2016年10月28日金曜日

フシギな短詩53[岩田多佳子]/柳本々々


  逃亡をはかる親指のいっぽん  岩田多佳子
精神分析家の向井雅明さんが思想家のジャック・ラカンを解説したこんなことを言っている。

  心理学では……脳の発達段階に到達し、内的に成立した自我が、自分のイメージを外部の他者の間に混じって存在しているものとして鏡像を認める…。
  それに対して精神分析的解釈では、そもそも人間には内的な自我に相当するものはなく、その代わりにあるのは自らの身体の寸断されたイメージでしかない。
 
  (向井雅明「鏡と時間」『ラカン入門』ちくま学芸文庫、2016年)
興味深いのは、「心理学」では「自我」という自らの十全なイメージがあるのに対し、「精神分析的解釈」では「自らの身体の寸断されたイメージ」しかないということだ。精神分析的に言えば、わたしたちの身体はばらばらのものとしてある。

わたしは現代川柳というのは人間の心を描くという「心理学的」なのではなくて、寸断された身体を描くという「精神分析的」なのじゃないか、とときどき思っていた。たとえば掲句では「親指のいっぽん」が「逃亡をはかる」。これはばらばらな身体のイメージだ。心理学的自我の十全な自己イメージがあるならば、「親指」が「いっぽん」だけ「逃亡」する必要はない。

集中には他にこんな身体句もある。

  両腕を一年干したままの窓  岩田多佳子
「両腕」を「一年干」すというのは身体がばらばらのまま時間が過ぎる風景そのものでもある。
先ほど引用した向井さんは続けてこんなことを言っていた。

  外部の鏡のなかのイメージは自分の身体を全体的な統一したものとして見せてくれ、子どもはそれを自分の自我の起源として取り入れるのだ。… 
  …ラカンによれば外部のイメージが自我として私をとらえる。すなわち、自我は人間の外部のイメージを基盤にしているのだ。ラカンはこれを疎外と呼んでいる。なぜなら人間はそれによって外部のイメージに取り込まれ、そのイメージを自分自身と思いこむからである。
   
(向井雅明、前掲)
身体がばらばらな人間が自我を得るにはどうしたらいいかというと、鏡のなかの自分をみてそこから身体がばらばらでない自分を見いだせばいい。ところがそれが自分が鏡という外側にしかないことなので、〈疎外〉なのだとラカンは言っている。わたしたちの自我は鏡という外側にあるのだ。
わたしたちの内部は外部にあるのかもしれないということ。それもまた現代川柳が得意とすることであるように思う。たとえば岩田さんのこんな句。

  仏壇の前髪一センチ切りに  岩田多佳子 
  仁淀川のわき腹ふかくシップ薬  〃 
 
川柳の世界においては、わたしたちの身体がばらばらになり逃走を繰り返す一方で、むしろ世界の方に実質的な身体があるようなのだ。「仏壇の前髪」や「仁淀川のわき腹」。前髪を一センチ切ったり、シップ薬を貼ったりするのはそれら〈身体〉がこれからも継続することをあらわしている。すなわち、〈生活〉しているわけだ。

こんなふうに川柳の世界では、人間はばらばらにこわれていく一方で、外側の世界はいきいきしているという非心理学的精神分析的風景が垣間見える。わたしはそれを、すごく、フシギに思う。「フシギな短詩」を連載していて久々にフシギと言ったような気がするが、ほんとうに不思議に思う。
川柳の世界ではどうしてこんなに世界のほうがいきいきするんだろう。

かつてフランツ・カフカはこんなことを言っていた。

  お前と世界のたたかいでは、世界に味方せよーー。
はじめてこの言葉を眼にしたとき、わたしは、いったいなにを言っているんだと思った。それじゃあ、〈鳥かごが鳥を探しにいくようなもんじゃないか〉と。

でも、今なら、わかる。現代川柳は、わたしと世界のたたかいを描くとき、世界に味方する。わたしをばらばらにし、世界をいきいきとさせるのだ。だから、今なら、わかる。そしてその意味において、いまだ、わたしは、まったくわからないのだ。にもかかわらず、

  不意にきて肩を叩いていく四隅  岩田多佳子
          
(「林の章」『ステンレスの木』あざみエージェント・2016年 所収)


2016年10月25日火曜日

フシギな短詩52[村上春樹]/柳本々々



  「ご存じでしょうか。私の好きな短歌にこういうものがあります。『白鳥は哀しからずや/空の青/海のあをにも染まずただよふ』、なんという美しい短歌でしょう、岡田さん」  村上春樹
村上春樹に「青が消える(Losing Blue)」(1992年)という短編がある。「アイロンをかけているときに、青が消えた。」の一文ではじまり、どんどん世界から青色が消滅していく物語だ。物語の時間は「1999年の大晦日の夜」の「二十世紀最後の夜」に設定されている。だからこの短編が掲載された1992年の時点からすれば〈ちょっとした未来〉だ。

青色が好きだった「僕」は「青の消滅」していくなかで公衆電話から「内閣総理府広報室」に電話をかける。NECが新しく作り上げた「コンピューター・システム」としての「総理大臣」が出て「総理大臣」は「僕」に若山牧水の短歌を引用しながら答えてくれる。

  「青はまことに美しい色であります、岡田さん」と総理大臣の声が静かに言った。「ご存じでしょうか。私の好きな短歌にこういうものがあります。『白鳥は哀しからずや/空の青/海のあをにも染まずただよふ』、なんという美しい短歌でしょう、岡田さん」 
  「ねえ総理大臣、青がなくなってしまったんですよ」と僕は電話に向けて怒鳴った。 
  「かたちのあるものは必ずなくなるのです、岡田さん」と総理大臣は言い聞かせるように僕に言った。「それが歴史なのですよ、岡田さん。好き嫌いに関係なく歴史は進むのです」
    
(村上春樹「青が消える(Losing Blue)」『村上春樹全作品1990~2000①』2002年、講談社)

この物語では「青」をめぐる事柄が「政治」や「歴史」をめぐる〈大きな物語〉として語られる。「青はいったいどうしたんですか?」と「僕」が「白い駅員」に問いかけても「駅員」は「政治のことは私に聞かないでください」と「僕」をつっぱねる。「僕」は「青」が大好き(僕の〈小さな物語〉)なのに、牧水の歌の「白鳥」=〈小さな物語〉のようにその「青」=〈大きな物語(空の青/海のあを=世界の青)〉から排除されている(「総理大臣」が「私の好きな/美しい短歌」として「好き」「美しい」という〈小さな物語〉の枠組みで「青の消滅」=〈大きな物語〉を語ろうとしていることに注意したい。「総理大臣」とは〈小さな物語〉を〈大きな物語〉にすり替える人間なのかもしれない)。

短歌においてはちょっと不思議な〈色の系譜〉のようなものがある。思いつく限りで任意に引用してみよう。

  赤、橙、黄、緑、青、藍、紫、きらきらとラインマーカーまみれの聖書  穂村弘
   (『ラインマーカーズ』小学館、2003年)

  緑でも赤でも黄色でも茶色でも青でも黒でもない鬼  伊舎堂仁
   (『新鋭短歌シリーズ18 トントングラム』書肆侃侃房、2014年)

 赤青黄緑橙茶紫桃黒柳徹子の部屋着  木下龍也
   (『きみを嫌いな奴はクズだよ』書肆侃侃房、2016年)

〈大きな物語〉である「聖書」は「ラインマーカー」のカラーによって個人にとって「きらきら」した〈小さな物語〉に〈解析〉される。どのような色からもはじき出された「鬼」は〈大きな物語〉にも〈小さな物語〉にも回収されず「鬼」としてたたずむ。毒々しい極彩色の「徹子」の部屋着は、「徹子」がみずから主体的に選び取った〈小さな物語〉としての「部屋着」というよりは、「徹子」が非主体的・超越的に「部屋着」を選び取らされているような〈大きな主体〉を感じさせる。

牧水の〈色をめぐる歌〉を〈大きな物語=空の青/海のあを〉に排除されてある〈小さな物語=白鳥〉と春樹の短編に沿って読んでみるならば、〈色の短歌〉とはそうした〈大きな物語〉と〈小さな物語〉がせめぎあう構造的葛藤の場として読むことができるかもしれない(そこからなぜ村上春樹『ノルウェイの森』の「緑」は「緑」だったのかも考えることができるかもしれない。「緑」の言葉を思い出そう。「私ね、ミドリっていう名前なの。それなのに全然緑色が似合わないの。変でしょ?」)。

その意味では、短歌になぜ〈きらきら〉や〈光〉が頻出するのかもちょっと考えてみたいところだ。

  キラキラに撃たれてやばい 終電で美しが丘に帰れなくなる  佐藤りえ
  (『フラジャイル』風媒舎、2003年)

  秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは  堂園昌彦
   (『やがて秋茄子へと到る』港の人、2013年)

〈きらきら〉や〈光〉とは色に還元することができない〈なにか〉だからだ。それは個人的に現出した〈きらきら〉だが、どこか超越性も同時に感じさせている。これら二首が「キラキラ」や「光」と共に「撃たれて」「死ぬ」という〈大きな力〉を感じさせながらも、「終電」「秋茄子を両手に乗せて」という〈小さな物語〉をそこに布置していくことも興味深い。そういう〈小さな物語〉と〈大きな物語〉がぶつかり合いスパークした場所に〈きらきら/光〉はある。

〈大きな物語〉と〈小さな物語〉のはざまを「染まずただよふ」こと。色(カラー)を意識してしまった人間はその色彩的実存を引き受けることになる。多くの村上春樹の主人公「僕」がそうであるように青が消滅していく世界の「僕」もまた「わけのわからないままどこまでも通りを歩い」ていく。

「わけのわからない」状態は、〈大きな物語〉にも〈小さな物語〉にも回収されず「染まずただよふ」ことだ。言わば「やれやれ」的主体。「やがて町中の時計が十二時を打っ」て世界は2000年に踏み込んでいく。「みんな」は「一斉に歓声をあげ、歌を歌ったり、物を投げたり、抱き合ったり、シャンパンを抜いたりした。新しいミレニアムがやってきたのだ。誰も消えた青のことなんか気にしてはいなかった」。

  《でも青がないんだ》、と僕は小さな声で言った。《そしてそれは僕が好きな色だったのだ》。
         
 (「青が消える(Losing Blue)」『村上春樹全作品1990~2000①』講談社・2002年 所収)

2016年10月21日金曜日

フシギな短詩51[斉藤斎藤]/柳本々々


  船のなかでは手紙を書いて星に降りたら歩くしかないように歩いた  斉藤斎藤
昔、小高賢さん編集の『現代の歌人140』(新書館、2009年)でこの一首に出会った。「歩くしかないように歩いた」が印象的でずっと覚えていたのだが、今回斉藤斎藤さんの新刊の歌集『人の道、死ぬと町』で連作としてこの一首に出会い、この歌が「肉なわけがない」と題された連作内に収められた一首であることを知った。

この連作「肉なわけがない」から連作を通してあらためて今この歌に〈出会い直し〉たとしたらどういう歌として受け取ることができるのだろう。

この連作には「USJに行って帰った」と詞書のついたこんな歌がある。

  ここにいてはたらくことのよろこびが時給の安さに負けているのだ  斉藤斎藤
「はたらくことのよろこび」という価値観は「時給の安さ」という個人がどう抗おうとも動かしがたい社会が規定した〈枠組み〉に抑圧されている。こうした規定した〈枠組み〉にこの連作は非常に敏感だ。

  図書館で借りた死体の写真集をめくった指でぬぐう目頭  斉藤斎藤 
  左側の扉がひらき人のながれに途切れないよう降りるつづいて  〃 
  「肉なわけがないでしょうこの価格で」とカツは居直るカレーまみれで  〃

「図書館で借りた死体の写真集をめくった」に規定される「指」、「左側の」ひらいた「扉」にできた「人のながれ」に規定された「降りる」、「この価格」に規定された「肉なわけがない」「カツ」。

「指」も「降りる」も「カツ」もナチュラルに無-環境のなかふわふわと浮いているのではなく、あらかじめ規定されてから生まれ出た〈なにか〉である。そしてその〈なにか〉をわたしたちはいったん規定された上で受け取る。その規定に対する感受性を連作は何度も繰り返す。

つまりこの連作内の短歌は、「歩くしかないように歩い」ている規定された語り手の短歌なのである。それらはすでに規定されたものであり、「歩くしかないように歩」くしかないものなのだ。

じゃあ、どうすればいいのだろうか。規定されるしかないのか。

ここで大事だと思うのは連作タイトルの「肉なわけがない」である。「肉なわけがない」という規定に対する感受性。規定はくつがえせないかもしれないが、しかしそれに敏感になることはできる。「肉なわけがない」と。

この歌集には多くの散文が収められているがこんな斉藤さんの一節がある。ちょっと長くなるが斉藤さんの短歌観を率直にあらわしているように思うので、引用してみよう。

  短歌は短い。三十一文字だから、ボロが出る前に書き終われてしまう。一定の技術があれば、ほんとうに思ってないことでも、ほんとうらしく書けてしまうものだ。一首一首をそれなりに仕上げることは、実はそれほど難しくはない。 
  だから大切なのは、何を書くかではなく、何を書かないかだ。 
  歌詠みが歌人となるためには、それなりに書けてしまう歌を、文体を、捨てる作業が必要だ。他人に書ける歌は他人にまかせ、自分がもっとも力を発揮できる文体とモチーフを突き詰めてゆくことで、ひとりの歌人が誕生する。 
   (斉藤斎藤「棺、「棺」」『人の道、死ぬと町』短歌研究社、2016年)
この斉藤さんの言葉を私なりに先ほどの連作の歌ともあわせた上で言い換えてみるならば、これはこんなふうに言っているのではないか。《じぶんで規定をつくりなさい》と。押しつけられた規定に敏感になり、その規定を意識化しながら、みずからの規定を生みだし、その自己規定にしたがいながら、「歩くしかないように歩」くこと。

わたしはふと岡井隆さんが言っていたこんな言葉を思い出した。

  定型の思想とは、まず第一に、詩型に関する《契約》の思想であるとかんがえられる。 
  定型詩人は、最初の読者である自己を含めた想定上の読者との間に、詩という、言語の継時的展開に関する、一つの契約を結ぶ。 
  その定型詩によっている限り、この契約は破られてはならない。 
  契約は、一面において、自由の制限であり拘束であるが、同時にそれが、自在感を生むようなよろこばしい制限になるのである。 
   (岡井隆『短詩型文学論』紀伊國屋書店、2007年)
定型詩を書くものは、定型詩に対して「一つの契約を結ぶ」。

掲出歌では語り手が「船のなかで」「手紙を書いて」いたが、この「船」を定型詩と見ることもできるのかもしれない。その「船」のなかで語り手は「手紙を書いて」いる。定型(船)のなかにおける他者(手紙)への〈書くこと〉。それは「星」という規定された環境と結びつき、「歩くしかないように歩」く〈契約〉を生み出す。

かもしれない。

この歌集『人の道、死ぬと町』はタイトルの通りに、さまざまな〈死〉に満ち満ちている。そしてその〈死〉のなかには、「いずれ私の震災がやってくる」(「私の当事者は私だけ、しかし」)と書かれているように、やがてくる〈わたしの《死》〉も折り込まれている。

「死ぬと町」。「町」というひとびとが織りなす共同体はすでに「死」によって規定されている。だがそれは「死」ではなく「死ぬ」なのだから、同時に、「生きる」でもある。ひとは「生き」ないと「死ね」ないのだから。

生きるということは、生きるよりも前に「生きる」という規定を感受することなのだろうか。規定。たとえば、低いほうにすこしながれて凍ってる。わからないけれど。自由でないまなざしの、環境の規定。それは。そのなかの、生きる。わからないけれど。でも、生きるは人生とは違うから。その生きるもまた「本業」として規定されてあること。それは。

  低いほうにすこしながれて凍ってる わたしの本業は生きること  斉藤斎藤
         
 (「肉なわけがない」『人の道、死ぬと町』短歌研究社・2016年 所収)

2016年10月18日火曜日

フシギな短詩50[ミムラ]/柳本々々


  チッという音の棘だけ抜けなくて舌打ち女性を枕に浮かべ  ミムラ
ミムラさんの連作「記憶を浚うとふと底にざらつく、日々の澱」は音にあふれる連作である。

  パサついた昨日のパンに噛りつく再燃涙に珈琲まずい  ミムラ 
  雨受けて川面に雫さんざめく合羽のフードが音響装置  〃
  米散った深夜のキッチン立ち尽くす五合分増す疲れに沈み  〃

連作タイトルにあるように「日々の澱」のような〈ものうさ〉のトーンに連作が支配されるなか、その連作内を象徴として貫いていくのが〈音響〉である。

連作内に奏でられる音響。「チッ」という舌打ち、「パサついたパン」、「さんざめく」雨と「合羽のフード」の「音響装置」、「五合分」の「米」がキッチンに落ちるときの〈響き〉。連作タイトルにもそもそも「ざらつく」という「ザラ」という音が響いている。

この連作内を貫いていく〈音・響〉はいったいなんなのだろう。

ヒントになるのはタイトルにある「記憶」である。どうも「音」は「記憶」と関わりがあるらしいのだ。
掲出歌をみてみよう。「チッという音の棘」と語り手は表現している。「音」ではなく、「音の棘」だ。つまりそれは語り手に刺さるものであり、抜かなければ傷つくものである。なじむものではなく、語り手にとって「音」は異物なのだ。しかも、痛い。「抜けなくて」というのは「(抜こうとしたけれど)抜けなくて」という諦めでもある。その「音の棘」を介して「枕」もとに「舌打ち女性」がやってくる。もちろんそれは「記憶」としてやってくるのだ。

結論を、言おう。〈音〉とは、わたしがコントロールできない〈記憶〉なのだ。ひとは思い出したいことを思い出して、思い出したくないことは思い出したくないものとして抑圧するかもしれない。でも〈音〉とセットになった記憶はちがう。「チッ」という音が響いたしゅんかん、わたしは「舌打ち女性」を思い出すのだ。というよりも、記憶がわたしに思い出させる。わたしの意志=意思に関係なく。

〈音〉とはわたしが制御できないものなのだ。眼を閉じることはできるが、耳を閉じることはできない。だからこそ、音は「日々の澱」のように「記憶」の「底」に「ざらつ」きとして溜まっていく。

短歌では一般に〈音のきもちよさ〉が追求される。〈舌のここちよさ〉という評が出てくるのは短歌というジャンルならでは、だと思う。しかし短歌を〈音のきもちわるさ〉からも考えてみたいと思ったりもする。短歌は〈音のきもちよさ〉だけでなく、〈音のきもちわるさ〉も考えることができうるジャンルだともおもうから。

その端緒が、このミムラさんの連作には、あるようにおもう。音と、記憶と、身体と、生きることの関係。なにげなくわたしたちが口にしてなおざりにしている音と体と記憶の「日々」の内実とは、実はそういったものではないのか。

〈きもちよさ〉だけでなく、〈きもちわるさ〉に敏感であるためにはどうしたらよいのか。そんなことを、いま、もう、この文章が終わっていくんだなと思いながらも、終わっていくきもちよさをなんとかきもちわるさにできないかなとかんがえながら、考えている。



          (「記憶を浚うとふと底にざらつく、日々の澱」『ユリイカ』2016年8月 所収)

2016年10月14日金曜日

フシギな短詩49[壇蜜]/柳本々々


ノックあり 扉開けども 姿なく ふと爪先に 瀕死のカナブン  壇蜜
壇蜜さんの連作「世田谷の善き友たち」には「友たち」と語られながらも奇異な点にすぐに気がつく。〈人〉がいっさい出てこないのだ。

  まどろみに 猫の背中を ついと撫で 産毛の湿りで 雨かと悟る  壇蜜 
  何処から 逃れてきたのか 松の枝に カナリヤ止まる 宵の境内  〃

「カナブン」や「猫」、「カナリヤ」(他に連作内には「小魚」「蚊」が出てくる)。この連作において「友」というのは明らかに動物や虫、鳥、魚などの〈生物〉のことである。語り手の〈わたし〉以外にこの連作に〈人間〉が出てくることはない。

ここで少しこれら〈生物〉たちがどのような働きをこの連作でなしているのかに注意をむけてみよう。掲出歌をみてほしい。

語り手が「ノック」で「扉」を「開け」た先に見たのは「(人間の)姿」ではなくて、「瀕死のカナブン」だった。ここで「カナブン」は語り手に扉をあけさせる働きをしている。内と外の境界に連れ出したのは「カナブン」なのだ。

この観点から他に引用した短歌もみてみよう。「猫の背中を」「撫で」た語り手は「産毛の湿りで」「雨かと悟る」。つまり語り手はいま、雨が降る前/後の境界にたちあっている、「猫」を介して。

「宵の境内」に「何処から」か「逃れてきた」「カナリヤ」も内と外の境界を破砕する機能を有するだろう。「松/待つ」(掛け詞)の枝に〈外〉からやってきた「カナリア」が止まることにより語り手の〈待ちつづける〉閉鎖されたシステムは崩れるかもしれない。「境内」というのは文字通り〈《境》界の《内》側〉という意味だ。「境内」=〈内側〉に外部をもたらす「カナリア」。

こうやって考えてみると、これら〈生物〉たちが語り手にとってなぜ「善き友たち」なのかわかってくるはずだ。それは〈内部〉にとどまる語り手に〈外部〉を運んでくるからだ。その意味で語り手にとっては「友」なのである。

ここには〈友人〉とはいったいなんなのかという端的な定義がある。〈友〉とは、そのひとがどういう人間なのか、〈だれ〉なのかが問題なのではない。それは、〈人間〉でなくてもいいのだ。〈だれ〉でもかまわない。〈生物〉でも〈本〉でもいい。問題は、「友」が「わたし」に〈外部〉をもってやってくるということなのだ。内部で待ちつづけるわたしに「外」を端的に指し示してくれること。それが「友」である。それをわたしは壇蜜さんの連作から学んだ。

そういえばキルケゴールはこんなふうに言っていた。「私の通信は友情によって運ばれてゆく」と。
「友」とは、わたしを「外」に運んでくれるひとのことだ。ともだちってなんですか、ときかれたら、わたしはこれからは自信をもって、そう、答えようと、おもう。

          (「世田谷の善き友たち」『ユリイカ』2016年8月 所収)

2016年10月11日火曜日

フシギな短詩48[ながや宏高]/柳本々々


  玄関に靴を浮かべて沈まないように祈ってから乗りこんだ  ながや宏高

どうして語り手は「沈」むかもしれないと思ったのか。「祈っ」たのか。

この問いから、はじめてみよう。

歌人の光森裕樹さんがこのながやさんの連作「水性ファンタジー」を「水に関する歌で揃えた〈水しばり〉の一連である」(「境界の表面張力」『『かばん』別冊・新人特集号 Vol.6』)と解説しているように、このながやさんの連作は〈水〉にあふれている。

ここで〈水〉のあるひとつの作用を思い出してみよう。それは〈不可逆〉を持ち込む点である。たとえば、なんでもいい、雨に濡れた本のことを考えてみよう。本は乾かせることができるかもしれないが、しかし《元の状態に戻ることはない》。

このながやさんの連作は「水性ファンタジー」の表題のとおり、全編水に満ちている。その意味では以前取り上げた野間幸恵さんの水をめぐる俳句の雰囲気にも似ている(拙稿「フシギな短詩18[野間幸恵]」)。水をとおして世界のそこかしこを思いがけないかたちで移動していく。しかし決定的なのは、その水の移動とともに、水の不可逆がセットで語られていくことだ。

  破裂した水ふうせんの結び目は悪魔のへその緒じゃありません  ながや宏高

  スライムの死体かよって言い合ったアイスキャンディー溶ける路上で  〃

  テーブルにこぼしたダージリンティーは「夕日に染まる湖」役に  〃

「破裂した水ふうせん」、路上で溶けた「アイスキャンディー」、「テーブルにこぼしたダージリンティー」。どれも《もう元に戻らない水》である。

連作の雰囲気から掲出歌を読むとするならば、語り手はこの《水と不可逆》の雰囲気のなかで、玄関に並んだ靴を履こうとしている。いや、「履く」ではなく、「乗りこ」もうとしている。靴は、語り手にとっては船だからだ。だから、「沈」む可能性があり、「沈」めば不可逆として二度と浮かび上がらない可能性も感じ取っている。それが連作の《雰囲気》のなかにおける「靴」のありかただ。

語り手が「沈」むかもしれない「靴」に「祈」りながら「乗りこんだ」のはそういうわけだ。この連作という不可逆の船そのものに語り手は乗っていたから。

この「水性ファンタジー」における水は明らかに不可逆の水である。その意味で、光森裕樹さんがこの連作を「境界への意識」から読み解いていたことに注意したい。不可逆とは、境界をこえたら、二度と戻ってはこられない境界線だからだ。

この連作の水は、このわたしに覚悟を要請してくる水だ。境界を越えるのか、越えないのかの、覚悟を。おまえはどうするのか、と。

  対岸で手をふっている人がいるこちら側には僕しかいない  ながや宏高

前回の笹井宏之さんもそうだったが、もしかすると短歌にはいかに不可逆を、境界を、越えるかが、つねに賭けられているのかもしれない。短歌の性質として。はじまったら《一方通行的に》終わらなければいけない定型詩の宿命として。

短歌とは不可逆をひきうける覚悟であること。或いはその覚悟への予期と準備と恐怖であること。「沈まないように祈」ること。たとえば穂村さんの予期と準備と恐怖の歌。

  「凍る、燃える、凍る、燃える」と占いの花びら毟る宇宙飛行士  穂村弘
   (『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』小学館、2001年)


          (「水性ファンタジー」『『かばん』別冊・新人特集号 Vol.6』2015年 所収)

2016年10月7日金曜日

フシギな短詩47[笹井宏之]/柳本々々


  

えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい  笹井宏之


言葉を、手に入れるってどういうことなんだろう。ことば、ではなくて、言葉を。

笹井さんのこの歌がいろんな読み方ができることはわかる。わかるけれど、今回はこの歌を〈がまん〉という観点から読んでみたい。

この歌の構造に着目してみよう。

すぐに気がつくのは、「えーえんとくちから」というひらがなの文がまったく同じかたちで二度反復されたあとに「永遠解く力を下さい」と漢字分節の文で終わることだ。つまりこの歌では、「えーえんとくちからえーえんとくちから/永遠解く力を下さい」という〈ひらがな〉から〈漢字分節〉へのとつぜんの移行に決定的な〈転機〉がある。

わたしはそれをこんなふうに考えてみたいと思う。

〈ひらがな〉の世界に、〈がまん〉ができなくなったこと。

〈ひらがな〉の世界に居続けることに〈がまん〉ができなくなったら、耐えられなくなったから、語り手は〈漢字分節〉の世界に移行した。

〈漢字分節〉の世界とは、意味分節の世界である。みてみればわかるように「えーえんとくちから」の表記では、「永遠解く力」なのか「永遠と口から」なのか「『えーえん』と口から」なのか意味分節は揺れている。でも漢字表記でみれば、意味は一目瞭然である。ひとめでわかるけれど、そのせいで、〈ゆれ〉はなくなってしまった。

そのことを少し図解してみよう。

 えーえんとくちから=えーえんとくちから
(鏡像イメージの融合する世界=赤ちゃんの世界=想像界)
          ↓
      永遠解く力を下さい
(言葉/意味の分節される世界=大人の世界=象徴界)
「えーえんとくちから」は「えーえんとくちから」と鏡のようなペアリングになっている。それはまるで鏡のなかに自分自身を見ているナルシシズムの赤ちゃんの世界であり、想像的な世界(想像界)でもある。お母さんに抱かれた赤ん坊のように、「えーえんとくちから」は「えーえんとくちから」に抱かれている。

ところが先ほど述べたように「赤ちゃん」の世界はとつじょ転機をむかえる。赤ちゃんの世界=ひらがな表記の想像的なゆれの世界にがまんができず、漢字の世界=大人の世界=象徴の世界=言葉の世界へと駆け上がるのだ。つまり「永遠解く力を下さい」と。

思想家のラカンを解説した本で精神科医の斎藤環さんはこんなことを言っている。

  要するに、言葉=象徴を手に入れるっていうのは、そういうことなんだ。そばにママがいないという現実を耐えるために、「ママの象徴」でガマンすること。「存在」を「言葉」に置き換えることは、安心につながると同時に、「存在」そのものが僕たちから決定的に隔てられてしまうことを意味している。僕たちはこの時から「存在そのもの」、すなわち「現実」に直接関わることを断念せざるを得なくなったんだ。 

 (斎藤環「「シニフィアン」になじもう」『生き延びるためのラカン』バジリコ、2006年)
「言葉」を手に入れてしまうということは、その「言葉」で指し示しているものから徹底的に《疎外》されてしまうことである。逆説的だが、わたしたちは、「永遠解く力を下さい」と言った瞬間(その言葉を手に入れた瞬間)、「永遠解く力」から《疎外》される。

だから「えーえんとくちから」というひらがなのぐるぐるした想像的循環に《がまん》ができなくなったしゅんかん、言葉が、意味が、手に入れたくなってしまったしゅんかん、語り手が《永遠》から追放されてしまったこと。ここにあえていうならば、《言葉》を手に入れてしまったひとの構造的悲しみがあるのではないかと思うのだ。

語り手は「永遠解く力」を象徴的には手に入れられても、「現実」的には手に入れられなかった。なぜなら、「永遠」とは絶対に分節できないものだからだ。いやもしかしたら「えーえんとくちから」の状態でいつづけたときこそがいちばん「解く力」に近い状態だったのではないか。

でも、一方で、こんなふうにも思う。ひとはそんなふうに「現実」や「えーえん」をあきらめて、「言葉」を、「意味」を、ひとつひとつ手に入れて「大人」になるのだと。

ひとは「えーえん」=非意味に耐えられず「大人」になる。「えーえん」をあきらめて、「永遠」を手に入れるのだ。「えーえん」の代わりに。

そう言えば、「永遠」の「永」という漢字は、「氷」という漢字に似ている(「永」と「氷」も鏡像イメージ!)。意外なことだが、「えーえんとくちから」の《がまん》できずに大人になってしまった「永遠解く力」の歌は、同歌集内のこんな「氷」のやはり《がまん》できなかった歌と響きあっているかもしれない。すなわち、

  あとほんのすこしの辛抱だったのに氷になるだなんて ばか者  笹井宏之
         

 (『えーえんとくちから 笹井宏之作品集』パルコ・2011年 所収)

2016年10月4日火曜日

フシギな短詩46[小坂井大輔]/柳本々々


  わたくしは三十五歳落ちこぼれ胴上げ経験未だ無しです  小坂井大輔


「三十五歳」と言えば批評家の東浩紀さんがこんなことを言っている。

  村上春樹の「三五歳問題」というのは、……春樹の「やれやれ」という倦怠感の裏にある人生観というか時間観みたいなものです。それがもっとも要約して出ているのは、まさに八五年に出版された『回転木馬のデッド・ヒート』に収録されている「プールサイド」という短編です。この短編では主人公は三五歳の誕生日を迎えて、頭髪から睾丸まで丹念に清め自分のタフさを再確認したあと、突然わけもなく泣いてしまいます。つまりは「ハードボイルド」の限界が来るということなのですが、春樹にとって、三五歳は、そういう臨界的で文学的な年齢なのですね。それで八四年というのは、まさにずばり春樹が三五歳の年です。

   (東浩紀「村上春樹とミニマリズムの時代」『思想地図 vol.4』NHKブックス別巻、2009年)


東さんの指摘が興味深いのは「三十五歳」とは村上春樹だけでなくとも、なんらかの「臨界的で文学的な年齢」である可能性があるということだ。

短歌において《年齢=加齢》をたびたび主題化してきたのは荻原裕幸さんである。

  まだ三十二歳だから、と言ひかけてうちなる虹の劣化に気づく  荻原裕幸

  三十五が近づいてゐるひたひたと菜の花でありロシアでもある  〃

  右眼に犀の視力を持つて三十代なかばの雪の深さを知つた  〃

  三十代のからだをつひに逃げ出した苺のけむりのやうな日となる  〃

  三十代は焦点もなくありうるか、ありうるといふ貌のあをぞら  〃

   (「永遠青天症」『デジタル・ビスケット』沖積舎、2001年)


ここにあるのはそう言ってよければ、どれだけ身体が加齢化しても言語的な比喩によって〈救われる〉ことの可能性である。たしかに「うちなる虹の劣化に気づく」かもしれないけれど、それはあくまで「虹の劣化」であって、《身体的な劣化ではない》。だから「三十五が近づいて」もそれは「菜の花でありロシアでもあ」り、「犀の視力」や「苺のけむり」「貌のあをぞら」という身体的な加齢は比喩によって逸脱していく。

ここには身体がどうあってもそこから比喩によって加齢化する身体から抜け出せる契機がある(とわたしは思う)。「永遠青天症」は「一九九四年秋から二〇〇〇年夏まで」の作品からなるものだが、では2016年の「三十五歳」はどうだろう。

小坂井さんの冒頭の短歌をみてもらえばわかるように、ここには比喩はいっさい無い。「胴上げ経験未だ無しです」と語り手は〈無い〉ことを語るが、むしろここに突出して〈無い〉のは、言語的なアクロバティックや比喩によって少しでもなにか逸脱するチャンスをさぐろうとすることがいっさい〈無い〉「三十五歳」のまなざしだ。そこからは「胴上げ経験未だ無し」のように積極的に身体性も棚卸しされてしまう。この歌が「無しです」で象徴的に終わるように、この歌にはほんとうに〈なにも無い〉ように《意図的》につくられているようにわたしは思う。

村上春樹も荻原裕幸さんの歌も頭髪や睾丸、「視力」や「からだ」と加齢する身体性を自己言及的に確認していたが、小坂井さんの歌においては「胴上げ経験未だ無し」というまったく別の「三十五歳」の身体観が語られている。ここには加齢(エイジング)という身体経験値のプラスの過程へのまなざしはなくて、《私の身体にいったいなにが無かったのか》という身体経験値のマイナスのまなざしがあるばかりだ。

でもここで注意しておきたいのは、この比喩の皆無な状況、無いことから構成される「三十五歳」の語り手は決して言語構成する力を放棄しているわけではないということだ。たとえばこの歌がおさめられた連作「スナック棺」にはこんな言語表現的な歌もある。

  

あれ 声が 遅レテ 聞こえル 死ヌのかナ だれ この ラガーシャツ の男ハ  小坂井大輔


つまり、言語加工を「できる」のに「三十五歳」を語るときは「しない」ということ。そういう〈無い〉を意図的に選んであること。それが小坂井さんの「三十五歳」の「落ちこぼれ胴上げ経験未だ無し」の短歌なのではないかと思うのだ。

  社会的承認を受けることなく地下室に蠢く無数の三十五歳達が地下室人のようにサバイヴ……し、何らかの社会的連帯のうちに希望を獲得する転回を遂げるのか、あるいは依然その自意識を持て余し、全てをリセットする破局を待ち望むのか、またはヒロイックな要素の微塵もない緩慢な自死の中に人知れず溶解するのかーー。

   (藤井貴志「三十五歳問題 芥川的《不安》と現在的《不安》」『生誕120年 芥川龍之介』翰林書房、2012年)
芥川龍之介は「ぼんやりした不安」を抱えながら〈三十五歳〉で自殺したが、それは荻原さんの「三十代は焦点もなくありうるか」に共振しているだろう。「ありうる」と荻原さんの語り手は次の瞬間、その「ぼんやり」を〈引き受けた〉が、小坂井さんは「三十代」の〈焦点のなさ=ぼんやり〉を奇妙な平たさとズレのなかで引き受けもせず描こうとする点が特徴的なのかもしれない。引き受けはしないし、積極的に加工もしないが、しかしそうかといって閉息的状況になるわけでなく(そこは「スナック」なのだ!)、〈むこう〉から「進路指導の先生」がやってくる状況。芥川龍之介にはおそらくいなかった「死ぬなと往復ビンタしてくる」先生。

  わたしのなかの進路指導の先生が死ぬなと往復ビンタしてくる  小坂井大輔


2016年の35歳は、奇妙に〈ひらかれた場所〉に、いる。 
 
          (「スナック棺」『短歌研究』2016年9月 所収)