大な信条というものはぼんやりしているということなのです。明晰に、はっきり命題にできるものは、必ずしも自分を生かしている、自分を支える重大な信条じゃないのです。
  (鶴見俊輔「ぼんやり」『鶴見俊輔語録① 定義集』皓星社、2011年)

鶴見俊輔にとって〈ぼんやり〉という思想は自分を支える根っこになっている。ぼんやりがわたしを通し、生かすのだ。そしてこの〈ぼんやりの思想〉は〈もうろくの思想〉につながっていく。

鶴見俊輔の晩年の覚え書きを記した手帖をそのまま書籍化した本に『もうろく帖』『「もうろく帖」後篇』がある。編集グループSUREから最近発刊されたものだ。

鶴見俊輔晩年の毎日の覚え書きを綴る手控え帖なので鶴見の思索の断片だけでなくその日その日に鶴見が書き留めておきたかったスクラップとしての引用も記されているのだが、読んでいて興味ぶかかったのが短歌や俳句の引用が多かったことだ。

もうろく帖にはもうろくをめぐる思索の合間合間に短歌・俳句の引用がちりばめられている。

それは〈なぜ〉なんだろう。

私は短歌や俳句がどこかで〈もうろく〉や〈ぼんやり〉にリンクする文芸だからではないかと思う。これはこの「もうろく帖」という〈表現形式〉としても関係している。

「もうろく帖」には長い記述はみられない。ほとんどが数行、長くても1、2ページの断片がずっと続いていく。こうした断片の思索を重ねていくことが〈もうろくの思想〉だったとも言える。

この断片の思索とは、短歌や俳句にも言えることだ。短歌や俳句は〈始まっては・すぐに終わってしまう〉。そういう文芸形式である。この〈始まっては・すぐに終わってしまう〉ものを支えているのは、定型である。定型があるからこそ、どんなに語る主体がぼんやりしていたとしても、〈もうろく〉していたとしても、表現は成立してしまう。少し過激な言い方をするなら、語る主体がどんなにくるっていたとしても表現が成立するのが「定型」である。定型には〈もうろく〉にアクセスし、〈もうろく〉を思想化させる〈なにか〉がある。そこには、

  わからないことを
  わからないまま
  はなしつづける
  たのしさ

    *

  自分が口に出す言葉にしても、その言葉に自分が話す意図と、その言葉を発する状況とのずれを感じることが多い。自分がはなしている言葉を、はなしている自分のうしろ姿と同時に半分半分にしてとらえたらどういう意味が出てくるだろうか。
  (鶴見俊輔「もうろくの春」『鶴見俊輔語録② この九十年』皓星社、2011年)

鶴見さんの老いともうろくをめぐる記述だが、これはこのまま〈定型論〉にもなっている。定型を通した発話とは、「わからないことをわからないままはなしつづけるたのしさ」であり、〈わたし〉という存在を〈わかるわたし〉と〈わからないわたし〉の「半分半分」にすることである。このわたしがはなしているわたしの後ろ姿(岡井隆のことば、「短歌における〈私性〉というのは、作品の背後に一人の人の、ただ一人だけの人の顔が見えるということです」太字はやぎもとが強調)。

鶴見俊輔が晩年に思索し続けた〈もうろくの思想〉は〈短詩の思索〉とも通底している。

短詩とは定型による去勢でもあるわけだが(量的にしゃべれなくなること)、しかしその去勢の奥に質的な「ある」があらわれてくる。

  もうろくという感覚を自分でとらえてみると、もうろくの中心に「ある」というこの感覚がある。昨日までできたことが、ひとつひとつできなくなる。その向こうに、「ある」という感覚が、待っている。
  (鶴見俊輔「もうろく」『鶴見俊輔語録① 定義集』前掲)

絶対に誰からも気づかれようもないことなのでここに書いてしまうが、実は安福望さんとの共著『きょうごめん行けないんだ』は鶴見俊輔さんの『定義集』のような本がつくりたいねという話から始まった。鶴見俊輔さんの〈できなくなっていく思想〉に基づいた言葉辞典のような本がつくりたいねと。そのなかで、いろんなことができなくなっていったひとの、それでも生きていかなければならない話をしたいね、と。

  私にはもうろくのけいこをする機会があった。うつ病の期間三度。
  (鶴見俊輔『もうろく帖』2010年、編集グループSURE)

だからあの本のベースは、実は鶴見俊輔さんにあった。


          (『「もうろく帖」後篇』編集グループSURE・2017年 所収)

2017年5月17日水曜日

続フシギな短詩112[安福望]/柳本々々


  季語の必要性ってずっとわかんなかったんですけど、俳句という場に死者をよみがえらせるための呪文のような、装置のようなものなのかなって  安福望

『きょうごめん行けないんだ』の「俳句」の項目で安福望さんが次のようにひとりで語っている。

 この前東京でみた杉本博司さんの新しい劇場シリーズの写真をときどき思い出すんですけど、何回思い出してもなんかこわいんです。廃墟になった映画館で映画をながしてそれを杉本さんがいつもの方法で写真をとってんるですけど死んだ映画館を無理やり蘇らせてるのが死者を蘇らせてるように見えて。その杉本さんの写真がわたしにとって俳句のイメージだなって思いました。季語のの必要性ってずっとわかんなかったんですけど、俳句という場に死者をよみがえらせるための呪文のような、装置のようなものなのかなって思って、だから必要なんですよね。ないと俳句の場にならないんですよね。あたりまえですけど。死んだ映画館って生きてるひとには見えてないけど、ずっと映画がながれつづけていて、幽霊たちが見てんじゃないかなって思いました。だから杉本さんの写真、映ってないけど、死者がうつってるようなみえるような気がしました。
  (安福望「俳句」『きょうごめん行けないんだ』食パンとペン、2017年)

安福さんが俳句を語るのは意外かもしれないが、安福さんは〈短歌的〉なひとなのではなく、〈俳句的〉なひとなのではないかとおもうことがある。

安福さんの絵をみていると、ひとや動物よりも〈場所〉が主体になっていることが多い。ときどき、まるでそこに仕方なく添えるしかなかったように、やむをえなかったんだよという感じでひとや動物がそっけなく〈場所に添えられている〉場合もある。

安福さんはほんとうはがすきなのだという。木がとても好きなのだそうだ。木をひたすら集めたいとも言う。ただ〈それをやってしまう〉となんだかヤバい気がするので、そこをすこし〈よけている〉という。

たしかに、木ばかりの絵だと、とたんに安福さんの絵は荒涼としてくるだろう。私たちにとってひとや動物などの〈キャラクター〉はいつでも翻訳者である。その翻訳者たちが消えた世界はムコウの世界である。

安福さんの世界観の根底に、木ばかりの風景がある、というのをきいたときに、わたしはその風景をすこし〈俳句的〉にかんじた。ひとがいない風景。でもそれをみている〈ひと〉がいるしかない風景。この『きょうごめん行けないんだ』という本は〈会話辞典〉なのだけれど、この「俳句」の項目では会話はなされていない。安福さんがただひとりでしゃべり、しゃべり終えただけである。この「俳句」の項目には、誰も、いない。わたしも、なんにも、しゃべっていない。安福さんはいったいにむかってしゃべっていたのか。

ときどき、イラストとマンガの違いをかんがえるのだが、わたしはイラストとマンガの違いは〈マグカップに絵が載せられるかどうか〉なんじゃないかと考えている。毎日使用するマグカップに載せられるくらいの〈積極的そっけなさ〉がイラストなのだと。マンガだと情報量が濃密すぎて、毎日使うマグカップにそぐわないのだ。

そう考えたときに、そのイラストとマンガの違いはそのまま、俳句と川柳の差異にスライドできるんじゃないかという気もしてくる。イラストは俳句的で、マンガは川柳的という見方ができるんじゃないかと。

これもまたマグカップ理論とおなじで、過剰性の差である。イラストと俳句は過剰性から距離をおくことで成立しているが、一方、マンガと川柳は過剰性をさらに盛り込んでいくことで成立していく。

川柳人の渡辺隆夫さんはかつて、

  俳句の読みとか川柳の読みなどから解放されて、普通の一般的な読み方が必要だ。そして、現代における一般的な読みとは、マンガ的読みということになる。
  (渡辺隆夫「隣りは何をする人ぞ」『セレクション柳論』2009年、邑書林)

と述べたが、この「マンガ的読み」というものを今いちどそういう文脈で考え直すこともできる。たとえば、過剰な川柳に対しては、過剰な読みで対応=対抗しなければならないということ、など(逆に、俳句という形式にとって過剰な読みをした場合、どういう〈読みのしくじり〉が起きてしまうのかという問題も含めて)。

安福望の世界観の根底にあるらしい〈木の風景〉というものはこうしたさまざまな意外なリンクを考え(直)させるようにも、おもう。

ところで『きょうごめん行けないんだ』のいちばんはじめの「挨拶」の項目で安福さんが、

  はじまったらおわりますもんね。

と言っているが、ほんとうに、そう思う。なんでもそうだが、はじまったら・おわる。どんなに緊張した場でも、吐き気がして卒倒しそうな場でも、とにかく、はじまったら・おわる。

はじめられさえすれば、おわるのだ

要は、〈はじめられるか・どうか〉なのだ。〈そこに・そのとき・ちゃんといられるかどうか〉だ。そこに・そのとき・その自分がいられさえすれば、あとは、もう、はじまったら・おわる。だからどんな場所だって、だいじょうぶだ。ひとがしなければならないことは、そこにたどりつくこと、だけなのだ(ただし、そこにゆかねばならない。なにがなんでも。どんな手を尽くしても。でもゆきさえすれば、あとは勝手におわってくれるのだ。ほうけた顔で座っていても、だいじょうぶ。たぶん)。

どんなにそれが艱難辛苦の場所だって、はじまったら・おわる。それをわたしは勇気にしていこうと、おもう。



          (「俳句」『きょうごめん行けないんだ』食パンとペン・2017年 所収)

2017年5月16日火曜日

続フシギな短詩111[鴇田智哉]/柳本々々


  人参を並べておけば分かるなり  鴇田智哉

111、という数字をみてまるで並べられた人参みたいだね、と思う。

ひとは並べられた人参をみたときに、なにを思うのだろうか。

わたしだが、御前田あなたというひとが次のように言っている。少し長くなるが引用してみよう。

 田島健一は「現実」とは「餌場の鶴」のようなものであり「質問してはいけない」と言っている。質問してはいけないよ。そう、いけない。もし「餌場の鶴」が質問に〈答え〉てしまったら、私たちは今あんのんと住んでいるこの世界に帰ってこられなくなるかもしれないからだ。だから、決してきいてはいけない。いけない、がしかしそれが「現実」の手触りなのである。「現実」とは質問してはいけないものなのだ。好きなひとにきいてはいけないたったひとつの質問のように。

 そもそもふつうに生きていると「現実は鶴だ!」という発想が出てくるのかどうかという問題がある。これを鶴問題と呼ぼう。現実は採用試験だ! とか言う人はいても、現実は鶴だ! という発想ってなかなかないんじゃないか。本気で戦ったら鶴には勝てそうだし。わからんけど。負けるかもしれんけれども。くちばし長いし。

 ただちょっと思うのは私も季語をベーシックとする世界に生きていたら「」って発想がふっとでてきたかもしれないなあということだ。そこには、俳句を生きる、俳句を暮らす、ってどういうことなのかという問題があるような気がする。季語というのはひとの認識の根っこそのものに侵蝕してくる。触手のような。触手、わかるかな

 ひとは鶴と暮らさない。ひとは鶴を食べない。ひとは鶴をかわいがらない。ひとは鶴に仮装しない。ひとは鶴をぬいぐるみで所有しない。しかし鶴は季語としてならひんぱんにアクセスすることができる。それは現実に似ていて、やり方さえわかれば、アクセスすることができる。ただし帰り方は、また別だ。アクセスしてしまったら帰ってくる方法はじぶんで見つけなければならない。もちろん、鶴に触れたきり帰ってこなかったひとたちも、いる。そのひとたちが、いま、どうしているかは、わたしは、知らない。わからない

 今、田島健一の俳句を考えてきて思うのは、季語というのが或る〈世界の認識〉に関わっているということだ。これは私にはとても新鮮だった。季語というのを私は〈使う〉ものだと思っていたから。けれども、田島俳句における季語はちがう。田島俳句における季語は〈このわたし〉の生を侵蝕するのである。認識の根っこにタッチしてくる。

 この季語と認識/認知のかかわり合いを教えてくれたのが田島俳句なのだが、このとき、わたしは鴇田俳句のことをあらためて思い出した。

   人参を並べておけば分かるなり  鴇田智哉

 樋口由紀子が鴇田俳句についてこんな評を書いている。

   「人参」は冬の季語とされているようだが、そうなのかと不思議な気さえする。だから、当然季語としてのはたらきはわからない。…なぜ「人参」で分かるのだろうか。確かにいろんなものを並べていると見えてくるものがあるが、「人参」は思いつかない。「分かる」ということの意味を考えた。…おかしなことがあまりにもふつうに書かれている。
   (樋口由紀子「言葉そのものへの関心」『MANO』20号、2017年4月)

 ここで樋口由紀子が書いているようにこの句は「人参」という季語を通して、〈わかる/わからない〉といった認識/認知のあり方そのものを問うてくる。樋口由紀子が「「分かる」ということの意味を考えた」と書いたように、人参を並べておけばわかりますよ、わかるんですよ、と言われても、いったいなにが? だれが? どこで? なんのために? と思うからだ。しかし、そもそも〈分かる〉とはいったいなんのことなのか。ひとが、はいわかった、と膝をたたくとき、いったいそのひとは、〈なに〉が〈わかっ〉ているのか。わかるよ

 この句にあらわれているのは、そうした〈人参(にんじん)〉と〈認知(にんち)〉の関係である。これがたとえば、〈書物〉と〈認知〉、〈愛〉と〈認知〉だったらまた違った風合いをみせるだろう。しかし、「人参」なのである。「人参」は〈認知〉と関わりがない。しかし、季語を通したベーシックな世界観では、〈それ〉が問題になるのだ。

 おかしなことがあまりにもふつうに書かれている

 私も、そう思う。だが、「餌場の鶴」が〈現実〉となってしまう世界とはそういう世界である。そしてそれが俳句のリアルなのだと田島健一は言っていた。だからこの「人参」も俳句のリアルなのだと言える。この「人参」はリアルなのである。リアルが〈ワカル〉を導いている。

   毛布から白いテレビを見てゐたり  鴇田智哉

 私はある時期からこの句のことをずーっと考えている。なんにもわからない、と言いながら、わかることを放棄しようとしながら、考えている。〈なに〉を見ているのだろう。「白いテレビ」を見ているのか。「白い」画面を見ているのか。要するに、なにも見ていないのか。なぜ、「毛布」からなのだろう。ひょっとすると、語り手は、もう、死んじゃっているのか。だとしたら、死後のにんげんが〈見〉ているものとは、なんなのか。それとも、ゆめうつつなのか。ゆめうつつのときの〈見る〉ことのレベルとは、どれくらいなのか。わからない。わからないが、〈見る〉ことそのものが問われている。見ることってそもそもなんでしたっけ、と。うーん

 私はこう言った俳句があらわれていることをとっても不思議に思うし、田島健一や鴇田智哉が奏でる季語を通じた危機的な生の様相が、どこか表現というものの根っこにも関わるような気がしている。でも、今、言えることは、たったこれだけだ。

 わからない、と。なにか今、わからない、とあえて言うことが、正しい、ことのように感じられる、と。だから。
 けっきょくなんにもわかりませんでした

御前田あなたは、そう、書いていた。

         (「言葉そのものへの関心」『MANO』20号、2017年4月 所収)

2017年5月15日月曜日

続フシギな短詩110[三谷幸喜]/柳本々々


  鼻がかゆいのです なぜか
  鼻がかゆいのです なぜか
  気になって
  気になって
  演奏どころじゃない  三谷幸喜

三谷幸喜のミュージカル『オケピ!』からピアニストが歌っている部分を抜き出してみた。

ピアノの演奏中は鼻がかゆくてもかけない。しかし鼻がかゆい。どうすればいいのか。そのピアニストの悲しみや切なさを歌い上げている。

この『オケピ!』で興味深いのは、歌っているときは自分自身の心情を素直に打ち明けられることだ。つまり、歌っているときの言葉というのはすべてひとりの〈内面〉の言葉であり、他人には聞くことのできないモノローグだということになる。

ひとと話すときはふつうの言葉でしゃべり、ひとに話せないことは歌になっていく。こうした言葉の位相が、『オケピ!』には見られる。

ところがこの『オケピ!』が面白いのは、最終的にこうしたモノローグとしての歌だったはずの言葉の位相が劇が進行するにつれて〈全員〉の歌=言葉になっていくところだ。歌っているうちにひとりひとりの内面が混じり合っていくのだ。

『オケピ!』は最終的に、

  たとえばどんな出来のよくないミュージカルにも
  きっとあるさ みんなの好きなうた
  そこにいることのしあわせ
  歌のよろこび

と全員(みんな)の合唱で終わるのだが、この言葉の位相はもはやひとりの内面の位相なのか、みんなの内面の位相なのかわからない。舞台が進行するにつれて、登場人物たちの内面の位相が、〈ひとり〉から〈みんな〉に変わってゆく。それが「歌のよろこび」であり『オケピ!』なのである。

だから『オケピ!』のギミックとは、ひとが歌うときにチャンネルを変える意識のモードを仕掛けとして使っていることだ。ひとは歌をうたっているとき、意識のモードが違う。しかしその異なる意識のモードが、〈みんなの意識〉のモードになることがある。これが『オケピ!』なのだ。

歌うときにひとは意識のモードを変えること。

しかし考えてみればこれは短歌や俳句や川柳もそうではないだろうか。短歌や俳句や川柳はふだんの意識のチャンネルと〈ちがう〉ふうにしてうたわれているはずだ。

それはたとえば電話口でとつぜん短歌や俳句や川柳をそれとなくしゃべってみるとよい。「あれどうしたの?」となるはずだ。「どうした?」と。ふだんの意識のモードと違うはずだから。

うたうことと、〈なんかあった?〉には、関わりがある。

藤井貞和さんが『事典 哲学の木』の「うた」の項目で、「うた」うことによるモード・チェンジをこんなふうにえぐりだしている。

  うたっているひとのしぐさを見ると、大口をあけ、紅潮した顔を人前にさらし、律動に身をゆだねて、もしうたっている動作だと知られない場合には、まったくどうかしている、と他人はあきれざるをえない。うたう行為だから、うわずる声も、異常な低音も、だいたい許可され、一般にははずかしいはずの絶叫や、からだをゆすってうっとりすることも、まあまあはずかしがらずにやれる。…うたう身体はそのような「われをわすれる」状態にある。
  (藤井貞和「うた」『事典 哲学の木』講談社、2002年)

うたう、という行為はなんらかの、意識の、ことばの、モードを変化=変成させる(ここから古代の〈歌う合コン〉である歌垣文化を考えてみてもいい。参考「音で訪ねるニッポン時空旅「古代の合コン!?歌垣」NHKラジオ第2)。そしてそのモードの変成を探求するのに、ミュージカルはもってこいとも言える。いつ・うたいだすのか、なにを・うたいだすのか、だれに・うたいだすのか、なんのために・うたいだすのか、うたっているときに・なにが変わっているのか、うたったあとに・どう変わったのか、けっきょくそのひとにとって・うたとはなんだったのか。これらのモードの変成を教えてくれるのがミュージカルである。

そしてわたしは短歌や川柳や俳句は、その意味で、実は、ミュージカル的だと思うのだ。だって道を一緒に歩いているひとがとつぜん短歌を詠(うた)いだしたら、ど、どうしちゃったの、と言いますよね。ただその〈ミュージカル性〉を〈隠して〉成り立っているのも、また、短詩型文芸なのではないかと思うのだ。

なぜ、ひとは、うたうんだろう。そしてうたったあと、なぜ、真顔でまた暮らしをつづけるのだろう。

ずーっと、考えている。ずっとね。

ところで電話越しにうたってもバレない短歌・俳句・川柳というものが存在するだろうか? うたったあとに、うんそうだね、と相手がいってくれるような。いっしゅんたりともあなたが気づきさえもしなかったような。

  もうお風呂の後、濡れた体でいつまでも歩き回らないよ。君の姪っこの誕生日には必ず電話を入れて、ミッキーマウスの声でハッピーバースデーを唄うよ
  (三谷幸喜『オケピ!』白水社、2001年)


          (『オケピ!』白水社・2001年 所収)

2017年5月9日火曜日

続フシギな短詩109[ひとり静]/柳本々々(ウィローブック・ウィローブック)


  おじゃまにはならないポだと思います  ひとり静

先日のイベント「川柳トーク 瀬戸夏子は川柳を荒らすな」の十句選の一句でわたしは飯島章友さんの

  毎度おなじみ主体交換でございます  飯島章友

をあげたが、わたしは現代川柳ってこういうことなんじゃないかなと思っている。

「主体交換」という言葉だけだったら、それは思想的・哲学的な話題である。わたしたちはふだんの会話や電話で「主体交換」ということばを出さない。日常会話でそんなことばを使ったら、きらわれちゃうからだ。難解すぎる。「もしもし、あのね、主体交換がね」とは、言わない。

でも現代川柳はこうした哲学的言辞を〈あっさり〉使う。しかも、だ。「毎度おなじみ~でございます」という〈ちり紙交換〉の卑俗な言説のなかに〈それ〉を埋め込んでしまうのだ。

そうすると、それは、哲学や思想、でもなくなるかもしれない。というか、なんなのだこれは、ということになる。いったいこれはなにがおきているんです、と。

〈ちり紙交換〉的言説のなかに埋め込まれた哲学=思想。わたしたちは、なんだか、それくらいなら、理解できそうな気がする。もちろん、気がするだけだ。わたしにも、「毎度おなじみ主体交換でございます」と言われてもそれがなんなのかはわからない。毎回毎回「毎度おなじみ」のこととして「主体交換」されてしまう〈わたし〉。わたしは、あした、やぎもともともとでなく、やぎもととととになっているのかもしれないし、やぎもとぽぽぽになっているかもしれないし、やぎもとやぎもとになっているかもしれない、或いは、ウィローブック・ウィローブック(Willow-book willow-book)に。

ウィローブック・ウィローブック。

現代川柳は、わからなそうで・わかりそうなぎりぎりの〈認識の臨界〉を、描く。

長い遠回りをしてしまったが、ひとり静さんの句。

  おじゃまにはならないポだと思います  ひとり静

「おじゃまにはならない~だと思います」ならわたしたちにもわかる。たとえば、「おじゃまにはならない子だと思います」。これならふだん使うことばだ。電話口でも言える。しかし、そこに「ポ」がようしゃなく入ってきてしまった。この「ポ」は、きびしいし、はげしい。この「ポ」は思想的だし哲学的である。こんなところに「ポ」が入ってしまってはわれわれは対処しようがないではないか。しかし、〈ここ〉に「ポ」が入ってしまう。それが現代川柳だからだ。やっちゃいけないのに・やっちゃった、こと。それが現代川柳である。

この「ポ」は解釈しようがない。解釈しても意味がない。この「ポ」だけに着目しても意味がない。どういうことばのなかに、言説のなかに、「ポ」を埋め込んだか、埋め込まざるをえなかったが大事なのだ。その処理のしかた、手続きのしかたが現代川柳なのである。だから、川柳は解釈に入ってしまってはどこかで負けてしまう。仕組みそのものを描きださなければならない。わたしは今回瀬戸夏子さんの話をききながらそういうことを学んだ。仕組み、なんだと。両手でマイクを握りしめながら、わたしは、うなずく。

「わたしはポの研究者です」と言ったことがある。

しかし、いいえ、だから、現代川柳は、ずーっと、この「」の周囲を徘徊している。この、えいえんに、埋めることのできない「」に対処しようとして、なんびゃくなんまんの川柳人が、現代川柳をつくりつづけている。わたしはそうした〈ただならぬポ〉のフィールドから、安福望に呼ばれて、田島健一に呼ばれて、小池正博に瀬戸夏子に呼ばれて、この春、いろんな場所に、出かけていった。、の場所から、出かけていった。

          (『触光』42号、2015年6月号 所収)

2017年5月7日日曜日

続フシギな短詩108[榊陽子]/柳本々々


  さあ我の虫酸を君に与えよう  榊陽子

きのうの「川柳トーク 瀬戸夏子は川柳を荒らすな」というイベントで小池正博さんがあげられた十句選のなかの一句。

小池さんはこの榊さんの句に表現されている〈悪意〉に着目した。

悪意

「虫酸」というのは「胃から口へ出てくる酸っぱい液体」のことだ。ところがこの句では「さあ我の~を君に与えよう」というもっともらしい、高貴な文体のなかに「虫酸」を置くことで、低級なものを高級なものとして相手に贈与する。その低級なものを高級な文体のなかに据え置きながら相手に贈る行為を〈悪意〉とわれわれは呼んで、いい。

現代川柳を読み解くのに〈悪意〉はひとつのキーワードになる。いいえ。それどころか、〈悪意〉は川柳をマッピングするのに絶好のキーワードになる。社会川柳(サラリーマン川柳)と詩性川柳(文学川柳)をつなぐのが〈悪意〉なのである。

たとえば、こんな有名な女子会川柳。

  カレよりも課長の夢をよく見てる

彼氏よりも課長の方が好きで課長の夢をよく見てしまう。これは「彼氏」への〈悪意〉である。あるいは、愛への悪意である。もしくは職場で課長と接する機会があまりに多く、課長が夢にまで出てきてしまう、そういう職場批評の句として詠むなら、職場への悪意である。

こんな有名なシルバー川柳。

  誕生日ローソク吹いて立ちくらみ

誕生日にろうそくの火を吹き消すとシルバーなみずからの身体はその息のエネルギーでさえたえられずに「立ちくら」んでしまう。これは老いた自らのシルバーな身体への悪意である。

わたしたちは、サラリーマン川柳と詩性川柳をときどき別のものとして分断=棲み分けしようとしたがるが、しかし〈悪意〉というキーワードは、橋渡しになる。

今回のイベントもそうだったが、どういう枠組みやタームを用意するかで、マッピング=精神地図のありかたは変わってくる。どこから・だれが・どんなふうに見るか、で。

榊陽子さんの川柳における〈悪意〉はそのひとつの答えを提示してくれている。

小池さんは

  たてがみを失ってからまた逢おう  小池正博

という句を紹介してから、榊さんの

  たてがみが生えてきたから抜いている  榊陽子

という句を紹介した。これをわたしは小池正博句への〈悪意の連鎖〉としてみても面白いかもしれないと思う。「たてがみを失」うと「逢」えるのだが(たてがみを失え、去勢されろ、というのはそれ自体ひとつの悪意である)、しかしその「失」えるかもしれない機会そのものを榊句は解体してしまうのだ。「生えてきた」そばから「抜いて」しまうのだから。

去勢そのものを、去勢してしまうこと。悪意そのものを、悪意として解体すること。

新しい川柳とは、なんだろう。

それは地図を描くためのターム=鍵=ペンを手渡してくれることではないだろうか。榊陽子の川柳が新しいのは、その鍵をわたしてくれるからではないかとおもうのだ。

   早春のごはんを作る事故現場  榊陽子


          (「ユイイツムニ」『川柳サイド』私家本工房・2017年 所収)

2017年5月3日水曜日

DAZZLE HAIKU 1 [安倍真理子]渡邉美保



浮きあがる水平線や種袋 安倍真理子

              
 穏やかな春の日差しを反射して、海はきらきら光っている。遠くの水平線は、徐々に膨らみ、浮き上ってくるように見えることがある。

 そこに置かれた「種袋」という季語の意外性。この種袋は、花屋に並ぶカラフルな花の種袋ではなく、畑で農作物を植えるための種の入った武骨な種袋。春の訪れとともに始まる農作業を象徴している。種袋の中で、種子は、開花や収穫の期待感に大きくふくらみ、ひしめき合い、ざわめいているだろう。

 海の見える畑の、農作業の明るさや喜びが伝わってくる一句である。


<東京四季出版「俳句四季」2017年4月号>

2017年5月1日月曜日

続フシギな短詩107[佐藤みさ子]/柳本々々


  生まれたてですとくるんだものを出す  佐藤みさ子

樋口由紀子さんは『MANO』終刊号を鴇田智哉論で終わらせたが、それでは小池正博さんはどうだったのだろう。

小池正博は『MANO』終刊号を佐藤みさ子論で終わらせた。

樋口さんが鴇田さんに見出したのは言葉から生まれざるを得ない作家性だったが、小池さんは〈終わりの風景〉のなかでみさ子さんのなかになにを見出したのだろう。

「佐藤みさ子-虚無感とのたたかい」と小池さんの論考タイトルが示すように小池さんにとってそれは、何かを積み上げてはたえず解体されるものとのたたかい、かも知れない(小池正博は書きながらその書いていることをたえず解体していく川柳作家でもある。小池正博はたえず口にする。「川柳をどう読めばいいのか」、「川柳論はどう書きうるのか」、「川柳はわたしを支えてはくれない」と。しかしそれでも川柳に対して地図を描こうとしつづける。それが小池さんの位置性である)。私がこの論考を読んで興味深かったのが、小池さんがみさ子さんの川柳を読むにあたって参照したみさ子さんの文章である。『セレクション柳論』に収められている「裁縫箱」をめぐる文章。

ふしぎな文章で、小学生の「私」は友人から「セルロイドの赤い裁縫箱」をある日とつぜん「贈り物」としてもらうのだが、「私」はうれしがるどころか「私の何かが否定されたような気」もちになってしまう。この「他者への困惑」を小池さんはみさ子論の出発点においている。

  人は他者との関係で生きてゆかなければならない。……自己のもっている大切で譲れないもの。それはしばしば周囲の価値観と抵触するが、他者や社会との関係性のなかで、自己を失わず、かといって周囲といたずらに敵対するのでもなく、冷徹に世界と人間の本質を見すえてゆくところに佐藤みさ子の川柳眼がある。
  (小池正博「佐藤みさ子-虚無感とのたたかい」『MANO』20号、2017年4月)

小池さんの引いた文章を読んだとき、あっと思ったのだが、たしかにここにはみさ子さんの特異な位置性があらわれている。

たとえばこれを川柳行為として考えてみよう。川柳は「付句」がルーツであるように、なんらかの題や問いかけに答えを「付」ける文芸である。たとえば「花や蝶の模様がつい」た「赤い裁縫箱」を「贈り物」としてもらったときに、その〈贈与〉に対して〈嬉しい〉と〈わたし〉は「付」けることができただろう。そう、答えることもできただろう。

しかし、佐藤みさ子は〈贈与〉に対してそういうふうに「付」けることはしなかった。

  明日になれば○○さんからもらった赤いセルロイドに糸やハサミを入れて学校へ行かなければならない。私の何かが否定されたような気がした。人がそれぞれ違う価値観を持っていることに、その時初めて気がついたと言えば大げさだろうか。…私は無口で暗い子供だった。そして私は今もなお、赤い裁縫箱をかかえたまま、途方に暮れている。
  (佐藤みさ子「虚無感との闘い/裁縫箱」『セレクション柳論』2009年、邑書林)

佐藤みさ子は〈贈与〉に対して〈答〉えていない。佐藤みさ子は「今もなお」「途方に暮れている」。むしろ、そうした〈困惑〉を新たな〈問い〉として生産し、その〈問い〉を「今」も「赤い裁縫箱」として「かかえ」続けているのだ。

つまり、佐藤みさ子は〈問い〉に〈問い〉を「付」けたとも、いえる。そういう〈答〉えかたをしたのだ。

掲句をみてほしい。「生まれたてですとくるんだものを出す」。ひとつの世界に「付」けられた〈答え〉ではある。世界からの贈り物。赤ん坊でも今もらったばかりの「赤い裁縫箱」でもいい。「生まれたててですとくるんだものを出す」。しかしこの答えはかんけつしていない。「くるんだものを出」された〈わたし〉はこれからどうすればいいのか。その問いが内包されている。〈わたし〉も〈あなた〉もどうするのか。生まれたてのくるんだものをだきしめるのか。それともだきしめないのか。笑ってやりすごすか。ひきつった顔をするのか。においをかぐのか。ぬくもりをしるのか。きょうふするのか。途方に暮れるのか。

「生まれたてですとくるんだものを出す」行為は、ひとつの〈贈与〉である。しかし、それは友人からだしぬけにもらった「赤い裁縫箱」のように、わたしに〈問い〉を投げかけるものでもある。そしてその〈問い〉は各人が生きようとする位置性によって、ちがうのだ。

  言葉だけ立ちふさがってくれたのは  佐藤みさ子

言葉はそうした問いと答えが錯綜していく状況を〈交通整理〉していくかもしれない。しかしこの「言葉だけ立ちふさがってくれたのは」が〈言語行為〉として機能しはじめたとき、この言葉をめぐる句は、この言葉をめぐる句を裏切ってしまうんじゃないかという緊張感もある。なぜなら問いを生産し〈そうではない〉ありかたへとひらいていくのもまた言葉だからだ。佐藤みさ子の句は、佐藤みさ子をうらぎるかもしれない。

佐藤みさ子にとって言葉=川柳は、みずからの生のありようを〈整理〉してくれるものであると同時に、裏切っていくものでもあったのではないか。しかし、だから、書き続ける。まだひらいていない、ひろげたことのない本をめぐって。

  ひろげた本のかたち死というものがあり  佐藤みさ子

そういえば小池正博はこんなふうに佐藤みさ子論をしめくくっていた。

  私も「虚無感」とたたかってゆくつもりである。
   (小池正博、前掲)

たたかう、という行為は、世界からの問いかけにたいし、問いかけをはらみながらも答えることではないか。それは、ながい、たたかいになる。性急にこたえてしまうことを、がまんしなければならないからだ。言葉でいくらふさいでも、その言葉は行為となって言葉をうらぎっていく。ほんとうに、ほんとうに、ながいたたかいに、なる。

          (「5月 佐藤みさ子」『あざみエージェントオリジナルカレンダー』あざみエージェント・2016年 所収)

2017年4月30日日曜日

続フシギな短詩106[樋口由紀子]/柳本々々


  軽症だから道の真ん中を歩く  樋口由紀子

以前、そんなに遠くはない昔に、

  むこうから白線引きがやって来る  樋口由紀子

という樋口さんの句の感想を『週刊俳句』に書いたことがある。それは「境界破壊者たち」というタイトルだった。

そのときはまだよくわかっていなかったのだが、今もう一度この句について考えてみると、この句で描かれているのは、〈わたしの紹介(しょうかい)〉ではない。わたしがなんとなくそうしなければならないような気がしてそのときそのタイトルをつけたようにここで描かれているのは〈わたしの境界(きょうかい)〉である。《境界例》だ。

「むこうから白線引きがやって来る」。なにかが起こるかもしれないし、なにも起こらないかもしれない。しかし、やって来る以上、「線」は引かれるだろう。引かれてしまった線。わたしが何かしても何もしなくてもその引かれた線によってわたしの行為も変質してしまう。わたしはなにもしなくてもわたしは境界にたたされてしまっている。これは〈わたし〉の問題ではない。句の構造がつくってしまった〈境界〉の問題、そこからいかんともしがたく発生してしまう〈わたし〉の問題である。現代川柳はこうした症候的なわたしを発見してしまったのだ。

そのことに気づいていたのが小池正博さんである。『MANO』(13号、2008年3月)に小池さんは「樋口由紀子・鏡像の世界」という樋口由紀子論を書いている。そこで小池さんは樋口さんの句における「鏡像」をこんなふうに説明する。

  川柳の鏡に映る世界と自己の像は、次第に屈折を見せ、独自の変容をとげはじめる。…樋口由紀子は「川柳」という自己投影の鏡を手に入れたのである。けれども、この鏡面自体が一種の歪みをもっていた。そこには「私」の姿が映し出されていたが、鏡に映る像は日常性を超えて非日常的な姿を見せ始める。現実の投影というよりも鏡像自体がおもしろかったのである。
  (小池正博「樋口由紀子・鏡像の世界」『MANO』13号、2008年3月)

このとき小池さんのイメージの中には明らかに精神分析家ジャック・ラカンの鏡像段階のイメージがあるのだが、大事な点は現代川柳が鏡像的主体を手に入れたとき同時に〈傷ついたわたし〉も手に入れるということである。

たとえばラカンを知らなくても鏡をみてみるとよい。鏡のなかにはわたしがいる。しかしそれは左右が逆であり、また他者がふだん肉眼でみているわたしとも違う鏡のなかのわたしである。〈そこ〉、鏡にしか〈わたし〉はいないのだが、しかし、〈それ〉は〈この〉わたしではない。だとしたら、わたしの位相はどこにあるのだろう。わたしは分裂し、傷つき、裂けてしまう。鏡の前に立つとは、「むこうから白線引きがやって来る」をそのまま引き受けることになるのだ。

小池さんはこのあとこの鏡像イメージからキャラクター論へと移行していく(しかし斎藤環さんの一連の著作をみてもわかるようにキャラクターとは精神分析的な存在である)。精神分析的言説には深入りしていかなかったのだが、しかしわたしは十年前に小池さんが示したこの現代川柳と精神分析的言説のリンクをとても興味深いと思う。

とっても遠回りしたが、掲句をみてほしい。「軽症」と書いてある。「軽症だから道の真ん中を歩く」と。この句も症候事例的である。「軽症/重症」という境界が示され、どうじに、「真ん中/端」という境界が示される。

わたしは別に現代川柳が病的だと言いたいわけではない。そうではなくて、現代川柳は主体の構造が複雑であり、その複雑さを説明するには、日常的な言説だけでなく、精神分析学のような複雑な言説も参照する必要があるかもしれないということを考えているだけだ。ただし、精神分析学といっても臆することはない。みながみな、精神分析学を生きてしまっている。精神分析学はその意味ではずるい学問でもある。みんなが知らないふりをして知っていることを言葉にしているだけなのだから。

さいきんの樋口さんの句をみてみよう。

  空想のかたまりである赤チョーク  樋口由紀子
   (「姉の逆立ち」『MANO』20号、2017年4月)

『MANO』終刊号からの一句。「赤チョーク」は「空想のかたまり」として回収されてしまう。しかしその「赤チョーク」が「空想のかたまり」であるということを〈ちゃんと〉認識しているメタな視線もここにはある。「空想のかたまりである赤チョーク」を「空想のかたまりである赤チョーク」とメタ認識できている〈わたし〉。この〈わたし〉は《誰》なのだろう。この〈わたし〉はもはやキャラクターでもないように思う。キャラクターはメタ視線を有しないようにもおもうから(たとえば、のび太がじぶんがのび太であることを自覚したときのび太はのび太でいられるだろうか)。

樋口さんはこの『MANO』終刊号で「言葉そのものへの関心」という鴇田智哉さんの句集評を書いている。わたしはこの樋口さんのタイトルにひとつの答えがあるような気がする。「言葉そのものへの関心」。樋口さんの〈わたし〉とはイメージでも私性でも鏡像でもキャラクターでもなく言葉かもしれない。言葉のシステムから起動/再起動されるわたし。ラカンは無意識は言語のシステムとして構造化されているといった。

言葉から立ち上がるわたし。それは決して虚無的なわたしではない。ドライなわたしでもない。むしろ、言葉を使い言葉にとらわれ言葉をのりこえようとする切実なわたしである。

そしてもっとも肝心なことは、鏡があってもなくても、わたしは、いま、ここに、生きているということなのだ。

  生きているといろいろなことに出会い、突き当たる。それらの事を通じて「私」のなかに蠢きだした何か、それを無関係だといって、無視をして生きていくことなどはできない。…書かれたものには、その人が、その人の物の見方が現われる。私はそうでなければ表現もしくは表現者とは言えないと思っている。彼はこの世を諦めない。この世の不条理はどうしようもなく、受け入れがたく存在するが、根っこの部分では人を信頼している。けして諦めないでおこうと思っている。
  (樋口由紀子「言葉そのものへの関心」『MANO』20号、2017年4月)

          (「樋口由紀子・鏡像の世界」『MANO』13号、2008年3月 所収)

2017年4月27日木曜日

続フシギな短詩105[池田澄子]/柳本々々


  ピーマン切って中を明るくしてあげた  池田澄子

田島健一さんが『現代詩手帖』の連載「俳句のしるし」において池田澄子さんの俳句の特徴を次のように指摘している。

  氏の作風の特徴は、作者と読者の間に第三者的主体が想定される点にある。…口語独特の呼びかけは、直接読者へではなく想定された「誰か」に向けられる。…
  池田澄子は…〈他者〉に向けて「思い」を呼びかける。
   (田島健一「「読む主体」について」『現代詩手帖』2016年10月)

この田島さんの指摘した特徴は池田さんのピーマンの句を例にとるととてもわかりやすい。掲句の特徴は、「してあげた」にある。〈わたし〉が「誰か」に「してあげた」のである。「してあげる」でもない。それはちゃんとやってあげ〈た〉なのだ。すでに行為はおわっている。他者のためになにかをし終えたのだ。

池田澄子にとってピーマンとは他者を呼び込むための、オープン・スペースになっている。ピーマンを思い出してほしい。ピーマンの肉詰めというおいしい食べ物があるように、ピーマンの中は空洞になっている。そこに挽き肉を詰め込むこともできれば、発想を変えれば、他者を招き入れることだってできるはずだ。

ここで比較するためにこんな野菜の句をあげてみよう。

  玉葱を切るいにしえを直接見る  田島健一
   (『ただならぬぽ』ふらんす堂、2017年)

こちらはピーマンではなくタマネギを切っている。玉葱を思い出してみよう。玉葱はピーマンと違い、何層もの「葉」が肥厚し折り重なってできあがっている重層的な食べ物だ。空洞は、ない。語り手は玉葱を「切」ったあとで「いにしえを直接見」ている。まるで時をかける少女のように玉葱を切りながら時間の古層へとアース・ダイブしていく。

とくに「直接見る」の「直接」に注意したい。ここでは〈見る行為〉そのものがふだんのなにげなく見る行為とは少し変質している。語り手の〈見る行為〉そのものになんらかのダイレクトな変化が生じているのだ。

だからもし池田さんのピーマン句とあえて比較するなら、田島さんの玉葱句において他者化されているのは〈見る行為〉そのもの、すなわち〈見ているじぶん〉そのものである。

田島さんは池田さんの句を「想定された「誰か」に向けられる」と指摘したが、田島さんの句は「想定されなかった「自分」に向けられる」のだ。

他者に出会う方法はすくなくともふたつある。ひとつは、わたしの場所に他者を呼び込んでくること。ふたつめは、わたしじしんが他者になってしまうこと。

ちなみに掲句がおさめられた『シリーズ自句自解Ⅰベスト100 池田澄子』の最後に掲載されている池田澄子さんの文章のタイトルは「書きながら出会う」である。池田さんにとってピーマンを切ることも、書くという行為そのものも、他者との〈出会い〉につながっている。

ところで池田さんの句でわたしがずっと何年も考えている句がある。

  屠蘇散や夫は他人なので好き  池田澄子

どうして夫が「他人」であったら「好き」なんだろうとずっと考えていた。でも田島さんの時評を通してはじめてわかったような気がする。それは、そのまま、だったのだ。答えはこの句のなかにちゃんと書いてあった。池田さんの俳句は他者とそのつど出会おうとしている俳句なのだ。だから相手はいつでも他者でなければならない。他人でなければならない。夫がもし「他人」であるならば、夫が「他人」であり続けるかぎり、毎日夫に出会える。だから答えはそのままだったのだ。「他人なので好き」。答えは、「他人なので」だからだ。書いてあること、そのままだったのだ。長いあいだ考えていたけれど、やっと、わかった。そう、田島さんが、教えてくれた。

          (『シリーズ自句自解Ⅰベスト100 池田澄子』ふらんす堂・2010年 所収)

2017年4月25日火曜日

続フシギな短詩104[介護百人一首]/柳本々々


  いつの間に一人暮らしが三人になっているかと母不思議がる  辻田早代美

NHKの番組「ハートネットTV 介護百人一首2017」からの一首。

大阪在住の辻田早代美さん。母親に少し認知症があることがわかり、いまは同居しているという。

辻田さん夫婦と92歳の母親のきみこさんの暮らし。

早代美さんはNHK短歌をみて興味をもち、短歌をつくりはじめたという。

「思ってることをぱっと切り取れる」ことから早代美さんは短歌をつくっている。

わたしは、このフシギな短詩で、なぜひとは〈わざわざ〉短いことばを選択するのだろうと書いたことがあるが、しかし人生の形式によって〈短さの形式〉に出会うこともある。「思ってることを長々と書き連ねていく」形式では、「思ってること」が逃げていってしまう。母との同居生活は、そのつどそのつど〈新鮮なぱっとした思い〉がわきあがる暮らしだからだ。

母との暮らしのなかで、「ぱっと」「思ってること」を「切り取」ることに短歌は適している。

たとえば、介護で忙しく時間がとれないときでも、短歌ならうたうことができる。

すこし関係なくて、すこし関係あるのだけれど、わたしはよくアメリカの作家レイモンド・カーヴァーを思い出す。かれは、短編ばかり書いた。長編は書かなかった。かれは、ある時期まではブルーカラーであり、ある時期までは肉体労働者だった。そうしたかれの時間のとれない生活、しかもこどももいた生活のなかで、それでも時間を見つけて書いた彼の生活が短編作家としてのレイモンド・カーヴァーを用意したのではないかとおもうのだ。

なぜ、プロレタリア短歌というものがあるのか、なぜプロレタリア文学はたいてい〈短い〉のか、が、そう考えるとわかるような気がする。それは、〈短さ〉を選択したというよりは、生活が形式を選んだのだ(こんな問いを立ててもいい。なぜ志賀直哉は長編が書けて、芥川龍之介は短編ばかりだったのか。志賀直哉の暮らしと芥川龍之介の暮らしの〈格差〉)。

その意味で、短い形式としてのジャンルは、いつでもひとつの表現の民主化の道をきりひらいている。それはときに表現をめぐる階層差をうちくずす契機になるかもしれないから。

さいきん、川柳作家の川合大祐さんと電話しているときに「妄想幻聴かるた」について話した。ふたりでこれは、まるで、現代川柳じゃないかと、話し合った。ここにあるのは認識の根っこだと。ちょうど私は田島健一さんの句集『ただならぬぽ』を読みながら、ひとの経験の基底=古層についてかんがえていて、なんだかいろんなものが、リンクしていった。

かるた、という短い形式のジャンル。

ジャンルのなかをひとが出入りし、ゆきかっている。それは、長さや短さなどの形式のちがいによって、すこし、ひとの感じもまた、変わってくる。

ジャンル、ってなんなのだろう。だれが・どう・決めているのか。だれがなにを位置づけ、迎え入れ、追い出し、それがどうくつがえされたり、あらそわれたりしているのか。

夜のそんなに早くもない時間のなかで、わたしは電話を切った。

  隙ねらい外へ出たがる母と猫三年暮らせばよく似てきたり  辻田早代美

          (「ハートネットTV 介護百人一首2017 春編その一」NHK・2017年4月20日 放送)

2017年4月19日水曜日

続フシギな短詩103[加賀田優子]/柳本々々


  おにぎりをつくるみたいにわたしたちされてできたのかもしれないね  加賀田優子

『大阪短歌チョップ2』のテーマ「集」に投稿された加賀田さんの一首。

以前、このフシギな短詩において、俵万智さんと岡野大嗣さんのサンドイッチの歌を主体性をめぐって考えたことがあるが、この歌においてもおもしろいのは、あたかも「おにぎり」という集合体過密物としての食べ物が象徴するように、四つの主体性がおにぎりをつくるようにぎゅっぎゅっと「集」められていることだ(サンドイッチは「重」ねられた食べ物であるのに対し、おにぎりは「集」められた食べ物だ)。主体性を箇条書きしてみよう。

ひとつめの主体性は、「Xがおにぎりをつくる」

ふたつめの主体性は、「わたしたちはされた」

みっつめの主体性は、「わたしたちはできた」

よっつめの主体性は、「~かもしれないねとわたしは思う」

これらよっつの主体性がおにぎりのように一首にまとめられたのがこの歌である。しかもそれらはすべて主体性のレベルがちがう。ひとくちずつ食べるごとに味覚が微妙に変化していくおにぎりのように(おにぎりとはどこからどう食べるかで具材への接近の仕方が変わり味が変わる空間的な食べ物だ)。

それではよっつの主体性の内実をみてみよう。ひとつめは、超越的な主体がおにぎりをつくっている。このXには、「神様」が入るかもしれないし「親」が入るかもしれないし「遺伝子」が入るかもしれないが、そのどれでもない。なにか、世界のずっと上にある、巨大な主体である。

その巨大な主体性から、ふたつめの、「された」「わたしたち」という、「わたしたち」の受動的な主体性に主体がおりてくる。能動→受動と主体の移行が起きた。

そしてみっつめの「できた」「わたしたち」への変化。「できた」という能動でも受動でもない、生まれてしまったという生成。能動→受動→生成。

そして最後、この歌の結語の「ね」という問いかけ・同意の終助詞。〈わたし〉は《能動→受動→生成》のみっつの主体変化を一首にまとめて〈あなた〉に同意を求めるという「主体性」をさいごにみせた。

こうしたよっつの主体性が〈それとなく〉込められた〈主体おにぎり〉の歌がこの歌だとおもう。だからテーマ「集」にぴったりの歌だ。これはレベルの異なる主体性が「凝集」された歌なのだから。

わたしは、かつて、サンドイッチとは、危機的な食べ物かもしれない、と述べた。サンドイッチはつねに分離の危険をはらむから。

しかし、おにぎりは、どうだろう。おにぎりは、そうかんたんには、分離しない。むしろ、できてしまったものが、分離できなくなってしまったことのほうが、問題なのだ。「されてできた」ものを引き受けなければならないことが。

おにぎりは。

おにぎりは、生成変化のふしぎを、引き受ける食べ物かもしれない。

たとえば、おにぎりの生成変化未満の歌。

  鮭の死を米で包んでまたさらに海苔で包んだあれが食べたい  木下龍也


          (『大阪短歌チョップ2 メモリアルブック』2017年2月 所収)

2017年4月17日月曜日

続フシギな短詩102[まひろ]/柳本々々


 あいうえおかきくけこさしすきでしたちつてとなにぬねえきいてるの  まひろ 

ひとはたくさんしゃべることができるはずなのに、なぜひとはそれでもなお〈短いことば〉を選択することがあるのだろう。

その意味で、《短》詩は、どこかで、〈不能性(ごめんできないんだ)〉の文学でもある。

まひろさんの短歌をみてみよう。この短歌で伝達したいことは、「すきでした」の5音のはずだが、それが「あいうえおかきくけこさしす」の日本語の五十音にまぎれてしまう。そのために〈相手がよくわからない〉状況に陥ってしまう。いちばん肝心な「すきでした」の「す」が、「すき」の《す》なのか、「さしすせそ」の《す》なのかが、わからないからだ。

しかし、語り手は、「ねえきいてるの」と最終的にいらだちをみせた。わからなくしてわざわざしゃべったのに、だ。そして、この「ねえきいてるの」の「ね」さえもふたたび「なにぬねの」にまぎれてしまう。

だからこの短歌にはみっつの不能性がある。「すきでした」と〈そのまま〉言えなかったこと。「すきでした」を五十音の勢いのなかに隠してしまったこと。そしてそれから先のあなたへの問いかけもその五十音の流れのなかでそのまま言ってしまったこと。

このまひろさんの歌にあらわれた不能性は、安福望さんの描く絵のなかの不能性にも少し似ているな、と思った。

たとえば最近安福さんはよく宇宙を描いている。NEW PURE+でのギャラリートークのときに、「なぜさいきん宇宙が多いんですか」と宇宙の絵に囲まれながらきいたら、これはたまたま手持ちの画材の組み合わせでそうなったということである。宇宙の色があったから、宇宙を描いた。しかし、宇宙の色はたくさん使わねばならない。だから宇宙の色ばかりそのうち買うようになりました。画材店でその色がなくなっていかないか心配しています、と。

裏では宇宙のために泥臭く四苦八苦している安福望がいたが、ここでたとえば宇宙をよくモチーフにするクリスチャン・ラッセンと安福望を比較してもいいかもしれない。

ラッセンの描く宇宙は、宇宙そのまま世界である。宇宙即世界。ラッセンの描く宇宙はためらいがないし限定されていない。のびやかすきるほどに伸びやかである。海と一体化し、イルミネーションにあふれ、そこでイルカやシャチがはしゃいでいる宇宙である。

この宇宙には不能性がない。こう言ってよければ、この宇宙には可能性しかないのだ。

だから、ラッセンの絵がスピリチュアリティと結びつきやすいのも納得ができる。それは、《無限》の象徴でもあるからだ。幸福のさいげんの無さ。「毎日ぜんぶできるんだ」の世界。

(絵:安福望。「安福望個展・詩と愛と光と風と暴力ときょうごめん行けないんだの世界」案内パンフレットの表紙から。)

しかし、安福望の宇宙は限定的である。それはラッセンの海=宇宙とは対照的に、ふちどられた池=宇宙である。桜に囲まれた池のような宇宙。その池におとなしく舟を浮かべた人間と熊がいる。かれらは、はしゃいでいない。宇宙もかれらもどことなく抑圧されているようにも、みえる。安福望の宇宙は、まひろさんの「すきでした」のようになにかにまぎれてしまった不能性でもある。なぜかれらには表情がないのだろう。かれらはこれからどこにゆくのだろう。かれらにできることはなにがあるのだろう。

そのとき、どうして安福さんが、個展に「きょうごめん行けないんだ」などというずいぶんとネガティブな展示タイトルをつけたかが少しわかったような気がした。ラッセンだったらもっとポジティブなタイトルをつけるだろう。「プレシャス ラブ」「ドルフィン フリーダム」「エンドレス ドリーム」の彼の作品タイトルのような。愛、自由、夢。

まひろさんの歌にみられたように〈きょうごめん行けないんだ性〉は短詩にそれとなく〈もともと〉胚胎しているのかもしれない。ことばのすきまにまぎれこむようなかたちで。

ギャラリートークで、安福望さんが、学校に行けなくなった話をしていたのがきょうみぶかかった。なんの理由もなくある日ふっと学校に行けなくなってしまった。「きょうごめん行けないんだ」になった。でもあるとき、1995年だが、とつぜん、「みんながきょうごめん行けないんだ」という状況になった。そのときになぜか不思議とふたたび学校に行けるようになった。ふっ、と。その理由がなぜかはわからないけれど、と。

まひろさんの短歌では、「ごめん言えないんだ」のなかでもきちんと「すきでした」と言うことは言えている。いろんなことが言えなくなる状況のなかで、ふっと、言えてしまったこと。

不能性のなかで、それまでなかった強い可能性がうまれる場合がある。

阪本順治監督の映画『顔』を、思い出した。

          (『食器と食パンとペン わたしの好きな短歌』キノブックス・2015年 所収)

2017年4月14日金曜日

続フシギな短詩101[高屋窓秋]/柳本々々


 頭の中で白い夏野となつてゐる  高屋窓秋


川名大さんがこの句の「白」に関して文化的側面からみた興味深い指摘をしている。

川名さんはこの句が生まれた昭和初期のモダン都市下の政治・文化情況を素描した上でその多面的情況としてのポジティブ・ネガティブどちらをも同時にあらわす色が「白」だったとつなげている。「『白』は純粋なもの、明るく輝くものなどのコードとして用いられる一方、空虚感や虚無感など負のコードとしても用いられた」。

  円本ブーム・ラジオ放送・映画・レコード・デパートなどメディアを中心とする文化・芸術・娯楽などのモダンなポジティブな面。他方、三・一五事件(日本共産党弾圧)・世界恐慌による不況、就職難、農村の疲弊・治安維持法・満州事変・五・一五事件(犬養首相射殺)など政治経済のネガティブな面。こうした多面的なモダン都市の相貌を、小説家・詩人・歌人・俳人・川柳人たちは鋭敏な感性でとらえ、「白」や「青」として発光させた。
  (川名大「高屋窓秋『白い夏野』」『挑発する俳句 癒す俳句』筑摩書房、2010年)

 モダン都市にあふれる光やモダンな文化住宅の色として「白」は、関東大震災以後の新しい思潮や風俗としてのモダニズムを表すための象徴となる色だった。そしてそれは「小説家・詩人・歌人・俳人・川柳人」にまたがっていた。

  白い住宅
  白い
  桃色の貴婦人
  白い遠景
  青い空     北園克衛

  植物の感じがひじやうに白いから何もおもはずに眠らうとする  前川佐美雄

  白い手紙がとどいて明日は春となるうすいがらすも磨いて待たう  斎藤史

この短詩にあらわれた〈色〉を同時代の文化的状況と接続させる視点は、後の時代にくだっても有益かもしれない。

たとえばかつてこの「フシギな短詩」の「村上春樹」の回で取り上げた色の歌。

 赤、橙、黄、緑、青、藍、紫、きらきらとラインマーカーまみれの聖書  穂村弘
   (『ラインマーカーズ』小学館、2003年)

  緑でも赤でも黄色でも茶色でも青でも黒でもない鬼  伊舎堂仁
   (『新鋭短歌シリーズ18 トントングラム』書肆侃侃房、2014年)

  赤青黄緑橙茶紫桃黒柳徹子の部屋着  木下龍也
   (『きみを嫌いな奴はクズだよ』書肆侃侃房、2016年)

これらの歌には色がサイケデリックに叛乱しているのだが、「白」や「青」という〈単色〉がモダンをあらわす色だったならば、これらの〈色まみれ〉の歌は、そうしたモダンの状況が壊れ、ポストモダニズムとして価値観がばらばらになった文化状況の歌として読めるかもしれない。

モダンは合理性を、ポストモダンは非合理性を追求する。

「ラインマーカーまみれの聖書」は価値観が複雑化=多重化した人間の様相をあらわすだろうし、否定神学的にしか言い表せないような指摘不可能な色をもつ「鬼」はすでに「色」でなにかを象徴することが困難になったばらばらな時代を表すかもしれない。またそれを反転させた「徹子の部屋着」も同様に〈色のおびただしさ〉が逆説的に色のむなしさを描いている。

モダニズムが「頭の中」を「白い夏野」として単色であらわせるものだったとすれば、ポストモダニズム以降の短詩においては、〈色彩の叛乱〉という〈極彩色〉がわたしたちの「頭の中」をあらわしている。頭の中は極彩色の夏野となっているのだ。

しかし極彩色とは穂村さんの歌にいみじくも「きらきら」と書かれたようにそれは〈無色〉の〈光〉に近い。つまり、極彩色とはもしかしたら、なんの色でもないということかもしれない。ポストモダニズムが、なんの価値でもないことが、価値であったように。

光。現在のわたしたちは、光を、ある危機的な枠組みのなかで、意識しはじめているように思う。モダニズムの「白」は、光の明暗としての両義性があった。川名さんはそれを「溌剌とした発光と虚無的な発光」と呼んだ。しかし、いまのわたしたちにとって「光」とは、もう、溌剌さや虚無をも越えた《危機的》な発光である。

  原子炉がこわれ泉は星だらけ  田島健一
   (『ただならぬぽ』ふらんす堂、2017年)

  (「高屋窓秋『白い夏野』」『挑発する俳句 癒す俳句』筑摩書房・2010年 所収)


2017年4月9日日曜日

フシギな短詩100[目次]/柳本々々

【1、御中虫さんと揺れ
2016年の〈今〉も、わたしたちの〈すべて〉の関さんは、揺れる。

【2、北大路翼さんと乳輪
俳句は、乳房に、たどりつけない。

 【3、イイダアリコさんとゴジラ
わたしたちは俳句を通して〈初めてのゴジラ〉や〈初めての乳輪〉に出会う。

【4、松本てふこさんと希望
語り手は逮捕されるかもしれない。でも、状況はシリアスではなく、「うららか」だ。これから「出頭」をするというのに、ここにはフシギな希望がある。

【5、石原ユキオさんと災難
ひしめきあったペンギンたちをひとめみてわかるのは、それが〈もふもふ〉しているということである。たぶん、あなたがそこに頭からつっこめば〈もふもふ〉するだろう。わたしも。

【6、関悦史さんとテラベクレル
語り手はいまや季語をあんのんと使える世界には暮らしていない。季語を使い、季節のなかに身を置こうとすると、〈テラベクレル〉をも抱えこまざるをえない世界。それが語り手が身をおく春である。

【7、中山奈々さんと外傷】  
「傷って消すもんじゃないんだよ。生きられるものなんだ」 私は、もっと、床の一部になる。 

【8、宮本佳世乃さんと心臓
ひとりにひとつずつの心臓、ひとりにひとつずつの手、ひとりにひとつずつの足、ひとりにひとつずつの内臓、ひとりにひとつずつの身体、ひとりにひとつずつの身体の《仕組み》。わたしたちの身体は、桜餅のように、驚くほど律儀だ。

【9、佐藤文香さんと恋愛
恋愛とは〈俳句〉に疎外される〈わたし〉のことだ。

【10、小倉喜郎さんと多忙】  
だからこんなふうにも思う。語り手は身体を完成させるために「急」いでいるのかもしれないと。それならば私にもわかる。私もきっとこう言うはずだ。「急がねば」。

【11、榮猿丸さんと抱擁】  
今度抱擁するときに少しだけ確かめてみてほしい。いま、〈僕ら/二人〉は〈どこ〉で〈いちゃいちゃ〉し〈抱擁〉しているのかを。

【12、長嶋有さんと不倫】  
わたしたちはときどき「すごい不倫」の話をきく。わたしたちは「すごい不倫」のわきでなにげなく買い物をしたり、ブランコに乗ったり、河のほとりでたたずんでおしゃべりをしたり、電車のなかでずっと読みかけのままだった文庫本を読み終えたりする。でも「すごい不倫」はいつもそこここにある。

【13、喪字男さんと混入】  
お花見のなかで、語り手は「乳房」からいま・ここの感覚をとらえようとしている。そこでは誰それがいるということが問題になるのではなく、どのような乳房があるかが問題に、なる

【14、久保田紺さんと隙間】   
いま、〈大好き〉を通して〈未知〉にであう

【15、なかはられいこさんと回避】  
わたしたちは、わたしたちがいつも語ろうとしない〈回避〉のなかに《こそ》、棲みつづけている。

【16、中澤系さんと理解】  
「誰もが未来のどこかの地点で、世界から「理解できない人は」と告げられることになる。「下がって」と」 

【17、リチャード・ブローティガンさんと俳句】  
「森の中をこっそりと動いてゆくオオカミのように、書くということの、ひとりぼっちの道すじをたどりつづける勇気」 

 【18、野間幸恵さんと水
たえず〈ここ〉になることのできない〈ここ〉がわたしたちのなかに〈ある〉。水、のような。

【19、米川千嘉子さんと主人公
どんなに「死のうと思って」も、たえず、歌を、言語を、顔をとおして〈わたし〉に複数性を与えること。もうひとつの生を。どんなに生が行き詰まっても、わたしたちはわたしとわたしの往還をつづける限り、どうにか、なる。

【20、加藤治郎さんと崩壊】  
わたしたちは、創造しなければならない。新しい廃墟で。

【21、東直子さんと桜桃忌】  
「私の大好きな、よわい、やさしい、さびしい神様。世の中にある生命を、私に教えて下さったのは、あなたです」

【22、泉紅実さんとあんかけ】  
ちゃんといちゃいちゃしてみよう。

【23、牛隆佑さんと二人暮らし
凹凸の少ない町で、凹凸のような突然の「そして」から〈ふたり〉の暮らしは始まった

【24、岡野大嗣さんと祈り】  
それは〈きれいな鼻歌〉の、終わりのない、〈とぎれとぎれ〉の、たったひとつの〈長い歌〉としての祈り 

【25、木下龍也さんと幽霊】  
どれだけ〈わたし〉が死んだとしても、まだやってくる生のたくましさと愛おしさ。「おめめ」、この愛すべきもの。

【26、兵頭全郎さんとポテチ】  
意味に負けないよう、燃え尽きないよう、くるくると循環し続けること。無限のポテチ(∞)と共に。  

【27、金原まさ子さんとシャウト】  
「折檻部屋」を出たり入ったりする。真顔で。すました顔をして。折檻される季語のシャウトを目撃しながら。ああ。世界はなんて〈初めて〉ばかりなんだろう、とおもう。

【28、飯田有子さんとたすけて】  
「たすけて」ほしい主体が「たすけて」と叫んでゆくそのプロセスのなかで壊れていく。たすけて

【29、柳谷あゆみさんとマリオ】  
たった〈一度〉しか生きられないこと。わたしたちのすごくシンプルな生のリアリズム。

【30、田島健一さんと奥だらけ】  
「もはや誰が不審者なのかすらわからない」全方位的に主体が解体される場所。

【31、飯島章友さんと巨眼
でも誰かはわからない。誰かがいるのはわかるけれど。そして、その誰かと、ときどき、ふっと、眼が、合う。

【32、車谷長吉さんと崖
「頭の中には崖があるのね?」「そうや、崖があるんや」

【33、川合大祐さんと野比のび太
のび太とわたしはタンジールの大門で別れた。たしか、わたしたちは「さようなら」もいわなかったように思う
 
【34、外山一機さんとドラゴンクエスト
ここは ゆうきをためされる しんでんじゃ。 たとえひとりでも たたかうゆうきが おまえにはあるか? 

【35、中家菜津子さんとフェルナンド・ペソア】  
あらゆる詩はいつも翌日に書かれる。

【36、吉田類さんとロラン・バルト
少しでも希望があるのならおまえは行動する。希望はまったくないけれど、それでもなおわたしは……あるいはまた、わたしは断固として選ばぬことを選ぶ。漂流を選ぶ。どこまでも続けるのだ。

【37、北山あさひさんと廃屋】  
結婚をひとりでしたい。

【38、瀬戸夏子さんと相思相愛】  
「デニーズが消えたとき、どんな感じだった?」「ものすごく光ってた。きらきらしてた」

【39、夢野久作さんと犯罪】  
なぜということなしに殺したくなるのです。あとからついて行きたくなるのです。

【40、佐藤りえさんと人外】  
「まず最初に幽霊(妖精やら異星人や鶴)という不思議キャラ設定が紹介され、そこから二人の関係性が始まるのがサブカル的「人外」の基本セオリーなのだ」  

【41、松尾芭蕉さんとゾンビ】   
芭蕉ゾンビは順応するのでも抵抗するのでもない。増殖するにしても生成変化することも進化することも退化することもない。芭蕉ゾンビにはいかなる解決もカタルシスもない

【42、正岡豊さんとまばたき】  
つまり、〈終わってしまった〉のではなく、〈はじまってしまった〉こと。それが《ほんとうに》ひとがあきらめることのかたちなのではないか。

【43、石川啄木さんとだらしなさ】  
縦の文芸にあらわれる〈だらしない〉横の姿勢の系譜。それはなんなのだろう。

【44、穂村弘さんと魔術】  
夢の中では、光ることと喋ることはおなじこと。お会いしましょう

【45、荒木飛呂彦さんと五・七・五】   
五・七・五は自分の数でしか割ることのできない孤独な数字……わたしに勇気を与えてくれる

 【46、小坂井大輔さんと三十五歳問題】  
芥川龍之介にはおそらくいなかった「死ぬなと往復ビンタしてくる」先生。2016年の35歳は、奇妙に〈ひらかれた場所〉に、いる。

 【47、笹井宏之さんとえーえん/永遠】  
かつてジャック・ラカンは言った、「えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい」

 【48、ながや宏高さんと覚悟】  
この連作の水は、このわたしに覚悟を要請してくる水だ。境界を越えるのか、越えないのかの、覚悟を。おまえはどうするのか、と。

 【49、壇蜜さんと友だちってなんですか】   
手放せることが出会いなのかもしれない。なんか、あ、手放していいんだなって。ともだちってなんですかってきかれたら、たぶん、手放せることだなって。

【50、ミムラさんと音のとげ
短歌は〈音のきもちよさ〉だけでなく〈音のきもちわるさ〉も考えることができるジャンルかもしれない。〈きもちよさ〉だけでなく〈きもちわるさ〉に敏感であるためにはどうしたらよいのか

 【51、斉藤斎藤さんと歩くしかないように歩いた
船のなかでは手紙を書いて星に降りたら歩くしかないように歩いた

【52、村上春樹さんと若山牧水】  
でも青がないんだ、と僕は小さな声で言った。そしてそれは僕が好きな色だったのだ。  

【53、岩田多佳子さんと世界に味方せよ】  
お前と世界のたたかいでは、世界に味方せよ──。  

【54、小津夜景さんとぷるんぷるん】  
純粋にはなれない。何も捨てることもできない。忘れることもできない。叶うこともない。ぷるんぷるんは切迫する。そしてぷるんぷるんは、たぶん、そのたびごとにがまんができないという。

【55、石部明さんと嘔吐するシン・ゴジラ】  
ゴジラは「かがんで蝶を吐」いている。美しいスペクタクルのような蝶を吐きながら、ゴジラは「生きるか死ぬかに関わる痙攣にして闘争」をしている。

【56、雪舟えまさんとゆれるぽるぽる】  
きみは何でもできるのにここにいる

【57、西原天気さんとソファー】  
これからどんな素晴らしく、くだらなく、崇高で、過激で、だるく、斬新で、陳腐で、軽やかな「身に覚え」のあってないようなことがやってくるのか

【58、田村ゆかりさんと8音】  
わたしたちはときどき寝込みながらもいっしょうけんめい生きてきた。

【59、森三中・大島美幸さんと夏井いつきさん】  
「なぜわたしではないのです」の世界から「夫は他人なので好き」の世界へ

【60、平岡直子さんとライオン】  
そのライオンさえも見つけられなかった者たちがいたこと。それは力に触れ得なかった者たちがひとりふたりさんにんと無力でありながら生きていくための生き延び方についての話。

【61、新海誠さんと小野小町】  
世界から忘却されたふたりだけれど、お互いは、光っているから、その〈運動〉によって、それとなく、わかる。わかってしまう。わかってしまった。だから、問いかけた。「君の

【62、舞城王太郎さんと木下龍也さん】  
絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶
 
【63、熊谷冬鼓さんと茹であがるパスタ
茹であがるパスタ以上でも以下でもない場所にたたずんで未来から次から次へとおとずれる〈あなた〉のことを待っているのだ。ことば、茹でながら。

【64、フラワーしげるさんと柿本人麻呂
なにを記憶し、なにを忘れようとしたか

【65、リービ英雄さんと言葉の興奮
わたしは、いま、こうふんしている。

【66、時実新子さんと産もうかな
きょういちにちをたまたま生きてみよう
 
【67、小池正博さんと兎カニバリズム】  
これからは兎を食べて生きてゆく

【68、俵万智さんと卵サンド】  
ともかく、サンドイッチは危機的な食べ物かもしれない。

【69、本多真弓/本多響乃さんとひとを好きになる
クリスマス前なので「ひとを好きになる」ということについて少し考えてみよう。

【70、吉田戦車さんと萩原さん(仮名)】   
つまり、なんなのか。

【71、松岡瑞枝さんとさようなら
(2016年の最終回)  Oh, Mama, can this really be the end もといこんにちは

【72、宮沢賢治さんとキノコ短歌】  
新年キノコ始め。私にとってもはじめてのキノコ感想文。キノコをみて泣いているひとがいる。いったい、どうしたのか。そして私は、いったい、どうなるのか。

【73、TVのCMと柄井川柳】  
前回はキノコの食べ過ぎでこんらんしてしまい、72回のところを誤って73回と記したが、今回がほんとうの73回である。今は、落ち着いている。

【74、渥美清さんと暗殺】  
ローソクをもってみんなが離れてゆく。むほん、だ。 

【75、昔昔亭桃太郎さんと石川豚木(ぶたぼく)
「知能テストです。『夜明け前』を書いた作家は誰ですか」「それは簡単です。2人います。島崎さんと藤村さんです」(私の頭はときどきふわふわしている) 

【76、八上桐子さんと時実新子
なにを見るか、ではなくて、まぶたを閉じた上で、なにを見ないことで・見ようとしたのか。決意したのか。

【77、宝川踊さんと帰らない力士
すこしだけ笑って、そのまま帰ってこなかった力士。いったい、なにがあったのか。力士のきもちになってかんがえてみた

【78、伊藤左千夫さんと太宰治さん】  
元気で行こう。絶望するな。では失敬。  

【79、望月裕二郎さんと時をかける少女】  
玉川上水水流循環動力生成装置とは、いったいなんなのか

【80、R15指定と悲しいセックス】  
「入れたら終わりよ。そういう遊びなんだから」

【81、尾崎放哉さんと捨てる
「あんたは帰れんよ。帰れる道理がなかろうがさ。これまでだって捨てられんかったんだ。あんたは捨てた気かしらんが。一度捨てたら二度は捨てられんよ」

【82、新宿歌舞伎町俳句一家屍派と北大路翼さん
あるきつづける。生きるために。生きないために。春の通路を。

【83、筒井祥文さんとやって来た猫
こんな手をしてると猫が見せに来たわけだが

【84、鳥居さんとなんで
なんで生きるの。なんで死ぬの。

【85、くんじろうさんとムーミン
よその家を訪ねるのです。人に会いにいくのです。一日中お喋りをして愉快に騒いで忙しく家から出たり入ったりして薄気味の悪いことなんて考えている暇のない人たちに会いにいくのです

【86、永井一郎さんと声
私にはナウシカしかありませんでした。どんなセリフもその内容は「ナウシカを守り抜く」ということでした。ミトにとっても私にとっても「ひめさまー」がいちばん重要なセリフでした。

【87、富野由悠季さんと戦争なのよね
戦線から遠のくと楽観主義が現実に取って代わる。そして最高意思決定の段階では現実なるものはしばしば存在しない。戦争に負けているときは特にそうだ。

【88、丸山進さんと私は変ですか
あなたから見ても私は変ですか

【89、竹井紫乙さんと痛い
傷つくと、会える。

【90、堂園昌彦さんと創造されるゆっくり
わたしたちは〈ゆっくり〉をつくらなければいけない。
 
【91、加藤知子さんと関悦史さん
少し、ずるくて、かっこいい者とは。

【92、夏石番矢さんとコカ・コーラ
内面化とは、それに気づかなくなることなのではないだろうか。ナイこと。内(ナイ)として、気づかないこと。「内面の吸収を抑え、内面の排出を増加」する特定保健用食品コーラ。

【93、ドラマ『相棒』と歌人
愛は時に人に勇気を与えます。しかし愛は時に人を臆病にもします。/杉下右京

【94、正岡子規さんと田島健一さん
脳のなかがもうもう、ぼんやり、座ったまま眠るでも覚めているでもない、私が言ったわけでもなくひとが言ったわけでもなく、ただ、カエル、耳に響いてくる、それはもう俳句だった。

【95、うんこ漢字ドリルと現代川柳】  
「うんこにも羽が生えたらいいのに」「うん、そうだね」

【96、石田柊馬さんと妖精大戦争】   
妖精は酢豚に似ている絶対似ている妖精は酢豚に似ている絶対似ている妖精は酢豚に似ている絶対似ている妖精は酢豚に似ている絶対似ている妖精は酢豚に似ている絶対似ている

【97、大川博幸さんとあやふや
私はぼんやりした猫である。気づいたときはあやふやだった。ぼんやりしたひとに飼われて、二人で、あやふやな暮らしを送っていた。彼はいつもぼんやり編物をしぼんやり花に水を遣った

【98、谷川俊太郎さんと岡野大嗣さん
人類は小さな球の上で眠り起きそして働きときどき火星に仲間を欲しがったりする

【99、明恵上人さんとんんんんんんん】 ○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

【100、目次と100の不思議
「アイザック・ディーネセンはこう言った。私は、希望もなく絶望もなく、毎日ちょっとずつ書きます、と。いつか私はその言葉を小さなカードに書いて、机の横の壁に貼っておこうと思う」

2017年4月6日木曜日

フシギな短詩99[明恵上人]/柳本々々


あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月  明恵上人


定型詩は定型がある以上、定型を満たすまでしゃべり続けなければならない。以前このフシギな短詩で富野由悠季さんの富野ゼリフをめぐりながらそんなことを書いた。

丸の内の出光美術館で江戸時代の禅僧・仙崖(せんがい)による禅画を展示した「大仙崖展」をみたことがある。仙崖というひとは〈ゆるかわいい禅画〉として再発見されていった面があるが、展示には筆で大きく○を描いた円相の軸もかけられていた。いろんな○があったのだが、それをみていてちょっと思ったのが、《他にもたくさん描けるものがあったはずなのに○しか描かなかったのはどういうわけなんだろう》ってことだ。

円相っていうのは○として完全な悟りをあらわす。だから余計なものをそこに描いてはだめなのだが、むしろ大事なのは○なのではなくて、そこにほかにも描けたはずなのに・描かないということなのかなと思ったのだ。

絵と短歌というのは実は形式においてよく似ている。それは絵がかならず額や枠やコマを必要とする点が、短歌の定型と形式的に類似するからだ。絵や言葉の意味を決めているのは、実は絵や言葉そのものでなくて、《枠=定型》という形式そのものかもしれないということ。

鎌倉時代前期の僧である明恵上人の掲出歌。定型で29音使えたはずのところをほぼ「あかあかや」で使い切ってしまっている。それ以外も語れたはずなのに、語らなかったこと。もしかして定型において円相を描くのだとしたら《これ》なのかなと思った。「月」という形の○も際だっている。

歌人の橋本喜典さんが『自然と身につく 名歌で学ぶ文語文法』という著書のなかでこの歌を引いてこんなふうに解説している。

  この「あかあか」は「明明」で明るく澄みきった月を詠んでいます。戯歌(ざれうた)のように言われますが、無限・夢幻の感のただよう宗教性が私には感じられるのです。
  (「副詞」『自然と身につく 名歌で学ぶ文語文法角川書店2016年)

橋本さんがどうしてこの歌に「宗教性」を感じたのか。それはこの歌が「あかあかや」を繰り返すことによって言葉=意味の領域を離脱し、無限に円環する○の領域に入ったからではないか。それは言葉=意味=分節の支配しない主客のない領域だ。ただ○だけが茫漠と月のように浮かぶ領域。もちろんその○に意味などない。あってもなくてもどうでもいい○だ。そもそもそれを認識する〈わたし〉などそこらじゅうに溶け込んでいないのだから。

明恵上人の質感に似た現代短歌を引用してみよう。

  んんんんん何もかもんんんんんんんもう何もかもんんんんんんん  荻原裕幸
  (『あるまじろん』沖積舎、1992年)

なぜ語り手は「んんんんん」で埋め尽くさなかったのだろう。「何もかもんんんんんんん」なら「何もかも」さえ語らずに「んんんんん」で埋め尽くせばいいではないか。ところが語り手はそれをしなかった。「何もかも」が「何もかも」と繰り返されている。ここがこの歌の《ポイント》なのでないか。「んんんんん」ではなくて。

「んんんんん」と「ん」を繰り返していくうちに、「何もかも」という有意味的=構造化できる最小限の統語意識さえも《繰り返し》の渦のなかに巻き込まれ「何もかも何もかも何もかも何もかも何もかも」と新たな渦の生成に巻き込まれてゆく。「何もかも」というかすかな意味性さえも「ん」の螺旋のなかで意味をうしなっていく。この短歌はそうした《巻き込まれ》を実況中継的に描いたものなのではないか。

円相という完全な悟りには実は《あと》がある。悟りが悟りとして《終わった》と思ったら、それは《悟り》になりえない。《悟り》と勘違いしているにすぎない。《悟り》には終わりが、ない。だから、悟りのプロセスを描いた十牛図には、円相のあとにさらに絵が続いてゆく。○で終わりではないのだ。終わらないことをうけいれられることこそが、悟りだから。

わたしはその「○で終わりではない」をこの「んんんんん」の歌に見いだしたいと思う。《巻き込まれ》ながら、《巻き込み返し》ながら、「んんんんん」の大海のなかで悟りかけながら・悟りきらずに生きてゆくこと。そこにひとつの「難題をすり抜けていく」希望を見いだしたいと思う。

  難題をすり抜けていくんんんんん  吉田吹喜


          (「副詞」『自然と身につく 名歌で学ぶ文語文法』角川書店・2016年 所収)