2016年6月17日金曜日

【最終回】 人外句境 40   [角川源義] / 佐藤りえ



月の人のひとりとならむ車椅子  角川源義




掲句は作者晩年の一句で、入院中の病棟屋上で月を眺めた折のことを詠んでいる…という情報は、「俳句研究」86年8月号の角川春樹氏による『卒意の俳句――角川源義の晩年』から得た。
月の人といえば「竹取物語」の月の都の住人を念頭に置くことになろうか。二句一章専心、景も大きく迫力満点、ぐぐっ、という擬音が似合うような源義の句柄とは少々かけ離れた印象を受ける。「ひとりとならむ」が推量なのか希望なのか、いずれのようにも取れながらも、あくまでそう「願っている」ように見えるのは、助動詞のはたらきではなく、月に対して我々が無意識下に持っている畏怖の念からくるのではないか、と思う。山本健吉の「定本 現代俳句」に『「月の人」は俳句では「月の客」「月の友」同様に「月見の人」を意味する』云々の記述があるが、そこでも後述されているように、「月の人」を月見客の表現の一とするのはかえって特殊すぎる。幾人かの月見のひとりとして…という読みも成立するといえばそうだろうか、しかしそれでは「ひとりとならむ」が大袈裟だ。

竹取物語において「月の人」は不老不死であるとともに「物思いもない」とされている(これが政治への批判を意図する…といった説はここではひとまず置く)。高畑勲監督のアニメーション映画「かぐや姫の物語」でも、迎えに来た使者に羽衣を着せられた途端、かぐや姫から育ててくれた翁・媼への思慕の念が消えてしまう描写があった。惑いのない心境とはどんなものだろうか。煩悩にまみれた一般人にとっては、理想郷のようでもあり、味気ない世界のようでもある。
「月の人」になれたらよかろう、と車椅子の一人は思っているのだろうか。あるいは、自身はすでに月の人のようなものである、つまり、此の世を去りゆくところだ、という感慨なのだろうか。

景も大きく迫力満点、ぐぐっ、という擬音が似合う、と書いたが、私自身が好きなのは、作者の以下のような句である。

ロダンの首泰山木は花得たり  『ロダンの首』 
百日紅縁者を埋けて帰り来る 
コロンバンと見さだめ春の夜となりぬ 
冬波に乗り夜が来る夜が来る  『秋燕』 
水すまし沼の独語を生れつげり 
中年の顔奪はるる泉かな 
ひつじ踏めば姨捨の海喪の色す

「コロンバンと見さだめ春の夜となりぬ」は、ああ、あれは野鳩(コロンバンはフランス語の野鳩)か、と暮れかかった春の空を行く鳥を遠く見ている景。初句最終音の「と」が結句の「と」と呼応して、軽やかなリズムを持つ。音と表記と内容のウェイトがスモーキーに釣り合った、美しい句である。「冬波に乗り夜が来る夜が来る」は補陀落渡海を詠んだ一連の作。音も、含意も恐ろしい。句材を離れ、独立して読んだにしても、「夜が来る」のリフレインが真言めいて聞こえてくる。


〈『角川源義全句集』1981/角川書店〉