2016年8月12日金曜日

フシギな短詩31[飯島章友]/柳本々々




  コンビニの冷蔵棚の奥の巨眼  飯島章友



自身の〈恐い川柳〉ばかりを集めた小冊子『恐句』には著者である飯島さん自身のこんな言葉が記されている。引用してみよう。


  既発表作品の中から恐ろしげな川柳を選び出し、

  今では珍しくなった活版印刷で刷り上げました。


なぜ、「恐ろしげな川柳」を「活版印刷」で「刷り上げ」たのだろう。わたしはここに〈必然性〉があるように思う。〈こわさ〉の秘密も。


『恐句』を手にしてまず思うのは、「活版印刷」による〈文字の物質性〉である。「活版印刷」によって紙面に眼でわかるほどの凸凹(でこぼこ)の質感ができている。それが〈文字の物質性〉につながっている。

  Re:がつづく奥に埋もれている遺体  飯島章友


  クリックでわたしを削除する誰か  〃


  過去問を解きつつ風葬だったこと  〃

「Re:」も「削除」も「過去問」も〈観念的〉なものではある。しかしその句においては〈観念〉だったものが、冊子状において〈文字の物質性〉を通して〈モノ〉化している。というよりも、句をモノのコードで読み解くように「活版印刷」メディアが要請してくるのだ。たとえば上の句でいうなら、「遺体」「削除」「風葬」が〈ごそごそしたモノ〉として前景化してくる。それは凸と凹の距離がつくる〈モノの遠近法〉の力でもある。かすかな、しかし、決定的な。

冒頭の掲句をみてほしい。この句は〈とりわけて〉凸と凹の〈遠近〉によって生まれる〈恐ろしい句〉だ。こわいのは「コンビニの冷蔵棚の奥」の〈巨大な眼〉なのではない。「コンビニの冷蔵棚」の〈手前〉から、「コンビニの冷蔵棚の奥」にある〈巨眼〉を〈見〉てしまったことのその凸と凹の〈距離〉が〈こわい〉のである。これは遠近の物質的な〈こわさ〉なのだ。

この『恐句』には〈奥行き〉を装置として使った句がおおい。〈奥行き〉=パノラマを装置として偏愛したのは江戸川乱歩だった。「お勢登場」も、「押絵と旅する男」も、「屋根裏の散歩者」も、「人間椅子」も、「パノラマ島奇譚」も、考えてみればみんな〈奥行き〉の話である。〈奥行き〉は、こわいのだ。手前とは、〈ちがう〉世界だから。

だからもしかしたら江戸川乱歩の〈奥行き〉を〈正しく〉引き継いでいたのは、コンビニエンスストアの冷蔵棚なんじゃないかとさえ、思う。ペットボトルの冷蔵棚の奥で作業する〈誰か〉。ボトルが奥からぼとんぼとんと追加されている。でも誰かはわからない。誰かがいるのはわかるけれど。そして、その誰かと、ときどき、ふっと、

眼が、合う。

わたしたちが恐いのは幽霊でも妖怪でもないのかもしれない。

わたしたちがほんとうに恐いのは〈奥行き〉なのかもしれない。だって、たいてい「奥に行っちゃだめ」っていうと、みんな「奥に行きたがる」から。かなしそうな、うれしそうな、顔をして。

  パノラマ館で死蝋になるのわたしたち  飯島章友

                  (『恐句』2016年 所収)