2015年6月4日木曜日

今日の小川軽舟 45 / 竹岡一郎



冷奴庶民感情すぐ妬む

居酒屋の景であろうか。冷奴を肴に飲んでいたりするのである。それで芸能人や金持ちの話題になったりすると、直ぐ妬みが始まる。

華やかなスポットライトや豪奢な暮らしは妬まれるものだ。或いは、妬みの対象は、自分を差し置いて出世した同僚であろうか。

大体において妬みがみっともないのは、物欲しげであるからだ。嵩ずると、餓鬼の如くとなる。幾らでも欲しがるからである。金が欲しい、名誉が欲しい、地位が欲しいとなると、人間、切りがなくなる。で、得られぬ事が明らかになると、妬む。

これが芸能人や金持ちに対する嫉妬なら、酒席における鬱憤晴らしで済む。社会が悪いとなると、やがて煽る者達が現れる。国家の栄光でも良いし、人民の権利でも良いが、色々くっつける大義名分には事欠かない。どんな理由でも煽れるのである。

ここで掲句が、「庶民感情」と言い、「庶民」とは言っていない事に注目するのが肝要である。庶民には一人一人の顔がある。庶民感情には顔が無いし、実体も無い。一つの場の雰囲気であって、無責任な念の流れである。一億総火の玉、とか、造反有理、などのスローガンは、この庶民感情を非常にうまく利用して、贋物の義にまで捏ね上げたものである。

完璧に正しい義なんてものはかつて存在した例がないが、義というものは常に存在する。それが義であるかどうかの判断は、それが自らの正当性や利益のために利用されるものでしかないか、それを奉ずるために殉ずることが出来るか、であろう。

「命もいらず名もいらず官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」とは、西郷隆盛が山岡鉄舟を評した言葉。妬む者は、先ず命が惜しい、次に金が惜しい、それから地位や名誉が惜しい。要するに、痩我慢しないのである。瘦我慢する者を、もののふ、という。

もののふとは、強制できる性質のものではない。理屈ではなく、一念に属するものである。虚仮の一念といっても良いかもしれぬが、その一念は命の惜しい者には砕けない。一種の天性であって、善悪とは関係ない。無論、右翼左翼とも関係ないし、社会性とも関係ない。もっと言えば、生物の本能とも此の世とも関係ない。だから、もののふに成りたくない者は、別に成らなくて良いのである。
掲句は冷奴が利いている。冷奴は、「庶民感情」という甚だ捉えどころのない、厄介な妬み易さに対峙しつつ、親身に寄り添い、諫めている。これが肉の類なら妬みを煽るだろう。魚でも、その生臭さで以て、妬みに加担するかもしれぬ。野菜なら、ただ寄り添っているだけであり、果実ならその芳香によって妬みには無関心であろう。

冷奴は畑の肉と呼ばれる大豆から作られる、要は只の豆腐だ。主要成分は蛋白質で、筋肉の素となる。コレステロール低く、安価にして美味。形簡素にして色つややかに白く潔し。人にたとえるなら、質実剛健であろう。つまりは、もののふである。正確に言うなら、もののふの血腥さを切り捨て、私心無き高潔さだけを強調したような食べ物と言えようか。

また、豆腐とは、精進料理に使われるように、肉食の出来ない僧の為の主要な蛋白質でもあった。「碧巌録」五則の「英霊底の漢」という言葉を思い起こす。僧の理想が英霊底の漢であるなら、僧とは、非武装の「もののふ」か。

「英霊底の漢」の特色として、以下のように続く。「所以に照用同時、卷舒齊しく唱え。理事不二、権實並び行ふ」(ゆえにしょうようどうじ、けんじょひとしくとなえ。りじふじ、ごんじつならびおこなう)非常に簡単に意訳すれば、次のようになろうか。「相手の性質とその場の心の出方を照らし出すように明らかに観、その出方に応じた言動が即座に取れる。肯定否定の二元論を超えて事の流れを観ることが出来るゆえに、否定と肯定の二元論を自在に使いこなせる。物事の本質と外部に表われる事象を一つの流れとして認識することが出来る。権(かり)の、方便の教え、即ち、日常の出来事に対処する教えと、真実の教え、即ち、生死を超えた真理に迫る教えを、並行して説くことが出来る」これを、噂話や煽動による庶民感情の流れに抗する、自制の心構えとして学んでも良いのである。

冷奴は妬む者に黙して寄り添い、食われることによって、妬みを暗に諫めている。冷えた豆腐であることにより、冷静な判断の象徴を想わせる。掲句の冷奴は、庶民感情に流される者の筋肉となり、更には魂の筋肉になろうとしている。その一人の庶民が、地道な暮らしの中で、その誠実さこそが義であると感じ、日々の平穏さを自らが殉じてでも守るべきと感ずるようになれば、もはやその庶民は「もののふ」であるといえよう。血腥くない、冷奴の如く淡々とした、もののふである。

鷹平成26年8月号。