2016年4月21日木曜日

人外句境 38  [曾根毅] / 佐藤りえ



立ち上がるときの悲しき巨人かな  曾根毅

「巨人」はこれまで扱ってきた「人外」のなかではちょっと特別な存在である。「擬人化」という言葉があるが、「巨人」は「大きすぎる人」であり、人になぞらえるどころか、大きさ以外の要素は人と同じであるように考えられがちである。神話・伝承に残る彼らの情報は、地形を作った、などの大きさを活かした特殊なことを除けば、山にすわった、川で足を洗った、など(スケールを除き)人間の行動と大差ないものとされている。

その「大きさ」というたったひとつ(ではないだろうけど、もっとも特異なところ)の異質さを、大きさゆえに、彼らはひとびとの目から隠すすべもない。

立ち上がるとき、と書かれているが、巨人はきっと立ち上がる以前も悲しい。敢然と立ち上がるとき、その大きさはより際立ち、見るものを圧倒することを、巨人は知っている。

地面に拳をつき、踵に力を入れる、動作の瞬間の、悲しみのきわまりを描く掲句は、やさしく悲しい響きを持っている。



掲句は句集『花修』冒頭に置かれている。編年体の句集なので、一冊の中では作者が最初期に詠んだ句、ということになる。本の冒頭に作者の本質が表れる、などと軽々に言いたくはないが、この作者のえがく、薄闇の気配をまとったような作品群と巨人の「悲しさ」には通底するものがあるように思う。


暴力の直後の柿を喰いけり
白菜に包まれてある虚空かな
我が死後も掛かりしままの冬帽子
山鳩として濡れている放射能
天蓋の燃え残りたる虚空かな
少女病み鳩の呪文のつづきおり
人日の湖国に傘を忘れ来し
春昼や甲冑の肘見当たらず
殺されて横たわりたる冷蔵庫
祈りとは折れるに任せたる葦か

暴力の直後の柿を喰いけり」は暴力の余韻を十分に曳く佳句。この句のように、事象の「瞬間」でなくその「のちのこと」を予感し、また、前後の時間を思わせる「言葉の経過」を持つ句も印象的だった(「我が死後も掛かりしままの冬帽子」「天蓋の燃え残りたる虚空かな」「人日の故国に傘を忘れ来し」など)。「殺されて横たわりたる冷蔵庫」など、暴力も含めた力の行使の果ての変容といったものも主題の底に流れているのだろうか。

山鳩として濡れてゐる放射能」集中にはセシウム、マイクロシーベルトといった語彙により、福島第一原子力発電所の事故による災禍を間接的に詠んだ句もあった。実際のところ、こうした言葉が作家自身、また読む者にとって「詩語として」共有できるようになるのか、現在すでにそうなっているのか、は判断が難しいところであると思う。放射能が「山鳩として」濡れているという表現は、放射能を「山鳩として」捉えている、ということでもある。言葉の世界のなかでそれら目にも見えないものを単に「言葉を使って」あらわすのではなく、捉え直し、形を与えようとする意思がよく見える。世界を「捉え直す」という、言葉、ひいては詩の本来の役割について、改めて考えさせられる。

〈『花修』深夜叢書社/2015)