2015年5月28日木曜日

今日の小川軽舟 43 / 竹岡一郎




咲(わら)ふごとく木耳生えし老木かな



「咲(わら)ふ」を、蕾のひらく様、果実の熟して裂ける様などに使うのは、やはり花や果実を見た時の豊饒の喜びが背後にあるのではないかと思われるが、掲句では木耳に使ったもの。木耳は乾燥している時は硬く灰色や茶褐色だが、雨などに濡れるとほの赤いゼリー状になる。木の耳とは良く言ったものだ。内臓とか腫瘍が木からはみ出しているように生々しく見える時もある。それを「咲(わら)ふ」と表現したなら、笑うとは感情の露呈の一種であるから、木の、隠されていた情念が、何かの拍子に、木肌を突き破って現れたようにも思えてくる。木耳は自然界では倒木や枯れ枝に良く生えるという。栽培する時にも、原木は伐ってから、半年は寝かせて乾燥させるという。木耳が、木の死に体の部分に生えやすいのであるなら、掲句の老いた木はもう寿命が尽きかけているのか。
「生える」ではなく、「生えし」とあるから、木耳は生え切っている。どのくらいの量生えているかはわからぬが、兎も角老木の、木耳を生やせる許容量一杯に生えきっているのである。木の最期の日々に、咲くごとく、笑うごとく生えた木耳であれば、それを老木の思いの丈と解しても良い。老木に人を託して観るなら、木耳は人生の最後に燃焼する生々しい情熱を表わすであろう。判りやすく言えば、恋である。仕事に対するものか、人に対するものか、財産に対するものかは知らぬ。かなしいかな、木耳はどこまでも木耳であって、木ではない。あくまでも木の表面に生える物であり、木の本質ではない。人生における恋もまた然りか。鷹平成26年9月号。