2016年11月29日火曜日

フシギな短詩62[舞城王太郎]/柳本々々



  絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対  舞城王太郎


舞城王太郎さんの現代怪談百物語でもある『深夜百太郎』にはその各話をコラボレーションとして短歌であらわした木下龍也さんの「深夜百短歌太郎」がある。

たとえば第三話目の「三太郎 地獄の子」は次のような歌に〈翻案〉された。

  やめてくれおれはドラえもんになんかなりたくなぼくドラえもんです  木下龍也

私がこの木下さんの歌でとりわけ興味深かったのはこの歌に舞城王太郎さんの〈王太郎性〉のようなものがあらわれているのではないかと思ったからだ。それは、なんなのか。

そもそも〈王太郎性〉とはなんなのか。そんなことを簡単に言ってしまう柳本はうかつなのではないか。でも、ちょっと舞城さんのテクストをみてみよう。

  「絶対絶対絶対絶対絶対絶対」 
   と私は絶対を並べてみる。…絶対前田さんは前田さんでいてね、みたいなことだったのだが、それは言えず、私はひたすら絶対絶対と言うだけだ。 
  「絶対絶対絶対絶対絶対絶対……」 
   すると前田さんが真顔で言う。 
  「怖いよ、藤田さん」 
   でも私の絶対は止まらない。 
  「絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対」 
(舞城王太郎「三太郎 地獄の子」『深夜百太郎 入口』ナナロク社、2015年)

「三太郎 地獄の子」の〈こわさ〉は「絶対」という言葉=発話に意識や言語行為をジャックされる人間が出てくることだ。これは舞城さんの他の小説にも多々みられることだが言葉が過剰に反復されることによって明らかに〈意識が言語に汚染されてしまった人間〉があらわれるのだ。みずからの発話に意識をハッキングされる発話者。

だから舞城文学の〈こわさ〉は、そう言ってよければ、《言語に意識をジャックされた人間》が出てくる点にある。

「藤田さん」は「絶対」を連呼しているが、もはや絶対の意味は剥がれおち、ただ無機質な絶対だけが過剰に並びはじめる。「絶対」の意味を言いたいわけではなく、「絶対」を《言うことを言いたいだけ》の人間があらわれるのだ。

つまり、純粋に言語に汚染された人間。

意識が空白化し、ただ絶対言語だけがおがくずのようにぱんぱんに詰め込まれた言語案山子(かかし)のような人間、だから、それは「怖いよ、藤田さん」なのだ。

木下さんの歌をもう一度みてみよう。

木下さんの歌においてもこの〈意識のジャック〉が焦点となっている。そして、その意識のジャックは発話=文体によって行われているのに注意したい。

  やめてくれおれはドラえもんになんかなりたくなぼくドラえもんです  木下龍也

この歌は、「ドラえもん」に意識をジャックされた人間の歌だ。「おれ」は「おれ」と自称した以上、人間であったはずだ。ところが意識をジャックされ「ぼく」という自称に変わった。意識が汚染されたのだ。

しかもそれは〈言語〉を媒介に行われた。「ぼくドラえもんです」はドラえもんの象徴としての決まり文句のようなものだが、その決まり文句としての言語によって意識が汚染されたことがわかるようになっている。しかも、唐突に・無根拠に。

この歌において問題なのは「ぼく」が「ドラえもん」かどうかなのではない。「なりたくな」の「おれ」の発話が唐突に断ち切られ、「ぼくドラえもんです」にジャックされてしまったことなのだ。そしてやはりそれは「怖いよ、藤田さん」なのである。

言語存在である人間にとってほんとうにこわいのは、ひとが言語によってジャックされてしまう瞬間なのだ。それは言語存在であるひとがほんとうに言語を《手放す》しゅんかんなのだから。

意識が言語によってハッキングされた人間。

このように木下さんは端的に短歌によって構造を抽出している。しかも「ドラえもん」というわかりやすいポピュラーな〈翻訳メディア〉を使い、〈翻案〉した。

だとしたら、もしかしたら短歌というのは、世界の構造を、端的に抽出できるメディアとしても機能するのかもしれない。そしてその抽出した短歌メディアは、わたしたちの意識のありかたを一瞬にジャックする。わたしたちは短歌という構造に感染するのである。

その意味で、「ぼくドラえもんです」というジャックされた言語感染は実は短歌を読む行為そのものだともいえる。それは絶対そうなんだと今回の文章の趣旨にならってわたしも言ってみたい。絶対に絶対絶対そうなんだと。もしそうでなかったとしてもそれは絶対だと。絶対絶対絶対絶対絶対

  絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対」 
 「絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対」 
  絶対ムリ 
  絶対そうさせない。 
  絶対お前を逃さない。 
  絶対離さない。 
    (舞城王太郎「三太郎 地獄の子」前掲)



          (「三太郎 地獄の子」『深夜百太郎 入口』ナナロク社、2015年 所収)



2016年11月25日金曜日

フシギな短詩61[新海誠]/柳本々々



  思いつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを  小野小町

※今回は映画『君の名は。』のネタバレを含みます。

日本文学者の木村朗子さんは新海誠さんの映画『君の名は。』を「時空を超えて結び合う物語」とした上で、「古典文学の世界に馴染みのあるテーマだ」と述べている。

  本作(『君の名は。』)は企画段階では『夢と知りせば(仮) 男女とりかへばや物語』というタイトルだったという。その発想の源には小野小町の夢の逢瀬を歌った次の和歌があった。

   思いつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを

  恋人を思って眠りについたからであろうか、その恋人が夢に現れて、逢瀬をとげることができた。夢だと知っていたならばあのまま目覚めずにいたかった、という歌である。「思い寝」といって、相手のことを思いながら眠りにつくと夢の時空でその人に逢うことができると古代人は考えていた。
  (木村朗子「古代を橋渡す」『ユリイカ』2016年9月号)

そして木村さんは「夢と知りせば」のあとに付け加えられていた「男女とりかへばや物語」の副題に注目し、「他人の身体に別の魂が入り込むことは、憑依として古代文化が考えてきたことだ。……夢をとおして入れ替わりが起こるというのは、……古典文学の系譜からいかにも自然に導かれるところだ」と述べる。

小野小町の歌では「覚めざらましを」と〈覚めなければよかったのになあ〉と歌われているが、なぜ「覚め」なければよかったのかといえば、「覚め」なければ夢=現実の空間を生きられるからだ。しかし、「覚め」た瞬間から、夢と現実は等価であることをやめ、ズレはじめる。夢は時の彼方にまたたく間に消え去り、現実だけが残る。

  (新海誠の)『雲のむこう、約束の場所』『秒速5センチメートル』でも、主人公とヒロインは夢のなかで再会する。しかし夢は夢でしかなく、夢は壊れる。現実には受けいれなければいけない喪失が待つ。それを甘受し、成熟する。 

(飯田一史「新海誠を『ポスト宮崎駿』『ポスト細田守』と呼ぶのは金輪際やめてもらいたい」前掲)

この映画『君の名は。』のタイトルにはなぜ「。」が付いているのかずっと気になっていたのだが、もしかするとこれは〈覚醒〉ととることはできないだろうか。つまり、〈君の名は〉と問いかけつづけた夢=現実のような時空間を生きたふたりの〈入れ替わり〉の物語は、最終的に「。」によって〈中断〉されたことで、「起き」られたことで、終わったのだと。夢とはとつぜん中断されることで、覚めて、終わるものだから。

だから、映画『君の名は。』のラストシーンで記憶を失ったふたりがお互いを一瞬で〈感覚〉しあい、「君の名前は?」とききあい、声が重なり合っておわるシーンは、〈名前を知る〉ことが大事だったのではなく、「君の名は。」と面前ではじめて発話できたことが大事だったのではないかと思うのだ。その句点「。」によってはじめて夢は終わるので。「覚めざらましを」は肯定的に語り直されたのだ。アンチ「覚めざらましを」として。「夢」から覚めたから《こそ》出会えて、お互いに名をきくことができる「現実」もあったのだと。「やっと覚めたね」と。

木村さんは「入れ替わり」のモチーフを述べられていたが、アニメでは〈入れ替わりのモチーフ〉が折々みられる。富野由悠季さんのアニメ『∀ガンダム』もまた「とりかへばや物語」を主要なモチーフとしている。容姿が瓜二つの月の女王ディアナ・キエルと地球の女性キエル・ハイムが入れ替わるという物語が展開されるのだが、誰にも知られずこっそり二人だけで入れ替わることでお互いの境遇を〈それしかない〉かたちで二人は理解しあう。この〈理解〉は非常にフシギなものだ。

なぜなら、わたしの立場における喜びや苦しみはこんなものなのですよ、と相手にコミュニケーションとして伝えるのではなく、ノンバーバルコミュニケーションでまったく言語を介さずに〈そのひとそのものになること〉によって非言語的に・体感として〈理解〉するからだ。

  コミュニケーションとは、二人の人間の間で言葉や手紙や物を交換するだけのことではない。それはまた、非物質的な何か、二つの項以前にある関係でもある。 

(トーマス・ラマール、大崎晴美訳「新海誠のクラウドメディア」前掲)

『君の名は。』でもぜんぜん立場や環境の違うふたりが入れ替わって相手の状況と環境に投げ込まれたように、〈入れ替わり〉というのは非言語で相手を〈理解〉できるたったひとつのアクションなのかもしれない。しかしそれは世界から「名」も忘れられるほどの〈等価交換〉でなければならない。たとえばもしそのひとの入れ替わり中に死んでしまったならば、永久に〈わたしの名〉が失われるような、つまり、世界の住人がだれひとり〈わたし〉を知らないままに〈そのひと〉として死ぬようなそういう絶対等価交換でなくてはならない。たとえば次の句のような。

別のかたちだけど生きてゐますから  小津夜景
(『フラワーズ・カンフー』ふらんす堂、2016年)

〈入れ替わり〉とは〈そのひとを理解する〉ためだけに〈世界から忘却される経験〉なのではないかと思うのだ。〈わたしの名前〉はそのとき世界から失われる。そして入れ替わった〈そのひとの名〉は〈わたしの名〉ではない。ただ〈入れ替わり〉という運動だけがふたりのことを知っている。

もう夢に逢ふのとおなじだけ眩し  小津夜景
(前掲)

「夢」という装置は入れ替わりにもってこいなのだが、もしかしたら「夢」の空間では、言語を介さない〈理解〉のやり方がたえず行われているのかもしれない。「喋る」のではなく「光る」。それだけで相手が〈あなた〉のことを「理解」できる。世界から忘却されたふたりだけれど、お互いは、光っているから、その〈運動〉によって、それとなく、わかる。わかってしまう。わかってしまった。だから、問いかけた。「君の名は。」

  夢の中では、光ることと喋ることはおなじこと。お会いしましょう  穂村弘



          (「古代を橋渡す」『ユリイカ』2016年9月 所収)




2016年11月22日火曜日

フシギな短詩60[平岡直子]/柳本々々




  三越のライオン見つけられなくて悲しいだった 悲しいだった  平岡直子

短歌には有名な「三越のライオン」が歌がある。そこから入ってみよう。

  三越のライオンに手を触れるひとりふたりさんにん、何の力だ  荻原裕幸
  (「未完歌集『永遠青天症」『デジタル・ビスケット』沖積舎、2001年)


この荻原さんの歌には実は「栄にて。四首」という詞書がついている。だからこの「三越」は「名古屋三越 栄店」ということになる。今も「三越栄店」に行けば、この「ひとりふたりさんにん」の列にあなたも加わることができるというわけだ。そして注意したいのが「四首」と続きものになっていることだ。その四首のなかには、

  噴水のぐんぐんのびてはたと止む繰り返し見る、何が見させる  荻原裕幸

  細ながき空地のふかく空きをれば誰かが植ゑてあぢさゐの列  〃
  (前掲)

といった歌がある。これらも合わせてライオンの歌を考えてみるとどうなるのか。

まずわかるのは、語り手が興味関心を多分に示しているのが〈不可解な力〉だということだ。「何の力だ」という驚きとおののきに端的に現れているように語り手にはそれが「何の力」なのかはわかっていない。しかしそれが「力」であることはわかっている。その「力」の分類ができないのが語り手の立ち位置である。分類ができない力だから驚いている。

他の二首もみてほしい。「何が見させる」とやはり語り手は自分が「噴水」を見てしまうその力を理解できていない。また「あぢさゐの列」に対して「誰かが植ゑて」とここでもその「あぢさゐの列」を生成する力学の〈もともと〉の所在を語り手は「誰か」としか把持できない。

名古屋の「栄」において語り手は〈不可解な力〉に遭遇していた。

では、平岡さんの歌はどうだろう。平岡さんの歌では〈不可解な力〉への遭遇が回避されている。荻原さんの語り手は、所在はつかめなかったものの「力」には出会うことができた。「力」が機能している現場に居合わせることができた。ところが平岡さんの現場は徹底して〈無・力〉なのだ。

それは「三越のライオンに」という対象を特定する助詞「に」が取り払われて、「三越のライオン見つけられなくて」と〈片言(かたこと)〉になっていることからもわかるだろう。「見つけられ」なかったのは「ライオン」だけではない。助詞も、である。

しかも、〈見つからない〉というのを《あえて》「見つけられなくて」という長い迂遠の語りを採用している。語り手はこのことばの長さのとおりにそれだけ〈さがす力量〉を持ち合わせていた、にもかかわらずその力量に応えてくれる「ライオン」がいなかったということなのだ。無・力。

もちろん、この歌では文法もまた無力である。〈悲しかった〉という心情に見合ったなめらかな言葉は採用されず、「悲しいだった 悲しいだった」と無骨なぎこちない凸凹の文法が二度も採用されている。文法でさえも、無力なのである。

だとしたら、この平岡さんの歌は、荻原さんの「力」の歌を、〈脱力〉させ、解体する積極的無力の歌とも言えるのではないか。

荻原さんの歌では、「ライオンに手を触れる」人間たちについては「ひとりふたりさんにん」とひとりずつていねいに語っているが、「ライオンが見つけられ」なかった人間については語っていない。そこでは「力」に触れられなかった者はある意味、〈スルー〉されたのだと言ってもいい(ただし、語り手は〈遠目〉からその光景をみていた。「何の力だ」と。だからこの歌はある意味で、「何の力だ」から語り手自身が排除(スルー)される歌にもなっている。その意味ではこの歌は構造的に〈スルー〉を〈スルー〉していない)。

しかし、その「ライオン」さえも「見つけられ」なかった、「力」にふれることさえできない者たちがいること。しかもそれを他者に伝達することばの力さえも持たない者がいること。そういう視点を平岡さんはこの歌に導入しているように思うのだ。

それは「力」に触れ得なかった者たちが「ひとり/ふたり/さんにん」と無力でありながら生きていくための「生き延び方」についての話だ。

    海沿いできみと花火を待ちながら生き延び方について話した  平岡直子
         

 (「生き延び方について話した」『桜前線開架宣言』左右社・2015年 所収)

2016年11月18日金曜日

フシギな短詩59[森三中・大島美幸]/柳本々々



  夫とは変なひとです秋うらら/そぞろ寒  大島美幸



TBS「結婚したら人生激変!○○の妻たち」という番組のなかで俳人の夏井いつきさんが森三中の大島美幸さんに俳句のかんたんな作り方を教えていた。その教え方がとてもおもしろかった。これだったらたしかにみんなつくれるのではないか。いやつくれるかどうかはともかく、俳句の構造を理解しやすいのではないか。

まずいつきさんは大島さんに「夫を一言でいうとどう思うか」をきいた。

「夫は変なひとです」と答える大島さん。

じゃあそれを5・7にしてこうしましょうと、「夫とは/変なひとです」の五・七になった。

これでほとんど俳句の本体はできあがった。この五・七に季語の五音をくっつければ、俳句として完成だという。ここでいつきさんはそれとなく注意深く〈俳句の範疇〉という言い方をされていたと思うが、ただこうした口語体俳句は池田澄子さんの俳句を思い出せば、俳句としてはなんのフシギもないように思う。

そこからが、おもしろかった。

「夫とは変なひとです」の5・7に、季語「秋うらら」をつければ、夫婦仲がよさそうなベクトルの俳句になり、季語「そぞろ寒」をつければ離婚危機の方向性をもった俳句になる。つまり、どのような季語をつけるかで、夫婦の関係性の質感が変わるのだ。

ここでわたしたちはあることを学習する。すなわち、季語とはベクトルなのだと。ある言説に質量をもった方向性をつけくわえるのが季語なのだ。これはちょっと驚くべきことではないか。ふつうは、「夫とは変なひとです」が俳句の言説のベクトルだと思うのではないか。ところがそれはちがう。季語がベクトルなのだ。

  黄落やなぜわたしではないのです  夏井いつき

「黄落」という季語の意味がわからなくても「落」という感じからこの季語のもつ負のイメージがわかるはずだ。そういえば、いつきさんは現在放送中のNHK俳句でもいつも季語のもつイメージを図解している。季語はことばにイメージの方向性を与えるのだ。

そしてその意味で、俳句にとって季語は必然性がある。言説の舵(かじ)を取るのが季語だから。明暗をつかさどるのが季語だから。季語はことばの船の船長のようなものなのだ。

裏返せば、季語のない短歌や川柳はベクトルを自身の言説のなかでつけくわえるために〈意味性〉を重視するのだといってもいい。方向性やかじ取りを意味によって打ち出すのだ。でないと、方向性がなくなるから。言葉の船は座礁する。

わたしは番組を見終えたあとで、うーんなるほど、とあごに手をやった。納得したのである。そうして、胸に手をおいて、眼を閉じた。ふかく納得したのである。眼を閉じたさきの闇のなかには、わたしの好きな夫婦俳句がくるくると回転している。好きなのである。

  屠蘇散や夫は他人なので好き  池田澄子  
(『シリーズ自句自解Ⅰベスト100 池田澄子』ふらんす堂、2010年)



(「結婚したら人生激変!○○の妻たち」TBS、2016年10月24日 放送)


2016年11月15日火曜日

フシギな短詩58[田村ゆかり]/柳本々々




  気がつくと金銀財宝ウッハウハ  田村ゆかり

文化放送のラジオ番組『田村ゆかりのいたずら黒うさぎ』に「ゆかりの7つで俳句」というコーナーがあった。

リスナーからきたお題、たとえば「『気がつくと』と、『ウッハウハ』の間に7文字を入れて俳句を完成させてください」に声優の田村ゆかりさんが即興で7文字入れて俳句をつくるコーナーなのだが、どうしても字余りになり8音になってしまう。むしろその長すぎる字余りがひとつのおもしろさになっていったコーナーでもあるのだが、考えてみたいのはひとは〈自然体〉では〈8音〉のひとが合うのではないかということである。つまり〈7音〉は実は〈不自然な形式〉なのではないかということ。

わたしはたまたまほかの例でもこのことを考えていた。テレビ朝日の『しくじり先生 俺みたいになるな!!』ではタレント人生を〈しくじってしまった〉タレントが先生になり、どうしくじったか、どうすればよかったのかを教壇に立って話すのだが、そのときに要所要所でそのタレントの教えを575にまとめた俳句=格言が示されるときがある。そのときにどういうわけかほとんどが585なのである。つまり、〈一般的〉には8音の方が自然体なのではないかということ。

8音について考えるということをかつてそれまでの〈中八〉の常識に疑義を提出しながら、あらためて問い直そうとしていたのは川柳作家の兵頭全郎さんである。「中八考」において全郎さんはこんなふうに述べていた。

 中八について…「リズムが悪い」という表現、果たして本当だろうか? もし本当に「リズムが悪い」のであれば、五・七・五というごく初歩的で簡単なルールがこれほど守れないのは何故なのだろう。逆に初心者ほど字数に気をつけるはずなのに中八になるということは、その方がリズム的に自然な流れだと感じているからではないだろうか。 


たしかにそうなのである。初心者ほど字数に気をつけるはずなのに、《にもかかわらず》8音になってしまうこと。これは8音の方が《逆に》リズムが良いからなのではないか。

これはかつて斉藤斎藤さんのNHK短歌を視聴していてそのなかの斉藤さんのコーナー「初心者になるための短歌入門」で学んだことなのだが、短歌を読む際ひとは57577ではなく、88888のリズムをとっているらしい。ちょっと図にあらわしてみよう(今手元に東直子さんの『十階』があるのでそこから歌を引いてみよう)。

  海からの風にゆがんだスマイルが回転しつつつきぬけてゆく  東直子
  (『十階』ふらんす堂、2010年)

これはこの並んだ文字だけみれば、57577である。

  うみからの/かぜにゆがんだ/すまいるが/かいてんしつつ/つきぬけてゆく

これを実際に読んでいるリズムを視覚化して88888の図にしてみよう。ぜひ声にだして読んでみてほしい。たぶん○のところであなたは休符をとっているはずだから。

  うみからの○○○/かぜにゆがんだ○/すまいるが○○○/かいてんしつつ○/つきぬけてゆく○

どうだろう。○のところでは休んでリズムをとっているのではないだろうか。

このことについては言語学者の山田敏弘さんも『日本語のしくみ』でこんなことを言っている。

  休符を入れながら2拍ずつ切り4分の4拍子で詠むと自然に聞こえるという、独自のリズムというものがあります。「一所懸命」を同じように2拍ずつ切って読もうとすると、「いっ│しょ○│けん│めい」。語の途中に休符が入って言いにくくなります。そこで「しょ」を「しょう」と伸ばしてリズムよく読もうとするのです。 
  (山田敏弘「文字と発音のしくみ」『日本語のしくみ』白水社、2009年)

「いっしょけんめい」という7音は口に出されるうちに〈自然〉と「いっしょうけんめい」という8音になった。つまり、8音は「自然に聞こえる」リズムなのだ。

このようにみるとひとは本来的には8音でリズムをとりながら無音のリズムもとりつつ短歌や川柳や俳句を読んでいることになる。声にだしても、ださなくても、そうなのだ。

そうするとわたしたちは定型そのものの総文字数の少なさを〈不自然さ〉として感じるのではなく、むしろこうした〈八音的思考〉を〈七音形式〉として組み立て〈直そう〉とするところに意識的な〈不自然さ〉を見いだすべきではないだろうか。つまりその〈不自然さ〉をかいくぐってリズムをとっているところにこそ、短歌や川柳や俳句の意識的な言語(再)構築のありようがあるのだ。

問題は、眼にみえる領域でおこっていたのではない。眼にみえない領域から眼にみえる領域への変位に起こっていたのだ。

中八を考えるとは、そういうふだん〈わたしたちがやっていて、知らないふりをしている〉(マルクス)ことをあぶりだすことなのではないか。たとえ殺意をもたれたとしても、わたしは八音に関して、そんなふうに言ってみたいのだ。もちろん、ときどき寝込みながらも一所懸命生きてきたので殺さないでほしいけれど。

  中八がそんなに憎いかさあ殺せ  川合大祐
   (『スロー・リバー』あざみエージェント、2016年)

         
 (「ゆかりの7つで俳句」『田村ゆかりのいたずら黒うさぎ』文化放送・2005年5月21日 放送)










2016年11月12日土曜日

フシギな短詩57[西原天気]/柳本々々



  数ページの哲学あした来るソファー  西原天気


わたしはこの西原さんの一句からはじめて俳句にきょうみをもって、俳句を読みはじめた。俳句って、なんだろう、と。

そもそもこの句は俳句なのだろうか。季語はないし、どことなく詩的でもある。それでもこの句は句集のなかに配置された。だとしたら、この句の俳句性とはなんだろうか。

わたしはそれは《深入り》しなかったことにあるように思う。哲学を「数ページ」でやめてしまったこと。哲学することを頓挫(とんざ)したこと。もくぜんの哲学をやめたこと。それがこの句の俳句性なのではないか。

句集「あとがき」でこの句について西原さんが触れているので引用してみよう。

  根岸での“句会デビュー”でつくった三句のうちの一句が、この句集『けむり』に収めた〈数ページの哲学あした来るソファー〉という句。初心者らしく、みごとに季語を欠いている。なぜソファーなんてものが頭に浮かんだのかというと、実際、その次の日に、注文していたソファーが届く予定だったから。そのソファーはいまも使っている。 
  (西原天気「あとがき」『けむり』西田書店・2011年)

やってきた〈そのまま〉を〈そのまま〉五七五定型におとしこむこと。西原さんは思いがけなく参加した句会が自分にとっての初句会であったことをこの「あとがき」で書いているのだが、実は思いがけなくやってきたのは「ソファー」の方ではなく、「俳句」の方だったのではないか。「数ページの哲学」という中途にもかかわらず思いがけなくやってきてしまった「俳句」。それが西原さんの俳句だったようにも思うのだ。俳句は、いつもとつぜん、やってくる。ソファーよりも素早く。「身に覚え」もなく。

  身に覚えなきマンゴオの届きけり  西原天気

その意味では西原さんの俳句は、〈待っている〉俳句とも言える。これからどんな素晴らしく、くだらなく、崇高で、過激で、だるく、斬新で、陳腐で、軽やかな「身に覚え」のあってないようなことがやってくるのか。最近の西原さんの俳句。

  葡萄ひとふさ電線を見て過ごす  西原天気 

  (「過日」『はがきハイク』第15号・2016年11月)

見て過ごす「電線」は、「素晴らしく、くだらなく、崇高で、過激で、だるく、斬新で、陳腐で、軽やか」だ。そしてそれは、俳句も、だ。

それを一言でいうなら、〈ふっ〉になるだろう。西原さんにとって俳句とは〈ふっ〉としたものだった。だからこそ哲学は「数ページ」なのだ。それは「数ページ」で構わないのである。〈ふっ〉なのだから。それは曖昧さとしての〈数ページ〉としか名付けられないような〈ふっ〉なのである。そしてなにより大事なのは、「哲学」という思想をこえて「ソファー」というモノがやってくることだ。抽象物ではなく、届くのは、モノなのである。たとえば、「桃の実」。

  曇天を大きな桃の実と思ふ  西原天気
   (「過日」前掲)

「曇天」という抽象物に思考を深入りさせず、「曇天」を「桃の実」と「思ふ」ことで思想をモノによって断ち切らせること。「桃の実」というモノは、「曇天」の空によせる〈モノ思い〉をストップさせるだろう。そしてそれが〈俳句〉でもあるのだ。わたしたちは考えるために俳句をつくるのではなくて、考えることを考えないために、つまり、考えないことを考えるために、俳句をつくるのだ。

だから俳句にとって哲学は「数ページ」でいい。それは深入りするものではない。もっといえば「数ページ」でやめてしまって他のことを考えはじめてもいい。まったく、ぜんぜん関係ない、明日のソファーのことを考えはじめてしまってもいい。そうした《語らない挙措》こそ、俳句だからだ。

だから語り手は明日ソファーがきたら、そのときはそのときでまたべつの《あしたのソファー》をみいだしていくにちがいない。そして強いて言うならば、それこそが《俳句がつちかう哲学》なのだ。

集中しないこと。奥に向かわないこと。手前にとどまること。

  あかさたなはまやらわをん梅ひらく  西原天気

わたしはそこから俳句に入った。けむりのなかに入るように、手前や奥を見失いながら、それでも俳句の《奥深さ》=《手前深さ》を感じながら。

だから、まだ、手前にいる。そこが俳句の《奥》のような気がするから。

星ひとつ流るる電子レンジかな  西原天気
          
 (「マンホール」『けむり』西田書店・2011年 所収)

2016年11月8日火曜日

フシギな短詩56[雪舟えま]/柳本々々




  寄り弁をやさしく直す箸 きみは何でもできるのにここにいる  雪舟えま


「寄り弁をやさしく直す」という〈ポジション修正〉の歌なのだが、この歌集『たんぽるぽる』にはもうひとつこんな〈ポジション修正〉の歌がある。

  なめらかにちんちんの位置なおした手あなたの過去のすべてがあなた  雪舟えま

この歌もまた〈ポジション修正〉の歌だ。

虚心に考えてみよう。なぜ、〈ポジショニング〉する必要があるのだろう。

それは、〈固定〉されていないからだ。

  「ちんちんが揺れてたさまを思い出せ春風にさみしくなるときは」  雪舟えま

この歌集『たんぽるぽる』のタイトル自体も「ぽる/ぽる」と「ぽる」がゆらゆらゆれている残像のようにもみえるが、ゆれるものは、位置を直さなければいけない。〈ゆれ〉に対処しなければならない。そう。

わたしはこの歌集のひとつのコンセプトとして〈ゆれ〉への対処があるのではないかとおもう。

「きみは何でもできるのにここにい」て〈ゆれ〉へ対処していること。「あなたの過去のすべて」を所持したうえでの〈ゆれ〉の修正。〈ゆれ〉はつねに「何でも」「すべて」という〈生の全体性〉を想起させる。その〈生の全体性〉のなかで〈ゆれ〉に対処するのが〈部分〉としての個人的・実存的な生である。しかも〈わたし〉の目の前にしかいない〈あなた〉の。

もちろん、「寄り弁」も「ちんちん」も部分的であり、たった〈ひとつ〉しかないものだ。それらは〈全体性〉をもちえない。〈世界の寄り弁〉や〈世界のちんちん〉などないのだから。

  たんぽぽがたんぽるぽるになったよう姓が変わったあとの世界は  雪舟えま

「たんぽぽ」は「たんぽるぽる」として〈ゆれ〉はじめた。もちろんここでは「世界」という〈生の全体性〉を指し示す言葉がある。しかし「寄り弁」や「ちんちん」と違って変わった「姓」は容易には〈修正〉しがたいものだ。

「きみ」や「あなた」は〈位置なおし〉ができるのに〈わたし〉は〈位置なおし〉ができないかもしれない。〈わたし〉にはできないのに、「あなた」たちはやっている。そういう〈ポジショニング〉をかんたんに全体性のもとにしてしまえる「あなた」たちの〈ずるさ〉もこの歌集は内包しているかもしれない。「あなた」たちは、〈わたし〉に対して、ときに、「いつか何かに」とかんたんに言えてしまうくらい、アバウトで〈てきとー〉である、と。

  君がもう眼鏡いらなくなるようにいつか何かにおれはなります  雪舟えま

          (「魔物のように幸せに」『たんぽるぽる』短歌研究社・2011年 所収)

2016年11月4日金曜日

フシギな短詩55[石部明]/柳本々々



  黄昏の体かがんで蝶を吐く  石部明



庵野秀明/樋口真嗣の映画『シン・ゴジラ』を観ていてとても印象的だったのが、ゴジラが身をかがめて嘔吐するように熱線を吐くシーンだ。今までのゴジラ映画は熱線をカタルシスのようにどぱーっと噴射していたのに対し、今回のシン・ゴジラは身をかがめ大地に向かって吐瀉物のように熱線を吐いていた。そこにカタルシスはなかった。

では、なにがあったのか。それは、〈痛々しさ〉である。

嘔吐というのは、〈痛み〉につながっている。なにかを排出していくにもかかわらずその吐いている身体そのものが感覚される実存的な痛み。それが〈嘔吐〉ではないか。

わたしは嘔吐するように熱線を口から吐瀉しつづけるゴジラをみながら、ああこれは石部さんの句そのものではないかと思った。「黄昏の体かがんで蝶を吐く」。

〈嘔吐〉は身体の痛みを導入することによって、わたしの痛みだけでなく、あなたへの痛みも問いかける。その意味で、嘔吐は、わたしの「痙攣」からあなたへの「闘争」にもつながっていく。

〈吐き気〉を哲学的に考察したメニングハウスは次のように述べている。

  吐き気を初めて理論化した一人であるカントは、吐き気を「強烈な生命感覚」と呼んだ。……吐き気とは、非常事態にして例外状態であり、同化しえない異他的なものにたいする自己防衛の切迫した危機であり、文字どおりの意味で生きるか死ぬかに関わる痙攣にして闘争である。 

  (メニングハウス、竹峰義和・知野ゆり・由比俊行訳『吐き気 ある強烈な感覚の理論と歴史』法政大学出版局、2010年)

〈吐き気〉とは、「非常事態にして例外状態」であり、〈外部〉に違和を感じたこのわたしの「生きるか死ぬか」の「痙攣にして闘争」である。

東京の中心地、皇居の近くにおいて、視覚的にも美しいスペクタクルのような光の熱線とは裏腹にゴジラはまるで〈嘔吐〉するかのように熱線を吐瀉しつづけた。そこにはゴジラ自身の〈外部〉に対する違和としての「生きるか死ぬかに関わる痙攣にして闘争」があったのではないか。そして石部さんの句もそうだ。語り手は「かがんで蝶を吐」いている。美しいスペクタクルのような蝶を吐きながら、語り手は「生きるか死ぬかに関わる痙攣にして闘争」をしている。

石部さんの句集には、〈嘔吐〉をめぐる句が多い。少しまとめてみよう。

  雑踏のひとり振り向き滝を吐く  石部明

  わが喉を激しく人の出入りせり  〃

  身体から砂吐く月のあかるさに  〃

ここで石部さんの句で大事なことは、語り手が〈嘔吐〉するたびに、自らを取り巻いている〈場面(シーン)〉を強く意識していることだ。「雑踏のひとり」という交通的場面、「わが喉」が「人の出入り」する空間となる場面、「月のあかる」く光に満ちた場面。

嘔吐や吐き気はわたしからわたしに回収されていくものではなく、たとえそれが排出物であったとしても、わたしから〈外〉へとアクセスされ、場面を想起させるなにかなのだ。

  サルトルが経験したように、名前が事物から剥離し始めたとき、言葉は自分の身体からも自立し始めていたので、そのとき体験された名づけようもない嘔吐を催す存在は、わたしを事物や他者から隔てる無であるばかりでなく、わたしの言葉、つまりわたしの自己意識をわたしの身体からも隔てる、ヴァレリイのいう非存在の体験であったともいえる。
   (近藤耕人「身体と言葉のコギト」『ユリイカ』1982年11月)

「名づけようもない嘔吐」は「わたし」を「わたしの自己意識」からも遠ざける。だから「嘔吐」はわたしからわたしに過不足なく回収されない。それは吐瀉物がそのまま身体に戻らないように、「嘔吐」によってわたしたちは〈わたし〉からも疎外された「非存在」になる。しかしそのとき逆説的にわたしたちは〈わたし〉の枠組みを抜けだし、〈外〉とそれまでとは違ったやりかたでアクセスするきっかけを見いだすのではないか。

  嘔吐(もしわれ影でない何かなら)  小津夜景


   (「天蓋に埋もれる家」『フラワーズ・カンフー』ふらんす堂、2016年)

『シン・ゴジラ』で映画の物語が転回しはじめるのは、ゴジラの〈嘔吐〉によってである。熱線を吐くシーンでは、《わたしがこの世界で死んでも誰もわたしのことを知らないだろう》という趣旨の歌「Who will know」が流れる。この「わたし」とは「ゴジラ」のことではないか。だれもゴジラを理解しない。理解できない。ゴジラは嘔吐する。ゴジラ自身もゴジラのことを理解しない。

だれが《あなた》のことを知るのか。

〈嘔吐〉によってゴジラはゴジラから疎外され、わたしたちもわたしたちから疎外される。でもそこからはじめてふたたびわたしたちの「痙攣にして闘争」がはじまるのではないか。

嘔吐して、疎外されて、はじめて疎外(嘔吐)するわたしは疎外(嘔吐)されたわたしと「殴りあ」えるように、おもうのだ。「オルガン」と「すすき」という異者同士になって。

  オルガンとすすきになって殴りあう  石部明


          (「遊魔系」『セレクション柳人3 石部明集』邑書林・2006年 所収)




2016年11月3日木曜日

フシギな短詩54[小津夜景]/柳本々々




  サイダーをほぐす形状記憶の手  小津夜景


いや、こんなふうに考えてみよう。どうして語り手は「サイダーをほぐす」ことができたのかを。

サイダーは飲み物なのだからまぜることはできても「ほぐす」ことはできない。「もつれてかたまったものをとく」ことが「ほぐす」なのだから、「サイダー」はほぐせない。でもひとつだけ方法がある。

この「サイダー」が〈ゼリー〉である場合だ。その場合、「ほぐす」ことは可能かもしれない。

注意したいのは、その「ほぐ」している「手」が「形状記憶の手」である点だ。つまり、「形状記憶」ができる「手」であるために、「サイダー」を〈ゼリー〉のような「記憶」としてあつかうことができるようなのだ。

小津夜景さんの俳句にあっては、記憶とゼリーは関係しあっているらしい。こんな句を引いてみよう。

  ぷろぺらのぷるんぷるんと花の宵  小津夜景

もちろん「ぷろぺら」はゼリーのように「ぷるんぷるん」とはしない。でも、この「ぷろぺら」がひらがな表記である点に注意したい。この「ぷろぺら」は「プロペラ」ではない。主観のなかでまだ客観化されない「ぷろぺら」なのだ。まだ語り手の主観にあって「ぷるんぷるん」としている「形状」化されないゼリーのような「ぷろぺら」。「ほぐ」されつつある「ぷろぺら」だ。

ゼリーのようなぷるぷるした記憶に満ちた句集。この句集の一番目に置かれた句をみてみよう。この句集はどんな句ではじまったのか。

  あたたかなたぶららさなり雨のふる  小津夜景

「たぶららさ」はタブラ・ラサであり、白紙のようななにもまだ書き込まれていない心という意味のことばだ。しかしそうした無垢な意識そのものが「たぶららさ」という主観のなかにひらがな表記として《すでに書き込まれた》ものとして存在しているのがこの句の特徴である。しかも「あたたか」い。「雨のふる」も濡れることの《書き込み》としてみてもいいかもしれない。

つまりこの句集は、白紙状態のまだ書き込まれていないフォーマット=初期化そのものがすでに《書き込まれた》ものとして存在することから始まっているのだ。

わたしたちの意識はどんなに始原的に遡ってもすでに《書き込まれている》。それがこの句集の《態度》ではないか。だからサイダーもほぐせるし、ぷろぺらもぷるんぷるんなのではないか。それはすでに《書き込まれた》世界だから。わたしたちは白紙に、無に、ゼロになることはできない。わたしたちの意識は遡行すればするほど、痕跡化していく。

  失われたものが要求するのは、記憶され、かなえられることではなく、わたしたちのなかに忘れられたものとして、失われたものとして残ることである。ただそのことによってのみ忘れえぬものになるのだから。
  (アガンベン、上村忠男・堤康徳訳『涜神』月曜社、2005年)

「忘れられたもの」そのものが痕跡化すること。しかしその痕跡は決して「かなえられ」ることはないこと。それはゼリーのようななにものにもなりえない〈記憶〉である。わたしたちが生きることは、叶えることのできない「ぷるんぷるん」を引き受けつづけることなのだ。

だから、純粋にはなれない。なにも捨てることもできない。忘れることもできない。叶うこともない。ぷるんぷるんは切迫する。そしてぷるんぷるんは、たぶん、そのたびごとに、〈がまんができない〉という。ぷるんぷるんはだだをこねる。わたしたちはぷるんぷるんと向き合う。なんとかしてやろう、と思う。がまんができずになにかになりたそうな「ぷるんぷるん」をわたしたちは抱き寄せる。わたしは。いや。わたしじゃなくて、句がそう言っている。

  誤字となるすんでの水を抱き寄せぬ  小津夜景




          (「古い頭部のある棲み家」『フラワーズ・カンフー』ふらんす堂・2016年 所収)