2014年12月31日水曜日

身体をよむ 5 [桂信子] 今泉礼奈


香水の香の内側に安眠す 桂信子

香水の香りに包まれながら、眠りにつく。円を描いているかのような、やわらかさがある句だ。

しかし、「香水」というものは、外出時に使うものではないか。自分のため、というより、他人のため、に使うものだと思う。それを自分の、しかも眠りにつくために用いている。なんと贅沢な。
「安眠」という言葉は、やたら説明的な感じがする。むしろ、ここで「安眠」を強調するということは、普段安眠できていないのか。

すこし心配になりつつも、このちょっとした危うさが、「香水」らしい。

(『晩春』1967年所収)


2014年12月30日火曜日

きょうのクロイワ 10 [鷲谷七菜子]  / 黒岩徳将


どこからか道の来てゐる焼野かな 鷲谷七菜子

いつもの道が違ったように感じられる野焼なのだろう。道が意思を持って、この場所が終着点であるかのように焼野に集まったような感覚。「どこからか」は冒険だと思うが、のびのびとしている強さがある。

(第五句集「天鼓」より)

2014年12月29日月曜日

貯金箱を割る日 9 [豊玉] / 仮屋賢一


たたかれて音のひびきし薺かな   豊玉

 新選組副長土方歳三の最期を飾る発句。春の七草でもある薺、別名は「ペンペン草」。ペンペン草で遊ぶ時、実のついた支茎をひとつひとつ慎重に下に剥き、でんでん太鼓の要領で主茎をくるくる回して音を鳴らす。だから、薺が音を鳴らすのはこれといって新鮮なことじゃない。けれどもこれは「たたかれて」音がひびく。決して大きな音じゃない、耳をすませばようやく聴こえるか、といったくらい。それも、勢い良く叩かなきゃ聴こえない。「ひびく」という動詞、また、「ひびきし」という言葉の響きそのものが、広々とした静寂の空間を作り上げる。

 武州の薬屋であった土方歳三。天然理心流の道場、試衛館のメンバーと共に壬生浪士組に参加し、新選組「鬼の副長」として京でその名を馳せる。最期、箱館戦争でも愛刀、和泉守兼定を以って戦い、最期までこの多摩郡石田村出身の「バラガキ」(乱暴者)は信念を貫き通した。


歳三は、死んだ。 

それから六日後に五稜郭は降伏、開城した。総裁、副総裁、陸海軍奉行など八人の閣僚のなかで戦死したのは、歳三ただひとりであった。

《司馬遼太郎『燃えよ剣 下巻』(1972,新潮文庫)》


歳三は官軍の二発の兇弾に斃れるわけだが、この田舎者の一貫した強い信念が、日本という一国の歴史に堂々と名を残すくらいなのだ。薺の響きがどれだけ小さいものであったとしても、侮れない強大なエネルギーが根底にある。


広長院釈義操、歳進院殿誠山義豊大居士、有統院殿鉄心現居士。これらはすべて彼の戒名である。一字一字たどってゆくだけで、彼の生涯が想起される。

(註:この作品は豊玉の作でないという主張もある)

《出典:村山古郷『明治俳壇史』(1978,角川書店)》

2014年12月27日土曜日

人外句境 5 [筑紫磐井] 佐藤りえ


礼装が那由他の蝶をささめかす   筑紫磐井

那由他は不可思議の手前、阿僧祇の次の単位で、10の60乗(※1)である。
アラビア数字表記してみると、1那由他は
1,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000
…です。

正直視認できるイメージの範疇を超えていて「ゼロがたくさん並んでる」としか思えない。
そんな膨大な数の蝶がささめく背景に「礼装」がある。

虫が大量出演するパニック・ムービーではないが、蝶にまみれて窒息してしまいそうな「礼装」が、むしろ蝶をコントロールする側にまわっているのが、さりげなく奇妙だ。

「礼装」の人でなし感(※2)が、うんざりするほどの数の蝶を可憐な存在にしてみせているがやはりこの句の主役は「蝶」だろう。

気の遠くなりそうな羽ばたきに取り巻かれ、礼装の内もいつしか蝶で溢れる幻想を見せられる。


※1 10の72乗という説もある。
※2 この「人でなし」は江戸川乱歩「人でなしの恋」のそれにあたる。



〈俳誌「俳句新空間」No.2 2014所収〉

2014年12月26日金曜日

きょうのクロイワ 9 [大橋佳歩]  / 黒岩徳将


写経する母の隣の蚊遣豚 大橋佳歩

母の集中の具合と横に置かれた蚊遣豚の素っ頓狂な顔が面白い。寺と読んでも家と読んでもよいと思う。蚊遣豚自身も、真剣に蚊を避けようとしてはいるのだろうが。俳句的目線というか、景の切り取り方が良い。母は正面ではなく背中がうつってほしいと思う。

(現代俳句協会第11回ジュニア俳句祭 現代俳句協会賞 より)

2014年12月25日木曜日

身体をよむ 4 [桂信子] 今泉礼奈


生きもののすれ違ふ眼や冬霞  桂信子

ライオンなど、激しい動物が互いに睨み合ってすれ違う、戦いの前を思った。しかし、私たちも「生きもの」のひとつである。すれ違うときに、いつも、睨み合っているわけではない。(というか、睨むことなんてめったにない。)すれ違う相手をチラっと見たり、見なかったり。その程度である。そして、また、他の生きものもそうであろう。水族館に行くと、魚なんてみんなそんな感じである。

他の生きものを見て、自分を思った。
今、私の眼はどんな眼をしているのだろう。

冬霞がすこしあたたかく、やわらかく、生きものの世界を包む。

(『新緑』1974年所収)

2014年12月23日火曜日

今日の小川軽舟 25 / 竹岡一郎


灯を点けて顔驚きぬ秋の暮         「近所」

「秋の暮」は、この場合、晩秋というだけでなく、秋の夕暮れの意も含む。薄暗くなった部屋に灯したのである。そして驚いた顔を見たのだ。顔が驚いたのは、いきなり明るくなったからであろうが、相手を誰かと言わず、人とさえ言わずして、顔と言った、その表現に、実は驚いたのは作者でもある、という意が含まれる。顔は、果たして人であろうか。掲句では、顔だけがぬっと浮かび上がったような印象を与える。その浮かび上がった一瞬、作者にはそれが人で、誰かの顔であるという認識より先に、ただ顔なるものだけが室内に浮かび上がった認識があったのである。一寸、岡本綺堂の怪談の雰囲気に通じる処もある。加藤楸邨の「蚊帳出づる地獄の顔に秋の風」も思い出させる。平成八年作。

2014年12月22日月曜日

人外句境 4 [安井浩司] 佐藤りえ


舞踏して投げてドリアン道の果   安井浩司

南国フルーツというものにはあまり縁が無いが、ドリアンと言われれば姿が浮かぶ。あの、こどもの頭ぐらいの大きさの、数キロもある、トゲトゲの外皮に覆われた、割るとたいへんな芳香がするというものでしょう。

掲句ではそんなドリアンをほとんど果物扱いせず、舞踏して道の果てまで至るぐらいに放り投げている。なにかあやしい呪術の儀式でも行っているかのようだ。

初句からの迷いのない感じ(舞踏して投げて、とたたみかけること)により、もっと言えば突き抜けた行動力?を感じさせられて、あやうく笑ってしまいそうになる。

そうまでされてもドリアンはきっとさした外傷も負わず無傷であろう、と予測して、心は数行前にたちかえる。これが人の頭だったら…。

ドリアンの転がる道の辺。人頭の転がる道の辺。なんだろう、大差なく思えてくるのは、何故だろう。

同じ作者に「ドリアンは飛びくる頭で受けるもの」という句もある。作者にとって、兎に角ドリアンは「割って食べるもの」ではないらしい。

〈『四大にあらず』1998年沖積舎所収

2014年12月20日土曜日

きょうのクロイワ 8 [日下野由季]  / 黒岩徳将


木星の軌道に夏の夜の電話 日下野由季

木星といえばあの輪っかを真っ先に思い出す。水星でも金星でもなく、言葉と言葉の衝突を探る。詳しくはないが電話と惑星は何も関係ないだろう。わからない嘘もここまで堂々とすると気持ちよい。曲者なのは中七の「に」。木星のエネルギーがそのまま下五に連結することで、電話の内容を想像させる楽しみが広がる。よく、「俳句には因果関係がない」方が良いという話題が句会で挙がるが、よい参考になる。宇宙飛行士を除き、誰からも距離の離れた宇宙空間を詠むことは、俳人として同じスタートラインでの勝負なのかもしれない。

(角川俳句2013年月号 希望の星たちー新世代作品特集 「香水」より)

2014年12月18日木曜日

今日の小川軽舟 24 / 竹岡一郎


初恋は残酷なりし桔梗かな         「近所」

「なりし」という過去から、自身の初恋を懐かしんでいるのであろう。恐らくは恋敗れたのであろう。初恋の相手が如何なる女であったかには言及されていないが、桔梗を配している処から、容易に想像されうるのである。桔梗の立ち姿から想起される如く、凛然として意志の強い、寡黙な女である。これが仮に牡丹、薔薇、百合であるなら、そのように形容される女であったのなら、最悪、作者は弄ばれたのである。また、向日葵、或いはカンナなら、行き過ぎた情熱の果の破綻だったのである。桔梗であるがゆえに、節度ある、毅然とした女が見えて来る。そのような女との初恋であったがゆえに、残酷に破れたとしても、時を経て、美しい思い出となり得るのだ。桔梗には匂いはほとんどないが、掲句には微かな無垢の匂いとでもいうべきが漂うように思う。平成十一年作。

2014年12月17日水曜日

貯金箱を割る日 8 [豊玉] / 仮屋賢一


春雨や客を返して客に行   豊玉

 新選組副長、のち蝦夷共和国陸軍奉行並、土方歳三。豊玉は彼の俳号。この句は、文久3(1863)年以前の句であり、多摩から京の浪士組へ赴く際にまとめられたもののうちの一句である。時代を考慮すれば、これは俳句ではなく発句なのだが、そういう細かいことは気にしない。
 細やかで、優しく明るい春雨。そんな雨の日に、客人が訪れている。憂鬱な雨じゃないけど、「足元の悪い中わざわざ……」といったくらいのことは言いたくなるし、この句の景色から聞こえてきそう。この客人は、招かれざる客などではなく、仲の良いご近所さんというような間柄なのだろう。もうそろそろ時間も時間だし、自分もこのあと用事があるし、ということで客人を返すのだが、妙にしのびない感じが残る。そんな、なんとなくもやもやした感じを引きずりつつも、今度は自分が客として、どこかの家へ春雨の中向かってゆく。

 そういう長閑でぼんやりした空気感の一コマを十七音で切り出した瞬間、「客を返して客に行」という俳諧味を持った発見がここに生まれた。幕末史、そして軍史に名を残す奇才の、ほっとする一句である。

《出典:土方歳三『豊玉発句集』》

2014年12月16日火曜日

人外句境 3 [西原天気] 佐藤りえ


ロボットが電池を背負ふ夕月夜   西原天気

Panasonicが発売している乾電池に「エボルタ」という商品がある。ギネス世界記録を持つ「世界一長もちする単3形アルカリ乾電池」で、性能を実証する実験「EVOLTAチャレンジ」というのを毎年行っていて、2010年は充電式電池で東海道五十三次を走破、今年は単1形乾電池99本で1トンの鉄道車両を8.5km有人走行させた。電車の場合は乾電池をセットして走行するのはもちろんだが、東海道を走ったり、グランドキャニオンを登ったり(これは2008年のチャレンジ)するのは「エボルタくん」という小さなロボットである。

掲句を読んでぱっと頭に浮かんだのはエボルタくんの勇姿だった。


上五中七の手短な、手際のよい描写がよいのだと思う。ロボットは生まれた瞬間から、必ず己の動力源を背負わされているものだ。でないと動けないから。その事実が「夕月夜」とあわさった時、何故か私の涙腺はせつなく刺激される。ロボットになりかわりして胸を痛めているわけではない。むしろ「ロボットがロボットでしかない」ことにせつなくなってしまうのだ。電池を背負ふ、はあまりにも端的に、まぎれもなくロボットの本質を言い当てている。

現世において、ロボットは人間の役に立つために存在している。人間の得になるために作られている。その傲慢さを忘れて手放しでエボルタくんを褒め称えるようなことは居心地が悪くて仕方がない。

人間らしさを高めたロボットの開発などしなくていいから、ロボットの幸福のためになるロボットを作る研究をしてくれよ、と私は思うが、きっとそんな時代はなかなか来ないだろう。ぜんぜん来ないかもしれない。

電池を背負ったまま、ロボットの今日はまた暮れてゆく。

〈「はがきハイク」第10号2014所収〉

2014年12月15日月曜日

きょうのクロイワ 7 [大内登志子]  / 黒岩徳将


ひと癒えて今日も去りゆく鉄風鈴 大内登志子

淡々とした詠みぶりだが内容は非常に重たい。誰かの体が良くなることはもちろん喜ばしいことだが、残された自分のことを思うと手放しには喜べない。「鉄」が際立ち、仮名と漢字のバランスが非常に良く、その点が悲壮さと呼応している。精神病院へ入院中の作品だという

(第9回角川俳句賞受賞作「聖狂院抄」より)

2014年12月13日土曜日

身体をよむ 3 [桂信子] 今泉礼奈


壁うつす鏡に風邪の身を入れる 桂信子

姿見ほどの大きい鏡を思った。そこには壁が、それはもう置いたときからずっと映りこんでいる。そして、その鏡の前に立つと、風邪のため弱っている自分がいた。自分じゃないような、でも自分だという、すこし寂しい気分になる。

「身を入れる」という能動的な動きとはうらはらに、その後の気分はせつない。

たぶん、人生そんなことが多いのだろう。これぐらいは受け入れなければならないのだ、と思うしかないのだ。

(『女身』1955年所収)

2014年12月12日金曜日

今日の小川軽舟 23 / 竹岡一郎

   
羊歯原に白樺立てる良夜かな        「近所」

 羊歯の葉の裏は白い。白樺の幹は白い。月煌々たる夜を表わす季語のもと、この景を最良の状態として読むならば、月光に何もかも白く照り映えている様を思い浮かべるだろう。ならば、羊歯原には風が吹いている筈だ。なぜなら風が吹くとき、羊歯の葉は一斉に打ち裏返り、白い葉裏を月光に晒すからである。つまり、掲句は、風という語を使わず、風の吹く形容も使わずして、風にあおられる原を現出させている。上五と中七で「シ」の頭韻を踏んでいる処に、その風の音さえ聞こえるようではないか。平成十年作。

2014年12月11日木曜日

貯金箱を割る日 7 [宮沢賢治] / 仮屋賢一


おもむろに屠者は呪したり雪の風   宮沢賢治

 家畜を屠する。それが、その人の仕事。奪われる命への同情、命を奪うことへの懺悔といった、そういう単純なものではないのだろう。「おもむろに」から伝わるゆっくりとした動きが、非情な響きすら持つ「屠者」に人間的な魅力を与える。一方で、「呪す」という超自然的な行い。どこか特殊で異質な振る舞いが、ほかの人々とは違う、「屠者」という人間のアイデンティティ、そして固有の世界観を作り上げている。そんな世界をよぎる、「雪の風」。雪ではなく、雪を孕んだ風。この語の斡旋により、作品に世界の広さ、大きさが与えられ、また、モノトーンの暗い語りのなかに一つの温もりが与えられるようである。一体、その温もりの正体は何なのだろう。

宮沢賢治はベジタリアンであったことは有名だろう。肉食に関するテーマは彼の作品に多く表れており、『フランドン農学校の豚』では豚自身が、自分が屠されることに対する死亡承諾書に調印し、殺されるまでの苦悩が描かれているし、『二十六夜』では梟に対し肉食の罪が説かれる。また、『よだかの星』では

ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで餓えて死のう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう。
(宮沢賢治『よだかの星』より)

と、主人公のよだかが「命を奪う/奪われる」という行為を身をもって意識した途端、自身の境遇も相俟って、突如として嫌気がさし諦念を抱いたかのように振る舞う。

 とはいえ、宮沢賢治の作品では肉食が全否定されているわけでもなく、個としての人間は、一貫した主張を持ちながらも社会の中で肉食を否定も肯定もしきれないような矛盾した存在であるといったような描かれ方をしている。

「……畢竟は愛である。あらゆる生物に対する愛である。どうしてそれを殺して食べることが当然のことであろう。
 仏教の精神によるならば慈悲である、如来の慈悲である完全なる智慧を具えたる愛である、……」

(宮沢賢治『ビジテリアン大祭』より)

 そこで唯一の拠り所となるのが宗教であり、また、愛なのであろう。社会の中で、自らの内部に矛盾を孕む複雑な存在としての個人、最後にいきつくのは生物への愛。掲句も、もしかしたらこのような宮沢賢治の思想世界が垣間見える作品なのかもしれない。だとしたら、先に述べた「温もり」の正体というのは、屠者の生き物に対する、いや、宮沢賢治自身の生きとし生けるものに対する、惜しみない愛情なのかもしれない。

《出典:石寒太『宮沢賢治の全俳句』(2012,飯塚書店)》

2014年12月10日水曜日

人外句境 2 [長嶋有] 佐藤りえ



ピストルをむけたら猫が近づいた   長嶋有

動物と相対して、こちらの思惑がまったく通じないことは、動物を飼っている者にとっては日常茶飯事である。私は猫を飼っていて、長く飼えば人語を解するようになる、と聞かされたことがあるが、そのように実感したことはほとんどない。猫の行動パターンにそって人間が動かされているのが真実だと思う。

ピストルを向けたら、猫がのこのこと銃口に向かって歩いてきた。ふきだしをつけるなら「なにそれ?」とでも言いそうだ。人間の側の思惑からすると、「撃つぞ」とか「ホールドアップ」なので、両手(猫にとっては前脚)を挙げてくれるのが正解だ。かわいく挙げて止まってくれたら、スマホで撮影してツイートして拡散しちゃうかもしれない。

しかし猫にとっては見慣れない物体を近づけられていることにすぎない。ちょっとずつ近寄って臭いを嗅ぐ、威嚇する、などが猫にとっての正解だろう。

そんな思惑の交差、通じ合わなさが掲句ではスッキリと描写されている。起承転結を追ったのち、じわじわとその「通じ合わなさ」が隠し味のようにきいてくる。

〈『春のお辞儀』2014年ふらんす堂所収〉

2014年12月8日月曜日

身体をよむ 2 [桂信子] 今泉礼奈


月の中透きとほる身をもたずして   桂信子

月の光に透きとおりたいのだろうか。それとも、そんな身を月に申し訳なく思っているのだろうか。月の美しさの前に、どうすることもできない自分を詠んでいる。

桂信子の句には、やはり、夫を亡くした悲しみが底に流れているようなものが多く並ぶ。
この句に漂う悲しみも、月の光では抱えきれないのではないかと、心配だ。

「月の中」と、月に照らされる世界全体をはじめに提示し、そのレンズをぐっと自分の身体へと引きよせる。儚い広がりのある句だ。

(『女身』1955年所収)

2014年12月6日土曜日

今日の小川軽舟 22 / 竹岡一郎


がつくりと日の衰へし案山子かな   「近所」
「がつくりと」は、一読では陽光の衰える様なのであるが、そこに案山子を配する事により、上五の形容は衰残の案山子の形容とも見え、更には案山子が荒んでゆくように冬に向かって荒んでゆく秋の日差しをも思わせる。即ち、「がつくりと」は、最初、陽光の形容として用いられ、更に案山子の形容に重なり、最終的には陽光の有様に戻るのであるが、その際、衰えた案山子の如き陽光という比喩にまで連想を拡げるのである。言葉としては繋がっているが意味としては切れている、この「かな」の形式を、余すところなく活用した例である。平成七年作。

2014年12月5日金曜日

貯金箱を割る日 6 [宮沢賢治] / 仮屋賢一



狼星をうかゞふ菊のあるじかな   宮沢賢治

 よだかは泣きそうになって、よろよろと落ちて、それからやっとふみとまって、もう一ぺんとびめぐりました。それから、南の大犬座の方へまっすぐに飛びながら叫びました。
「お星さん。南の青いお星さん。どうか私をあなたの所へつれてって下さい。やけて死んでもかまいません。」
 
 大犬は青や紫や黄やうつくしくせわしくまたたきながら云いました。 
「馬鹿を云うな。おまえなんか一体どんなものだい。たかが鳥じゃないか。おまえのはねでここまで来るには、億年兆年億兆年だ。」そしてまた別の方を向きました。 
(宮沢賢治『よだかの星』より)

 『よだかの星』において、直接「美しい」と表現されている星は、3つ。オリオンの星と、よだかの星、そして、この「大犬」、つまりおおいぬ座のα星、狼星(シリウス)である。その中でも特に、狼星の描写は美しい。

 掲句の持つ、美しさの中のどこか不穏な予感。この句で繰り広げられる世界は、他の多くの菊の句の持つ抒情の世界、雅の世界とは全く異なるものである。狼星だけでなく、菊も共に、儚い光を放っているかのような、そんな錯覚さえ覚える。

 「菊のあるじ」は何を思っているのだろう。「あるじ」という響きの重厚感は、そのまま人間としての重みも感じさせる。一方で、どれだけ手を伸ばしても届かない世界、自分に対してあまりにも大きすぎる世界への、諦念を通り越した憧れも感じさせる。「大宇宙に対してあまりにもちっぽけな人間」という単純な構図では割りきれないこの絶妙な平衡感覚は、「狼星」と「菊のあるじ」という取り合わせの妙でもあり、詩人・宮沢賢治の妙なる調べから生み出されるものであると言えよう。


 ところで、『星めぐりの歌』に「あをいめだまの小いぬ」という詞がある。一説には、これは狼星を持つおおいぬ座のことだとも言われるが、それが何であれ、宮沢賢治は狼星に対しなにか特別の思いを持っていたのかもしれない。そう考えると、掲句もより、宮沢賢治にとって特別なものに見えてくる。

《出典:石寒太『宮沢賢治の全俳句』(2012,飯塚書店)》

2014年12月4日木曜日

人外句境 1 [山田露結] 佐藤りえ


たましひが人を着てゐる寒さかな   山田露結

着膨れの語感がひしひしと実感される季節になった。もっとも近年は薄手で保温・発熱する肌着の開発が進み、「冬でも薄着」なことに慣らされつつあるが。

掲句では着衣以前のたましいが人を着るほどに寒い、と告げられている。人を着る、ああそれなら、機能下着など及ばぬ暖かさだろう。厚化粧が過剰な顔の装いなら、人を着るのはいかほどの過剰さなのか。

むきみのたましいでいられぬ人の群れが往来を行き交う。人だと信じていたものが、その奥でふるえるたましいの着ぐるみなのかと思うと、ふいに寒さがいや増すような心地がした。

〈『ホームスイートホーム』2012年邑書林所収〉



2014年12月3日水曜日

きょうのクロイワ 6 [岸田稚魚]  / 黒岩徳将


輸血箱を大事に雪の通ひ船   岸田稚魚

佐渡行連作五十句のうちの一句。島と本土を行き来する船にとって、なくてはならないものなのだ。「大事に」という斡旋は、やはり「大事に」としか言いようがなかった様を見たということか。少し黒っぽい血の色と雪の対比も生々しい。岸田の受賞のことばに「私は(佐渡)のこの荒涼とした荒磯の墓場の中を雪まみれになつてさ迷い詩心を滾らかせたのであつた。」とある。平成26年でも「荒磯の墓場」が体験できるのだろうかということが気になっている。

(第3回角川俳句賞受賞作「佐渡行」より)

2014年12月2日火曜日

身体をよむ1 [桂信子] 今泉礼奈


ひとごゑのなかのひと日の風邪ごこち   桂信子

リフレインの気持ちよさに反して、何ともすっきりしない風邪のときの気分を詠んだ句。

夜、今日の一日をふり返る。電車に乗ったこと、授業を受けたこと、友だちと話したこと。その内容に意識が奪われがちだが、確かに。一日は人の声で溢れている。何気ない一日をメタ的に捉えている。
しかし、ここでは、その把握は、ちょっとした風邪によるものだという。内容まで思い出す気分ではない。音だけを思い出しているのだ、と。

と、ここまで書いてみて思ったが、これだと重症のようだ。「風邪ごこち」なのだから、そこまでではない、鼻づまり程度だろう。
そんなときでもやはり、人の声は嫌なものではない。

(『月光抄』1949年所収)




2014年12月1日月曜日

今日の小川軽舟 21 / 竹岡一郎



秋の蚊を打つや麻雀放浪記     「近所」

 「麻雀放浪記」は、阿佐田哲也のピカレスクロマン。昭和四十年代(小川軽舟の少年期に当る)の麻雀ブームの火付け役となった。掲句には何の人物描写もない。しかし、目の鋭いやさぐれた人物も、その人物が何かに命を懸けている有様も、蚊を打つ鋭い動作(その動作は麻雀の牌を打つ動作にも通じる)も、くっきりと見えて来るのは、「麻雀放浪記」という、人心に通じた物語の固有名詞のみを配した手柄である。夏の蚊ではなく、秋の蚊であるところに、賭博師の悲哀が象徴される。平成六年作。

執筆者紹介



 下記メンバーにて詩歌を鑑賞します。

竹岡一郎(たけおか・いちろう)
昭和38年8月生れ。平成4年、俳句結社「鷹」入会。平成5年、鷹エッセイ賞。平成7年、鷹新人賞。同年、鷹同人。平成19年、鷹俳句賞。平成26年、鷹月光集同人。現代俳句評論賞受賞。著書句集「蜂の巣マシンガン」(平成23年9月、ふらんす堂)。句集「ふるさとのはつこひ」(平成27年4月、ふらんす堂)

青山茂根(あおやま・もね)
広告関係の集まりである「宗形句会」から俳句にはまる。「銀化」「豈」所属。俳号のようだが、前の戸籍名。安伸さんには遠く及ばないが、文楽・歌舞伎好き。薙刀を始めるかどうか迷い中。

今泉礼奈(いまいずみ・れな)
平成6年生まれ。「東大学生俳句会」幹事。第6回石田波郷新人賞奨励賞。現在、お茶の水女子大学3年。

佐藤りえ(さとう・りえ)
1973年生まれ。「恒信風」同人を開店休業中。


黒岩 徳将(くろいわ・とくまさ)
1990年神戸市生まれ。第10回俳句甲子園出場。俳句集団「いつき組」所属。2011年、若手中心の句会「関西俳句会ふらここ」創立、2014年卒業。第5回第6回石田波郷新人賞奨励賞。


仮屋賢一(かりや・けんいち)
1992年生まれ、京都大学工学部。関西俳句会「ふらここ」代表。作曲も嗜む。


北川美美(きたがわ・びび)
1963年生まれ。「面」「豈」所属。某バンドのファンサイトにてbibiを名乗る。その後、北海道で駅名「美々」を発見。初句会にて山本紫黄より表記「美美」がいいと言われ、以降、美美を俳号とする。アイヌ語では美は川の意味があり、インドでは、「bibi」はお姉さん・おばさんの愛誦らしい。当ブログ「俳句新空間」運営。


●依光陽子(よりみつ・ようこ)
1964年生まれ。「クンツァイト」「ku+」「屋根」所属。1998年角川俳句賞受賞。共著『俳コレ』『現代俳句最前線』等。


大塚凱(おおつか・がい)
平成7年、千葉県生まれ。現在は都内在住。俳句同人誌「群青」副編集長。第3回石田波郷新人賞準賞。さぼてんの咲かない部屋で一人暮らしをしている大学生。


●宮﨑莉々香(みやざき・りりか)
1996年高知県生まれ。「円錐」「群青」「蝶」同人。



●柳本々々(やぎもと・もともと)

1982年生まれ。東京都在住。おかじょうき・旬・触光・かばん所属。ブログ『あとがき全集』『川柳スープレックス』。「あとがきの冒険」『週刊俳句』、「短詩時評」『俳句新空間』を連載中。岩田多佳子『ステンレスの木』・野間幸恵『WATER WAX』・竹井紫乙『白百合亭日常』にあとがき、木本朱夏監修『猫川柳アンソロジー ことばの国の猫たち』にエッセイ、中家菜津子『うずく、まる』に挿絵を寄稿。2015年毎日歌壇賞受賞

●渡邊美保(わたなべ・みほ)

1948年生まれ。2003年「火星」入会(退会)2012年とんぼり句会参加。第29回俳壇賞受賞