2015年8月20日木曜日

またたくきざはし3  [関悦史] / 竹岡一郎




誰よりの電話か滝の音のみす    関悦史  

電話が鳴ったので、取ったのだが、声がない。もしもしと問いかけても返事がない。ただ滝の音だけが延々と聞こえてくるのである。これが4分33秒続けば、ジョン・ケージの最良の曲となろう。

滝が電話を掛ける訳はないので、向こうには誰かいる筈なのだが、どうも滝自体が電話を掛けてきたような気もする。滝は霊的な場であって、そもそもは誰にでも見える神の具現だ。

夏の滝は香り立つ。正確には、滝の飛沫が神気となって、あたりの緑を香らせるのである。尤も、絶えず流れる水は色々な霊的不浄を引き寄せたりもする。逆に、行者は浄められんとして滝に打たれる。滝行は注意しないと自我が極端に強くなることがある。行者によっては足元に蛇が蟠っているのが見えるという。蛇は行者の自我の具現化である。意識下に潜んでいたエゴが視覚化されるのであろう。

滝とは、神でもあり、山の涼気でもあり、浄められんとする執念でもあり、引き寄せられる不浄を黙って受け入れる場所でもある。、滝は、此の世とあの世、執着と放擲、浄と不浄の見事な渾沌である。そういう渾沌が、途絶えぬ音として作者に語りかける。

滝の音は何を伝えたいのだろうか。多分、渾沌を観つづけよと言いたいのだろう。こういう情景を句にしている作者は、当然、渾沌を見ている筈で、ならば作者に電話を掛けて来た者は、あるいは作者のドッペルゲンガーか。およそ人間が、誰、と問いかけて、最も判然としないのは、実は常に自分自身ではなかろうか。

受話器を握っている作者の周りには、恐らく日常の雑然さが広がっているであろう。だが、滝の音に耳傾ける内に、それらの雑然さは徐々に、滝の音に呑み込まれてしまう。作者にとっては己の全てが耳だけとなり、眼を閉じて聴きいる内に、明るいとも暗いともつかぬ、茫漠としつつ閉じられてもいる空間が広がるのである。それが滝の世界であり、受話器の向こうから、滝を背に電話を掛けている者がもしも自身であるならば、作者は自らの内面に耳傾けている事となる。

「世界Aの報告書」(ふらんす堂通信134号、2012年10月)より。