2015年4月21日火曜日

 目はまるで手のように言葉に触れる 9[富安風生]/ 依光陽子




春の灯や一つ上向く箪笥鐶  富安風生


祖父が持たせた母の嫁入り道具に一棹の箪笥があった。総桐製で二つ抽斗と三つ抽斗が二段重ねの所謂「東京箪笥」といわれたもので、最上部には袋戸棚が設えてあり、中には隠し鍵附きの抽斗。そこには私と弟の臍の緒など大切なものが仕舞われていた。二つ抽斗は着物が入る深さ、三つ抽斗はそれより倍くらい深く、いづれも箪笥鐶(たんすかん)がついていた。そこには母の余所行きの服が入っていたので、普段は殆ど使われることなく、しんとした佇まいで置かれていたのだが、幼いころの私は箪笥鐶そのものが面白く、ドアノックのようにカチカチ鳴らしたり、上向きにしてみたり、それを握って抽斗を引いたり戻したりしたものだ。

以上、掲句の「箪笥鐶」という文字から蘇って来たきた極私的な回想だが、季題の「春の灯」が意外に効いている。春らしく花見がてらの芝居見物だろうか。「一つ上向く」から、少し慌てた様子が窺える。気持ちが逸っていて箪笥鐶にまで気持ちが残っていなかったので、そのまま出かけてしまったのだ。さて家に残された作者はそんなところに目をとめて、いかにも句材得たりとばかりに句にしてしまった。

富安風生の第一句集『草の花』は、自身が晩年「『草の花』時代の基礎勉強」と言い切っているだけあって、これといった発見のないスケッチ風で単調な句が並び全体的に面白味に欠ける。高浜虚子の序文が懇切丁寧かつ強引に花鳥諷詠に引き寄せ過ぎて空々しいくらいだ。私は風生の本領は飄々とした面白さにあると思う。<垣外のよその話も良夜かな><寵愛のおかめいんこも羽抜鶏>などに見られる俳諧味。後に世に出た15冊の句集においてその色はだんだんと濃くなってゆくのだが。

さて、今や箪笥ではなくクローゼットの時代。まして「箪笥鐶」などという単語を使った句は、もうあまり作られることはないだろう。『草の花』は大正8年から昭和8年までの句から成る。<苗売をよびて二階を降りにけり>などと共に、句の背後にある時代の空気感を味わいたい。

春雨や松の中なる松の苗
蜘蛛の子のみな足もちて散りにけり
春泥に傾く芝居幟かな
寒菊の霜を払つて剪りにけり
羽子板や母が贔負の歌右衛門
大風の中の鶯聞こえをり
一もとの姥子の宿の遅桜
美しき砂をこぼしぬ防風籠
石階の滝の如しや百千鳥
通りたることある蓮を見に来たり
みちのくの伊達の郡の春田かな
よろこべばしきりに落つる木の実かな

(『草の花』昭和8年刊。『現代俳句大系 第一巻』所収)