2016年7月12日火曜日

フシギな短詩25[木下龍也]/柳本々々



幽霊になりたてだからドアや壁すり抜けるときおめめ閉じちゃう  木下龍也

木下さんが描く幽霊はいつも〈いきいき〉している。たとえば、

  ザ・ファースト・クリボー無限回の死を忘れて無限回の出撃  木下龍也

  リクルートスーツでゆれる幽霊は死亡理由をはきはきしゃべる  〃

任天堂の『スーパーマリオブラザーズ』に出てくる敵キャラクターのクリボーはゲームのシステム上じぶんじしんの〈死〉を忘れて何度も〈いきいき〉と出撃してくるし、「リクルートスーツ」を着込んだ〈生まれたて〉の幽霊たちは生前よりも〈いきいき〉とするかのように「はきはき」と「死亡理由」をしゃべる。

これはいったいどういうことなのか。

私が思ったのは、ここで起こっている事態とは〈死の/への忘却〉ではないかということだ。

ひとはその生の過程においていろんなことを忘れていくが、ひとは〈死〉の過程において〈死〉さえも忘れる。それが木下さんの歌におけるひとつの〈死生観〉なのではないか。

だから「幽霊になりたて」の自分は〈死んでいる身体〉を忘れ、〈生きていた身体〉を自動的に想起し、反射的に「おめめ」を「閉じ」てしまう。〈わたし〉の意思にかかわらず、身体のシステム、思い出のシステム、忘却のシステムが〈そう〉させてしまうからだ。

「クリボー」もそうだ。じぶんの〈死〉をわすれて、ゲームのプログラムのシステムによって何度でもマリオにつっこんでくる。「リクルートスーツ」もまた〈就活〉というプログラム化されたものである以上、〈死〉を忘れさせる装置になる。

このとき大事なことは、〈忘却〉である。この〈忘却〉にこそ、木下さんが描く幽霊の〈いきいき〉がある。そしてそこから逆照射されたわたしたちの生も。

なぜ、死の忘却にわたしたちの生があるのか。

それは、忘れることが、生者の特権だからだ。

ひとがなにかを忘れるということ。ついうっかり忘れてしまうということ。それが〈生きている〉ということであり〈生の複雑さ〉なのだ。

いっけんわたしたちの生はシステムによっているようでいて、それでもそのシステムのプログラムを忘れ、ノイズを引き起こしてしまう。それが生きていることのやっかいさであり同時に愛おしさでもある。生きるとは、この生のノイズを増幅させることであり、たとえ幽霊になったとしても〈その死〉に対し〈このわたし〉が〈生きるおっちょこちょい〉であることにほかならないのだ。

だから木下さんの「おめめ」は〈幽霊〉化したはずの死のプログラムに生のエラーを引き起こす。〈彼〉はまだ〈生きている〉のだ。誰のシステムでもない、じぶんじしんの生として。

どれだけ〈わたし〉が死んだとしても、まだやってくる生のたくましさと愛おしさ。「おめめ」、この愛すべきもの。

          (「雲の待合室」『現代歌人シリーズ12 きみを嫌いな奴はクズだよ』書肆侃侃房・2016年 所収)