2016年5月10日火曜日

フシギな短詩16[中澤系]/柳本々々




理解したような気がした 理解したような気がした、ような気がした  中澤系

ときどき、中澤系さんにとって〈理解〉とはなんだったのだろうと考えている。中澤さんには〈理解〉をめぐるとても有名な歌がある。

  3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって  中澤系

穂村弘さんがこの歌に対してこんな〈理解〉をめぐる解説をしている。

 今、それが「理解できる人」であっても、進化や変化や崩壊を無限に繰り返す世界のルールを永遠に理解し続けることはできない。どこかで必ずついていけなくなる日がくる。誰もが未来のどこかの地点で、世界から「理解できない人は」と告げられることになる。「下がって」と。
  (「未来の声」『中澤系歌集 uta0001.txt』双風舎・2015年 所収)

穂村さんの解説を敷衍して私なりに言葉にしてみれば、中澤系さんにとって〈理解〉とは言葉の受け手が〈枝分かれ〉するものであったのではないだろうか。

たとえば「快速電車が通過しますお下がりください」はその言葉の受容者を一枚岩にするものだ。そのときひとりひとりは〈みんな〉になって「お下がり」するだろう。だれも・なにも・疑わずに。

ところがそこに「理解」という、言葉の受け手にとって〈理解の仕方〉に差異がでる言葉の場合は、シーンが変わってくる。理解できるひとも出てくれば、理解できないひとも出てくる。穂村さんが書いたように、きょう理解できても、あした理解できないひともいるだろう。もちろん、きょう理解できなくて、あした理解してしまうひともいるかもしれない。

ともかく〈理解〉によって状況は〈偶有〉的になるのだ。つまり、わたしたちは、そのつど〈たまたま〉「お下がり」している者たちに過ぎないと。そしてもっといえば、きょうわたしたちは〈たまたま〉いまここにいてみずからの存在を〈たまたま〉受け止めているにすぎないんだと。

だとしたら、わたしたちは〈理解〉という言葉そのものを《理解》することが困難なのではないだろうか。〈理解〉したと思っても、それは次のしゅんかんには〈食い違って〉いるかもしれない。幻想かもしれない。錯覚かもしれない。

だから初めに掲げた歌にわたしたちは戻ってくる。

  理解したような気がした 理解したような気がした、ような気がした  中澤系

理解に〈終わり〉はない。「理解」という言葉を提出したしゅんかん、わたしたちは〈果て〉のない〈平坦な戦場〉を生き延びてゆかねばならないことを自覚する。いや、させられてしまうのだ。「理解」という発話そのものから。

  理解とはなにかぼくにはわからないわからないことだけわかるけど  中澤系

加藤治郎さんは中澤さんの歌集のモチーフをこんなふうに指摘していた。

 「終わらない」ことは、この歌集のモチーフであった。
  (「uta のために」前掲)

わたしたちは、たぶん、「理解」を「理解」しあえない。

でもそこから、もういちど、始めてみたい。また終わるために。

          (「Ⅰ 糖衣(シュガーコート)1998 1999」『中澤系歌集 uta0001.txt』双風舎・2015年 所収)