2016年8月26日金曜日

フシギな短詩35[中家菜津子]/柳本々々




  フェルナンド・ペソアの顔を連れ歩く 明日はきっとひどいどしゃぶり     中家菜津子



どうして語り手は「ペソアの顔」を「連れ歩」いたんだろう。この問いかけから始めてみよう。

ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアには数々の異名があった。ベルナルド・ソアレスやアルベルト・カイエロ、リカルド・レイス、アルヴァロ・デ・カンポス。ペソアを翻訳した澤田直さんは次のように語る。

  詩人としてのペソアについて語るのは容易ではない。というのは、ペソアという詩人は一人ではなく、複数いるからだ。……研究者によればペソアが案出した名前は七十にのぼるという。
  (澤田直「訳者あとがき--Lisbon revisited, 断片風に」『新編 不穏の書、断章』平凡社ライブラリー、2013年)

ペソアには数十の〈顔〉があった。そう、ペソアにとって〈顔〉は複数的なものだったのだ。しかしこの歌で語り手は「ペソアの顔」と語っている。それは他ならないペソア《の》顔なのだ。ソアレスでもカイエロでもレイスでもカンポスでもない、ペソアの顔。

ここで語り手が持ち歩いているのは、「ペソアの顔」という〈顔を生産し続ける装置〉そのものなのではないだろうか。「顔」ではない。「顔を生産する装置」を持っているのだ。それが「フェルナンド・ペソアの顔」である。

では、なんのために?

「フェルナンド・ペソアの顔を連れ歩く」という上の句に呼応する下の句に注意したい。「明日はきっとひどいどしゃぶり」と語り手は語っている。語り手は「明日」が「ひどいどしゃぶり」であることを〈確信〉している。これから「どしゃぶり」の〈未来〉がくることを「きっと」という副詞によって語り手は予知している。

〈複数の顔〉としての「ペソアの顔」を所持しながらもそれでも「きっと」という形で「どしゃぶり」の未来が〈たったひとつ〉の可能性として狭められてしまったこと。それがこの歌の〈状況〉をなしているのではないか。もしこの歌にペソア的絶望があるとしたならば、その絶望は、現在の複数性(ペソアの顔)からの未来の単一性(きっとひどいどしゃぶり)にあるはずだ。ペソア的絶望。

でも。

  私は自分自身の風景
  自分が通るのを私は見る
  さまざまにうつろい たったひとりで
  私は自分がいる《ここ》に 自分を感じることができない

  (フェルナンド・ペソア、澤田直訳『新編 不穏の書』前掲)

「自分がいる《ここ》に 自分を感じることができない」ペソアにとって〈わたし〉は複数性としてあった。「私はずいぶん前から私ではない」というペソアの言葉は有名だ。ここには〈わたし〉が〈わたし〉でなくなっていく絶望があると同時に、〈わたし〉が〈わたし〉でなくなる瞬間にたちあえる希望もある。絶望も希望も絶望でないものも希望でないものもペソアは書いた。

だから「ペソアの顔」を「連れ歩」き続ける限り、生産され続ける顔の複数性によってその〈単一性の未来〉を語り手は回避できるかもしれない。なぜなら、〈未来〉は語り手がいみじくも「きっと」と語ったように語り手の〈考えようとする未来〉のなかにこそあるのだから。つまり、〈わたしがわたしだと思うわたし〉の〈同一性〉のなかに。そしてその〈同一性〉を差異的な〈複数性〉へと逸らすのは「ペソアの顏」なのだ。驚くべきことだけれど、「きっと」もまた複数化するのだ。きっとA、きっとB、きっとC、きっとDのように〈きっとのオーケストラ〉として。

  私の魂は隠れたオーケストラだ。私の中で演奏され鳴り響いているのがどんな楽器なのかは知らない。弦楽器、ハープ、ティンパニー、太鼓。私は自分のことを交響曲としてのみ知っている。   (フェルナンド・ペソア、前掲)

そう、〈わたし(の顔)〉が「ペソアの顔」を「ペソアの(異名のおびただしい)顔」とともに「連れ歩く」ということは、〈わたし〉がたったひとつしかありえなかった「きっと」を〈交響曲〉化することに他ならないのだ。

  深淵が私の囲いだ。
  「わたし」という存在は測ることができない。

  (フェルナンド・ペソア、前掲)

   いる×
   いない×
   いたい○
  うしろのしょうめんのわたしたち
  (中家菜津子「うずく、まる」『うずく、まる』書肆侃侃房、2015年)

        

  (「ライブラリー」『新鋭短歌シリーズ23 うずく、まる』書肆侃侃房、2015年 所収)