2016年6月28日火曜日

フシギな短詩23[牛隆佑]/柳本々々



そしてふたりは暮らしはじめたエレベーターとエスカレーターの少ない町で  牛隆佑



牛さんの短歌のなかで〈ふたり〉という構成要素は思いのほかに大きいように思う。たとえば牛さんにはこんな〈ふたり〉の歌もある。

  地球には風ってものがありたまに誰かの初夏を伝えたりする  牛隆佑


  (安福望『食器と食パンとペン わたしの好きな短歌』2015年)

この歌では「風」を通じて〈誰かの初夏〉と〈わたしの初夏〉が対になることで「初夏」という季節が〈ふたり〉の親密度に置換されている。それは〈誰か〉から〈わたし〉へと「伝え」られるものであるのだ。だからこの牛さんの歌をもとにして描かれた安福望さんの絵が熊と男の子の〈ふたり〉の絵であったことは私には意味がとても深いように思う。この歌は〈ふたり〉という構成要素によってはじめて「初夏」が具体的で親密で個人的な〈手紙〉のような季感になるのだ。

そもそも、〈ふたり〉とは、なんだろう。それは〈ひとり〉ではコントロールできない〈未来の凹凸(おうとつ)〉を抱きかかえることだ。〈ふたり〉とは、〈ひとり〉では出会うことのできない〈ふたり〉ぶんの価値観に出会うきっかけであると同時に、もしかするとどこかでまた〈ひとり〉になってしまうかもしれない危機感もはらんださまざまな凹凸を含んだ〈対〉である。

〈ふたり〉は〈ふたり〉でいようとする意志によってはじめて〈ふたり〉でいることができる。裏返せばその意志によってで《しか》〈ふたり〉は構成できないのだ。どんな凹凸がやってこようとも。

だから掲歌で語り手が〈ふたりの暮らし〉を取り巻く環境として「エレベーターとエスカレーター」に視線を向けたのは興味深いことだと思う。語り手は街の「エスカレーター」と「エレベーター」という街のそこかしこにある垂直上下運動としての凹凸に着目したのだ。その凹凸の少ない町で「ふたりは暮らしはじめた」。

この町に凹凸は少ない。でもこれから〈ふたりの暮らし〉にはこの水平が特権化された町でさまざまな〈ふたり〉をめぐる凹凸が出てくるかもしれない。〈ふたり〉で暮らすとはそういうことだから。そして語り手も凹凸に視線を向けた以上、おそらくは潜在的なその凹凸に気がついているはずなのだ。

それでもこの歌が「そして」で始まっていることにこれからの〈凹凸の希望〉があるように思う。

「そして」という接続詞の凹凸ある言葉づかいによって、唐突に〈ふたり暮らし〉が語り始められたこと。語り手はそうした〈始まり〉としての「そして」にこれから幾度も出会うことを予期している。それはいかなる凹凸にであっても、「そして」でもう一度始められる意志でもあるのではないか。

凹凸の少ない町で、凹凸のような突然の「そして」から〈ふたり〉の暮らしは始まったこと。

もしかしたら、〈ひとり〉の人間が誰かと出会い〈ふたり〉になるということは、それまで〈ひとり〉では決して手に入らなかった〈そして〉を手に入れることなのかもしれない。

  幸せに僕がなってもいいのですずっと忘れていたことですが  牛隆佑


  (「春の歌」『うたつかい第6号』2012年3月)

             
 (「空き家を燃やす」『ぺんぎんぱんつの紙 ジューシー』2014年11月  所収)