2016年9月20日火曜日

フシギな短詩42[正岡豊]/柳本々々


  きみがこの世でなしとげられぬことのためやさしくもえさかる舟がある  正岡豊

この歌にあるのは滞留と交換の原理ではないかと私は思う。


聖書には「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」という有名な文句があるが、これも滞留と交換の原理に基づいている。「一粒の麦」は死によってその生をそこに留まらせることになるが(滞留)、その滞留から 「多くの実」が生まれるのだ(交換)。

「きみがこの世でなしとげられ」なかったことは「なしとげられ」なかった〈あきらめ〉としてそこに〈滞留〉しているが、しかし、それがあってはじめて「やさしくもえさかる舟」が〈交換〉としてあらわれる。
ここで気づいてしまうことは、〈交換〉とは実は〈飛躍=切断/接続〉なのではないかということだ。「きみがこの世でなしとげられ」なかったことを、〈ぼくがかわりになしとげる〉や〈きみがあの世でなしとげる〉に〈等価交換〉されるのではなく、いわばまったく〈無関係〉に、〈飛躍=切断/接続〉して、「舟」が「やさしくもえさかる」。

本来的には〈切断〉されてあるべきものが〈接続〉されてしまうこと。その切断からの接続はこんな歌と共振しているのではないか。

  かなしみは光ファイバー、突然に降りくるさみだれにおどろくな  正岡豊


「かなしみ」は「光ファイバー」という遠く離れた場所を一瞬に接続させてしまう伝送路のようなものである。どれだけ切断されていても、次の瞬間、光の伝送として接続されてしまう。それは「突然に降りくる」雨のようなものだけれど、「おどろ」いてもいけない〈必然的〉ななにかだ。それがおそらくこの歌集の〈かなしみ〉の基調である。短歌定型をめぐる滞留(切断)と交換(接続)の様相。
だとしたら、その〈かなしみ〉はこんな歌につながっていくかもしれない。

  山を食う話をしたよあまりにも悲しみすぎてついにそこまで  正岡豊
とても悲しんでいるひとをめぐる歌である。「あまりにも悲しみすぎてついにそこまで」してしまったのが「山を食う話」だった。これも〈かなしみ〉から生まれた滞留(切断)と交換(接続)と言っていい。「山を食う」ことはみずからの身体に「山」を滞留させる行為だ。もぎとられた「山」は切断され、語り手の身体に留まる。しかしそこからこの歌は「話」へと「光ファイバー」のように飛躍=加速する。「話」とは、話者=聞き手の二者関係で行われるものだ。そこには「山を食う話」を聴く聞き手がいる。つまり「山を食う」話者は「話」によって聞き手に接続(アクセス)している。話をする、という行為は、話を聞いてもらう、という交換の行為である。

だとしたら、わたしたちは正岡さんの短歌における〈あきらめ〉をこんなふうにとらえてもいいのかもしれない。正岡さんの短歌における〈あきらめ〉はそこで〈終わって〉しまうから〈あきらめ〉られたのではなくて、そこで切断されて別のかたちに交換されてしまったがゆえの〈あきらめ〉なのだと。つまり、〈終わってしまった〉のではなく、〈はじまってしまった〉のだ。それが《ほんとうに》ひとがあきらめることのかたちなのではないか。


  無限遠点交わる線と線そこにひっそりときみのまばたきがある  正岡豊


はるか彼方、想像もつかないくらい「無限」に「遠」い場所で「交わる線と線」。もしかしたらこの場所にこそ、「この世」も「光ファイバー」も「あきらめ」も「かなしみ」も届かない〈純粋な交換〉があるのかもしれない。あっ、そうだ、ちょっと今、まばたきしてみてほしい。どうだろう。なんの意味も、追随も生み出さず、あなたの上まぶたは下まぶたと交歓しなかっただろうか。そう、「まばたき」とは、〈純粋な交換〉であった。

          (「夜がまだみずみずしい間に」『四月の魚』まろうど社・1990年 所収)