2016年4月5日火曜日

フシギな短詩11[榮猿丸]/柳本々々



  レジの列に抱きあふ二人春休  榮猿丸

レジに並んでいるとレジの列に抱き合っている二人がいる。コンビニなどでたまにみられる風景だ。

この突如あらわれた〈いちゃいちゃ〉を語り手は俳句を通してみつめている。この俳句化された〈いちゃいちゃ〉を〈法〉と〈無法〉という観点から考えてみたい。

まず「レジの列に」というこの句の出だしに〈法〉がある。ここでは〈列〉という規則性によって〈法〉が遵守されていることがわかる。

そこに対比されてあるのは、下五の「春休」という季語だ。「春休」は、いわば学校規則という〈法〉の外にある時空間だ。「春休」とは学校が管轄しないひとつの〈無法地帯(アジール)〉であり、この「レジの列」のなかの「抱きあふ二人」はいわば〈法のお休み〉のなかで抱き合っている。無法地帯における「抱擁」といっても、いい。

でも考えてみたいのは「二人」という呼称が使われていることだ。これは〈いちゃいちゃ〉を〈僕ら〉という〈内側〉からではなく「二人」という〈外側〉から眺めている風景なのである。だから抱擁する〈僕ら〉は無法地帯にいるかもしれないけれど(「僕らは今いちゃいちゃしている」)、それを俳句を通して外から眺めている語り手は「レジの列」という〈法〉のなかにいる(「この二人は今いちゃいちゃしている」)。

つまり中七の「抱きあふ二人」は実は〈法〉から〈無法地帯〉にいる「二人」を〈外〉から眺めている視点でもあるのだ。そして同時に、語り手は季語「春休」によってその〈法〉を〈無法〉へと緩和してもいるのである。

だから、この句における〈いちゃいちゃ〉は、法と無法の〈はざかい〉にある。すなわち、上六「レジの列に」という〈法〉と下五「春休」という〈無法〉に《文字通り》中七「抱き合ふ二人」が〈挟まれ〉るかたちで、ふたりは「抱擁」しあっているのだ。

法と無法の〈あわい〉のなかでの抱擁。

ここには、ひとは抱擁するとき、いったい〈どこ〉で抱擁するのかという問題がある。

ひとは、法のなかで抱擁するのか、それとも無法地帯で抱擁するのか、それとも法と無法のはざかいで抱擁するのか。

だから今度抱擁するときに少しだけ確かめてみてほしい。いま、〈僕ら/二人〉は〈どこ〉で〈いちゃいちゃ〉し〈抱擁〉しているのかを。

          (『点滅』ふらんす堂・2013年 所収)