2016年8月30日火曜日

フシギな短詩36[吉田類]/柳本々々



  盃に不動如山(うごかざるやま)夏の夢  吉田類



『吉田類の酒場放浪記』という番組では、首都圏を中心に「酒場詩人」の吉田類さんが居酒屋を巡り歩くのだが、私はたびたびこの番組の構成が気になっていた。

それは番組の終わりに必ず類さんが一句詠んで立ち去ることである。類さんはその日訪れた土地にちなんだ句を詠んだあとで夜の町へと消えていく。そして番組は終わる。
          
なんのために番組の終わりに句をおくのか。

それは俳句という〈定型詩〉を用いて、その日めぐりあるいた固有の時間・出来事を記憶に留めるからだろうか。〈思い出深い〉ものにするためだろうか。

いや、私は実は、その〈ぎゃく〉のような気がするのだ。

類さんが「酒場放浪」をした番組の最後に一句おくのは、その日あった出来事を〈思い出深い〉ものにするためというよりは、《さりげないものにするため》なのではないかと思うのだ。

酒場訪問を特別な出来事にせず、〈さりげないもの〉にすること。

それはつまり、俳句によって散文的な出来事化をさけるということに他ならない。

かつて思想家のロラン・バルトは俳句をこんなふうに定義した。

  俳句とは、小さな子供が「これ!」とだけ言って、なんでも(俳句は主題の選り好みをしないから)ゆびさすときの、あの指示する身ぶりである。その動作はきわめて直接的になされるので(いかなる媒介も――知識や名前や所有さえも――ないので)、指示されるのは、対象を分類することいっさいの空しさとなる。
  
 (ロラン・バルト、石川美子訳「このような」『ロラン・バルト著作集7 記号の国』みすず書房、2004年)

俳句とは、「これ!」と指し示すことそのものなのである。語る、ことではない。示す、ことなのだ。それは名付けることでも所有することでもない。ただ、しめすこと。けっきょくはなにも持たずに、通り過ぎること。

そして/しかし、だからこそ、吉田類は〈放浪〉をつづけることができるのではないか。散文的な記述によって、思い出深くそこに留まるのではなく、最終的に〈俳句化〉を施すことによって、〈さりげなさ〉としての指し示しをそこに置き、流浪すること。

バルトは「ゆび」のメタファーで俳句を語ったが、そういえば、類さんの〈身ぶりの特徴〉として、なにかを食べたあとに〈親指〉をたててグッジョブ・サインをするというものがある。類さんはおいしいものを食べたあとに饒舌にそれを語るのではない。親〈指〉を立てて黙ってそれを《指し示す》のである。まさにそれは俳句的身ぶりではないか。

  少しでも希望があるのならおまえは行動する。希望はまったくないけれど、それでもなおわたしは……あるいはまた、わたしは断固として選ばぬことを選ぶ。漂流を選ぶ。どこまでも続けるのだ。
   
(ロラン・バルト、三好郁朗訳「行動」『恋愛のディスクール・断章』みすず書房、1980年)

類さんは「酒場」を放浪しつづけたが、バルトはあらゆる文化の襞(ひだ)を流浪しつづけた。ふたりとも、どこかひとつのところには留まらなかった。俳句的な〈ゆび〉で、流れ/流されながら、世界の端々にあるポイントのひとつひとつを〈指し示し〉つづけた。

だからこの〈漂流〉しつづける/た二人の〈詩人〉、吉田類/ロラン・バルトにならってこんなふうに言ってもいいかもしれない。

俳句とは、《ゆび》のことだと。

            

 (BSーTBS「甲府「居酒屋えいじ」」『吉田類の酒場放浪記』2016年6月20日放送)

2016年8月26日金曜日

フシギな短詩35[中家菜津子]/柳本々々




  フェルナンド・ペソアの顔を連れ歩く 明日はきっとひどいどしゃぶり     中家菜津子



どうして語り手は「ペソアの顔」を「連れ歩」いたんだろう。この問いかけから始めてみよう。

ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアには数々の異名があった。ベルナルド・ソアレスやアルベルト・カイエロ、リカルド・レイス、アルヴァロ・デ・カンポス。ペソアを翻訳した澤田直さんは次のように語る。

  詩人としてのペソアについて語るのは容易ではない。というのは、ペソアという詩人は一人ではなく、複数いるからだ。……研究者によればペソアが案出した名前は七十にのぼるという。
  (澤田直「訳者あとがき--Lisbon revisited, 断片風に」『新編 不穏の書、断章』平凡社ライブラリー、2013年)

ペソアには数十の〈顔〉があった。そう、ペソアにとって〈顔〉は複数的なものだったのだ。しかしこの歌で語り手は「ペソアの顔」と語っている。それは他ならないペソア《の》顔なのだ。ソアレスでもカイエロでもレイスでもカンポスでもない、ペソアの顔。

ここで語り手が持ち歩いているのは、「ペソアの顔」という〈顔を生産し続ける装置〉そのものなのではないだろうか。「顔」ではない。「顔を生産する装置」を持っているのだ。それが「フェルナンド・ペソアの顔」である。

では、なんのために?

「フェルナンド・ペソアの顔を連れ歩く」という上の句に呼応する下の句に注意したい。「明日はきっとひどいどしゃぶり」と語り手は語っている。語り手は「明日」が「ひどいどしゃぶり」であることを〈確信〉している。これから「どしゃぶり」の〈未来〉がくることを「きっと」という副詞によって語り手は予知している。

〈複数の顔〉としての「ペソアの顔」を所持しながらもそれでも「きっと」という形で「どしゃぶり」の未来が〈たったひとつ〉の可能性として狭められてしまったこと。それがこの歌の〈状況〉をなしているのではないか。もしこの歌にペソア的絶望があるとしたならば、その絶望は、現在の複数性(ペソアの顔)からの未来の単一性(きっとひどいどしゃぶり)にあるはずだ。ペソア的絶望。

でも。

  私は自分自身の風景
  自分が通るのを私は見る
  さまざまにうつろい たったひとりで
  私は自分がいる《ここ》に 自分を感じることができない

  (フェルナンド・ペソア、澤田直訳『新編 不穏の書』前掲)

「自分がいる《ここ》に 自分を感じることができない」ペソアにとって〈わたし〉は複数性としてあった。「私はずいぶん前から私ではない」というペソアの言葉は有名だ。ここには〈わたし〉が〈わたし〉でなくなっていく絶望があると同時に、〈わたし〉が〈わたし〉でなくなる瞬間にたちあえる希望もある。絶望も希望も絶望でないものも希望でないものもペソアは書いた。

だから「ペソアの顔」を「連れ歩」き続ける限り、生産され続ける顔の複数性によってその〈単一性の未来〉を語り手は回避できるかもしれない。なぜなら、〈未来〉は語り手がいみじくも「きっと」と語ったように語り手の〈考えようとする未来〉のなかにこそあるのだから。つまり、〈わたしがわたしだと思うわたし〉の〈同一性〉のなかに。そしてその〈同一性〉を差異的な〈複数性〉へと逸らすのは「ペソアの顏」なのだ。驚くべきことだけれど、「きっと」もまた複数化するのだ。きっとA、きっとB、きっとC、きっとDのように〈きっとのオーケストラ〉として。

  私の魂は隠れたオーケストラだ。私の中で演奏され鳴り響いているのがどんな楽器なのかは知らない。弦楽器、ハープ、ティンパニー、太鼓。私は自分のことを交響曲としてのみ知っている。   (フェルナンド・ペソア、前掲)

そう、〈わたし(の顔)〉が「ペソアの顔」を「ペソアの(異名のおびただしい)顔」とともに「連れ歩く」ということは、〈わたし〉がたったひとつしかありえなかった「きっと」を〈交響曲〉化することに他ならないのだ。

  深淵が私の囲いだ。
  「わたし」という存在は測ることができない。

  (フェルナンド・ペソア、前掲)

   いる×
   いない×
   いたい○
  うしろのしょうめんのわたしたち
  (中家菜津子「うずく、まる」『うずく、まる』書肆侃侃房、2015年)

        

  (「ライブラリー」『新鋭短歌シリーズ23 うずく、まる』書肆侃侃房、2015年 所収)

2016年8月23日火曜日

フシギな短詩34[外山一機]/柳本々々



   ここは ゆうきをためされる しんでんじゃ。 たとえひとりでも たたかうゆうきが おまえにはあるか?
  二十日鼠が五升樽さげて
  年もとらぬに
  嫁をとる
          外山一機

外山一機さんに「捜龍譚(どらごんくえすと)純情編」という作品がある。ゲーム「ドラゴンクエスト」のテキストを詞書として昔の歌謡風(たとえば、「二十日鼠が五升樽さげて」は童歌のフレーズ)のテキストがパッチワークとして〈翻訳〉されたようなかたちで添えられていく。

「ドラゴンクエスト」が素地にも関わらず〈読むための枠組み〉が読者に要請される〈難解〉な作品なのだが、この作品を山田耕司さんが次のように評している。長くなるがこの作品を読むためには必要だと思うので引用する。

  ドラゴンクエストというゲームの世界観をまずはひとつの「そこらへん」としてくくることで、俳句を読み俳句を作る人達が無意識に手まさぐりする花屏風的な「そこらへん」に対して別の結界をはりめぐらす。もうひとつは古くからの口誦唄のフレーズを召喚して、そこにもまたドラゴンクエストとは別の「そこらへん」結界をつくる。消費材としてのゲームのフレームと消費や再生産からとりのこされたような古謡のフレームとの摩擦に、現在のジャーナリスティックなイメージをふくんだ言葉をチラと配して国の行方のようなものを心配している風情すら添える。こうした一連のシカケは、すなわち俳句をめぐる無意識の「そこらへん」文化領域を嫌ったり疑ったりするか営みの生み出すところ。また、ゲームにおける主体と口誦歌謡における主体との混交をこころみることで、自らの身体感覚はもとより「そこらへん」に織り込まれている「誰のものでもなくあたりさわりのない」身体感覚さえも去ろうとしているようにも読むことができる。
  (山田耕司「【週俳4月の俳句を読む】「そこらへん」の話」『週刊俳句』2015年5月10日)

この山田さんの指摘で大事だと私が思うのが「「誰のものでもなくあたりさわりのない」身体感覚さえも去ろうとしている」という箇所である。つまり、〈あたりさわり〉のあるものを浮かび上がらせているということだ。

ある言説が〈あたりさわりのある〉ものになるとはどういうことなのか。

この作品が掲載されたのは『週刊俳句』なのだからメディアの枠組みは〈俳句〉である。しかし、「ドラゴンクエスト」のテキストに接着されたものは俳句ではない。俳句的に読もうとしてもだめなのだ。

もし「ドラゴンクエスト」が〈俳句誌上〉でアレンジされて作品化されたと言えば、読者は《あの》「ドラゴンクエスト」がどんなふうに俳句的趣味をほどこされたのか〈わくわく〉しながら読むだろう。しかし、その〈わくわく=消費の欲望〉は打ち消される。たとえば「ドラゴンクエスト」シリーズでは〈乗り物〉として有名な不死鳥ラーミアは以下のように〈翻訳〉される。

   むっつのオーブを きんのかんむりのだいざにささげたとき…。 でんせつのふしちょう ラーミアは よみがえりましょう。
  盆が来たなら
  帯買うてやろ
  赤の白のとうれしかろ

「ドラゴンクエスト」において「むっつのオーブ」は「レッドオーブ」「パープルオーブ」などそれぞれにカラーをもっているのだが、そこに「帯」の「赤の白のとうれしかろ」が響きあわされているのかもしれない。いるのかもしれないが、問題はこの〈消費しがたさ〉である。

どうもこの「ドラゴンクエスト」のテキストをめぐる作品にはドラゴンクエスト的記憶を共有しようという〈ここちよさ〉や〈きもちよさ〉がない。むしろ《接着=翻訳させる必要のない行為》をあえて《する》ことによってある文化がたやすく換骨奪胎させられ接続していくそのさまを問いかけているようなのだ。

《消費しがたい》作品を意図的につくること。

では、なぜ、〈消費しがたい〉のか。わたしはここにこの作品の〈仕掛け〉があるように思う。

その仕掛けとは、なにか。それは〈時間の遡行〉である。

山田さんがいみじくも「古謡のフレーム」と指摘したように、外山さんが「新」たに生成し接着したテキストは「古」い言葉なのだ。「ドラゴンクエスト」の「新」しい言葉に《あえて》「古」い言葉をもってくること。意図的なアナクロを持ち込むこと。これがこの作品の消費のしがたさをうんでいる。なぜなら、〈翻訳〉や〈アレンジ〉とは「古」い枠組みに現在の文脈から〈新しさ〉を盛り込み=引き出すことだからだ。ところが山田さんが指摘するようにもしこの作品に〈現在性〉があるとしたら、それは外山さんが用意した言葉ではなく、詞書としての「ドラゴンクエスト」の言葉の方なのだ。

つまりあえて言えば、外山さんが「ドラゴンクエスト」のテキストを使用してなしたことは、意図的な〈退行〉なのである。

しかし注意してほしい。そもそもドラゴンクエストのテキストには、「ここは ゆうきをためされる しんでんじゃ」の「じゃ」や「みーたーなあ? けけけけけっ! いきてかえすわけには いかぬぞえ」の「ぞえ」のように奇妙な〈アナクロ〉=〈退行〉が《あらかじめ》埋め込まれていたことを。

「ドラゴンクエスト」とはそもそもそうした〈アナクロ〉を施すことによって擬古風の世界観を生成するものであったはずだ。それは〈いま、ここ〉のプレイヤーに〈いまでもない、ここでもない〉空間をたえず喚起しつづけていた。

こうした「ドラゴンクエスト」特有のアナクロな言語体系を「新」しく〈翻訳〉するのではなく、さらに「古」い言葉によるアナクロを上塗りして〈退行〉を積極的におしすすめること。

それがおそらくはこの「捜龍譚」なのだ。

だからこの作品からこんなふうな例示を〈あえて〉とってみてもいい。順序を逆にすれば、〈消費できる〉かたちになっていたんじゃないかと。たとえば、

  かあ からす
  まだ夜は明けぬ
  明けりや切られる
  足袋のひも
   みーたーなあ? けけけけけっ! いきてかえすわけには いかぬぞえ。

作品掲載とは〈翻訳〉の順序を逆にしてみた。これならば〈消費〉できるのではないだろうか。「古」い言葉が「ドラゴンクエスト」という「新」しい言葉でこんなふうに〈翻訳〉できるのだということが〈わかる〉から。しかし、この作品はそういうかたちを取らなかった。意図的にアナクロを押し進めた。

ここで問われているのはわたしたちの認知のプロセスそのものではないだろうか。わたしたちの認知は実は〈双方向的〉な便利なものではなくて、一方通行的なものであり、それが〈消費〉を支えているのかもしれないということ。思想家のヴァルター・ベンヤミンが言ったような、無方向の、無作為の、ばらばらの、星座の、瓦礫のような〈認識〉に到達するには、なんらかの〈作為〉や〈試行錯誤〉がいるかもしれないということ。

それを外山さんは「ドラゴンクエスト」というアナクロ構造の言語体系によりながら〈忠実なアナクロニズム〉として展開したように思うのだ。

  彼は顔を過去の方に向けている。私たちの眼には出来事の連鎖が立ち現われてくるところに、彼はただひとつの破局だけを見るのだ。その破局はひっきりなしに瓦礫のうえに瓦礫を積み重ねて、それを彼の足元に投げつけている。きっと彼は、なろうことならそこにとどまり、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めて繋ぎ合わせたいのだろう。
  (ヴァルター・ベンヤミン、浅井健二郎訳「 歴史の概念について」『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』(ちくま学芸文庫、1995年)

わたしたちが文化へアクセスする〈仕方そのもの〉を〈瓦礫化〉すること。彼がなした〈退行〉としての〈ドラゴンクエスト〉。

それは、かつて、ベンヤミンのプレイした「ドラゴンクエスト」ではなかったか。

          (「捜龍譚(どらごんくえすと)純情編」『週刊俳句』2015年4月5日 所収)

2016年8月19日金曜日

フシギな短詩33[川合大祐]/柳本々々



  二億年後の夕焼けに立つのび太  川合大祐

こんな問いから始めてみたい。野比のび太。かれはほんとうは《誰》なんだろう。どこの《時間軸》に住んでいる人間なんだろう。

のび太はドラえもんからたえず未来を喚起させながらも、ずっと現在の時間軸に留まりつづけている。毎日0点を取り続け、おそらく百年後もおなじ小学校に通いおなじ0点を取り続けているだろう。

0点というのはおそらくのび太が現在の時間軸から逃れられないことの象徴でもある。0点〈以上〉が取れないのび太に次の段階へと移動する線条的時間(進歩史観)は与えられない。かれは、ずっと、おなじ学校に、おなじ服に、おなじ家に、おなじ関係に、おなじ0点に、ループしている。

もちろんそれは〈週刊もの〉のキャラクターだからと言えばそれまでなのだけれど、のび太をこんなふうに言うこともできるかもしれない。かれは〈不死の人〉であると。0点というのは、そこからどこにも行けなくなってしまった人間の魂であると同時に、もはや費やす命さえもゼロになってしまった〈死なない人間〉の0なんじゃないかと。

アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスはかつて〈死なない人間〉はどのような人間であるかをテーマにした短編「不死の人」を描いた。死ぬ人間と死なない人間はなにが違うのか。

  死すべき命運をもつ人間には、あらゆるものが二度と起こりえないものの価値をもち、それはいってみれば偶然的なものだ。一方、不死の人びとには、反対に、あらゆる行為(そしてあらゆる思考)は過去においてそれに先行したものの反響であるか、未来においてめくるめくほど繰り返されるものの正確な兆候である。…一度だってそれで成就しうるものはありえないし、またはかなく消え去るものもない。 

  (ボルヘス、篠田一士訳「不死の人」『現代の世界文学 伝奇集』集英社、1975年)

死なないということは、あらゆる体験を経験しつくすことだ。死なないということは無限の時間を手に入れることであり、今わたしがなにかを経験しても、それはどうせ過去に経験しているのだし、未来に経験するだろうといった《ぞんざいでぼうばくとした生》に身をつっこむということだ。

ボルヘスは自作「不死の人」について自身でこんなふうに語っている。

  「不死の人」の中心的な物語は、一人の不死の男が、不死であるが故に自分の過去を忘れてしまうというものです。これは、自分がホメーロスであったことを忘れたホメーロスの物語です。もしも時間が無限に長いものだとすれば、いずれある時に、わたしたちのすべてが『イーリアス』を書くことになる、というよりむしろ、ある時すでにそれを書いてしまっているのかも知れないのですから。 
  (ボルヘス、鼓直・野谷文昭訳『ボルヘスとの対話』国書刊行会、1978年)

だからもしあなたが〈死なない人間〉であるならば、あなたはシェイクスピアにも夏目漱石にもドストエフスキーにも村上春樹にもなれるだろう。あなたは過去に村上春樹だったし、未来でシェイクスピアだったろう。のび太もかつてはホメーロスだったのだ。

実は体験や経験は有限であってこそなのだ。この経験が《二度とできないかもしれない》という有限性がわたしたちの体験や経験の価値をつくっている。

だから不死のひとは茫漠としたゼロ経験の生をいきている。しなないというのはそういうことだから。自分になにが起きても、自分がだれであっても、それはもはや起こったことであり、これから起きることであるのだから。

そして、ドラえもん=タイムマシンで無限の時間を手に入れてしまったのび太もある意味で「不死の人」なのだ。彼が0点に〈なにも感じなくなってしまっているように〉彼は不死のひとになりかけている。

長い遠回りになってしまったが、川合さんの句をみてみよう。「二億年《後》の夕焼け」と、ここでは時間が〈幅〉ではなく、〈点〉として明示されている。語り手が示したかったのは、どれだけ無限の時が流れようとも、その一点しか明示できない〈点としての時間〉である。「二億年後」は〈たった一回〉しかやってこない。それはループする時間ではない。〈前〉と〈後〉があるような線としての時間である。その「後」を語り手はのび太に与えた。

「夕焼け」は毎日やってくる。その意味で「夕焼け」もまた〈不死のひと〉である。きょうみる夕焼けはかつて見た夕焼けかもしれないし、これから見る夕焼けかもしれない。でも「二億年〈後〉」という〈点としての時間〉=〈線としての時間〉をのび太に与えたことで「夕焼け」は一回性のものとなる。そして「のび太」はその「夕焼け」のなかで「立」っている。つまりかれはその「夕焼け」を身体でもって生きようとしている。たぶん、たった一度きりの、夕焼けを。

それはもしかしたら「二億年」生きたのび太が「死」を感じたしゅんかんかもしれない。「二億年後」と時間の経過を意識するということは、いずれ〈死ぬ自分〉を意識するということでもあり、たった一回の出来事と、たったひとりの誰かと別れを「さようなら」を告げることを受け止めることになるからだ。

  挽歌的なもの、沈痛なもの、儀式的なものーーそれらのものは不死の人びとにとって重要なものではない。ホメーロスとわたしはタンジールの大門で別れた。たしか、わたしたちは「さようなら」もいわなかったように思う
  (ボルヘス「不死の人」前掲)

「不死の人」にはもちろん「さようなら」は意味をもたない。どのみち過去に「さようなら」していたのだし、未来にまた「さようなら」をするからだ。だが、一度きりの夕焼けを意識したのび太は違う。もうこない夕焼けは「死ぬひと」の自覚である。何度もループする0点は、たった一度しかない夕焼けの〇に変わった。

「二億年後」ではあったけれど、のび太は、今、「夕焼け」のなかで、だれかに、せかいに、なんらかの「さようなら」を告げようとしている。死ぬひととして。「さようなら」のひととして。

  七月は終わる牢にはドアがある  川合大祐

         
 (「まだ人間じゃない」『スロー・リバー』あざみエージェント・2016年 所収)

2016年8月16日火曜日

フシギな短詩32[車谷長吉]/柳本々々



  夏帽子頭の中に崖ありて  車谷長吉


小説家の車谷長吉と詩人の高橋順子の結婚生活をラジオドラマ化したFMシアター『時の雨』(NHKFM、1999年4月3日)にこんなシーンがある。車谷と高橋が二人だけの句会を行うのだが、「崖」を席題にして詠む。高橋はこんな句をつくる。


  五月雨(さみだれ)の我らが崖を流れけり  高橋順子

この高橋の「崖」と、掲句の車谷の「崖」は共振しあっている。なぜなら、車谷にとつぜん現れた〈頭の中の崖〉を引き受けたのは一緒に暮らしていた高橋順子だったからだ。

  「頭の中には崖があるのね?」「そうや、崖があるんや」 
     (FMシアター『時の雨』NHKFM、1999年4月3日)

その意味では、車谷の〈頭の中の崖〉は「我らが崖」なのである。それは「時の雨」のなかで出会った〈ふたりの崖〉だった。いつ崩れるかもわからない、しかしそれゆえに〈ふたり〉で登り続けなければならない生活。

高橋順子は結婚生活をそのまま〈詩〉として昇華した詩集『時の雨』の「あとがき」でこんなふうに書いている。

  晩い結婚の二年四ヶ月後、連れ合いが強迫神経症を発病しました。…ものに怯える家人は、私に対してもまた怯えたのでした。私たちは自由に息をすることができなくなり、緊張の日々を過ごしました。 
連れ合いの書く小説には髪の毛一すじの狂気が宿っていることに私は無意識であったわけではありません。それは、文学だと思っていたのです。生活とは別次元のものだ、と。ところが或る日、文学が生活に侵入してきてしまった。日常が非日常の霧におおわれてしまった、ともいえます。そのとき、人はどうするか──。 
  生活を強引に文学にしてしまうこと。自分を全力で虚の存在と化し、文学たらしめること。 
    (高橋順子「あとがき」『時の雨』青土社、1996年)

高橋順子は車谷長吉の「頭の中」にできた「崖」を〈詩〉によって取り出そうとした。詩として言語化することで、「頭」という〈ひとり〉のなかに生成される「崖」を、〈ふたり〉で取り組む「我らが崖」に転位させたのだ。「我らが崖」。ここには「頭の中に崖」をもった人間と共に生活する人間が、〈頭の言語〉ではなく〈ふたりの言語〉を見据えながら、一緒に生きていこうとすることの〈意志〉がある。


詩とは、〈(意)志〉なのだ。いまだかつて経験したことがないことを、経験として編む志(こころざし)なのだ。哲学者ラクー=ラバルトは言っていた。「詩が翻訳するもの、それを私は《経験》と呼ぶことを提案する」と(『経験としての詩』)。詩によってふたりの《経験》をつくりだすこと。崖、としての。


「時の雨」という〈生きられる時間〉のなかで、もしふいにこれからの時間を共に生きるひとと出会ってしまったら、わたしたちはそのひとと生きていくためにしなければならないことがある。お互いの「崖」をどうふたりの〈経験〉に変えていくかということだ。その〈経験〉をしずかにみつめてくれるのが〈俳句〉であり、〈詩〉であったのではないか。


ラジオドラマ『時の雨』は車谷の次のセリフで唐突に終わる。すなわち、「わたしはあなたが大好きです」。

  精神病院からの帰り道
  休耕田の真ん中に生えている一本の
  椎の木の下に坐り
  二人でおにぎりを食べた
  野漆と耳菜草の名をおぼえた
  模型飛行機をとばしている人たちがいた
  川で釣りをしている人たちがいた
  いつかきっとこの木のことを思い出すだろう
  二人ともまだ若かかったころ
  木の下に坐ったことがあった と
    (高橋順子「この木のことを」『時の雨』前掲)

        

  (「駄木輯」『車谷長吉句集』沖積舎・2005年 所収)






2016年8月12日金曜日

フシギな短詩31[飯島章友]/柳本々々




  コンビニの冷蔵棚の奥の巨眼  飯島章友



自身の〈恐い川柳〉ばかりを集めた小冊子『恐句』には著者である飯島さん自身のこんな言葉が記されている。引用してみよう。


  既発表作品の中から恐ろしげな川柳を選び出し、

  今では珍しくなった活版印刷で刷り上げました。


なぜ、「恐ろしげな川柳」を「活版印刷」で「刷り上げ」たのだろう。わたしはここに〈必然性〉があるように思う。〈こわさ〉の秘密も。


『恐句』を手にしてまず思うのは、「活版印刷」による〈文字の物質性〉である。「活版印刷」によって紙面に眼でわかるほどの凸凹(でこぼこ)の質感ができている。それが〈文字の物質性〉につながっている。

  Re:がつづく奥に埋もれている遺体  飯島章友


  クリックでわたしを削除する誰か  〃


  過去問を解きつつ風葬だったこと  〃

「Re:」も「削除」も「過去問」も〈観念的〉なものではある。しかしその句においては〈観念〉だったものが、冊子状において〈文字の物質性〉を通して〈モノ〉化している。というよりも、句をモノのコードで読み解くように「活版印刷」メディアが要請してくるのだ。たとえば上の句でいうなら、「遺体」「削除」「風葬」が〈ごそごそしたモノ〉として前景化してくる。それは凸と凹の距離がつくる〈モノの遠近法〉の力でもある。かすかな、しかし、決定的な。

冒頭の掲句をみてほしい。この句は〈とりわけて〉凸と凹の〈遠近〉によって生まれる〈恐ろしい句〉だ。こわいのは「コンビニの冷蔵棚の奥」の〈巨大な眼〉なのではない。「コンビニの冷蔵棚」の〈手前〉から、「コンビニの冷蔵棚の奥」にある〈巨眼〉を〈見〉てしまったことのその凸と凹の〈距離〉が〈こわい〉のである。これは遠近の物質的な〈こわさ〉なのだ。

この『恐句』には〈奥行き〉を装置として使った句がおおい。〈奥行き〉=パノラマを装置として偏愛したのは江戸川乱歩だった。「お勢登場」も、「押絵と旅する男」も、「屋根裏の散歩者」も、「人間椅子」も、「パノラマ島奇譚」も、考えてみればみんな〈奥行き〉の話である。〈奥行き〉は、こわいのだ。手前とは、〈ちがう〉世界だから。

だからもしかしたら江戸川乱歩の〈奥行き〉を〈正しく〉引き継いでいたのは、コンビニエンスストアの冷蔵棚なんじゃないかとさえ、思う。ペットボトルの冷蔵棚の奥で作業する〈誰か〉。ボトルが奥からぼとんぼとんと追加されている。でも誰かはわからない。誰かがいるのはわかるけれど。そして、その誰かと、ときどき、ふっと、

眼が、合う。

わたしたちが恐いのは幽霊でも妖怪でもないのかもしれない。

わたしたちがほんとうに恐いのは〈奥行き〉なのかもしれない。だって、たいてい「奥に行っちゃだめ」っていうと、みんな「奥に行きたがる」から。かなしそうな、うれしそうな、顔をして。

  パノラマ館で死蝋になるのわたしたち  飯島章友

                  (『恐句』2016年 所収)



2016年8月9日火曜日

フシギな短詩30[田島健一]/柳本々々



  噴水の奥見つめ奥だらけになる  田島健一


ずっと、田島健一さんの俳句をフシギだなあと思っていた。《どう》理解すればいいんだろうと。今回はこの問いからはじめてみたい。


ここでひとつ大きな補助線を引こう。


  ひらく雛菊だれのお使いか教えて  田島健一

   (「春は寝てから」『オルガン』5号・2016春)


たとえば関悦史さんが田島さんのこの句についてこんなふうに語っている。


この句から確かに言えることは、「ひらく雛菊」と「お使い」をめぐってある質問あるいは対話がなされ、その背後には誰かを「お使い」に出した何ものかが想定されているということだけとなって、それが誰なのか、またその誰かの存在がなぜ想定されたのかという謎は開かれたまま終わる。…もはや誰が不審者なのかすらわからない。明るく無邪気でフラットなものとして書かれた春そのもの、及びそのなかにいる誰もが、こうした稀薄で正体不明な不審者であるのかもしれない。
  
(関悦史「●水曜日の一句〔田島健一〕関悦史」2016年5月4日」『ウラハイ = 裏「週刊俳句」』)

ここで私が大事だと思うのは関さんの次の指摘だ。


「もはや誰が不審者なのかすらわからない」。


これは関さんが「謎は開かれたまま終わる」と書いたように、〈問いかけ以前〉の問題である。〈問いかけ〉を通してすべてが〈問いかけそのもの〉になっていくという〈問いかけ以前〉への地点に関さんは田島さんの句を通過することによってたどりついたのだ。


〈読む以前〉の場所に。それは〈俳句〉が〈俳句〉としてはじまる前の地点であり、しかし〈俳句〉が〈俳句〉としてはじまることによってしかたどりつけなかった地点でもある。


ふつうひとは句の〈読解〉をした後に、なんらかの〈たしかな場所〉にたどりつく。それが〈読解〉であり〈鑑賞〉である。でなければ、句を読む意味なんてない。意味が決定される場所へ赴くためにわたしたちは半ば暴力的に〈鑑賞〉を行うのだ。


ところが関さんが田島さんの句を読解してたどりついた場所は、〈読み以前の場所〉だった。「誰が不審者なのかすらわからない」、〈状況〉そのものが〈不審者〉化する場所にたどりついたのだ。


全方位的に主体が解体される場所。


その場所に田島さんの句(の関さんの読解)を通じてわたしがたどりついたとき、田島さんの句というのは《そういうもの》なのではないかとわたしは思った。


どういうことか。


冒頭の掲句をみてみよう。「噴水」は夏の季語だが、語り手はその夏の季語を通して〈どこにも〉たどりついてはいない。


たしかに「奥」を「見つめ」ながら「奥だらけ」の場所にたどりついてはいる。しかし「奥だらけ」とは〈奥〉が意味をなしえない〈解体された〉場所なのである。


語り手は〈奥〉以前の場所に〈奥〉を通してたどりついたのだ。


そしてそれこそが田島さんの俳句そのものではないか。〈奥〉が〈奥そのもの〉になろうとすること。〈問いかけ〉が〈問いかけそのもの〉になろうとすること。俳句が俳句そのものになろうとする俳句。

俳句が俳句化する過程を通して、語り手が、読み手が、俳句そのものが、「正体不明な不審者」になってしまうこと。それが田島健一の〈俳句の現場〉なのではないか。

田島さんの俳句とは、俳句が生成された瞬間、俳句が解体される〈現場〉そのものなのである。俳句だらけの場所なのである。それは、もちろん、奥が奥になりえなかったように、俳句ではない。しかし、それは、もちろん、俳句をめぐる俳句だらけの俳句なのである。


俳句は俳句にどこまで近づけるのか。俳句はいつ俳句になるのか。


わからない。わからないけれど、田島さんの俳句を読んだわたしは田島さんの俳句を通してこんなふうに思う。俳句は俳句であろうとするその限りによって俳句となる、と。


だから当然田島さんの俳句においては「出来事」は「出来事」そのものであろうとするだろう。「出来事」が「出来事」であることを問われながら、〈出来事だらけ〉のなかに置かれるだろう。つまり、


  菜の花はこのまま出来事になるよ  田島健一
   (「春は寝てから」『オルガン』5号・2016春)



          (「射る女子」『オルガン』2号・2015年7月 所収)

2016年8月5日金曜日

フシギな短詩29[柳谷あゆみ]/柳本々々



  シャイとかは問題ではない一晩中死なないマリオの前進を見た  柳谷あゆみ



マリオとは任天堂のゲームのキャラクターである。以前からマリオが短詩において〈死生観〉をひっぱりだすキャラクターであることに興味をもっていた。この柳谷さんの歌でも「死なないマリオ」としてマリオと死が関連づけて語られている。

なぜマリオは独自の死生観を引きずり出すのか。

これはそもそもマリオのゲームシステムと関連が深いように思う。マリオはさらわれたピーチ姫をクッパから救い出すために敵を倒して〈進む〉ことが目的であるアクションゲームだが、ステージの途中でなんども死ぬことを〈要請〉されるキャラクターである。そのためマリオは99個まで〈死んでもいい〉命をもつことができる。

マリオというゲームにとって〈死ぬ〉ことは〈生きる〉ことよりも〈大事〉である。なぜなら、ステージ途中にある仕掛けやプレイヤー特有の弱点を〈死ぬ〉ことによって学ぶからだ。なんどもなんども〈死ぬ〉ことによってプレイヤーは〈生き抜く〉ための〈固有〉の経験値を積んでゆく。

それがゲームの世界の〈リアリズム〉である。ゲームにおける〈死〉とは〈死〉ではなく、むしろ〈生〉の根っこになっている。

だからプレイヤーはマリオをプレイする過程のなかで、死についての経験値を重ねていく。もっと言えば、死についてなんどもなんども出会い、無意識にかんがえ、くわしくなってゆく。敵キャラクターの死、じぶんじしんの死、複数の死、バグの死、死なない死。

だから「シャイとかは問題ではない」。この〈死〉は〈内面〉に抵触しない〈死〉だからだ。

でも柳谷さんのこの歌集で注意したいのはこうしたマリオの〈死生観〉に対になるような〈死〉の歌がでてくることである。引用してみよう。

 
  ああ海が見えるじゃないか柳谷さん自殺しなくてよかったですね  柳谷あゆみ

なぜ語り手は「柳谷さん自殺しなくてよかったですね」と語りかけたのだろう。それは「自殺」したらそこで〈終わる〉からだ。「死なないマリオ」ではない語り手は、もし「自殺」した場合、「ああ海が見えるじゃないか」という《たったそれだけ》の発話さえできなくなるのだ。それがマリオの死の〈複数性〉に対するこの歌の死の〈一回性〉である。その意味で、「マリオ」ではない「柳谷さん」はたった〈一回〉しか生きられない存在である。しかもこの歌は対なのだから、「柳谷さん」は「シャイ」を問題にするひとでもある。ここに「シャイ」の秘密がある。

「シャイ」=恥ずかしさ、とは、なにか。それは〈一回〉しか、〈一度〉しか生きられないことだ。だから、〈恥ずかしい〉のだ。「シャイ」が問題になるのだ。やり直せないから。

何度でもやり直すことができる「マリオ」は「シャイとかは問題ではない」。でも「柳谷さん」はちがう。「柳谷さん」はなんどでもやり直せない。だから「シャイとか」も問題になるし、この「海」もマリオのドットの海とは違い、たった「一度」だけ出会える「海」なのだ。だからこそ「ああ」と語り手は感嘆している。マリオには感嘆ができない。

たった〈一度〉しか生きられないこと。わたしたちのすごくシンプルな生のリアリズム。でもだからこそ語り手は「失っ」たものをとうとぶこともできるのだ。マリオがいくらしたくてもできなかったこととして。たとえば、

  こんにちはみなさんたぶん失ってきたものすべて うれしいよ会えて  柳谷あゆみ

          (「弱い夜」『ダマスカスへ行く 前・後・途中』六花書林・2012年 所収)

2016年8月2日火曜日

フシギな短詩28[飯田有子]/柳本々々



  たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔  飯田有子


この歌の〈格差〉に注意してみたい。私はこの歌の〈読解のしがたさ〉としかしそれでもさし迫って現れてくる〈切迫〉はこの歌に内在している〈格差〉にあるような気がするからだ。

まずこの歌の構造の取り出し方をこんなふうにとってみようと思う。

  たすけて(枝毛姉さん)たすけて(西川毛布のタグ)たすけて(夜中になで回す顔)

ここで大事なのが「たすけて」を三回《まったくおなじかたち》でリフレインできた語り手は主体としては《ブレていない》ということだ。「たすけて/タスケテ/助けて」などの揺れはなく、主体のメッセージはひとつだ、「たすけて」と。語り手はシンプルなほどに〈たすけ〉を求めている。たすけを求める主体はブレていない。

でも問題は〈誰に〉たすけを求めているか、だ。たとえばこんなふうに考えてみる。もしこの歌が次のようなかたちだったらどうか。

  たすけて枝毛姉さんたすけて西川父さんたすけて夜中母さん

ここでは助けを求められた対象が「姉さん/父さん/母さん」と同系列になることでブレてはいない。助けてを求めたい対象が《はっきりする》からだ。ところがこの歌には助けを求める対象に対しての〈格差〉がある。「枝毛姉さん」と「西川毛布のタグ」と「夜中になで回す顔」。「姉さん」(人)と「西川毛布のタグ」(物)と「夜中になで回す顔」(行為)というヘルプの対象のバラバラな〈格差〉によってどうしても〈構造〉が崩れてしまうのだ。

つまりわたしが言いたいのはこういうことだ。

語り手が「たすけ」を求めているのははっきりとわかる。それは「たすけてAたすけてBたすけてC」と「たすけ」を求める主体がブレていないから。

でもその「たすけ」を求める過程のなかで語り手が「たすけ」を求めながら「たすけ」てもらいたい対象への〈格差〉を持ち込み、語り手自身の認知の怪しさを持ち出すことによって構文自体が崩れていく。つまり〈はっきりと〉わからなくなる。この語り手は〈どう〉たすけてもらいたいか、が。

この二段階のレベルによってこの歌は成り立っている。主体の同一性による〈この歌はどうにかして読めそうな切迫観〉と対象の複数性による〈この歌はどうあがいても読めないという逼迫観〉。

これはこの「たすけて」という構文が壊れた歌なのではないかと思うのだ。「たすけて」をはっきり言う主体はある。でもその「たすけて」を回収できる対象も構文もどこにも存在しない。

この歌集『林檎貫通式』が出版されたのは2001年。

小泉純一郎政権による構造改革路線で労働市場が流動化し、格差社会が目立ち始めたのが2001年だった。アメリカ同時多発テロの暗い翳りのなかで、労働強化に連動して鬱病や自殺者が増加した。「たすけて」はあった。でもその「たすけて」を生成する構文も「たすけて」をどこに向けたらいいかという対象も錯綜していた。「たすけて」の言い方も、誰に「たすけ」を求めたらいいかのかもわからない。そういう時代のなかにあった歌だ。

「たすけて」ほしい主体が「たすけて」と叫んでゆくそのプロセスのなかで壊れていく。

誰に助けを求めたらいいのか。誰も助けてはくれない。〈自己責任〉のなかで生きていくしかない。

でも決して〈孤独〉ではなかった。〈みんな〉がみてくれていた。というよりも、〈見えないみんな〉が監視してくれるようになった。対テロ戦争に伴う情勢の不安定化によって、「夜中になで回す顔」のようにたえず〈監視社会〉化していったのもこの年だったから。「枝毛」のように都市のなかに細分化された〈視線〉によって、どこに逃げても「タグ」付けされた〈ひとびと〉が、「顔」を「なで回」されるように朝も「夜」も〈監視〉される〈監視社会〉の到来。たすけて。



  では、がんばりましょうねえとおばあちゃんが手をあげて降りていった夕焼け  飯田有子



          (「オゾンコミュニティ」『林檎貫通式』ブックパーク・2001年 所収)




クレイジーケンバンド楽曲「たすけて」