2016年12月30日金曜日

フシギな短詩71[松岡瑞枝]/柳本々々






  お別れに光の缶詰を開ける  松岡瑞枝


 昨日、森の中で、わたしはこんなふうに考えた――死を考えることを避けてはいけない、自分の人生の終わりの、ある一日のことを想像してみよう。穏やかなある日、一見、ほかの日とほとんど変わらないように思える、そのくせ突然、すべてがスピードを上げ――あるいは、おそらく、スピードをゆるめて――すべてが非常に密接に感じられる日のことだ。 
  (アン・ビーティ、亀井よし子訳「人生の終わりの、ある一日のことを想像してみよう」『貯水池に風が吹く日』草思社、1993年)

今年最後の記事になるので、少し〈終わり〉のことを考えてみよう。

どうして川柳という文芸には〈終わり〉をめぐる句が多いのだろう。

掲句もそうだ。「お別れ」で始まっている。たとえば次のような句もあげてみていいだろう。

  三十六色のクレヨンで描く棺の中  樋口由紀子
   (『容顔』詩遊社、1999年)

  たてがみを失ってからまた逢おう  小池正博
   (『セレクション柳人6 小池正博集』邑書林、2005年)

上記三句はどれも〈さようなら〉をめぐる句である。

松岡さんの「お別れ」、樋口さんの「棺の中」、小池さんの「たてがみ」の喪失。どれもそれぞれの〈さようなら〉である。

ところがもうひとつこれら三句に共通しているものがある。それは〈さようなら〉に突入しはじめたしゅんかん、現場がいきいきと息づいてくることだ。「光の缶詰」、「三十六色のクレヨン」、「また逢おう」。どれも、いきいきと輝いている。さようならの現場で。

なぜ現代川柳は〈さようなら〉をすると輝きだしてしまうのだろう。

フシギである。

ここで、ひとつの乱暴な仮説を提出してみたい。

俳句には季語があって、川柳には季語がない。

季語とは、なんだろう。季語とは自分の意志ではどうしようもできない言葉のことである。季語は共同体的なものであるため、勝手なシステムの改変は許されない。季重なりをしてはいけないなど季語をめぐる法=禁忌がきちんと定められている。

いわば、俳句はそのために季語というひとつの去勢から句をつくりはじめる。しかしその去勢という不能感をとおして俳句は俳句にしかない俳句的主体をたちあげることができる。

では、川柳は、どうやって川柳的主体をつくりあげるのだろう。川柳には季語がない。しかも、川柳というのは柄井川柳という選者の〈個人名がそのままジャンルになった〉奇妙なジャンルなので、定められた法も禁忌もない。自由にできる万能感に満たされた文芸といってもいい。その意味では小津夜景さんが指摘したようなSF・雑食的なジャンルであり、飯島章友さんが述べていたように異種格闘技・プロレス的なジャンルである。

しかしその万能感を去勢するものが現代川柳にとっては〈さようなら〉だったと言えないだろうか。現代川柳は〈さようなら〉を密輸することで、みずからに去勢をほどこす。「お別れ」「死」「喪失」という去勢をとおして不能感におちいってから五七五をたちあげる。それが川柳的主体なのではないか。そうやって川柳独特の川柳的主体をたちあげたのではないか。

川柳は、〈さようなら〉を、嬉しがっている。

さようならから、始めること。それが現代川柳なのかもしれないとおもうのだ。

ちがうかもしれない。でもいつでもさようならから始められることを教えてくれる現代川柳はわたしにふしぎな勇気をくれる。

終わっても終わってもさらなる「やあ」がやってくる。

これがほんとうに終わりなのか、と思ったせつな、真顔でやってくる「こんにちは」。それは真顔なのにきらきらしている。

今年が、終わる。前へ。

  Oh, Mama, can this really be the end もといこんにちは  柳本々々
   (『川柳 北田辺』74号・2016年11月)



          (「前へ」『光の缶詰』編集工房円・2001年 所収)

2016年12月27日火曜日

フシギな短詩70[吉田戦車]/柳本々々




  パンが好き/心隠して/植える苗  吉田戦車

   【評】稲作農家として米作りにうちこんできて50余年。作る米は高い評価を受け、後継者も育った。「でも本当は……」このことだけは生涯誰にも言うまいと、静かに田を見つめる萩原さん(仮名)の春だ。

ほんとうは「パンが好き」なのにその内面を抑圧して「苗」を植える「萩原」さん(仮名)。こうした〈ほんとうはそうじゃないのに・でもそうするしかなかった〉という静かな激情的内面の構成の仕方はおなじ吉田さんの漫画『伝染るんです。』にも時折見受けられた。

たとえば『伝染るんです。』においてかわうそ君にコーラの飲み方を教わる高齢者たちがそうだろう。ほんとうはコーラが飲みたいのだが炭酸の泡の圧力に負けてしまう。しかし、〈飲みたい〉のだ。

この本の装画に注目してみよう。船長の格好をしたイタリア系男性が短冊に羽根ペンで一句詠んでいる。「なぜあなたがハイクを」という吉田戦車さんらしいシュールな風景になっているのだが、この表紙をひらくと扉絵にはおなじ構図で未知の生命体がやはり短冊を手にし一句詠んでいるシュールな風景があらわれる。

つまり、なんなのか。

装画・扉絵からわかるこの本のコンセプトとして、このエハイク(絵俳句)は「それっぽくないひと」が「そうでない場所」で詠んだものだということができるだろう。非俳句的な場所から。

それは掲句からもわかる。パンが好きなのに米作りに精進している。「ほんとうはこうだったのに」という隠される激情。それは、〈ドラマ〉である。葛藤だから。俳句はドラマ=葛藤からいちばん遠く離れた場所にある文芸だが、しかし〈あえて〉俳句にドラマを持ち込むこと(おそらくそのドラマをナチュラルにするのが一枚絵の説得力だ)。

だから吉田戦車的構図とは、「そうでない」風景に埋め込まれたときに生み出される。高齢者たちがコーラを若者のように飲まなければならなくなったときに「そうでない」ドラマがうまれるのだ。

  ふきのとう/となりの犬は/食べぬなり  吉田戦車

犬がおじさんにふきのうとうを押しつけられている。おじさんはこう思っている。「犬はふきのとうを好きなはずだ」と。しかし犬はこう思っている。「おい、おじさん、やめなよ」と。

激しく行き違う内面。これも吉田戦車的風景のひとつだ。吉田戦車マンガに人外やロボット、星人、動物、高齢者、お嬢さま、ヤクザといった通常のコミュニケーションではすれ違う人々がでてくることが多いのはこれが理由なのかもしれない。「好きなはずだ」と「おい、やめなよ」の過激な交錯。それが吉田戦車の風景だ。


         
 (『惡い笛 エハイク2』フリースタイル・2004 所収)




2016年12月23日金曜日

フシギな短詩69[本多真弓/本多響乃]/柳本々々




    誰からも習つたことはないはずのへんな形になる ひとを恋ふ  本多真弓/本多響乃


クリスマス前なので「ひとを好きになる」ということについて少し考えてみよう。

この本多さんの歌集に収められた短歌は社会から押しつけられる〈形〉に非常に敏感だ。ちょっとみてみよう。

  佐藤さんは
  結婚しても
  佐藤さん

  手続き楽よ
  と
  笑ふ佐藤さん   本多真弓/本多響乃



  レシートに

  一人


  と記載されてゐて
  わたしはひとりなのだと気づく   〃


  赤い字で記入してくださいねつて
  赤いボールペン渡される   〃


社会から押しつけられる形、それは「結婚」したあとの〈名字〉であったり、貨幣を支払ったあとの「一人」であったり、「赤いボールペン」だったりする。これら歌が特徴的なのは、〈だれか〉や〈なにか〉と《関わる》ことによってその押しつけられる形が生まれるということだ。

わたしたちが社会に関わるということは時になにかを生み出すことではなく、場合によっては、形式を押しつけられることになるかもしれないことを端的にあらわしている(それは「ひとを好きになる」ときもそうだ。「ひとを好きになる」とは実は誰かに・社会に関わるということなのだ)。

「佐藤さん」は「手続き楽よ」と「笑」っているが〈わたし〉は「楽」じゃないかもしれない。そのとき「手続き楽よ」というなにげない言葉はわたしにかすかな暴力として機能するかもしれない。だれも・なにも意図していないのに。

そうここにあらわれた〈押しつけ〉は誰も〈押しつけ〉ようとはしていないものだ。「赤い字で記入してくださいね」は〈押しつけ〉ようとする意図ははない。「赤い字で記入し」なければならないから「赤いボールペン渡」したのだ。しかしそこになぜかかすかな暴力の匂いが生まれてしまう。

これを無人称の暴力と名付けてみたい。誰が意図したわけではない、誰もそうしようと思ったわけではない、しかし誰かと誰かが交流し関わったときに生まれてしまう誰のものでもなく私にかかわってくる暴力を。

掲出歌をみてみよう。だからこその「へんな形」の有効性なのだ。「へんな形」とは〈押しつけられた形〉への反逆になるだろう。もちろんそれも意図しない反逆になる。

ひとを好きになるということは、社会から形をおしつけられることでもある。しかし、同時に、社会から押し付けられた形をくつがえす思いがけない「へんな形」に出会うのもまたひとを好きになるということなのだ。

その意味で、ひとを好きになるということは、素晴らしくない状況にじぶんをつっこみながらも、予想もしない素晴らしさに出会う行為でもある。へん、とは、予想不可能性のことだ。〈わたしの好き〉がたとえ予想可能であっても、〈なんでこのひとがこんなに好きなんだろう〉はいつも「へん」という予想不可能性としての素晴らしさがある。

「恋」をするということは予想もしなかった思いがけない〈形〉をうむことになる。だれも知りえなかったへんなかたちを。

それは押しつけられた形をたえず手に握らされる〈わたし〉の《形の反逆》になるかもしれない。

その意味で、誰かを好きになったり、誰かに恋をしたりすることには、希望がある。

ひとを好きになることは多くの失望をうむ。でも、それでもひとを好きになる「へん」てこなあなたは、もっと希望になる。

  このあひだきみにもらつた夕焼けが
  からだのなかにひろがるよ昼間にも   本多真弓/本多響乃

          (『猫は踏まずに』2013年 所収)

2016年12月20日火曜日

フシギな短詩68[俵万智]/柳本々々





  砂浜のランチついに手つかずの卵サンドが気になっている  俵万智



ちょっと岡野大嗣さんのハムレタスサンドの歌を思い出してもいいかもしれない。

  ハムレタスサンドは床に落ちパンとレタスとハムとパンに分かれた  岡野大嗣
  
 (『サイレンと犀』書肆侃侃房、2014年)

ここで岡野さんの短歌はサンドイッチの冷酷な本質をえぐりだしているように思う。それはなにかというと、サンドイッチというのはつかの間統合されたものであり、それは分離させようと思えばいつでも分離させられるものであるという事実である。サンドイッチとは統合されたつかの間のイメージ=幻想物であり、それは「パンとレタスとハムとパン」という現実界に還っていく可能性もつねに持っている。

その意味ではサンドイッチとは危機に瀕した食べ物であり、精神分析的な主体にも近い。わたしたちはふだんなんらかのイメージで主体をサンドイッチのようにまとめあげているが、危機的な瞬間にそれらがばらばらに分解し、まったく無意味なただモノとモノが支配する現実の世界に投げ出される可能性もある。 そのときわたしたちが感じてしまうのはそれまでイメージからは接近することができなかったモノとしてのリアルな死だろう。

ともかく、サンドイッチは危機的な食べ物かもしれない。

俵さんの歌をみてみよう。この歌はなんだか危機的である。時実新子さんは川柳においては中七さえしっかりしていればどんなに頭やおしりがでこぼこしていてもぐらつくことはないと何度も書いていたが、この俵さんの歌の第二句は、7音ではなく、「ランチついに」と6音になっていることに注意しよう。

この第2句が6音になることで非常にぐらぐらしているのだ。もちろんそれは構造的にぐらぐらしているだけでなく、最初の「砂浜」のイメージもすでに意味的にぐらぐらしている。「砂浜」から始まった歌。それはしっかりしない土壌で始発されたものだ。

そして「卵サンド」。「卵サンド」は幻想の完成物である。岡野さん風に微分していうなら、パンと卵とマヨネーズとパンが複合してできあがったのが「卵サンド」だ。ところがそれは「手つかずの」ままになっている。「気になっている」のだからたぶんその「卵サンド」は〈わたし〉が作ったものだろう。しかしその完成された幻想の複合物を相手は受け取ろうとしない。〈わたし〉と〈あなた〉はサンドイッチのように〈いっしょ〉になることはできない。

もしかしたら俵さんの歌においては、〈食べ物〉はわたしとあなたの対幻想をとりもつなにかなのかもしれない。いっしょになる/ならないがイメージを通して試される場所が食べ物である。

言ってみればあの有名な「サラダ記念日」というのは「サラダ」という食べ物と「記念日」という共同幻想が複合化され、わたしとあなた〈だけ〉の対幻想として立ち上がったものではないか。

この味がいいね」とあなたは言った。〈あなた〉は「卵サンド」を受け取らなかったが、〈わたし〉はあなたのその言葉を受け取るだろう。意味を費やして、「記念日」として、わたしとあなたの対幻想として。

でもその対幻想をあなたが受け取るかどうかはこの「卵サンド」のようにわからないことだ。「この味がいいね」と食べ物に終始しているあなたに対して、「記念日」というメモリアルに置換したのはあくまでわたしの意味構築でしかないのだから。

あなたがなにを考えているのかなんてわたしにはわからない。でも、「気になっている」。

「サラダ記念日」の「七月六日」は「七月七日」という七夕=対幻想から一日ズレた日だ。そのズレをぼくたちは〈どう〉考えればいいんだろう。どう、考えますか。

  「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日  俵万智


          (嶋岡晨「Ⅱ 実例篇-イメージ表現のさまざま」『短歌の技法 イメージ・比喩』飯塚書店・1997年 所収)










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2016年12月16日金曜日

フシギな短詩67[小池正博]/柳本々々



  これからは兎を食べて生きてゆく  小池正博


助詞「は」に川柳的主体性を見出したのは樋口由紀子さんだった。樋口さんは『川柳×薔薇』(ふらんす堂、2011年)において、川柳の「は」は「助詞に「私」の意志を強く含ませ、そこには明らかに「私」が存在し、「私」に問いかけている」と述べている。

だからたとえば掲句を、


  これから兎を食べて生きてゆく

としては、ダメなのだ。「は」という助詞によってもっと〈これからの生〉に関わっていく川柳的主体性をみせること。それが「これからは」という助辞の意志であり、「生きていく」意志につながっているのである。

だからこう言ってもいい。この兎は《川柳の意志》のなかにある兎なのだと。この「兎」はすでに川柳的な助詞「は」によって食べられている「兎」なのだ。

もちろんこの小池さんの句集のタイトル『転校生は蟻まみれ』の「蟻」も川柳の意志のなかにある〈蟻〉である。そこには第一句集『水牛の余波』の〈の〉で中性的に言語放牧されているような水牛はいない。

蟻も、兎も、〈わたし〉が積極的にまみれたり、食したりすることで積極的に関わっていくものなのだ。

蟻にかじられ、兎にかじられること。その〈かじる行為〉を促すのが、たった一音の助詞「は」なのである。川柳の祝祭的で不穏なカーニヴァルはたぶんこの一音に存在している。たった一音の川柳の呪文。すなわち、「」。

だからあえてこんなふうに大胆な解釈を切り出してみたい。「これからは兎を食べて生きてゆ」こうとしている語り手が食べようとしていたのは「兎」ではない。語り手が食べようとしていたのは「これからは兎」というセンテンスそのものなのだと。「これからは兎」を食べて生きてゆく。

語り手は、助詞「は」が含まれたセンテンスそのものを喰らい、その身につけようとしていたのである。

そう、これは助詞のカニバリズムをめぐる句なのだ。そしてそのときはじめてわたしたちはなぜこの句集のタイトルが『転校生《は》蟻まみれ』だったのかに、気づくはずなのだ。

転校生を喰らおうとしていたのは「蟻」ではなく、隣接した係助詞「は」そのものだったのだから。「転校生」はいま助詞から食いつぶされているのである。助詞に埋め尽くされた助詞まみれの転校生。いや、そうじゃない。転校生は助詞まみれ、なのだ。というのは、小池さん、どうでしょうか。


  頷いてここは確かに壇の浦  小池正博


          (「公家式」『転校生は蟻まみれ』編集工房ノア・2016年 所収)

2016年12月13日火曜日

フシギな短詩66[時実新子]/柳本々々





  菜の花菜の花子供でも産もうかな  時実新子


新子さんにこんな句がある。


  おまえたまたま蜘蛛に生まれて春の中  時実新子

「おまえたまたま蜘蛛に生まれて」にあるのは絶対的な生を「たまたま」として相対化するまなざしだ。

「たまたま蜘蛛に生まれ」ただけなので、ひとに生まれたかもしれないし、象に生まれたかもしれないし、竜に生まれたかもしれない。でも今回は「たまたま」蜘蛛だったのだ。

時実さんの川柳にはこうした絶対的な生に〈相対性〉を導入するまなざしがひんぱんにみられる。その相対性は、〈わたしのこの生〉をもうひとつのありうる生の可能性へとひらくまなざしとして機能するはずだ。

掲句をみてみよう。

「子供でも産もうかな」とここには〈こどもは産むべき〉という絶対性から解放された発話がある。「子供でも産もうかな」とも思うし、「産まないでおこうかな」とも、思う。生殖のための性でもなく、二人に完全に閉じた対幻想的恋愛でもない。ひとりの、しかし、そのひとりがふたりに分裂する瞬間をとらえた「でも」と「かな」だ。

もしかしたら川柳がはじめて性/愛を〈ひとり〉のものとして考えたしゅんかんかもしれない。〈産む〉というたえず「産めよ殖やせよ」が無言でおしつけられるなかでそれを「産もうかな」と相対的発話に転置するとき、生殖的身体からも解放された過激な軽やかさが産まれる。

ひとはもしかしたらひとを「たまたま」産むのだ。そしてもしかしたらわたしたちは「たまたま」産まれたのである。

興味深いのはふたつとも「春」のなかに置かれた相対性の句だということだ。「菜の花」は春の花だし、「蜘蛛」も「春の中」にいる。春は生き物たちがうごめきだし、生まれだす季節だが、そうした生と性のカオスのなかでこれらの句は生まれることの相対性・たまたま性を考えている。

「この世」のなかを「この世」のなかとしてたまたま「生きて」みる視線。新子さんの川柳とはそういうものではなかったか。

新子さんの川柳は、こういっている。きょういちにちをたまたま生きてみようよ、と。

わたしたちはいつでも明日たまたま生まれなおすことができる。やりなおす、生まれ直す、ということは、そういうことだ。あの有名な俳句を思い出してみよう。生の〈たまたま性〉を切りひらく句として。

  じゃんけんで負けて蛍に生まれたの  池田澄子


短詩には、「この世」を、「じゃんけん」のように、駆け込んだ〈個室〉のようにとらえる生のタフネスがある。なんどくじけても、そこから始めれば、いい。


  入っています入っていますこの世です  時実新子


          (「問わぬ愛」『有夫恋』朝日文庫・1992年 所収)


2016年12月9日金曜日

フシギな短詩65[リービ英雄]/柳本々々



  五七五七五七……と百五十以上も続く。ピリオドがない。  リービ英雄


短歌には長歌がある。その長歌は現代の短歌にも不思議なかたちでときどき現れるが、そもそも長歌とはなんだろう。現在の視点からどうとらえればいいのだろう。

リービ英雄さんは「長歌こそ『万葉集』の醍醐味である」と述べている。

  長歌を読むのは、たしかに大変なことだ。ぼくはプリンストンにいた時代、アパートの部屋に一人座って、バッハのカンタータを聴きながら、長歌を読んでいた、翻訳していた、英語で書き直していた、作っていた。そこで、長歌こそ『万葉集』の醍醐味であることに気がついた。
  ……
  たとえば一九九番。この歌は非常に長く、ぼくは「和歌のエベレスト」と書いたことがある。五七五七五七……と百五十以上も続く。ピリオドがない。だからひとつの長い日本語の文章として把握しなければならない。 
 
(「『万葉集』の時代」『我的日本語』筑摩選書、2010年)

リービさんの記述を読んでああそうかと私は思ったのだが、長歌のなによりもひとつの特徴は〈短歌という形態がそもそもピリオドがないということを意識させる形式〉という点にある。くどい言い回しになったが、かんたんに言えば、長歌を読むと、短歌ってそもそもピリオドがない文芸だよね、句点をうたない文芸だよね、でもそれってなぜなんだろう、と問いかけられるということだ。

これはフシギなことではないか。

現代の短歌を任意に取り出しても誰も短歌の終わりに句点(。)を打とうとしない。つまり、通常の文章意識とは異なる意識のなかで短歌をうたい・書いているということになる。その意味で短歌とは口唱性をまつわるものでありながらも、非常にエクリチュール(書き言葉)を意識した表現形式とも言える。

現代短歌のなかの長歌を少しみてみよう。たとえば「フシギな短詩」では岡野大嗣さんの長歌をかつて取り上げた。長歌ではないかもしれないが破調としての長さをもった歌として飯田有子さんの短歌も取り上げた。また前回、フラワーしげるさんの長い歌も取り上げた。それらを今もう一度取り上げてみよう。

  空席の目立つ車内の隅っこでひとり何かを呟いている青年が背負っているものは手作りのナップサックでそれはわたしの母が作った  岡野大嗣


  たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔  飯田有子



  何だっけ映画に出てくる動物の名前 何だっけ動物の種類 何だっけ動物って  フラワーしげる

これらの〈長い歌〉は実は短歌というのは〈短・歌〉という名称をもちながらも〈長く引き延ばそうと思えばどこまでも引き延ばすことができる形式〉というただならぬ事態をあらわすものだということができないだろうか。短歌にはピリオドがないのだから。ピリオドがないとうことは、独特の空間拡張が韻律に沿って可能だということである。

どの三首もそうだが、韻律への意識がある。「空席の」や「何だっけ」という初句5音で始まる意識、「たすけて/たすけて」がリフレインされることで律をつくる意識。これらの歌はもし〈そう〉しようとしさえすればどこまでも〈長く〉することができる歌である。「たすけて」や「何だっけ」は続かせることのできる形式を育てはじめている。その意味で〈長・歌〉の方がもしかしたら〈短歌〉があらかじめ内在している形式に接近してしまっている可能性があるのではないか。それは短歌というのは留めようがないものである、という内在性であり、定型によって留めおかれているものは実は幻想かもしれないという〈興奮〉である。

  「バイリンガル・エクサイトメント」とでもいうべきものがある。……バイリンガルであるために、元の言語と翻訳する言語とのズレ、その境界に立って興奮し、言葉が非常に際立っている。ある通常ではないエネルギーがそこから発散されているのが分かる。
  (「『万葉集』の時代」『我的日本語』筑摩選書、2010年)

リービさんは言葉と言葉の〈境界〉に立ったときに言葉が屹立するしゅんかんを〈バイリンガル・エクサイトメント〉と呼んでいるが、通常の言語意識とは異なる短歌の意識と通常の言語意識がクラッシュするしゅんかんには、いつもこの〈バイリンガル・エクサイトメント〉がたちあらわれているのではないか。それは言語の興奮である。

短歌を読むということは、言葉に興奮するということなのではないか。こうふん。わたしは、いま、こうふんしている。

         
 (「『万葉集』の時代」『我的日本語』筑摩選書・2010年 所収)

2016年12月6日火曜日

フシギな短詩64[フラワーしげる]/柳本々々





  何だっけ映画に出てくる動物の名前 何だっけ動物の種類 何だっけ動物って  フラワーしげる

フラワーしげるさんの短歌を繰り返し読んでいて気がつくのは語り手の奇妙な〈忘却〉の仕方である。それは掲出歌のように「何だっけ/何だっけ/何だっけ」という意味のレベルで〈忘却〉が行われている、というよりも、むしろ〈定型〉=語り方のレベルで行われているように思うのだ。ちょっと何首か引用してみよう。

  何だっけ映画に出てくる動物の名前 何だっけ動物の種類 何だっけ動物って  フラワーしげる

  棄てられた椅子の横を通りすぎる 誰かがすわっているようで振りむけない  〃

  金持ちよどんなに金をつかっても治らない難病で苦しみながら死んでいってほしい子供のほうには罪はない  〃
  
 (「二十一世紀の冷蔵庫の名前」『現代歌人シリーズ5 ビットとデシベル』書肆侃侃房、2015年)

  オレンジのなかに夜と朝があって精密に世界は動いていた。私はそこで生まれた  〃

   (「二十一世紀の冷蔵庫の名前」『短歌研究』2014年9月)

短歌というよりはどちらかというと音律を意識した詩のようにもみえるが、注意したいのは最初はいつも語り手が〈定型意識〉から短歌に入ってゆくことだ。五七五定型から語り手は語りに没入していくのである。

  なんだっけ/えいがにでてくる/どうぶつの
  すてられた/いすのよこをと/おりすぎる
  かねもちよ/どんなにかねを/つかっても
  おれんじの/なかによるとあ/さがあって

ところが語り手は語っているうちにだんだんと定型を忘却していくかのように〈饒舌〉になっていく。わたしが奇妙な〈忘却〉が行われていると言ったのはその意味においてである。

フラワーさんの語り手は、語っているうちに、〈短歌の語り方〉そのものを忘れていくという奇妙な忘却をみせる。それを別の言い方でこんなふうに言ってもいい。語り手は語っているうちに、内容=意味の方に加速度的にひっぱられてゆき、短歌の語り方を忘却し、意味内容の充実に引き寄せられていくのだと。

これを〈連想の強度〉と呼んでみてもいいのかもしれない。わたしたちは短歌を詠むとき、連想をしながら意味を呼び寄せ、しかし、連想しながらも定型を忘れずに、定型とともに短歌を詠んでいく。つねに意味の連想と定型意識は葛藤している。意味の連想がどれだけ豊かにひろがっていっても、定型を逸脱したらそれは詩や散文になってしまうからだ。

ところがフラワーさんの語り手は連想の強度によって語り手がぐんぐん暴走しはじめる。「金持ちよ」の歌はその最たるものかもしれない。この歌に語り手の〈怒り〉があるとしたら、それは「死んでいってほしい」という過激な物言いとしての意味内容にではなく、語り手がそれを語っているうちに定型意識を忘却していくその語り方そのものにある。

この短歌における〈連想)は、実は短歌の遺産そのものとしてある。「序詞(じょことば)」だ。序詞の歌として有名なのは『百人一首』にもおさめられている柿本人麻呂がつくったとされる次の歌だ。

  あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜を一人かもねむ  柿本人麻呂

この人麻呂の歌では、「あしひきの山鳥→山鳥の尾→しだり尾→ながながし」という「夜」にかかっていく長い長い序詞的連想によって《長さ》が充実させられている。しかしその連想の〈暴走〉を静かに・穏やかにしているのは遵守された定型意識である。だからこそ、「一人」で「ね」ることの〈静かなさびしさ〉が浮き彫りにされる。

この人麻呂作と言われる歌に対して批評家の福嶋亮大さんがこんな説明をしている。

  夜の無内容さが際立っていたこと…。この歌は、意味だけをとるならば「長い夜を一人寂しく眠るのだろうか」というだけのことであり、事実上何も言っていないに等しい。しかし、折口信夫によれば、この無内容さには古代人の幸福感の一つの型を認めることができる。歌の平凡な内容が吹き飛んでしまった後「残るものは、過去のわれわれの生活の、実にのんびりとした、のどかな生活であったことを思わせる生活気分が内容となった、空虚そのものがあるだけのことです」。
  思念が深められる夜の時間帯について、この作者は特別な調べを用いずに、のどかな「空虚」のままに留め置いた。
 
   (福嶋亮大「復興期の「天才」」『復興文化論』青土社、2013年)

福嶋さんの指摘するこの歌の〈無内容=空虚〉を受けてわたしが思うのは、〈空虚〉を成立させるためにはある構造的布置がいるのではないかということだ。たとえば定型を遵守しながら、定型=形式をきっちり充実させながら、しかし意味内容を充実させずに、序詞を用い、〈無内容〉かつ〈空虚〉のまま「一人かもねむ」にたどりつくこと。それが短歌にとっての〈空虚〉である。そしてそこには折口信夫の言葉で言えば「古代人の幸福感の一つ」である「実にのんびりとした、のどかな生活」がある。

フラワーさんの短歌はその逆をゆく。連想が加速し肥大し、定型を忘却し、それは〈苛烈さ〉となり、「死んでいってほしい」を生み出す。ここにはもしかしたら〈現代人の不幸の一つ〉であり〈実に苛烈な生活〉のあり方が示されているのかもしれない。

こんなことを言うのは奇天烈なことだということをわかっていて言うが、もし短歌に〈感情〉があるのだとしたら、それは語り手が定型に対してどのように振る舞ったか、振る舞わざるをえなかったか、なにを記憶し、なにを忘れようとしたか、というところにこそあるのではないか。

そこからもう一度かつてこの「フシギな短詩」で取り扱った岡野大嗣さんの長歌を振り返ることもできるかもしれないし、飯田有子さんの破調歌を見直すこともできるかもしれない。

ところで、この記事の最初に書こうとしていた一文をこの記事の最後の一文として書いて終わりにしようと思う。それは、

定型に対するひとそれぞれのふるまいをときどき無性に不思議に思うことが、ある。

  背は何のために大きくなった 手はなにを摑むためにある 星の下で靴を磨く  フラワーしげる

          

(「二十一世紀の冷蔵庫の名前」『現代歌人シリーズ5 ビットとデシベル』書肆侃侃房、2015年 所収)

2016年12月2日金曜日

フシギな短詩63[熊谷冬鼓]/柳本々々


  なぞ解きの途中でパスタ茹であがる  熊谷冬鼓



短詩型とは何かと考えたときに、それは〈意識の逸脱〉なのではないかと思うことがある。

たとえば、掲句。「なぞ解きの途中」で「パスタ」が「茹であが」ってしまう。それまで「なぞ解き」に注がれていた語り手の意識は茹であがった「パスタ」の方にふいに逸れてしまう。

「なぞ解き」から「パスタ」への〈意識の逸脱〉。

このとき注意したいのは、いったいその〈意識の逸脱〉を支えているものはなんなのかということだ。

わたしたちはふだんの生活でも〈意識の逸脱〉を繰り返している。

潜水プールの底でふいに好きなひとのことを思い出したり、シリアスな話をしているときにドーナッツが食べたくなったりする。でもふいにやってきたそれらは、ふいにやってきたからこそ、〈流れてしまう〉。どこかに、きえてしまう。しかし、短詩型では、それは、流れない。〈留まる〉のだ。

では、なにが、その〈やってきた逸脱〉を留めおくのか。

わたしはそれは〈定型〉なのではないかと思う。定型というパッケージングを通して、そのときそこにあった〈意識の逸脱〉を瞬間冷凍すること。それが〈定型〉の役割なのではないか。

つまり定型によってわたしたちは〈意識の逸脱〉をはじめて統合したかたちで記憶できるのではないかと思うのだ。〈記録〉という整理されたかたちのパッケージングではなく、分裂したままの〈記憶〉というかたちで。

だからこの句が示すように、定型の役割とは「なぞ解き」ではない。

定型は、真理を指し示すわけでも心理をつまびらかにするわけでもない。それはこの句のようにつねに〈ある「途中」〉を〈そのまま〉記録するのだ。

そしてそのままの〈逸脱〉のしゅんかんをずっと〈審理〉としてあなたにゆだねつづける。なぞ解きの途中でパスタが茹であがったその途中のありかたをあなたに尋ねる。あなたならどうするのかと、あなただったらどんな途中があり得るのかを。出来事の過程(プロセス)のまっただなかにあなたを据え置くのだ。パスタが茹であがる直前の、謎が解けそうな直前の、ぎりぎりでばらばらの分裂した時間のなかに。

その意味において、定型とはつねにパスタが茹であがるのを待つ〈大きな途中〉としての〈鍋〉なのではないかと思う。

わたしたちはどこかに「なぞ解き」=真理があるのを知っていながら、定型によって意識を逸脱させつつも、「パスタ」に向かうのである。

そしてそのパスタ以上でも以下でもない場所にたたずんで未来から次から次へとおとずれる〈あなた〉のことを待っているのだ。ことば、茹でながら。

  これ以下も以上もなくて曼珠沙華  熊谷冬鼓

         

 (「セロリの匂い」『東奥文芸叢書 川柳29 熊谷冬鼓句集 雨の日は』東奥日報社・2016年 所収)

2016年11月29日火曜日

フシギな短詩62[舞城王太郎]/柳本々々



  絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対  舞城王太郎


舞城王太郎さんの現代怪談百物語でもある『深夜百太郎』にはその各話をコラボレーションとして短歌であらわした木下龍也さんの「深夜百短歌太郎」がある。

たとえば第三話目の「三太郎 地獄の子」は次のような歌に〈翻案〉された。

  やめてくれおれはドラえもんになんかなりたくなぼくドラえもんです  木下龍也

私がこの木下さんの歌でとりわけ興味深かったのはこの歌に舞城王太郎さんの〈王太郎性〉のようなものがあらわれているのではないかと思ったからだ。それは、なんなのか。

そもそも〈王太郎性〉とはなんなのか。そんなことを簡単に言ってしまう柳本はうかつなのではないか。でも、ちょっと舞城さんのテクストをみてみよう。

  「絶対絶対絶対絶対絶対絶対」 
   と私は絶対を並べてみる。…絶対前田さんは前田さんでいてね、みたいなことだったのだが、それは言えず、私はひたすら絶対絶対と言うだけだ。 
  「絶対絶対絶対絶対絶対絶対……」 
   すると前田さんが真顔で言う。 
  「怖いよ、藤田さん」 
   でも私の絶対は止まらない。 
  「絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対」 
(舞城王太郎「三太郎 地獄の子」『深夜百太郎 入口』ナナロク社、2015年)

「三太郎 地獄の子」の〈こわさ〉は「絶対」という言葉=発話に意識や言語行為をジャックされる人間が出てくることだ。これは舞城さんの他の小説にも多々みられることだが言葉が過剰に反復されることによって明らかに〈意識が言語に汚染されてしまった人間〉があらわれるのだ。みずからの発話に意識をハッキングされる発話者。

だから舞城文学の〈こわさ〉は、そう言ってよければ、《言語に意識をジャックされた人間》が出てくる点にある。

「藤田さん」は「絶対」を連呼しているが、もはや絶対の意味は剥がれおち、ただ無機質な絶対だけが過剰に並びはじめる。「絶対」の意味を言いたいわけではなく、「絶対」を《言うことを言いたいだけ》の人間があらわれるのだ。

つまり、純粋に言語に汚染された人間。

意識が空白化し、ただ絶対言語だけがおがくずのようにぱんぱんに詰め込まれた言語案山子(かかし)のような人間、だから、それは「怖いよ、藤田さん」なのだ。

木下さんの歌をもう一度みてみよう。

木下さんの歌においてもこの〈意識のジャック〉が焦点となっている。そして、その意識のジャックは発話=文体によって行われているのに注意したい。

  やめてくれおれはドラえもんになんかなりたくなぼくドラえもんです  木下龍也

この歌は、「ドラえもん」に意識をジャックされた人間の歌だ。「おれ」は「おれ」と自称した以上、人間であったはずだ。ところが意識をジャックされ「ぼく」という自称に変わった。意識が汚染されたのだ。

しかもそれは〈言語〉を媒介に行われた。「ぼくドラえもんです」はドラえもんの象徴としての決まり文句のようなものだが、その決まり文句としての言語によって意識が汚染されたことがわかるようになっている。しかも、唐突に・無根拠に。

この歌において問題なのは「ぼく」が「ドラえもん」かどうかなのではない。「なりたくな」の「おれ」の発話が唐突に断ち切られ、「ぼくドラえもんです」にジャックされてしまったことなのだ。そしてやはりそれは「怖いよ、藤田さん」なのである。

言語存在である人間にとってほんとうにこわいのは、ひとが言語によってジャックされてしまう瞬間なのだ。それは言語存在であるひとがほんとうに言語を《手放す》しゅんかんなのだから。

意識が言語によってハッキングされた人間。

このように木下さんは端的に短歌によって構造を抽出している。しかも「ドラえもん」というわかりやすいポピュラーな〈翻訳メディア〉を使い、〈翻案〉した。

だとしたら、もしかしたら短歌というのは、世界の構造を、端的に抽出できるメディアとしても機能するのかもしれない。そしてその抽出した短歌メディアは、わたしたちの意識のありかたを一瞬にジャックする。わたしたちは短歌という構造に感染するのである。

その意味で、「ぼくドラえもんです」というジャックされた言語感染は実は短歌を読む行為そのものだともいえる。それは絶対そうなんだと今回の文章の趣旨にならってわたしも言ってみたい。絶対に絶対絶対そうなんだと。もしそうでなかったとしてもそれは絶対だと。絶対絶対絶対絶対絶対

  絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対」 
 「絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対」 
  絶対ムリ 
  絶対そうさせない。 
  絶対お前を逃さない。 
  絶対離さない。 
    (舞城王太郎「三太郎 地獄の子」前掲)



          (「三太郎 地獄の子」『深夜百太郎 入口』ナナロク社、2015年 所収)



2016年11月25日金曜日

フシギな短詩61[新海誠]/柳本々々



  思いつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを  小野小町

※今回は映画『君の名は。』のネタバレを含みます。

日本文学者の木村朗子さんは新海誠さんの映画『君の名は。』を「時空を超えて結び合う物語」とした上で、「古典文学の世界に馴染みのあるテーマだ」と述べている。

  本作(『君の名は。』)は企画段階では『夢と知りせば(仮) 男女とりかへばや物語』というタイトルだったという。その発想の源には小野小町の夢の逢瀬を歌った次の和歌があった。

   思いつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを

  恋人を思って眠りについたからであろうか、その恋人が夢に現れて、逢瀬をとげることができた。夢だと知っていたならばあのまま目覚めずにいたかった、という歌である。「思い寝」といって、相手のことを思いながら眠りにつくと夢の時空でその人に逢うことができると古代人は考えていた。
  (木村朗子「古代を橋渡す」『ユリイカ』2016年9月号)

そして木村さんは「夢と知りせば」のあとに付け加えられていた「男女とりかへばや物語」の副題に注目し、「他人の身体に別の魂が入り込むことは、憑依として古代文化が考えてきたことだ。……夢をとおして入れ替わりが起こるというのは、……古典文学の系譜からいかにも自然に導かれるところだ」と述べる。

小野小町の歌では「覚めざらましを」と〈覚めなければよかったのになあ〉と歌われているが、なぜ「覚め」なければよかったのかといえば、「覚め」なければ夢=現実の空間を生きられるからだ。しかし、「覚め」た瞬間から、夢と現実は等価であることをやめ、ズレはじめる。夢は時の彼方にまたたく間に消え去り、現実だけが残る。

  (新海誠の)『雲のむこう、約束の場所』『秒速5センチメートル』でも、主人公とヒロインは夢のなかで再会する。しかし夢は夢でしかなく、夢は壊れる。現実には受けいれなければいけない喪失が待つ。それを甘受し、成熟する。 

(飯田一史「新海誠を『ポスト宮崎駿』『ポスト細田守』と呼ぶのは金輪際やめてもらいたい」前掲)

この映画『君の名は。』のタイトルにはなぜ「。」が付いているのかずっと気になっていたのだが、もしかするとこれは〈覚醒〉ととることはできないだろうか。つまり、〈君の名は〉と問いかけつづけた夢=現実のような時空間を生きたふたりの〈入れ替わり〉の物語は、最終的に「。」によって〈中断〉されたことで、「起き」られたことで、終わったのだと。夢とはとつぜん中断されることで、覚めて、終わるものだから。

だから、映画『君の名は。』のラストシーンで記憶を失ったふたりがお互いを一瞬で〈感覚〉しあい、「君の名前は?」とききあい、声が重なり合っておわるシーンは、〈名前を知る〉ことが大事だったのではなく、「君の名は。」と面前ではじめて発話できたことが大事だったのではないかと思うのだ。その句点「。」によってはじめて夢は終わるので。「覚めざらましを」は肯定的に語り直されたのだ。アンチ「覚めざらましを」として。「夢」から覚めたから《こそ》出会えて、お互いに名をきくことができる「現実」もあったのだと。「やっと覚めたね」と。

木村さんは「入れ替わり」のモチーフを述べられていたが、アニメでは〈入れ替わりのモチーフ〉が折々みられる。富野由悠季さんのアニメ『∀ガンダム』もまた「とりかへばや物語」を主要なモチーフとしている。容姿が瓜二つの月の女王ディアナ・キエルと地球の女性キエル・ハイムが入れ替わるという物語が展開されるのだが、誰にも知られずこっそり二人だけで入れ替わることでお互いの境遇を〈それしかない〉かたちで二人は理解しあう。この〈理解〉は非常にフシギなものだ。

なぜなら、わたしの立場における喜びや苦しみはこんなものなのですよ、と相手にコミュニケーションとして伝えるのではなく、ノンバーバルコミュニケーションでまったく言語を介さずに〈そのひとそのものになること〉によって非言語的に・体感として〈理解〉するからだ。

  コミュニケーションとは、二人の人間の間で言葉や手紙や物を交換するだけのことではない。それはまた、非物質的な何か、二つの項以前にある関係でもある。 

(トーマス・ラマール、大崎晴美訳「新海誠のクラウドメディア」前掲)

『君の名は。』でもぜんぜん立場や環境の違うふたりが入れ替わって相手の状況と環境に投げ込まれたように、〈入れ替わり〉というのは非言語で相手を〈理解〉できるたったひとつのアクションなのかもしれない。しかしそれは世界から「名」も忘れられるほどの〈等価交換〉でなければならない。たとえばもしそのひとの入れ替わり中に死んでしまったならば、永久に〈わたしの名〉が失われるような、つまり、世界の住人がだれひとり〈わたし〉を知らないままに〈そのひと〉として死ぬようなそういう絶対等価交換でなくてはならない。たとえば次の句のような。

別のかたちだけど生きてゐますから  小津夜景
(『フラワーズ・カンフー』ふらんす堂、2016年)

〈入れ替わり〉とは〈そのひとを理解する〉ためだけに〈世界から忘却される経験〉なのではないかと思うのだ。〈わたしの名前〉はそのとき世界から失われる。そして入れ替わった〈そのひとの名〉は〈わたしの名〉ではない。ただ〈入れ替わり〉という運動だけがふたりのことを知っている。

もう夢に逢ふのとおなじだけ眩し  小津夜景
(前掲)

「夢」という装置は入れ替わりにもってこいなのだが、もしかしたら「夢」の空間では、言語を介さない〈理解〉のやり方がたえず行われているのかもしれない。「喋る」のではなく「光る」。それだけで相手が〈あなた〉のことを「理解」できる。世界から忘却されたふたりだけれど、お互いは、光っているから、その〈運動〉によって、それとなく、わかる。わかってしまう。わかってしまった。だから、問いかけた。「君の名は。」

  夢の中では、光ることと喋ることはおなじこと。お会いしましょう  穂村弘



          (「古代を橋渡す」『ユリイカ』2016年9月 所収)




2016年11月22日火曜日

フシギな短詩60[平岡直子]/柳本々々




  三越のライオン見つけられなくて悲しいだった 悲しいだった  平岡直子

短歌には有名な「三越のライオン」が歌がある。そこから入ってみよう。

  三越のライオンに手を触れるひとりふたりさんにん、何の力だ  荻原裕幸
  (「未完歌集『永遠青天症」『デジタル・ビスケット』沖積舎、2001年)


この荻原さんの歌には実は「栄にて。四首」という詞書がついている。だからこの「三越」は「名古屋三越 栄店」ということになる。今も「三越栄店」に行けば、この「ひとりふたりさんにん」の列にあなたも加わることができるというわけだ。そして注意したいのが「四首」と続きものになっていることだ。その四首のなかには、

  噴水のぐんぐんのびてはたと止む繰り返し見る、何が見させる  荻原裕幸

  細ながき空地のふかく空きをれば誰かが植ゑてあぢさゐの列  〃
  (前掲)

といった歌がある。これらも合わせてライオンの歌を考えてみるとどうなるのか。

まずわかるのは、語り手が興味関心を多分に示しているのが〈不可解な力〉だということだ。「何の力だ」という驚きとおののきに端的に現れているように語り手にはそれが「何の力」なのかはわかっていない。しかしそれが「力」であることはわかっている。その「力」の分類ができないのが語り手の立ち位置である。分類ができない力だから驚いている。

他の二首もみてほしい。「何が見させる」とやはり語り手は自分が「噴水」を見てしまうその力を理解できていない。また「あぢさゐの列」に対して「誰かが植ゑて」とここでもその「あぢさゐの列」を生成する力学の〈もともと〉の所在を語り手は「誰か」としか把持できない。

名古屋の「栄」において語り手は〈不可解な力〉に遭遇していた。

では、平岡さんの歌はどうだろう。平岡さんの歌では〈不可解な力〉への遭遇が回避されている。荻原さんの語り手は、所在はつかめなかったものの「力」には出会うことができた。「力」が機能している現場に居合わせることができた。ところが平岡さんの現場は徹底して〈無・力〉なのだ。

それは「三越のライオンに」という対象を特定する助詞「に」が取り払われて、「三越のライオン見つけられなくて」と〈片言(かたこと)〉になっていることからもわかるだろう。「見つけられ」なかったのは「ライオン」だけではない。助詞も、である。

しかも、〈見つからない〉というのを《あえて》「見つけられなくて」という長い迂遠の語りを採用している。語り手はこのことばの長さのとおりにそれだけ〈さがす力量〉を持ち合わせていた、にもかかわらずその力量に応えてくれる「ライオン」がいなかったということなのだ。無・力。

もちろん、この歌では文法もまた無力である。〈悲しかった〉という心情に見合ったなめらかな言葉は採用されず、「悲しいだった 悲しいだった」と無骨なぎこちない凸凹の文法が二度も採用されている。文法でさえも、無力なのである。

だとしたら、この平岡さんの歌は、荻原さんの「力」の歌を、〈脱力〉させ、解体する積極的無力の歌とも言えるのではないか。

荻原さんの歌では、「ライオンに手を触れる」人間たちについては「ひとりふたりさんにん」とひとりずつていねいに語っているが、「ライオンが見つけられ」なかった人間については語っていない。そこでは「力」に触れられなかった者はある意味、〈スルー〉されたのだと言ってもいい(ただし、語り手は〈遠目〉からその光景をみていた。「何の力だ」と。だからこの歌はある意味で、「何の力だ」から語り手自身が排除(スルー)される歌にもなっている。その意味ではこの歌は構造的に〈スルー〉を〈スルー〉していない)。

しかし、その「ライオン」さえも「見つけられ」なかった、「力」にふれることさえできない者たちがいること。しかもそれを他者に伝達することばの力さえも持たない者がいること。そういう視点を平岡さんはこの歌に導入しているように思うのだ。

それは「力」に触れ得なかった者たちが「ひとり/ふたり/さんにん」と無力でありながら生きていくための「生き延び方」についての話だ。

    海沿いできみと花火を待ちながら生き延び方について話した  平岡直子
         

 (「生き延び方について話した」『桜前線開架宣言』左右社・2015年 所収)

2016年11月18日金曜日

フシギな短詩59[森三中・大島美幸]/柳本々々



  夫とは変なひとです秋うらら/そぞろ寒  大島美幸



TBS「結婚したら人生激変!○○の妻たち」という番組のなかで俳人の夏井いつきさんが森三中の大島美幸さんに俳句のかんたんな作り方を教えていた。その教え方がとてもおもしろかった。これだったらたしかにみんなつくれるのではないか。いやつくれるかどうかはともかく、俳句の構造を理解しやすいのではないか。

まずいつきさんは大島さんに「夫を一言でいうとどう思うか」をきいた。

「夫は変なひとです」と答える大島さん。

じゃあそれを5・7にしてこうしましょうと、「夫とは/変なひとです」の五・七になった。

これでほとんど俳句の本体はできあがった。この五・七に季語の五音をくっつければ、俳句として完成だという。ここでいつきさんはそれとなく注意深く〈俳句の範疇〉という言い方をされていたと思うが、ただこうした口語体俳句は池田澄子さんの俳句を思い出せば、俳句としてはなんのフシギもないように思う。

そこからが、おもしろかった。

「夫とは変なひとです」の5・7に、季語「秋うらら」をつければ、夫婦仲がよさそうなベクトルの俳句になり、季語「そぞろ寒」をつければ離婚危機の方向性をもった俳句になる。つまり、どのような季語をつけるかで、夫婦の関係性の質感が変わるのだ。

ここでわたしたちはあることを学習する。すなわち、季語とはベクトルなのだと。ある言説に質量をもった方向性をつけくわえるのが季語なのだ。これはちょっと驚くべきことではないか。ふつうは、「夫とは変なひとです」が俳句の言説のベクトルだと思うのではないか。ところがそれはちがう。季語がベクトルなのだ。

  黄落やなぜわたしではないのです  夏井いつき

「黄落」という季語の意味がわからなくても「落」という感じからこの季語のもつ負のイメージがわかるはずだ。そういえば、いつきさんは現在放送中のNHK俳句でもいつも季語のもつイメージを図解している。季語はことばにイメージの方向性を与えるのだ。

そしてその意味で、俳句にとって季語は必然性がある。言説の舵(かじ)を取るのが季語だから。明暗をつかさどるのが季語だから。季語はことばの船の船長のようなものなのだ。

裏返せば、季語のない短歌や川柳はベクトルを自身の言説のなかでつけくわえるために〈意味性〉を重視するのだといってもいい。方向性やかじ取りを意味によって打ち出すのだ。でないと、方向性がなくなるから。言葉の船は座礁する。

わたしは番組を見終えたあとで、うーんなるほど、とあごに手をやった。納得したのである。そうして、胸に手をおいて、眼を閉じた。ふかく納得したのである。眼を閉じたさきの闇のなかには、わたしの好きな夫婦俳句がくるくると回転している。好きなのである。

  屠蘇散や夫は他人なので好き  池田澄子  
(『シリーズ自句自解Ⅰベスト100 池田澄子』ふらんす堂、2010年)



(「結婚したら人生激変!○○の妻たち」TBS、2016年10月24日 放送)


2016年11月15日火曜日

フシギな短詩58[田村ゆかり]/柳本々々




  気がつくと金銀財宝ウッハウハ  田村ゆかり

文化放送のラジオ番組『田村ゆかりのいたずら黒うさぎ』に「ゆかりの7つで俳句」というコーナーがあった。

リスナーからきたお題、たとえば「『気がつくと』と、『ウッハウハ』の間に7文字を入れて俳句を完成させてください」に声優の田村ゆかりさんが即興で7文字入れて俳句をつくるコーナーなのだが、どうしても字余りになり8音になってしまう。むしろその長すぎる字余りがひとつのおもしろさになっていったコーナーでもあるのだが、考えてみたいのはひとは〈自然体〉では〈8音〉のひとが合うのではないかということである。つまり〈7音〉は実は〈不自然な形式〉なのではないかということ。

わたしはたまたまほかの例でもこのことを考えていた。テレビ朝日の『しくじり先生 俺みたいになるな!!』ではタレント人生を〈しくじってしまった〉タレントが先生になり、どうしくじったか、どうすればよかったのかを教壇に立って話すのだが、そのときに要所要所でそのタレントの教えを575にまとめた俳句=格言が示されるときがある。そのときにどういうわけかほとんどが585なのである。つまり、〈一般的〉には8音の方が自然体なのではないかということ。

8音について考えるということをかつてそれまでの〈中八〉の常識に疑義を提出しながら、あらためて問い直そうとしていたのは川柳作家の兵頭全郎さんである。「中八考」において全郎さんはこんなふうに述べていた。

 中八について…「リズムが悪い」という表現、果たして本当だろうか? もし本当に「リズムが悪い」のであれば、五・七・五というごく初歩的で簡単なルールがこれほど守れないのは何故なのだろう。逆に初心者ほど字数に気をつけるはずなのに中八になるということは、その方がリズム的に自然な流れだと感じているからではないだろうか。 


たしかにそうなのである。初心者ほど字数に気をつけるはずなのに、《にもかかわらず》8音になってしまうこと。これは8音の方が《逆に》リズムが良いからなのではないか。

これはかつて斉藤斎藤さんのNHK短歌を視聴していてそのなかの斉藤さんのコーナー「初心者になるための短歌入門」で学んだことなのだが、短歌を読む際ひとは57577ではなく、88888のリズムをとっているらしい。ちょっと図にあらわしてみよう(今手元に東直子さんの『十階』があるのでそこから歌を引いてみよう)。

  海からの風にゆがんだスマイルが回転しつつつきぬけてゆく  東直子
  (『十階』ふらんす堂、2010年)

これはこの並んだ文字だけみれば、57577である。

  うみからの/かぜにゆがんだ/すまいるが/かいてんしつつ/つきぬけてゆく

これを実際に読んでいるリズムを視覚化して88888の図にしてみよう。ぜひ声にだして読んでみてほしい。たぶん○のところであなたは休符をとっているはずだから。

  うみからの○○○/かぜにゆがんだ○/すまいるが○○○/かいてんしつつ○/つきぬけてゆく○

どうだろう。○のところでは休んでリズムをとっているのではないだろうか。

このことについては言語学者の山田敏弘さんも『日本語のしくみ』でこんなことを言っている。

  休符を入れながら2拍ずつ切り4分の4拍子で詠むと自然に聞こえるという、独自のリズムというものがあります。「一所懸命」を同じように2拍ずつ切って読もうとすると、「いっ│しょ○│けん│めい」。語の途中に休符が入って言いにくくなります。そこで「しょ」を「しょう」と伸ばしてリズムよく読もうとするのです。 
  (山田敏弘「文字と発音のしくみ」『日本語のしくみ』白水社、2009年)

「いっしょけんめい」という7音は口に出されるうちに〈自然〉と「いっしょうけんめい」という8音になった。つまり、8音は「自然に聞こえる」リズムなのだ。

このようにみるとひとは本来的には8音でリズムをとりながら無音のリズムもとりつつ短歌や川柳や俳句を読んでいることになる。声にだしても、ださなくても、そうなのだ。

そうするとわたしたちは定型そのものの総文字数の少なさを〈不自然さ〉として感じるのではなく、むしろこうした〈八音的思考〉を〈七音形式〉として組み立て〈直そう〉とするところに意識的な〈不自然さ〉を見いだすべきではないだろうか。つまりその〈不自然さ〉をかいくぐってリズムをとっているところにこそ、短歌や川柳や俳句の意識的な言語(再)構築のありようがあるのだ。

問題は、眼にみえる領域でおこっていたのではない。眼にみえない領域から眼にみえる領域への変位に起こっていたのだ。

中八を考えるとは、そういうふだん〈わたしたちがやっていて、知らないふりをしている〉(マルクス)ことをあぶりだすことなのではないか。たとえ殺意をもたれたとしても、わたしは八音に関して、そんなふうに言ってみたいのだ。もちろん、ときどき寝込みながらも一所懸命生きてきたので殺さないでほしいけれど。

  中八がそんなに憎いかさあ殺せ  川合大祐
   (『スロー・リバー』あざみエージェント、2016年)

         
 (「ゆかりの7つで俳句」『田村ゆかりのいたずら黒うさぎ』文化放送・2005年5月21日 放送)










2016年11月12日土曜日

フシギな短詩57[西原天気]/柳本々々



  数ページの哲学あした来るソファー  西原天気


わたしはこの西原さんの一句からはじめて俳句にきょうみをもって、俳句を読みはじめた。俳句って、なんだろう、と。

そもそもこの句は俳句なのだろうか。季語はないし、どことなく詩的でもある。それでもこの句は句集のなかに配置された。だとしたら、この句の俳句性とはなんだろうか。

わたしはそれは《深入り》しなかったことにあるように思う。哲学を「数ページ」でやめてしまったこと。哲学することを頓挫(とんざ)したこと。もくぜんの哲学をやめたこと。それがこの句の俳句性なのではないか。

句集「あとがき」でこの句について西原さんが触れているので引用してみよう。

  根岸での“句会デビュー”でつくった三句のうちの一句が、この句集『けむり』に収めた〈数ページの哲学あした来るソファー〉という句。初心者らしく、みごとに季語を欠いている。なぜソファーなんてものが頭に浮かんだのかというと、実際、その次の日に、注文していたソファーが届く予定だったから。そのソファーはいまも使っている。 
  (西原天気「あとがき」『けむり』西田書店・2011年)

やってきた〈そのまま〉を〈そのまま〉五七五定型におとしこむこと。西原さんは思いがけなく参加した句会が自分にとっての初句会であったことをこの「あとがき」で書いているのだが、実は思いがけなくやってきたのは「ソファー」の方ではなく、「俳句」の方だったのではないか。「数ページの哲学」という中途にもかかわらず思いがけなくやってきてしまった「俳句」。それが西原さんの俳句だったようにも思うのだ。俳句は、いつもとつぜん、やってくる。ソファーよりも素早く。「身に覚え」もなく。

  身に覚えなきマンゴオの届きけり  西原天気

その意味では西原さんの俳句は、〈待っている〉俳句とも言える。これからどんな素晴らしく、くだらなく、崇高で、過激で、だるく、斬新で、陳腐で、軽やかな「身に覚え」のあってないようなことがやってくるのか。最近の西原さんの俳句。

  葡萄ひとふさ電線を見て過ごす  西原天気 

  (「過日」『はがきハイク』第15号・2016年11月)

見て過ごす「電線」は、「素晴らしく、くだらなく、崇高で、過激で、だるく、斬新で、陳腐で、軽やか」だ。そしてそれは、俳句も、だ。

それを一言でいうなら、〈ふっ〉になるだろう。西原さんにとって俳句とは〈ふっ〉としたものだった。だからこそ哲学は「数ページ」なのだ。それは「数ページ」で構わないのである。〈ふっ〉なのだから。それは曖昧さとしての〈数ページ〉としか名付けられないような〈ふっ〉なのである。そしてなにより大事なのは、「哲学」という思想をこえて「ソファー」というモノがやってくることだ。抽象物ではなく、届くのは、モノなのである。たとえば、「桃の実」。

  曇天を大きな桃の実と思ふ  西原天気
   (「過日」前掲)

「曇天」という抽象物に思考を深入りさせず、「曇天」を「桃の実」と「思ふ」ことで思想をモノによって断ち切らせること。「桃の実」というモノは、「曇天」の空によせる〈モノ思い〉をストップさせるだろう。そしてそれが〈俳句〉でもあるのだ。わたしたちは考えるために俳句をつくるのではなくて、考えることを考えないために、つまり、考えないことを考えるために、俳句をつくるのだ。

だから俳句にとって哲学は「数ページ」でいい。それは深入りするものではない。もっといえば「数ページ」でやめてしまって他のことを考えはじめてもいい。まったく、ぜんぜん関係ない、明日のソファーのことを考えはじめてしまってもいい。そうした《語らない挙措》こそ、俳句だからだ。

だから語り手は明日ソファーがきたら、そのときはそのときでまたべつの《あしたのソファー》をみいだしていくにちがいない。そして強いて言うならば、それこそが《俳句がつちかう哲学》なのだ。

集中しないこと。奥に向かわないこと。手前にとどまること。

  あかさたなはまやらわをん梅ひらく  西原天気

わたしはそこから俳句に入った。けむりのなかに入るように、手前や奥を見失いながら、それでも俳句の《奥深さ》=《手前深さ》を感じながら。

だから、まだ、手前にいる。そこが俳句の《奥》のような気がするから。

星ひとつ流るる電子レンジかな  西原天気
          
 (「マンホール」『けむり』西田書店・2011年 所収)

2016年11月8日火曜日

フシギな短詩56[雪舟えま]/柳本々々




  寄り弁をやさしく直す箸 きみは何でもできるのにここにいる  雪舟えま


「寄り弁をやさしく直す」という〈ポジション修正〉の歌なのだが、この歌集『たんぽるぽる』にはもうひとつこんな〈ポジション修正〉の歌がある。

  なめらかにちんちんの位置なおした手あなたの過去のすべてがあなた  雪舟えま

この歌もまた〈ポジション修正〉の歌だ。

虚心に考えてみよう。なぜ、〈ポジショニング〉する必要があるのだろう。

それは、〈固定〉されていないからだ。

  「ちんちんが揺れてたさまを思い出せ春風にさみしくなるときは」  雪舟えま

この歌集『たんぽるぽる』のタイトル自体も「ぽる/ぽる」と「ぽる」がゆらゆらゆれている残像のようにもみえるが、ゆれるものは、位置を直さなければいけない。〈ゆれ〉に対処しなければならない。そう。

わたしはこの歌集のひとつのコンセプトとして〈ゆれ〉への対処があるのではないかとおもう。

「きみは何でもできるのにここにい」て〈ゆれ〉へ対処していること。「あなたの過去のすべて」を所持したうえでの〈ゆれ〉の修正。〈ゆれ〉はつねに「何でも」「すべて」という〈生の全体性〉を想起させる。その〈生の全体性〉のなかで〈ゆれ〉に対処するのが〈部分〉としての個人的・実存的な生である。しかも〈わたし〉の目の前にしかいない〈あなた〉の。

もちろん、「寄り弁」も「ちんちん」も部分的であり、たった〈ひとつ〉しかないものだ。それらは〈全体性〉をもちえない。〈世界の寄り弁〉や〈世界のちんちん〉などないのだから。

  たんぽぽがたんぽるぽるになったよう姓が変わったあとの世界は  雪舟えま

「たんぽぽ」は「たんぽるぽる」として〈ゆれ〉はじめた。もちろんここでは「世界」という〈生の全体性〉を指し示す言葉がある。しかし「寄り弁」や「ちんちん」と違って変わった「姓」は容易には〈修正〉しがたいものだ。

「きみ」や「あなた」は〈位置なおし〉ができるのに〈わたし〉は〈位置なおし〉ができないかもしれない。〈わたし〉にはできないのに、「あなた」たちはやっている。そういう〈ポジショニング〉をかんたんに全体性のもとにしてしまえる「あなた」たちの〈ずるさ〉もこの歌集は内包しているかもしれない。「あなた」たちは、〈わたし〉に対して、ときに、「いつか何かに」とかんたんに言えてしまうくらい、アバウトで〈てきとー〉である、と。

  君がもう眼鏡いらなくなるようにいつか何かにおれはなります  雪舟えま

          (「魔物のように幸せに」『たんぽるぽる』短歌研究社・2011年 所収)

2016年11月4日金曜日

フシギな短詩55[石部明]/柳本々々



  黄昏の体かがんで蝶を吐く  石部明



庵野秀明/樋口真嗣の映画『シン・ゴジラ』を観ていてとても印象的だったのが、ゴジラが身をかがめて嘔吐するように熱線を吐くシーンだ。今までのゴジラ映画は熱線をカタルシスのようにどぱーっと噴射していたのに対し、今回のシン・ゴジラは身をかがめ大地に向かって吐瀉物のように熱線を吐いていた。そこにカタルシスはなかった。

では、なにがあったのか。それは、〈痛々しさ〉である。

嘔吐というのは、〈痛み〉につながっている。なにかを排出していくにもかかわらずその吐いている身体そのものが感覚される実存的な痛み。それが〈嘔吐〉ではないか。

わたしは嘔吐するように熱線を口から吐瀉しつづけるゴジラをみながら、ああこれは石部さんの句そのものではないかと思った。「黄昏の体かがんで蝶を吐く」。

〈嘔吐〉は身体の痛みを導入することによって、わたしの痛みだけでなく、あなたへの痛みも問いかける。その意味で、嘔吐は、わたしの「痙攣」からあなたへの「闘争」にもつながっていく。

〈吐き気〉を哲学的に考察したメニングハウスは次のように述べている。

  吐き気を初めて理論化した一人であるカントは、吐き気を「強烈な生命感覚」と呼んだ。……吐き気とは、非常事態にして例外状態であり、同化しえない異他的なものにたいする自己防衛の切迫した危機であり、文字どおりの意味で生きるか死ぬかに関わる痙攣にして闘争である。 

  (メニングハウス、竹峰義和・知野ゆり・由比俊行訳『吐き気 ある強烈な感覚の理論と歴史』法政大学出版局、2010年)

〈吐き気〉とは、「非常事態にして例外状態」であり、〈外部〉に違和を感じたこのわたしの「生きるか死ぬか」の「痙攣にして闘争」である。

東京の中心地、皇居の近くにおいて、視覚的にも美しいスペクタクルのような光の熱線とは裏腹にゴジラはまるで〈嘔吐〉するかのように熱線を吐瀉しつづけた。そこにはゴジラ自身の〈外部〉に対する違和としての「生きるか死ぬかに関わる痙攣にして闘争」があったのではないか。そして石部さんの句もそうだ。語り手は「かがんで蝶を吐」いている。美しいスペクタクルのような蝶を吐きながら、語り手は「生きるか死ぬかに関わる痙攣にして闘争」をしている。

石部さんの句集には、〈嘔吐〉をめぐる句が多い。少しまとめてみよう。

  雑踏のひとり振り向き滝を吐く  石部明

  わが喉を激しく人の出入りせり  〃

  身体から砂吐く月のあかるさに  〃

ここで石部さんの句で大事なことは、語り手が〈嘔吐〉するたびに、自らを取り巻いている〈場面(シーン)〉を強く意識していることだ。「雑踏のひとり」という交通的場面、「わが喉」が「人の出入り」する空間となる場面、「月のあかる」く光に満ちた場面。

嘔吐や吐き気はわたしからわたしに回収されていくものではなく、たとえそれが排出物であったとしても、わたしから〈外〉へとアクセスされ、場面を想起させるなにかなのだ。

  サルトルが経験したように、名前が事物から剥離し始めたとき、言葉は自分の身体からも自立し始めていたので、そのとき体験された名づけようもない嘔吐を催す存在は、わたしを事物や他者から隔てる無であるばかりでなく、わたしの言葉、つまりわたしの自己意識をわたしの身体からも隔てる、ヴァレリイのいう非存在の体験であったともいえる。
   (近藤耕人「身体と言葉のコギト」『ユリイカ』1982年11月)

「名づけようもない嘔吐」は「わたし」を「わたしの自己意識」からも遠ざける。だから「嘔吐」はわたしからわたしに過不足なく回収されない。それは吐瀉物がそのまま身体に戻らないように、「嘔吐」によってわたしたちは〈わたし〉からも疎外された「非存在」になる。しかしそのとき逆説的にわたしたちは〈わたし〉の枠組みを抜けだし、〈外〉とそれまでとは違ったやりかたでアクセスするきっかけを見いだすのではないか。

  嘔吐(もしわれ影でない何かなら)  小津夜景


   (「天蓋に埋もれる家」『フラワーズ・カンフー』ふらんす堂、2016年)

『シン・ゴジラ』で映画の物語が転回しはじめるのは、ゴジラの〈嘔吐〉によってである。熱線を吐くシーンでは、《わたしがこの世界で死んでも誰もわたしのことを知らないだろう》という趣旨の歌「Who will know」が流れる。この「わたし」とは「ゴジラ」のことではないか。だれもゴジラを理解しない。理解できない。ゴジラは嘔吐する。ゴジラ自身もゴジラのことを理解しない。

だれが《あなた》のことを知るのか。

〈嘔吐〉によってゴジラはゴジラから疎外され、わたしたちもわたしたちから疎外される。でもそこからはじめてふたたびわたしたちの「痙攣にして闘争」がはじまるのではないか。

嘔吐して、疎外されて、はじめて疎外(嘔吐)するわたしは疎外(嘔吐)されたわたしと「殴りあ」えるように、おもうのだ。「オルガン」と「すすき」という異者同士になって。

  オルガンとすすきになって殴りあう  石部明


          (「遊魔系」『セレクション柳人3 石部明集』邑書林・2006年 所収)




2016年11月3日木曜日

フシギな短詩54[小津夜景]/柳本々々




  サイダーをほぐす形状記憶の手  小津夜景


いや、こんなふうに考えてみよう。どうして語り手は「サイダーをほぐす」ことができたのかを。

サイダーは飲み物なのだからまぜることはできても「ほぐす」ことはできない。「もつれてかたまったものをとく」ことが「ほぐす」なのだから、「サイダー」はほぐせない。でもひとつだけ方法がある。

この「サイダー」が〈ゼリー〉である場合だ。その場合、「ほぐす」ことは可能かもしれない。

注意したいのは、その「ほぐ」している「手」が「形状記憶の手」である点だ。つまり、「形状記憶」ができる「手」であるために、「サイダー」を〈ゼリー〉のような「記憶」としてあつかうことができるようなのだ。

小津夜景さんの俳句にあっては、記憶とゼリーは関係しあっているらしい。こんな句を引いてみよう。

  ぷろぺらのぷるんぷるんと花の宵  小津夜景

もちろん「ぷろぺら」はゼリーのように「ぷるんぷるん」とはしない。でも、この「ぷろぺら」がひらがな表記である点に注意したい。この「ぷろぺら」は「プロペラ」ではない。主観のなかでまだ客観化されない「ぷろぺら」なのだ。まだ語り手の主観にあって「ぷるんぷるん」としている「形状」化されないゼリーのような「ぷろぺら」。「ほぐ」されつつある「ぷろぺら」だ。

ゼリーのようなぷるぷるした記憶に満ちた句集。この句集の一番目に置かれた句をみてみよう。この句集はどんな句ではじまったのか。

  あたたかなたぶららさなり雨のふる  小津夜景

「たぶららさ」はタブラ・ラサであり、白紙のようななにもまだ書き込まれていない心という意味のことばだ。しかしそうした無垢な意識そのものが「たぶららさ」という主観のなかにひらがな表記として《すでに書き込まれた》ものとして存在しているのがこの句の特徴である。しかも「あたたか」い。「雨のふる」も濡れることの《書き込み》としてみてもいいかもしれない。

つまりこの句集は、白紙状態のまだ書き込まれていないフォーマット=初期化そのものがすでに《書き込まれた》ものとして存在することから始まっているのだ。

わたしたちの意識はどんなに始原的に遡ってもすでに《書き込まれている》。それがこの句集の《態度》ではないか。だからサイダーもほぐせるし、ぷろぺらもぷるんぷるんなのではないか。それはすでに《書き込まれた》世界だから。わたしたちは白紙に、無に、ゼロになることはできない。わたしたちの意識は遡行すればするほど、痕跡化していく。

  失われたものが要求するのは、記憶され、かなえられることではなく、わたしたちのなかに忘れられたものとして、失われたものとして残ることである。ただそのことによってのみ忘れえぬものになるのだから。
  (アガンベン、上村忠男・堤康徳訳『涜神』月曜社、2005年)

「忘れられたもの」そのものが痕跡化すること。しかしその痕跡は決して「かなえられ」ることはないこと。それはゼリーのようななにものにもなりえない〈記憶〉である。わたしたちが生きることは、叶えることのできない「ぷるんぷるん」を引き受けつづけることなのだ。

だから、純粋にはなれない。なにも捨てることもできない。忘れることもできない。叶うこともない。ぷるんぷるんは切迫する。そしてぷるんぷるんは、たぶん、そのたびごとに、〈がまんができない〉という。ぷるんぷるんはだだをこねる。わたしたちはぷるんぷるんと向き合う。なんとかしてやろう、と思う。がまんができずになにかになりたそうな「ぷるんぷるん」をわたしたちは抱き寄せる。わたしは。いや。わたしじゃなくて、句がそう言っている。

  誤字となるすんでの水を抱き寄せぬ  小津夜景




          (「古い頭部のある棲み家」『フラワーズ・カンフー』ふらんす堂・2016年 所収)



2016年10月28日金曜日

フシギな短詩53[岩田多佳子]/柳本々々


  逃亡をはかる親指のいっぽん  岩田多佳子
精神分析家の向井雅明さんが思想家のジャック・ラカンを解説したこんなことを言っている。

  心理学では……脳の発達段階に到達し、内的に成立した自我が、自分のイメージを外部の他者の間に混じって存在しているものとして鏡像を認める…。
  それに対して精神分析的解釈では、そもそも人間には内的な自我に相当するものはなく、その代わりにあるのは自らの身体の寸断されたイメージでしかない。
 
  (向井雅明「鏡と時間」『ラカン入門』ちくま学芸文庫、2016年)
興味深いのは、「心理学」では「自我」という自らの十全なイメージがあるのに対し、「精神分析的解釈」では「自らの身体の寸断されたイメージ」しかないということだ。精神分析的に言えば、わたしたちの身体はばらばらのものとしてある。

わたしは現代川柳というのは人間の心を描くという「心理学的」なのではなくて、寸断された身体を描くという「精神分析的」なのじゃないか、とときどき思っていた。たとえば掲句では「親指のいっぽん」が「逃亡をはかる」。これはばらばらな身体のイメージだ。心理学的自我の十全な自己イメージがあるならば、「親指」が「いっぽん」だけ「逃亡」する必要はない。

集中には他にこんな身体句もある。

  両腕を一年干したままの窓  岩田多佳子
「両腕」を「一年干」すというのは身体がばらばらのまま時間が過ぎる風景そのものでもある。
先ほど引用した向井さんは続けてこんなことを言っていた。

  外部の鏡のなかのイメージは自分の身体を全体的な統一したものとして見せてくれ、子どもはそれを自分の自我の起源として取り入れるのだ。… 
  …ラカンによれば外部のイメージが自我として私をとらえる。すなわち、自我は人間の外部のイメージを基盤にしているのだ。ラカンはこれを疎外と呼んでいる。なぜなら人間はそれによって外部のイメージに取り込まれ、そのイメージを自分自身と思いこむからである。
   
(向井雅明、前掲)
身体がばらばらな人間が自我を得るにはどうしたらいいかというと、鏡のなかの自分をみてそこから身体がばらばらでない自分を見いだせばいい。ところがそれが自分が鏡という外側にしかないことなので、〈疎外〉なのだとラカンは言っている。わたしたちの自我は鏡という外側にあるのだ。
わたしたちの内部は外部にあるのかもしれないということ。それもまた現代川柳が得意とすることであるように思う。たとえば岩田さんのこんな句。

  仏壇の前髪一センチ切りに  岩田多佳子 
  仁淀川のわき腹ふかくシップ薬  〃 
 
川柳の世界においては、わたしたちの身体がばらばらになり逃走を繰り返す一方で、むしろ世界の方に実質的な身体があるようなのだ。「仏壇の前髪」や「仁淀川のわき腹」。前髪を一センチ切ったり、シップ薬を貼ったりするのはそれら〈身体〉がこれからも継続することをあらわしている。すなわち、〈生活〉しているわけだ。

こんなふうに川柳の世界では、人間はばらばらにこわれていく一方で、外側の世界はいきいきしているという非心理学的精神分析的風景が垣間見える。わたしはそれを、すごく、フシギに思う。「フシギな短詩」を連載していて久々にフシギと言ったような気がするが、ほんとうに不思議に思う。
川柳の世界ではどうしてこんなに世界のほうがいきいきするんだろう。

かつてフランツ・カフカはこんなことを言っていた。

  お前と世界のたたかいでは、世界に味方せよーー。
はじめてこの言葉を眼にしたとき、わたしは、いったいなにを言っているんだと思った。それじゃあ、〈鳥かごが鳥を探しにいくようなもんじゃないか〉と。

でも、今なら、わかる。現代川柳は、わたしと世界のたたかいを描くとき、世界に味方する。わたしをばらばらにし、世界をいきいきとさせるのだ。だから、今なら、わかる。そしてその意味において、いまだ、わたしは、まったくわからないのだ。にもかかわらず、

  不意にきて肩を叩いていく四隅  岩田多佳子
          
(「林の章」『ステンレスの木』あざみエージェント・2016年 所収)


2016年10月25日火曜日

フシギな短詩52[村上春樹]/柳本々々



  「ご存じでしょうか。私の好きな短歌にこういうものがあります。『白鳥は哀しからずや/空の青/海のあをにも染まずただよふ』、なんという美しい短歌でしょう、岡田さん」  村上春樹
村上春樹に「青が消える(Losing Blue)」(1992年)という短編がある。「アイロンをかけているときに、青が消えた。」の一文ではじまり、どんどん世界から青色が消滅していく物語だ。物語の時間は「1999年の大晦日の夜」の「二十世紀最後の夜」に設定されている。だからこの短編が掲載された1992年の時点からすれば〈ちょっとした未来〉だ。

青色が好きだった「僕」は「青の消滅」していくなかで公衆電話から「内閣総理府広報室」に電話をかける。NECが新しく作り上げた「コンピューター・システム」としての「総理大臣」が出て「総理大臣」は「僕」に若山牧水の短歌を引用しながら答えてくれる。

  「青はまことに美しい色であります、岡田さん」と総理大臣の声が静かに言った。「ご存じでしょうか。私の好きな短歌にこういうものがあります。『白鳥は哀しからずや/空の青/海のあをにも染まずただよふ』、なんという美しい短歌でしょう、岡田さん」 
  「ねえ総理大臣、青がなくなってしまったんですよ」と僕は電話に向けて怒鳴った。 
  「かたちのあるものは必ずなくなるのです、岡田さん」と総理大臣は言い聞かせるように僕に言った。「それが歴史なのですよ、岡田さん。好き嫌いに関係なく歴史は進むのです」
    
(村上春樹「青が消える(Losing Blue)」『村上春樹全作品1990~2000①』2002年、講談社)

この物語では「青」をめぐる事柄が「政治」や「歴史」をめぐる〈大きな物語〉として語られる。「青はいったいどうしたんですか?」と「僕」が「白い駅員」に問いかけても「駅員」は「政治のことは私に聞かないでください」と「僕」をつっぱねる。「僕」は「青」が大好き(僕の〈小さな物語〉)なのに、牧水の歌の「白鳥」=〈小さな物語〉のようにその「青」=〈大きな物語(空の青/海のあを=世界の青)〉から排除されている(「総理大臣」が「私の好きな/美しい短歌」として「好き」「美しい」という〈小さな物語〉の枠組みで「青の消滅」=〈大きな物語〉を語ろうとしていることに注意したい。「総理大臣」とは〈小さな物語〉を〈大きな物語〉にすり替える人間なのかもしれない)。

短歌においてはちょっと不思議な〈色の系譜〉のようなものがある。思いつく限りで任意に引用してみよう。

  赤、橙、黄、緑、青、藍、紫、きらきらとラインマーカーまみれの聖書  穂村弘
   (『ラインマーカーズ』小学館、2003年)

  緑でも赤でも黄色でも茶色でも青でも黒でもない鬼  伊舎堂仁
   (『新鋭短歌シリーズ18 トントングラム』書肆侃侃房、2014年)

 赤青黄緑橙茶紫桃黒柳徹子の部屋着  木下龍也
   (『きみを嫌いな奴はクズだよ』書肆侃侃房、2016年)

〈大きな物語〉である「聖書」は「ラインマーカー」のカラーによって個人にとって「きらきら」した〈小さな物語〉に〈解析〉される。どのような色からもはじき出された「鬼」は〈大きな物語〉にも〈小さな物語〉にも回収されず「鬼」としてたたずむ。毒々しい極彩色の「徹子」の部屋着は、「徹子」がみずから主体的に選び取った〈小さな物語〉としての「部屋着」というよりは、「徹子」が非主体的・超越的に「部屋着」を選び取らされているような〈大きな主体〉を感じさせる。

牧水の〈色をめぐる歌〉を〈大きな物語=空の青/海のあを〉に排除されてある〈小さな物語=白鳥〉と春樹の短編に沿って読んでみるならば、〈色の短歌〉とはそうした〈大きな物語〉と〈小さな物語〉がせめぎあう構造的葛藤の場として読むことができるかもしれない(そこからなぜ村上春樹『ノルウェイの森』の「緑」は「緑」だったのかも考えることができるかもしれない。「緑」の言葉を思い出そう。「私ね、ミドリっていう名前なの。それなのに全然緑色が似合わないの。変でしょ?」)。

その意味では、短歌になぜ〈きらきら〉や〈光〉が頻出するのかもちょっと考えてみたいところだ。

  キラキラに撃たれてやばい 終電で美しが丘に帰れなくなる  佐藤りえ
  (『フラジャイル』風媒舎、2003年)

  秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは  堂園昌彦
   (『やがて秋茄子へと到る』港の人、2013年)

〈きらきら〉や〈光〉とは色に還元することができない〈なにか〉だからだ。それは個人的に現出した〈きらきら〉だが、どこか超越性も同時に感じさせている。これら二首が「キラキラ」や「光」と共に「撃たれて」「死ぬ」という〈大きな力〉を感じさせながらも、「終電」「秋茄子を両手に乗せて」という〈小さな物語〉をそこに布置していくことも興味深い。そういう〈小さな物語〉と〈大きな物語〉がぶつかり合いスパークした場所に〈きらきら/光〉はある。

〈大きな物語〉と〈小さな物語〉のはざまを「染まずただよふ」こと。色(カラー)を意識してしまった人間はその色彩的実存を引き受けることになる。多くの村上春樹の主人公「僕」がそうであるように青が消滅していく世界の「僕」もまた「わけのわからないままどこまでも通りを歩い」ていく。

「わけのわからない」状態は、〈大きな物語〉にも〈小さな物語〉にも回収されず「染まずただよふ」ことだ。言わば「やれやれ」的主体。「やがて町中の時計が十二時を打っ」て世界は2000年に踏み込んでいく。「みんな」は「一斉に歓声をあげ、歌を歌ったり、物を投げたり、抱き合ったり、シャンパンを抜いたりした。新しいミレニアムがやってきたのだ。誰も消えた青のことなんか気にしてはいなかった」。

  《でも青がないんだ》、と僕は小さな声で言った。《そしてそれは僕が好きな色だったのだ》。
         
 (「青が消える(Losing Blue)」『村上春樹全作品1990~2000①』講談社・2002年 所収)

2016年10月21日金曜日

フシギな短詩51[斉藤斎藤]/柳本々々


  船のなかでは手紙を書いて星に降りたら歩くしかないように歩いた  斉藤斎藤
昔、小高賢さん編集の『現代の歌人140』(新書館、2009年)でこの一首に出会った。「歩くしかないように歩いた」が印象的でずっと覚えていたのだが、今回斉藤斎藤さんの新刊の歌集『人の道、死ぬと町』で連作としてこの一首に出会い、この歌が「肉なわけがない」と題された連作内に収められた一首であることを知った。

この連作「肉なわけがない」から連作を通してあらためて今この歌に〈出会い直し〉たとしたらどういう歌として受け取ることができるのだろう。

この連作には「USJに行って帰った」と詞書のついたこんな歌がある。

  ここにいてはたらくことのよろこびが時給の安さに負けているのだ  斉藤斎藤
「はたらくことのよろこび」という価値観は「時給の安さ」という個人がどう抗おうとも動かしがたい社会が規定した〈枠組み〉に抑圧されている。こうした規定した〈枠組み〉にこの連作は非常に敏感だ。

  図書館で借りた死体の写真集をめくった指でぬぐう目頭  斉藤斎藤 
  左側の扉がひらき人のながれに途切れないよう降りるつづいて  〃 
  「肉なわけがないでしょうこの価格で」とカツは居直るカレーまみれで  〃

「図書館で借りた死体の写真集をめくった」に規定される「指」、「左側の」ひらいた「扉」にできた「人のながれ」に規定された「降りる」、「この価格」に規定された「肉なわけがない」「カツ」。

「指」も「降りる」も「カツ」もナチュラルに無-環境のなかふわふわと浮いているのではなく、あらかじめ規定されてから生まれ出た〈なにか〉である。そしてその〈なにか〉をわたしたちはいったん規定された上で受け取る。その規定に対する感受性を連作は何度も繰り返す。

つまりこの連作内の短歌は、「歩くしかないように歩い」ている規定された語り手の短歌なのである。それらはすでに規定されたものであり、「歩くしかないように歩」くしかないものなのだ。

じゃあ、どうすればいいのだろうか。規定されるしかないのか。

ここで大事だと思うのは連作タイトルの「肉なわけがない」である。「肉なわけがない」という規定に対する感受性。規定はくつがえせないかもしれないが、しかしそれに敏感になることはできる。「肉なわけがない」と。

この歌集には多くの散文が収められているがこんな斉藤さんの一節がある。ちょっと長くなるが斉藤さんの短歌観を率直にあらわしているように思うので、引用してみよう。

  短歌は短い。三十一文字だから、ボロが出る前に書き終われてしまう。一定の技術があれば、ほんとうに思ってないことでも、ほんとうらしく書けてしまうものだ。一首一首をそれなりに仕上げることは、実はそれほど難しくはない。 
  だから大切なのは、何を書くかではなく、何を書かないかだ。 
  歌詠みが歌人となるためには、それなりに書けてしまう歌を、文体を、捨てる作業が必要だ。他人に書ける歌は他人にまかせ、自分がもっとも力を発揮できる文体とモチーフを突き詰めてゆくことで、ひとりの歌人が誕生する。 
   (斉藤斎藤「棺、「棺」」『人の道、死ぬと町』短歌研究社、2016年)
この斉藤さんの言葉を私なりに先ほどの連作の歌ともあわせた上で言い換えてみるならば、これはこんなふうに言っているのではないか。《じぶんで規定をつくりなさい》と。押しつけられた規定に敏感になり、その規定を意識化しながら、みずからの規定を生みだし、その自己規定にしたがいながら、「歩くしかないように歩」くこと。

わたしはふと岡井隆さんが言っていたこんな言葉を思い出した。

  定型の思想とは、まず第一に、詩型に関する《契約》の思想であるとかんがえられる。 
  定型詩人は、最初の読者である自己を含めた想定上の読者との間に、詩という、言語の継時的展開に関する、一つの契約を結ぶ。 
  その定型詩によっている限り、この契約は破られてはならない。 
  契約は、一面において、自由の制限であり拘束であるが、同時にそれが、自在感を生むようなよろこばしい制限になるのである。 
   (岡井隆『短詩型文学論』紀伊國屋書店、2007年)
定型詩を書くものは、定型詩に対して「一つの契約を結ぶ」。

掲出歌では語り手が「船のなかで」「手紙を書いて」いたが、この「船」を定型詩と見ることもできるのかもしれない。その「船」のなかで語り手は「手紙を書いて」いる。定型(船)のなかにおける他者(手紙)への〈書くこと〉。それは「星」という規定された環境と結びつき、「歩くしかないように歩」く〈契約〉を生み出す。

かもしれない。

この歌集『人の道、死ぬと町』はタイトルの通りに、さまざまな〈死〉に満ち満ちている。そしてその〈死〉のなかには、「いずれ私の震災がやってくる」(「私の当事者は私だけ、しかし」)と書かれているように、やがてくる〈わたしの《死》〉も折り込まれている。

「死ぬと町」。「町」というひとびとが織りなす共同体はすでに「死」によって規定されている。だがそれは「死」ではなく「死ぬ」なのだから、同時に、「生きる」でもある。ひとは「生き」ないと「死ね」ないのだから。

生きるということは、生きるよりも前に「生きる」という規定を感受することなのだろうか。規定。たとえば、低いほうにすこしながれて凍ってる。わからないけれど。自由でないまなざしの、環境の規定。それは。そのなかの、生きる。わからないけれど。でも、生きるは人生とは違うから。その生きるもまた「本業」として規定されてあること。それは。

  低いほうにすこしながれて凍ってる わたしの本業は生きること  斉藤斎藤
         
 (「肉なわけがない」『人の道、死ぬと町』短歌研究社・2016年 所収)

2016年10月18日火曜日

フシギな短詩50[ミムラ]/柳本々々


  チッという音の棘だけ抜けなくて舌打ち女性を枕に浮かべ  ミムラ
ミムラさんの連作「記憶を浚うとふと底にざらつく、日々の澱」は音にあふれる連作である。

  パサついた昨日のパンに噛りつく再燃涙に珈琲まずい  ミムラ 
  雨受けて川面に雫さんざめく合羽のフードが音響装置  〃
  米散った深夜のキッチン立ち尽くす五合分増す疲れに沈み  〃

連作タイトルにあるように「日々の澱」のような〈ものうさ〉のトーンに連作が支配されるなか、その連作内を象徴として貫いていくのが〈音響〉である。

連作内に奏でられる音響。「チッ」という舌打ち、「パサついたパン」、「さんざめく」雨と「合羽のフード」の「音響装置」、「五合分」の「米」がキッチンに落ちるときの〈響き〉。連作タイトルにもそもそも「ざらつく」という「ザラ」という音が響いている。

この連作内を貫いていく〈音・響〉はいったいなんなのだろう。

ヒントになるのはタイトルにある「記憶」である。どうも「音」は「記憶」と関わりがあるらしいのだ。
掲出歌をみてみよう。「チッという音の棘」と語り手は表現している。「音」ではなく、「音の棘」だ。つまりそれは語り手に刺さるものであり、抜かなければ傷つくものである。なじむものではなく、語り手にとって「音」は異物なのだ。しかも、痛い。「抜けなくて」というのは「(抜こうとしたけれど)抜けなくて」という諦めでもある。その「音の棘」を介して「枕」もとに「舌打ち女性」がやってくる。もちろんそれは「記憶」としてやってくるのだ。

結論を、言おう。〈音〉とは、わたしがコントロールできない〈記憶〉なのだ。ひとは思い出したいことを思い出して、思い出したくないことは思い出したくないものとして抑圧するかもしれない。でも〈音〉とセットになった記憶はちがう。「チッ」という音が響いたしゅんかん、わたしは「舌打ち女性」を思い出すのだ。というよりも、記憶がわたしに思い出させる。わたしの意志=意思に関係なく。

〈音〉とはわたしが制御できないものなのだ。眼を閉じることはできるが、耳を閉じることはできない。だからこそ、音は「日々の澱」のように「記憶」の「底」に「ざらつ」きとして溜まっていく。

短歌では一般に〈音のきもちよさ〉が追求される。〈舌のここちよさ〉という評が出てくるのは短歌というジャンルならでは、だと思う。しかし短歌を〈音のきもちわるさ〉からも考えてみたいと思ったりもする。短歌は〈音のきもちよさ〉だけでなく、〈音のきもちわるさ〉も考えることができうるジャンルだともおもうから。

その端緒が、このミムラさんの連作には、あるようにおもう。音と、記憶と、身体と、生きることの関係。なにげなくわたしたちが口にしてなおざりにしている音と体と記憶の「日々」の内実とは、実はそういったものではないのか。

〈きもちよさ〉だけでなく、〈きもちわるさ〉に敏感であるためにはどうしたらよいのか。そんなことを、いま、もう、この文章が終わっていくんだなと思いながらも、終わっていくきもちよさをなんとかきもちわるさにできないかなとかんがえながら、考えている。



          (「記憶を浚うとふと底にざらつく、日々の澱」『ユリイカ』2016年8月 所収)

2016年10月14日金曜日

フシギな短詩49[壇蜜]/柳本々々


ノックあり 扉開けども 姿なく ふと爪先に 瀕死のカナブン  壇蜜
壇蜜さんの連作「世田谷の善き友たち」には「友たち」と語られながらも奇異な点にすぐに気がつく。〈人〉がいっさい出てこないのだ。

  まどろみに 猫の背中を ついと撫で 産毛の湿りで 雨かと悟る  壇蜜 
  何処から 逃れてきたのか 松の枝に カナリヤ止まる 宵の境内  〃

「カナブン」や「猫」、「カナリヤ」(他に連作内には「小魚」「蚊」が出てくる)。この連作において「友」というのは明らかに動物や虫、鳥、魚などの〈生物〉のことである。語り手の〈わたし〉以外にこの連作に〈人間〉が出てくることはない。

ここで少しこれら〈生物〉たちがどのような働きをこの連作でなしているのかに注意をむけてみよう。掲出歌をみてほしい。

語り手が「ノック」で「扉」を「開け」た先に見たのは「(人間の)姿」ではなくて、「瀕死のカナブン」だった。ここで「カナブン」は語り手に扉をあけさせる働きをしている。内と外の境界に連れ出したのは「カナブン」なのだ。

この観点から他に引用した短歌もみてみよう。「猫の背中を」「撫で」た語り手は「産毛の湿りで」「雨かと悟る」。つまり語り手はいま、雨が降る前/後の境界にたちあっている、「猫」を介して。

「宵の境内」に「何処から」か「逃れてきた」「カナリヤ」も内と外の境界を破砕する機能を有するだろう。「松/待つ」(掛け詞)の枝に〈外〉からやってきた「カナリア」が止まることにより語り手の〈待ちつづける〉閉鎖されたシステムは崩れるかもしれない。「境内」というのは文字通り〈《境》界の《内》側〉という意味だ。「境内」=〈内側〉に外部をもたらす「カナリア」。

こうやって考えてみると、これら〈生物〉たちが語り手にとってなぜ「善き友たち」なのかわかってくるはずだ。それは〈内部〉にとどまる語り手に〈外部〉を運んでくるからだ。その意味で語り手にとっては「友」なのである。

ここには〈友人〉とはいったいなんなのかという端的な定義がある。〈友〉とは、そのひとがどういう人間なのか、〈だれ〉なのかが問題なのではない。それは、〈人間〉でなくてもいいのだ。〈だれ〉でもかまわない。〈生物〉でも〈本〉でもいい。問題は、「友」が「わたし」に〈外部〉をもってやってくるということなのだ。内部で待ちつづけるわたしに「外」を端的に指し示してくれること。それが「友」である。それをわたしは壇蜜さんの連作から学んだ。

そういえばキルケゴールはこんなふうに言っていた。「私の通信は友情によって運ばれてゆく」と。
「友」とは、わたしを「外」に運んでくれるひとのことだ。ともだちってなんですか、ときかれたら、わたしはこれからは自信をもって、そう、答えようと、おもう。

          (「世田谷の善き友たち」『ユリイカ』2016年8月 所収)

2016年10月11日火曜日

フシギな短詩48[ながや宏高]/柳本々々


  玄関に靴を浮かべて沈まないように祈ってから乗りこんだ  ながや宏高

どうして語り手は「沈」むかもしれないと思ったのか。「祈っ」たのか。

この問いから、はじめてみよう。

歌人の光森裕樹さんがこのながやさんの連作「水性ファンタジー」を「水に関する歌で揃えた〈水しばり〉の一連である」(「境界の表面張力」『『かばん』別冊・新人特集号 Vol.6』)と解説しているように、このながやさんの連作は〈水〉にあふれている。

ここで〈水〉のあるひとつの作用を思い出してみよう。それは〈不可逆〉を持ち込む点である。たとえば、なんでもいい、雨に濡れた本のことを考えてみよう。本は乾かせることができるかもしれないが、しかし《元の状態に戻ることはない》。

このながやさんの連作は「水性ファンタジー」の表題のとおり、全編水に満ちている。その意味では以前取り上げた野間幸恵さんの水をめぐる俳句の雰囲気にも似ている(拙稿「フシギな短詩18[野間幸恵]」)。水をとおして世界のそこかしこを思いがけないかたちで移動していく。しかし決定的なのは、その水の移動とともに、水の不可逆がセットで語られていくことだ。

  破裂した水ふうせんの結び目は悪魔のへその緒じゃありません  ながや宏高

  スライムの死体かよって言い合ったアイスキャンディー溶ける路上で  〃

  テーブルにこぼしたダージリンティーは「夕日に染まる湖」役に  〃

「破裂した水ふうせん」、路上で溶けた「アイスキャンディー」、「テーブルにこぼしたダージリンティー」。どれも《もう元に戻らない水》である。

連作の雰囲気から掲出歌を読むとするならば、語り手はこの《水と不可逆》の雰囲気のなかで、玄関に並んだ靴を履こうとしている。いや、「履く」ではなく、「乗りこ」もうとしている。靴は、語り手にとっては船だからだ。だから、「沈」む可能性があり、「沈」めば不可逆として二度と浮かび上がらない可能性も感じ取っている。それが連作の《雰囲気》のなかにおける「靴」のありかただ。

語り手が「沈」むかもしれない「靴」に「祈」りながら「乗りこんだ」のはそういうわけだ。この連作という不可逆の船そのものに語り手は乗っていたから。

この「水性ファンタジー」における水は明らかに不可逆の水である。その意味で、光森裕樹さんがこの連作を「境界への意識」から読み解いていたことに注意したい。不可逆とは、境界をこえたら、二度と戻ってはこられない境界線だからだ。

この連作の水は、このわたしに覚悟を要請してくる水だ。境界を越えるのか、越えないのかの、覚悟を。おまえはどうするのか、と。

  対岸で手をふっている人がいるこちら側には僕しかいない  ながや宏高

前回の笹井宏之さんもそうだったが、もしかすると短歌にはいかに不可逆を、境界を、越えるかが、つねに賭けられているのかもしれない。短歌の性質として。はじまったら《一方通行的に》終わらなければいけない定型詩の宿命として。

短歌とは不可逆をひきうける覚悟であること。或いはその覚悟への予期と準備と恐怖であること。「沈まないように祈」ること。たとえば穂村さんの予期と準備と恐怖の歌。

  「凍る、燃える、凍る、燃える」と占いの花びら毟る宇宙飛行士  穂村弘
   (『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』小学館、2001年)


          (「水性ファンタジー」『『かばん』別冊・新人特集号 Vol.6』2015年 所収)

2016年10月7日金曜日

フシギな短詩47[笹井宏之]/柳本々々


  

えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい  笹井宏之


言葉を、手に入れるってどういうことなんだろう。ことば、ではなくて、言葉を。

笹井さんのこの歌がいろんな読み方ができることはわかる。わかるけれど、今回はこの歌を〈がまん〉という観点から読んでみたい。

この歌の構造に着目してみよう。

すぐに気がつくのは、「えーえんとくちから」というひらがなの文がまったく同じかたちで二度反復されたあとに「永遠解く力を下さい」と漢字分節の文で終わることだ。つまりこの歌では、「えーえんとくちからえーえんとくちから/永遠解く力を下さい」という〈ひらがな〉から〈漢字分節〉へのとつぜんの移行に決定的な〈転機〉がある。

わたしはそれをこんなふうに考えてみたいと思う。

〈ひらがな〉の世界に、〈がまん〉ができなくなったこと。

〈ひらがな〉の世界に居続けることに〈がまん〉ができなくなったら、耐えられなくなったから、語り手は〈漢字分節〉の世界に移行した。

〈漢字分節〉の世界とは、意味分節の世界である。みてみればわかるように「えーえんとくちから」の表記では、「永遠解く力」なのか「永遠と口から」なのか「『えーえん』と口から」なのか意味分節は揺れている。でも漢字表記でみれば、意味は一目瞭然である。ひとめでわかるけれど、そのせいで、〈ゆれ〉はなくなってしまった。

そのことを少し図解してみよう。

 えーえんとくちから=えーえんとくちから
(鏡像イメージの融合する世界=赤ちゃんの世界=想像界)
          ↓
      永遠解く力を下さい
(言葉/意味の分節される世界=大人の世界=象徴界)
「えーえんとくちから」は「えーえんとくちから」と鏡のようなペアリングになっている。それはまるで鏡のなかに自分自身を見ているナルシシズムの赤ちゃんの世界であり、想像的な世界(想像界)でもある。お母さんに抱かれた赤ん坊のように、「えーえんとくちから」は「えーえんとくちから」に抱かれている。

ところが先ほど述べたように「赤ちゃん」の世界はとつじょ転機をむかえる。赤ちゃんの世界=ひらがな表記の想像的なゆれの世界にがまんができず、漢字の世界=大人の世界=象徴の世界=言葉の世界へと駆け上がるのだ。つまり「永遠解く力を下さい」と。

思想家のラカンを解説した本で精神科医の斎藤環さんはこんなことを言っている。

  要するに、言葉=象徴を手に入れるっていうのは、そういうことなんだ。そばにママがいないという現実を耐えるために、「ママの象徴」でガマンすること。「存在」を「言葉」に置き換えることは、安心につながると同時に、「存在」そのものが僕たちから決定的に隔てられてしまうことを意味している。僕たちはこの時から「存在そのもの」、すなわち「現実」に直接関わることを断念せざるを得なくなったんだ。 

 (斎藤環「「シニフィアン」になじもう」『生き延びるためのラカン』バジリコ、2006年)
「言葉」を手に入れてしまうということは、その「言葉」で指し示しているものから徹底的に《疎外》されてしまうことである。逆説的だが、わたしたちは、「永遠解く力を下さい」と言った瞬間(その言葉を手に入れた瞬間)、「永遠解く力」から《疎外》される。

だから「えーえんとくちから」というひらがなのぐるぐるした想像的循環に《がまん》ができなくなったしゅんかん、言葉が、意味が、手に入れたくなってしまったしゅんかん、語り手が《永遠》から追放されてしまったこと。ここにあえていうならば、《言葉》を手に入れてしまったひとの構造的悲しみがあるのではないかと思うのだ。

語り手は「永遠解く力」を象徴的には手に入れられても、「現実」的には手に入れられなかった。なぜなら、「永遠」とは絶対に分節できないものだからだ。いやもしかしたら「えーえんとくちから」の状態でいつづけたときこそがいちばん「解く力」に近い状態だったのではないか。

でも、一方で、こんなふうにも思う。ひとはそんなふうに「現実」や「えーえん」をあきらめて、「言葉」を、「意味」を、ひとつひとつ手に入れて「大人」になるのだと。

ひとは「えーえん」=非意味に耐えられず「大人」になる。「えーえん」をあきらめて、「永遠」を手に入れるのだ。「えーえん」の代わりに。

そう言えば、「永遠」の「永」という漢字は、「氷」という漢字に似ている(「永」と「氷」も鏡像イメージ!)。意外なことだが、「えーえんとくちから」の《がまん》できずに大人になってしまった「永遠解く力」の歌は、同歌集内のこんな「氷」のやはり《がまん》できなかった歌と響きあっているかもしれない。すなわち、

  あとほんのすこしの辛抱だったのに氷になるだなんて ばか者  笹井宏之
         

 (『えーえんとくちから 笹井宏之作品集』パルコ・2011年 所収)

2016年10月4日火曜日

フシギな短詩46[小坂井大輔]/柳本々々


  わたくしは三十五歳落ちこぼれ胴上げ経験未だ無しです  小坂井大輔


「三十五歳」と言えば批評家の東浩紀さんがこんなことを言っている。

  村上春樹の「三五歳問題」というのは、……春樹の「やれやれ」という倦怠感の裏にある人生観というか時間観みたいなものです。それがもっとも要約して出ているのは、まさに八五年に出版された『回転木馬のデッド・ヒート』に収録されている「プールサイド」という短編です。この短編では主人公は三五歳の誕生日を迎えて、頭髪から睾丸まで丹念に清め自分のタフさを再確認したあと、突然わけもなく泣いてしまいます。つまりは「ハードボイルド」の限界が来るということなのですが、春樹にとって、三五歳は、そういう臨界的で文学的な年齢なのですね。それで八四年というのは、まさにずばり春樹が三五歳の年です。

   (東浩紀「村上春樹とミニマリズムの時代」『思想地図 vol.4』NHKブックス別巻、2009年)


東さんの指摘が興味深いのは「三十五歳」とは村上春樹だけでなくとも、なんらかの「臨界的で文学的な年齢」である可能性があるということだ。

短歌において《年齢=加齢》をたびたび主題化してきたのは荻原裕幸さんである。

  まだ三十二歳だから、と言ひかけてうちなる虹の劣化に気づく  荻原裕幸

  三十五が近づいてゐるひたひたと菜の花でありロシアでもある  〃

  右眼に犀の視力を持つて三十代なかばの雪の深さを知つた  〃

  三十代のからだをつひに逃げ出した苺のけむりのやうな日となる  〃

  三十代は焦点もなくありうるか、ありうるといふ貌のあをぞら  〃

   (「永遠青天症」『デジタル・ビスケット』沖積舎、2001年)


ここにあるのはそう言ってよければ、どれだけ身体が加齢化しても言語的な比喩によって〈救われる〉ことの可能性である。たしかに「うちなる虹の劣化に気づく」かもしれないけれど、それはあくまで「虹の劣化」であって、《身体的な劣化ではない》。だから「三十五が近づいて」もそれは「菜の花でありロシアでもあ」り、「犀の視力」や「苺のけむり」「貌のあをぞら」という身体的な加齢は比喩によって逸脱していく。

ここには身体がどうあってもそこから比喩によって加齢化する身体から抜け出せる契機がある(とわたしは思う)。「永遠青天症」は「一九九四年秋から二〇〇〇年夏まで」の作品からなるものだが、では2016年の「三十五歳」はどうだろう。

小坂井さんの冒頭の短歌をみてもらえばわかるように、ここには比喩はいっさい無い。「胴上げ経験未だ無しです」と語り手は〈無い〉ことを語るが、むしろここに突出して〈無い〉のは、言語的なアクロバティックや比喩によって少しでもなにか逸脱するチャンスをさぐろうとすることがいっさい〈無い〉「三十五歳」のまなざしだ。そこからは「胴上げ経験未だ無し」のように積極的に身体性も棚卸しされてしまう。この歌が「無しです」で象徴的に終わるように、この歌にはほんとうに〈なにも無い〉ように《意図的》につくられているようにわたしは思う。

村上春樹も荻原裕幸さんの歌も頭髪や睾丸、「視力」や「からだ」と加齢する身体性を自己言及的に確認していたが、小坂井さんの歌においては「胴上げ経験未だ無し」というまったく別の「三十五歳」の身体観が語られている。ここには加齢(エイジング)という身体経験値のプラスの過程へのまなざしはなくて、《私の身体にいったいなにが無かったのか》という身体経験値のマイナスのまなざしがあるばかりだ。

でもここで注意しておきたいのは、この比喩の皆無な状況、無いことから構成される「三十五歳」の語り手は決して言語構成する力を放棄しているわけではないということだ。たとえばこの歌がおさめられた連作「スナック棺」にはこんな言語表現的な歌もある。

  

あれ 声が 遅レテ 聞こえル 死ヌのかナ だれ この ラガーシャツ の男ハ  小坂井大輔


つまり、言語加工を「できる」のに「三十五歳」を語るときは「しない」ということ。そういう〈無い〉を意図的に選んであること。それが小坂井さんの「三十五歳」の「落ちこぼれ胴上げ経験未だ無し」の短歌なのではないかと思うのだ。

  社会的承認を受けることなく地下室に蠢く無数の三十五歳達が地下室人のようにサバイヴ……し、何らかの社会的連帯のうちに希望を獲得する転回を遂げるのか、あるいは依然その自意識を持て余し、全てをリセットする破局を待ち望むのか、またはヒロイックな要素の微塵もない緩慢な自死の中に人知れず溶解するのかーー。

   (藤井貴志「三十五歳問題 芥川的《不安》と現在的《不安》」『生誕120年 芥川龍之介』翰林書房、2012年)
芥川龍之介は「ぼんやりした不安」を抱えながら〈三十五歳〉で自殺したが、それは荻原さんの「三十代は焦点もなくありうるか」に共振しているだろう。「ありうる」と荻原さんの語り手は次の瞬間、その「ぼんやり」を〈引き受けた〉が、小坂井さんは「三十代」の〈焦点のなさ=ぼんやり〉を奇妙な平たさとズレのなかで引き受けもせず描こうとする点が特徴的なのかもしれない。引き受けはしないし、積極的に加工もしないが、しかしそうかといって閉息的状況になるわけでなく(そこは「スナック」なのだ!)、〈むこう〉から「進路指導の先生」がやってくる状況。芥川龍之介にはおそらくいなかった「死ぬなと往復ビンタしてくる」先生。

  わたしのなかの進路指導の先生が死ぬなと往復ビンタしてくる  小坂井大輔


2016年の35歳は、奇妙に〈ひらかれた場所〉に、いる。 
 
          (「スナック棺」『短歌研究』2016年9月 所収)

2016年9月30日金曜日

フシギな短詩45[荒木飛呂彦]/柳本々々


  五・七・五になっているセリフ  荒木飛呂彦
漫画『ジョジョの奇妙な冒険』の著者である荒木飛呂彦さんは、自らの創作方法を語った『荒木飛呂彦の漫画術』の「導入の描き方」において次のように語っている。

  最初の一ページにどんなセリフが来れば次のページも読みたくなるのか、考えつくものを挙げてみましょう。

   ・ドキッとするセリフ
   ・しっとり落ち着くセリフ
   ・癒されるセリフ
     (……)
   ・五・七・五になっているセリフ
   ・ラップのように韻を踏んでいるセリフ

    (荒木飛呂彦「導入の描き方」『荒木飛呂彦の漫画術』集英社新書、2015年)

興味深いのは、最初の一ページのセリフ例のひとつとして五七五定型が現れていることだ。なぜ、五七五定型が「次のページも読みたくなる」ようなセリフなのだろう。
荒木さんは「最初の一ページで、その漫画がどんな内容なのかという予告を、必ず描くようにしてい」るという。そこらへんにヒントがありそうだ。つまり、たった一言のセリフが全体をそのままあわらすということ。

実はそうした俳句の働きについて言及している小説家がいる。アメリカの詩人ジャック・ケルアックだ。ケルアックはインタビューにおいて子規について言及したあとでこんなふうに俳句について話した。

  俳句? 俳句が聴きたいか? すごいビッグなお話を短い三行に圧縮するんだよ。
    
(ケルアック、青山南訳『パリ・レヴュー・インタヴューⅠ 作家はどうやって小説を書くのか、じっくり聞いてみよう!』岩波書店、2015年)
ビッグなお話を圧縮したミニマルな形式で提出すること。それがケルアックにとっての俳句だった。
荒木飛呂彦さんやケルアックなどの定型に対する考え方、つまり全体を部分として圧縮したのが定型、から考えてみたいのは、定型詩というのは提喩的な働きをなすということだ。

提喩(シネクドキ)とは、なにか。それは、全体を部分であらわす喩え方だ。たとえば、「文学とパン、どちらが大切だろうか」とあなたが問いかけられたときに、ここでの「パン」は「パン」だけでなく、「食べること全体、食べ物全体」をも同時にあらわしているはずだ。つまり、文学と食べ物、どっちが大事か、と。それを提喩であらわせば「文学とパン、どっちが大事か」になる。食べ物(全体)をパン(部分)によってあわらしたのだ。それが提喩である(ちなみに他の例では、「目玉のおやじ」や「口裂け女」も「目玉/口」(部分)が「おやじ/女」(全体)をあわらしているので提喩だ)。

定型詩は、提喩的な働きをなす。それはつまりどういうことかといえば、提喩の働きがそうであるように、部分によって全体を、最小によってこれから展開される広大な空間をあわらすことになる。だから五七五を一ページに置けば、それはこれからの物語空間の全体の予期になる。

それはどんな一部をもぎとっても、そのもぎとった部分そのものが全体そのものと似てしまうフラクタル構造のようなものと言ってもいいかもしれない。部分イコール全体であり、全体イコール部分であるフラクタル。

荒木さんはデビュー作の漫画『武装ポーカー』の最初の一ページに「『5W1Hの基本』『他人とは違う自分ならではの個性』『同時に複数のねらいを描く』『漫画全体の予告』」という「最後まで編集者にページをめくらせたい」「必要な要素」を「すべて」込めたという。そういう読者の欲動を一気に鷲掴みにするような最小形態は先ほどのケルアックの言葉を借りればこんなふうにも言えるだろう。

「短くてスウィートで思考がいきなり跳躍するような文章は、まあ、俳句だな」

しかしこれらの最大にして最小のフラクタルは定型詩そのものにもあてはまるのではないか。すべてが込められていて、全体でありかつ部分であり、最大で最小の、スウィートな跳躍。それが定型詩なんだと。

荒木飛呂彦さんやケルアックをめぐりながらもいったいなにを言いたいのかというと、定型詩は、定型詩〈内〉の空間だけをめぐりめぐっているわけではないということだ。定型詩はわたしたちの知らない〈奇妙〉なところにそっと密輸されているかもしれない。俳句の空間だけにあるのが俳句ではないかもしれないし、短歌の空間にあるものだけが短歌でもないかもしれない。それそのものの根っこはいつも〈外側〉にある(と、ラカンは言っていた)。

ちなみに『ジョジョの奇妙な冒険』と俳句をめぐっては、荒木飛呂彦責任編集のムック『JOJOmenon(ジョジョメノン)』誌上において「ジョジョ句会」が開かれている。ジョジョ文化と俳句文化がどういうふうに衝突しあい融合しあうかが実況的にわかるので興味のある方はぜひ読んでみてほしい。

  ジョジョ立ちの正中線や秋の天  堀本裕樹 
  運動会子ら吠える午無駄無駄UURRRYY!  柴崎友香 
  「あなたも河馬になりなさい」だが断る  千野帽子
    (「ジョジョ句会」開きました。」『SPURムック JOJOmenon』集英社、2012年)

今回は5や7の〈数〉をめぐる話だったので、最後は『ジョジョの奇妙な冒険』からやはり〈数〉のセリフで終わりにしてみよう。数と勇気をめぐるプッチ神父のことば。そう、数はわたしたちに勇気を与えてくれる。

  落ちつくんだ…「素数」を数えて落ちつくんだ…「素数」は1と自分の数でしか割ることのできない孤独な数字……わたしに勇気を与えてくれる 
  (荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険 ストーンオーシャン』6巻、集英社、2001年)


          (「導入の描き方」『荒木飛呂彦の漫画術』集英社新書・2015年 所収)

2016年9月27日火曜日

フシギな短詩44[穂村弘]/柳本々々


  
夢の中では、光ることと喋ることはおなじこと。お会いしましょう  穂村弘



たとえばパソコンでもスマホでもいいのだけれど、光る液晶画面に向かって誰かとやりとりしているときに、ふいにこの穂村さんの短歌を思い出す。今や「光ることと喋ることはおなじこと」なのは、「夢の中」だけでなく、〈現実の日常生活〉においてもありふれた事態なのではないか、と。
もちろんこの歌はメディアを詠んだ歌ではない。「夢」の中における「光ること」と「喋ること」というまったく違った次元が同一化されるような夢の魔術的な作用が詠まれた歌だ。そこでは「光ること」と「喋ること」は「おなじ」であり、さらにそうした行為と行為の距離感のゼロ性は、〈わたし〉と〈あなた〉の距離感のゼロ性につながっている。つまり「お会いしましょう」と。あなたがどれだけわたしから遠く隔たっていても、わたしはあなたに「会」うことができる。「夢の中では」。


しかし一方で、こうも思う。それはまったく現在のメディア環境そのものではないかと。スマホのLINEでも、ツイッターのダイレクトメールでもなんでもよい。通知がきて画面が光り、打ち込んで話す。距離はゼロ化され、相手は手元に〈現前〉する。メディアを通したたえざる「お会いしましょう」。
考えてみれば、この歌が収められていた歌集タイトルは『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』。手紙というツールを送り手から受け手へとメッセージを運ぶためのメディアだと考えるならば、「手紙魔」とは〈メディア魔〉のことでもある。メディア魔術師からメディア魔への「手紙」としての歌集(ちなみに「歌集」もある意味ではメディアだろう)。

今回の記事の一行目に書くべきだった一文を今書いてみよう。

《もしかしたら穂村さんの短歌は、メディアの魔術(マジック)をうたっているんじゃないかと思うことがある。》

たとえば穂村さんのよく引用される初期の歌。

  サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい  穂村弘

  体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ  〃
  
 (『シンジケート』沖積舎、2006年)

この歌をメディアの歌と考えてみよう。

語り手は「サバンナの象のうんこ」をメディアととらえることではじめて「聞いてくれ」という欲望が生じ、「だるいせつないこわいさみしい」と発信することができた。しかしメディアとしての「うんこ」は受信はしてくれるかもしれないが、それをどこにも送信してはくれない。「だるいせつないこわいさみしい」はこの世界でもしかしたらいちばんアナログなメディア「うんこ」のなかに留まり続ける。

歌のなかの〈おまえ〉は「体温計」をメディアとすることで、「雪だ(ゆきだ)」を「ゆひら」と〈屈折=屈光〉して発信することができた。そのことによってそこには言葉の潜在的屈折性が生まれる。「体温計」をくわえれば、音を介して《違った》言葉が呼び出される。「う・い・あ」という母音=母型(マトリックス)から、「すきだ(好きだ)」という潜在的な言葉も呼び寄せるに違いない。言葉の可塑性をもたらす「体温計」というメディア。

複数形であるメディアにはそもそも単数形のメディウムという霊媒的な意味がある。考えてみれば、定型も不可思議な言葉の可塑性を生み出す点で霊媒的なメディアと考えることもできるかもしれない。

実際、霊的なメディアを詠んだ歌としては穂村さんのこんな歌があげられるだろう。

  まなざしも言葉も溶けた闇のなかはずれし受話器高く鳴り出す  穂村弘
  
 (『シンジケート』前掲)

受話器が外されているのにそれでも鳴る電話。メディアは、生きている。

メディアの作用は夢の作用であり、定型の作用でもある。ときにそれは「光」=〈あなた〉の〈現前〉というゼロ距離をもたらし、またあるときは「象のうんこ」のように言葉のデッドエンドをもたらし、そしてあるときは「体温計」のように言葉の屈光性を生じさせる。言葉は加速し、減速し、変速する。「夢(メディア)の中では」。

はしゃぎながら、またがりながら、回遊しつづけるメディアに乗ったままわたしたちは生きて・死んでいく。ひとつ言えることは、そのまま「はしゃいで」いたければ、そのメディアの〈顔〉を決して見てはいけないということだ。メディアが《生きていること》に気が付いてしまうこと。それはメディアがあなたを直視していることに気づいてしまう瞬間でもあるのだ。メディアの魔術師が、そう言っている。

  はしゃいでもかまわないけどまたがった木馬の顔をみてはいけない  穂村弘

   (『シンジケート』前掲)



 (「手紙魔まみ、ウエイトレス魂」『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』小学館・2001年 所収)


2016年9月23日金曜日

フシギな短詩43[石川啄木]/柳本々々


  たはむれに母を背負ひて
  そのあまり軽(かろ)きに泣きて
  三歩あゆまず  石川啄木



啄木の短歌は三行の〈分かち書き〉になっていてこれまでその〈分かち書き〉に対していろんな解釈がなされてきたが、この〈分かち書き〉を〈姿勢の悪さ=だらしなさ〉からとらえられないかと考えることがある。

俳句の喪字男さんが、俳句はすべて縦書きで刺さっていくように書かれる、と述べられていたことがあったが(参照「【短詩時評 14時】フローする時間、流れない俳句 喪字男×柳本々々-『しばかぶれ』第一集の佐藤文香/喪字男作品を読む-」 )、これは短歌もおなじで縦書きでぐさぐさ刺さるように直立が整列していくのが短歌である。つまり、短歌は、言ってみれば、〈姿勢のいい〉文芸だと言うこともできる。こんなに直立=整列した文芸はほかにないのではないだろうか。

ところがその視点からみると、〈分かち書き〉というのは、そうした直立する短歌という文芸への〈崩し〉だとも言える。つまりそれは〈積極的だらしなさ〉だと。もちろんその〈だらしなさ〉によって不要な意味の固定と分岐が生まれるが、しかしそれは〈縦〉の愛好としてある短歌を〈横〉への欲動の解放として相対化する。

〈横になること〉への関心は啄木のエクリチュール(書くこと/文章)にもあらわれる。啄木の日記を読んでいくと〈就眠時間〉が異様に執着されて毎日記述されていくことに気がつくのだが(北海道の生活をきりあげ明治41(1908)年の春に上京してから〈ねむること・おきること〉に彼は関心を持ち始める)、この〈横になる〉ことの執着はひょっとすると〈分かち書き〉という〈横への欲動〉と共振しているかもしれない、と言えば言い過ぎだろうか(ちなみに啄木が真剣に催眠術を学び生徒にも試していたことをめぐって以前書いたことがある(参照、拙文「【催眠術ノート】催眠術師・石川啄木-ひかることとしゃべることは同じことだからお会いしましょう、ねむって、眼をみひらいて-」 )。


しかし、冒頭の啄木の〈国民的〉な有名歌をみてほしい。これは親をおもった歌というよりは、〈だらしなさへの欲動〉の歌として読むことはできないだろうか。誰かをおんぶするということは、〈姿勢を悪くする〉ということでもあるのだ。「背負」った「母」は「軽」く、語り手は〈直立〉しそうな気配もみせる。なんだかその姿勢は、縦と横のはざまで揺れる〈分かち書き〉の体現でもあるように思う。


  東海の小島の磯の白砂に
  われ泣きぬれて
  蟹とたはむる  石川啄木

もちろん、「泣き」ながら蟹と「たはむ」れている人間の姿勢は〈うずくま〉っている〈だらしない〉姿勢に違いない。この歌も崩れた姿勢の歌として読むことができるはずだ。

〈縦〉の文芸にあらわれる〈横〉の姿勢の系譜。それはなんなのだろう。
もしかすると、〈姿勢のよい〉短歌にはいかに〈だらしなさ〉をそれとなく密輸することが賭けられている/たのではないか。もしそうだとしたら、そこからこんな〈積極的だらしなさ〉の歌も読み直せるかもしれない。横になった〈足〉から考える短歌。

  朝の陽にまみれてみえなくなりそうなおまえを足で起こす日曜  穂村弘
   (『シンジケート』沖積舎、2006年)



          (久保田正文編「我を愛する歌」『新編 啄木歌集』岩波文庫・1993年 所収)

2016年9月20日火曜日

フシギな短詩42[正岡豊]/柳本々々


  きみがこの世でなしとげられぬことのためやさしくもえさかる舟がある  正岡豊

この歌にあるのは滞留と交換の原理ではないかと私は思う。


聖書には「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」という有名な文句があるが、これも滞留と交換の原理に基づいている。「一粒の麦」は死によってその生をそこに留まらせることになるが(滞留)、その滞留から 「多くの実」が生まれるのだ(交換)。

「きみがこの世でなしとげられ」なかったことは「なしとげられ」なかった〈あきらめ〉としてそこに〈滞留〉しているが、しかし、それがあってはじめて「やさしくもえさかる舟」が〈交換〉としてあらわれる。
ここで気づいてしまうことは、〈交換〉とは実は〈飛躍=切断/接続〉なのではないかということだ。「きみがこの世でなしとげられ」なかったことを、〈ぼくがかわりになしとげる〉や〈きみがあの世でなしとげる〉に〈等価交換〉されるのではなく、いわばまったく〈無関係〉に、〈飛躍=切断/接続〉して、「舟」が「やさしくもえさかる」。

本来的には〈切断〉されてあるべきものが〈接続〉されてしまうこと。その切断からの接続はこんな歌と共振しているのではないか。

  かなしみは光ファイバー、突然に降りくるさみだれにおどろくな  正岡豊


「かなしみ」は「光ファイバー」という遠く離れた場所を一瞬に接続させてしまう伝送路のようなものである。どれだけ切断されていても、次の瞬間、光の伝送として接続されてしまう。それは「突然に降りくる」雨のようなものだけれど、「おどろ」いてもいけない〈必然的〉ななにかだ。それがおそらくこの歌集の〈かなしみ〉の基調である。短歌定型をめぐる滞留(切断)と交換(接続)の様相。
だとしたら、その〈かなしみ〉はこんな歌につながっていくかもしれない。

  山を食う話をしたよあまりにも悲しみすぎてついにそこまで  正岡豊
とても悲しんでいるひとをめぐる歌である。「あまりにも悲しみすぎてついにそこまで」してしまったのが「山を食う話」だった。これも〈かなしみ〉から生まれた滞留(切断)と交換(接続)と言っていい。「山を食う」ことはみずからの身体に「山」を滞留させる行為だ。もぎとられた「山」は切断され、語り手の身体に留まる。しかしそこからこの歌は「話」へと「光ファイバー」のように飛躍=加速する。「話」とは、話者=聞き手の二者関係で行われるものだ。そこには「山を食う話」を聴く聞き手がいる。つまり「山を食う」話者は「話」によって聞き手に接続(アクセス)している。話をする、という行為は、話を聞いてもらう、という交換の行為である。

だとしたら、わたしたちは正岡さんの短歌における〈あきらめ〉をこんなふうにとらえてもいいのかもしれない。正岡さんの短歌における〈あきらめ〉はそこで〈終わって〉しまうから〈あきらめ〉られたのではなくて、そこで切断されて別のかたちに交換されてしまったがゆえの〈あきらめ〉なのだと。つまり、〈終わってしまった〉のではなく、〈はじまってしまった〉のだ。それが《ほんとうに》ひとがあきらめることのかたちなのではないか。


  無限遠点交わる線と線そこにひっそりときみのまばたきがある  正岡豊


はるか彼方、想像もつかないくらい「無限」に「遠」い場所で「交わる線と線」。もしかしたらこの場所にこそ、「この世」も「光ファイバー」も「あきらめ」も「かなしみ」も届かない〈純粋な交換〉があるのかもしれない。あっ、そうだ、ちょっと今、まばたきしてみてほしい。どうだろう。なんの意味も、追随も生み出さず、あなたの上まぶたは下まぶたと交歓しなかっただろうか。そう、「まばたき」とは、〈純粋な交換〉であった。

          (「夜がまだみずみずしい間に」『四月の魚』まろうど社・1990年 所収)

2016年9月16日金曜日

フシギな短詩41[松尾芭蕉]/柳本々々


  古池や蛙飛(かはづとび)こむ水のおと  松尾芭蕉

松尾芭蕉がゾンビになったらどういう俳句を詠むんだろうと考えたことがある。

というのはかつて俳句とゾンビをめぐって書いてみたことがあるからだ(参照、拙文「【ぼんやりを読む】ゾンビ・鴇田智哉・石原ユキオ(または安心毛布をめぐって)」『週刊俳句』 )。

松尾芭蕉がゾンビ化した地点から俳句を考えてみること。たとえばゾンビ芭蕉が上の「蛙」の句を詠むとしたらどう〈変わる〉だろうか。「蛙」の句は、濁音いっぱいの意味不明な俳句になるのだろうか。

もし過去のわたしのそうした問いかけに、現在のわたしが、今、あえて答えてみるならばこうではないだろうか。

「いいや、なにも変わらない。《そのまま》だよ」

芭蕉はゾンビになっても、くちたくちびる、ぼろぼろのゆび、うろのような眼で、まったくおなじかたちの、

  古池や蛙飛こむ水のおと

を詠むのではないか。

思想家の中沢新一さんがこのあまりにも有名な芭蕉の「蛙」の句のなにが新しかったのかということについてこんな説明をしている。

  この句の特徴は、「圧縮の効果」がまったく働かないように、つくられているところにある。イメージの共通性や音価の同一性によって、意味の場に過剰接近や短絡やひきつりがおこり、その歪みをとおって、なにかすばやい流動的なものが、意識の中に浮かび上がってくるような、それまでの俳句特有の機知やユーモアが、すこしも効いていない。……
  芭蕉の創出した俳句という芸術は、…人間主義の底部をぬいてしまう、革命をおこなったのである。…比喩が働きだすことをできるだけなくして…、言葉と現実とが、あいだに想像的な媒介物をなにもいれることなく、裸の状態で、行ったり来たりを実現する、そういう言葉の、新しい機構を作りだそうとした。それが、芭蕉のおこなった革命なのだ。……
  芭蕉の俳句の世界は、閑寂で、ものさびている。そこに描かれている自然も、人の世界も、すこしも生産的であるようには、感じられないのだ。
 

   (中沢新一「人間の底を踏み抜く」『日本文学の大地』角川学芸出版、2015年)

つまり中沢新一さんにならって言うなら芭蕉が行った革命とは、俳句に〈ないない尽くし〉を持ち込むことだったと言っていい。言語の剥き身を、言語の粘膜のような裸をそのままにさらけだすこと。
この〈ないない尽くし〉をゾンビ(映画)の特徴として指摘したのは、哲学者の小泉義之さんである。

  ゾンビ映画のキモは、無い無い尽くしにある。ゾンビは生きても死んでもいない。男でも女でもないし白人でも黒人でもない。支配者でも被支配者でもない。主体でも対象でもない。ゾンビは二分法を横断するのでも攪乱するのでもなく、端的にどちらでもないのだ。したがって、ゾンビは順応するのでも抵抗するのでもない。ゾンビは生物でも怪物でも機械でもサイボーグでもない。ゾンビは増殖するにしても生成変化することも進化することも退化することもない。ゾンビに未来はない。サヴァイバーもそのうち死ぬだけである。ゾンビ映画にはいかなる解決もカタルシスもない。ゾンビ映画に対してはいくらでも解釈や批評は加えられるとしても、ゾンビ映画のキモは、現代思想がエンドゲームにしかならないと告げているところにある。 

   (小泉義之「デッドエンド、デッドタイム」『ユリイカ』2013年2月)

私はこの小泉さんの言葉の「ゾンビ」に「俳句」を置換しても実はそんなに違和感がないのではないかと思う。つまり、「俳句は順応するのでも抵抗するのでもない。増殖するにしても生成変化することも進化することも退化することもない。俳句にはいかなる解決もカタルシスもない。俳句のキモは、現代思想がエンドゲームにしかならないと告げているところにある」。なぜなら、芭蕉が俳句を〈ないない尽くし〉のものとしてゾンビ化したから。

その意味で、芭蕉とは、ゾンビそのものだったのではないだろうか。

もし俳句がゾンビに近い形式であるならば、かつて『スピカ』に連載された石原ユキオさんの「HAIKU OF THE DEAD」を私たちはもう一度ちがったまなざし(俳句ゾンビ的まなざし)で読み直してもいいように思う。そこには俳句とゾンビが遭遇し、お互いがお互いを侵食する過程が描かれている。そして最終的にお互いがお互いのボディを食らいつくし、それは、次のたった一音=無音として結実するのだ。音ですら《無い》芭蕉ゾンビ化された音として。すなわち、

  ۵  石原ユキオ
   (「HAIKU OF THE DEAD」『石原ユキオ商店』 )


          (「人間の底を踏み抜く」『日本文学の大地』角川学芸出版、2015年 所収)

2016年9月13日火曜日

フシギな短詩40[佐藤りえ]/柳本々々


  人形の頭を占めてゐる時間  佐藤りえ


掲句が収められている佐藤りえさんの連作「雲を飼ふやうに」はもう一句「人形」の句が出てくる。

  人形のをかしな動きクリスマス  佐藤りえ

人形の頭のなかにある「時間」や人形の「をかしな動き」をみつめる語り手の視線からわかってくるのはそこには「人形」以上の不気味な余剰があるということだ。人形が人形でなくなり、言わば〈人外〉とも言える〈いきいきした人形〉がこの連作では語られている。

〈人外〉と言えば、川田宇一郎さんが現代のサブカル的な〈人外〉の「基本セオリー」を次のように指摘している。

  まず最初に幽霊(妖精やら異星人や鶴)という不思議キャラ設定が紹介され、そこから二人の関係性が始まるのがサブカル的「人外」の基本セオリーなのだ。 
  (川田宇一郎「人外考ーー一般論の王国へ」『文芸すきま誌 別腹』8、2015年5月)

川田さんの現代の「人外」の指摘において興味深いのは、現代の〈人外〉は、出会って〈終わり〉なのではなく、出会ってからが物語の〈始まり〉だということだ。つまり、わたしたちが〈人外〉に出会った場合、そこからの〈長い共ー生の時間〉がわたしたちの〈物語〉になっていくのだ。

だから掲句において、「人形」に語り手が「時間」を付与しているのは興味深いことだと思う。それは時間存在であるわたしたちと〈おなじ時間〉を共有していることにもなるからだ。

もちろんこの句に「頭を占めてゐる」と注意深く語られているようにそれは「人形」特有の〈時間〉かも知れない。占められた時間はわたしたちを排除するある特有の時間かも知れないから。

それでもこの「時間」が人形に与えられることによってわたしたちとなんらかの連絡が取れてしまっている不気味さもこの句にはあるのだ。人形の頭のなかにある時間を見出し、そこからわたしと人形の「二人の関係性」が始まってしまったことの不気味さと安らかさが。

川田さんは先ほどの「人外考」を〈「ごっこ」遊び〉としてまとめている。「人外」とは、「一般的な他者(人外)を演じることで、他者の概念を運動させ、「なんだかよくわからないもの」(本当の他者)を引き出していく「ごっこ」遊び」でもある、と。

掲句の連作タイトルは「雲を飼ふやうに」だった。「雲を飼ふ」ではなく、「雲を飼ふ《やうに》」。だから人形もまるで頭の中に時間がある〈ように〉、「ごっこ」として描かれたものだったかもしれない。
でもその「やうに」=「ごっこ」によって、人形の頭の中の時間という検証不可能なもの=「なんだかよくわからないもの」がごそごそっと出てくる。この句をすでに読んでしまったわたしはこれから人形を見るたびに思わなければならないだろう。あの人形の頭のなかにも時間が、と。

〈人外〉のおそろしさとは、〈ごっこ遊び〉だったはずのものがいつのまにか生きられる〈ごっこ遊び〉になってしまった瞬間かもしれない。人形の頭を占めている時間は、いつか、あなたの頭を占めている時間そのものになるのだ。


          (「雲を飼ふやうに」『俳句新空間』2016年2月 所収)

2016年9月9日金曜日

フシギな短詩39[夢野久作]/柳本々々


  秋まいる静かな山路に
  耐え兼ねて追剥を
  した人は居ないか  夢野久作



江戸川乱歩は「夢野久作とその作品」(『探偵春秋』1937年5月)という講演において、「夢野君は又猟奇の歌というものを幾つかお書きになっておられます。詰らないものも多いのですが、私は非常に好きなものもある。そういう私の好きな猟奇歌を四つ五つ読んで見ます」と述べ、上の歌を紹介している。

この歌で注目したいのは、「追剥」が金品を目的にした〈犯罪〉なのではなくて、「秋まいる静かな山路」を解消するための〈犯罪〉だという点だ。語り手がここで語っている「追剥」とは、金品が欲しいから「追剥」するわけではなくて、「秋」の〈自然〉の〈静けさ〉によって「追剥」に追い込まれる人間なのだ。

つまり、もしそういう「追剥」があるとするならば、「追剥」にあっているのはその〈犯罪者〉自身とも言える。それはある意味で〈犯罪〉のベクトルの転倒でもある。犯罪をしてなにかをなしとげるのではなくて(犯罪は手段)、なにかがなしとげられたことによって犯罪をするのだから(犯罪は結果)。
だとしたら夢野の歌において〈犯罪〉とは、自身に結果をもたらすための手段ではない。すでに結果として自身に胚胎してあるものなのだ。これはなににも奉仕しない(そう言ってよければ)〈犯罪精神〉の自律である。

  ぬす人の心になりて
  町をゆけば
  月もおぼろにわが上をゆく  夢野久作

   (「猟奇歌」『文藝別冊 夢野久作』河出書房新社、2014年)
ここで〈犯罪〉はすでに「心」として語られている。「心」に昇格した「ぬす人」の〈精神〉は「おぼろ」な「月」に感応することのできるメディアとなる。それは「ぬす人の心にな」らなければ得られない「月」への感応である。

だとしたら、大胆に言えば、夢野久作にとって〈犯罪〉とは〈趣き〉であったと言ってもよいのではないだろうか。〈犯罪〉を〈趣き〉を運ぶ感応メディアとして設定すること。それが「猟奇歌」における〈犯罪観〉ではないか。

  何故といふことなしに
  殺したくなるのです
  あとから跟(つ)いて行き度くなるのです  夢野久作

  何かしら打ちこはし度き
  わが前を
  イガ栗あたまが口笛吹きゆく  〃
   (「猟奇歌」前掲)
〈趣き〉とは何にも奉仕・従属することなく、ただ「何故といふことなしに」「何かしら」〈なんだかいいなあ〉と思ってしまう精神のモードではなかったか。

〈趣き〉。犯罪に対する「萌え」の精神。かれは、萌えている。

          


(江戸川乱歩「夢野久作氏とその作品」『文藝別冊 夢野久作』河出書房新社・2014年 所収)