2016年8月2日火曜日

フシギな短詩28[飯田有子]/柳本々々



  たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔  飯田有子


この歌の〈格差〉に注意してみたい。私はこの歌の〈読解のしがたさ〉としかしそれでもさし迫って現れてくる〈切迫〉はこの歌に内在している〈格差〉にあるような気がするからだ。

まずこの歌の構造の取り出し方をこんなふうにとってみようと思う。

  たすけて(枝毛姉さん)たすけて(西川毛布のタグ)たすけて(夜中になで回す顔)

ここで大事なのが「たすけて」を三回《まったくおなじかたち》でリフレインできた語り手は主体としては《ブレていない》ということだ。「たすけて/タスケテ/助けて」などの揺れはなく、主体のメッセージはひとつだ、「たすけて」と。語り手はシンプルなほどに〈たすけ〉を求めている。たすけを求める主体はブレていない。

でも問題は〈誰に〉たすけを求めているか、だ。たとえばこんなふうに考えてみる。もしこの歌が次のようなかたちだったらどうか。

  たすけて枝毛姉さんたすけて西川父さんたすけて夜中母さん

ここでは助けを求められた対象が「姉さん/父さん/母さん」と同系列になることでブレてはいない。助けてを求めたい対象が《はっきりする》からだ。ところがこの歌には助けを求める対象に対しての〈格差〉がある。「枝毛姉さん」と「西川毛布のタグ」と「夜中になで回す顔」。「姉さん」(人)と「西川毛布のタグ」(物)と「夜中になで回す顔」(行為)というヘルプの対象のバラバラな〈格差〉によってどうしても〈構造〉が崩れてしまうのだ。

つまりわたしが言いたいのはこういうことだ。

語り手が「たすけ」を求めているのははっきりとわかる。それは「たすけてAたすけてBたすけてC」と「たすけ」を求める主体がブレていないから。

でもその「たすけ」を求める過程のなかで語り手が「たすけ」を求めながら「たすけ」てもらいたい対象への〈格差〉を持ち込み、語り手自身の認知の怪しさを持ち出すことによって構文自体が崩れていく。つまり〈はっきりと〉わからなくなる。この語り手は〈どう〉たすけてもらいたいか、が。

この二段階のレベルによってこの歌は成り立っている。主体の同一性による〈この歌はどうにかして読めそうな切迫観〉と対象の複数性による〈この歌はどうあがいても読めないという逼迫観〉。

これはこの「たすけて」という構文が壊れた歌なのではないかと思うのだ。「たすけて」をはっきり言う主体はある。でもその「たすけて」を回収できる対象も構文もどこにも存在しない。

この歌集『林檎貫通式』が出版されたのは2001年。

小泉純一郎政権による構造改革路線で労働市場が流動化し、格差社会が目立ち始めたのが2001年だった。アメリカ同時多発テロの暗い翳りのなかで、労働強化に連動して鬱病や自殺者が増加した。「たすけて」はあった。でもその「たすけて」を生成する構文も「たすけて」をどこに向けたらいいかという対象も錯綜していた。「たすけて」の言い方も、誰に「たすけ」を求めたらいいかのかもわからない。そういう時代のなかにあった歌だ。

「たすけて」ほしい主体が「たすけて」と叫んでゆくそのプロセスのなかで壊れていく。

誰に助けを求めたらいいのか。誰も助けてはくれない。〈自己責任〉のなかで生きていくしかない。

でも決して〈孤独〉ではなかった。〈みんな〉がみてくれていた。というよりも、〈見えないみんな〉が監視してくれるようになった。対テロ戦争に伴う情勢の不安定化によって、「夜中になで回す顔」のようにたえず〈監視社会〉化していったのもこの年だったから。「枝毛」のように都市のなかに細分化された〈視線〉によって、どこに逃げても「タグ」付けされた〈ひとびと〉が、「顔」を「なで回」されるように朝も「夜」も〈監視〉される〈監視社会〉の到来。たすけて。



  では、がんばりましょうねえとおばあちゃんが手をあげて降りていった夕焼け  飯田有子



          (「オゾンコミュニティ」『林檎貫通式』ブックパーク・2001年 所収)




クレイジーケンバンド楽曲「たすけて」