2016年6月21日火曜日

フシギな短詩22[泉紅実]/柳本々々




  カラオケBOXを出るとあんかけの世界  泉紅実


「カラオケBOX」という防音の密室を出ると「世界」は「あんかけ」のようにどろどろになっている。意味やモノの境界が溶け、すべてがいっしょくたになりどろりとした、濃厚であつあつの「世界」に。知覚が密閉したカラオケ空間から出た語り手に訪れたのは知覚がないまぜになり凝固したあんかけ世界だった。

それは、いい。

ここでこの句が「あんかけ」というどろどろの世界を描きながらも、あるひとつの〈あんかけのための文法〉を提示したことに注意してみよう。それは、「カラオケBOXを出ると」という部分規定である。

この「あんかけの世界」は「カラオケBOX」を「出」た〈わたし〉しか知覚できない〈あんかけ世界〉であり、「カラオケBOX」を「出」なかった〈あなた〉とは共有できないものなのである。〈この〉あんかけは「世界」ではあるのだが、その「世界」は共有できないものであるかもしれないのだ。

この〈わたし〉にどれだけホットな〈あんかけ世界〉が訪れたとしても、そのホットなあんかけ世界のかたわらにはクールな〈あんかけ世界〉が存在している。それが掲句の「カラオケBOXを出ると」という規定のありようである。わたしは、そう、思う。宮台真司は〈世界〉を「ありとあらゆる全体」と定義したが、その「ありとあらゆる全体」は「カラオケBOX」という世界の偏狭によって規定される。

端的に言えば、わたしとあなたの世界はちがうのだ。わたしがどれだけ〈あんかけ〉として世界をまるごと感じようとそれは「カラオケBOX」を通した部分的知覚にすぎない。だからどのようなあんかけをもってしてもあなたの世界まで語ることはできない。それがこの句の〈あんかけ的あきらめ〉でもある。あんかけは、あんかけのエネルギーをもってしても、すべてを包含することはできない。このあんかけにはいつでも偏狭性=辺境性があるのだ。

ホットなあんかけは、クールなあんかけを忘れずに、それをかたわらに置きながら川柳として構造化された。あんかけにも、〈ちゃんと〉した文法があることを。

「あんかけ」に対してすべてをいっしょくたになおざりにすることなく、「ちゃんと」した部分を見出すこと。〈ちゃんとしたあんかけ〉を川柳として、構造として描くこと。

そうであればこそ、この語り手はたとえば「いちゃいちゃ」という〈愛のあんかけ行為〉にも「ちゃんと」した部分を見出すだろう。

どんなふうに?

すなわち次のように。

  秋深しちゃんといちゃいちゃする二人  泉紅実

        

  (『シンデレラの斜面』詩遊社・2003年 所収)