2016年9月7日水曜日

フシギな短詩38[瀬戸夏子]/柳本々々


相思相愛おめでとう ミュージック・オブ・ポップコーンおよびバラバラ死体のケーキが乳房  瀬戸夏子


瀬戸夏子さんの短歌において音としての〈SHI/TA/I(シタイ)〉というのは大事な働きをなしているんじゃないかと思う。たとえば掲出歌では、「相思相愛おめでとう ミュージック・オブ・ポップコーン」の祝祭的な風景は「バラバラ死体」の唐突な出現によって、突き崩され、「ケーキ」は局所-身体化し、「乳房」そのものになってゆく。

この唐突な〈死体〉の挿入はこの歌集においてなんどもなんども繰り返される。そもそもこの歌集のタイトルは『そのなかに心臓をつくって住みなさい』だから、どうわたしが〈心臓のないボディ〉=〈死体〉に対して対処したか、という軌跡が描かれたものとも言えるのだ。

〈シタイ〉の歌といえば、こんな歌もある。

  したいって何、現代のあさがお順に咲いていきヘリコプターはいつでも笑顔  瀬戸夏子


この歌をみてわかるのは実は〈死体(したい)〉は音を介して〈したい〉という欲動とも重なるということだ。だからこそ、先ほどの「相思相愛」の風景に〈したい〉という欲動が重なってもそれは不思議ではない。「死体」はどこかで「したい」ともつながっている。

  あたらしい死体におにぎり売りつけてわたしの死体をさがしにいきます  瀬戸夏子

だからこの「死体」を「したい」に置換することも可能かもしれない。「あたらしい〈したい〉」に「おにぎり」を売りつけて、「あたらし」さを資本の論理に回収した上で、「わたしの〈したい〉」をさがしにゆくこと。どれだけ「あたらし」くても次のせつな消費社会に組み込まれざるを得ない「死体」と「したい」。
「したい」は、これからなにかをする欲動(「これから~したい」)なのだから、未来に向いている。しかし、これが音を通じて「死体」と置換されたとき、時間はすべて過去に向く。「わたしの死体をさがしにい」くということは、「わたし」は〈すでに〉死んでいたのだから(「すでにしたいだった」)。

なにを言いたいのかというと、「シタイ」という音を介した「死体」と「したい」は音のレベルでは「相思相愛」ではある。しかしそれは〈意味〉のレベルでは過去と未来に引き裂かれ、決着のつかないものなのだ。その〈決着のつかなさ〉を耐え抜くことがこの歌集における〈時間〉なのではないだろうか。それは過去でもない。未来でもない。まして現在でもない。そもそも〈時間の心臓〉はここにない。たぶんそれはあなたがもっている。「心臓をつくって住みなさい」は、〈時間の一歩手前〉にある。

歌集タイトル「そのなかに心臓をつくって住みなさい」に〈住む〉という動詞が使われていることに注意したい。〈住む〉はなによりも時間の創出行為だからだ。ひとは瞬間的に住むことはできない。ある一定の〈持続〉した時間を手に入れたものだけが住むことができるだろう。

  デニーズが消えたとき、どんな感じだった?

  ものすごく光ってた。きらきらしてた。

  そのきらきらはまだあるの。あんたの脳味噌の地図のなかで、デニーズのあった場所どこもかしこも、に、いまはその光りがあるのよ。しわしわの桃色の地図のなかで、…

  目にはみえないデニーズ座の領域内でわたしたちはきょうも生きてるけれど、燃えあがってしまった子の手をひいて駆けこもうとしても、もうデニーズはどこにも見あたらない。


    (瀬戸夏子「ジ・アナトミー・オブ・オブ・デニーズ」『そのなかに心臓をつくって住みなさい』)


消えた「デニーズ」は「あんたの脳味噌の地図のなかで」光りつづけている。ここには観念(きらきら)と身体(脳味噌)の「相思相愛」がある。しかしその「相思相愛」は不発する。「燃えあがってしまった子の手をひいて駆けこもうとしても、もうデニーズはどこにも見あたらない」。

「相思相愛」が同時多発的に起きると同時に、それらが不発の現場としてただちに生起するのをも見届けてゆくこと。その〈持続〉した時間を「デニーズ」のような〈ファミレス〉的場所として漫然と〈住みこむ〉こと。次のせつな裏切られても。

瀬戸夏子の歌集を読むとは、そういうことなんじゃないか。


  仲の良い星座をひきずり行くものか顔を洗ったわたしのほうへ  瀬戸夏子



          (「The Anatomy of, of Denny's in Denny's」『そのなかに心臓をつくって住みなさい』2012年 所収)