2016年12月30日金曜日

フシギな短詩71[松岡瑞枝]/柳本々々






  お別れに光の缶詰を開ける  松岡瑞枝


 昨日、森の中で、わたしはこんなふうに考えた――死を考えることを避けてはいけない、自分の人生の終わりの、ある一日のことを想像してみよう。穏やかなある日、一見、ほかの日とほとんど変わらないように思える、そのくせ突然、すべてがスピードを上げ――あるいは、おそらく、スピードをゆるめて――すべてが非常に密接に感じられる日のことだ。 
  (アン・ビーティ、亀井よし子訳「人生の終わりの、ある一日のことを想像してみよう」『貯水池に風が吹く日』草思社、1993年)

今年最後の記事になるので、少し〈終わり〉のことを考えてみよう。

どうして川柳という文芸には〈終わり〉をめぐる句が多いのだろう。

掲句もそうだ。「お別れ」で始まっている。たとえば次のような句もあげてみていいだろう。

  三十六色のクレヨンで描く棺の中  樋口由紀子
   (『容顔』詩遊社、1999年)

  たてがみを失ってからまた逢おう  小池正博
   (『セレクション柳人6 小池正博集』邑書林、2005年)

上記三句はどれも〈さようなら〉をめぐる句である。

松岡さんの「お別れ」、樋口さんの「棺の中」、小池さんの「たてがみ」の喪失。どれもそれぞれの〈さようなら〉である。

ところがもうひとつこれら三句に共通しているものがある。それは〈さようなら〉に突入しはじめたしゅんかん、現場がいきいきと息づいてくることだ。「光の缶詰」、「三十六色のクレヨン」、「また逢おう」。どれも、いきいきと輝いている。さようならの現場で。

なぜ現代川柳は〈さようなら〉をすると輝きだしてしまうのだろう。

フシギである。

ここで、ひとつの乱暴な仮説を提出してみたい。

俳句には季語があって、川柳には季語がない。

季語とは、なんだろう。季語とは自分の意志ではどうしようもできない言葉のことである。季語は共同体的なものであるため、勝手なシステムの改変は許されない。季重なりをしてはいけないなど季語をめぐる法=禁忌がきちんと定められている。

いわば、俳句はそのために季語というひとつの去勢から句をつくりはじめる。しかしその去勢という不能感をとおして俳句は俳句にしかない俳句的主体をたちあげることができる。

では、川柳は、どうやって川柳的主体をつくりあげるのだろう。川柳には季語がない。しかも、川柳というのは柄井川柳という選者の〈個人名がそのままジャンルになった〉奇妙なジャンルなので、定められた法も禁忌もない。自由にできる万能感に満たされた文芸といってもいい。その意味では小津夜景さんが指摘したようなSF・雑食的なジャンルであり、飯島章友さんが述べていたように異種格闘技・プロレス的なジャンルである。

しかしその万能感を去勢するものが現代川柳にとっては〈さようなら〉だったと言えないだろうか。現代川柳は〈さようなら〉を密輸することで、みずからに去勢をほどこす。「お別れ」「死」「喪失」という去勢をとおして不能感におちいってから五七五をたちあげる。それが川柳的主体なのではないか。そうやって川柳独特の川柳的主体をたちあげたのではないか。

川柳は、〈さようなら〉を、嬉しがっている。

さようならから、始めること。それが現代川柳なのかもしれないとおもうのだ。

ちがうかもしれない。でもいつでもさようならから始められることを教えてくれる現代川柳はわたしにふしぎな勇気をくれる。

終わっても終わってもさらなる「やあ」がやってくる。

これがほんとうに終わりなのか、と思ったせつな、真顔でやってくる「こんにちは」。それは真顔なのにきらきらしている。

今年が、終わる。前へ。

  Oh, Mama, can this really be the end もといこんにちは  柳本々々
   (『川柳 北田辺』74号・2016年11月)



          (「前へ」『光の缶詰』編集工房円・2001年 所収)

2016年12月27日火曜日

フシギな短詩70[吉田戦車]/柳本々々




  パンが好き/心隠して/植える苗  吉田戦車

   【評】稲作農家として米作りにうちこんできて50余年。作る米は高い評価を受け、後継者も育った。「でも本当は……」このことだけは生涯誰にも言うまいと、静かに田を見つめる萩原さん(仮名)の春だ。

ほんとうは「パンが好き」なのにその内面を抑圧して「苗」を植える「萩原」さん(仮名)。こうした〈ほんとうはそうじゃないのに・でもそうするしかなかった〉という静かな激情的内面の構成の仕方はおなじ吉田さんの漫画『伝染るんです。』にも時折見受けられた。

たとえば『伝染るんです。』においてかわうそ君にコーラの飲み方を教わる高齢者たちがそうだろう。ほんとうはコーラが飲みたいのだが炭酸の泡の圧力に負けてしまう。しかし、〈飲みたい〉のだ。

この本の装画に注目してみよう。船長の格好をしたイタリア系男性が短冊に羽根ペンで一句詠んでいる。「なぜあなたがハイクを」という吉田戦車さんらしいシュールな風景になっているのだが、この表紙をひらくと扉絵にはおなじ構図で未知の生命体がやはり短冊を手にし一句詠んでいるシュールな風景があらわれる。

つまり、なんなのか。

装画・扉絵からわかるこの本のコンセプトとして、このエハイク(絵俳句)は「それっぽくないひと」が「そうでない場所」で詠んだものだということができるだろう。非俳句的な場所から。

それは掲句からもわかる。パンが好きなのに米作りに精進している。「ほんとうはこうだったのに」という隠される激情。それは、〈ドラマ〉である。葛藤だから。俳句はドラマ=葛藤からいちばん遠く離れた場所にある文芸だが、しかし〈あえて〉俳句にドラマを持ち込むこと(おそらくそのドラマをナチュラルにするのが一枚絵の説得力だ)。

だから吉田戦車的構図とは、「そうでない」風景に埋め込まれたときに生み出される。高齢者たちがコーラを若者のように飲まなければならなくなったときに「そうでない」ドラマがうまれるのだ。

  ふきのとう/となりの犬は/食べぬなり  吉田戦車

犬がおじさんにふきのうとうを押しつけられている。おじさんはこう思っている。「犬はふきのとうを好きなはずだ」と。しかし犬はこう思っている。「おい、おじさん、やめなよ」と。

激しく行き違う内面。これも吉田戦車的風景のひとつだ。吉田戦車マンガに人外やロボット、星人、動物、高齢者、お嬢さま、ヤクザといった通常のコミュニケーションではすれ違う人々がでてくることが多いのはこれが理由なのかもしれない。「好きなはずだ」と「おい、やめなよ」の過激な交錯。それが吉田戦車の風景だ。


         
 (『惡い笛 エハイク2』フリースタイル・2004 所収)




2016年12月23日金曜日

フシギな短詩69[本多真弓/本多響乃]/柳本々々




    誰からも習つたことはないはずのへんな形になる ひとを恋ふ  本多真弓/本多響乃


クリスマス前なので「ひとを好きになる」ということについて少し考えてみよう。

この本多さんの歌集に収められた短歌は社会から押しつけられる〈形〉に非常に敏感だ。ちょっとみてみよう。

  佐藤さんは
  結婚しても
  佐藤さん

  手続き楽よ
  と
  笑ふ佐藤さん   本多真弓/本多響乃



  レシートに

  一人


  と記載されてゐて
  わたしはひとりなのだと気づく   〃


  赤い字で記入してくださいねつて
  赤いボールペン渡される   〃


社会から押しつけられる形、それは「結婚」したあとの〈名字〉であったり、貨幣を支払ったあとの「一人」であったり、「赤いボールペン」だったりする。これら歌が特徴的なのは、〈だれか〉や〈なにか〉と《関わる》ことによってその押しつけられる形が生まれるということだ。

わたしたちが社会に関わるということは時になにかを生み出すことではなく、場合によっては、形式を押しつけられることになるかもしれないことを端的にあらわしている(それは「ひとを好きになる」ときもそうだ。「ひとを好きになる」とは実は誰かに・社会に関わるということなのだ)。

「佐藤さん」は「手続き楽よ」と「笑」っているが〈わたし〉は「楽」じゃないかもしれない。そのとき「手続き楽よ」というなにげない言葉はわたしにかすかな暴力として機能するかもしれない。だれも・なにも意図していないのに。

そうここにあらわれた〈押しつけ〉は誰も〈押しつけ〉ようとはしていないものだ。「赤い字で記入してくださいね」は〈押しつけ〉ようとする意図ははない。「赤い字で記入し」なければならないから「赤いボールペン渡」したのだ。しかしそこになぜかかすかな暴力の匂いが生まれてしまう。

これを無人称の暴力と名付けてみたい。誰が意図したわけではない、誰もそうしようと思ったわけではない、しかし誰かと誰かが交流し関わったときに生まれてしまう誰のものでもなく私にかかわってくる暴力を。

掲出歌をみてみよう。だからこその「へんな形」の有効性なのだ。「へんな形」とは〈押しつけられた形〉への反逆になるだろう。もちろんそれも意図しない反逆になる。

ひとを好きになるということは、社会から形をおしつけられることでもある。しかし、同時に、社会から押し付けられた形をくつがえす思いがけない「へんな形」に出会うのもまたひとを好きになるということなのだ。

その意味で、ひとを好きになるということは、素晴らしくない状況にじぶんをつっこみながらも、予想もしない素晴らしさに出会う行為でもある。へん、とは、予想不可能性のことだ。〈わたしの好き〉がたとえ予想可能であっても、〈なんでこのひとがこんなに好きなんだろう〉はいつも「へん」という予想不可能性としての素晴らしさがある。

「恋」をするということは予想もしなかった思いがけない〈形〉をうむことになる。だれも知りえなかったへんなかたちを。

それは押しつけられた形をたえず手に握らされる〈わたし〉の《形の反逆》になるかもしれない。

その意味で、誰かを好きになったり、誰かに恋をしたりすることには、希望がある。

ひとを好きになることは多くの失望をうむ。でも、それでもひとを好きになる「へん」てこなあなたは、もっと希望になる。

  このあひだきみにもらつた夕焼けが
  からだのなかにひろがるよ昼間にも   本多真弓/本多響乃

          (『猫は踏まずに』2013年 所収)

2016年12月20日火曜日

フシギな短詩68[俵万智]/柳本々々





  砂浜のランチついに手つかずの卵サンドが気になっている  俵万智



ちょっと岡野大嗣さんのハムレタスサンドの歌を思い出してもいいかもしれない。

  ハムレタスサンドは床に落ちパンとレタスとハムとパンに分かれた  岡野大嗣
  
 (『サイレンと犀』書肆侃侃房、2014年)

ここで岡野さんの短歌はサンドイッチの冷酷な本質をえぐりだしているように思う。それはなにかというと、サンドイッチというのはつかの間統合されたものであり、それは分離させようと思えばいつでも分離させられるものであるという事実である。サンドイッチとは統合されたつかの間のイメージ=幻想物であり、それは「パンとレタスとハムとパン」という現実界に還っていく可能性もつねに持っている。

その意味ではサンドイッチとは危機に瀕した食べ物であり、精神分析的な主体にも近い。わたしたちはふだんなんらかのイメージで主体をサンドイッチのようにまとめあげているが、危機的な瞬間にそれらがばらばらに分解し、まったく無意味なただモノとモノが支配する現実の世界に投げ出される可能性もある。 そのときわたしたちが感じてしまうのはそれまでイメージからは接近することができなかったモノとしてのリアルな死だろう。

ともかく、サンドイッチは危機的な食べ物かもしれない。

俵さんの歌をみてみよう。この歌はなんだか危機的である。時実新子さんは川柳においては中七さえしっかりしていればどんなに頭やおしりがでこぼこしていてもぐらつくことはないと何度も書いていたが、この俵さんの歌の第二句は、7音ではなく、「ランチついに」と6音になっていることに注意しよう。

この第2句が6音になることで非常にぐらぐらしているのだ。もちろんそれは構造的にぐらぐらしているだけでなく、最初の「砂浜」のイメージもすでに意味的にぐらぐらしている。「砂浜」から始まった歌。それはしっかりしない土壌で始発されたものだ。

そして「卵サンド」。「卵サンド」は幻想の完成物である。岡野さん風に微分していうなら、パンと卵とマヨネーズとパンが複合してできあがったのが「卵サンド」だ。ところがそれは「手つかずの」ままになっている。「気になっている」のだからたぶんその「卵サンド」は〈わたし〉が作ったものだろう。しかしその完成された幻想の複合物を相手は受け取ろうとしない。〈わたし〉と〈あなた〉はサンドイッチのように〈いっしょ〉になることはできない。

もしかしたら俵さんの歌においては、〈食べ物〉はわたしとあなたの対幻想をとりもつなにかなのかもしれない。いっしょになる/ならないがイメージを通して試される場所が食べ物である。

言ってみればあの有名な「サラダ記念日」というのは「サラダ」という食べ物と「記念日」という共同幻想が複合化され、わたしとあなた〈だけ〉の対幻想として立ち上がったものではないか。

この味がいいね」とあなたは言った。〈あなた〉は「卵サンド」を受け取らなかったが、〈わたし〉はあなたのその言葉を受け取るだろう。意味を費やして、「記念日」として、わたしとあなたの対幻想として。

でもその対幻想をあなたが受け取るかどうかはこの「卵サンド」のようにわからないことだ。「この味がいいね」と食べ物に終始しているあなたに対して、「記念日」というメモリアルに置換したのはあくまでわたしの意味構築でしかないのだから。

あなたがなにを考えているのかなんてわたしにはわからない。でも、「気になっている」。

「サラダ記念日」の「七月六日」は「七月七日」という七夕=対幻想から一日ズレた日だ。そのズレをぼくたちは〈どう〉考えればいいんだろう。どう、考えますか。

  「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日  俵万智


          (嶋岡晨「Ⅱ 実例篇-イメージ表現のさまざま」『短歌の技法 イメージ・比喩』飯塚書店・1997年 所収)










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2016年12月16日金曜日

フシギな短詩67[小池正博]/柳本々々



  これからは兎を食べて生きてゆく  小池正博


助詞「は」に川柳的主体性を見出したのは樋口由紀子さんだった。樋口さんは『川柳×薔薇』(ふらんす堂、2011年)において、川柳の「は」は「助詞に「私」の意志を強く含ませ、そこには明らかに「私」が存在し、「私」に問いかけている」と述べている。

だからたとえば掲句を、


  これから兎を食べて生きてゆく

としては、ダメなのだ。「は」という助詞によってもっと〈これからの生〉に関わっていく川柳的主体性をみせること。それが「これからは」という助辞の意志であり、「生きていく」意志につながっているのである。

だからこう言ってもいい。この兎は《川柳の意志》のなかにある兎なのだと。この「兎」はすでに川柳的な助詞「は」によって食べられている「兎」なのだ。

もちろんこの小池さんの句集のタイトル『転校生は蟻まみれ』の「蟻」も川柳の意志のなかにある〈蟻〉である。そこには第一句集『水牛の余波』の〈の〉で中性的に言語放牧されているような水牛はいない。

蟻も、兎も、〈わたし〉が積極的にまみれたり、食したりすることで積極的に関わっていくものなのだ。

蟻にかじられ、兎にかじられること。その〈かじる行為〉を促すのが、たった一音の助詞「は」なのである。川柳の祝祭的で不穏なカーニヴァルはたぶんこの一音に存在している。たった一音の川柳の呪文。すなわち、「」。

だからあえてこんなふうに大胆な解釈を切り出してみたい。「これからは兎を食べて生きてゆ」こうとしている語り手が食べようとしていたのは「兎」ではない。語り手が食べようとしていたのは「これからは兎」というセンテンスそのものなのだと。「これからは兎」を食べて生きてゆく。

語り手は、助詞「は」が含まれたセンテンスそのものを喰らい、その身につけようとしていたのである。

そう、これは助詞のカニバリズムをめぐる句なのだ。そしてそのときはじめてわたしたちはなぜこの句集のタイトルが『転校生《は》蟻まみれ』だったのかに、気づくはずなのだ。

転校生を喰らおうとしていたのは「蟻」ではなく、隣接した係助詞「は」そのものだったのだから。「転校生」はいま助詞から食いつぶされているのである。助詞に埋め尽くされた助詞まみれの転校生。いや、そうじゃない。転校生は助詞まみれ、なのだ。というのは、小池さん、どうでしょうか。


  頷いてここは確かに壇の浦  小池正博


          (「公家式」『転校生は蟻まみれ』編集工房ノア・2016年 所収)

2016年12月13日火曜日

フシギな短詩66[時実新子]/柳本々々





  菜の花菜の花子供でも産もうかな  時実新子


新子さんにこんな句がある。


  おまえたまたま蜘蛛に生まれて春の中  時実新子

「おまえたまたま蜘蛛に生まれて」にあるのは絶対的な生を「たまたま」として相対化するまなざしだ。

「たまたま蜘蛛に生まれ」ただけなので、ひとに生まれたかもしれないし、象に生まれたかもしれないし、竜に生まれたかもしれない。でも今回は「たまたま」蜘蛛だったのだ。

時実さんの川柳にはこうした絶対的な生に〈相対性〉を導入するまなざしがひんぱんにみられる。その相対性は、〈わたしのこの生〉をもうひとつのありうる生の可能性へとひらくまなざしとして機能するはずだ。

掲句をみてみよう。

「子供でも産もうかな」とここには〈こどもは産むべき〉という絶対性から解放された発話がある。「子供でも産もうかな」とも思うし、「産まないでおこうかな」とも、思う。生殖のための性でもなく、二人に完全に閉じた対幻想的恋愛でもない。ひとりの、しかし、そのひとりがふたりに分裂する瞬間をとらえた「でも」と「かな」だ。

もしかしたら川柳がはじめて性/愛を〈ひとり〉のものとして考えたしゅんかんかもしれない。〈産む〉というたえず「産めよ殖やせよ」が無言でおしつけられるなかでそれを「産もうかな」と相対的発話に転置するとき、生殖的身体からも解放された過激な軽やかさが産まれる。

ひとはもしかしたらひとを「たまたま」産むのだ。そしてもしかしたらわたしたちは「たまたま」産まれたのである。

興味深いのはふたつとも「春」のなかに置かれた相対性の句だということだ。「菜の花」は春の花だし、「蜘蛛」も「春の中」にいる。春は生き物たちがうごめきだし、生まれだす季節だが、そうした生と性のカオスのなかでこれらの句は生まれることの相対性・たまたま性を考えている。

「この世」のなかを「この世」のなかとしてたまたま「生きて」みる視線。新子さんの川柳とはそういうものではなかったか。

新子さんの川柳は、こういっている。きょういちにちをたまたま生きてみようよ、と。

わたしたちはいつでも明日たまたま生まれなおすことができる。やりなおす、生まれ直す、ということは、そういうことだ。あの有名な俳句を思い出してみよう。生の〈たまたま性〉を切りひらく句として。

  じゃんけんで負けて蛍に生まれたの  池田澄子


短詩には、「この世」を、「じゃんけん」のように、駆け込んだ〈個室〉のようにとらえる生のタフネスがある。なんどくじけても、そこから始めれば、いい。


  入っています入っていますこの世です  時実新子


          (「問わぬ愛」『有夫恋』朝日文庫・1992年 所収)


2016年12月9日金曜日

フシギな短詩65[リービ英雄]/柳本々々



  五七五七五七……と百五十以上も続く。ピリオドがない。  リービ英雄


短歌には長歌がある。その長歌は現代の短歌にも不思議なかたちでときどき現れるが、そもそも長歌とはなんだろう。現在の視点からどうとらえればいいのだろう。

リービ英雄さんは「長歌こそ『万葉集』の醍醐味である」と述べている。

  長歌を読むのは、たしかに大変なことだ。ぼくはプリンストンにいた時代、アパートの部屋に一人座って、バッハのカンタータを聴きながら、長歌を読んでいた、翻訳していた、英語で書き直していた、作っていた。そこで、長歌こそ『万葉集』の醍醐味であることに気がついた。
  ……
  たとえば一九九番。この歌は非常に長く、ぼくは「和歌のエベレスト」と書いたことがある。五七五七五七……と百五十以上も続く。ピリオドがない。だからひとつの長い日本語の文章として把握しなければならない。 
 
(「『万葉集』の時代」『我的日本語』筑摩選書、2010年)

リービさんの記述を読んでああそうかと私は思ったのだが、長歌のなによりもひとつの特徴は〈短歌という形態がそもそもピリオドがないということを意識させる形式〉という点にある。くどい言い回しになったが、かんたんに言えば、長歌を読むと、短歌ってそもそもピリオドがない文芸だよね、句点をうたない文芸だよね、でもそれってなぜなんだろう、と問いかけられるということだ。

これはフシギなことではないか。

現代の短歌を任意に取り出しても誰も短歌の終わりに句点(。)を打とうとしない。つまり、通常の文章意識とは異なる意識のなかで短歌をうたい・書いているということになる。その意味で短歌とは口唱性をまつわるものでありながらも、非常にエクリチュール(書き言葉)を意識した表現形式とも言える。

現代短歌のなかの長歌を少しみてみよう。たとえば「フシギな短詩」では岡野大嗣さんの長歌をかつて取り上げた。長歌ではないかもしれないが破調としての長さをもった歌として飯田有子さんの短歌も取り上げた。また前回、フラワーしげるさんの長い歌も取り上げた。それらを今もう一度取り上げてみよう。

  空席の目立つ車内の隅っこでひとり何かを呟いている青年が背負っているものは手作りのナップサックでそれはわたしの母が作った  岡野大嗣


  たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔  飯田有子



  何だっけ映画に出てくる動物の名前 何だっけ動物の種類 何だっけ動物って  フラワーしげる

これらの〈長い歌〉は実は短歌というのは〈短・歌〉という名称をもちながらも〈長く引き延ばそうと思えばどこまでも引き延ばすことができる形式〉というただならぬ事態をあらわすものだということができないだろうか。短歌にはピリオドがないのだから。ピリオドがないとうことは、独特の空間拡張が韻律に沿って可能だということである。

どの三首もそうだが、韻律への意識がある。「空席の」や「何だっけ」という初句5音で始まる意識、「たすけて/たすけて」がリフレインされることで律をつくる意識。これらの歌はもし〈そう〉しようとしさえすればどこまでも〈長く〉することができる歌である。「たすけて」や「何だっけ」は続かせることのできる形式を育てはじめている。その意味で〈長・歌〉の方がもしかしたら〈短歌〉があらかじめ内在している形式に接近してしまっている可能性があるのではないか。それは短歌というのは留めようがないものである、という内在性であり、定型によって留めおかれているものは実は幻想かもしれないという〈興奮〉である。

  「バイリンガル・エクサイトメント」とでもいうべきものがある。……バイリンガルであるために、元の言語と翻訳する言語とのズレ、その境界に立って興奮し、言葉が非常に際立っている。ある通常ではないエネルギーがそこから発散されているのが分かる。
  (「『万葉集』の時代」『我的日本語』筑摩選書、2010年)

リービさんは言葉と言葉の〈境界〉に立ったときに言葉が屹立するしゅんかんを〈バイリンガル・エクサイトメント〉と呼んでいるが、通常の言語意識とは異なる短歌の意識と通常の言語意識がクラッシュするしゅんかんには、いつもこの〈バイリンガル・エクサイトメント〉がたちあらわれているのではないか。それは言語の興奮である。

短歌を読むということは、言葉に興奮するということなのではないか。こうふん。わたしは、いま、こうふんしている。

         
 (「『万葉集』の時代」『我的日本語』筑摩選書・2010年 所収)

2016年12月6日火曜日

フシギな短詩64[フラワーしげる]/柳本々々





  何だっけ映画に出てくる動物の名前 何だっけ動物の種類 何だっけ動物って  フラワーしげる

フラワーしげるさんの短歌を繰り返し読んでいて気がつくのは語り手の奇妙な〈忘却〉の仕方である。それは掲出歌のように「何だっけ/何だっけ/何だっけ」という意味のレベルで〈忘却〉が行われている、というよりも、むしろ〈定型〉=語り方のレベルで行われているように思うのだ。ちょっと何首か引用してみよう。

  何だっけ映画に出てくる動物の名前 何だっけ動物の種類 何だっけ動物って  フラワーしげる

  棄てられた椅子の横を通りすぎる 誰かがすわっているようで振りむけない  〃

  金持ちよどんなに金をつかっても治らない難病で苦しみながら死んでいってほしい子供のほうには罪はない  〃
  
 (「二十一世紀の冷蔵庫の名前」『現代歌人シリーズ5 ビットとデシベル』書肆侃侃房、2015年)

  オレンジのなかに夜と朝があって精密に世界は動いていた。私はそこで生まれた  〃

   (「二十一世紀の冷蔵庫の名前」『短歌研究』2014年9月)

短歌というよりはどちらかというと音律を意識した詩のようにもみえるが、注意したいのは最初はいつも語り手が〈定型意識〉から短歌に入ってゆくことだ。五七五定型から語り手は語りに没入していくのである。

  なんだっけ/えいがにでてくる/どうぶつの
  すてられた/いすのよこをと/おりすぎる
  かねもちよ/どんなにかねを/つかっても
  おれんじの/なかによるとあ/さがあって

ところが語り手は語っているうちにだんだんと定型を忘却していくかのように〈饒舌〉になっていく。わたしが奇妙な〈忘却〉が行われていると言ったのはその意味においてである。

フラワーさんの語り手は、語っているうちに、〈短歌の語り方〉そのものを忘れていくという奇妙な忘却をみせる。それを別の言い方でこんなふうに言ってもいい。語り手は語っているうちに、内容=意味の方に加速度的にひっぱられてゆき、短歌の語り方を忘却し、意味内容の充実に引き寄せられていくのだと。

これを〈連想の強度〉と呼んでみてもいいのかもしれない。わたしたちは短歌を詠むとき、連想をしながら意味を呼び寄せ、しかし、連想しながらも定型を忘れずに、定型とともに短歌を詠んでいく。つねに意味の連想と定型意識は葛藤している。意味の連想がどれだけ豊かにひろがっていっても、定型を逸脱したらそれは詩や散文になってしまうからだ。

ところがフラワーさんの語り手は連想の強度によって語り手がぐんぐん暴走しはじめる。「金持ちよ」の歌はその最たるものかもしれない。この歌に語り手の〈怒り〉があるとしたら、それは「死んでいってほしい」という過激な物言いとしての意味内容にではなく、語り手がそれを語っているうちに定型意識を忘却していくその語り方そのものにある。

この短歌における〈連想)は、実は短歌の遺産そのものとしてある。「序詞(じょことば)」だ。序詞の歌として有名なのは『百人一首』にもおさめられている柿本人麻呂がつくったとされる次の歌だ。

  あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜を一人かもねむ  柿本人麻呂

この人麻呂の歌では、「あしひきの山鳥→山鳥の尾→しだり尾→ながながし」という「夜」にかかっていく長い長い序詞的連想によって《長さ》が充実させられている。しかしその連想の〈暴走〉を静かに・穏やかにしているのは遵守された定型意識である。だからこそ、「一人」で「ね」ることの〈静かなさびしさ〉が浮き彫りにされる。

この人麻呂作と言われる歌に対して批評家の福嶋亮大さんがこんな説明をしている。

  夜の無内容さが際立っていたこと…。この歌は、意味だけをとるならば「長い夜を一人寂しく眠るのだろうか」というだけのことであり、事実上何も言っていないに等しい。しかし、折口信夫によれば、この無内容さには古代人の幸福感の一つの型を認めることができる。歌の平凡な内容が吹き飛んでしまった後「残るものは、過去のわれわれの生活の、実にのんびりとした、のどかな生活であったことを思わせる生活気分が内容となった、空虚そのものがあるだけのことです」。
  思念が深められる夜の時間帯について、この作者は特別な調べを用いずに、のどかな「空虚」のままに留め置いた。
 
   (福嶋亮大「復興期の「天才」」『復興文化論』青土社、2013年)

福嶋さんの指摘するこの歌の〈無内容=空虚〉を受けてわたしが思うのは、〈空虚〉を成立させるためにはある構造的布置がいるのではないかということだ。たとえば定型を遵守しながら、定型=形式をきっちり充実させながら、しかし意味内容を充実させずに、序詞を用い、〈無内容〉かつ〈空虚〉のまま「一人かもねむ」にたどりつくこと。それが短歌にとっての〈空虚〉である。そしてそこには折口信夫の言葉で言えば「古代人の幸福感の一つ」である「実にのんびりとした、のどかな生活」がある。

フラワーさんの短歌はその逆をゆく。連想が加速し肥大し、定型を忘却し、それは〈苛烈さ〉となり、「死んでいってほしい」を生み出す。ここにはもしかしたら〈現代人の不幸の一つ〉であり〈実に苛烈な生活〉のあり方が示されているのかもしれない。

こんなことを言うのは奇天烈なことだということをわかっていて言うが、もし短歌に〈感情〉があるのだとしたら、それは語り手が定型に対してどのように振る舞ったか、振る舞わざるをえなかったか、なにを記憶し、なにを忘れようとしたか、というところにこそあるのではないか。

そこからもう一度かつてこの「フシギな短詩」で取り扱った岡野大嗣さんの長歌を振り返ることもできるかもしれないし、飯田有子さんの破調歌を見直すこともできるかもしれない。

ところで、この記事の最初に書こうとしていた一文をこの記事の最後の一文として書いて終わりにしようと思う。それは、

定型に対するひとそれぞれのふるまいをときどき無性に不思議に思うことが、ある。

  背は何のために大きくなった 手はなにを摑むためにある 星の下で靴を磨く  フラワーしげる

          

(「二十一世紀の冷蔵庫の名前」『現代歌人シリーズ5 ビットとデシベル』書肆侃侃房、2015年 所収)

2016年12月2日金曜日

フシギな短詩63[熊谷冬鼓]/柳本々々


  なぞ解きの途中でパスタ茹であがる  熊谷冬鼓



短詩型とは何かと考えたときに、それは〈意識の逸脱〉なのではないかと思うことがある。

たとえば、掲句。「なぞ解きの途中」で「パスタ」が「茹であが」ってしまう。それまで「なぞ解き」に注がれていた語り手の意識は茹であがった「パスタ」の方にふいに逸れてしまう。

「なぞ解き」から「パスタ」への〈意識の逸脱〉。

このとき注意したいのは、いったいその〈意識の逸脱〉を支えているものはなんなのかということだ。

わたしたちはふだんの生活でも〈意識の逸脱〉を繰り返している。

潜水プールの底でふいに好きなひとのことを思い出したり、シリアスな話をしているときにドーナッツが食べたくなったりする。でもふいにやってきたそれらは、ふいにやってきたからこそ、〈流れてしまう〉。どこかに、きえてしまう。しかし、短詩型では、それは、流れない。〈留まる〉のだ。

では、なにが、その〈やってきた逸脱〉を留めおくのか。

わたしはそれは〈定型〉なのではないかと思う。定型というパッケージングを通して、そのときそこにあった〈意識の逸脱〉を瞬間冷凍すること。それが〈定型〉の役割なのではないか。

つまり定型によってわたしたちは〈意識の逸脱〉をはじめて統合したかたちで記憶できるのではないかと思うのだ。〈記録〉という整理されたかたちのパッケージングではなく、分裂したままの〈記憶〉というかたちで。

だからこの句が示すように、定型の役割とは「なぞ解き」ではない。

定型は、真理を指し示すわけでも心理をつまびらかにするわけでもない。それはこの句のようにつねに〈ある「途中」〉を〈そのまま〉記録するのだ。

そしてそのままの〈逸脱〉のしゅんかんをずっと〈審理〉としてあなたにゆだねつづける。なぞ解きの途中でパスタが茹であがったその途中のありかたをあなたに尋ねる。あなたならどうするのかと、あなただったらどんな途中があり得るのかを。出来事の過程(プロセス)のまっただなかにあなたを据え置くのだ。パスタが茹であがる直前の、謎が解けそうな直前の、ぎりぎりでばらばらの分裂した時間のなかに。

その意味において、定型とはつねにパスタが茹であがるのを待つ〈大きな途中〉としての〈鍋〉なのではないかと思う。

わたしたちはどこかに「なぞ解き」=真理があるのを知っていながら、定型によって意識を逸脱させつつも、「パスタ」に向かうのである。

そしてそのパスタ以上でも以下でもない場所にたたずんで未来から次から次へとおとずれる〈あなた〉のことを待っているのだ。ことば、茹でながら。

  これ以下も以上もなくて曼珠沙華  熊谷冬鼓

         

 (「セロリの匂い」『東奥文芸叢書 川柳29 熊谷冬鼓句集 雨の日は』東奥日報社・2016年 所収)