2016年9月23日金曜日

フシギな短詩43[石川啄木]/柳本々々


  たはむれに母を背負ひて
  そのあまり軽(かろ)きに泣きて
  三歩あゆまず  石川啄木



啄木の短歌は三行の〈分かち書き〉になっていてこれまでその〈分かち書き〉に対していろんな解釈がなされてきたが、この〈分かち書き〉を〈姿勢の悪さ=だらしなさ〉からとらえられないかと考えることがある。

俳句の喪字男さんが、俳句はすべて縦書きで刺さっていくように書かれる、と述べられていたことがあったが(参照「【短詩時評 14時】フローする時間、流れない俳句 喪字男×柳本々々-『しばかぶれ』第一集の佐藤文香/喪字男作品を読む-」 )、これは短歌もおなじで縦書きでぐさぐさ刺さるように直立が整列していくのが短歌である。つまり、短歌は、言ってみれば、〈姿勢のいい〉文芸だと言うこともできる。こんなに直立=整列した文芸はほかにないのではないだろうか。

ところがその視点からみると、〈分かち書き〉というのは、そうした直立する短歌という文芸への〈崩し〉だとも言える。つまりそれは〈積極的だらしなさ〉だと。もちろんその〈だらしなさ〉によって不要な意味の固定と分岐が生まれるが、しかしそれは〈縦〉の愛好としてある短歌を〈横〉への欲動の解放として相対化する。

〈横になること〉への関心は啄木のエクリチュール(書くこと/文章)にもあらわれる。啄木の日記を読んでいくと〈就眠時間〉が異様に執着されて毎日記述されていくことに気がつくのだが(北海道の生活をきりあげ明治41(1908)年の春に上京してから〈ねむること・おきること〉に彼は関心を持ち始める)、この〈横になる〉ことの執着はひょっとすると〈分かち書き〉という〈横への欲動〉と共振しているかもしれない、と言えば言い過ぎだろうか(ちなみに啄木が真剣に催眠術を学び生徒にも試していたことをめぐって以前書いたことがある(参照、拙文「【催眠術ノート】催眠術師・石川啄木-ひかることとしゃべることは同じことだからお会いしましょう、ねむって、眼をみひらいて-」 )。


しかし、冒頭の啄木の〈国民的〉な有名歌をみてほしい。これは親をおもった歌というよりは、〈だらしなさへの欲動〉の歌として読むことはできないだろうか。誰かをおんぶするということは、〈姿勢を悪くする〉ということでもあるのだ。「背負」った「母」は「軽」く、語り手は〈直立〉しそうな気配もみせる。なんだかその姿勢は、縦と横のはざまで揺れる〈分かち書き〉の体現でもあるように思う。


  東海の小島の磯の白砂に
  われ泣きぬれて
  蟹とたはむる  石川啄木

もちろん、「泣き」ながら蟹と「たはむ」れている人間の姿勢は〈うずくま〉っている〈だらしない〉姿勢に違いない。この歌も崩れた姿勢の歌として読むことができるはずだ。

〈縦〉の文芸にあらわれる〈横〉の姿勢の系譜。それはなんなのだろう。
もしかすると、〈姿勢のよい〉短歌にはいかに〈だらしなさ〉をそれとなく密輸することが賭けられている/たのではないか。もしそうだとしたら、そこからこんな〈積極的だらしなさ〉の歌も読み直せるかもしれない。横になった〈足〉から考える短歌。

  朝の陽にまみれてみえなくなりそうなおまえを足で起こす日曜  穂村弘
   (『シンジケート』沖積舎、2006年)



          (久保田正文編「我を愛する歌」『新編 啄木歌集』岩波文庫・1993年 所収)